アルコール依存症。
そう聞いて、みなさんはどんな印象を持つだろうか。
だらしない?
人生負け組?
ダメ人間?
「私はアルコール依存症です。」
私がこうやって病気のことを知らない人に打ち明けると、反応は様々だ。
「まずいことを聞いちゃったな」と慌てて話題を変える人。
「へーそうなんだ」と露骨に態度が変わる人。
「あれってどんな病気なの?」と素直に聞いてくる人。
その人のなかに『アルコール依存症』のイメージがあり、そのイメージがその人のなかの私のパーソナリティに反映される。
各々が持つイメージが様々だから、反応は聞いた人によって異なるのだろう。
基本的に依存症という病気のイメージは偏見と誤解にあふれている。
マスメディアが作り上げたマイナスイメージに引っ張られていることが多い。
国民にとって良くない法案を閣議決定をするとき、国民に騒がれたくないので、覚せい剤や大麻などの薬物を使用した芸能人逮捕のニュースを報道する。いわゆるスピン。知る人ぞ知るお決まりのパターン。
権力者側の都合で情報は歪められる。現代社会の常だ。
「覚せい剤」という単語を聞くと、多くの人は反社会的なイメージをもつのではないだろうか。
実は敗戦当時、覚せい剤であるヒロポンやゼドリンは大手をふるって市販されていた。そんなことは教科書に載ってないし学校では勉強しないからほとんどの人が知らない。製薬会社が販売するのを政府は大っぴらに認めていた。帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)をごまかすのにちょうどよかったから。
昔は合法で巷にあふれていた。今使うと違法だからと袋叩きにされる。
確かにアンフェタミンは依存性があるしその当時乱用がかなり問題になった。
しかし、今合法薬物として国内に出回っているアルコール(酒)はどうだろう。
アルコールは自分と他人に対する害が全ての薬物のなかでNo.1の最悪の薬物で、依存性があり、乱用が問題になっている。
けれど、アルコール(酒)は違法にならない。タバコ程度の害しかない大麻は違法なのに。不思議だよねぇ。
答えは、酒もたばこもたくさん課税できて政府が儲かる産業だから。
違法か合法かは、薬物の危険性とは相関しない。
法律はルールだけど絶対に正しいわけじゃない。必ずしも実態に沿って善意で定められているわけじゃない。
だから、違法なものを使ったからといって、その人の人間性がダメなわけがない。たまたまその人にとってどうしても必要だったものが、社会のルール上違法っていう扱いだっただけ。
そういうことを考えない人は「とにかく違法だからダメ」「違法なものを使う人はダメな人」と思ってイメージで他人をジャッジする。
正直言って、そういう人はたいしたことないなと思う。あんまり深く物事を考えない、言われたことを疑いもしない、自分が間違っているかもしれないという謙虚な内省を行わない。
もちろん、情報に触れる機会がないと理解する機会もないので、運もあるだろう。
でも、本当に賢い人は「本当にダメなのかな?」「なんでダメなのかな?」「本当は別の理由があるんじゃないかな?」と裏の裏まで考えて、自分で能動的に調べる。
そういう人はちゃんと情報にたどり着く。背景を知ろうとする。
だから誰かがコントロールしようとして流している恣意的な情報に左右されにくい。
このコロナ茶番ではっきりしたよね、その辺は。
わかる人にはわかるっていうこと。
アルコールについてもそう。
酒を飲んだときにその人の本性が現れるとか、飲み方がだらしないのはダメな人間だからだとか、偉そうに言う人がいるけど、本当によく調べて自分の頭で考えていれば、そんなふうに誤解したりしない。
知らないし、知らないかもしれないと調べることもない人が、偏見をもつ。
つまり依存症に対する偏見とは、当事者が抱える問題ではなく、非当事者が抱える課題であり問題だ。
偏見を持たれるからといって、当事者である私は特に気にしない。
「よく知らない人が、いい加減なことを言っているなぁ、知る機会がなかったんだなぁ、かわいそうに」と思うだけだ。
私が非当事者に情報を手渡したとして、知りたいと率直に思って聞いてくれる人は理解してくれるし、逆に聞く気がない人は全然理解できない。冒頭にある通り、反応は様々で、それは受け手の知能にかかっている。知能というか「私を本当に理解しようとしているかどうか」にかかっている。
いくら「本当はこういう病気なんです」と声を大にして発信したとしても、相手に受け取る気がなければ伝わらない。
詰め込み教育ばかりを施されてきたこの現代社会というのは、残念ながらそういう消極的な情報の受け手の集合体なので、社会を変えるというのはほぼ困難と言っていい。
変えられないものを「なんで変わらないんだ、偏見をもたれて苦しい」と嘆いていても、しかたがないよなぁ、と思う。
そりゃ理解されなくて悲しい気持ちになることもあるけど、それはもうしょうがないじゃん。だって相手が理解できないし理解する気がないんだもの。
変えられないものを受け容れる落ち着きをもち、変えられるものを変えていく勇気を持つほうが建設的。
変えられるもの、つまり、自分の在り方を考えるほうがいい。
つまり、偏見を持つ人がいる現実を受け容れて、特に気にしないという在り方をとるということ。
偏見を持つ人の問題は、その人の問題で、私の問題じゃない。悩む必要がない。
どうでもいい人が私を誤解していても、どうでもいい。
一ミリも私の価値を上げ下げしない。好きなように勝手に誤解していればいい。
わかってくれる人だけ、わかってくれればいい。
わかってくれる人は、賢く優しい人が多い。そういう人は私が付き合いたい人なので有象無象のなかから友人候補を分別でき、むしろ無駄な付き合いを省けるのでちょうどいい。
アルコール依存症というステータスは、私にとって「人との相性診断ができる便利なリトマス試験紙」くらいに思っている。
古今東西あらゆる哲学者が、承認欲求との付き合い方について説いている。
なんでもそうだが「他人がどう思うか?」というのは他人が抱える問題で、その問題を解決できるのは本人だけだ。外野である私にはどうしようもない。
承認欲求とは、他人に自分を認めさせたいという欲求だが、私を認めるかどうかは他人が決めることだ。
「他人のなかの自分」を現実の自分よりよく見せたいと願う人の、なんと多いことか。
無理して「他人のなかの自分」を良く見せようとがんばるのは、徒労でしかない。
「他人のなかの自分」は、前述のように、その人の先入観やマスメディアのプロパガンダでねじ曲がっている。
そんな歪な「他人のなかの自分」は、他人の数だけ存在する。
虚像であって私そのものじゃない。他人の頭の中にいる自分をいくら着飾り大事にしても、私そのものにはなんの変化も成長もない。逆に、どんなにその虚像が虐げられていても、私そのものに害はない。そんなどうでもいいものに必死になるのは、くだらない。
虚像を実像のように勘違いをするから苦しくなる。虚像だからと軽く見れば、偏見に対する悩みなど吹けば飛ぶほどの軽さになる。
私そのものは、私がどう思うかで決まる。
だから他人がどう思おうが関係ない。私の価値は、私が決めるんだから。
私が自分の良いところ、存在そのもの、それをほかならぬ私自身がわかっている限り、私そのものは存在自体がいつもいつでも肯定されている。
私はそう思うようになって、アルコール依存症だよと他人に話すことに躊躇いを感じなくなった。
私にとってアルコール依存症とは愛すべき自分の一部であり、恥ではなく誇りであるから。