【神経発達症】この社会を生きることの難しさ

私は人にとても興味が薄いらしい。

ごく親しい人(家族)以外の人のことをすぐに忘れるし、知りたいともあまり思わない。

顔も名前も「そんな人いたっけなぁ」という感じで、うまく思い出せない。

別に薄情なわけではないと自負しているが、他の人々のように深く知りたいとも関わりたいとも思わないのだ。

ASD・ADHDの併存だからだろうか。

私は本当はどう考えているのだろうか。

仕事に関する考察

たとえば、仕事。

顧客のことを知るために、チームの他の優秀な営業は、あらゆる手を尽くす。

SNSやネットからストーカーのように調べ上げるのは当たり前で、家族構成や誰と親しいか、何に興味があって、どういう時間帯が一番余裕があるのかなど、あらゆることを知ろうとする。

正直ドン引きする。

相手に時間を割いてもらうために、自社の製品を売り込むために、一生懸命だ。

お金が欲しい、第三者からの評価を得たい、そういった利己的なモチベーションを基盤としているのかもしれないが、知ろう・把握しようというものすごい熱意を感じる。

そんな熱意は私には持てそうにない。

お金は必要最低限あればいいし、他者評価とは水物で「変えられないもの」なので、コントロールできるように思えても、それは幻想だと私は思う。

コントロール欲求と物欲の無意味さは、仏教でも古典哲学でも古くから語られている。それらは人生の最優先事項ではない。人生とは、いかに自分らしく与えられた時間を感謝して過ごすか、に尽きる。

一種のゲームであり、楽しめる人は楽しみ、楽しめない人がいてもそれは不自然ではないはずだ。

しかし、この世の中は資本主義経済社会なので、定量的かつ金銭的なメリットに基づいて人々は行動する。そういう社会構造だからで、人そのものが性悪なのではない。システムが合理主義と功利主義に立脚しているのであれば、そうなるのはしかたない。

が、この金儲けゲームを楽しめない人は、社会の輪から自然とはじかれてしまう。

上司がこの間言っていた言葉でとても印象的なものがある。

「自分ひとりでできることは限られている。いかに他人との繋がりをもつか、それによって成せる仕事の大きさは変わる。」

なるほど。

前半には同意する。

ひとりでできることは限られている。人間ができることには限界がある。個体の能力値もばらつきがあり、生まれつき平等ではない。それはそうだ。

だが、後半には首をひねった。

他人との繋がりを持つことによって、リソースが増える。だからできることの幅が広がる。そう考えるのは、少し傲慢ではないだろうか。

それは、自分が望むように他人が役立ってくれるから、意図している成果を創出できる、という発想だが、私はそれはコントロールできないものをコントロールできると妄信しているだけのように思う。

他人との本物の「繋がり」というのは、利害関係ではないのではないだろうか。

愛による「繋がり」が本物だと私は思う。

利用できて得をするから繋がりがあったほうがいいという考え方に、気持ちがとても萎える。

でもそうか、本当に人生を賭してでも成し遂げたい事があるなら、どんなものだろうと誰であろうと頼るのかもしれない。

それって、なんなんだろう?

経済活動と社会に関する考察

私は今売っている製品に愛着がほとんどない。エンドユーザーに届こうと届かなかろうと、大差はないと思っている。

実際そうだ。産業構造が根本的に腐敗しているので、本来公に資するべき収入体系の生命関連産業にもかかわらず、株式会社の形態をとっている。

そのせいで、売り上げを伸ばし続けて利益を生み出し続けないといけないという株主資本主義的な強迫に近い圧力を、ステイクホルダーに与え続けている。

そうなると、本当に必要かどうかわからない人にまでごり押しして売ることになる。そこに歪みが生じ、煩悩と苦痛が発生する。

しかも、本当に必要かどうかを判断するのは、こちらではなく顧客だ。顧客の自由意思が第一で、私たち営業ができるのはその一助になるかもしれない手を差し伸べることだけだ。

手を取るかどうかは、相手次第。意思決定は相手にゆだねるべきだ。

もしも手を取らないのなら、それはしかたのないことだし、それは営業のせいではない。

「伝える」と「伝わる」は違うというが、それは双方がアサーティブにコミュニケーションをとる意欲と準備ができているかどうかという話で、必ずしも伝える側だけの問題ではない。

受け取る側に準備ができていない、その気がない、それは相手の課題で、課題の分離でいうと影響できる範囲を超えている。

意思疎通の齟齬を自責とするのは、行き過ぎた自己責任感であり、アダルトチルドレンの概念でいうイネイブリングにつながる危険性をはらんでいる。

こちらが愛情をもって差し伸べたものを受け取らなくても、それはしかたのないことだと受け容れて、執着しないことが最も理想的な心の在り方だと私は思っている。

だとすると、会う気のない顧客に時間をもらうためにあれこれと時間を割くことは、私にとっては余剰分の愛で行うことような優先順位の低いことで、熱心にやるべきことではない。

物質的なあらゆるものは、必要最低限あれば本来はそれでよい。

人間はどうせ死ぬのだから、どれだけ資産を増やしどれだけたくさんのものを所有したように思えても、ゆくゆくはあらゆるすべてを手放すことになるからだ。

すべては今この世を生きている魂が借りたもの。天にほんの一時だけ預けられた貸与物。それが多いか少ないかで人間の価値は測れない。人間はだれもがどんぐりの背比べで、たまたま与えられたものが違っただけ、器が違っただけ。

だから、現在取り扱っている製品だけでなく、他のどんな製品でも、私はそこまで愛着を持たないと思う。

それが金銭と交換に提供された人にとって、物質的な豊かさを一時的に与える可能性があったとしても、それは本質的にその人に役立ったとは言えないからだ。

その人がその人らしく生きるために必要なのは、お金で買えるものではなく、その人が自然に心から感じる命への感謝。それが真の豊かさだ。内在的なものであるがゆえに、お金では買えない。

しかもその人のなかにすでに充分備わっているもので、感じる力を持っていて、きっかけは天によって用意されている。

だから他人が意図的に何かを施す必要は誰にもどこにもなく、あるがままに在れば、それが最も良い社会貢献だと言える。

だとすると、私は商売(あらゆる経済活動)にまったく価値を見出せない。

マネーゲームというただのゲームで、それ以上でもそれ以下でもない。暇つぶしにするためのものだ。

しかし、コントロール欲求に支配された人々が政を行うがゆえに、計算可能性が必要で、そのための支配システムとして資本主義経済を導入し、人々をゲームに強制的に組み込むようプログラムした。

今までもこれからも永続的に物質的に金銭的に豊かに過ごせるよう一部の人々の利益のために生み出されたのが、今の社会だ。そりゃあ、ゲームマスターはすべてを掌握した気分で実に愉快だろうが、使われるほうの我々プレイヤーが病むのは当然だ。

だから精神疾患があるし、ルサンチマンがあるし、自死や他殺がある。現代社会を生きる多くの人々を苦しめ死に至らしめるのは社会そのものだと思う。

在り方に関する考察

だから、経済システムからいかに離脱し、ゲームから降りるかが、最も建設的な選択ではないだろうか。

すでにそういった真理に気づいた人々は、自分たちで田畑を耕し、オフグリットを確立すべく動き出している。実に賢い人たちだと思う。

盲目的に現在の価値観と社会システムに振り回され、人間らしさを忘れたまま人生を浪費していく人は、一生懸命死に急いでいるようなものだ。

ビジネスに偽りの価値を見出し、それに傾注するのは、まさにそんな生き様だと思う。

私はそこから一刻も早く脱したがっているのか。

そうか。

それこそ一人ではできないので、他人との繋がりとやらが必要になってくるのだろう。

たしかに、私は今立ちすくんでいる。

この社会で生きるために家族を支えなくてはならない、そのためにやりたくもない仕事に一日の大半を捧げ、虚ろな目をしている。よくない。

しかし、勇気をもって助けを求め、自分が配分できる限りの愛を与える以外に、できることはないように思う。

それこそ、そうあれかしと願い、それが本当にあるべき姿なら、おのずと縁は紡がれていくはずだ。依存症とアダルトチルドレンを通じて、それは体感的に理解している。すべては、意図しなくともおのずとすべて与えられる。気づくか気づかないか、というだけ。

私は、生かされている今の状況と、その状況をつくってくれている顧客に、まずは感謝を届けたいと思う。

それは、私が届けたいものだ。選んで使ってくださっている稀有な方々に、ひとりひとりありがとうを伝えることは、私が心から望んでいてやりたいことだ。

まずはそれでいい気がしてきたぞ。

それなら、他人にも会いたいと思える。感謝を受け取り、私という存在に求めることがあって、私にできることなら、応えたいと思う。

他人とはそういうやり取りをしていきたい。

そういう繋がりでも、私は同じように顔も名前も忘れてしまうだろうか。

実の親ですら生きていても死んでいてもどうでもいいと思う私が、生きていてほしい、かけがえがない、と感じるだろうか。

それを実験してみようと思う。それが私が私らしく生きていく道につながっているはずだ。

遠回りに見えて、実はそれが最短距離だった、ということは、何度も経験してきただろう?信じて、もう少しやってみよう。

感謝

とりとめのないこんな文章を最後まで読んでくれた、そこのあなた。

あなたにも、ありがとう、と言いたい。

存在してくれて、読んでくれて、ありがとう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする