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【AC】Step8「傷つけた人」その⑧『自助グループの仲間』

私は、間接的に目に入るブログという媒体を通じて、直接実直に話すことが難しい怒りや悲しみを、相手に作為的に伝えようとしたことを、謝罪したいです。

 

共依存的なコントロールであり、ACとして自分の感情を過小評価して卑下し、主張する自信がないから、ねじ曲げて表現しました。

いわゆる、嫌味な言い方です。

自らが極力責められないように形を整えて、卑怯なやり方でした。

そのことで、寂しさや悲しさを相手に味わわせたことを、本当に申し訳なかったと感じています。

 

私は当時ブログに思いの丈を書きました。

「私は素直に感じたことを書くためにブログを始めたんだから、これを読んでどう思うかは相手の問題だ。私は悪くない。」と、理論武装の盾に隠れて、安全な場所を確保して、私は暗に他人を非難するような内容を書きました。

 

実際「私のことを責めてたよね?」と当事者から言われた時、私は知らんふりをして「私の記事があなたにそう映るんなら、あなたの中に問題があるんじゃない?」とズルく卑劣な言い方をしました。

たしかに私が何を書くかは自由だけど、ほんとうに私が実直なら、当事者から確認されたときに思っていることをその人に正面から伝えるほうがより良かったし、そうしなかったのは「相手はまだわかってないから、見方を誤っているんだ、だから、正しいことを教えてあげよう」などという思い上がった気持ちが私にあったからでした。

 

そもそも、相手の対応に傷ついたり対等に話すべく話し合いを望んでもちゃんと話してくれなかったので、関係が悪化していったことが始まりではあります。

私はその人に対して、これ以上正直に話すことが怖かったのでした。実直に話しても受け取ってもらえない痛みに耐えかねて、でも胸の内にある悲しみや怒りを抑えることができずに、歪んだ表現方法を取りました。

それは、仕方なかったとはいえ、いいことではありませんでした。

 

私のやり方が相手と対等ではなく、実直さや率直さを欠いていたことは紛れもない事実であり、私はそれを認めて、心から謝りたい。

そして、二度と、ブログをそんなふうに他人を間接的に攻撃するための手段に使ったりせず、一瞬一瞬を、自分に実直に、相手に率直に、対等な心で接するよう、自分の行動を変えていきたいです。

それが、私にとって、私が私を嫌いにならず、自分を最も大切にすることだと思います。

 

お相手にDMで謝罪したいなと思いましたが、私からは送れなくなっていたので、ここに置いておかせてください。

本当にごめんなさい。

私は少しずつでいいので、変わりたい。

【AC】境界線を守り混乱を避けるために必要なこと

最近ネガティブな記事ばかりを書いていた。

どれもこれも、本当の気持ちに気づくために必要な毒で、毒出しをしていたようだ。

 

この本を読んでいて、最近あった哀しかったことも、重要なことに気づくために用意されていたことだったのだと知った。

 

私は何が哀しかったのか?

私は最近、とても哀しかった。

そしてそのことを打ち明けられると私が思える人がいなかった。

なので、ここに置いておこうと思う。

いずれ本人に言える時が来たら、言おうと思う。

 

とても気が合う人がいた。

思考回路も興味関心も似通っていて、というかほぼ重なるほど同じで、そんな人は今までいなかったのでびっくりした。

この人となら分かり合えるのではないかと期待した。普通の知り合いとは一線を画した好意を持った。

相手も好意をもって接してくれていた。とてもうれしかった。

しかし、紆余曲折を経て、最終的にお互いが望む関係性は少し違っていた。

私はそのことを伝え、相手も了承し、新しい関係がスタートしたと思い込んでいた。

しかし、相手にとってはそうではなかった。

相手にとっては、もっと親しい関係性を望んでいたのに私がRefuse(拒否)したことで、とても深く傷ついていて、私と接することにストレスを感じていたことがわかった。

しかし、それをアサーティブには話してくれなかった。

私から終わりを告げた関係性の一つの形。私が終わらせたことで、私は加害者として相手には映っていた。

つまり、相手にとって関係性が相手の望む領域に至らないのであれば「私と今違う関係性で接することは苦痛を伴うから、連絡するのはやめてほしい」ということだったのだが、その気持ちを素直に伝えてくれるのではなくて。「あくまでも私が関係性を拒絶したから終わってしまった、私のせいで終わってしまった」という状況になるように、遠回しにコントロールされているように感じた。

合意したわけでは無かったのに、私だけこれでよいと思っていたのか。

そのことに気づいて、また相手の接し方の後ろに見え隠れする恨みと本心が垣間見えた気がして、私は今までの自分の行動を悔いた。最も親しく接してきた相手に最後の最後に悪者にされたような気がして、とても哀しかった。

覚悟したこととはいえ、私は世間的に間違っているとされている関係性を選んで相手と交流したことに、常に自分に対して罪悪感を持っていたことは、否めない。

私の罪悪感が、相手が私を責めているように、うつしているのかもしれない。

実際、相手に「本当は私を恨み憎んでいるのではないか?」と問うたとき、相手は明瞭な答えを示すことはしなかったので、攻撃性が0であるとは言い切れない形ではある。

しかし、それは、相手が正面を向いて話をしてくれる状況でしか確かめようもないし、攻撃性があり私を恨み憎んでいるかどうかは、本質的には関係がない。

相手を変えることはできない。

相手ありきなので、関係性もコントロールはできない。

私が関われるのは、私だけだ。私の行動だけだ。

ということは「なぜ、私は哀しかったのか?」ということが重要だ。

 

私の反応の仕方の問題点

「ネッチー」というコミュニケーションタイプがある。

『#ネッチー(作為的)』とは?

攻撃性を隠して相手をコントロールするタイプ

表立ってことを荒立てたりしないでちゃんと仕返しをする。

トゲのある言い方をするだけで悪意の証拠は残さない。それは、ドッカンやオロロと同じように、自分に対する自信のなさから起因する。

だからネッチーは正面切って人と向き合えないし、自分を含め誰のことも信頼できないのだ。

ネッチーは人をうまくごまかす。

まわりの人を巧みに支配したり操ったりして、自分が拒否されたり傷ついたりするのを避ける。

相手を尊重しているように見えて、そこに不満が見え隠れする。

ドッカンとは異なる攻撃性をもっていて、自分の本心を表に出さず、すり替えたりする。

ネッチーの武器は相手の罪悪感を利用することで、相手が気が咎めている所にすばやくつけこみ、自分の望む状況にもっていこうとする。

出典:コミュニケーションパターンより

 

何を隠そう、私はよくネッチーになる。

だから、他人のネッチーに敏感なのだ。

結局一言でいえばそれだけだ。

自分がそうだから哀しいと感じたのだ。

同じだから、相手の同じ部分が気になりイライラするし、敏感に感じ取って傷ついたり哀しく思ったりする。

こうならないための健康なコミュニケーションに、アサーティブコミュニケ―ションという方法がある。

基本は以下の4つ。

1、自分に対して誠実

自分の気持ちをきちんと受けとめ、誤魔化さない。

それを相手に伝えるかどうかは、自分の責任で選択する。

2、相手に対して率直

相手に伝えるなら、率直に、きちんと伝わる形で。

相手を責めたり、怒鳴ったり、弁解したり、遠回しに言ったりしない。

3、お互いに対等

気持ちを伝えたい相手と向き合うときは、対等な立場で。

自分を卑下しない。相手を見下さない。

4、自分の行動に責任を持つ

気持ちを言ったときも、黙っているときも、その結果は自分で引き受ける。

相手の反応や感情に責任を持つ必要はない。自分自身日空いて責任を持てばいい。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P42~43より

 

今回振り返ってみて、私はうん、全部ダメだったな。

自分の「相手を傷つけ恨まれ、アサーティブでない方法で敵意を伝えられて哀しい」という気持ちを受け止めずに希死念慮や世の中の空虚さを語って誤魔化そうとした。

自分の行動に罪悪感があり、「罪を犯しているくせに」と指さされることを恐れて、率直に伝わる形で相手に話す勇気を持てなかった。

自分を卑下し、相手に見下されたり見限られたりしているのではないかという可能性を恐れて先に相手を小さく見積もろうとした。

自分の行動の責任範囲を過剰に広げていた。はじめるときに相手が選んだ行動の選択の責任まで取ろうとしていた。それは相手を尊重していない。相手が選んで今に至っている状況や行動について、その反応や感情の責任を私は負わなくてもよかった。

コミュニケーションは、勝ち負けではない。

お互いに尊重されるその人生の接点を話し合う、対等な話し合いだ。

それをすぐに忘れてしまう。

それは、私が共依存的で境界線があいまいになるときだ。

境界線を守り混乱を避けるために

アダルト・チルドレン(AC)は、しばしば、自他の境界線が混乱している。

それは、機能不全家族のなかで緊張した状況を生き抜くために、不健全な状態でなくては生き残ることができなかったからだ。

その時に学んでしまった自他の境界線の間違った引き方を今も引き摺っているので、私たちは苦しみを抱えやすい。

★境界線の混乱をチェックする

あなたには、次のようなことはありませんか?

