【社会福祉士】この世の虚しさについて

なんかめっちゃ疲れた。

最近とても疲れることがある。

何にかというと、世の中や人との関わりにまつわる虚しさに。

会社(仕事)の虚しさ

会社での仕事なんてまさにそうで、虚しさの塊みたいなところだ。

昨日社内テストがあって、取り扱っている製品について何時間も解かされて疲れた。

しかも、「○○○○試験において、試験の背景はどうだったか?」みたいなクソどうでもいい内容のテストだ。

なんでクソどうでもいいかというと、そんなのパンフレット読めば書いてあるからだ。覚えなくていい。暗記する必要が無いので、問題にする意味がない。

問題を作っている人の意図は「営業の人たちの理解が深まるように」ではない。

「デキない人だという理由を積み重ねてしかるべきときに楽にリストラできるように」というのが目的だ。

それが見え透いているから、心底くだらねぇなぁと思う。

私はそういう実質的に私にとっても世の中にとっても意味がないものにはやる気がしない人だ。

よくこんな無意味な問題をつくっていて、自分は仕事してる、給料をもらう価値がある、と思えるよな、と思う。

私が問題作成者側だったら嫌になって会社やめるレベル。子どもに胸を張って言える内容ではない。

役員も株主の顔色をうかがいながら、既成事実の捏造のために下に当たり散らして、権力者にはこびへつらう。やっているのはそれだけだ。

美辞麗句を並べ見た目ばかり取り繕って中身がスッカスカ。まるで私の実家のような吐き気を催す邪悪そのものじゃないか。

こんなオママゴトみたいな仕事で、人間本来のライフサイクルから外れたゲスくてつまらない仕事もどきのほうが、実際に食べ物を作ったりお世話が必要な人を助けている人々の仕事より実入りがいいなんて、世の中ってお金って何なんだろうな、と思わざるを得ない。

善行 でもそう

他人のためにどうのこうのというのも、同じようにくだらない。

結局、全部自分のためなんよ。

耳障りの良いこと言っているけど、結局は他人の役に立つ自分なら少しは好きになれたり、マシに思えたりするから人助けをしているだけ。

つまり自分を好きになりたいから他人を助けている。

それを見失っている人は感謝や尊敬という見返りが得られないと分かると途端に、「せっかくやってあげたのに」とか「恩知らずだ」とか急に被害者ぶって手助けしていたはずがいつの間にか加害者側に180度反転している。おそろしいことだ。

重要な決定は誰もがしたくない。責任を取りたい人なんていない。

だけどいつか誰かが決めなくてはいけない。

その役割をやってもらっておきながら、文句言いや責任追及だけはいっちょまえにする人がいる。ホント、どんだけ都合がいいんだよ、と思う。

私は何かを決めるときには、良い面も悪い面も責任を持つつもりで決定する。

だから後でなんだかんだと後付けで言われることも引き受ける前提で考えをまとめて、それを私の意見として話す。

いろんな場面でそんなことがあり、結果的に私が提唱した案が採用されて状況が動くこともよくある。

経験しているからわかるんだけど、ほとんどの場合、思うように感謝されたりしない。

全方位的にうまくいくような解決策を制限時間内に定めることはほぼ不可能なので、どこかで負荷がかかるし何かを満たせないことはある意味しょうがない。

だけど代替案も出さないような無責任なやつが往々にして「これが問題だった」「あれが想定できていないからストレスがかかった」などと騒ぎだして、ちあきのやった方法は間違いだったんじゃないか?などと最終的には救おうとした人にまで後ろ指を指される。

知ってる。

そうなるって知ってた。

だから静観することもできた。

だけど、それは嫌だからやった。

だから納得してる。

だけど、虚しいわ。正直。

頑張ったよ、俺だって。いろんな方法を考えて、最も最適だとその時判断したことに、誰も異議を唱えなかったじゃん。でも、結局何か言われるのは決断を下した人なんだよな。

頭のなかのもう一人が「そんなに苦しむだけなんだったら、関わらなきゃいいじゃん」という。

そうだよなぁ。その通りだと思う。

でも俺は、見て見ぬふりしてだんまりを決め込むほうがもっと夢見が悪いんだよ。

だから致し方ない。

私はそれ以外を選べなかったし、無責任に途中で放り出すこともできない人間なんだ。

社会支援 でもそう

何かしらの啓発だってそうだ。

私は好きでやっているし、やれる範囲でやっている。

これ以上もこれ以下もない。

使命感とやらで無理をしてやっても、最終的には押し付けにしかならない。

自分がやらないと居ても立っても居られない気持ちになり、落ち着かないからやっているだけ。

こうなったらいいな、と思うことは勝手だけれど、その通りになることが必ずしも正しいわけでは無いんだよ。

それぞれがそれぞれに在るように在るだけで、クズはクズでいるのが自然だし、良心がある人は良心に従って生きていくだけ。脅威や侵略をする哀れな生き物(他人の権利を侵害するタイプのホモサピエンス)からは、知恵ある我々が逃れるしかない。必要なら本人が必要な手段で必要な対策を講じるサポートをすればいいだけ。

結局は、本人がどう生きたいか決める。

私たちは、自分が、どう人生を生きるかに責任があるだけであって、それ以外は結局どこまで行っても他人事なんだよ。

あーだこーだ言ったところで、私たちは私たち自身が幸せに生きること以上にできる事など、実は何もない。

正直、私は他人の人生は結構どうでもいいし、割と信頼している。信頼しているというのは、勝手にがんばるし、勝手に幸せになる力を持っている。

助けるというのは本来おこがましくて、その人に手を貸した結果、その人の力で勝手に助かるだけだ。私はただ手を貸すということを、したいからしただけ、余裕があるからしただけ。

余裕がないのに他人の手を掴もうとするのは、逆に奈落に引きずり込んでいる。

まずは自分の足場をしっかり固めないと、一緒に落ちていくだけだ。

そのあたりを自覚しないで、他人とより多くよりしっかりと手を繋いでいることを誇るような支援者や啓発者は、自分が助けているのではなくて、自分がその人たちが困っていることで助けられているだけだ。自らの存在意義を確認するために、その人たちを遠回しに利用しているだけ。

その辺の薄気味が悪い偽善が垣間見えて、なんだか萎える。

まあ、今日は唯々愚痴を言うだけのブログになってしまったけど、何とか生きている。

こんな感じに落ち込むことはよくあること。というか、酒を飲んでいたころはいつもそういう不快感があったから酒に逃げていただけで、酒が無い今表面化するのは当たり前。

この虚しさを受け容れてもなおできるだけ楽しく生きようとしているだけでも、というかそういう姿勢こそが、回復した証拠だよな、と思う。

前なら死んじゃいたかったからな。つまんなすぎて。

動物も娘もかわいいし、捨てたもんじゃないよな、と思う瞬間があるから、私はまだ虚しくてもやっていけるし、楽しみを見つけるセンサーの感度を取り戻しつつある。

マザーテレサが言うように、他人がどう反応しようとも実は関係なくて、私のなかの最良のものを手渡すことが、自分の為なのだ。他人との間のことは一つもなく、私と私のなかの魂とのやり取りなのだ。

だから、反応が返ってこなくとも、逆恨みされようとも、動揺せずにできることをするだけなのだ。人生はそれだけだ。

そしてそれが一番遠回りのように見えるが、最終的に私がたどり着きたい場所への一番の近道になる。

他人に後ろ盾を求めたり、責任を押し付けたりすることは、もう卒業したからこそ、世の中に蔓延るそれらが浮き彫りになってきただけだ。

そう信じて、休み休み生きていきたいと思う。

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