依存症」カテゴリーアーカイブ

【依存症】水のように生きる、ということ。

こんにちは、ちあき です。

久々更新です。

今日は久しぶりに断酒会にいけました。

そこで感じたことをちょっと書いてみたいと思います。

 

異動になりました

部署が異動になることになりました。

一応希望している領域にいけることになり、いいことなのですが、問題が一つ。

上司がまた変わること。

現在の上司は、依存症には想像力が働かないタイプの人でした。

私がアルコール依存症になったことは「恥ずかしいこと」で「あまり言うべきではないこと」だと、今の上司には映るようで、私が飲み会をすべて断ることもあまりよくは思っていない人でした。

それ自体は仕方がありません。人のとらえ方はそれぞれなので。

でも、アルコール依存症の病態と私の状態を説明して、チームのメンバーにも説明して、

「でも今はもう治ったんでしょ?」とか

「そんなの言い訳で飲めるのに頑張らないだけでしょ」とか

そういう勘違いをいちいち訂正するのは、結構大変でした。

またそうなるの正直面倒だし、嫌だな…と思ったんですよね。

自分の酒害を話したとき、眼の奥に揺らぐ侮蔑・嘲笑・憐憫。

それらをまた一から目の当たりにしつつ、『できないこと』を話して助けを求めるのは、やはりそれなりに勇気と覚悟がいるものなのです。

 

 

それでも、私は、そうでしかない。

しかし、それで怖がって隠していても、しかたがありません。

だって、飲めないんだから。

だって、飲んで失敗してきたんだから。

だって、できないものはできないんだから。

そこから逃げて目を背けてきたから、私は私を見失ったのだから。

今度は逃げないで向き合うと決めた。それが私の断酒なのだから。

 

今回、初回の面談で、新しい上司に素直に『できないこと』を伝えられたのは、私にとって大きな進歩でした。

 

私は今まで、人に、現実の自分よりもよく思われようとしてきたのではないかしら。

なぜ? 現実の自分には自信がないから。

アルコール依存症をバカにされる。

自分がやってきた過ちで人から見くびられ、軽んじられ、陰口をたたかれる。

「許せない、見返してやる」「俺の頑張りをどうして認めてくれないんだ」と、

私は他人に対して、認識を変えさせよう、そのためによく見せよう、と『背伸び』していました。

 

しかし、どう受け取るか、どう考えるかは、相手の問題です。

相手の器の成熟度にも左右されるし、何よりそれは「私にはどうすることもできないこと」というタッチできないカテゴリの事柄だということです。

だから、アルコール依存症のことをどれだけわかりやすく丁寧に話したとしても、理解してくれるかどうかは相手次第。

コントロールすることができないこと。

それと同じように、相手がいくら

「そんなんじゃだめだ」

「お前は頑張っていない」

「そんなことで恥ずかしくないのか」

と感じ、私に言葉を投げかけたとしても、私は、ただ、私としてしか生きられない。

言われたことが腑に落ちれば、行動を変容させるかもしれないけれど、それはどこまでも

「私がそうしたいと思った」からするわけで、誰かに言われたからするわけじゃない。

誰かに言われたから変える、というのは、今までやってきた『背伸び』と同じだから。

私は私として生き、私として死ぬ。

それ以外の道はありません。

それを「許すことができるようになった」のではないかしら…と思うのです。

 

自分も自分以外も許せない生き方は、自分も他人もしんどい

私は、許せませんでした。

自分をバカにする他人も、馬鹿にされるようなアウトカムしか出していない自分自身も。

飲めないから機会を失う、同僚の飲み会の中で交わされる会話についていけない、そんな惨めに見えた自分自身。

どれだけ言葉を尽くしても分かってくれない、分かろうともしない、思い通りにならない他人。

ああ、そんな風にすべてに憤り、青筋を立てて顔を真っ赤にして、私はどうしたかったのでしょうか?

 

そもそも、思い通りになることなど、そんなに世の中にはないのですから。

 

ブルースリーは、「友よ、水のようになるのだ」という言葉を残しています。

 

水は、たとえば川を流れるとき、川の在り方に沿ってしか、流れていけません。

傾斜・角度・川幅・方向…すべてが外の力で完璧に決められていて、それを水自身はどうすることもできません。

しかし、水自体はどんな形にもなれる。

速く流れることも、激しく打つことも、穏やかに揺蕩うことも。

そして、水は、水以外の何物でもなく、唯々、水であり続けます。

こっちの水とあっちの水のどちらが優れているとか劣っているとか、水自身は何も比べません。

比べる気持ちがある人(第三者)が、その気持ちを込めた目で視て、優劣を勝手に決めつけているだけ。

その勝手な優劣は、人の目の数だけ存在することになります。これが他人の評価、というもの。

 

つまり、そんなものを気にしていたら、そのニーズのすべてを満たすために、水は水で在ってはいけなく、他のどんな物質にもそれを成し遂げることなどできません。

「出会うすべての他人の意に沿おうとする」というのは、すなわち、水を水でなくす=「正体をなくす」ということです。

私たちは、正体をなくしてしまった。アルコールという薬物で、土台無理なことをしようとする自分自身を、隠しだまし裏切り続けてきたのではなかったか。

そう思うのです。

そりゃ、苦しいですよね。だって、「自分が自分で在ってはならない」って24時間365日思い続けているんだから。

そんな自分を許してくれない他人にも、常に苛立ち恨みを抱えているのだから。

そんなあなたを見た他人も、ずっと刀の切っ先を向けられているような、責められているような気持になっていたでしょう。

お互いに苦しいだけですよね。

 

水と水を較べない。水が水である事を、もうそろそろ許そう。

水=自分・他人と置き換えてみると、どうでしょう。

自分と他人を較べない。

自分が自分であることを許そう。

自己啓発セミナーみたいな怪しげなところでも言っていそうなセリフでしょう?笑

 

でも、そうなんですよ。

私は、私でしかないんだから。他の誰にも成れないんだから。

『背伸び』しなくてもいいし、『できないこと』を隠さなくてもいい。

 

だって、水は水でしかないのと同じなんだから。

 

水はどんなに背伸びしても他の液体にはなれない。

水銀にもガソリンにもなれない。

 

「なんで水銀じゃないんだ?水銀になれないお前(水)は頑張ってない!!」

「ガソリンになれないなんていうのは、気持ちが弱いからだ。恥ずかしくないのか?!」

って言われても

「ごめんなさいね。でも、私は水なので、水でしかないんですよ」

と言って、ただそう在ることしかできないことを恥じる必要はないし、できないことは、できないと言ってもいい。いや、むしろできないと言わないと相手が見誤ってしまいます。

 

私はアルコール依存症であり、そういう「私」でしかない。

その事実を恥じて隠してしまったら、他人は私に「できないこと」を求めてしまうし、できると勘違いしてしまいます。

だから、私はこれからも、「アルコール依存症のちあきさん」として生きます。

そうでしかないのだから。

 

早朝に増水した川を愛犬と眺めていて、そんなことを考えていた、という話をした久々の断酒例会でございました。

 

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【依存症】「人は生きているだけで価値がある」のは、なぜか?

こんにちは、ちあき です。

今日は久々に断酒会でした。浄化されました。やはり自助グループは良い…。マンダム。

最近、「自助グループと他の人間関係はなぜこうも違うんだろう?」と不思議に思っていました。受け容れられる話とそうでない話ってなんなんだろ?と思いながら断酒会で話を聞いていると「自己開示」がキーワードだと気づいたので、少しまとめてみました。

 

自己肯定感の低い私たち

私たち依存症者は、なかなか他人を信じられません。

 

今までありのままを受け容れてもらえなかった恨みの歴史から自己肯定感が低いのか、自分の決定や思考に自信がないから理論に頼る傾向にあります。

というか、私がそんな感じです。

他のみんなも割と著書や著名な精神科医の講演内容などを引用して、やたらと他人の話が本当に自分が納得できるものなのかどうか、を石橋を叩いて渡るように慎重に吟味します。

 

AC(アダルトチルドレン)などは結果を出さなくては愛されないという不安感から、親や依存関係にある他人の指示や願いに従って生きてきた人もいます。

結果、心の満たされなさを抱え、ある種の憎しみを抱え続けています。

他人の反応が気になるくせに、他人を信用できないので素直に言葉通り受け取ることに抵抗感があります。

 

今日も私が「このシーズンにスリップして妻に嘘を吐いたことを思い出す。今、働きながら専門学校に行っていて、知らないことを知るのはとても勉強になる」という話をしましたが、メンバーの反応は様々でした。

 

ある人は「私はそんなに日は経っていないが飲酒欲求もなくちゃんと働いている」と私を見ながら肩をいからせ鼻の穴を拡げて言っていました。おそらく「スリップした」という部分でマウントをとり、断酒期間の短さに対する自信の無さを隠したい心がうかがえました。

 

ある人は「私はスリップもせず、ほぼ毎回参加して5年間止められている」と私をチラチラ見ながら言っていました。「年数は長くスリップはしていない」という点でマウントをとりつつ、仕事をしていないという自身の焦りや不安を見て見ぬ振りしたいという心が見え隠れしていました。

 

事実は事実。

事実に意味を与えるのは、やはり自分自身であって、他人を信じたくても信じられないときは、私自身の心に恐れや不安があることから目を背けたいときなのだと思います。

 

 

「北風と太陽」の太陽で在るための条件

安心して接することができるひとは「自分の弱さや失敗を公表している人」だよね、という話を、今日一緒に返った断酒会の先輩と話していました。

同じように苦しんでいる「当事者」ということが分かれば、固く閉ざしていた心が開かれるのだと。

その大先輩は、ご経験をブログに書いてよいか?と打診したら、快く了承してくれたので、少し踏み込んで書いてみたいと思います。

(Kさんありがとうございます。)

 

 

Kさんはいつもご夫婦で断酒会に参加しています。

 

私はKさんご夫妻で断酒して20年以上(!)になるお二人に、絶望的な気持ちで参加した初の断酒会で見かけて、一筋の光明をみました。

 

なぜなら、Kさんは仕事ではトラブルを起こしまくり、奥さんに暴力を振るっていた、「ゴミくずのような人間」と本人をして言わしめる真っ暗闇の過去があったからです。

 

仕事で頭にきた棟梁を殴り倒して現場を1日で辞めたこと、

仕事先で殴り合いになって刑務所に入ったこと、

お互いに憎みあう間柄の宿敵と刃物で刺しあい、殺し殺される寸前までいったこと、

言い争いになり包丁で奥さんを刺したことがあること、

ろっ骨が折れるほど殴ったこと、

髪の毛をもって引き摺り頭皮が剥がれて血が天井まで吹いたこと、

それらのDVの酷さを見かねた近所の若い男衆に5~6人で寄ってたかってボコボコにされ死にそうになったこと。

 

