【発達障害】集団でいることは、とてもストレスだという話

私はとにかく、複数人で行動を共にするのが苦手だ。

たとえば、レストラン。

自分がA定食を頼んだとしよう。

一緒に来た人が、B定食を頼んだとしよう。

私は、A定食のコスパと今食べたいものを総合的に勘案して、ベストの選択としてA定食を選んでいるので、A定食を100%摂取することを前提として行動を組み立てているのである。

しかし、往々にして、一緒に来た人は、「それ一口ちょうだいよ」という。

それにより、私の計画は崩れる。

B定食を食べることを想定しなくてはならない。

そして、A定食のおかずが減ることを想定しなくてはならない。

となると、私はA定食ではなくて、C定食を選んで、相手にあげることを加味したうえで満足が最大化するように選択を変えなくてはならない。

それが、ものすごくストレスなのである。

A定食を食べたいなら、A定食を頼めばいいし、B定食を選んだなら、B定食を食べることに徹してくれればいいのだが、なぜか定型発達というか他の人は、他人が頼んだ物を欲しがる。

それなら、たくさん食べられるようトレーニングをして、A定食とB定食を両方食べられるようにすればいいのに、といつも思う。

遠足のお菓子についても同様である。

要りもしないお菓子を、バスのなかでまわされて、自分のお菓子を分けるように要求されるのが、本当に嫌いだった。

特に私は友達などいなかったので、なぜ顔見知りの他人に選びに選び抜いたお菓子を与えなくてはいけないのか、はなはだ疑問だった。

限られた予算のなかで、満足度が最大化するように厳選されたお菓子たち。それらは、私が食べるために準備されたものだ。その他の有象無象の胃袋におさめるためにあるのではない。

私は、しぶしぶお気に入りをあげるよりは、どうでもいい食べたくないもので、低予算かつ大量にあるものを、ひとつは選ぶようにして、お菓子を他人に見せないことで、うまく対策を講じてきた。

その「私としてはどうでもいいお菓子」をトレード用の生贄とした。有象無象たちの要求があれば提供し、自分のお菓子を守る。他の私のためのお菓子を見せさえしなければ、「あ、それおいしそう」などと言われて略奪されることが防げる。

その「私としてはどうでもいいお菓子」を買うために予算は削られるが、致し方ない。背に腹は代えられない。

同じことを何回も言わないといけなかったり、他人がしゃべり終わるタイミングを見計らって会話に入るのも、とてもストレスだ。

大縄跳びのようだ。

皆がタイミングよく飛んでいくのに、自分はうまく入れない。タイミングが掴めない。タイミングを見計らっている間に会話は終了する。

そういうことが起こりまくる雑談は、全く楽しくない。

ディベートは美しい。ちゃんとターン制になっていて、主張-反論-反証と筋が通っている。実に合理的だ。会話もそのようであってほしいが、そうはいかない。

海外の人が、お互いに話を聞かず同時に喋るシーンは、不快極まりない。

自分の話の方が相手の話より重要だと思っているから、そういう失礼なことをするのだ。はらわたが煮えくりかえる。そんな人とは話す価値がない。

集団行動は、だいたいすべてにおいて、そういう厄介さがつきまとうのである。

行き先を決めるにしても、意見を求めなくてはならない。合理的でない意見が出た場合、議論するのに要する時間がもったいない。感情的になり、説得が失敗する場合もある。そもそも、独りで行動するときとは、まったく別の考え方で臨まなくてはならない。

個人の利益の最大化ではなく、集団の利益の最大化を主たる目的にしなくてはならない。

私も驚いたのだが、こと日本において、多くの集団が求めているものは、実は達成すべき目的ではない。その「和」が保たれるかどうかなのである。

不可解極まりないと思い、私は提案してきた。

集団が最も利益を享受できる最善の選択ができるよう、忖度せず、空気を読まず、議論を尽くした。

結果、煙たい奴として集団から排除され迫害された。

彼らが求めていたのは、効率と合理性と利益ではなく、誰も傷つかないことなのだった。

であるならば、私のような空気が読めない人は最も毒である。

かくして、私は独りが最も快適でストレスが少ない、ということを今までの人生で経験から学んできたのである。

大勢の人と一緒にいたい、と願う人の想いが、私には想像しにくい。

想像しただけで蕁麻疹が出そうなほど、ストレスが目に見えていて、恐ろしくすらある。

集団で行動することは、擦り減る。自分の心が磨り減る。

だから、私は独りが好きだ。

これは、意地を張っているのではなく、本当にそうなのだと思う。

迫害されるのがつらかったし、違うことで他人に馬鹿にされたり認めてもらえなかったりすることがとてもつらかった。幼少期は漆黒の闇であった。

しかし、他人に認められることも、社会的な地位も、何もかも蜃気楼であり、さして気にしなくてもいいことで、最も重要なことは自分らしく生きる事だったのだ、ということを私は知った。

そうなると、他人の機嫌を取ることもしなくていいし、自分が変わっていて他人と相いれなくても、ある程度社会的に共存できていれば私がどれだけ人間嫌いだろうと大して問題ではない、ということになる。

私の定食の話も、遠足のお菓子の話も、「悪いこと」ではなかった。それは誰も教えてくれなかったことだった。

私は、そういうすこし変わったところがある。

でも、それでもいいと思えるようになってから、苛立ちやストレスは少なくなった。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする