他人を見下さないって難しいな、と思う。
私の「私は正しい」という思い込みは根強い。
なんか反省した。
対等でアサーティブなコミュニケーションは簡単じゃないなぁ、と常々感じる。
「正しい」「間違い」はなく、ただそれぞれがあるようにあるだけなのに、正しさで白黒つけてしまう自分がいる。
妻はそのバランス感覚がすばらしく、白黒つけずに「そういう考え方なんだね」とある程度聞き流しながら上手に会話をさばいていると感じる。
それが、私にはまだまだできないんだよなぁ。
他人が、自分の中では一度検討し解決済みの問題を抱えていたりすると「なんだ、まだそんなところにいるのか」と、見下す気持ちがわいてくる。
他人が、自分と異なる意見を持っていると、自分が正しいという無意識の大前提にのっとり他人の意見は「誤り」であると断定し、なぜそんな間違いをするのかという原因分析的な思考回路でその人の発言を聞いていることがある。
自分が正しいかどうかなんてわからないのに、実に傲慢なことだ。
あくまでも「私としてはこう思う」というだけで、正しさなんてどこにもないし、何の保証もありはしない。しかし、私は自分が考えたことがこの世で一番正しいと思う節がある。
こんな気持ちを持っていたら、アサーティブなど程遠い。
会話する前から対等ではない。姿勢が対等でないと、相手は話始められない。私の話も相手の心には届かない。
変えられないものを受け容れる落ち着き、変えられるものと見極める賢さがまだ甘いんだろうな、と思う。つまり、私の課題だ。
相手はそう思う、私はそう思わない、ただそれだけで、そこに上下はない。
やりたい人はやればよく、やりたくない人はやらなければいい。
たとえば会社や組織なんかでは、組織運営の観点で方向性を統一したがるので、やりたくないからやらない、では軋轢が生じるケースが多い。
その場合は、取り入れるにしろ「ここまではやれる」という範囲で良いし、逆に言えば「ここまでしかできない」ということを率直に伝える必要がある。
要は、自分の判断や決定を捻じ曲げられるのではないか、という恐れを抱いているから、見下して相手という脅威を矮小化したがる。
これは、実際の経験が影響している。
幼少期は親という権威に自分の判断や決定を軽んじられ、敷かれたレールの正当性に反駁できず従わざるを得なかった。それによって、私は多くを失い、大きな怒りを抱えることになった。
成人してからは会社や上司という階級構造に取り込まれ、巧みに会議という場で合意を取り付けられ、やりたくもないことを一生懸命やる羽目になり、苦しんだ。
その苦々しい体験たちが、私に警告を発するんだろう。
「気をつけろ!ぼーっとしているとまた正しさを振りかざしてやり込められるぞ」と。
相手に私の素直な気持ちを騙され変えられてしまう、という恐れと不安。
私はとことん、他人の思い通りに動かされるのが大嫌いだ。
私が納得したうえで方向性が同じだから一緒にやろう、ならいいが、納得を置き去りにして力関係や上下関係や労使関係でやれと言われると、絶対にやらない。というかやろうと思ってもやれない。酒の力を借りて頭をラリらせて無理やりやった結果、精神疾患のデパートみたいになったから、もう二度とやらない。
やりたくなくてもやるのが大人、という考え方を耳にしたことがあるが、それは奴隷としての最適化であって、大人でも何でもない、と私は思う。
そうやって自分の気持ちを殺して生きるのが大人なら、大人になんてならないほうが正解だ。
私は、私の意志で、私の納得するように生きたい。
そうでない生き方がどんな末路をたどるか、経験してきたからだ。そのせいで一度死んでいる。もう一度拾った命で第2の人生を歩んでいるのに、なんで同じ死に方せにゃならんのだ。絶対にヤダ。
とにかく人に使われるのは向いてなさすぎる。サラリーマンなんて、自分でもよくやっていると思う。
まぁ、そもそも集団で行動のベクトルを揃えようとするから軋轢が生じるんだけどなぁ。
そもそもが組織化すること自体不自然で、ストレスがかかるもので、人と関わらなければ何かを成し遂げることができないこの世の摂理を呪いたくもなる。
しかし、生きとし生けるものすべてが、単独では存在しえず、うまいこと間を取って手と手を取り合って生きていかなくてはならない。それは存在そのものを通じて「異なる意見も自分の意見と同様の重みをもつ現実」を顕在化していると思う。
折り合いをつけて、心がいつも真ん中で、相手も自分もまるっと受け容れて。
どこに偏るでもなく、こだわりすぎるでもなく、でも納得して穏やかにいられる。
そんなふうに自分をポジショニングしていけたらいいな、と願う。
相手は変えられない。相手が私を「コントロールしよう」とすることも変えられない。相手の課題だから私の範疇を超えている。
私にできることは、Noと伝えることと、代替案を提示すること。できることとできないことを率直に丁寧に伝えること。
相手が相手らしく在っていいように、私は私らしくある権利があり、道を違えたとしても誰も悪くはなく、どちらが正しいのでもない。
運よく同じ方向を目指していけるとしたらそれは素晴らしいことだし、そうでなくてもまたしかたのないこと。
この辺りはゲシュタルトの祈りに似ている。
I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.
わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことだ。「ゲシュタルトの祈り」
そのためにも、サラリーマンは良い環境ではないかもしれん。
常に金、金、金。
雇う側は金で圧力をかけて雇われる側に言うことを聞かせようとする。
会社という組織では、アサーティブは無理だと思う。
話す相手がすでに上から来ていてアサーティブとは根本的に程遠いのに、こちらだけアサーティブを貫くには無理がある。アサーティブでいない権利も、私たちはそれぞれが持っている。
私は私ができる時だけ、できる相手だけにアサーティブでいて、他とは距離を取るしかない。
つまり私にとっては、「会社」というコミュニティーにはあまり関わらないのが一番だ。
まあ、資本主義社会では、常に金の呪いにつきまとわれるので、この社会そのものに向いていないともいえる。いえるけど、そういってしまうともう死ぬしかなくなるから言わない。
できるだけ影響が少なくなるように、また、お金から距離を取って生活できるように、独立の準備に勤しもうと思う。