当てはまるものが多いほど、境界の混乱が起きています。

□「No」と言うことができない。

□ほしいものや必要なものを要求できない。

□人の意見に合わせる

□自分で決断できない。

□批判されるとひどく落ち込む

□相手を自分の価値観に合わせようとする。

□相手の問題解決に必死。

□相手がだらしないと自分が恥ずかしい。

□相手をすべて自分のものにしたい。

□自分の幸せが相手にかかっている。

□自分よりも人の世話をする。

□自分を傷つける人と関わり続ける。

□人に付け込まれる。

□相手が楽しそうでないと自分が責任を感じる。

□自分だけの時間を持てない。

□苛酷な状況に長い間身を置く。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P24より

 

私は全てに覚えがある。今も、そうだな、と思うことがたくさんある。

境界には3種類あるとされている。

「身体の境界」「感情と意思の境界」「責任の境界」だ。

自分のために、それぞれの境界を守るための原則を、以下にまとめる。

 

〇「身体の境界」を守るための原則

1、疲れたら休む。

2、自分にとって心地よいかどうかを大切にする。

3、あなたの安全やプライバシーを侵したり、あなたを自分のモノのように扱う人には近づかない/距離を取る/関係を切る。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P26より

 

〇「感情と意思の境界」を守るための原則

1、相手の感情と、私の感情は別。私の感情は私だけのもの。

2、相手の感情について、私は責任を負わない。

3、相手の感情を、私はコントロールしようとしない。

4、私の感情を表現するか、しないかは、私が選択する。

5、私の行動は、私が決める。

6、私の行動を他人がどう評価するかは、私の価値には関係ない。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P28より

 

〇「責任の境界」を守るための原則

1、相手の責任と、私の責任とは別。私は自分が乗り出す前に「これは誰が負うべき責任か」を自分に問う。

2、相手に代わって自分が責任を負うことはしない。相手に対する自分の責任を果たす。

3、相手の問題を何とかするのではなく、問題に悩む相手に共感する。

4、相手を困難から救い出すのではなく、相手を力づけ、必要なサポートをする。

5、相手の問題について責めたり指示したりするのではなく、事実に直面させる。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P30より

 

これらを、息をするように、ごく自然に守れるようになりたい。

守ろうと意識しなくてもごく当たり前に則を越えず、踏み誤まりそうになったら気づける自分でいたい。

安全で心地よいを感じながら、自分を大切にし、自分の境界を大切にしたい。

それが、他人の境界を尊重することで在り、真の意味で優しい、ということだと思う。

まずは自分の境界をしっかりはっきりさせよう。

【AC】この世は別に良いところじゃない

残念ながら、我々が今いるこの世は、あまりいいところとは言えない。

 

(あ、この記事は本当にネガティブの塊みたいな記事なので、調子の悪い人はブラウザバックしてほしい。)

 

良いところだと信じたいと思ってきたし、そう信じているという人たちの話を聞いて「なるほどそうなのかもしれない」と思ってやってきたけれど、今現時点では、やはりそうではないな、と思う。

もう口車に乗せられて無駄に期待しすぎるのは、やめにしなくてはならない。

「楽は苦の種・苦は楽の種」つまり苦しんだ分だけ幸せが来る、最終的には帳尻が合うようになっている、などという言説を聞いたことがある。

私はまだ人生の序盤から中盤に差し掛かったくらいなので、まだ帳尻が合うかどうかは検証しようがない。私は生きるのはせいぜい長くても60くらいまででいいので、50くらいになったころ検証可能になるとは思う。

最終的に帳尻が合うようにできているとしたら、この後かなり巻き返しを期待しないといけないが、どうやら周囲の50くらいの人々を見ていて、とても帳尻が合うようには思えない。

どう考えても、生きるのは大変だ。

「え?何かの罰?呪いか何か?」

と思うくらい、喜びの比率が少ない。ことに人が関わると、その比率は激減する。

深く関われば関わるほど、「私は他人にとっては、いてもいなくても変わらないし、むしろいないほうがいい存在だ」という暗い考えも深まる。

底なし沼が、もがけばもがくほど深く重く暗く広がっていくようなのが、人間関係というやつだ。

 

人と無力

私はそりゃあもう笑ってしまうくらい、人との関わりにおいて、本当に無力だなと思う。

誰の何にも、関わることはできないのだ。

「行動すれば変わる、変わるまで行動しないからだ。まだ知らないだけだ。」そういう声が聞こえてきそうだが、それはたまたまその人のなかではそうだっただけで、私とその人とは、違う宇宙に棲んでいるようなものなのだ。

本当に、違う宇宙だなと思う。

交わっているようで、本当は一点の交わりもなかったのかもしれない、と思う。

妻とも、分かり合えているようで、その実、本当に分かっているかといえば、そうではない部分だってあるし、分かっているつもりに私がなっているだけで、本当は何もわかっていないのだと思う。

他者と自己の間には、絶望的な隔たりがあり、それを近づけようとすればするほど、大きな軋轢が生まれて、それぞれに傷つく。

欲を出して叶いもしないことをやろうとしたばかりに、かえって溝を深めてしまうように、結局は双方の間のいかんともしがたい間隙の深さと遠さを味わうだけのこと。藪蛇だ。

それが「人と人とが関わることに希望はきっとあるさ!✨キュピーン」という気色悪い信仰がもたらす、唯一のありがたいご利益だと思う。

 

それを知ることにより、無力を知ることができる。

「私は、他人との関りに対して無力であり、自分の力だけではどうにもならなかったことを認める」という出発点に立てる。

総じて、誰一人としてある意味ではひとりではないが、ある意味では皆独りである。

愛し合い常に一緒にいるからといって、個体として融合できるわけではないし、誰かに何か欲しいものを可能な限り自分が分け与えたからといって、その人が好いてくれるとも限らなければ、うっとおしがって嫌ってくれるとも限らない。

全く、思い通りにはならない。

そして完璧に徹底的に交わらない。

しかしながら、孤独を抱え『誰かと分かり合えるはず』同じ幻想を抱いている、という意味では、皆が同じだ。そういう意味では、ひとりではない。

 

クソゲーでいいじゃない

奇妙なものだな、と思う。

そんなにみんなの共通の願いなら、神様がいるならかなえてくれてもいいはずなのに、そうとういじわるな神しかいないのか、せっせと信仰して拝んでいる人が少なからずいるにも関わらず、実に塩対応である。

チームプレイを推奨していながら、他のプレーヤーとパーティが組めない。

絶対クリアできない仕様のバグでいつまでも終われない。

文句なしのクソゲー仕様だ。

もし現代でメーカーがリリースしていたら、即発売停止モノだろう。

誰もやりたくないのに、一人残らずやらないといけない。

運動会の行進みたいなもんだ。

 

つまり、なんかこれ凄い素敵な、みんなが想像し期待を寄せる(己の外部に位置する)神など、この世にはいない。

いたらもっと世の中はマシだ。自殺する人が増えたりしない。

 

前向きな姿勢の重要さを説く人に出会うと、なんかちょっとたまに気まぐれで恵まれる不味い炊き出しを、「最高の飯だ…ありがてぇありがてぇ…世の中は奇跡に満ちてるぜ!みんなもそう思わないか!」って一生懸命有難がっているような感じがする。