奥さんは、

腰紐で何度も寝ているKさんを殺して自分も死のうと思ったけど手が震えてできなかったこと、

「おかえり」といっただけで殴られて顔が腫れあがり泣きながらパジャマと裸足で数キロ先の実家に逃げたこと、

知り合いの家の奥さんがアルコール依存症の旦那さんと離婚したらその数日後に自殺しているのが発見されたこと、それを聞いて離婚だけはできないと思いとどまったこと。

 

これらヘビーな話を爽やかに話すKさん夫婦の酒害体験を聞いて、当時離婚もあるかもしれないと思っていた妻と、何をしても酒を断てず自分の力ではどうにもならなかったことを認めざるをえない絶望感に打ちひしがれていた私は、それぞれに「もう一度がんばってみよう」と心の中で思ったのでした。

そのおかげで今があります。

 

「当事者」が、耳の痛い正論にたどり着くまでに、いかに苦しみ試行錯誤して、その正論にたどりついたのか、「失敗の歴史」を知ると、自分は他人から責められているのではないから、安心して聞いていいんだ、この人の話を素直に受け容れていいんだ、と自分に許可が出せる気がします。

 

Kさんが毎朝毎晩仕事をしながら寺に通い何年も座禅を組み続けたことや、今ご高齢になり床に臥せている奥さんが「もっとあんたが早いときに酒をやめてくれれば…」と声を押し殺して泣いている夜に、仏間でひとり悔しくて悔しくて噛んだ唇が切れて血が滲んだことを知っているから、私はKさんがどんなに厳しいことを感じて辛い事実を話されたとしても、受け容れられるかもしれない、と思います。

 

私は、Kさんの過去の過ちと弱さを、それを話せることを、尊敬しているから。

 

正論の先にすがる未来がなくては、自己肯定感が低い人は正論そのものには反発すると思います。

自己肯定感が低いまま、正論にそぐわない自分を何のよすがもなく認めるということは、今までの在り方や存在自体が否定され責められているような感覚になるので、受け容れる事は自身の死を意味するからです。だから、恐ろしくてたまらないので、なかなかできない。それは自然なことです。悪いことではない。

 

要するに「北風を浴びせるだけ」では、結局心が開かれず、当事者は救われないということなんだと思います。

 

過去の過ちや弱さを吐露する後姿は、尊敬の念で輝いて見えます。太陽の温かさに似ています。

正論だけをただ暴力的なまでにぶつける姿は暗く重く、北風を吹きつける暗雲に似ています。

 

太陽であることで、聞く人の心が開かれ、メッセージが伝わり、当事者に救われてほしいという祈りを実現し、生きる目的を達成することできるのではないでしょうか。

 

目的を見失い、手段に依存してはいけません。

 

人類が歴史から学び科学技術によりエビデンスを積み上げてきた論理的に正しい「正論」は、重要ではありますが、手段でしかありません。

 

せっかく酒を抜いたのに、今度は「強い言葉を使う」という行為に酔って依存しているのです。

 

他ならぬ自分と大切な人を救うための、正論であり太陽であることを忘れてはいけません。

 

 

 

私は正しさにこだわる北風だ、という反省

私はどうだったか?といえば、最近は北風ばかり吹かせていたのではないか、と反省しきりです。

 

正しいことは優しいこととイコールではない。

 

ここは私がもっとも反省すべきところです。

 

Kさんは「これは正しくないかもしれない」と苦悩しながら、定期的に手紙をくれました。

これが参考になったと断酒にまつわる新聞記事の切り抜きをくれました。

 

それは、自らの家庭内暴力のせいでもう子供も望めず、親兄弟もすでに死んでしまい、何も残せないと語るKさんにとって慰めのひとつだったし、過去の自分たちを見ているようで居た堪れないからついやってしまった「余計なお世話」かもしれない、とKさん自身は言います。

 

しかし、それがどれほど優しく勇気のある行いだったか、酒を断っている今になってようやくわかります。

もらい始めた当時は、「なんでこんなの送ってくるんだろう、飲んでいると疑っているのかな?」とか「自分が止められているからって偉そうに…」って思ってました。

 

私は自信がなかった。自信がないから、正しいことにこだわってきたのだと気づきました。

 

そして今も、正しいことを伝えるだけで、他人にいい影響があるだろう、と思っていました。

 

それは、少し違うかもしれません。

弱さや失敗を露呈した人に、ただ「こうすればよい」と正論をぶつけるのは攻撃であって、救う(間違いに気づいてもらう)ためという大義名分を振りかざして、最も主眼に置いていたのは、自分を守ることしか考えていなかったのだと思います。

それは正論に隠れて己の承認欲求を満たそうとするオナニーであり、自分のトラウマの解消のために他人を使っているということです。私の行いは、エゴでしかなかった。

 

正論にこだわる自分の性質が「自分に自信がもてないという不安感」が原因の一つで、その喪失感がモチベーションになっていると自覚しなくては、他人にマウントして犠牲にしていきているという意味では、そんな人間が関わらないほうが回復できるのでは、とすら思います。

過去の自分と同じように苦しんでいる人を食い物にするような人間には、最終的に社会も他人も自分自身も救えない。そう反省しています。

 

 

 

 

正しさは、愛とセット処方されて初めて効果が期待できる

率直に語っても、相手に攻撃ととられることもあります。今回の私の話のように。

 

他人は他人、自分は自分。

どう話を解釈するか、どう反応するか。他人の行動と思考は、最終的には実は完璧に何もコントロールできませんよね。

どんなに手を尽くしても、どんなに心を砕いても、ご家族がいくら手を尽くしても酒をやめなかったアルコール依存症患者のように、本人にしか、本人の人生はコントロールできません。

 

つまり、正しいことを言うだけで自己開示をしないということは「まだコントロールしようとしている」と言えます。

 

私自身がいま正しいと考えていることも「現時点で正しいと考えられる」だけで、不変の真理というわけではないし、絶対の正解などありえないのですから、精一杯言えるのは、『私はこうだと思うよ』ということだけです。

 

だからこそ、正しさは対象に対する愛を持って発せられて初めて、優しさに昇華する。

愛とはつまるところ、「『独りではない』と感じ孤独感を忘れられる行い」だと思います。

 

我々はお互いに完全にアンコントローラブルであり、だからこそ尊重できる関係だということです。すなわち、そうした「独立した権利ある存在」という立場で、私たちはみな『独りではない』と言える、という、『独りだけど、独りじゃない』我々の在り方を愛する、ということ。

 

安心できる過去の過ちと弱さの実体験を話すこと。

自己開示を否定されない経験。

ただ黙って自分の話に耳を傾けてくれる居場所。

 

それらは、言葉で「あなたはありのままでいいんだよ」と言うよりも、雄弁にその愛を語ります。言葉を信じないひとに最も伝わる愛は、「何も言わず耳を傾ける=失敗や反省を共有する自己開示を受け容れる姿勢」であると言えます。

参加する誰もが「私も当事者である」という立場が明らかになって「私はあなたを尊重している」というメッセージ性をもって、体験談は当事者それぞれの歴史・苦悩に語りかけます。

同じ立ち位置の人だと認識するからこそ心が開かれます。

 

「私は」という「Iメッセージ」で伝える大切さがここにあります。

Iメッセージには、私の心を尊重するのと同じようにあなたの心を尊重しているという裏のメッセージがこもっているから、頑なで偏屈な心理状態に陥っている私みたいな人も、素直に傾聴できるのだと思います。

 

だから、自助グループには、愛を感じられるのだと思います。当事者としての自身の苦しみや弱さを予め語ってくれた人の言葉には、愛を感じるのだと思います。

自助グループは「自己開示」を通じた相互の尊敬する心により人々を繋げ、「独りだけど、独りじゃない」を再現してくれます。

 

 

だから、私たちは「生きているだけで価値がある」

私は、これからも勇気をもって「自分の弱さや失敗」を公表し続けていきたい。

私は、「自己開示」と必ずセットにして、科学的根拠に基づいた「正しい情報=正論」を発信し続けていきたい。

それが、私がずっと探してきた愛がある優しい行動だと思うからです。

 

それが、私自身が最も愛を感じる人に共通することだと思っています。

「太陽」のように映る尊敬すべき仲間に共通するスタイルだと思います。

 

Kさんは私にとって太陽なのですが、そんなKさんから今日帰り道にこんなことを言われました。

 

K「ちあきさん。私は、あなたの顔が見たくてきたんです。そのやわらかい笑顔で率直に自分のことを内省し振り返り、隠さずに話す姿に、私たちふたりはいつも勇気をもらっているんです。」

 

私は恐縮して「そんなまた嘘でしょう、そんなに立派なもんじゃないですよ私は」と言いました。にわかには信じられない内容でした。

 

ち「私のほうこそお二人が初日にいてくれたから、今も断酒が続いているんですよ。私たちのほうこそ、Kさんご夫妻に生かされているようなものです。」

 

K「そんなまた嘘でしょう、そんなに立派なもんじゃないですよ私は」

 

K・ち「え?」

 

みたいな会話があって、Kさんも私も顔を見合わせて笑ってしまいました。

自分のことですら、他人の視点とは、こんなにも違う見え方をしているものなのでしょうか。

 

私はそんな風に尊敬する人に思われているとは、露ほども想像できませんでしたし、

なんと驚くべきことにKさんも私がKさんを尊敬しているとは思ってすらいなかったのです!

 

私たちはただ、自分の公開や自分なりに考えてきた内省の結果を、お互い自分の言葉で懺悔してきただけだったのに。

ただそれだけのことが、正しさに関係なく、こんなにも他人を救っているのか。

そして、私たちはお互いにそんなにも自分や自分の行いを低く見積もっていたのか。

とても驚きました。

だって私は、もしKさん夫妻が亡くなってしまっても、死ぬまで忘れないでしょう。

苦しかった時期に手紙を受け取ったことを。

ただ弱さを吐露する私の姿に「勇気をもらっている」という素敵な笑顔を。

だから、「自分なんて大したことない」「何のとりえもない」と嘆いていても、真摯に自分を見つめて生きている姿は、見る人が見れば、結構マシな人間どころか尊敬できる人間にすら見えている可能性があります。

 

三森みさ先生の「だらしない夫じゃなくて依存症でした」の最終話の武田先輩(こんなに立派な人の足元にも及びませんが)に近いものがあると、ネットでこのブログに対して反響がありました。


私たちは失敗や過去の過ちを受け止め、弱さから目を逸らさないで素直に生きているだけで、人々にいい影響を与えているのです。無自覚に、無意識に。

だから、真剣に生きていさえすれば、人は「生きているだけで価値がある」のです。

 

私たちは自分が思っているより、生きているだけで他人に貢献していると知り、自己肯定感の低さを認識する出来事だなぁと思いました。


アルコール依存症ランキング

【発達障害】依存症になる才能を開花させないために

こんにちは、ちあき です。

今日は発達障害の傾向から私が陥った依存症発症の背景を振り返ってみます。

 

ASD+ADHDタイプは依存症の才能があるかもしれないという説

私はASD+ADHDタイプの発達障害です。

ASD は、自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群・広汎性発達障害。

ADHDは、注意欠如多動性障害。

この二つはDSM5(※ DSM-5 = 「精神疾患の診断・統計マニュアル 第5版」アメリカ精神医学会作成)という基準から診断すれば全く別物に見えますが、実臨床では見分けがつきにくい障害です。

 

 

引用:https://www.kaien-lab.com/faq/1-faq-developmental-disorders/adhdasd/

 

どうしてここまで判断が難しいのか?それは難しい話を少しだけすると、ASD であれ ADHD であれ、前頭前野という脳の部分に関わっている、つまり実行機能という判断や行動をつかさどるところが他の人と違うから、ということになるでしょう。

(中略)

こだわりの強さは ASD 的(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群・広汎性発達障害)、一方で切り替えの難しさは ADHD 的(注意欠如多動性障害)です。しかし、これらは混同されることが多いのが実際です。

引用:https://www.kaien-lab.com/faq/1-faq-developmental-disorders/adhdasd/

 

ADHDの傾向を分けるとわかりやすいと言われていますが、2つのうちのひとつとして、不注意優勢型 というタイプがあります。

物をなくしやすい、ミスが多い、気が散りやすい、過集中で切り替えが難しい、段取り良くできない等 がこのタイプです。

また、ASDの特徴の一つにこだわりの強さ があります。好き嫌いが極端、自分のルールを曲げられない、ルーティン通りにしないと不安等 が具体例です。

 

この二つが組み合わさるとどうなるか?

 

以下のような特性で「依存先が偏る」ということが起こりやすくなります。

 

○好き嫌いが極端で0か100かの思考なので、一つの拠り所に過集中する。一度集中のスイッチが入ると時間の経過を忘れ、気づくと今度はスイッチが切れたように疲れ切る。

○ASD的な常に全力投球の完璧主義思考で、手の抜き方がわからずに疲れすぎてしまう。少しのミスが許せず自分を責める、あるいはミスをした他者を責めてしまう。

○しかも自分のルールを曲げられないので他人からのアドバイスは耳に入りにくく、自分が納得しなくてはルールを変えられない。

○社会での情緒的な相互交流の障害があり、興味や感情、愛情など相手と共有できる割合が少ないために人間関係を築くことが苦手。一般的でない人へのかかわり方をしたり言葉のキャッチボールに失敗してしまったりしてコミュニティから孤立しストレスを抱えやすい。

 

つまり、ビジネスに例えるなら一社だけと濃い取引依存関係を続けるような、限られた取引先との一極集中型の依存関係になりやすいと言えます。

人間とはうまくいかないので、ASD ADHD が社会生活を送ることでストレスを抱えやすい脳の前頭前野を鎮静させてくれるアルコールや睡眠薬や薬物などの依存性物質に頼ったり、苦痛を紛らわすために快感ホルモンを分泌させてくれるギャンブルに傾注したり、他人に受け入れてもらいやすく他人と肌の触れ合いができオキシトシンを分泌できるセックスを繰り返したりしてしまうのでは、と考えています。

だから最終的に、アルコールやセックスやギャンブルや薬物など、自分が納得してのめり込める依存先のみに頼ったツケがまわり、キャパを超えて依存症になる、というわけです。

 

依存先を増やす、という解決策

たくさんのクライアントと少額で取引していれば、取引額が同じくらいだとしても、一斉に取引停止になることはないのでリスクは分散され、安定した経営や投資が可能になりますよね。

それと同じように、アルコールだけ、薬物だけ、ではなく、前頭前野を解放するような複数のストレス発散手段があれば「これがダメならあれでいこう」みたいなことができて依存し過ぎずにすみます。

 

 

 

アルコール依存症はうつを併発しやすいということがデータがあります。

うつ病とアルコール依存症の時間的な関係から、うつ病が先行してアルコール依存症が合併する場合は一次性うつ病、アルコール依存症が先行してうつ病を合併する場合は二次性うつ病と呼びますが、うつ病とアルコール依存症の合併には4つのパターンが考えられます。

  • a. 単なる合併または共通の原因(ストレス・性格・遺伝因子など)による場合。
  • b. 長期の大量飲酒がうつ病を引き起こした場合。
  • c. うつ病の症状である憂うつ気分や不眠を緩和しようとして飲酒した結果、依存症になった場合。
  • b. アルコール依存症の人が飲酒をやめることによって生じる離脱症状のひとつとしてうつ状態がみられる場合。

引用:https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/alcohol/a-01-006.html

 

上記のようにアルコール依存症を持っている人がうつ病を発症する確率は19〜21%です。

米国における一般住民を対象とした大規模調査で現在または過去にアルコール依存症と診断された人の調査によると、依存症の人には調査前1年間に限ってもうつ病が27.9%にみられて依存症ではない人と比べてうつ病になる危険性(オッズ比)は3.9倍、躁うつ病は1.9%にみられてオッズ比は6.3倍といずれも高い頻度で合併することが示されました[4]

参考文献:

1.Sherbourne, CD, Hays, RD, Wells, KB et al.
Prevalence of comorbid alcohol disorder and consumption in medically ill and depressed patients.
Arch Fam Med 2: 1142-1150, 1993.

2.Grant BF, Harford TC.
Comorbidity between DSM-IV alcohol use disorders and major depression: results of a national survey.
Drug Alcohol Depend 39: 197-206, 1995.

3.Regier DA, Farmer ME, Rae DS et al.
Comorbidity of mental disorders with alcohol and other drug abuse. Results from the Epidemiologic Catchment Area (ECA) Study.
JAMA 264: 2511-2518, 1990

4.松下幸生, 樋口 進.
飲酒とうつ状態の早期発見.
こころの科学 125: 43-48, 2006.

 

私は二次性うつ病と診断され治療をしておりました。

おもしろい!と思う脳の働きそのものが弱っていると、他の依存先を探すのに苦労する感覚があります。しかし、立ち直るためには、なんとかして多数の楽しみに繋がる努力を継続してみるしかありません。

だから、予防的に、依存しないのではなく、逆に依存先をあえてたくさん抱える、というアプローチが、逆に依存症発症を予防するんじゃないか、というのが今日伝えたい独り言です。

すでに発症してしまってからは、本当にしんどいです。

やる気が起こらないし、毎日何も楽しくないし、砂を噛むような日々。

なのに「飲まないことを共に称え、お互いに今と家族に感謝しなくてはならない」と言われて責められている気がして辛いです。

依存性の高い物質や行為を避け、限られたエネルギーを有効に活用するために、支えが多数できるまでは、不快に感じることはなるべく切り離すことが大切ですね。

やる気を怒りや悲しみに根こそぎ奪われては、他の杖を探すことができませんからね。

ぼちぼち、頑張りましょうね。

【依存症】回復のそれぞれのタイミング=「啐啄同時」

こんにちは、ちあき です。

アルコール依存症の回復は三歩進んで二歩下がるような、一進一退の経過を辿ります。

それは本人にとってもご家族にとっても苦しい道のりです。

「なぜわかってくれないのか?」「なぜうまくいかないのか?」

歯がゆい日々に嘆く夜もあったのではないでしょうか?

今日は禅語で依存症からの回復について考えてみました。

 

「啐啄同時」って何?

「啐啄同時(そったくどうじ)」 という言葉がありますが、みなさんご存知でしょうか。

「碧巌録(へきがんろく)」の第十六則に

「およそ行脚の人は須らく啐啄同時の眼を具し、啐啄同時の用あって、まさに衲僧と称すべし」 という一節があります。

「用」=働き、「衲僧(のうそう)」=真の禅僧 の意味になります。

 

啐啄同時とは?

「啐」とは、今まさに生まれ出ようと雛が卵の中から殻を破ろうとすることです。

「啄」は、親鳥が外からくちばしで卵の殻をつつくこと。

それが同時というのは、生まれ出ようとするものと、それを手助けしようとするもののタイミングがピッタリ合うことを示しています。

出典:https://eyespi.jp/l00428/

 

禅語のなかでは指導者のための言葉として捉えられており、弟子が悟りに近づいたベストなタイミングを逃さずに指導するべきだ、というニュアンスでとられることが多い言葉です。

いずれにしても、『両方のタイミングが合ってはじめて、殻が破れる(変化や成長が訪れる)』というところが、この言葉のポイントだと考えます。

 

どんな良いアドバイスも受け取り手の準備が無ければ伝わらない

イネイブリングについて、三森みさ先生作・画、厚生労働省 依存症対策推進室監修の「だらしない夫じゃなくて依存症でした(三森みさ先生HPリンク)」第6話(厚生労働省漫画ページリンク)に詳しい解説が漫画でまとめられています。

そこから少し抜粋します。

イネイブリング とは?

依存症者の問題を助長させてしまう行為のこと。よく言われる対処法は2つ。

①お世話や尻ぬぐいはしない

たとえば、家族が、代わりに後始末をしたり、当事者の欠勤の言い訳を代わりに電話したり、代わりに謝罪したり、借金を肩代わりしたり、世話や尻ぬぐいをしてしまうと、本人がお酒を飲む問題に気づけません。本人の問題は本人に気づかせてやめるメリットに気づかせることが大切です。

②説教したり小言は言わない

正論を言ったり指導したりすること。心配して一生懸命言ったことが、当事者には家族に責められているように感じてしまい、現実逃避するため余計に依存するためです。

他にも漫画のなかには、ご家族が気をつけるとよい点がわかりやすくちりばめられています。

 

②「説教したり小言を言わない」は、依存症者同士でも当てはまる

同じ境遇の依存症者同士であっても、これは当てはまるのではないかと思います。

なぜなら、回復の過程において、受け取り方は異なることがあるからです。

断酒し始めて数ヶ月の段階では、多くの人が「これだけやめられたんだから節酒できるんじゃないか?」「うまく適量飲酒で付き合っていけたらいいのに」と淡い希望を抱くタイミングがあります。

そんなとき「いや!私たちはもう脳がイカレているんだから、断酒しかありえない!」と正論を言ったり説教をしたりしてスリップを回避させようとしてしまうことがあります。

断酒会で直接体験談を話す場でもそういう傾向がありますし、SNSでも「私は節酒で行けるんじゃないかと思う」というツイートに過剰に反応してしまう光景はよく見られます。

正直、その気持ちはよくわかります。

スリップした後に迎えた朝、もう自分が嫌いで嫌いでしかたなくなるあの絶望感と嫌悪感はそうそう忘れられるものではありません。

同じ思いをしてほしくない、と考えるのは、本当にその人を思ってのことでしょう。

しかし、それが逆効果になってしまうとしたら、願いと違う結果を招く行動は慎んだほうが、自分の為でもありますから、ここはぐっと堪えるべきなのかもしれません。

この場合の「受け取り手の準備ができている状態」というのは、スリップを経験しているか、その怖さを経験せずとも依存症の仲間の話から理解していて「スリップしたくないけど飲んでしまいそうだ」と仲間に弱音をさらけ出せるタイミングだと考えられます。

つまり、相手に準備ができていなくても、後々「ああそういうことか」と受け取ってもらえる私たちがかけられる言葉として『私の場合は○○だったから、私はもうコリゴリだ』というあくまで私のケースとして語ることが、最もお互いにとって優良なのではないかと考えました。

 


正直、これが正解かどうかもわからないけど、私はこうして発信しているSNSのアルコール依存症の方々が回復することを信じているし、私とは違う回復の仕方もあるかもしれない、とも考えているので、私が言える範囲のこととしては、これでよかったのかな、と思っています。

 

だからこそ知識と経験と心境は、ブログに書き留めておきたい

ここに、私が断酒ブログをはじめた理由があるとも言えます。

私は正直気難しくて他人のことをあまり信じません。

善意でかけてくれている言葉もどこか空虚に聞こえることがほとんどです。

「どこかに裏があって騙そうとしているんじゃないか」

「掛け値なしに優しくするなんてありえない」

「今まで学び経験してきた事実と異なりエビデンスが見当たらないので信ずるに値しない」

などと、素直に聞かずに突っぱねてしまう傾向にあります。

 

事実と統計学的優位差のあるビッグデータと敵意と悪意しか信じない

いや、信じたくてもあまり信じられないというべきでしょうか。

断酒会で先輩方が話す話ですら「そうじゃないな。長く辞めているくせに思慮が浅いな」などと不敬なことを思っていた時期もあるし。(こんな曲がった性格だから部活でもなんでも孤立してました。笑)

 

啐啄同時を願って、細々と書き続ける意義

だけど、後から「ああ、こういう意味だったのかも」と腑に落ちる感覚を味わった経験があります。

それは、私が受け取る準備ができていなかったときに受け取り、記憶の片隅に留まり、受け取れる準備ができた私の脳内に煙が立ち上るかの如く顕れて色を成す、そんな感覚でした。

 

もしかすると、依存症に陥る人やASDで生きづらさから依存症になった人は、同じような傾向をもっているかもしれない。

そんな人なら、自分でネットから情報を探すだろうし、そういうタイミングでなくては他人の経験や言葉をやすやすとは信じないだろう。

ならば、ほぼ永久保存版でWEB上に残るブログの形ならば、様々な人がその人のタイミングで検索して「ドライドランク」や「イネイブリング」などの単語からこのブログに繋がり、回復の糸口をつかんで帰ってくれるのではないか。

事実、私はそのような同じ境遇の人のブログを貪るように読んでいた時期がありましたし、それがきっかけで専門書や論文を読むようになり、知識を形成していったように思います。

だから、このブログがきっかけで少しでも悩める人が気づきを得られるようなことがあれば、これも立派なソーシャルワークだと思っています。

だから、ソーシャルワークはじめました、をブログ名にしている、というわけです。

そんなところで、今回は以上です。

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【依存症】ある日ふと浮かぶ「希死念慮」

こんにちは、 ちあき です。

毎朝の日課で抗酒剤を飲もうとして注ぐとき、以前は数日に一回のペースで、同じことを考えていました。

その考えること、というのは、「これ1瓶飲んで、アルコールをガボガボ胃か腸に入れれば、苦しみまくるけど死ねるなぁ」ということでした。

今日は、アルコール依存症の患者にとって身近な希死念慮についてどう考え、どう受け容れるか、について書いてみたいと思います。

 

たいがい生きているのは苦痛をともなうもの

生きていると、怒りや恨みや人間の汚いイヤーな面を見せ付けられる時間が、だいたい80%を占めています。感動や安らぎや喜びに触れられる残りの20%があるから、今日も生きてみようかな、と思えるものです。

定期的に、あぁ!もうなにもかも糞食らえじゃないか!もう全部さっさと終わりにしたい!と思う事があります。

でも、20%の楽しさと愛する人の存在があるから、アルコールと抗酒剤のブレンド一気飲み、みたいな暴挙には出ないで「いってきます」と妻に言ってでかけます。

そんな毎日を1日1日積み重ねていくのが、「一日断酒」なのかなぁと思います。

妻がいるから、まだ希望を持っていられます。妻みたいに、人をフラットにみられる人が、まだまだ世界中には沢山いるはず、と信じられるうちは、大概が苦痛でも、まだ人生やってみる価値があるんじゃないか、と感じるのです。

 

実は何もない

それらの今の希望の前提条件が無くなったら、もう本当に何も無いと正直思います。

やりたいこと、したいこと、ほしいもの、なりないもの。

そんなもんは全部タマネギのように一枚一枚剥いていけば、中心には実は何ひとつ無いです。

仕事で世の中の役に立つ以外、今の所、何もないが、それも果たしてどこまでやりたいのかわかりません。

今の仕事など、上から下りてくるのは最近お粗末な指示ばかり。

私はそんな薄暗がりの一本のトンネルのなかを歩き、今日も“たまたま”生きている。

生きているということは有り難いことだとは理解していても、
まれなものだからといって「有難がれ」「粗末にするなど失礼だ」と言われても困っちゃうと思うんですよね。

それはそう発言した人や思ってる人にはそうでも、同じ人間だから全員に適応される道理はないんじゃないか。

なぜなら、生きていることが良いことか悪いことかは、本人にしか価値を決められないから。

価値があるかどうかは人それぞれの感じ方次第で、価値が無いと思うことは悪では無いし、価値があると思うことが必ずしも全面的に正しくて素晴らしいとは、誰にも決めつけられないと思います。

ていうか他人にそういう「人生は素晴らしいよね」みたいなキラキラ教を布教されると「決めつけるなよな勝手に」と思ってイライラします。

価値があると思う人には有るし、価値がないと思う人には無い。

各々の『真実』はそれです。

そしてその『真実』は移ろう四季のように、あったりなかったり揺れ動き、1つ所に留まるような単純な概念ではないと思うのです。

今、この時、私は人生に価値がある、とまだ思っているし、思いたい。

そう願いたい。

それは、“酒を断ち、愛する妻と暮らしている”という今の生活の前提条件があるからです。

 

妻が死んでしまったら

妻が死んでしまったら。

子供らが自立して、もう思い残すことがなくなったら。

余命が幾ばくもないってわかったら。

私は、そのとき、どうするかなぁ、と正直思います。

今想像するには、人生の価値を「無い」と判断しそうです。

施設に入れたり、介護したり、そんな風に俺如きに無駄にお金を使わないでほしいし、そもそも人が嫌いだからひっそりとした山のなかにひとり捨て置いてもらいたい。

 

妻が生きているうちは、飲まない方が楽しいから飲まないけど、妻がいなくなった世の中なんて、正直クソどうでもいい、と思っています。

 

これが私の今までの考えあり、1日断酒の答えのひとつです。

 

 

この世もそんなに悪くない、と思えるようになる日が来る

その暗闇はなかなか消え去りませんが、ちょっとずつ日々の景色に色が戻って来る日もあります。

 

あ、子供のころこんなウキウキしたことあったかも…って気持ちが戻ってきます。

 

大丈夫ですよ。

だから、大丈夫。

今、もうこんなんやめてても、つまんないし、シンドイし、何の意味があるんだよ…

って思っている人も大丈夫。

また、「こんな毎日も悪くないな」って思える日が、また必ず来るはずだから。

 

自分にもそう言い聞かせて。

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【依存症】断酒日数は「競う」ものではなく「祝う」もの

こんにちは、 ちあき です。

 

アルコール依存症の私は、断酒会に通っています。

今日はちょっと断酒継続と断酒日数についての考え方を書いてみたいと思います。

 

断酒会で断酒日数を自慢する、あるいは年数が長いからとマウントしようとする人がたまにいます。

「私は100日以上断酒できているから〇〇さんより上だ」

「2年断酒もできていないのに断酒を語るな」

本当にそうでしょうか?

そしてそれは果たして重要なことでしょうか?

