Step8に従い、私を傷つけやがった人をひとつひとつ、卸していきます。
要約:彼らは全員、いじめに加担した。私をバカにして、軽く扱った。私が困っていても見て見ぬふりをして助けなかった。(日和見達も同罪)
幼少期の私は変わった子供だった
私は幼稚園から小学校3年生ごろまでいじめられていました。
私は当時はわかりませんでしたが、発達障害(ADHD寄りのASD)なので、空気が読めませんでしたし、集団のなかにいることを嫌いました。
独りでできる遊びが好きで、砂場で山をつくったり、何の木の実かわからない実で色水をつくったり、割り箸をナイフで削って極限まで尖らせたり、空想の世界で物思いにふけったり。そういうことが好きな少年でした。
独りでいる変わった人間は、いつの時代も奇異の目で見られます。一般的な人は、異質な人間のことが恐ろしいので、排除しようとします。あるいは、異質であることを下にみたり、大人に間違っていると言われているので「攻撃してよい存在」と勘違いして攻撃したりします。
例にもれず、私もそのような迫害にあいました。
私には友達はいませんでした。クラスメイトも教師も全員、敵でした。
私をいじって遊ぼうとする。
それを見て見ぬふりをする。
無視して「いない人間」として扱うこともありました。
2人組をつくってください、という先生の言葉は、死の呪文と同じでした。
孤立からいじめへ
私は親がそうだったように、「嫌だ」ということは人を傷つける、と思いこんでいたので、嫌だという勇気がありませんでした。
辛くても限界まで我慢しようとしました。それが、いじめっ子を増長させました。
数人で手足を羽交い絞めにされ、和式トイレに顔を押し込められて拷問に近いいじめをされたこともありました。
つまり、こいつは傷つけてもいい存在だ、俺たちとは違うし何をやっても怒らないからいじめてもいい、と軽く見て、彼らは私を軽んじてバカにしたのでした。
私は私らしくいると、集団から理不尽な仕打ちを受けました。
教師などの管理者は正しく介入する能力がありませんでした。
困っている私を見て見ぬふりをしました。
「私が変わっているのが悪い」と言わんばかりの世界に絶望しました。
最終的には全員殺したいと思うほど憎みました。
私は何が哀しかったのか
私がそのままでいると誰にも受け入れてもらえないことが、とても悲しかったのだと思います。
なぜ私に冷たくするのだろう。なぜ私はそのままではいけないのだろう。みんなはそれでも許されているのに。
私だけが許されない理由は何なんだろう。私がしたいことを大人がみんな怖い顔をして中断させるのはなぜなんだろう。
そんな、悲しみに満ちた「なぜ」を抱えて独りで泣いているのが、私の幼少期でした。
私はこの頃から、理解されることを諦めました。
生存戦略を定めました。
要求に沿って、望む姿でいれば、少なくとも攻撃はされないことを学び、生き延びるべく模倣して「一般人」に擬態する、わたしなりの生存戦略。
私はこの頃から、自分らしく生きることをやめ、仮面をかぶるようになったと言えるでしょう。
そうすれば、少なくとも攻撃はされないし、異質な人間と認定されてあの冷たい対応を取られる心配もない。
それは元々の出発点は外的脅威からのディフェンスでありながら、主なニーズは求愛だったのだ、と今なら分かります。
結局、いじめっこに報復し鍛えた力を見せつけて暴力で黙らせたのですが、それは本当は望んでいなかったし、理想的な解決ではなかったのでしょう。
結局は己の力で解決するしかない、という思考回路を強化し、実力至上主義が正義であり唯一頼るべき原理原則だとインプットしただけでした。
本当は、傷ついたことを話し、それをきちんときいて謝ってくれたなら、許したいと思っていたかもしれません。
私は、そのような健全なやり取りをしてくれる人間関係に恵まれませんでした。
健全な人間関係を経験して手放したい
私は当時、そのままでは愛してもらえないから、愛される形を整えようとしました。
それは、当時私が生きていくためにやらなくてはならないことでした。
そして、今は大人になってから健全な人間関係を経験したことで、必要ないことだと理解しました。
だから、少しずつ手放していきます。
この「傷つけやがった人」で気づいたことは、私は
「ありのままの自分の存在を否定され軽視され受け容れてもらえなかったこと」
に傷ついたといえるでしょう。