【社会福祉士】現代社会が病んだ理由は「理性」

「理性的」というと、一般的には、とても聞こえがよい。

なんだかとてもスラッとしてスマートで無駄が無くてクールな感じがするだろう。

他人を尊重できて、礼儀正しくて、リッチな感じがするだろう。

理性で動くということは、この現代社会において肯定的にとらえられている。

「理性」=前頭前野

では、理性とは何か。

理性とは、脳の前頭前野(前頭葉)のことである。

引用元:http://www.matsusen.jp/ondoku/ondoku2-3.html

大雑把に言えば、感情をコントロールして、脳というチームの中間管理職的な働きをする。

人間は、他の動物に比べて前頭前野がとくに発達している生物である。

それゆえ、言語を持ち、道具を使い、文明を発展させてきたともいえる。人が「人らしさ」を体現しているのが、まさに前頭前野だと言える。

引用元:https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku1/kioku1_3.html

たとえば、アルコールを飲むと、人は「理性」を失う。

それは、アルコールという物質が脳の前頭前野を鎮静(麻痺)させてしまうからだ。

セクハラをしたり普段言わないことを言ったり、いつもより泣いたり笑ったりするのは、脳が麻痺しているから。その人の本性がダメなわけでも、意志が弱いのでもない。鎮静系の薬物(というか毒物)を体内に入れて「理性」という機能を停止させれば、誰でもいつでもそうなる。それだけだ。

感情をコントロールしたり、記憶に基づいて損得勘定したりすることができなくなってしまうので、その場の欲望に素直になるし、感情的になる。飲み過ぎると記憶もなくなる。

そういう薬物が、アルコールという薬物である。

私は文字通り死ぬ一歩手前で飲んだので、よく知っている(笑)。詳しくは、私のアルコール依存症の過去記事を参照されたし。

とまあそんなわけで、前頭前野こそ人間様の象徴、理性の源。

まさに前頭前野バンザイ、というわけだが、私はあまりこの理性万能主義とでもいうような現代の流れというか文化的風潮を、よく思っていない。

たしかに人間らしさは突き詰めると前頭前野であり、人間のなかでも前頭前野がより発達しているとすれば「より人間のなかでも人間らしい」個体ということで、他人に比べて優越性を感じるだろう。他者評価というのは常に不公平な相対評価である。

それはわかる。理屈は通っている。

引用元:http://www.matsusen.jp/ondoku/ondoku2-3.html

しかし一方で、とてもバランスが悪い。

前頭前野だけで考えて「正しい」「優れている」などと考えて決めるのは、早計すぎやしないか、と思うことが、現実には多々あると思っている。

何を言っているかというと、実際に五感をつかってその物質に触れてみて匂いをかいで…経験を経て持つ「実感」と、理屈だけ覚えて分かった気になっている「想像」とでは、大きな乖離がある。

だから前頭前野でばかり物を考えたり決めたりしていると「ズレて」くるということだ。答えが偏るし、ベストだと思った選択が必ずしもベストではない、ということが頻発する。

そういうわけで、その境界線を「肌で感じる」ことをしないで、脳内の仮想空間で分かったつもりになり、経験したつもりになり、とても狭い情報に基づいて可能性や魅力を計算してしまうことは、とても危険だ。

生身の感覚をともなって触れる世界こそが、本当に実在する世界であり、自分との境界線である。、

頭でっかちで自ら不幸になっていく種族、人間。

思えば、自然のなかで遊ぶことが本当に少なくなった。

コンクリートジャングルは、前頭前野の産物である。脳の世界を体現した、まさに「脳の檻」。

その檻の中に己の肉体を閉じ込めて、温度と湿度が管理された空間で季節を感じることもなく、朝から晩までPCやLEDの強い光に煌々と照らされて、私たちは毎日を過ごしている。

そのおかげで、自律神経はおかしくなり、うつになったり不眠になったり。その不調を治すためにはお金がいるので、さらに「脳の檻」のなかでほしくもないお金を求めて働かざるを得ない。

