【社会福祉士】社会不信論

社会が信じているのは金である。

なぜならこの社会が資本主義経済社会だからだ。

金が社会の血液なので、金は命よりも重い。そういうふうにできている。

なので、いくら多様性とか平等とか福利厚生とか人権とか訴えても、根本的に無理なのだと思う。

最近そんな風に社会に対して絶望している。

この論考の始まりは、会社に対する不信だった。

会社という組織はとても不可解だ。

どうせ金が目当てなのに、大義名分を欲しがる。

いかにも社会に貢献しています、という「建前」を欲しがる。

欲しがるだけでそんなに大切にはしていない。

結局本音がにじみ出る。

だから、たとえば製薬会社でいうと、

「新規処方を〇〇例『獲得』する」とか

「恐怖をあおって病気を『つくる』」とか

「医師の『意識に刷り込む』」とか

常軌を逸したとんでもない表現をしがちである。

結局、患者を金づるとしか思っていないので、そういう言葉がでる。

何も製薬会社だけではない。

以前勤めていた会社も、同じようなもんだった。

中国から仕入れた粗悪な製品でシステムを組んで、とにかく納品しさえすればあとはトラブルが起きようが何しようが知ったこっちゃないというスタンス。

実際に取引先で損害が出たとき「そんなのうまくごまかして逃げろ」と遠回しに言われて愕然としたのを、昨日のことのように覚えている。全身の力が抜けて徹夜で現場に一人で張り付きまとめた検証報告書を取り落とした。

他の製品もなんだか技術的に心もとない製品で、案の定技術的なトラブルに見舞われたが、誰もケツを拭こうとしなかった。私は担当として必死に最後まで改善提案をし続け、問題は解消されたが、会社は嬉しそうではなかった。

つまり、金さえ儲けられれば、他人が困ろうが人が死のうが、心の底ではどうでもいいと思っている。

会社とはそういう組織だ。営利企業という存在のペルソナは偽れない。

業種・規模・業態に関わらず、全てがそうだ。

あんまり表立って困り過ぎたり死に過ぎたりすると、金儲けができなくなるリスクがあるから、最低限のラインを守っているに過ぎない。すべて自分たちの為だ。顧客の為ではない。

なので、会社が偽善で耳障りの良いことを口走ると、私は身の毛がよだつような気持ちがする。思ってもないことを言うな、気持ちが悪い、と思う。

でも、社員の大半は、そのおべんちゃらを信じて、あるいは分かっていて放っておくことができる。

それはとても奇妙で理解しがたい。でもそれが普通らしい。本当に意味が分からん。

会社は、どれもこれもそんなふうに腐っている。

なので、その会社で回っている社会は、腐らないはずがない。

結局のところ、社会というのは金である。

テレビばかり観ている人にはわからないかもしれないが、政治もすべて金次第で動いていて、自分の権力の座を奪われないための政治家による政治家の為の椅子取りゲームなのだ。そういう茶番だ、あれは。

官僚というやつも、公僕ではなくて、金の下僕だ。

損得勘定ばかり得意な人間がはびこるようにできている。この社会では誰もかれもがマウントを取り合い陣取りゲームをしている。他人を蹴落としても心が痛まないような、人間性に乏しい人間が昇進できるようにできている。

だから、会社の上司がクソなのは当たり前だ。

なぜなら役職が上に行くほどクズになるのだから、当然の帰結だ。何も不思議ではない。

社会的地位があるということは、より賢いクズだという証明でしかない。残念ながら、私は長いことこの社会的地位を求めて命を削るように頑張ってきたわけだが、骨折り損のくたびれ儲けというわけだ。痛恨の極みである。

そんな社会的地位と名声と権力というクソみたいなコレクションを求めて、政治の世界を志すような上昇志向の強い人が、この世の弱者に寄り添えるはずがない。

だから、社会が社会的弱者のことを考えるのは、土台無理な話なのだ。そんな高度な感性が必要な仕事ができるような人種ではないから。

「どうしようもないダメなやつを賢くて偉い俺様たちが救い出してやるか」みたいな考えで制度を考えるから、使えない制度ばかりつくる。

まともに考えているのは、自分たちにご褒美をくれる「スゴイ人たち」に融通を利かして褒めてもらうことだけ。そのためなら社会的弱者など必要な犠牲その1くらいにしか思ってない。だから永遠に社会は良くはならない。

こうすればいいとか、ああすればいいとか、そんな希望的観測はこの記事にはない。

このような資本主義経済社会はいずれ崩壊する。もう無理。諦めよう。こんな欠陥システムでは人はどんどん自殺したり餓死したりするだけなので、どこかの時点で転換期がくる。

まあそれで新しい原理の社会ができたとしても、あまり私は手放しに喜ぶ気にはなれない。

今よりはマシだろう。今は地獄だ。マシになるならそれには価値がある。

だけど、仕組みになった時点で効率と合理性に支配されるので、絶対にノイズが発生する。次第に人間側をノイズと考えて、システムが主役になる。だからシステムをつくった時点で、システムはもうすでに終わりに向かって進んでいる。

持続可能なシステムなどない。この完璧に調和しているかのように見える自然界ですら、いずれ太陽とマントルが原因で生き物が住めなくなるのだから。生と死は隣り合わせ、コインの裏表で在り、栄枯盛衰、永遠に続くものなど何一つないのがこの世の常だ。

唯一不幸にならない信仰といえば、愛だろうか。

愛と聞くと拒絶反応が起きるというか、むず痒いというか、それこそ建前でおべんちゃらのように聞こえるかもしれない。

しかし、今まで私が出会ってきたなかでは、「愛」これがベストな世界の「通貨」だと思う。

自助グループというのは、非営利で運営されていて、徹底して何の利害関係ももたないように団体の理念が構成されている。

同じような心の穴をもつ人が寄り添い、共感と慈しみによって繋がる。

そこには打算も駆け引きもない。ただただ、弱さという共通点が互いの存在に感謝する心を育み、交流の「通貨」として愛を込める。

まあ、共依存的に歪んだやり取りもぶっちゃけあるにはあるが、それもまた必要だから与えられたものだと理解することができる。謙虚に素直に生きていれば、そんなことを理解できる日がきっとくる。

見返りを求めない、ただただあげっぱなしの愛。

これほど尊いものはなく、価値のあるものはない。

経済的に価値のあるものなど、かすんでしまうほどに、それは光り輝いている。

その生きるために必要不可欠な光が見えなくなってしまったので、人々は病んでいるのだと思う。

陽が陰って澱んだままの部屋の片隅に放置されている、観葉植物のように。

金銭欲や所有欲を貪るのは、水をジャブジャブに植木鉢に注ぐようなもの。

そんなことをすれば草木は根が腐ってしまう。それと同じように、人も性根が腐ってしまう。

まあ、もうあーだこーだ言っても、この社会も所属している営利組織も、もう底が知れている。もうダメだ。いっさいは無駄である。

もう、期待するのはやめにしよう。

もっと、大切な目の前にあるリアルな繋がりに愛を注ごう。

損得が無くても関わってくれる人との会話や繋いだ手に、愛をこめよう。

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