【依存症】自分を超えた大きな力(ハイヤー・パワー)について考える

「ハイヤー・パワー」

この単語を聞くと、何となく胡散臭く感じるのは、わたしだけではないだろう。

「神」という単語にも、私は拒絶反応がある。

回復の道しるべである、12ステップ・プログラムに取り組んでいると、しばしばこの単語に遭遇する。

私たちは、これらの概念をどうとらえて、どう考えていけばいいのだろうか。

神様や仏様を信じられない私

私は神様や仏様を信じていない。

そんな高尚なものが意志をもっていて、この世を統括しているとしたら、一発ぶん殴りに行きたい。あまりにも無慈悲で理不尽なことが起こるし、生きることはほぼ苦行であると感じる。

それらが神のお導きとやらだとしたら、ドSにもほどがある。私はMだけど、ご褒美がないSはただのパワハラ野郎だと思う。単純に好きじゃない。

と、いきなり天に唾することを言っても仕方がないし、不遜かもしれないが、私は素直にそう思っている。

したがって神仏は一切信仰してこなかった。これからもそうだと思う。

大きな力によって生かされている私たち

でも、自分を超えた大きな力はあるんじゃないかと思う。

私たちはひとりでは生きていけない。

独りでできる事は、ものすごく限られている。

生きていくだけでも、様々な人のいろいろな偶然やめぐりあわせによって、今日も偶々何とか生きているのが、実際だと思う。

ちょっとボタンを掛け違えたら、人は簡単に死ぬ。明日が来ることは当たり前ではない。

そう考えると、自分が生きていく道筋は、自分を超えた大きな力によってほぼ完璧に決められていて、私たちはその大きな力には、全く逆らうことができない。

果てしなく無力である。

川の水が、川のかたちの通りにしか水が流れられないように、私たちは、人生の流れを自分で決めることができない。

自分が思い描いたように人生設計をして、思い通りに生きているように錯覚しているが、実は、そうではない。

自分ではコントロールできているつもりになっていることがほとんどだが、偶然に偶然が重なり、たまたま今があるにすぎないのである。

コントロールできるという驕り

特に、受験や就職で社会的にスムーズに成功してしまった人に多い認知の歪みが、「自分は他人より優秀であり、状況や他人をコントロールできる」という傲慢さである。

勉強できる環境(金銭面・治安面など)があったことや、タイミング、景気、脳の特性など、さまざまな偶然が重なって、今生きている社会において「良い」と評価されている特性にたまたま合致しているに過ぎない。

それが優秀さの絶対的指標にはならない。なぜなら社会というものは常に変化しあいまいで、他人の評価というものはさらに流動的だからだ。確かなものなど、実は何一つない。

収入も学歴も美醜も、何一つ『かけがえのないもの』ではない。かけがえのないものだとしたら、それは時代によっても国によっても価値観は一定であるはずだが、そんなことはない。

すなわち、社会的評価というものは、水物で、それに適応していないからと言って劣等種ではないし、そういう価値観で物事を見ていると、世界が変化したときに対応できない。

世界の変化は突然起こる。

栄枯盛衰、驕れる者久しからず。結局ひとはいつか死ぬし、生まれて死ぬタイミングすら「自分を超えた大きな力」により決められていて、自分ではどうすることもできない。

生きている間に、うれしさや悲しみの感情の波が寄せては返す水面のように揺蕩い、そのなかでわずかばかりの金銭が行ったり来たりするだけ。

それが、生きるということを客観的にみるところの真の姿なのではないかと思う。

変えられないものを受け容れる限り、生きることは自由

私は、アルコール依存症である。私は発達障害(ASD・ADHD)でもある。

これらは、私にはどうすることもできなかったことで、これからもどうすることもできないだろう。

生まれる家は選べなかったし、生きていくにはエチルアルコールに頼るしかなかったし、発達障害を持たないように生まれることはできなかっただろう。

生まれた時点で、すでに大きな力に定められていたのかもしれない。

しかし、自分を超えた大きな力については、ただ単に無慈悲なわけではなく、何となく決めているとしか思えないくらい、一貫性がないように見えて、己に誠実に向き合うことさえできれば、学びとして活かせるほどの自由度がある気がする。

ようは、与えられた事象をどうとらえるか、という点で、我々は限りなく自由なのである。

川の水と同じである。水は、激しく打つこともできるし、ゆるやかに流れることもできる。流れる道筋は完璧に決められているかもしれないが、柔軟性をもって道を下ることそのものを受け容れる限り、その限りにおいては完全に自由であると思う。

そのわずかに見える余地が、生きる上で最も重要であり、ただ流れたくもないのにずっと流されていくのか、流れる道のりを楽しみ、反応し感じ考え、最後に海にたどり着くのとは、同じ川の流れだったとしても、その道中の景色の輝きは全く異なるだろう。

まとめ:ハイヤー・パワーは、川が海に続いていると信じるということ

全ての川は、海に続いている。

山のどんな険しいところから細々と始まった川であったとしても、どれだけ濁り澱んでしまい、流れが停滞しそうであったとしても、必ずや、海に繋がっている。

それを信じることに似ていると思う。

私たちの人生は、どこに繋がっているのだろうか。

生まれる、というところから、死ぬ、というところに物理的には確実につながっているわけだが、メンタル面・精神面でも、確実に一定のライフサイクルを辿るはずなのである。

ということは、良いことか悪いことかを抜きにして(その判断は自身のとらえ方によるので)、生きている限り、ある一定のゴールに向かって導かれていくものなのだと思う。

私がアルコール依存症になったことも、私が、マイノリティとしての痛みを知り自分を省みるチャンスをいただくために与えられたチャンスだったのではないかと思う。

この病気を患ったからこそ出会えた人がいる。かけがえのない仲間の優しさや強さに触れることができた。生きる喜びも、病気になる前よりも強く感じる。

世界はそういう、素敵なことが起こるようにできている、と信じることが、ハイヤー・パワーを信じる、ということなのではないだろうか。

そう信じてみたい。

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