そんなの、生き物として不健康に決まっている。

人と人との繋がりは、どんどん希薄になったと思う。

実際に出会って手と手で触れて、同じものを見たり同じものを食べたりすることが、とても少なくなった。そういったことは「コスパが悪い」と言って切り捨てられた。

感情を表出することは「損をすること」で「未熟な人がすること」という『理性教』の偉大なる教えのもと、金銭的な不利益をこうむりたくないという損得もあいまって、人は気持ちに向き合うのをやめた。

自分の気持ちも他人の気持ちも、恐ろしいので目を逸らしている。

だから皆、さびしくてたまらないのである。

だから、怖くなったら簡単に終わらせることができるインスタントな繋がりにその寂しさの埋め合わせを求めて、お金で買える関係性(キャバクラ・ホスト・パパ活など)やSNS・Vtuberなどの仮想空間での関係性に群がる。

しかし、抱えた心の穴によってお互いを傷つけあい摩擦を起こしている。とても哀れだ。

喉が渇いていて水を求めているのに、水を飲む映像をいくら見ても渇きは癒えない。実際に水を飲むしか解決策はない。そんな感じだ。しかし、水を飲み込むのが怖いので、水を飲む映像を四六時中みながら涙を流して「喉が渇いた」と嘆いている人々。

これが、みんなが目を背けている、現実である。

前頭前野=理性を神と崇め奉り、人として最も優れた重要な特性なのだと信じて突っ走ってきた人類史のどん詰まりである。

幸せってなんだっけ?と思わないか。

もっと何もなかった時代のほうが幸せだったのではないか。

草木を愛で、山河に感謝し、朝日や月に祈り、ともに暮らす人を愛して生きていた時代と比べて、人は進化したのだろうか。退化したのではないだろうか。

その元凶が、理性至上主義・論理的思考ではないだろうか。

理性とは、世界のとらえ方の一つに過ぎない。

「はい論破」

論理で相手を言い負かしマウントを取るこのセリフが、子供たちの間では流行ってるという。

そんな児戯で天狗になりニヤニヤしているような人間は本当に「安い」。

人としての有り様がチープだとしか言いようがない。薄っぺらい。

「論理的思考というのはレゴのようなもの」だと岡田斗司夫さんが語っているのを聞いたことがある。まさしくそうだと私も思う。

しかし、こういう幼い人が、社会においては「優秀な人」「デキる人」「勝ち組」である。

私はこんなクズどもを結婚相手に選ぶとか趣味が悪いにもほどがあると思うけど、みんなこういう人がいいらしい(笑)。

理性とは、ものの考え方であり、捉え方の一つでしかない。

実際に体験して掴み取った実感が、あなたにとってのこの世界の真実であり、あなたの世界のカタチをつくっていく。

礎となる体験がないまま頭でわかった気になっても、実際は少しの拡がりもない。

成果や結果は運である。自分の能力で影響して予想した通りに動かしたように見えたとしても、それは思い込みである。

世界には世界の大きな理があり、それは人類なんかには到底コントロールできないものである。それを知らずに「コントロールできる」と得意になっているのは、お釈迦様の手の上の孫悟空そのものだ。

しかし、この前頭前野が発達していると自称する全てのエリートたちは、そろってみんな思い違いをしている。

「世界を持続可能にするため」

「もっと良い社会をつくるため」

「みんなを幸せにするため」

という共通のうわ言を言いながら、本当にこの理性だけで世界を改変しようとするから驚きである。

その改変は、総じて改悪にしかならない。

なぜなら、原理原則である「実感」が伴わない限り、頭のなかでの思考は「ゲーム」の域を出ないからである。

今人々がやっているのは、生きることではない。ゲームなのである。

世界のどこかで遊び半分でお金をもっともっと集めようとするプレイヤーが、世界のどこかで負けたプレイヤーを現実に餓死させたり自殺させたりしている。それがこの資本主義経済社会。新自由主義、グローバリズムを加速させて「進化した現代社会」である。控えめに言って地獄である。退化の間違いでは?

