月別アーカイブ: 2019年5月

【依存症】回復のそれぞれのタイミング=「啐啄同時」

こんにちは、ちあき です。

アルコール依存症の回復は三歩進んで二歩下がるような、一進一退の経過を辿ります。

それは本人にとってもご家族にとっても苦しい道のりです。

「なぜわかってくれないのか?」「なぜうまくいかないのか?」

歯がゆい日々に嘆く夜もあったのではないでしょうか?

今日は禅語で依存症からの回復について考えてみました。

 

「啐啄同時」って何?

「啐啄同時(そったくどうじ)」 という言葉がありますが、みなさんご存知でしょうか。

「碧巌録(へきがんろく)」の第十六則に

「およそ行脚の人は須らく啐啄同時の眼を具し、啐啄同時の用あって、まさに衲僧と称すべし」 という一節があります。

「用」=働き、「衲僧(のうそう)」=真の禅僧 の意味になります。

 

啐啄同時とは?

「啐」とは、今まさに生まれ出ようと雛が卵の中から殻を破ろうとすることです。

「啄」は、親鳥が外からくちばしで卵の殻をつつくこと。

それが同時というのは、生まれ出ようとするものと、それを手助けしようとするもののタイミングがピッタリ合うことを示しています。

出典:https://eyespi.jp/l00428/

 

禅語のなかでは指導者のための言葉として捉えられており、弟子が悟りに近づいたベストなタイミングを逃さずに指導するべきだ、というニュアンスでとられることが多い言葉です。

いずれにしても、『両方のタイミングが合ってはじめて、殻が破れる(変化や成長が訪れる)』というところが、この言葉のポイントだと考えます。

 

どんな良いアドバイスも受け取り手の準備が無ければ伝わらない

イネイブリングについて、三森みさ先生作・画、厚生労働省 依存症対策推進室監修の「だらしない夫じゃなくて依存症でした(三森みさ先生HPリンク)」第6話(厚生労働省漫画ページリンク)に詳しい解説が漫画でまとめられています。

そこから少し抜粋します。

イネイブリング とは?

依存症者の問題を助長させてしまう行為のこと。よく言われる対処法は2つ。

①お世話や尻ぬぐいはしない

たとえば、家族が、代わりに後始末をしたり、当事者の欠勤の言い訳を代わりに電話したり、代わりに謝罪したり、借金を肩代わりしたり、世話や尻ぬぐいをしてしまうと、本人がお酒を飲む問題に気づけません。本人の問題は本人に気づかせてやめるメリットに気づかせることが大切です。

②説教したり小言は言わない

正論を言ったり指導したりすること。心配して一生懸命言ったことが、当事者には家族に責められているように感じてしまい、現実逃避するため余計に依存するためです。

他にも漫画のなかには、ご家族が気をつけるとよい点がわかりやすくちりばめられています。

 

②「説教したり小言を言わない」は、依存症者同士でも当てはまる

同じ境遇の依存症者同士であっても、これは当てはまるのではないかと思います。

なぜなら、回復の過程において、受け取り方は異なることがあるからです。

断酒し始めて数ヶ月の段階では、多くの人が「これだけやめられたんだから節酒できるんじゃないか?」「うまく適量飲酒で付き合っていけたらいいのに」と淡い希望を抱くタイミングがあります。

そんなとき「いや!私たちはもう脳がイカレているんだから、断酒しかありえない!」と正論を言ったり説教をしたりしてスリップを回避させようとしてしまうことがあります。

断酒会で直接体験談を話す場でもそういう傾向がありますし、SNSでも「私は節酒で行けるんじゃないかと思う」というツイートに過剰に反応してしまう光景はよく見られます。

正直、その気持ちはよくわかります。

スリップした後に迎えた朝、もう自分が嫌いで嫌いでしかたなくなるあの絶望感と嫌悪感はそうそう忘れられるものではありません。

同じ思いをしてほしくない、と考えるのは、本当にその人を思ってのことでしょう。

しかし、それが逆効果になってしまうとしたら、願いと違う結果を招く行動は慎んだほうが、自分の為でもありますから、ここはぐっと堪えるべきなのかもしれません。

この場合の「受け取り手の準備ができている状態」というのは、スリップを経験しているか、その怖さを経験せずとも依存症の仲間の話から理解していて「スリップしたくないけど飲んでしまいそうだ」と仲間に弱音をさらけ出せるタイミングだと考えられます。

つまり、相手に準備ができていなくても、後々「ああそういうことか」と受け取ってもらえる私たちがかけられる言葉として『私の場合は○○だったから、私はもうコリゴリだ』というあくまで私のケースとして語ることが、最もお互いにとって優良なのではないかと考えました。

 


正直、これが正解かどうかもわからないけど、私はこうして発信しているSNSのアルコール依存症の方々が回復することを信じているし、私とは違う回復の仕方もあるかもしれない、とも考えているので、私が言える範囲のこととしては、これでよかったのかな、と思っています。

 

だからこそ知識と経験と心境は、ブログに書き留めておきたい

ここに、私が断酒ブログをはじめた理由があるとも言えます。

私は正直気難しくて他人のことをあまり信じません。

善意でかけてくれている言葉もどこか空虚に聞こえることがほとんどです。

「どこかに裏があって騙そうとしているんじゃないか」

「掛け値なしに優しくするなんてありえない」

「今まで学び経験してきた事実と異なりエビデンスが見当たらないので信ずるに値しない」

などと、素直に聞かずに突っぱねてしまう傾向にあります。

 

事実と統計学的優位差のあるビッグデータと敵意と悪意しか信じない

いや、信じたくてもあまり信じられないというべきでしょうか。

断酒会で先輩方が話す話ですら「そうじゃないな。長く辞めているくせに思慮が浅いな」などと不敬なことを思っていた時期もあるし。(こんな曲がった性格だから部活でもなんでも孤立してました。笑)

 

啐啄同時を願って、細々と書き続ける意義

だけど、後から「ああ、こういう意味だったのかも」と腑に落ちる感覚を味わった経験があります。

それは、私が受け取る準備ができていなかったときに受け取り、記憶の片隅に留まり、受け取れる準備ができた私の脳内に煙が立ち上るかの如く顕れて色を成す、そんな感覚でした。

 

もしかすると、依存症に陥る人やASDで生きづらさから依存症になった人は、同じような傾向をもっているかもしれない。

そんな人なら、自分でネットから情報を探すだろうし、そういうタイミングでなくては他人の経験や言葉をやすやすとは信じないだろう。

ならば、ほぼ永久保存版でWEB上に残るブログの形ならば、様々な人がその人のタイミングで検索して「ドライドランク」や「イネイブリング」などの単語からこのブログに繋がり、回復の糸口をつかんで帰ってくれるのではないか。

事実、私はそのような同じ境遇の人のブログを貪るように読んでいた時期がありましたし、それがきっかけで専門書や論文を読むようになり、知識を形成していったように思います。

だから、このブログがきっかけで少しでも悩める人が気づきを得られるようなことがあれば、これも立派なソーシャルワークだと思っています。

だから、ソーシャルワークはじめました、をブログ名にしている、というわけです。

そんなところで、今回は以上です。

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【メンタル】経験したことのない出来事に対する想像力が世の中を幸せにするという話

こんにちは、ちあき です。

Twitterですごく嬉しいことがありました。

今日はそれについてまとめてみようと思います。

 

経験したことがない体験を想像する

すごく嬉しいことというのは、以下のようなやり取りで今まで経験したことがない体験が具体的に共有できたことです。

 

私にとって経験したことがない感覚であっても、想像して具体的に「こんな感じかな?」と考えたことがドンピシャだといってもらえたことでした。

感覚が共有できれば、その人をもっと知ることができる。

その人をもっと知ることができれば、より優しくできる。配慮ができる。

だから、私はこの経験がすごく自分の中では嬉しいことでした。

 

実はこれが今欠けているものではないか?

「なーんだ、そんなことか…」

そう思った人もいるかもしれません。

でも、Twitterでの反響もすさまじく今まで見たことないくらい「いいね」と「リツイート」がもらえていて、やはりドンピシャの快感は共通しているようです。。

先日記事にした丸山穂高議員のニュースや、佐々木ゆうじ市議のツイート問題に共通するキーワードは、こうした『経験したことのない出来事に対する想像力』だと思うのです。

 

 

アルコールによる異常酩酊で暴言を吐いてしまった丸山穂高議員のニュースや、大麻所持で捕まった田口淳之介容疑者のニュースを見て「なんてダメなやつだ!」とただ非難するのは実に簡単です。

 

 

もちろんやってしまった失敗や罪は償わなくてはいけませんし、自分が迷惑をかけた人たちには謝罪するべきだし、自分の行動で失った信頼はもう元通りにはなりません。

でも、正しくないと分かっていても、やってしまったり失敗したりすることって、実は誰にでもありますよね。

でも、その前に、そもそも、絶対的正義なんてないんですよね。

今信じている「正しいこと」は、この世にいる全ての人にとって共通で正しいわけではありません。

誤解を恐れずに言えば、社会的なルールですら人間がお互いに生きやすいように「勝手に決めたルール」であり、社会的な生き物だからそれに従って生きていくほうが良いので「あくまで主体的に」従っているにすぎません。

経済的に成功しているから、とか

社会的地位が高いから、とか

有名大学出身で大手企業に就職しているから、とか

そんな社会的な価値は「相対的価値」であり、「絶対的価値」ではありません。

しかし、それを誤解して、社会的地位がある人ほど、自分が一番正しい、という「偏見」という名のバイアスがかかりやすくなってしまう傾向にあるようです。

受験で勝ち抜き、就職活動でも勝ち抜き、できるだけ減点が少ない人がのし上がるこの日本社会で徐々に欠落してきてしまったのは、「他人に話せないような恥ずかしい失敗をしてきた経験」なのかもしれません。

その経験があまりないから、想像できないのではないでしょうか。

失敗する人の心の痛みを。失敗して非難され頭を踏みつけられて砂をかむ苦しみを。

 

佐々木ゆうじ市議のツイートにみる想像力の欠如

宇佐美典也さんに絡んでいって猛批判を浴びた佐々木ゆうじ市議のツイートに如実に表れているなー、と思います。

問題になったツイートはこれです。↓

 

これを読んで思うのは、この人は、「この人の中ではそう」なんだろうけど、実際に依存症になって苦しんでいる人の感覚や依存症を専門に診察治療しているDrや医療関係者の医学的見解とは違う意見であり、自分はあまり失敗してこなかった=私は正しい、という思い込みから、『自分と違う意見も正しいかもしれない』という可能性すら、認められない視野狭窄に陥ってしまっているんではないか?ということです。

 

こんな持論を展開されて信じてしまう人がいては、依存症で悩む当事者や家族が苦しむことになるので断じて看過できない、ということで、私が反論した内容は下記の一連のツイートです。↓

 

 

 

最終的には「発達障害や知的障害が依存症の遺伝的素因であり、そういう人間は考えが甘いからとことん否定して追い詰めて誰にも頼らないように説教する」みたいなトンデモ理論を展開なさっていて、とてもじゃないけど、こんな偏見ゴリゴリの市議がいるようなところには住みたくないなと思いました。笑

 

自分と違う感覚や失敗体験も想像して理解してみようよ

 

 

人間は、それぞれ違って当たり前です。

依存症になる人間が間違っていて、そうでない人間がすべて正しいわけじゃない。

もし自分がその立場だったら?

それってどんな気持ちなんだろう?

ASD(自閉症スペクトラム障害)の私でも、たとえ話を通じて人と感覚を共有することができるんです。

みんなに全くできないなんてわけがないし、市議やエリートなど優秀な人なら、なおさらです。

失敗することって、そんなにいけないことですか?

今失敗した人を「なんてやつだ!」「即刻辞めるべき」「人として間違ってる」なんていう人は、生まれてこの方一度も失敗せず、人の手も借りずに生きてきたんですか?

そんなわけないですよね。

今5ヶ月になる娘は、一生懸命、毎日失敗しています。

立とうとしてよろけたり、うまく寝られなくて泣いたり。はじめての離乳食がおいしくなくて泣いたり(ごめん、お父さんうまく作れん…)。

産まれて物心つく前から、こんなにも失敗と成功を繰り返して、海よりも深く山よりも高い試行錯誤の連続を経て、私たちはここまで大きくなってきたのに。

なんでそんな私たちが、こんなに他人の失敗が許せなくなってしまったんですか?

いやいや何でも許さないわけじゃない?

じゃあなんで丸山さんや田口さんを目の敵にするの?

社会的に許されない失敗だから?

自分はこんな失敗しないから?

 

社会的に許されない失敗を、今後一切する可能性がない人なんて、いませんよ。

なぜなら、人生はいろんなことがあるからです。

予想だにしないことが、本当にたくさん、たくさん、あるからです。

そして、それは独りでは乗り越えられない試練であることがほとんどだからです。

 

介護施設で90歳を迎える方々と話しましたら、そりゃもういろいろありますよ人生。

戦争を経験している年代。殺しかけたことも、殺されかけたことも、死にかけたことも。

それらを乗り越えてきて、今施設で笑顔で話してくれるお年寄りが口をそろえて言うには、

「人生いろーんなことがあるで、独りではとても無理よ。そやけん、他人がいてくれて支えてもらうってありがたいことなんよ。いろんな人がおるけんど、自分だけのことばっかり押し付けたらいかんよ。みんなで助け合って生きていかねばこの歳まで生きるんは無理なんよ。」

 

何となくわかる気がしませんか?