本当は腹減ってて足りないし、もっとおいしいもん食べたいくせに、強情を張っている。

精一杯楽しんでいるふうでいて、外目とは裏腹に内心は白鳥のバタ足のように必死だ。まるで「映え」ていないと仲間から見限られる…という恐れに突き動かされて、行きたくもない大しておいしくない店の行列に並ぶ若者たちの、必死に作った引き攣り笑顔にジン割と色濃くにじむ、あの疲労感と悲壮感がある。

 

はっきりいって、この世はそんなにいいところではない。

それでもう、いいんじゃないかと思う。

しんどいし、つらいし、誰もわかってくれないし、もうやめたくてもやめられない。

人生をせっせとやめさせようとしてくるひとも、最後まで手を下してはくれない。

中途半端につらくするだけして最終的に「ここからはお客様次第です」と放置プレイかましてくるような、仕事中途半端なSMプレイみたいなのが、この世だ。

 

みんな、よくこんなクソゲーをよく頑張って根気よくプレイしていると思うよ。

だから「生きてるだけで偉い」なんていう言葉があるんだと思うよ。

たまにしかないボーナスステージを心の支えに、人生の出会いガチャをまわし続けて、まわすお金が無くなるまで回す。

賽の河原がいつまでも石積では流行らないから、現世版ではガチャにリニューアルされリリースされたのかもしれない。

 

賢者への道

唯一このクソゲーで関われるのは、自分のことだけだ。

それ以外に無い。本当にない。

自分を生かす。種を生かす。

そのために、やれることをやるだけ。

やってきたことをやるだけ。

 

 

実はこの人生というクソゲーは、他のプレーヤーと何かしようとするとすぐバグるが、己のできること、つまり「変えられるもの」にのみ注力している限りは、とても平和に進んでいくのだと思う。

「変えられないもの」(他人との関わり・偶発的に起こる不幸なイベントなど)を見分けられずに、闇雲にチームプレイに熱を上げたり、他のプレーヤーの行動や思考に振り回されたりするから、辛く苦しいイベントばかりドミノ倒し的に起こり続ける。

「変えられるもの」と「変えられないもの」を見分けられる賢者だけが、粛々とこのゲームを最後まで進めて、衰弱死という赦しを得られるのかもしれない。

私はそのためにいっちょ生きてみようと思う。

見分けられる賢さを身に着けたい。そのうえで、もう一度人生について考えてみたい。

そうしたら、この人生クソゲー説は覆るかもしれない。

覆らなくても、もとより他にすることなど無いのだ。

石積みよりは、ガチャのほうがまだマシだと思うので、もう少し頑張ってみよう。

いや、石積みもいいかもしれんな。川沿いならキャンプできるしな。

【AC】承認欲求のベクトルを「自分」に合わせよう

私はこうしてブログを書いているわけだが、趣味の領域を出ていない。

素人の戯言で、プロとしてお金をもらって文章を書いている人には遠く及ばない。

父が執筆者として、書道を通じた表現者として、成功している。膨大な量の書を読み、凄まじい回数の研鑽を経て、今の技術を獲得しているところを見ると、まあ単純にトライしている回数も知識もまだまだなのだ。

悔しいがそういうことを自覚する。

そのために文法や表現の本を読んで地道に学んでいるのだが、たまに虚しくなり、こんなことをしていても誰にも顧みられることなく、だれかにいい影響を与えるでもなく、ネットの片隅に埋もれるだけなのかな、と思ったりする。

仕事でもなんでも、他人に力を認めてほしい、正当に評価してほしい、せめて認識してほしい、と思うことがある。

 

世の中で持て囃されることの心許なさ

実力、というのは、厳然たる事実としてあると思う。

長く競争の場に身を置いてきて、やはりそうだと思う。

サービスや創作物で表現したパフォーマンスを、一部の側面で評価して横一列に並べてどうのこうのいうのは、人間の趣味というか、結構みんなやりたがる。

しかし、実力を評価する側がちゃんと見れているか、といえば、それは必ずしもそうではないと思う。

大企業の人事であっても、優秀な人を見抜けない人もいる。
例えば私の先輩はすごく担当している施設でもエリアでも頼られ求められている尊敬すべき人だが、会社ではリストラ対象の槍玉に挙げられて悲しそうにしている。
見る人の成熟度によって、人を評価するというのは見え方が違ってしまって、いくら母体が大きいからといって、信頼できるものではないんだな、と思う。
権威があるから、組織が大きいから、経歴が立派だから。
そうした後ろ盾が必ずしも信頼できるとは限らない。
時代が追いついていないこともある。
詩人で言えばエミリー・ディキンソンだし、音楽家ではシューベルト、画家のアメデオ・モディリアーニなど、死後に評価される芸術家はたくさんいる。
良いものを作っていたとしても、それが世の中で良いとされるまでにはタイムラグがあったりする。
ミシュランもそうである。
ミシュランの二つ星や一つ星のお店にはお目にかかることがあり、たまにお邪魔するのだが、実は客の足元を見るような店だったり、接客はそこまで一流ではなかったりする。
客として行って、本当に良い店とは限らない。
審査員にとってよかったというだけで、それ以上でもそれ以下でもないのである。
つまり、本質的な価値というのは、人それぞれに基準があり、そのどれも正しい。その人の中ではそれが全てだ。
比較的多数の人が選ぶ傾向にあるものを世間的に価値がある、としているだけで、それが本当に普遍的な価値があるとはいえず、普遍的な価値を持つものなど、この世のどこにも無い。

じゃあ何に価値があるの?

結論から言えば、自分にとって本物で、価値があると信じられるものであればよい。
それ以外の大事な基準などないのかもしれない、と思う。
そりゃあ目に触れる人が多いに越したことはないし、金はたくさん入るし、インスタントに動かせる人の人数は増えるだろう。
気分はいいだろうし、何者かになれた気もするだろう。
それを求めること自体は、活力になるのであれば悪いことでは無いと思う。
認められていてもいなくても。
見てくれる人はきちんと出会うし気付く、ということは確かだなと生きてきて思う。
それを曲げて他人をどうこうしよう、ってのはもうイネイブリングだし、そうして一時的に操作できたとしても、いずれ離れていってしまうだろう。自然な状態を捻じ曲げているから。
できる範囲で真摯にやってさえいれば、それが最高のパフォーマンスであり、自分自身が「精一杯やったかどうか」と自分に問うたとき自信を持って頷けるのであれば、もう100点満点だと思う。
その辺りのことについて、『ばらかもん』というアニメ是非見てほしい。
とても丁寧に描かれていて、自分の個性や承認欲求、謝罪にどう向き合うかを、美しい五島列島とそれ以上に美しい人間関係のエピソードが紡ぎ出している。

内向的な承認欲求と外向的な承認欲求

人に認められよう、俺を見ろ、今に見返してやる、という外交的な承認欲求をカンフル剤にするのは、行動を促す激烈な効果がある。
すげー頑張れる。
でもいつか疲れ果てる。
元気の前借りのように私は感じている。
おそらくノルアドレナリンの分泌による一時的なもので、依存物質で言えばカフェインみたいなもんだろう。
何か思いついたりやっているときに、体の中心が光るように暖かくなって、思わず笑みがこぼれるような、そんな瞬間はないだろうか。
自分の興味やワクワクで改良していく気持ち。
こうやってみたらどうなるんだろう?
これをこうしてみたらもっと良くなるかも!
そういう内向的な承認欲求(自己実現の欲求)を持っている状態、すなわち己の興味に忠実に、誠実に、何かに夢中になっているとき。
本来はこれだったはずなのだ。やりたいと思った根源は。
元々の動機はこれだったはずなのに、外向的な承認欲求に引っ張られて走り続けた結果、遠回りをしている。
私はこんなものを目指していたんだっけ?と途方にくれることになる。
なぜ遠回りをしたかと言えば、私自身の欲や驕りがまとわりついて、本来の夢中になっていた内向的な承認欲求のベクトルとは違う方向に舵を切っているからだ。そのことにずっと気づかなかったからだ。
認められるために。
褒められるために。
それは本当に私がしたかったことだろうか。
そんなしょうもない動機を突き抜けた、素晴らしさに私たちはすでに出会っている。
みんな、実はやりたいことをもっている。
すでに何をすれば一番自分の中で満足いくのか知っている。
そして、その輝きを追いかけている人は気づく。
その内面の輝きを追い求めている人は気づく。
つまり、気づく人は気づく。
導かれるように出会うのだ。
コントロールしようとしなくても。
私はもっとそういうことを思い出しながら、「自分がしたいことをする」という最大の娯楽をもっと楽しんで生きていきたい。

