今年に入って決意していることがあります。
それは「私はアルコール依存症である」という事実を、仕事上の関係でも隠さず公表していく、ということです。
今までは会社から、要約すると「依存症だ、などと言われたら会社のイメージダウンに繋がるから隠しておいてほしい」と言われたので、それに従っていましたが、それもおかしな話ですよね?
今回はそういう「スティグマ」について考えてみたいと思います。
「スティグマ」とはなにか?
個人のもつある属性(ここでは、薬物依存症・アルコール依存症などの物質使用障害とします)によって、いわれのない差別や偏見の対象となることです。
語源は、ギリシャ語で肉体上の徴(しるし)を意味し、ギリシャ人が、差別対象となる奴隷や犯罪者の身体に烙印(stigma)を押したことに由来しています。
つまり、薬物依存症やアルコール依存症という『属性』に対して、いわれのない差別や偏見を押し付け、勝手にラベリングすることです。
いわれのない、というところが重要で、依存症に対して正しい知識がない状態で、個人の間違ったイメージや「法律的に犯罪かどうか」などの一部の切り口で語られる、というところが特に問題だと感じます。
医師ですら、専門医以外はほぼ正しい知識を持っていない事実
私は仕事上、医師に面会してお話をするのですが、「私はアルコール依存症で、治療しながら仕事をしています」という話をすると、実に反応は様々です。
様々な人から言われたことをそのまま箇条書きにすると以下のようにばらつきがありました。
・依存症からの回復は本当に難しいと聞くのに、やめられているなんてすごい。
・ああ、社会不安障害の気があるんだね君は。(その後距離を取り見下すようになる)
・同じように酒で失敗している友人がいるよ。気にしすぎなんじゃないかな。
・みんなアルコール依存症みたいなものだから。
・そんなことは君の価値を下げるから、あまり大っぴらに言わないほうがいい。
・でも覚醒剤とかとは違うから、お酒でよかったね。
・アルコール依存症だったら、止められずに仕事もできず、今頃ダメになっているはずだ。だから、依存症じゃないんじゃないか?
一番最初以外は、全て間違いです。
驚くべきことに、これらはすべて精神科医から聞いた言葉です。
すごく悲しくなりました。
こんなん言われたらせっかくやめてるのに再飲酒しちゃうよ、っていうようなことばっかり言われました。笑 ほんと終わってます。
医療の専門家なら、しかもメンタルの専門家なら、わかってくれるのではないかと思って打ち明けた結果がこれです。涙が止まりません。
メンタルの専門家でありながら、依存症という病気については何一つ理解していないことがよくわかりました。
(しかしまあ、それでも医師に対する啓発という意味と、自分自身のありのままを認めるという意味で、今後もあけっぴろげに堂々と公表して生きていきたいと思います。)
ここで一度整理しておきたいのは、私は医師を基本的に尊敬しているということです。
あんなつまらんやりたくもない勉強を頑張り、研修医としてただ働き同然の厳しい環境の中で脱落せずやり抜き、それもこれも命を救うという尊い仕事に就くため、という点で、医師になるような人を心から尊敬しています。
医師になっても年収は確かに多いですが、土日もないほど忙しかったり、学会に課金しないといけなかったり、結構QOLは低い職業だと私は思っています。名誉欲や金銭欲だけではなかなかそんな過酷な職業を続けることは困難なので、どんな医師にも少なからず道義心や奉仕の精神があると信じています。
そんな尊敬すべき専門家であるはずの人々ですら、この体たらくということは、世間一般に普及している依存症に対する「常識」がいかに不確かなものか、想像に難くないのではないでしょうか?