 

どんぐりの背比べ

みんな、アルコール依存症の患者は、同じ病の病人です。

そして、この病に「完治」はありません。

治る、という概念には相当せず、何年も止めているような人は「寛解」が続いている、と表現できます。

「寛解」とは、関節リウマチやがんのように、「いつまた起こるかわからないけれど現在活動は停止している」という状態のことです。

つまり、何年止めている人だろうと、結局みんな治っていないのです。

なぜか?「脳のドパミン報酬系回路が破綻して不可逆的な変化を起こしてしまっているから」です。

不可逆的、とは、もう元には戻らない、という意味です。ですので、一度この病になってしまうと脳は変化したままでもう二度と飲酒前の状態になることはありません。

自転車に乗れるようになったら、乗れなかった頃には戻れないように。

沢庵になったら、元の瑞々しい大根には戻れないように。

したがって、断酒している日数や年数で「病状」は語れても、患者の「優劣」は語れないと思うのです。なぜなら、脳の回路が狂っているという点で全く同じであり、スリップ(再飲酒)して苦しんでいるのは、明日の自分かもしれないから。

つまり、どんぐりの背比べです。

「酒を1日1日やめている」という一点において、アルコール依存症患者は全員が平等であり、優劣なく病人であり、同じ方向を向いて努力する仲間でしかないのです。

だから、アルコール依存症患者の仲間が断酒を継続できているなら、それは他ならぬ自分の分身ともいえる同志が傍らにいてくれている、ということです。

断酒という、世間には理解してもらいにくい病を患い、孤独に戦う日々に確かに見える光です。「心強い、独りではない」と自分を励ましてくれる存在です。

そう考えると、他人がどれだけ続いていてるからと言って焦ることはないということが分かります。

逆に、他人が続いていないからと言って驕り高ぶることはないということもわかります。

他人の断酒歴は祝うもの

私は、この病気になって大切なことに、ひとつ、気づきました。

今までは自分にも他人にも厳しくて少しの失敗も許せない人でした。

足りないところがあったらそれが目に付いてイライラする。

「これができてないくせに」と他人を下に見る。

そういうところがありました。そうやって他人を下におろすことで自分の価値が上がると勘違いしていた節がありました。

恥ずかしい限りです。

 

今思えば、それは、ひとえに、『自分に自信がなかったから』です。

 

しかし、やり方は人それぞれだし完璧な人なんていないということを学びました。

自分が優れている点を挙げつらい、「ほら俺が優れているだろう!」「こいつは馬鹿だけど俺は優秀だ!」とマウンティングしたとしても、それは非常に虚しいことです。

そんな行為は、「私は自信がないんです!」と、震えながら大声で叫んでいるようなもの。

完璧な人なんていなくて、私だってどこか欠損していて、だけど、だからユニークなのであって、何も恥じることはないし、みんな違って当然なのです。

人と比べなくては自分の居場所を確認できなくて、いつも落ち着かないのは、「自分が自分を認めてあげられていない」から。

あなたは、断酒しようと努力を続けているだけで、立派です。少なくとも頑張っているのは確実です。そもそも人生は土壌が千差万別なので、他人と比べるためのものではないのです。

 

MRの仕事でも、同じこと

私は個人的には前任者の人々を悪く言うのは好きではありません。

その人にはその人なりの正義があったと信じているからです。それぞれに多様な強み弱みがありそれを補っていくのがチームであり会社であるからです。

MRとは製薬会社の営業です。私たちは6ヶ月ごとの決算で計画の達成率をほかのMR・営業所平均・支店平均・全国平均と比較されて、上だ下だと毎回ジャッジされます。

そのプレッシャーは大きく、毎回100%でないと人間扱いされないほどです。

これは、「他人と比べて良いか悪いか」で物事を判断する典型的な悪い例です。

 

そして、その評価制度に洗脳されていった人間は、

担当していて思うように数字が上がらない場面で、自分を守るために「前任者が頑張ってなかったから」「あいつの顧客は偶々ラッキーな環境だけど、俺のエリアはそうじゃないから」という弁明というか、言い訳をします。

こういう人が多くてびっくりします。

他人と比べることがもはや手段ではなく、最終目的になってしまった人だけがいう、最高につまらない言い訳です。

 

私は前職では

「ポストが赤いのも自分のせいだと思って原因と結果に向き合え」

「純利益で事務員2名を含めて計3名分の年収が稼ぎ出せない人間は、会社の寄生虫だ」

と言われて育てられてきました。(笑)

とんでもないパワハラも日常茶飯事で、契約をとれなければ相談に提出した見積を先輩にくしゃくしゃにして顔に投げつけられましたし、深夜になり終電を逃したため事務所で寝袋で寝ているところを、早朝出勤した上司にわき腹ごとサッカーのシュートのように蹴りつけられて起こされたりしました。(笑)

そんな超ブラック企業時代、そんな言い訳は通用しませんでした。

パワハラが正しいとは言いません。パワハラは人格を壊します。非常によくありません。私は実際やられてとても嫌でした。

だけど、前職の上司を含めた営業たちは「利益という絶対的な生み出すべき結果」に対しては、限りなくストイックであり、決して「他人との比較」を言い訳にすることはありませんでした。

そこは、尊敬すべき姿勢だったと思います。

 

そんな言い訳を考えている暇があったら、自分の周りで起こる全てのことに対して、自分に責任の一端がある、と拡大して考える。

そこから改善策を考案したほうが、結果的に問題は早期に解決できるし、もう今、私が解決しなくてはいけないのです。

現在の「担当者」は「私」なのだから。

 

「誰が悪いか」を議論するために時間を使うのではなく、「どうやって解決するか」をみんなで考えるために時間を使うべきだと考えるのは至極合理的だと思いませんか?

失敗の大きさと犯人探しに目を向けるのではなく、次に起こさないためには、今解決するためにはどうしたらいいか、を常に考えられる人間でありたいと思います。

 

あとがき

私は、最終的に得意先が喜んでくれれば、世の中の役に立てれば、出世しなくても良いと思っています。

出世するために社内営業に明け暮れたりすることは、出世を目指す人には非常に大事に映るのでしょうが、実に些末なことです。

私たちは、ひとりひとりが関わった人々を笑顔に出来るなら、もうそれで充分すばらしいくて、その実現のためにいろんな社員がいていろんなやり方があってしかるべきなのです。

だめなところも弱いところも強いところも、みんなでさらけ出して助け合ってやって行けたらいいなと思います。

では、また!

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【依存症】禅・仏教に学ぶ 自分を責めなくてもいい理由

こんにちは、 ちあき です。

 

私はよく、自分という存在に、固執しがちです。固執して、苦しんできました。

「私」「俺」「僕」という一人称に。

 

俺が○○だからすごい。

私が○○をしてあげた。

僕は○○だからダメだ。

 

しかし、インドの大乗仏教に位置する唯識思想では、

『「自己」は、あるようでなく、ないようである。』

という考え方が存在するのです。

 

アイタタ!やべーやつじゃんこいつ! ((((;゚Д゚)))))))

 

などと、まぁ、ドン引きしないで、まずは読んでみてください。

今日はそんなお話です。

 

我々が慣れ親しんでいる西洋哲学がすべでてはない

デカルトの有名な言葉「我思う、故に我あり」が示すように、

 

有るか無いか。

0か1か。

白か黒か。

YESかNOか。

 

そういう西洋哲学的な思想方法に慣れている私たちからすると

先に挙げた唯識思想を「何を曖昧なことを…ふぅ(´Д` )」と感じるでしょう?

私もそう思いました。それで、当たり前だと思います。

 

しかし、その西洋哲学的思想も、インドの大乗仏教に位置する唯識思想も、『考え方の一つ』。片方からの視点では、お互いにどちらも是であり、どちらも非であるといえます。

 

つまり、人には人の考え方があるんだから、「どちらも許容する大らかさ」を持ってもう一度見てみてもいいじゃないか、と改めて内容を整理してみたのです。

 

唯識思想で考える「自分」の概念

「自分」という存在は、大きく分けるならば、考えをめぐらし、感じ、動き、

熱くも、冷たくもなる「心」と、何十億もの小さな細胞でできた「身体」の

集合体であり、『ひとつでありながら、ひとつではない』という解釈には一先ず納得できそうです。

 

 

例えば、真っ白な、どこまでも何もない、音も匂いも時間すらない空間があったとして、

私は「自分」が『確かに「ある」』と確信できるか、自信は持てません。

 

例えば、屈強な軍人たちの中では

「自分」はひ弱な存在にもなるし、

反対に本の虫たちの中では、

「自分」は逞ましい存在となるように、

何かがあって、「対象に反響」することで、私たちは「自分」を初めて意味づけできています。

 

物理学において、「圧力」をかけると、「反発する力」として「斥力」が生まれますが、まさに、「自分」とは「斥力」のようなものと仮定しているのが唯識思想です。

(「圧力」がなければ無いものになるが、「圧力」の存在があれば、「確かに有る」ものでもある。)

 

そこから考えて、自分で自分に下す「自己評価」を確認すると、それが『実に不正確なもの』というのがわかります。

 

ダメなやつ、

勇気がない、

失敗ばかり、

弱い…

 

いったいなぜそう言い切れるのか?

自己評価のまえに、自分すら有るようで無く、無いようで有る、曖昧な存在。

その存在を正当に評価することは極めて困難です。

 

己の心が決める世界観 アドラー心理学的視点

つまり、決めつけているのは、己の心です。

 

脳神経科学の分野においても、イメージングすることでの神経伝達物質による影響が発見されて研究されています。

 

例えば重要な顧客に対して1回きりのプレゼン大会があるサラリーマン男性Aさんを仮定します。

 

「緊張する、私なんかうまくいかない、ダメだ」と脳が認識しただけで、神経伝達物質のひとつの「ノルアドレナリン」が過剰に分泌され身体に作用して、筋肉を緊張させ、血圧を上昇させ、イメージの通りに大舞台で、見事に「ダメな自分」を実現させようとします。

 

落ち着いた、成功できるイメージを持っていると体は、セロトニンという物質が分泌しており、「自分が話すことは相手に伝わる」「バランスよく状況を認識して話せる」という「イメージ通りの成功する自分」を実現させようとします。

 

プレゼンするAさんの身体的な状況やスキルは全く同じ状態なのに、全く逆の未来を、心が左右して実現させます。

 

 

 

この部分は、西洋でありながら「あなたはあなたが望む通りの現実を創り出している。」とするちょっと前に流行った「アドラー心理学」の解釈にも似ています。

 

アディクションに苦しむ自分を望んでると答える人はいないだろうが、実は自らが望んでアディクションに飛び込んでいるのだ、というのが、アルコール依存症において「アドラー心理学的立ち位置から見た場合のとらえ方といえると思います。

 

アディクションに陥ることにより、以下の目的を果たそうと無意識に動いていたのかもしれません。

 

「生き辛さに向き合わずに済む」

「家族に向き合わずに済む」

「仕事での無力感に向き合わずに済む」

「誰も構ってくれない孤独と向き合わずに済む」

 

みな、自分の願望を叶えるためにあえてアディクトになった、そう歩んできたのは隠れた己の意思だ と、アドラー心理学では考えるからです。

 

 

唯一絶対の正解や正義など存在しない

以上のことから、その自己完結的な思考が正しいか間違っているかは抜きにしても、心が「自分」をどう定義するかは非常に影響力が強いと言わざるを得ません。

 

ただ一つ言える確かなことは、「自分」だと信じる心と身体が、「識」することにより、世界は今のところ、この瞬間瞬間には、輪郭を成しているということです。

 

だから、その見え方感じ方捉え方は、人によっても状況によっても違って当たり前で、むしろ「同じでなければならない」という同族意識、「こうでなければならない」という常識、これらに全方位からみても、全て正しいことは、実は一つもないのだろう、ということです。

 

「確からしい」と特定多数の人が認識している「常識」や「当たり前」は、実は、白でも黒でもありません。

 

「常識」や「当たり前」から少し外れていたから、なんだと言うのでしょう。

 

それが悪か善か、正しいか間違いか、天にしかわからない。

天にもわからないかもしれない。

 

だから、「こうなんじゃないかな」と思ったなら、とりあえず、やってみるしかありません。

やってみて、「あれ?こうなったか」とか「やっぱりこうした方が楽しいな」とか、挫折や失敗を繰り返して、物事は道理に従い、なるようになっていくものなのです。

 

心配したってしかたない。

 

全てあやふやでも、完璧に確かなことなどひとつもなくても、それで、良いのです。

だって、そうでしか、ないのだから。

 

この歩みは、頼りないように見えて白と黒のあいだを渡り歩く力強いもの、これがすなわち、「中道(中庸)」です。

 

中る(あたる)道と書きます。

心に中る=心中。アルコールに中る=アル中。

断酒道にも、「中道」の精神が共通していると私は考えています。

 

だから、自分を責めたり思い悩むことはない

ここまでくるとお分かりいただけたと思いますが、実は自分に関する優越感や劣等感など、実にあやふやで気にしなくていい、どうでもいいことだ、ということです。

 

「常識」や「当たり前」や、「成功」や「失敗」も、全てあやふやです。

 

なるようになる。明日のことなど、自分の全てなど、完璧にはわからない。

心配したって仕方ない。

だから、自分を責めなくていい。

心が決めたことを、腹くくってやればいい。

心がいいと思うことを、唯唯、やればいい。

 

そう思うと、なんだか肩の力が抜けて楽になってきませんか?