【AC】恨みこそ生きる原動力だった私が、恨みを手放したい理由

恨みこそ、私が生きる原動力だと思って生きてきた。

私に、死なずにもう少し生きようと思わせてくれたのが、恨みだった。

「馬鹿にされたまま、コケにされたまま、このままじゃ終われねぇ」

「絶対に何十年かかっても復讐してやる」

「味わった苦しみを何十倍にもして絶対に返してやる」

そう思えば、ふつふつと腹の奥底から、赤く黒いマグマのようにエネルギーがどろりと湧いてきた。もう枯渇し機能を失ったかと思われた手足を再び動かしてくれた。

私が当時生きるために、恨みや憎しみはなくてはならないものだった。

 

嗜癖としての「恨み」。

身体も精神も、臥薪嘗胆を信念に鍛え上げていった。

恨みや憎しみを、何度も何度も思い返しては、奥歯を噛み締めて眠った。

まるで味のなくなったガムを何度も口に入れて咀嚼するように、しつこくしつこく思い出し、私はいつしか、恨みを嗜癖に使うようになっていた。

恨みを抱いていれば生きていくことができる。

この絶望的につまらない世界を生きるために必要なエネルギーがもらえる。

自分の他の向き合うべき問題を見なくても済む。

自分が正しくて相手が悪いという構図に、安心することができるから。

そうやって、安易な手段に頼っている状態を、嗜癖に使っているという。

「怒り」「憎しみ」といった負の感情に耽溺することによって、他のことを見ないようにしてきた。私はそうして生きてきた。そうでなくては生きられなかった。とくに小さい頃はそうだった。

その人生を通じた生存戦略の成功は、強烈に、痛烈に、私に刻み込まれている。

成功体験を繰り返すべく、私は今も、「恨み」を最も使いやすいエネルギー源にしていたのだと思う。

 

しかし残念なことに、嗜癖としての恨みは、人生をいい方向には向かわせてくれない。

なぜなら、人生は理不尽の連続だからだ。

人生は常に不平等で、恨もうとすればキリがないほどだ。

自分に落ち度がなくても損をするし、傷つくし、納得がいかないことがたくさん起こる。

そのひとつひとつに恨みを抱き、憎しみに身を焦がしていては、とても身が持たない。

理不尽さに巻き込まれて、恨みや憎しみに浸ってばかりいると、自分で自分の人生を台無しにしてしまう。

出来事についてはたしかに、犯人・加害者の選択で起こされたものだが、その後どう考えどうとらえ、どう行動するかは、自分自身が決めることができる。

相手のせいでこうなった、と考えるのは、自分の大切な人生の決定権を、人任せにしていることに他ならない。

もし今、人生が台無しになり続けているとしたら、他ならぬ自分自身が、自ら「人生を台無しにし続けること」を「選択している」のである。

 

そうはいったって、許せるものか。

あんなにひどい目に遭わされたのだ、あんなに私を傷つけたのだ。

誰が許してなどやるものか。絶対に報いを受けさせたい。許せない。殺してやる。

 

そう思うのも無理はない。私だって、もし妻や子供を殺した犯人がいたら、迷いなく殺すだろうし、それで何年ぶち込まれようと知ったコトか、と思う。

 

しかし、ふと客観的に考えてみると、少し違った見方もできる。

私がもし憎しみに狂い復讐心に駆られて犯人を殺したとしよう。

そうすると、そのあと何十年かは刑務所に服役することになる。犯人が複数だった場合は無期懲役か、最悪死刑である。

そのことで、生き延びていたとしても、とても長い時間を刑務所で過ごすことになる。刑期を終えても不当に就職しにくくなったり、謂れのない罵声を浴びせられたりするかもしれない。

そうなったとき、私はおそらくほぼ100%、毎日殺した犯人のことを繰り返し思い出すことになる。

私が、恨みや憎しみにより行動を選択したことにより、私は犯人という存在に一生縛られたまま生きていくことになる。

何の罪もない子供や女性を殺すような「とるに足らない存在」のその人を、いつも何度も思い出すことになるのである。

それは、本当に私が選択したい生き方なのだろうか?

 

私にとって大切なのは妻と子供であり、犯人ではない。

犯人が息をしているのが許せない、この世に存在しているのが許せない、だから一刻も早く亡き者にしなくては、というのはとても共感できる。そのためなら、何もかも無くなって構わないともまで思うかもしれない。

しかし、刑事事件の罪を裁くことは、私が人生を賭してやらなくとも警察と検察が仕事でやってくれることだ。司法国家なのだから、犯人の処分は専門家に任せて私は大切なものだけを思い出し慈しみ、自分をくだらないものに縛らせずに今を生きていくことも、選べる。

失ったひとやものは、もう二度と返ってこない。

それは残念ながら、人の身では何をどうやっても変わらない。

犯人を責めても、もう犯人にも償いようがない。

その人が更生するかどうかも、コントロールすることもできない。

数奇な運命でつらい形で交わりはしたものの、おそらくもう人生に登場しない、自分にとって最も大切でない人を、その後のまだまだ輝く可能性がある、そうであれと願ってくれた人たちがいた、「大切な私の人生」に関わらせてよいものだろうか。

そう考えると、やはり私刑というか、報復というのは、恨みへの囚われであり、結果的には虚しい人生を送るきっかけになってしまうんじゃないかなと思う。

 

いじめられた「恨み」を振り返る。

同じように、私を小さい頃にいじめてきた人間。

彼らの名前を私は今もフルネームで覚えていて、顔を見ればすぐにわかるし、出会ったのなら必ず合法的な形でネチネチと復讐をするつもりでいた。

しかし、恨みや憎しみについて12ステップ・プログラムを基に学んでいくにつれて、私は「彼ら」からのコントロールから逃れられていないのではないか、と思うようになった。

この期に及んでまだ、30年も前の事象に影響されているという事実。

それは「彼ら」の行動の結果を大事に大事に引き継いでいるようなものだ。

おそらくその辺で鼻くそでもほじって生きているであろう、もはやどうでもいいその他大勢に成り下がった彼らの意志を後生大事に引き継いで、私は生きていきたいだろうか?

否だ。

生きていても死んでいてもどうでもいい人たちに、何が哀しくてコントロールされなくてはならんのだ。そんなのは嫌だ。

 

彼らは私をいじめたことなど覚えていないだろう。

覚えていても、「ああ、いたな」くらいだろう。

もし謝る気があったとしても「じゃあ腕一本置いていけ」というような私の憎しみには到底向き合えるはずもなく、代償の大きさに尻尾を巻いて逃げていくだろう。

つまり、彼らは変わらない。変えられないのだ、私には。

 

彼らの罪は、彼らが考えればいい。

子どもができたとき。大切な子供が、知人がいじめられたとき。

そういうときに、思い出せばいい。

どれだけ自分がひどいことをしたのか。どれだけ他人を傷つけたのか。

それを知らしめる役目は、彼ら自身にある。

それすらわからない人種なら、尚更今後関わることもない人種なのである。

 

恨みを手放す、ということは容易ではない。

私はそれをこそ活力にしてきて、希望や夢や友情などは、正直反吐が出ると思っている。

基本陰湿でアウトローな我が精神は、そう簡単にはホーリーにはならない。

でも「恨み」を『もっていてもしかたないもの』だとは、思うようになった。

私たちの身の上に過去に何が起こったとしても、そのことに今の自分をコントロールさせるべきではないのである。

 