まず国が対策に失敗し「スティグマ」が生まれた
わが国は、薬物依存対策に失敗してしまいました。
厚労省の麻薬対策課がはじめた、「薬物、ダメ、絶対」啓発活動です。
「覚せい剤止めますか?それとも人間やめますか?」
誰もが、これを一度は聞いたことがあるでしょう。この薬物乱用防止教育は大失敗しました。
なぜなら、一度使ってしまった人に対して「人間ではない」という烙印を押し、基本的人権を侵害してしまったからです。
このようなスティグマを植え付けられた子供たちは、うっかり手を出してしまったが最後、誰にも相談できなくなります。言ったら「じゃあお前は人間じゃない」言われるからです。隠しますよそりゃ。依存症は回復できる病気であるにもかかわらず、「手を出してしまったとしても回復する手立てがある」ということを知らされずに、「人間ではない」とレッテルを張られるのが恐ろしいので、誰も言い出せなくしただけだけでした。
依存症者が少ないのは、ダメ絶対活動が功を奏したからだ、とする考えがありますが、日本では聞き取り調査しかしていないので、海外と比べて科学的ではありません。聞き取りをして、こんな人間じゃない扱いをされると知っているのに、正直に答える人がどれだけいるでしょうか。
違法薬物を締め付ける一方で、それ以上に有害なエチルアルコール(酒)にはすこぶる甘いのが、この日本という国です。
合法なもの(酒・処方薬・市販薬)へ依存対象が流れただけで、根本的な依存症に対する対策が行われていないからこそ、この国では根本的な解決がいまだになされていません。
この監麻課の「ダメ。ゼッタイ。普及運動」の問題点は、一次予防(病気にならない、未然に防ぐ)を強調し続けてきたばかりに、その弊害の方が大きくなってきているにも関わらず、その見直しがなされないことである。というよりも今回、監麻課との面会が実現してわかったことは、監麻課は二次予防(早期発見・介入、病気をくい止める)、三次予防(再発予防)の知識や配慮など全く持っていないという驚愕の事実であった。
予防医学では、もちろん一次予防の病気にならないような対策は大切ではあるが、どんなに気をつけていても病気に罹患する人はいる。そのために早期発見・早期介入を実現し、治療法を確立したり、人材を育成していく、そして再発防止の措置を講じ、社会復帰をしていく、という考えがとられている。
例えばこれが糖尿病だったら、「カロリーコントロールと適度な運動」という誰でも知っていることが一次予防。けれども必ず罹患する人はいるわけで、健康診断などが二次予防そして、早期介入、早期治療を実現し、その後、カロリー指導や場合によってはリハビリなどを受けながら社会復帰をしていくことが三次予防である。
いくら違法薬物が日本では犯罪扱いだからといって、監麻課のように一次予防だけを強調し、あとは「破滅」などとスティグマを強化していくやり方は、予防医学の点からも、健康障害を抱えた若者を救う観点からも考えられないし、管轄官庁としてあまりに無責任である。
厚労省の「麻薬対策課」がいかに無責任で無知かがよくわかります。
一方で、厚労省の「依存症対策推進室」は優秀です。
以下のような、依存症についてとても理解が深まる啓発漫画を監修しています。
厚労省と専門家監修のもと、#依存症啓発漫画 #だらしない夫じゃなくて依存症でした を描きました。
アルコール・違法薬物・ギャンブル #依存症 のお話と、周囲にいる人間はどうすればいいのか、現実の対処法を描いてます。9話+番外編全て無料で見れます。https://t.co/8E1zHIVkLb
リプ欄で続き。 pic.twitter.com/QPETXII3x7— 三森みさ@アマゾン予約受付中『だらしない夫じゃなくて依存症でした』 (@mimorimisa) April 12, 2019
来月、書籍化されるほど高い評価を得ていて、依存症の専門家たちが監修に携わっています。依存症に関わるひとも、そうでないひとも、必読です。
「スティグマ」が2次予防・3次予防を妨げる
依存症は、『回復できる病気』です。
一度手を出したら人間をやめないといけないような、夢も希望もないものじゃありません。
#依存症啓発漫画 #だらしない夫じゃなくて依存症でした
第九話が公開されました!
スリップのお話と回復に必要なもの。そしてショウちゃんとの物語。https://t.co/UFn4YByvKR#アルコール依存 #薬物依存 #ギャンブル依存 #依存症 #だら夫 pic.twitter.com/cZLMSkCTMf— 三森みさ@アマゾン予約受付中『だらしない夫じゃなくて依存症でした』 (@mimorimisa) March 22, 2019
依存症になっても、依存するもの以外に、仲間との繋がりや他の楽しみがあるような、幸せな環境があれば、やめられます。
これが真実です。ダメ絶対は間違いです。
それなのに、一度依存症になった人をまるで『ひとでなし』のように差別するように仕向けられ、みな間違った常識をもってしまったがために、依存症の人が生きにくい、仲間とのつながりや他の楽しみを見出しにくい、幸せじゃない環境をつくっています。