 

存在しているものを許容するごとに、「自分」を映す鏡が広がっていくような感覚。

 

それは「斥力」に例えられる「自分」が、神経が、世界が、価値が、広がっていくことなのだと思います。

 

だから、私からみて『至った』人たちは皆、『皆さまに、生かされている』と表現するのだろうな、と思います。

 

彼らは、他人は自分の一部と考えているのです。

 

だから、そのままで生きていて安心できるのです。

なぜなら、他人といても、他人すら、「自分」の範疇だから。

 

だから、断酒会にいくと私たちは安心するんだと思います。

断酒会のメンバーはみな、どんな状況にあっても、どんなにダメでも、何度失敗したとしても、もう一人の自分だと思えるからです。

 

だから、マザーテレサのように、認められることを全く目的としない慈愛の心を持つ人の生き方は、どんなときも幸せなんだろうと思います。

 

他人のことを真剣に応援できたり、みんなに貢献するために頑張れたりしますが、それは、みんなに対してであると同時に、みんなという「自分」に対してでもあるから。

 

「自分」ごとだから、夢が叶ったら自分のことのように嬉しいし、悲しいことがあったら、共に涙を流して悲しむし、誰かと誰かが争っていたら、心が痛い。

 

 

宮沢賢治の、アメニモマケズが心に響くのは、おそらく「真理」に限りなく近い「慈愛」という概念が文章化されているからなんじゃないかと思っています。

 

『三輪清浄の不分別智』という考え方だそうです。

自分 他人 その間での行為 を、分けない。

AがBにしてあげたとか、自利と他利を分別したりしない。

優劣をつけたりしない。

上下関係をつけたりしない。

自分が他人にしたこと、他人が自分にしたことは、自利であり、他利でもある。

 

そのような認識に基づいて「慈愛」にただ誠実に生きることで、自分は清く在ることができ、他者にも温かさを感じてもらえるのではないでしょうか。

 

私にとっての幸せは、そのような人であること。

やっと私の幸せはここに輪郭を顕わしたと言えます。ここまで長かった…。

 

長文にお付き合いいただきありがとうございました。

では、また!

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【依存症】映画に学ぶアルコール依存症の怖さ(『ウォーリアー(原題:Warrior)』2011年アメリカ)

こんにちは、 ちあき です。

ウォーリアー』(Warrior)は、2011年アメリカ合衆国のスポーツドラマ映画。 ギャヴィン・オコナーが監督・脚本・製作を務めた。 主演はジョエル・エドガートントム・ハーディ。 (Wikipediaより)

トム・ハーディといえば、現在人気公開中の『ヴェノム(Venom)』で主演を務める肉体派の俳優さんです。 めっちゃ筋肉がかっこよい人で、『White&BLACK』のときからかっこいい人だな、と思っていましたが、この『ウォーリアー』では群を抜いて鍛え上げられています。

肩と背中とか、もう、プロの筋肉です。  

 

そんな映画にアルコール依存症のお父さんが出てきて、いろいろ思うところがあったので、書きたいなと思います。

アルコール依存症の家族に対する傷は限りなく深い

お父さんが一人孤独に暮らしているところに、トム・ハーディが演じるトミーが帰ってきたところから物語は始まります。

お父さんはアルコール依存症で現在1,000日断酒継続中。 なんだか親しみがわきませんか? しかし、そんなお父さんにトミーはかなり他人行儀です。

なぜなら、トミーとお母さんはお父さんの酒害に耐えかねてお父さんから逃げたのでした。 そしてお母さんは逃げた先で呼吸器系の疾患にかかり、逃亡先で薬も買えず亡くなっていました。 トミーは父親に激しい憎悪を抱きながらアメリカ海兵隊に入り、とある理由で退役していました。

彼はお父さんに「お前に何の感情もないが、トレーナーになれ」とトレーニングのコーチを依頼するのですが、お父さんが昔の絵や思い出を話し出すと、「いいかよく聞け。そんな絵を持ってくるな。トレーニング以外でお前と話すことは何もない、くだらないことで話しかけるな。」と一蹴します。

兄のブレンダンは、お父さんのもとに逃げずに残り、その後教師になりましたが、お金がなく苦しんでいます。愛する妻と二人の娘と家を守るため、危険な総合格闘技の試合に出てお金を稼ぐことになります。

兄のブレンダンも、お父さんには憎しみがぬぐい切れません。自宅に押し掛けてきたお父さんに対して、こう言い放ちます。

「いいか、連絡をしたいなら電話か手紙にしろと言っているだろ。来るな。許してくれというなら許すが信用するわけじゃない。1000日がなんだ、ふざけるな、どうでもいいよそんなことは。孫に会いたい?お前はもう家族じゃない。」

お父さんは、1000日断酒して変わった、信用してくれ、と懇願しますが、「そんなことどうでもいい」と、家族にはもう忘れたくても忘れられない深い深い傷と溝ができているのです。    

こんなおじいちゃんにはなりたくない

家から覗いていた孫娘二人が「あのおじさん、だれ?」というシーンで、もう「うわー…」ってなりました。

「あんなに大きくなったのか!」と嬉しそうに近寄ろうとするお父さんを目で睨みつけて、娘たちに「知らない陽気なおじさんだよ、さあ中に入ろう、早く。」というブレンダン。 「家でコーヒーでも、」とまだ話しかけているお父さんをしり目に、突き放すように扉は大きな音を立ててしまるのでした。

  どう思います?

  でもこれ、酒害者のご家族からしたら当然の反応ですよね?

  今まで「もうやめて」と言い続けてきたのに、何にも変わらず酒ばかり飲んで暴言暴力してきた人間を、信用することは難しい、というか普通不可能に近いです。 憎しみは海よりも深く、怒りは山よりも高いでしょう。 しかも腹立たしいことに、本人は酒におぼれていて自覚がないというか、罪の重さを理解していないで、「そんなに冷たくするなんてひどいじゃないか」とか言っちゃうんですから。    

酒害者とその家族の間には、大きな認識の隔たりがある

酒害者にとっては、酒をやめるのはそれはそれは大変なことで、毎日鉋で骨を生きながら削られるような思いをして1日1日断酒しています。 それは例えるなら、今まで杖にしてきた「アルコール」という支えを失い、折れた足で毎日10km走れというようなものです。 不眠症の患者さんが、ある日突然、「これは体に悪いから飲んじゃダメ」と言われて睡眠薬を取り上げられ、毎日眠れない日常にいきなりぶち込まれて絶望する感じに似ています。

でも、ご家族からすると、 「あんなひどいことをする人が酒をやめるのは当然」であり、 「酒は好きで飲んだんだろう、好きでそんな風になったんだから自業自得」 「酒を飲んでいようと本人がしたことなんだから、本人の性格の問題」と思うでしょう。 それは、知識がなければ自然な感情だし、もし反対の立場だったら、もういっそのこと死んでくれよ、って願ったりしてしまうと思うんです。

もう数十年断酒している旦那さんの奥様の話を聞く機会がありました。 旦那さんが酔いつぶれて寝ている隣で、毎晩こう囁いていたそうです。

「頼むからしんでくれ。なあ、頼むからしんでくれな。自殺はしないでおくれ、保険金が出ないから。どこぞで車にでも轢かれて、事故で死んでくれ、な。頼むから今までお酒につぎ込んできた、そのお金、保険金で返してくれな。」

  ぞっとしました。

  私は、「ああ、これ俺飲み続けてたら絶対こうなってたな」と思って、 心底ぞっとしました。    

断酒で許されるとかではなく、「もう飲んではいけない」ということだけが真実

よく、許されることを私たちは期待してしまいますが、それは本当にご家族からしたらお門違いも甚だしい話なんだと思います。

一生許せるわけない。で、話は終わり、ジ・エンドです。 「もうどうでもいいけど、今後一切飲むなよな。」というのがご家族の本音だと思います。

まだ、あなたのお酒を「もう少し控えて」とか「飲みすぎなんじゃない?」とか「もういい加減にして、あなたの体が心配」とか言ってくれているうちが花です。  

一回諦めたら、人はもう何も、期待しないし言わなくなります。

  「お前がそうぐちぐちいうから飲むんだ!」とか言って、お酒を抱え込んでいませんか? そのうち、気が付いた時にはトミーのお父さんみたいになっていますよ? 孫にも会わせてもらえない、寂しく「1000日たったんだと、信じてくれ」と誰も聞いてくれない独り言をつぶやくだけの人生を送ることになりたくないなら、 いま、ここで、立ち上がるべきなのです。      

 

 

では、また!

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【依存症】依存症に対する偏見の深刻さ

こんにちは、ちあき です。

丸山穂高議員の言動に端を発した辞職勧告案が立憲民主党や日本維新の会など野党6党派から提出されました。

日本維新の会代表の松井一郎大阪市長は15日、日本記者クラブで会見し、戦争による北方領土返還を元島民に質問し、維新から除名された丸山穂高衆院議員について「ことの重大さに早く気付いて、潔く身を処すべきだ」と述べ、重ねて議員辞職を促したとのことです。

この騒動を見ていて、日本の依存症に対する理解の無さについてちょっと思うところがあり、まとめてみました。

 

 

そもそも、丸山穂高議員は何を言って問題になったの?