ありがとう、そしてさようなら、「恨み」。

私はおかげで楽しい思い出がほとんどないまま成長してきた。

生きるために、つらーい、くるしーい、さびしーい、にくーい、そんなことばかりを思い浮かべて生きてきたから、楽しい・ワクワクする、という感情はほとんど覚えがない。

もっと美しいものやワクワクすることが、目の前には広がっていたはずなのに。

私はそういうものに見向きもせず、醜くてドロドロした黒いものばかりを目に焼き付けて二度と来ない時間を過ごしてしまった。

実にもったいない。

本当にもったいない。

そのときにしか感じることができない喜びや驚きを、素通りして、私は何をしていただろうか。

私は、これからは、もっとそういう美しいものをいっぱい見て生きていきたい。

せっかく産まれたのだ。与えられた時間を楽しまなくては損だ。

そのためには、恨みや憎しみは、荷物になるだけだ。

もう役割を終えて、私を充分生かしてくれた。

今まで本当にありがとう、恨みや憎しみ。

君たちから卒業して、私は自分が見たいものを見ることに集中して、人生を過ごしていきたいと思う。

【AC】STEP11:信じるベクトルを変える

以前、「私は無神論者だ」という旨の記事を書いた。(【依存症】神を信じない人のための「ハイヤー・パワー」

しかし正確には、私は『不可知論者』だそうだ。

7月20日に開催されたプログラム・フォー・ユー勉強会も、大変勉強になった。

「神様に対する考え方」の持ち主は、全部で3種類に分類されるという。

1、無神論者…神は存在しないということを信じている人。

2、不可知論者…神はいるとも、いないとも言えない、自分にはどちらも証明することは出来ないという人。

3、信仰者…神は存在していると信じる人。

この分類でいくと、私は2だなと思う。

いるともいないとも言えない、神様が実在しないということは私自身確証をもって論理的に否定できないし、いるというにはあまりにも世の中がまともではないので、皆が言うような神様仏様は信じ難い、という感じだ。

今後は不可知論者として自己表明していこうと思う。

 

理性という神

さて、勉強会のなかで大変興味深かったことが、不可知論者としての私が信じてきた信仰に気づかされた以下の言葉だ。

「私たちは、理性を神に見立てて忠実に信仰してきたのではないだろうか」

この発想は目からうろこだった。

たしかに。たしかにそうだ。

私は自分の「理性」が万能のように思っていなかったか。

理性こそが自分を律し正しい道に導くと信じてきた。あらゆる人から成熟した人間としてそうすべきだと教えられてきた。

しかし、実際はどうだ。

将来設計も、己の日常生活も、酒を飲むということすらも、理性ではどうにもならなかった。理性ですべてをコントロールできる、という夢物語のような信仰はことごとく裏切られてきた。

理性、いわゆる大脳新皮質、特に前頭前野を、まるで「神」のごとく信奉して生きてきたように思う。

つまり、現代人は、不可知論者を自称しながら、その実「理性」という神を崇め奉る信仰者である。『理性教』の信者だ

 

「信じる」という力のベクトル

そう考えると、私たちは「信じる」という力のベクトルに導かれて、今までの人生を歩んできたのではないだろうか。

今まで信じるものは「理性」という神だった。

なんとなく「神様」に拒否反応を示すのは、なんだかよくわからない、いるんだかいないんだかわからない「自分の外側にある得体のしれない神」を信じ込まされるのではないか?という警戒心からくるという。

めっちゃわかる。

信じるのはあなたの勝手だけれど、私に信じることを強要しないでくれ、というのが、まさに私が感じる抵抗感である。

だから、仏教もキリスト教もイスラム教も神道も、なんだか胡散臭いと今も思っている。

だから、12ステップ・プログラムの本に「神」という単語が出てくると、眉をひそめる。

それは、私の警戒心だということか。

 

そのような、外側にいるよくわからん神を信じなくてもいい。

私たちがSTEP11でするべきことは、「信じる」ベクトルを変えることだ。

今まで他人も自分も何も信じてこなかったと豪語してきた私ですら、「理性」という神を信じることに導かれて生きてきた。その事実から、人は信じることをやめられないということがわかった。

やめられない。何かを常に信じている。信じることが、生きることとセットだともいえる。

そう考えると、切っても切り離せないなら、今まで信じてきた神様である「理性」を信じるのではなくて、別のベクトルに「信じる」をシフトする必要がある。

「理性教」の信者としての私はどんな信仰だったかと言えば、

「こんなに欠けていて至らない私が幸福になれるはずがない」

「努力が足りない自分が成功するはずがない」

「自分が間違いを犯すのは理性を働かせていないからだ」

「正しくあらねばならない、強くなければならない、自分で責任を取れる行動をしなくてはならない。だって理性がある大人なのだから」

こんなクソ堅苦しくてしんどい信仰だった。

そして世界はその通りになった。理性で本当の自分を押さえつけようとすればするほど、ストレスはたまり、動きは固くなり、成果が出ず、喜びも幸せも遠ざかり、人々はもっと遠ざかっていった。

そして私の友は長らく酒だけだった。

つまり、もう大失敗なのだ。「理性教」は悪徳宗教だったということが、今までの人生でもうばっちり証明されている。

 

「理性教」よりも確かな「信じる心」

では、何を信じようか?ということになる。

「理性教」はダメだった。他のキリストだの仏陀だのも胡散臭い。

それならば、「内なる神」はどうだろうか?

「内なる神?」そんなもんがいるのか。

よく振り返ってみよう。

「理性教」を信じていたときでさえ、私の内には、私にはコントロールできないほどの大きな力の流れがあったのではないか。

それは、「『理性教』を信じる私の世界観を世界に投影する」ほどの強大な影響力を持ち、私が思い描いているその通りに地獄を実現させてきたではないか。

ダメだと思う自分をどんどんダメにして、今こうして問題に向き合えるチャンスを与えてくれて、出会うべき仲間に声をかける勇気をくれた、いつもそばにあった得体のしれない大きな力。

それが、12ステップ・プログラムがしきりに言う『ハイヤー・パワー』という物の正体なのではないかと思う。

つまり、なんかめっちゃすごいホーリーな何かがこの世にいて天地創造したりしてこの世のすべてをコントロールしてます☆的な胡散臭いパワーではなくって、私が今まで生きてきて、いつも傍らにい続けてくれる力。私たちそれぞれの応援団、小さな内なる味方。正しい道ではなく、いつでも「私が望むように」道を拓き助けてくれようとする力。そんな力が、「ハイヤー・パワー」だと考えてみると、私はとてもしっくりくる。

 

若かりし頃、伊達公子選手を育てたテニスのプロコーチ、田中 信弥プロが合宿に来てくれたとき、こんなことを話してくれた。

「毎晩、君がなりたいプレーヤーの姿を思い描いて、そのようになれると信じて寝るといい。ウインブルドン(イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの4大国際大会の一つ)の決勝で世界ランクNo.1の選手とフルセットで戦って勝つシーンを、鮮明に思い描いてみてほしい。そうすれば、君は本当にそうなろうと勝手に行動するようになる。そして、気が付いたら思った通りになっているんだよ。」

当時高校生でこの話を聞いた当時、私は「このおっさん、とんでもねー嘘つきだな」と思った。

「願うだけで何でも叶うなら、みんなウインブルドン優勝しちゃうじゃん、そんなわけねーじゃん」と思った。

でも、今思えばそういうことを言いたいんじゃないんだな、と理解できる。

「なりたい姿を思い描く」ということは本当に強力な引力をもつ。まさに、「信じる」力の強いベクトルが働くのである。

こうなりたいな、と思って街を歩いていると、理想像に近い人を無意識に目で追っている。何をしているかをよく見る。いつどんな風にどんなことをすれば、この人みたいになれるのか、勝手にアンテナが高くなる。

情報を無意識に脳に集積していった結果、ある日突然「あ、こうしてみればいいのかな」と思いついて、それを即座に実行しだす。

なりたい姿を思い描いたことが、実際に行動を変容させ、自分自身の世界を変えていく。

これは、いつも、いつでも、誰のもとにもある、強力なその人だけの専属サポーターのように、悪い想像も良い想像もその人の願望としてとらえて実現させるために私たちを引っ張ってくれる。

 

『魔法騎士レイアース』をご存じだろうか。

私は大好きである。CLAMPはある意味神だと思う。

主人公たちが飛ばされて冒険する異世界の「セフィーロ」は、意志の力の強さが全てを決める世界で、信じる心が物語を左右する重要なカギになっていく。

「セフィーロ」のように、私たちが生きている世界も信じる心がとてつもなく重要で、自分を、他人を、そして幸せを信じることが、この世においても重要なカギなのではないだろうか、と感じる。

 

 

 

頼れる協力者『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシング

つまり何が言いたいかというと、もう全部任しちゃえばいい、ということだ。

私たちはSTEPを行っていくうちに、コントロールを手放した。自分のことすらも、コントロールできない無力な存在が私たちだ。

だから、未来がなりたいようになるかどうかは、もうこの頼りがいのある専属サポーターの『ハイヤー・パワー』に任せて、私たちは他のことに没頭すればいい。

他のことって?

