『夫の扶養から抜け出したい』という漫画があって、結構気になっている。
読みたいが、まだ勇気が出ないでいる。男性である私は、結構メンタルがやられそうで。
男性はなぜ、扶養家族に対して「こっちは仕事して稼いできているんだから」という物の考え方や発言をしてしまうのだろうか?
その根本には、会社の奴隷として生きている男性の哀しいジェンダーロールが見え隠れしている気がする。
「夫の扶養から抜け出したい」は、「会社の奴隷から抜け出したい」という男性の想いと似ていると思ったので、ちょっとまとめてみる。
「会社」というファミリー
「お前は給料をどこからもらってんだよっていう話だよ」
これは実際、私が上司(♂)から言われた言葉だ。
会社から金をもらっている分際で、という圧力をかけ言論を封殺するための言葉である。
末端の話は重要視しない。聞かない。
社員は仕事をやって当たり前、と思う。
末端の社員を見くびっているのだ。
自由がない「会社」というファミリー。
経済的な主導権を握っているからという理由で、横柄な態度をとるという点において、扶養家族にでかい顔をする亭主のそれと非常に似通っている。
社員の副業禁止は、妻の交際範囲の制限に近い。
事前に申請しなきゃ必要経費はもらえないのは、家計に必要なお金を定額しかもらえないのに近い。
雇用と結婚は違う
勘違いしてはいけないのが、婚姻関係と雇用関係は根本的に異なるということである。
結婚は雇用契約ではないし商業取引ではない。
つまり、配偶者は召使いではない。
そこは勘違いしてはいけない。
日本国憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定している。
同等の権利を有する2名が合意のもと形成するのが婚姻関係である。
その意味でやはり、稼いでいる側が稼いでいない側に、会社と社員のような雇用関係に近い要求や価値観を押し付けることは、間違っている。
同等の権利を有する以上、どちらが稼いでいるかは判断材料にならないし、共通の財産である給料はふたりの物である。それを片方がコントロールして権利を不当に侵害するのは、家庭内のパワハラであり、モラハラである。
奴隷のような社員生活で男性のメンタリティが歪んでいる可能性
社員もまた、召使いではない。
賃金と引き換えに労働や己の能力を提供する、対等な契約者としての矜持を持っていいはずだが、雇用関係の解消という切り札を相手に握られていると考えているため、会社に対して顔色を窺い、卑屈にへりくだることが一般化している。
奴隷と社員の違いは、本に例えると分かりやすい。
Aさん(雇用主)が「好きな本を読む」という目的を達成する場合、2通りの方法がある。
奴隷は、本の購入。
一度購入したら、いつ読んでもいいし、破ってお尻を拭くのに使ってもいいし、燃やしてもいい。つまり、持ち主の自由。
つまり、人で言えば、深夜までこき使ってもいいし、目的以外の使い方をしてもいいし、殺してもいい、ということだ。要は、雇用主のおもちゃとなるということ。
社員は、本のレンタル。
レンタルの費用を払っている間は「本を読む」ということについて許されているが、期間は決まっているし、目的以外のことに使ったり、意図せずとも傷つけた場合、元通りになるために補償しなくてはならない。
つまり、人で言えば、雇用契約に基づいた適切な労働以外は提供することはなくて当然だし、メンタルもフィジカルも元気100%の状態で持ち主である私たちに、私たち自身を返してもらわないといけない。
ここから言えることは、私たちはあくまで私たちのものであり、雇用関係だからと言って魂を売り渡す必要も、人生を損なってまで尽くす必要も全くないのである。
それなのに、男性は、会社というファミリーへの献身をやめられない。
もはや、共依存関係にあるからだ。
「私はこれだけ会社に尽くしているんだから」
「家族を蔑ろにしてまで仕事に打ち込んでいるのだから」
仕事人として、プロとして私は評価されるべきだ、という考えなのである。
私は、あくまで仕事はアウトプットで評価されるべきであり、それまでに自分を押し殺して他人を気遣ったというような自己犠牲を勘案すべきではないと思っている。
なぜなら、自己犠牲を払うことを肯定する構造を生み出すからだ。
そしてまさに、これは会社で暗黙の了解としてルール化されており、そのような自己犠牲と献身こそ、組織人としての美徳であり品格だと勘違いしている人間が多い。
組織の駒として自分を殺し、任務を完遂する。そういう生き方を推奨してきた歴史がある。
男性は、このような歪んだ虐げられ方というか、絶対服従を社会から当たり前と思い込まされている。
ゆえに偏った思考パターンと行動パターンを獲得してしまったのかもしれない。
「本当はしたくないのに」という本心が家庭でにじみ出る
男性だって、おそらく本心では、奴隷でいたいわけがない。
なのに、それを当たり前だと思っているから、「本当はしたくない」という気持ちになかなか気づけない。
そして鬱屈した思いは、家庭で歪んだ形で妻や子に対してにじみ出るのである。
「こんなに我慢して仕事しているのに」
「家族のために俺はこんなに頑張っているのに」
という気持ちはわからなくはない。
しかし、考えてみてほしい。
たとえば趣味。自分でやりたくて納得してやっていることなら、誰に何をほめられなくとも、損したとしても、目標に向かって邁進している自分を誇れるものだ。
もしそうでないのなら、実はやりたくないことを誰かのせいにしてやっている。病んでいる。
我慢して働くことを選択しているのは誰か。
家族のために頑張ることを選択したのも誰か。
それが「~しなくてはならないから」という義務感でやっているとしたら、一度立ち止まって考えてみるほうがいい。
それは本当はやりたくないことで、やらなくていいことかもしれない。
そこまで我慢して頑張らなくても、共働きで無理せずやっていけるライフスタイルがあるかもしれない。
家族のために最も必要なことは、お金ではなくて、あなたの健康と笑顔と、家族が一緒に過ごせる時間かもしれない。
そういう自分の幸せを、何も考えずにステレオタイプな社会的価値にあてはめて生きていると、本当に大事なものは、いつの間にかなくなっている。
そうなっては遅い。
いまこそ、男性は自分のための自分の人生に、真正面から向き合うべきときなのではないだろうか。