誰かに向けて上から目線で放った言葉は、だいたいブーメランみたいに自分に返ってくる。
中庸であることは難しい。正当性があると思い込んでいるときは特に。
相手を下に見るのは自分の価値を相対的に持ち上げる必要があるから。
それは自信の無さ・不安・恐れの裏返し。
弱い人ほど他人を責める。
— ワケあり人生チャンネル【依存症・発達障害・アダルトチルドレン 】 (@chiakiA4C) October 10, 2023
まぁ耳が痛い。
私のことだから当然なんだけど。
「親のせい」
「酒のせい」
「社会のせい」
と他責にして攻撃してきたのは、他ならぬ私だ。
親が自分の問題に真摯に向き合ってくれていれば、子どもたちはACにならずに済んだかもしれない。
この世に毒物である酒が存在しなければ、この世にアルコール依存症はなかったかもしれない。
この社会が善意と愛で構成されたまともな社会なら、生きづらさなどなかったかもしれない。
そんな「○○なら、○○かもしれない」が私のなかにはたくさんあった。
(私にとって)正しくない他の要因が悪い、と顔を真っ赤にして怨嗟の声を浴びせていた。
それで楽になったか、といえば、そうでもなかった。
誰かを何かを責めていれば「私は悪くない、私は被害者だ」と思えて、その瞬間は楽になれた気になる。
でも、結局どれだけ責めて悪いところをあげつらったところで、私はACでアルコール依存症で発達障害でこの社会では生きにくい性質を持っていることに変わりはない。
どれだけわめいても、結局はなんとかこの浮世を生きていくしかない。
責めたり断罪したりすることに時間と体力を使っている間、自分は今いる場所から少しも前に進んでいないことに気づいた。
もちろん、大切な時間だった。
自責に傾倒していた私の責任感は、それまでの反動もあって他責に一気に振り切れた時期があった。そんな極端な時期を経たからこそ、今バランスを取り戻したといえる。
だから、ダメだと言うつもりはない。無駄だとも思わない。そう考える時期が必要だった私だ。他人をハチャメチャに責める時期があるのは当たり前で、むしろ自己防衛のためには仕方ないと思う。
『弱い人ほど他人を責める。』なんて書いたけど、みんな弱くてもともとだからさ。
私は少なくとも、強くなかった。弱かったよ。というか今も弱いよ。
誰かや何かのせいにしたくなるときだって、生きてればいくらでもある。
そうやって責めて責めて、飽きるくらい他人の欠点や過失をあげつらって最終的に思ったのは、「でも、いつまでもこれやってても、どうしようもないよな」ということ。
私は結局「私はダメじゃない、他人に認められたい、社会に許されたい」と思っていただけだったんだよな。
だから依存症はダメな人がなる病気なんかじゃないと啓発したかったし、偏見を持たれることに堪えられないと感じた。私が間違ってるんじゃない、世の中が間違ってるんだ、と言いたかった。
でもそもそも、それは私が私のことを心から認めさえすれば、全て解決する、気持ちの問題だと気づいた。
他人がどう思おうと、社会が誤解していようと、突き詰めて考えれば、それは割とマジでどうでもいいことだった。
他人や社会の評価を気にすることが問題の本質であって、私の病巣だった。
自己存在証明と価値判断を他者の評価軸に委ねることが、私の不安や恐れの源泉だった。
他人がどれだけ私がダメ人間だと思っていても、私が私のありのままを肯定する限り、私を否定することはできない。
私の自己評価は私にしか決められない。私が私を否定しない限り、他人がどう思おうがそれは何の影響も及ぼせない。
嫌おうが好こうが、それは自由にしてもらえばいいことで、他人のなかの話。
社会がどう扱うかも、同じことだ。
精神に様々な病巣を抱えた人々が構成した、経済原理で動く虚ろな空間。それが「社会」。
その異空間のなかでの位置づけがどうであろうが、私そのものには何の影響もない。認められる必要もないし、差別をなくす必要もない。というかそこはコントロールできない。
構成員の大多数が病んでいて、彼らの現実逃避のために起こっている現象が「差別」や「偏見」であり、その現象をどう解釈するかは私次第だ。
「いやいや差別されて職業が限られたり、謂れのないことを言われて尊厳を傷つけられたり、経済的に損するでしょ?」と思うかもしれない。
そもそも病んだ社会にわざわざ適応することなくね?と思う。
受け容れてくれない、ちゃんと扱ってくれない社会とは程よく距離を置いて、現代社会に精神的にも金銭的にも依存しない在り方を模索し、分かり合える人たちを見つけて関係を創り、穏やかに暮らせばいいだけ。
私たちを認めさせよう、というのは、ヒエラルキー構造の社会で最下層以外になろう、というのに似ている。
私たちを認めさせても、社会はまた別のカテゴリをみつけてきて最下層をつくる。
経済で社会システムが回っている限り、勝ち負けと損得の原理で誰かが負け組になる。
社会とはそもそも破綻していて、壊れている。だからそのなかの椅子取りゲームには固執する必要がない。
椅子が欲しい人にはどうぞどうぞと譲って、死ぬまでゲームに明け暮れていてもらえばいい。
私たちはさっさとつまらない無意味なゲームから降りて、そんなことよりもっと大事なことに時間とエネルギーを使えばいい。
このように、事象をどう解釈するか、で世界の見え方は変わり、社会との関わり方は選べる。
そうなると、別に誰かを責めなくてもよくなる。何かのせいにしなくてもよくなる。
そもそも自分自身のなかで必要が無くなるから。
私が弱くて誰かや何かのせいにしなくては立っていられなかった時期があったように、ときには私を責める人もいるだろうし、自分のなかの正義を振りかざして断罪する人もいるだろう。
それは、当時自分自身の問題に向き合えなかった私の父母のようでもあり、酒や金なしでは回すことができないほど深い業をはらんだ社会のようでもある。
誰もが、どうしようもなく生きることに一生懸命で。
だからまぁ、そうなることもあるよね、しかたないよね、と思う。
私もそうだから。そうだったから。
誰もかれもが、いつかの私であり、これからの私。
だから私は誰も憎まなくていいし、誰も排除しなくていい。
誰かに向けて上から目線で放った言葉は、だいたいブーメランみたいに自分に返ってくる。
これから私に返ってくるブーメランは、どんな切れ味だろうか。
親しみを込めて受け止めたい。当時の私の弱さを抱き締めるように。
あんまり鋭いやつが返ってきたら、しゃがんで避けようと思う。