それは、今ココである。

瞑想や祈りを行なうのは、こうした「願いの実現」を『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシングして、過去を憂うのでもなく、未来に浮足立つのでもなく、今ココのみに集中して一生懸命生きることに100%己の力を注ぐためだ。

なぜなら、私たちが「変えられるもの」は今ココの己の行動だけだからだ。

そのほかは、アウトソーシングした『ハイヤー・パワー』君が全部やってくれると信じる。信じて任せる。信じて手放す。

そうすると、そうするからこそ、未来は願った通りにすべて用意されていて、願った通りの世界にたどり着くようになっている。

なぜなら、今までそうだったから。これからもそうである可能性が高い。

そうでなかったとしても、私にはもうコントロールできないことだから、『ハイヤー・パワー』君を信じて任せる以外にできることは無い。そもそも分不相応なことだったのだ、過去や未来や結果をコントロールすることなど。

 

「われわれの意志といのちの方向を変え、自分で理解している神の配慮に委ねる決心をする」

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 138Pより引用

 

正しくあらねばならないと律し罰するようなのは、私たちがこれから信じる神ではない。

それは、今まで信じてきた「理性」という神そのもの。

かつての信仰を捨て、私は、今までいつもそばにいてくれた協力者である『ハイヤー・パワー』君と人生をよりよく生きるということについてアライアンス契約を結んで、お互いを信頼し合いながら共に歩んでいきたいなと思っている。

【AC】「承認を求めようとすること」にとらわれる

■承認を求めようとすること■

機能不全の育ち方をしたので、わたしたちは承認されなかったり、批評されたりすることを恐れます。子どものとき、わたしたちは親や祖父母や兄弟姉妹や重要な他人から、愛と承認を受け取ることを絶望的に浴していました。わたしたちの大部分にとって、それらが得られたことは滅多になかったので、私たちは今も他人からの保証を求め続けています。しかしながらこの承認の欲求・必要が、自分の生き方や考え方を他人の欲求・必要に合わせるという、私たちのやり方に重大な影響を及ぼしています。私たちは、自分自身をどうやって愛し、承認したらいいか知らないので、自分をよいと感じるために他人からの補償を求めようとします。また他の人たちに自分を好きにさせるように振舞うかもしれません。この「外に焦点を合わせること」は、わたしたちが自分の欲するものや必要とするもの、自分の感情や欲求に気づくことを妨げます。わたしたちは、他人の反応を見てその人たちを楽しませるにはどうしなければならないかを推し量り、彼らの私たちに対する印象を管理しようと試みます。わたしたちはすべての人を楽しませようと努力し、他の人を傷つけたくないので自分自身にとって破壊的な関係にしばしば留まります。

他人からの承認に対する必要・要求があるとき、わたしたちは次のようであるかもしれません:

●人の機嫌を取る
●批評を恐れる
●自尊心を欠く
●自分を無価値に感じる
●自分自身の必要・欲求を無視する
●失敗を恐れる
●集中力を欠くこと
●身体的な不快

******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
59Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします

 

●自尊心を欠く

●自分を無価値に感じる

最近、この2つを特に感じる。

ということは、まだこの「承認を求めようとすること」にとらわれていて、結局のところまだ自分の欠点や考え方の歪みを手放せていない。そう内省する。

 

私はとても今虚しい。

今している仕事の意味が薄いことに気づいた。

しかし、独立して同じだけの給料を稼ぎ出すほどのスキルはない。

鍛えてきたのは営業力くらいだ。

創造的な何かをする力はやはり矮小だ。

このブログもそうだ。

誤字脱字が多い。文章の展開がワンパターンで、いいことを言おうとして言葉だけが上滑りしているときもある。実に恥の多いことだ。

一生懸命自分なりに深淵に近づこうとしていながら、それは実は他人から見れば実に浅い考えだったり、見透かされていたりする。

そういうもろもろの拙さが目に付いて、私は、私が持っているものなどすべてくだらないゴミばかりのような気持ちになったりする。

そういう気持ちを乗り越えて、あるいは抱えながら、今創作で生きている人(特にフリーランスをしている人)は、今の自分の世界観を確立して、それを評価され収入を得て生きている。本当にすごいと思う。

自分が創造する世界観にお金を支払ってもらえる。

それはとてつもなく凄いことだ。存在が肯定される。自己肯定感を支える上で非常に効果的なワークスタイルでありながら、自分の魂を外界に触れさせることから、非常にメンタル面でハードだと思う。それに耐え抜いて自分を生きる姿は強く美しいと思う。

 

少なくとも、自分で卑下していいものじゃない。

そうなのだろう。

そういう「恥ずかしさ」に真正面から向き合うことが、「強さ」の一つの形だと思う。

私はまだ弱いんだな、と思う。

自分が何もできていないこととか、影響力がないこととか、生み出すもののクオリティが低いこととか、自分の力の無さを恥ずかしいと思っている。

精一杯やっているなら、恥ずかしいことなど無いはずなのに、進歩しているのだからそれは誇ってよいはずなのに、他と比べて卑下しがちだ。

 

鷲のように飛べたら
蟻が一歩一歩、歩いていることなど見えやしないだろう
でも、歩いているんだ 蟻はあるいているんだ
一歩一歩 喜びをかみしめながらっ
成長しろ、武蔵 それでも俺が勝つ
こいつらの為にも 俺が勝つ!!

『バガボンド』 第21巻 儂と蟻 より引用

 

『バガボンド』の吉岡伝七郎の言葉。

兄の吉岡清十郎や宮本武蔵のような天賦の才を持たず、愚直に真面目にやることしかできない伝七郎に、とても共感を感じる。

とびぬけた何かがあるわけではない。不器用で不格好。

しかし「平凡」という宿命を負っているからこそ苦しみや悲しみに寄り添うことができる。

吉岡道場のみなは、それをこそ愛していて、人の輪が集まる。

 

私に才能がないとは限らない。

才能が開花するかどうかは、明日か、10年先か、50年先か。

その日は、努力し続けない限り訪れない。

才能が有ったとしても、自ら枯らせてしまうのが「諦め」。

 

だから、できることは、できることをひとつひとつ増やしていくしかない。

そもそも才能なんていうものはな
自分で掘り起こしてつくり上げるものなんだよ
俺だって天才なんかじゃない

誰よりも必死に働き
階段を一つ一つ踏みしめてきただけだ
振り向いたら誰もついてきてない

怠けた連中は麓でこう呟く
「あいつは天才だから」

冗談じゃない

ゆとりで育ったのんびり屋どもが本当に嫌いだ

俺より時間も体力も感性もある奴が
何で俺より怠けるんだ

だったらくれよ

無駄遣いするんだったら俺にくれ
もっともっと作りたいものがあるんだ

俺にくれ

『リーガルハイ2』第7話より 宇都宮仁平(伊東四朗)の言葉

とりとめもないけど、私がやるべきことははっきりしている。

それは、自分の創作や活動など「できること」を磨き上げるということだ。

それなくして、何も開花しないし、状況は変わらない。

 

□承認を求めようとすることからの回復□

自分自身の承認と、ハイヤー・パワーの承認に頼り始めるとき、承認を求めること自体はOKなのだということを、わたしたちは理解し始めます。他人を操ることはしないで承認を求めるやり方を身につけます。他の人たちの褒め言葉を受け入れて、その褒め言葉が心からの物であることを信じて、率直に「ありがとう」といえるようになります。わたしたちは自分の欲望に焦点を合わせて、「イエス」と思っているとき「イエス」と、「ノー」と思っているとき「ノー」と言います。

適切でない承認の求め方から回復するにつれて、わたしたちは次のようになっていきます:

○自分の必要を認める
○自分自身がどう感じているかについて本当のことを言う
○自分自身に対して忠実になる
○自分と他人に対する信頼を築く

******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
60Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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https://aca-japan.org/docs/books.html

ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
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他人を操って、よく見られようとして、承認を得ようとしなくていい。