このゲームが好きなプレーヤーたちは、もっと効率的に、もっと自分たちがゲームしやすいように、ゲーム設定までいじろうとしている。

ゲームはゲームであって、他人の命を取る権利は、誰にもない。

前頭前野が他人より大きく発達しているから人殺しをしてもいいというのであれば、それは動物以下の行動原理ではないか。

最も持続可能な世界の原理原則は、愛。

なんでこんなにもこのゲームはつまらないのだろうか。

それは、最も重要な生命の行動原理、生命の象徴である「愛」がゴッソリ抜けているからだ。

愛情のホルモンであるオキシトシンは、脳下垂体後葉から分泌される。

引用元:https://www.chugai-pharm.co.jp/ptn/medicine/karada/karada021.html

引用元:http://dogwan.jp/information/index.php?%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%96%BE%E6%82%A3%2F%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E6%A9%9F%E8%83%BD

脳下垂体(下垂体)は、前頭前野を含む大脳皮質よりもずっと古くから生物に存在してきた、ベースの脳部位である。

つまり、新参者の前頭前野よりも、よっぽど長く生命を支えてきた脳の根幹だ。

そこから分泌されるオキシトシンは、幸せや安心を感じるホルモンである。

オキシトシンは、長期的なこの内因性オピオイド(エンドルフィンなど)の分泌を促し報酬効果を増強する作用があるといわれています。また、オキシトシンはストレスホルモン(コルチコステロイド)を抑制する作用もあります。

つまり、ずっと幸せに生きるための脳内麻薬の効きを良くしてくれてストレスを感じにくくしてくれる、安心と幸せのホルモンなのです。

引用元:【メンタル】知ってるつもりでよく知らない「ホルモン」のトリセツ③(セロトニン・オキシトシン・エストロゲン)

この愛を失ってしまって、人は代替的に様々なことを試してみたけれども、全然うまくいきませんでした、というのが、今の現状なんだと思う。

それを理性を基にひねり出したテックやらでなんとか誤魔化そうとまだ否認を続けているのが、現代の人間たちだ。

アルコール依存症の当事者が「オレはまだアル中じゃねー!減酒でイケる!」とか言ってなんとかしようとしているのと同じだ。そういう人は否認していることを認めるまで、何回でもズタボロになって入院しにくる。否認の病、とはよく言ったものだ。

そんなふうに「まだ理性でなんとかイケる!他の人間はバカだから無理だけど俺なら優秀だから理性で世界を変えられる!アホどもと一緒にすんじゃねー!!」とか言って世界をこねくり回して何とかしようとしている人たち。

「愛なしにはすべて無理だったんだ」と悟るまで、あと何回人を殺して、あと何回失敗するのだろう。

アルコール依存症では「底つき」と言って、仕事も家族も生きる希望を何もかもすべて失ってはじめて「自分ではどうにもならなかったこと」を認める。

無力を認める、ということは、本当に難しい。

勇気と謙虚さを持つものにしかできないことだからだ。簡単ではない。

自分の無力を認めて、世界のあるがままに委ねる。

そういう真の賢さを持つ人が、理性の信者に代わって、この世に残るだろう。

それはごく少数かもしれない。それまでにとてもたくさんの命とかけがえのないものが失われるかもしれない。

もはやすでに残された時間は、ほんのわずかになってから立ち返るのかもしれない。

でも、それも人類という種族の宿命だったのだろうと思う。

「恐竜がでかくなりすぎて氷河期に絶滅したように、次は愚かな人間という生き物が一世を風靡したんだけど、前頭前野をアホみたいに信じまくって突っ走った結果、もっと生きられただろうに早期に自滅したんよ( ̄∇ ̄;)ハッハッハウケる」というような歴史を、のちに現れた知的生命体がシェアしている。

そんな未来も近いのかもしれない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする