私は新人のとき「仕事」だけが、社会と自分を繋げる唯一の命綱だった。
だから、仕事を命を賭してやるべきものだと考えていたし、他の何を犠牲にしても達成するべきものだと思ってきた。
私の狭い世界のなかでの正義
まさに毎日が仕事一辺倒であった。
寝ても覚めても仕事。プライベートはスキルアップのためにある時間でしかなかった。
楽しいことは何もなかった。
夜は酒でラリって現実逃避するだけだった。
そんな毎日を送っていた。決して幸せではなかった。
家庭を大事にしている先輩でSさんというひとがいた。
いつも「17:30が定時だから」と仕事もそこそこに帰っていった。
幸せそうに見えるSさんが憎かった。
同時に、私はSさんを見下していた。
「仕事も満足にできないで、何が家族だ?寝言は寝て言えよ。」
大真面目にそう思っていた。
取るに足らない、尊重する価値もない、「できないやつ」として見下していた。
先輩としての敬意を払わないばかりか、人としての価値も低いのでないがしろにしていいと思っていた。
それは、とんでもない思い違いだった、と今深く反省している。
当時私は終電で帰るか、帰れなければ寝袋で事務所に泊まった。
二日酔いで体調の悪い体を引きずり、執念でPCにかじりついていた。
眠れないことが増え、毎晩寝酒をあおり、ブラックアウトするまで飲んで気絶した。明けがたトイレで起きたときにワサビをチューブごと口にねじ込んで辛さの刺激で目を覚ましたりした。ほぼ狂っていたと思う。
そんな私にとって、定時に帰ることが、逆に狂気の沙汰だった。
私は仕事ができて承認欲求が満たされるから、そういう生活をしていた、というわけではない。むしろ逆だった。
生きていることに対する劣等感に押しつぶされそうだった。
学生から社会人になり、勉強とは違って仕事は自分ではうまくマネジメントできないことに悩んでいた。上司や同僚からはできないことを嗤いながらバカにされ続けた。そんな屈辱の新人時代を過ごしてきて、なかば強迫性障害に近い思考を獲得した。
仕事は完璧にしておかなくてはならないと思い込んでいた。
そうでなければ、コケにされバカにされる。
そうでなければ、必要がないと言われ、居場所がなくなる。
やりたいわけじゃない。やりたいわけがない。仕事なんて本当は大嫌いだ。働かなくてお金が入るなら絶対に働くものか。群れたくもない人間と群れ、言いたくないことを言い。そんな毎日、あんな拷問みたいな毎日を過ごしたいわけがない。
前向きに仕事をしているわけではなかった。否定されジャッジされるからだった。社会的に殺されるのが嫌で、ほんとうに嫌々やっていたのだ。
驚くべきことだが、そのことに当時は全く気づいていなかった。
なぜか?
「私は我慢している」ということも認識できていなかったからだった。
『相手も我慢するべき』という私の正義を押し付けていたことに気づいていなかった。
不公平だと思っていた。
私は死ぬほど嫌なことを「仕事だから」「結果を出さなければならないから」「そういうものだと言われて馬鹿にされるから」我慢してやっているのに、なんでそれに縛られずに大切なものを大切にして生きていける人がいるのか。憎んでいたし、納得できなかった。
自家製の勝手に定めたルール
しかし、それは、本当に我慢しなければならないことだったのだろうか?
仕事だったら、絶対にやらなければならない?
結果を出さないと存在を否定される?
完璧にやらなければ馬鹿にされる?
そうではない、と今では思う。
仕事をどの程度やるかは、雇用契約の条件を満たしている範囲なら、本当は労働者側で選べる。絶対にやらなくてはならないのでは、奴隷と同じだ。体ごと高値で買い取ってもらわなくては割に合わない。
結果を出さないと組織から評価はされないだろう。が、それを理由に、尊厳ある個人として生きていることを否定したり、今までの人生や努力を否定したりするのは、モラハラやパワハラだ。個人の尊厳を踏みにじる個人や組織、つまり相手に問題がある。
結果は努力と正の相関ではない。だから、結果が出ないのは努力不足とイコールとは限らない。様々な不確定要素が混在するこの世界で、たまたまその人のもとに訪れたものに過ぎない。結果だけで人を評価することそのものが、あいまいで人を測る指標とするにはあまりにも心もとない。つまり、そんな心もとない指標で人の価値は判断されない。だから結果が出せなくても生きていることを否定される筋合いはない。
完璧にやらないとバカにされる、という思い込みも、自分がそう思い込んでいるというだけだ。
他の人にはできなくても「私なら完璧にできる」「私ならコントロールできる」と思い込む傲慢で不遜な自分がそう見せている。できない他人をバカにしたり、できていない自分を責める心が生まれるのは、いつも自分の心の底からだ。
だから、たとえば私が誰かに馬鹿にされても、そのバカにしてきた相手が心に問題を抱えているだけ。コントロールを手放せていない人だから、そう見えているという相手の問題。
だから、これもバカにされたって自分が悪いのではなく、他人の見方が歪んでいるということが事実。
ほら、やっぱりそんなことはなかったよね。
つまり、私が信じてきた恐怖や焦りや不安は、全部幻だった。
勝手に私自身が、私自身を縛ってきたルール。自家製の勝手に定めたルール。
それに自分をあてはめ、他人をあてはめていたから苦しかったのだ。
これに気づいて、ホッとすると同時に、私は恥ずかしくて死にそうになっている。
まとめ:自分を許せないから他人を許せない
私は、当時私がとっていた、Sさんに対する態度を謝罪したい。
SさんにはSさんの人生観があり、大切にしたいものの順序があり、それは尊重するべきものだった。私のものさしで価値を図ることなど、傲慢で卑しいことだった。
自分がされて嫌だったことを、Sさんに対してやっていた。私はそんな弱い人間だった。
自分の思い込みで定めたルールで勝手に人を裁き、ジャッジして、Sさんを見くびったことは、Sさんの尊厳を傷つける行動に繋がったし、それは他でもない私自身を大切にしない行動だった、と深く反省している。
Sさんが好きなものや大切にしているものを鼻で笑ってバカにする権利は私にはなかった。
そうした態度を取る私に対して「お前偉そうなんだよ、ナメるのもいい加減にしろよ」と彼が怒ったのは、無理もないことだった。
申し訳なかった。すべては私の未熟さゆえの、世界の見方の歪みがあったと思う。
こうした見方ではなく、お互いに大切なものを尊重できる在り方であったなら、もっと快適で幸せな信頼関係が築けたのに、少なくとも私が手を差し伸べなかったことは間違いない。
同じことを繰り返したくない。
私は、12ステップ・プログラムに継続して取り組み続けることを通じて、自分の思い込みで定めたルールについてこれからも点検し続けていく。
私の報われなかった気持ちも大切にして、ちゃんと感じたいと思う。
自分の本当の気持ちを真っすぐ受け取らなければ、認知の歪みに気づくことは不可能だからだ。その勇気を持ちたいと思う。
向き合う勇気を持てるかどうかについて、私は無力であることを知っている。
これからも無力であることに変わりなく、私はそれをコントロールしようとせず、天にお任せしたい。しかるべき時に訪れるだろう、世界はそういう風にできている。
そのためしかるべき時を迎えるために必要な努力をすべてする、ということについて、私は誠心誠意取り組みたい。
そういう覚悟をもって、日々向き合い続けていきたい。
他人を許せない気持ちを抱えているときは、自分のルールで他人を縛っていないか点検する必要がある。