下記の北海道新聞の記事がわかりやすいので、抜粋いたします。

唐突に領土問題投げかけ/周囲の制止聞かず 丸山議員 国後での言動

ICレコーダで取材中に「団長、団長」と呼びかけ

 訪問団は10日に根室港を出港し、国後島古釜布に滞在した。11日午後4時ごろから、団員は12班に分かれてロシア人島民宅で交流し、午後7時半ごろから宿泊施設「友好の家」に順次戻った。その後、団員約10人が友好の家の食堂で飲酒を伴う懇談を始め、丸山議員もその中にいた。丸山議員は帰港後、記者団に島民宅や懇談で「酒をたくさん飲んだ」と証言している。

記者は他の同行記者1人とともに午後7時40分ごろから、食堂の端で大塚小彌太団長(90)に対し、ICレコーダーを使用して取材を始めた。午後8時すぎ、離れた場所で懇談していた丸山議員が「団長、団長」と大きな声で呼び掛けた。当初団長は応じなかったが、丸山議員は団長の横に座り、日本人墓地を巡る議論を投げかけた。

唐突に始まった領土問題の会話

 その後、唐突に領土問題に関する会話が始まった。

丸山氏「団長は戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」

大塚氏「戦争で? 反対です」

丸山氏「ロシアが混乱しているときに取り返すのはオッケーですか」

大塚氏「いや、戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」

丸山氏「でも取り返せないですよね」

大塚氏「いや、戦争するべきではない」

丸山氏「戦争しないとどうしようもなくないですか」

大塚氏「いや、戦争は必要ないです」

(中略)

丸山氏「何をどうしたいんですか」

大塚氏「えっ」

丸山氏「何をどうしますか」

大塚氏「何をですか」

丸山氏「うん。どうすれば」

大塚氏「どうすれば、って何をですか」

丸山氏「うん」

大塚氏「いや。何をどうすればいいって言って」

丸山氏「この島。この島を」

大塚氏「それを私に聞かれても困ります。率直に言うと、返してもらったら一番いい」

丸山氏「戦争でも」

大塚氏「戦争なく。はい。戦争はすべきではないと思います。これは個人的な意見です」

丸山氏「なるほどね。そうでございますね」

大塚氏「早く平和条約を結んで、解決してほしいです」

注意を聞かなかい丸山氏 深夜まで騒ぐ

 この後も丸山氏は大塚氏への質問を続け、大塚氏や他の団員、訪問団事務局員らが注意したが、丸山氏は聞かずに取材は中止に。午後8時15分ごろ、大塚氏は「先生、失礼します」と言って食堂を出た。丸山氏は深夜まで食堂や廊下で大声で騒いだり、事務局や外務省職員の制止を聞かずに外出しようとしたりした。

複数の団員が「元島民に失礼な発言だ」「騒がないでほしい」などとして丸山氏に抗議。事務局にも苦情が相次ぎ、翌12日の朝食時、丸山氏が事務局員に促される形で陳謝。昼食時にも団員を前に「ご迷惑をかけたことをおわび申し上げます」と謝罪した。(今井裕紀)

5/17(金) 17:57配信 北海道新聞 より

この様子をみてどうでしょうか?

明らかに酒に酔って前後不覚になっている様子がわかりますね。

もちろん、私はこの発言を擁護する気はありません。

戦争は繰り返してはならない悲劇だし、領土を戦争で取り返そうなどというのは戦国時代に逆戻りであり平和と民主主義に則って議論の中で解決策を見出そうとするべきです。

だから、丸山穂高議員が今回発言した内容については、残念ながら政治家として発言するには思慮が浅かったと言わざるを得ません。

 

丸山穂高議員は以前にも飲酒で問題を起こし「禁酒」していた

私たち依存症の既往歴のある人間から見て、どうにも引っかかるのは、ここです。

ご本人のtweetから引用します。

 

 

2016年1月なので、3年前ですね。

そのときの事件が下記のような内容でした。

 

飲酒が原因で問題を起こして「禁酒」を宣言していた、ということは「社会生活に困難を感じていた」のですから、そこで止めることができれば依存症ではありませんが、こうした困難を経験しているにもかかわらず「ほどほどにできない」「やめることができない」場合は、依存症か依存症の予備軍であると考える、と厚生労働省の依存症対策HPに記載されています。

 

やめたくても、やめられないなら...

アルコールや薬物、ギャンブルなどを“一度始めると自分の意思ではやめられない”、“毎回、やめようと思っているのに、気が付けばやり続けてしまう”それは「依存症」という「病気」かもしれません。

依存症は、一般的なイメージでは、“本人の心が弱いから”依存症になったんだ、と思われがちですが、依存症の発症は、ドーパミンという脳内にある快楽物質が重要な役割を担っています。

アルコールや薬物、ギャンブルなどの物質や行動によって快楽が、得られます。そして、物質や行動が、繰り返されるうちに脳がその刺激に慣れてしまい、より強い刺激を求めるようになります。その結果、物質や行動がコントロールできなくなってしまう病気なのです。

また、依存症は、「孤独の病気」とも言われています。

例えば、「学校や職場、家庭などとうまくなじめない」といった孤独感や「常にプレッシャーを感じて生きている」、「自分に自信が持てない」などの不安や焦りからアルコールや薬物、ギャンブルなどに頼るようになってしまい、そこから依存症が始まる場合もあります。

さらに、依存症は「否認の病気」とも言われており、「自ら問題を認めない」ため、本人が病気と認識することは困難です。一方、家族はアルコールによる暴力やギャンブルによる借金の尻ぬぐいになどに翻弄され、本人以上に疲弊するケースが多くみられます。

「(家族や知人が)依存症かもしれない」そう思ったら、1人で抱えこまず、また1人で解決しようとせずに、まずは、お近くの「保健所」や「精神保健福祉センター」に御相談ください(本ページからでも検索することができます)。

家族や友人など周りの人が、依存症について正しい知識と理解を持ち、当事者の方を早めに治療や支援につなげていくこと。それが依存症を予防し、また回復につなげる大事な一歩です。

厚生労働省ホームページ 依存症対策 より

 

個人的には、三森みさ先生の「だら夫」然り(ブログ記事:【依存症】厚労省監修の依存症啓発漫画がスゴすぎる件)本当に厚生労働省にはちゃんと考えてくれている人がいるんだな、と思います。

依存症対策に真剣に取り組んでくださる優秀な方が政府としてきちんと対応を検討してくれるのはとても素晴らしいことです。

 

さて、話がそれてしまいましたが、このように丸山穂高議員はもしかすると違うかもしれませんが、アルコール依存症(もしくは予備群)の可能性があるので、「家族や友人など周りの人が、依存症について正しい知識と理解を持ち、当事者の方を早めに治療や支援につなげていくこと。それが依存症を予防し、また回復につなげる大事な一歩です。」という文言に則り、支援につなげていく必要があります。

もし違ったとしても、専門の医療機関や支援に繋がり、そうではなかった、とわかるだけでも本人やそのご家族、そして一緒に活動していた日本維新の会やその代表は病気を視野に入れて丸山穂高議員の今後を一緒に考えることができます。

しかし、そのような兆しはまるでなく、ただ責任を取らせてやめさせよう、という「要らなくなったゴミは早く捨ててしまおう」「失敗したやつをつついて問題にして引きずりおろそう」という魂胆が透けて見える議員たちの対応に、がっかりせざるを得ません。

それで本当にギャンブル依存症対策ができるのでしょうか?はなはだ疑問です。

 

ギャンブル等依存症対策を進めるためにも模範を示してほしい

日本維新の会は「ギャンブル等依存症対策基本法案」を参議院に提出し積極的に対策を取り組む姿勢をみせています。

この法案の目的にあるように、「予防等(発症、進行及び再発の防止)、医療の提供等による回復等を社会的な取り組みとして総合的かつ計画的に推進」を本当に実行するためには、まずは元身内のアルコールによる不祥事を切り捨てて「我々は関係ない」と突き放すのではなく、「予防等及び回復を図るための対策の適切な実施、本人及びその家族が日常生活及び社会生活を円滑に営むことができるように支援」する必要があるのではないでしょうか?

自分たち優秀な政治家は、この法案には当てはまりませんか?

それこそ、依存症の本質を全く理解していない、と言わざるを得ません。

そのような人々がいくら「絵に描いた餅」を法案にしても、世の中は何も改善されません。

誰でもなる可能性がある。

だから、対策をとらなくてはならない。

それは議員だろうが、一般市民だろうが、人間である以上変わりなく平等にリスクと権利があるのではないでしょうか。

 

一方で、丸山穂高議員の失敗に対して依存症の知識が乏しい一般的な人たちが、偏見や嫉妬や正論を振りかざし快感を得るために丸山穂高議員を攻撃し、もし依存症なら回復を遅らせるような発言をしていて、それに「いいね」が多数ついているのもこの国の悲しい事実であり現状です。

 

 

このように、アルコールを摂取した状態での失敗や不祥事に対して個人の「人格」の問題だと見誤ったり、禁酒(断酒)を簡単にできるものと誤解したりする理解の無さ、つまり偏見や差別がアディクションに対する見方を歪め、社会を生きにくくしていることに、大多数の人は残念ながら気づいていないようです。

 

 

このような無知や誤解を解き、社会を改善できるようなソーシャルワーカーとして、一刻も早く資格を取得して、率先して啓発活動をやっていけたらいいなと考えております。

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【依存症】お酒しかなかった数年前のGWを振り返ってみた

こんにちは、ちあき です。

GWも残すところあと少しですね。

世の中的には長い休みですよねー。10連休とかすごすぎ!

今日は断酒例会で酒を飲みまくっていた時の長期連休の話になり、自分自身を振り返っていました。

 

とにかく酒を抱えて引きこもった3年前までのGW

妻と出会う前、独りで迎えたGWの記憶は、あまりありません。

ずっと、酒で酩酊していたからです。

連休の最初の夜にしこたま酒を買い込んでましたねー。

ビール・ワイン・ストロング系チューハイ・ウイスキー・ジン・ウォッカ・リットル単位の焼酎…

なぜこんなに買うのか?

