【ジェンダー】暴力とパワーゲームに歪む男のジェンダーロール

女性にもあるように、男性にも「ジェンダーロール」があるということを、最近感じるので書いてみる。

ジェンダーロールとは?

性役割(せいやくわり、gender role)とは、その性別に、社会的に期待されている役割のことである。

例えば、「男だから、めそめそしない」「女だから、おしとやかにする」などの行動規範に従って行動するとき、その人物は性役割を演じているとされる。

この場合、特定の性に本人の好むと好まざるとを問わず、一定の役割を期待すると共に、その役割に応ずる準備や能力、資質、性向がない場合、不要なストレス、劣等感を当事者に持たせ、社会的に自分が不完全であり、不適応であるとの疎外感や差別感を持たせることになってしまう。

これは、女性に賃金労働上の成功のチャンスを与えないばかりか、男性にマッチョイズム(男性至上主義)のシンボルとして適合しない場合、その権威への落第者といった自己評価の低下をもたらすなど、さまざまな議論を投げかけるものでもある。

同時に、ステレオタイプな分類がされているため、性自認を考えるときに、自分を現す用語を並べることでその手助けになることもある。

性役割は、文化によって異なるものもあり、例えば近代日本では買い物は女性の仕事だと考えられていたが、アラブ文化圏や古代ギリシアでは男性の仕事であった。裁縫は女の仕事だと考える文化もあれば、男の仕事であると考える文化も無いわけではない。

(コミュニケーションについては、「コミュニケーション#コミュニケーションの男女差」を参照)

出所:Wikipedia

女性にとって性別が女だというだけで、炊事や洗濯をするのが当たり前だと言われたら違和感があるだろう。

なぜなら、人には得手不得手があるし、性別が役割を規定することは選択の自由を制限することだからだ。

女性だから力が弱いわけでもないし、おしとやかなわけでもないし、誰もがいい香りがするわけでもない。

これと同じことが、男性にも言える。

男性の「ジェンダーロール」

少し、この曲を聴いてほしい。

「強くなければならない」

「ぶつかり全力を尽くさなければならない」

「負けてはならない」

「立ち上がらなければならない」

「泣いていいのは条件付き」

「転んでもいいのは条件付き」

「やられたらやり返さなければならない」

これらのことが、「男なら」の枕詞で語られている。

私はこの歌にずいぶん励まされてきたし、はじめの一歩もウルトラマンネクサスもdoaも『英雄』という曲も好きである。それらを批判するつもりは一切ない。

しかし、ここから透けてくるジェンダーロールがある。

「守りたいものを守る」とか「話し合う」ためには、まず上記の条件を満たさなければならないのが、「男」という存在だということだ。

力が対等ではくては、暴力で制圧される男社会

女子もそうだったかもしれないが、男子の間では、気に入らないやつを陰で腹パンして外傷が目立たないように暴力を振るうなどは日常茶飯事である。

サンドバッグでいたくないなら、相手をサンドバッグにするしかない。

眼には目を、歯には歯を。なめられたら搾取されるだけだ。やるか、やられるか。強者にしか選択権はない。

雄の序列は、原始からパワーで決まる。

生まれた時からパワーゲームが世界のルールだ。

砂場で小突かれたら小突き返し、負けて泣いて親のもとに逃げ帰るようなら、「メソメソ泣いてないで一発二発やり返してこい!男だろうが!」と叱られた。

種の繁栄も、太古の昔から戦いのピラミッドの上位にいなければ不可能だった。

お猿さんのときから、群れに強い雄がいなければ、群れを維持できないから、雄は常に上下関係をはっきりさせてリーダーを決めてきた。

弱い雄は群れのなかで価値がないから子孫は残せない。群れのなかで勝ち上がり、群れ同士や外敵との戦いに勝たなければ、生きていけなかった。

現代でも展開されるパワーゲーム

婚活市場でもまさにパワーゲームが展開されており、大してその頃から違いはない。

男性は年収や職業で足切りされ、高い参加費を払わないと参加すらできない。

女性には、今のところそれは当てはまらない。年齢という別の足切りがあるが。

暴力は禁止されつつあるが、資本主義社会は結局は血で血を洗う競争社会である。

競争で勝たなくては年収は上位にはならない。

つまり、戦いのフィールドは違えど、他のオスに勝たなくては結婚すらできないのが現実だ。

それなのに『成果出そうレース』から降りろコールされても、降りることなどできない。降りたら無価値になり死を意味するからだ。

「いや、結局降りたら生きてる価値無くなるし、あんたら女性たちは真っ先に見捨てるっしょ…」というのが、ミサンドリーに対する男性たちの声なき叫びだ。

そうやって、力でマウントし合う社会。

強くなければ生き残れない社会。

それが今も脈々と続いている。

では暴力に頼るべきなのか?

答えはNOだ。

パワーゲームの世の中だからといって、強者が弱者に暴力を振るうのは仕方ない、とは1ナノミクロンも思っていない。

この文明社会においては、暴力は犯罪であり、法で裁くという『正しく知的な暴力装置』で応戦できる。

ただ、法はまだ喧嘩が下手なので、充分に機能しなかったりするから悩ましい。

私たちは、腕力や膂力に関係なく誰もが安心して対等に話ができる社会をつくるべく、法律という『正しく知的な暴力装置』を、誰もに平等に機能するよう興味関心を持ち、育んでいかなければならない。

ミサンドリーやミソジニーの憎しみに歪んだ主張は、法律を健やかに育むことを妨害していると思う。まるで、息子夫婦の子育てにあれやこれやと偏った経験で過干渉してくる姑のようである。

恨みや私怨によらず、フラットで想像力のあるジェンダーの議論が必要だ。

両方にとって幸せな社会に発展することを願うばかりである。

最後に、もちろん女性同士だって、お互いの歯を折り合うくらいの喧嘩をしたり、刺し殺そうとしたりする修羅場もあるだろうと思う。

「女性だってそういうことがないわけじゃない」という意見に対して、私はYESだと思う。

妻にいびきが煩いからとベッドから蹴り落とされたこともあるし、寝相が悪いからエルボーを落とされたこともあるので、安心してほしい。女性だって腕力があることは身をもって理解している。

ここで話しているのは、男性はみな、そういうバトルロワイヤルに一律に生まれたときからぶち込まれることが、性別としてちょっと特殊なんだな、という話だと理解してもらえれば幸いである。

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