そして、承認を求めること自体は悪いことではない。

このことを私はよく忘れる。

他からの承認に目がくらんで、自分が今やるべきことが見えなくなる。

そして、承認欲求を見ていると苦しいから、見ないように目を瞑る。

そうやって否認している限り、どんどん肥大していくのに。

何度同じことを繰り返すのだろう、と辟易する。

しかし、私は私がACたるゆえんでもあるこの「承認を求めようとすること」を受け容れたいと思う。

【AC】STEP10に到達すると12ステップ・プログラムはライフワークになる

「自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。」

 

STEP8と9をすすめてきて、謝らなければならないひとについて思い悩むことが少なくなってきた。

罪と過ちを認めること、その謝罪について真摯に考え形にすることによって、可視化されて切り離して眺めることができるようになってくる。

楽になってくると同時に、他のことに目がいきやすくなる。

自分自身の心の動きよりも他人の行動が気になったり、自分には変えられないものに心を囚われたり。

最近の私は少し驕っているように思う。

 

ステップ1〜9を振り返ってみよう。

  1. 私たちはアディクションの影響に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
  2. 自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
  3. 私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
  4. 恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
  5. 神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
  6. こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
  7. 私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
  8. 私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
  9. その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。

引用;https://aca-japan.org/i/12steps.html

 

今までやってきたことを一度やっていればいいということではなかったのだ。

12ステップという新しい捉え方で世界を見て生きていくことを進めていこうとしているからこそ、私たちは繰り返し繰り返し棚卸しを繰り返して自分の考え方や生き方の癖を点検して、行動に移して行かなくてはならない。

理解したからすぐ生き方が変わるわけではない。

自転車を一度では乗りこなすことができないように。

何度も何度も転んでは起き上がり、トレーニングしなくてはならないものだったのだ。

私は今までステップを踏んできて、一度一巡すればいいと思っていた。それは大きな間違いだった。

 

STEP5と9;実践の重要性

棚卸しを実際に第三者に聞いてもらう5と9が特に重要だと感じる。

直接話せないこともあるかもしれないが、これこそOJTというか、自分の内的な変化を他の誰かに対して表出するという意味でとても重要なステップだと思う。

すなわち12ステップの実践である。

実際の自分の行動に反映して、反応の変化を実感する。

その経験により認知が補正されていき、STEP6・7で手放そうとしている性格の欠点(変えていきたい自分のとらえ方や考え方)を具体的に手放していくことが可能になっていく。

一度やったからといって回復するわけではないとは、結構衝撃だが、これには思い当たる節がある。

私は実際に行動を変えて、自分がいかに思い込みや被害妄想の中で生きていたかを実感してきたからだ。

 

謝罪に勇気を出して取り組んでみた。

自分の心が傷ついた時には相手に謝罪を求めてみた。

理解されないかもしれない自分の特性についてアサーティブに説明する努力をしてみた。

自分からは話しにくかったアルコール依存症や発達障害をオープンにする勇気を持ってみた。

 

全部、今までにはできなかったことで、12ステップに取り組んでから変えたこと。

それにより新しい結果を獲得した。理解してもらえないと思っていたことが受け入れられたり、謝罪を受け入れられたり。

逆に、信じて伝えて拒絶され、傷つくこともあった。

しかしそれらの実践と検証があって、12ステップで語られていることの真の意味や本質を、実感を伴って改めて捉え直すことができるようになった。

ステップを始めた頃よりも、内容を深く理解することにつながったと思う。

 

まとめ;12ステップがライフワークになるという生き方

慣れてくると、わかった気になる。

自分は回復していると思い込む。

もう大丈夫だと甘く見る。

そうして私は何度もスリップしてきた。

私は簡単に自分の無力さを忘れる。

コントロールできると思い込んで、巻き込み巻き込まれて失敗し、ふと気づくとまた蟻地獄のそこに堕ちている。

 

これで何度目だよ…と呆れて脱力する感覚。

自分にほとほと愛想が尽きる、あのイライラ感。

 

それらは今も変わらず、私のすぐそばにあるのだ。

いつも、いつでも、何度でも。棚卸しに向き合う。

それが唯一、苦々しい感覚をもたらす驕りを遠ざけて、謙虚に誠実に生きることを思い出させてくれる。

 

私はまだまだスタートラインに立ったばかりなのだと感じる。

そして、それはどれほどステップをやってきた人であっても変わらない。

皆、同じライフワークを愛する仲間なのだと思う。

12ステップが趣味だなんて、とても素敵ではないか。

【AC】私は誰にも愛されていないと感じる心理について

私は、自分のことを差し置いてでも、という献身的な愛にすごく憧れがあり、愛の深さを私に試されて、相手が試練や痛みに歪む顔にドキドキしたりします。

私の親は、私を「愛している」と言っていたし、たしかに愛していたのかもしれない。

けれどそれ以上に、彼らは自分自身の欲や価値観のほうが優っていて、無意識に優先してきたと感じます。

「いい子に育てて親として優れていたい」

「自分の人生の反省を子供でやり直ししたい」

というような欲求を優先して、私そのものを見ていませんでした。

彼らは「愛している」という言葉を隠れ蓑にしてコントロールしようとしました。

 

だから私は、誰かから愛についていくら言葉を尽くして言われても、うまく信用できないのだと思います。

身がちぎれるほどの痛みに耐えて大事にしてくれることに愛を実感するし、そうした献身的な愛に憧れを抱くんだな、と思います。

 

自分を振り返ると、他ならぬ私こそ、自分のことしか考えていなくて、自分のことだけで精一杯の状態だったことに、気づきます。

親と同じだった、相手を見ていなかった。

自分のために他人を使うことばかりに心を砕いてきたのです。

私こそ親と同じように自分しか見えていないから、他人の言葉を信じられなかったのだと思います。

だって、私のことしか見えていない私がいう「愛している」は、親と同じ嘘だから。自分がそうだから、他人のもそうだろう、としか想像できず、偽りだと考えるのです。

 

では、私の心は、100%利己的な私の欲望だけで構成される、卑しい塊なのだろうか?

というと、そうでもなくて、見ず知らずの道に迷って困っている人に小銭をあげたり、大好きな人にただ料理を作り一緒に食べたいと思ったりします。

全てあげるつもりで、自分の愛が受け取られなくても差し出す心を持っています。

 

だから、私が私に対する配慮に最も比重を置いたとしても、誰かを愛していないわけじゃなく、それがむしろ健全な状態なのではないでしょうか。

自分を打ち捨て相手のために身も心も差し出す献身は、愛というより異常で病的な依存状態からくるものなんじゃないか?

実際そういう献身は経験上長続きしなかったし、見返りを求めるようになってしまって、結局破綻してきました。

つまり、私が思い描いて憧れていた献身は愛ではなかったということです。妄想のなかの現実には存在しないものでした。

現実には存在しない陽炎を追いかけて、ありもしないモノを必死に探して「ない、ない、どこにもない!」と思って嘆いていたように思います。

 

末永く健全に他人を愛するためには、まず自分が自分の足でしっかりと立っていなければならない。

そのためには、自分を慈しみ愛でて心も体も健康であるように尊重しなくてはならない。

ということは、何をおいても私は私を一番に大事にしなくてはならないし、それでいいのです。

むしろ、それがいい。

それこそベストなんだと思います。

そう考えると、今まで接してきてくれた人たちの優しさや真心は、理想と比べるとあまりにも小さく感じたけれど、たしかに愛だったように思い返されます。

なぜなら、自分自身が掛け値なく今まで与えてきた好意や愛情と同じだから。

自分が他人に無理なく渡してきた愛情を自覚すると、小さくみえていた他人の同じような愛情を受け取れる。

結局人はみな自分が一番かわいくて、他人を自分以上に大事にすることはないのです。

だけど、そうでなくては本当に他人を愛することもできないのかも、と思ったりします。

 

私は自分自身が大事じゃない時期の方が長かったので、こんな自分より他人の幸せを優先するべきなのではないか、という感覚でした。

自分を蔑ろにすることで私は苦しんでいるという声なき声を上げていたのだろうと思うのですが、自分で自分を粗末に扱った結果、自分の存在価値はゴミ以下だと信じ込むようになりました。

己肯定感の低さが、そんな自分自身の大事さを小さく見せました。

他人がその人自身を私より大切にすることにショックを受けるのはこのためです。

大事な誰かが私よりその人自身を優先するのは、立場を替えると「私が、ゴミ以下だと思っている自分より、その人を大事にしない」ということであり、結論として『私の価値はその人にとってゴミ以下よりもゴミ』と判断されたことになります。そのような思考で絶望を感じていて、誰にも愛されていないと考えるのです。

私が思い描いていた愛は幻で、もっと身近にたくさんあったんじゃないかな、と思います。

当時は見えなかったし、受け取られなかったけど…。

と最近感じるという話でした。

【AC】自分を許せないから他人を許せない:Step8「傷つけた人」その⑦『会社の同僚』

私は新人のとき「仕事」だけが、社会と自分を繋げる唯一の命綱だった。

だから、仕事を命を賭してやるべきものだと考えていたし、他の何を犠牲にしても達成するべきものだと思ってきた。

 

私の狭い世界のなかでの正義

まさに毎日が仕事一辺倒であった。

寝ても覚めても仕事。プライベートはスキルアップのためにある時間でしかなかった。

楽しいことは何もなかった。

夜は酒でラリって現実逃避するだけだった。

そんな毎日を送っていた。決して幸せではなかった。

 

家庭を大事にしている先輩でSさんというひとがいた。

いつも「17:30が定時だから」と仕事もそこそこに帰っていった。

幸せそうに見えるSさんが憎かった。

同時に、私はSさんを見下していた。

「仕事も満足にできないで、何が家族だ?寝言は寝て言えよ。」

大真面目にそう思っていた。

取るに足らない、尊重する価値もない、「できないやつ」として見下していた。

先輩としての敬意を払わないばかりか、人としての価値も低いのでないがしろにしていいと思っていた。

それは、とんでもない思い違いだった、と今深く反省している。

 

当時私は終電で帰るか、帰れなければ寝袋で事務所に泊まった。

二日酔いで体調の悪い体を引きずり、執念でPCにかじりついていた。

眠れないことが増え、毎晩寝酒をあおり、ブラックアウトするまで飲んで気絶した。明けがたトイレで起きたときにワサビをチューブごと口にねじ込んで辛さの刺激で目を覚ましたりした。ほぼ狂っていたと思う。

そんな私にとって、定時に帰ることが、逆に狂気の沙汰だった。

 

私は仕事ができて承認欲求が満たされるから、そういう生活をしていた、というわけではない。むしろ逆だった。

生きていることに対する劣等感に押しつぶされそうだった。

学生から社会人になり、勉強とは違って仕事は自分ではうまくマネジメントできないことに悩んでいた。上司や同僚からはできないことを嗤いながらバカにされ続けた。そんな屈辱の新人時代を過ごしてきて、なかば強迫性障害に近い思考を獲得した。

仕事は完璧にしておかなくてはならないと思い込んでいた。

そうでなければ、コケにされバカにされる。

そうでなければ、必要がないと言われ、居場所がなくなる。

やりたいわけじゃない。やりたいわけがない。仕事なんて本当は大嫌いだ。働かなくてお金が入るなら絶対に働くものか。群れたくもない人間と群れ、言いたくないことを言い。そんな毎日、あんな拷問みたいな毎日を過ごしたいわけがない。

前向きに仕事をしているわけではなかった。否定されジャッジされるからだった。社会的に殺されるのが嫌で、ほんとうに嫌々やっていたのだ。

 

驚くべきことだが、そのことに当時は全く気づいていなかった。

 

なぜか?

「私は我慢している」ということも認識できていなかったからだった。

『相手も我慢するべき』という私の正義を押し付けていたことに気づいていなかった。

不公平だと思っていた。

私は死ぬほど嫌なことを「仕事だから」「結果を出さなければならないから」「そういうものだと言われて馬鹿にされるから」我慢してやっているのに、なんでそれに縛られずに大切なものを大切にして生きていける人がいるのか。憎んでいたし、納得できなかった。

 

自家製の勝手に定めたルール

しかし、それは、本当に我慢しなければならないことだったのだろうか?

 

仕事だったら、絶対にやらなければならない?

結果を出さないと存在を否定される?

完璧にやらなければ馬鹿にされる?

 

そうではない、と今では思う。

仕事をどの程度やるかは、雇用契約の条件を満たしている範囲なら、本当は労働者側で選べる。絶対にやらなくてはならないのでは、奴隷と同じだ。体ごと高値で買い取ってもらわなくては割に合わない。

結果を出さないと組織から評価はされないだろう。が、それを理由に、尊厳ある個人として生きていることを否定したり、今までの人生や努力を否定したりするのは、モラハラやパワハラだ。個人の尊厳を踏みにじる個人や組織、つまり相手に問題がある。

結果は努力と正の相関ではない。だから、結果が出ないのは努力不足とイコールとは限らない。様々な不確定要素が混在するこの世界で、たまたまその人のもとに訪れたものに過ぎない。結果だけで人を評価することそのものが、あいまいで人を測る指標とするにはあまりにも心もとない。つまり、そんな心もとない指標で人の価値は判断されない。だから結果が出せなくても生きていることを否定される筋合いはない。

完璧にやらないとバカにされる、という思い込みも、自分がそう思い込んでいるというだけだ。

他の人にはできなくても「私なら完璧にできる」「私ならコントロールできる」と思い込む傲慢で不遜な自分がそう見せている。できない他人をバカにしたり、できていない自分を責める心が生まれるのは、いつも自分の心の底からだ。

だから、たとえば私が誰かに馬鹿にされても、そのバカにしてきた相手が心に問題を抱えているだけ。コントロールを手放せていない人だから、そう見えているという相手の問題。

だから、これもバカにされたって自分が悪いのではなく、他人の見方が歪んでいるということが事実。

 

ほら、やっぱりそんなことはなかったよね。

 

つまり、私が信じてきた恐怖や焦りや不安は、全部幻だった。

勝手に私自身が、私自身を縛ってきたルール。自家製の勝手に定めたルール。

それに自分をあてはめ、他人をあてはめていたから苦しかったのだ。

これに気づいて、ホッとすると同時に、私は恥ずかしくて死にそうになっている。

 

まとめ:自分を許せないから他人を許せない

私は、当時私がとっていた、Sさんに対する態度を謝罪したい。

SさんにはSさんの人生観があり、大切にしたいものの順序があり、それは尊重するべきものだった。私のものさしで価値を図ることなど、傲慢で卑しいことだった。

自分がされて嫌だったことを、Sさんに対してやっていた。私はそんな弱い人間だった。

自分の思い込みで定めたルールで勝手に人を裁き、ジャッジして、Sさんを見くびったことは、Sさんの尊厳を傷つける行動に繋がったし、それは他でもない私自身を大切にしない行動だった、と深く反省している。

Sさんが好きなものや大切にしているものを鼻で笑ってバカにする権利は私にはなかった。

そうした態度を取る私に対して「お前偉そうなんだよ、ナメるのもいい加減にしろよ」と彼が怒ったのは、無理もないことだった。

申し訳なかった。すべては私の未熟さゆえの、世界の見方の歪みがあったと思う。

こうした見方ではなく、お互いに大切なものを尊重できる在り方であったなら、もっと快適で幸せな信頼関係が築けたのに、少なくとも私が手を差し伸べなかったことは間違いない。

 

同じことを繰り返したくない。

私は、12ステップ・プログラムに継続して取り組み続けることを通じて、自分の思い込みで定めたルールについてこれからも点検し続けていく。

私の報われなかった気持ちも大切にして、ちゃんと感じたいと思う。

自分の本当の気持ちを真っすぐ受け取らなければ、認知の歪みに気づくことは不可能だからだ。その勇気を持ちたいと思う。

向き合う勇気を持てるかどうかについて、私は無力であることを知っている。

これからも無力であることに変わりなく、私はそれをコントロールしようとせず、天にお任せしたい。しかるべき時に訪れるだろう、世界はそういう風にできている。

そのためしかるべき時を迎えるために必要な努力をすべてする、ということについて、私は誠心誠意取り組みたい。

そういう覚悟をもって、日々向き合い続けていきたい。

他人を許せない気持ちを抱えているときは、自分のルールで他人を縛っていないか点検する必要がある。