私たちはつい「やるべきこと」を優先する。
問題はその価値が「自分にとって」なのか「誰かにとって」なのか。
選びがちな「やるべきこと」は後者。
その後者ばかり選んでいると、人はいつしか虚しい時間を生きるようになる。
予定を入れられるのが大嫌い
私は仕事の予定が入っていると、落ち着かない。
本当にやりたいことを始めると、終わるまでやらないと気が済まない。
やりたいことを中断する苦痛は筆舌に尽くしがたい。
その苦痛を味わいたくないので「予定までの時間に終われるかどうか」を気にしてしまう。
私がやりたいことは、挑戦になることが多い。
やったことがないことは、どれぐらいかかるかわからない。
終われるかどうかはわからないので、始めるのをためらう。
そのストレスが積み重なると、もはや何もかもどうでもよくなる。
私のうつ状態はこうして形成される。
だから、私は予定をブロックされるのを極端に嫌う。
他人の予定は、私を殺す。
自分のために
他人に依頼される予定は、他人のための時間だ。
他人のための時間を優先すると、病んでいく。前述した私のように。
自分がワクワクすること、やってみたいと思うこと。
それに時間を使うべきだ。それを最優先すべきだ。
そうでなくては心が死ぬ。
損得ではダメだ。
この現代社会を生きる上で何かメリットがあるから、という「やりたい」は本当は「やりたくないけどやるべき」を「やりたい」だと自己洗脳している。
「やるべくこと」は、損得関係なく「やりたい」こと。
その「やりたい」は心と体を自由にして、時間に縛られずに生きているときにしか降りてこない。
よく「怠けている、サボっている」と客観的には見える状態のとき、その人は「やりたい」を探すために全身全霊で他のノイズを極限まで削って必死に探している。
決して怠けているわけでも、サボっているわけでもない。
その人なりに必死に足掻いている。
不登校にしてもそうだ。
学校という監獄で「これは私の『やりたい』じゃない」と、奴隷教育に対して心も体も拒絶反応を起こしている。だから行けない。
そしてそれはとても自然で健康な反応だ。
その反応を無視しないでちゃんと「学校に行かない」という行動に移せる時点で、すごい。
私は不登校の人を尊敬する。
私は「こんな意味のない場所」と思いながら自分の心の声を無視し続けて、ついには聞こえなくなった。だから今、こんなにも私の心の声はか弱い。耳を澄ますのが大変だ。
聞こえなくなった声。その存在すら忘れて自分を誤魔化し続けた結果、うつ病になりアルコール依存症になった。
もう同じ過ちは繰り返さない。
自分のために、自分の声に従って生きる。
それが最も善い生き方だ。
他の誰かの決めたルールや価値観に従ってはいけない。
「遊び」を極める
ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』で示すように、この世の活動は全て承認欲求に基づいた「遊び」で、社会は元来「遊び」で構成されている。
資本主義と合理主義によるマネーゲームは、チープでワンパターンなクソゲー。
競争心を煽り他者比較による承認欲求を満たすだけなので、依存性はあるが真の意味での「楽しい」「歓び」はない。真面目で退屈で不毛。
だから現代社会は劇的につまらなくなった。
そのつまらなさに気づいた賢く鋭敏な人は、社会不適合者になる。
無理に過剰適応すると、私のように精神疾患や依存症を発症する。
クソゲーを楽しいと感じる鈍い人間。それがエリートの正体。
この社会が心地よいと感じる鈍感なエリートがいくら社会をいじってもクソゲーにしかならない。
だから、社会には期待していない。悪くなることはあれど、良くなることはない。作っている人間がつまらないなら、つまらないものしかでき上らない。
クソゲーでありクソ社会である現代社会。
それは外部環境であり変えられないもの。
しかたがない。手放し受け容れるしかない。
つまらない。変えられない。ならどうする?
「無いなら、つくっちゃえばいい」
擬態して適応してるフリをしてやり過ごしながら、自分がワクワクする「遊び」に最大限のリソースを割く。楽しめる部分は楽しみ、既存の評価や価値観を「どうでもいいこと」と認識することが重要だ。
問題はその「遊び」は何か?ということ。
それは自分の心の声を聞くしかない。人による。千差万別だ。
だから、少しでも情熱の炎がチラリとしたら、全力でそれに取り組んでみる。
最も重要視すべき感覚だ。他のことはどうでもいい。情熱を感じる感覚を全身全霊で探す。
三日坊主でも構わない、下手ならなお結構。
とにかく少しでもワクワクするほうへ、足を運んでみる。行動する。
その繰り返しの先にしか、それぞれにとっての本当の「遊び」はない。
私は「遊び」を見つけたい。
正直今はもがき苦しんでいる。
仕事はクソつまらない。この社会も壊れたガラクタにみえる、クソどうでもいい。
私のワクワクはこの枠組みには存在しない。ただ金を得るための火葬場。
でも、少しずつ情熱の炎のカタチを掴みつつある。
まとめ
これはあくまで私にとっての形。絶対的な真理などない。
私にとってはクソゲーでそれにハマるエリートは鈍い人間に見える。
私は「変えられないもの」があると気づく謙虚さを自覚する程度にしか賢くない。
数多ある砂粒のひとつまみ。
自分の魂が歓ぶ「遊び」を見つけるために、人生は与えられたのだと再定義する。
個々の意識の問題であり、第三者は提案することしかできない。
しかしこの再定義により、病む必要がなくなり依存する必要がなくなるので、依存症は無くなる。これが真の依存症予防啓発。
私の依存症予防啓発は、私自身の人生が体現している。
私そのものを世界に発信するのが、私にとってやりたい・おもしろいことで、同時に価値があること。
同じように、他の人の人生も貴重な物語だ。ひとりひとりが最高に面白い創作物だ。
フィクションでも、ノンフィクションでも、新しい物語に触れると、私はとてもワクワクする。だから、私はそんな話を聞きたい。
そのワクワクを、私の得意な伝達手段でシェアしたい。
だんだんみえてきた。