それが、薬物依存やアルコール依存から回復しようとする足を引っ張ります。
依存症は、依存症その人のみの病気ではない。その人がダメでだらしないからなる病気ではない。社会全体の生きづらさがまねく「社会がかかっている病気」だということもできるかもしれません。
社会が生きづらいがために、回復できず、また依存症になっても他人に助けを求められなくて、今なお苦しみ続けている人々を救うことができずにいます。
この状態を解決する唯一の方法は、社会を構成する全員が依存症に対して正しい知識を持ち、差別するのではなく、一度間違ってしまっても回復できる社会を共に創り上げることだけではないでしょうか。
私は依存症ではないから関係ない?いえいえ、当事者でない人など、この社会に属して生きている限り、この世のどこにもいないのです。
(ラットパーク実験そのものが、どんなものだったか、詳細を知りたい方は以下ご参照ください。)
サイモン・フレーザー大学の研究者ブルース・アレグサンダー博士は、従来の薬物依存に関する研究は、マウスを狭いケージに閉じ込めて実験が行われている点に着目、普段とは異なる生活環境下に置かれる影響度について考慮されていないとして実験結果に疑問を呈します。そして、1980年、アレクサンダー博士は「薬物中毒は外部的要因(生活環境)が原因で引き起こされる」という仮説を立て、これを実証するために「ラットパーク」と呼ばれる実験を行います。
ラットパーク実験では、従来型の狭苦しく孤独な環境を再現した18×25×18cmのワイヤーメッシュの「植民地」と名付けられたケージと、8.8平方メートルという通常のケージの約200倍もの広さを与えたラットパークを用意し、それぞれの環境にマウスを置いて比較実験をしました。ラットパークの壁はネズミが普段生活する草原の絵を描き、また地面には巣を作りやすい常緑樹のウッドチップを敷き詰め、さらにネズミが隠れたり遊んだりできる箱や缶を用意、またマウス同士が接触できるようにし交尾や子育てが可能な環境を与えることで、さながらネズミの”楽園”を実現しました。
アレクサンダー博士は、ネズミが甘い砂糖水を好み苦い水を嫌う性質があることを発見、苦味のあるモルヒネ水に砂糖を加えモルヒネと砂糖の比率を1日1日変えていきながら、ネズミがモルヒネ入り砂糖水を飲めるようになるのにかかった日数を測定しました。実験の結果、植民地ネズミは楽園ネズミより早い段階からモルヒネ砂糖水を飲み始めることが分かりました。また、その総量を比べると、植民地ネズミは楽園ネズミの19倍も多くのモルヒネ砂糖水を飲んだことも判明しました。
また、他のネズミとの接触の機会を断たれた植民地ネズミがモルヒネに酔う反応を示すのに対して、ラットパークで楽園を満喫するネズミは他のネズミと遊んだり、じゃれ合ったり、交尾したりすることが多く、モルヒネによって楽しい生活を邪魔されるのを拒絶するかのように、モルヒネ砂糖水をあまり飲まなくなります。
アレクサンダー博士は、モルヒネによる禁断症状についても実験しています。新たに植民地と楽園に導入されたネズミには、ほとんどの日をモルヒネ砂糖水だけ与えられるものの、ごくたまに普通の水とモルヒネ水を選択できる日が与えられました。選択可能日にネズミが選択した飲み物を比較すると、孤独な植民地ネズミはモルヒネ水を継続して選択したのに対して、楽園ネズミは普通の水を選択してモルヒネ水の摂取量を減らしました。異なる環境下に置かれたネズミは共にモルヒネの禁断症状を示したものの、そこでとる行動には違いがあることが判明しました。
さらにアレクサンダー博士は、57日間連続でモルヒネを与えられた植民地ネズミでもラットパークに移され普通の水とモルヒネ水の選択肢を与えられれば、普通の水を選ぶようになるという実験結果も得ています。
このような一連のラットパーク実験から、アレクサンダー教授は「薬物中毒は外部的要因(生活環境)が原因で引き起こされる」という自らの仮説が正しいことを確信します。
まとめ:依存症になっても、同じ人間です
私は、アルコール依存症になり、会社を首になりかけましたし、頭を切ったり、歯を折ったり、実に様々な失敗をしてきました。
自殺しようと考えました。死んでしまいたいと思う日のほうが、生きていて楽しいと思う日より多い人生を過ごしてきました。
それでも、生きています。
お酒を止めて、働いています。
そして、幸せに生きていきたいと願っています。
皆さんと何が違うでしょうか?
精神科の先生と何が違うでしょうか?
同じ人間です。
同じなんですよ、依存症の人間も。
昨今ですら、芸能人の過剰な作品自粛といった「偏見」や「排除」といった問題がおきていますが、それは、自分の首を絞めていることと同じなのです。
私は関係ない?本当にそうですか?今後も一切関係ないでしょうか?
親が、夫が、妻が、子供が、孫が、友人が、同じ立場になったとき、一度失敗したことを一生罵られながら、叩かれて泣く姿を一生見なくてはいけないとしたら。
想像してみてください。
そんな社会をつくっているのは、他ならぬ我々ひとりひとりの「スティグマ」であり、スティグマがまだ生きていける人を社会的にも、物理的にも、殺しているのです。