酒を買いに出ると人に会ってしまうから。

そう、私は休みはとにかく人に会いたくなかった。

「やっと、人に気を遣わずに過ごせる!!」というのが、連休前の金曜日の感想でした。

人に会うのは今も疲れますが、当時は本当に苦痛でした。(なのに営業という意味不明さ)

聞きたくもない話に愛想笑いして。自分の話など怖くてできなくて。

「つまらなそうに見えて悪く思われないか」「失礼なことをしてないか」「言葉を間違えて勘違いされやしないか」とビクビク怯えて。

そんな針の筵のような平日が、やっと!やっと!小休止を迎えたぞ~!!やったー!!

という感じでした。笑

 

そして金曜の夜、カーテンも閉め切り、PCだけつけて電気も真っ暗にして、独りきりで飲み始めます。

飲んでは気絶・飲んでは気絶・たまに吐いてトイレに籠って・また飲んで気絶

気がついたら、もう連休も最終日。

 

「ああ、また明日から地獄の日常がはじまるのか…」

 

と思って最後の瓶を空けながら、さめざめと泣いて最後の夜も気絶するまで飲んでいました。

 

断酒していると「人といるのもいいかな」と思えてきた

こんな鎖国状態の私も、今は少しずつですが、人に本心を打ち明けたり、人の話を聞いたりすることが、いいことなのかもな、と思うようになりました。

それは断酒会に行き始めてからでした。

会社を懲戒解雇されかけ、運よく首の皮一枚繋がって戒告処分で済んで、それから悔しさと恨みで1年3ヶ月飲まずにいられていました。

しかし、転勤して環境が変わり、周りから懲戒処分をネタに馬鹿にされたり揶揄されたりしたことに負けて一度スリップしてから、もう自分の力ではどうしようもなくなりました。

妻に教えてもらって病院に繋がり、初めて断酒会に出席した時、私は生まれたての小鹿のように震えながら中を覗き込むような心境でした。

「もう、情けないけど自分の力だけでは、どうしようもない」

「でも、こんな人生の落伍者の集まりに参加するまでに落ちぶれてしまった」(超失礼)

「どうせやめたって、もう俺の人生は終わったも同然なんだ」

「これからは、今までの情けない自分を罰しながら、日陰で一生謝りながら生きていくんだ」

そんな気持ちで覗いた断酒会場の椅子に、ちょこんと仲良く座っている老夫婦がいらっしゃいました。

Kさんご夫婦は、旦那さんが依存症者本人で、奥様が酒害者家族でした。

口を開いたKさんの酒歴はそれはそれはすさまじいもので、警察沙汰・刃物も出てきて、留置所もバンバン入っているという、私が足元にも及ばない(と当時は勘違いしていた)ものでした。

そんな酒害を盛大にまき散らしてから、断酒を志し、以来30年近く断酒しているというではありませんか!

3:30に寺を訪ねて仕事前に4時間の座禅を組み、仕事終わりにまた深夜にかけて4時間の座禅を組み、それを毎日!10年続けたそうです。

そのエピソードを話す傍らで、やわらかい笑顔を浮かべている奥様。

比喩ではなく殺し殺されかけた修羅を乗り越えたお二人が、

「今は、断酒していて幸せです」

とおっしゃる姿が、私には太陽よりも眩しかった。

こんな未来があるのか、こんな未来もあるのか!

なら、もう一回頑張ってみよう。

こんな未来があるのなら、もう一回、覚悟を決めて『生きて』みよう!

この出会いが今も私を支えています。

 

断酒会って、本当に不思議なところです。

みんな言いっぱなし・聞きっぱなし。

終わったら特に感想を言い合うでもなく

「おつかれっしたー」と思い思いに散っていきます。

でも、心が・魂が、触れ合った実感があります。

お互いにあえて何も言わなくても「私たちは仲間だ」という共通認識が産まれます。

それは、私にとって素のままでいられる、とても安心できる空間であります。

言い訳やキレイごとを全部なくした生の感覚を話すことができる、数少ない私の居場所。

そうして自分のそのままを話すことで、私はヒトの魂に触れることができる。

そのままを聞くことで、自分の魂に触れることができる。

ああ、だから皆、あんなに人に会うと嬉しそうだったのか!

だから今、私はこんなに涙が出るほど、人に会えて、人に会うだけで感謝されることが嬉しくてたまらないのか!

と、最近は「人と会ったり話したりするのも悪くないんじゃないかな」思うのです。

 

数年前のGW、酒瓶を抱えて映画やニコニコ動画を観ながら、さめざめと泣いていた当時の俺に教えてあげたい。

「そんなに、他人は痛みばかりを与えてくる存在じゃないよ」

「自分も他人もそのままに触れ合えれば、こんなにも癒されることはないよ」と。

 

夢に出てきた恩師が思い出させてくれた昔ばなし

東北に赴任していた時、とてもお世話になった整形外科のO先生が昨夜、夢に出てきました。

「元気にやっとるかね」

「はい、先生にお世話になっていたときよりも、ちゃんと真剣に生きてますよ(笑)」

「そうかい、そうかい。せっかく生きてるんだから、やりたいことやって精一杯全力で生きんとね。」

「そうですね。当時は先生がおっしゃっている意味が分かってませんでしたよ。」

「そうだろうと思ったよ(笑)。」

先生はご存命なので夢枕に立つという表現は正しくなく、「おい!まだ勝手に殺すなよオイ!」と怒られそうですが、久々に夢ででもお会いして今朝は嬉しかったですよ、先生。

 

O先生のご専門は「筋ジストロフィー」で、国立病院勤務にも拘らず患者さんやご家族のために休日も個人的に動くなど、本当に日夜奮闘していらっしゃる、それはそれはエネルギッシュな先生でした。

■「筋ジストロフィー」とはどのような病気ですか?

筋ジストロフィーとは骨格筋の 壊死 ・再生を主病変とする遺伝性筋疾患の総称です。筋ジストロフィーの中には多数の疾患が含まれますが、いずれも筋肉の機能に不可欠なタンパク質の設計図となる遺伝子に 変異 が生じたためにおきる病気です。遺伝子に 変異 が生じると、タンパク質の機能が障害されるため、細胞の正常な機能を維持できなくなり、筋肉の 変性 壊死 が生じます。その結果筋萎縮や脂肪・ 線維化 が生じ、筋力が低下し運動機能など各機能障害をもたらします。

引用:難病情報センター:筋ジストロフィー(指定難病113)

 

 

当時小児(5歳から7歳くらい)で発症した患者さんだと、その地域ではだいたい20歳代で亡くなるケースが多く、先生はそうした若年の患者さんとそのご家族を多く担当してこられました。

私は先生のご専門を調べ、営業として毎週訪問していたわけですが、筋ジストロフィーの話になるといつも悲しい気持ちになってしまいました。

 

たぶん暗ーい顔をしていたんでしょう。

ある日、先生が言いました。

「君は、『筋ジストロフィーの患者さんって可哀想だな』と、思っているね?」

「はい、だって20歳までしか生きられなくて、全身も思うように動かないなんて…」

言葉に詰まる私に、先生は笑いながら言いました。

「それはねぇ、偏見だよ。君の。」

私はその言葉を聞いたとき、背中からドッと冷たい汗が出るような、心臓を握りしめられるような心地がしました。

それは、真実を言い当てられたときに胸に突き立てられるあの独特の感覚でした。

先生の言葉は氷柱のような鋭さで私を貫きました。

「偏見…ですか…」

「そう。だって、可哀想な人生かどうかは、その人自身が決める事だろう?

君が決める事じゃない。君の物差しで決められることじゃないし、測れることじゃない」

「君の物差しで、勝手に可哀想だと決めつけるなんて、非常に無礼なことだろう?」

穏やかに笑いながら先生が放ってくる言葉に、私は顔から火が出るくらい恥ずかしい気持ちでした。

 

先生によると、患者さんもご家族も

『自分たちに与えられた運命を覚悟して真剣に生きている』ということでした。

 

「この子とは20年しか一緒にいられない」

ではなく、

「この子といられるこの20年を全力で楽しもう!」

という輝きを放っている、私はそれに何度も救われてやっと医者できている、とおっしゃっていました。

それは、魂の輝きだ、と。

 

それを思い出すにつけ、

私はいま、ちゃんと与えられた運命を受け容れて、

全力で、真剣に、覚悟して生きているだろうか? と思うのです。

 

アルコールに溺れて様々な人を傷つけ迷惑をかけ、

早期に昇進してマネジメント層になることを期待されて転職してきて

最下層まで降格され、懲戒処分まで受けて、いつクビになってもおかしくない。

 

だから、可哀想か?

否。

それは、もうどうしようもないこと。

罪を悔い改めて、償いながら、前を向いて生きていくしかない。

そう、もうやってしまった罪は消えない。

もはや、私にはコントロールできない、動かしようもない、仕方がない事実なのです。

 

私がこれまでやってきたことや生きてきた道は、

他人から見れば

「自業自得」「身から出た錆」と思うかもしれない。

「もう終わったな」「負け組で可哀想」と思うかもしれない。

 

私にとっては、受け容れるべき「私の人生」という運命なんだろうな、と思います。

私の運命そのものは、恥ずかしいことでも、可哀想なことでもない。

20歳まで生きる運命を背負ってこの世に産まれた筋ジストロフィーの子が、

決して『可哀想な人生』などでは無いのと同じように。

 

テニスクラブで知り合った、重症筋無力症の娘さんを授かった女性が、朗らかに笑いながら言っていました。

「〇〇ちゃんがせっかく産まれてきてくれたのに、『どうして』とか『なんで私の娘だけ』なんて、嘆いている時間がもったいない。私たちに神様が与えてくれた時間をもう、精一杯思いつく限り楽しむ!それっきゃないでしょ!だって、私たちはもう、そうでしかないんだもの!

この人の笑顔は本当に美しいなと思った記憶があります。

 

奇しくも、やはり先生もおっしゃっていたのでした。

「君にはしたいことがあるかい?ちゃんと、『生きている』かい?」

「せっかく生きているんだから、生きている間に好きなこと・したいことをするしかないよ、君。そんな浮かない顔している間に、どんどん時間が過ぎていく、それは実にもったいないじゃないか」

「どう生きるかは、君自身が決めて、君が思いっきり精一杯思いつく限りの楽しいことや成し遂げたい事をやりつくすことだよ。そうやって楽しむために、今、まさに君は息をしているんだよ。」

「私も患者さんに教えてもらったんだけどね。どんなに欠けていたって、どんなに悔やんだり羨んだって、もう、君も僕も、そうでしかないんだから、そのまま限界まで燃えるように楽しむこと以外、やるべきことは一つもない。

 

先生、今は少しちゃんと『生きている』気がしますよ。

 

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