最近になって、やたらと「モラハラ」「フェミニズム」のような内容にイライラする自分に気づいたので、掘り下げてみようと思います。
いったい私は、何が嫌なのか?
Twitterで流れてくる、こんな内容を見ると胸がざわざわします。
「自分が正しいと信じて疑わず、他人に『指導してやっている』というスタンスの人間がいる。それはモラハラだ。」
「男性は女性に対して尊重する気持ちがなさすぎる。女が不幸せなのは男が問題だからである。妻を大事にせず育児を手伝わない夫はクズだ。」
なんででしょうか。
実は自覚があって、自分が責められている気がするからでしょうか。
それとも、それらを『やられてきた』ことがあるから、哀しくなるのでしょうか。
それは両方であるように思います。
私は今まで世の中で正しいと思われていることを、正しいと信じて疑いませんでした。
正しいことをしていて、正しさを社会から認められ、他人より優れている自分は、他の人を導く立場だ、などと勘違いをしていた恥ずかしい過去の自分。
その自分の醜い姿を、目の前に突き付けられたようで、嫌な気持ちになるのでしょう。
もうひとつは、母親が父親に対して言ってきたことを、また繰り返し聞いているような嫌悪感があるようです。
男性が女性に配慮するのは当たり前で、世界一大切にしていて、妻一人だけを愛していて、子供に献身的で、家庭を大事にする、そんな男性だけが至高の存在で、あとは有象無象のゴミだというような理想論を、また金切り声で母親から聞かされているような気がします。
それに疲れて、タイムラインを見ると、心底うんざりするときがあります。
つまり、私は、自分自身の恥ずかしい自己認識や嫌でたまらなかった記憶の追想をさせるために、これらの「モラハラ」「フェミニズム」の話題が苦手なのであります。
ひとは常に正しくあることなんてできない
人間は、人間だから、いくらでもやり直せる、と思います。
とっかえひっかえみたいな、あれでダメならこれでいこうみたいな、適当なことをしてもいいわけがない、と思いがちですが、振り返ってみると、子どもの頃の夢を初志貫徹している人なんてわずか数%ではないでしょうか。
子どもの頃の夢を追いかけ続けなければならないわけではないように、私たちの人生は常に試行錯誤と決断の連続です。
その分岐点のたびに、トライ&エラーを繰り返しています。意識していないだけで。
私は、今までうまく人生を歩んでいると思っていました。
しかし、それはとんだ勘違いでした。何も知らなかっただけでした。
今、依存症になった人や、薬物問題で逮捕された人を、メディアで上から目線で断罪する人を見ると、過去の自分を見ているようで恥ずかしくなります。
「自分が正しい」という凝り固まったプライドを通してみているから、自分が見ている物事が歪んでみえていることに、全く気づけない哀れな人々。
そんな人々には見えないのです。
ひとは常に正しくあれるわけではなく、正しくないことのなかにも真実があるということが。
どんなひとも、他人をジャッジしていい理由などない
当事者でなければ、そして当事者であっても、本人以外に自分の決断が、良かったか悪かったかなど、決めることはできません。
本人ですら、決めかねるでしょう。それをなぜ、他人が上から目線で決めることができるでしょうか。できるはずがありません。
傷つけられたこと、自分らしく生きる権利の侵害、それに対してNoという権利は誰もが持っていてしかるべきものです。だから、私はある女性が、女性として出会った男性個人に、Noというならば、それは当然のことだと思います。
しかし、「男は~」とか「男性は~」という風に大きな主語で訳知り顔に語られると、どうしようもなくムズムズします。
全ての男がそのように下劣な感性しか持っていないのだと検証したのでしょうか。性別でくくることこそ、女性が最も忌避していることではなかったでしょうか。自分がされてもっとも嫌なことを無意識にしているのではないでしょうか。それはとても醜くみえます。
女性は、男性は、と大きなくくりで話すのなら、一生分かり合えないでしょう。
個性はそれぞれ違うし、人生のバックグラウンドだって違うのに、一括りにされて気持ちのいい人はいません。
「私の何を知っているのよ!?」ってなりますよね。
それなら、もういっそ結婚や色恋なんて全部やめにして、人類増えすぎたし、もろとも一緒に衰退しませんか?と言いたくなります。
よりよく生きたいしまだ死にたくないし、衰退なんて嫌だから、異性という相手を求めているわけで、うんざりなんだったらもう求めなくていいと思うし、語り合うなら、お互いにいい関係を築くためにどうしましょうか?という話をすればいいのに、と思います。
お互いに間違いも犯すし、苦難もあるでしょう。それでも一緒にいたいか、いたくないか、それだけなんじゃないでしょうか。
ジャッジしてお互いを指さしあいながら罵り続ける限り、両方ともが幸せになれない。
それが、男女の関係でただ一つ確かなことのように思います。
みんな、傷ついた思いを誰かにわかってほしいだけ
とはいえ、今なぜこんなに否定形の発信や怒りや悲しみに満ちた発言が充満しているのかといえば、この世の多くの人々が「この傷ついた気持ちをわかってもらいたい」という切なる叫びが聞き届けられていないからではないか、と思います。
肯定してもらいたいから、正しいことを言う。
正しいことはこの世で肯定してもらえることだからです。
今まで自分を押し殺して尽くしてきたにもかかわらず裏切られたり、陰ながらしていた努力を認めてもらえなかったりしたら、そりゃ辛いですよね。
誰かに、「間違ってないよ」「あなたは悪くないよ」「それは男が悪いよ」って言ってほしいと思うのは、当たり前の欲求だと思います。
でも、そのまま辛いっていうのは苦しいし、哀しい気持ちと向き合うのは辛くて怖いから、相手を正論で否定するほうが楽で、だから口をつくのはそのような罵倒する言葉なのでしょう。
本当は、「私は苦しい」「私はこんな生活は嫌だ」「私はあなたに認めてほしい」「私はあなたにわかってほしい」という『私』がどうか?ということが言いたいし話したいのだと思います。
それを聞いてくれる人がいなかっただけで、私たちは寂しかっただけで、悪くはないと思います。
傷ついた思いや今まで他人には話せなかった思いを話せる、それだけでその人の心の穴は埋まるような気がします。
まとめ:それは私のことである
ここまで考えを巡らせてみて、まさに私は、そのことが話したかったのだと思いました。
つまり、私は傷ついてきた、ということです。
私は、以下のことを当事者として自覚するのが遅すぎて、親や家族に言う機会を逸してきて、そのことに憤りを感じてきた、ということです。
・男性として良い彼氏・良い夫・良い父であることを強要するこの世界の常識が大嫌いで、私はその世の中の価値観とやらに、自分自身を否定されているように感じてきた
・その根本にあるのは、母親と父親の関係が良好ではなかったのに、正しさで塗り固められた歪な関係(少なくとも私からはそう見えた)をみてきたことで、私はそんな二人を見るのが辛かったし、母親の愚痴は聞きたくなかった
そんなに文句言うなら結婚しなくていいじゃん、と思っていました。
そんなに気に食わないならもういっそ全部やめたらいいじゃん、と思っていました。
それを聞かされているようで、イライラするんですよね。
まさに女性から男性に対する価値観の押し付けを感じていて、その行為を一種のモラハラだと感じてきました。男性が女性にするばかりではないんですよ。母親の男性に対する愚痴をずっと聞かされる息子は、母親からモラハラを受けているようなものです。そういう意味でも、男女は平等だと思います。
つまり、私のこの「モラハラ」や「フェミニズム」に対する妙な拒絶感というか不快感は、私の認知の歪みからきている、ということです。
もちろん、思想やツイートは自由ですし、それは個人の想いとして垂れ流してもらうのに何の意見もありませんが、私はこれからもイライラするでしょう。
それは私の問題である、ということがわかって、少し安堵しました。
今日はこのぐらいです。