娘が頑張る姿を見ていると、失敗したって、罪を償い反省して出直せる、失敗を活かせる寛容な社会や人間関係が実現すればいいな、と切に願ってやみません。

 

【依存症】ある日ふと浮かぶ「希死念慮」

こんにちは、 ちあき です。

毎朝の日課で抗酒剤を飲もうとして注ぐとき、以前は数日に一回のペースで、同じことを考えていました。

その考えること、というのは、「これ1瓶飲んで、アルコールをガボガボ胃か腸に入れれば、苦しみまくるけど死ねるなぁ」ということでした。

今日は、アルコール依存症の患者にとって身近な希死念慮についてどう考え、どう受け容れるか、について書いてみたいと思います。

 

たいがい生きているのは苦痛をともなうもの

生きていると、怒りや恨みや人間の汚いイヤーな面を見せ付けられる時間が、だいたい80%を占めています。感動や安らぎや喜びに触れられる残りの20%があるから、今日も生きてみようかな、と思えるものです。

定期的に、あぁ!もうなにもかも糞食らえじゃないか!もう全部さっさと終わりにしたい!と思う事があります。

でも、20%の楽しさと愛する人の存在があるから、アルコールと抗酒剤のブレンド一気飲み、みたいな暴挙には出ないで「いってきます」と妻に言ってでかけます。

そんな毎日を1日1日積み重ねていくのが、「一日断酒」なのかなぁと思います。

妻がいるから、まだ希望を持っていられます。妻みたいに、人をフラットにみられる人が、まだまだ世界中には沢山いるはず、と信じられるうちは、大概が苦痛でも、まだ人生やってみる価値があるんじゃないか、と感じるのです。

 

実は何もない

それらの今の希望の前提条件が無くなったら、もう本当に何も無いと正直思います。

やりたいこと、したいこと、ほしいもの、なりないもの。

そんなもんは全部タマネギのように一枚一枚剥いていけば、中心には実は何ひとつ無いです。

仕事で世の中の役に立つ以外、今の所、何もないが、それも果たしてどこまでやりたいのかわかりません。

今の仕事など、上から下りてくるのは最近お粗末な指示ばかり。

私はそんな薄暗がりの一本のトンネルのなかを歩き、今日も“たまたま”生きている。

生きているということは有り難いことだとは理解していても、
まれなものだからといって「有難がれ」「粗末にするなど失礼だ」と言われても困っちゃうと思うんですよね。

それはそう発言した人や思ってる人にはそうでも、同じ人間だから全員に適応される道理はないんじゃないか。

なぜなら、生きていることが良いことか悪いことかは、本人にしか価値を決められないから。

価値があるかどうかは人それぞれの感じ方次第で、価値が無いと思うことは悪では無いし、価値があると思うことが必ずしも全面的に正しくて素晴らしいとは、誰にも決めつけられないと思います。

ていうか他人にそういう「人生は素晴らしいよね」みたいなキラキラ教を布教されると「決めつけるなよな勝手に」と思ってイライラします。

価値があると思う人には有るし、価値がないと思う人には無い。

各々の『真実』はそれです。

そしてその『真実』は移ろう四季のように、あったりなかったり揺れ動き、1つ所に留まるような単純な概念ではないと思うのです。

今、この時、私は人生に価値がある、とまだ思っているし、思いたい。

そう願いたい。

それは、“酒を断ち、愛する妻と暮らしている”という今の生活の前提条件があるからです。

 

妻が死んでしまったら

妻が死んでしまったら。

子供らが自立して、もう思い残すことがなくなったら。

余命が幾ばくもないってわかったら。

私は、そのとき、どうするかなぁ、と正直思います。

今想像するには、人生の価値を「無い」と判断しそうです。

施設に入れたり、介護したり、そんな風に俺如きに無駄にお金を使わないでほしいし、そもそも人が嫌いだからひっそりとした山のなかにひとり捨て置いてもらいたい。

 

妻が生きているうちは、飲まない方が楽しいから飲まないけど、妻がいなくなった世の中なんて、正直クソどうでもいい、と思っています。

 

これが私の今までの考えあり、1日断酒の答えのひとつです。

 

 

この世もそんなに悪くない、と思えるようになる日が来る

その暗闇はなかなか消え去りませんが、ちょっとずつ日々の景色に色が戻って来る日もあります。

 

あ、子供のころこんなウキウキしたことあったかも…って気持ちが戻ってきます。

 

大丈夫ですよ。

だから、大丈夫。

今、もうこんなんやめてても、つまんないし、シンドイし、何の意味があるんだよ…

って思っている人も大丈夫。

また、「こんな毎日も悪くないな」って思える日が、また必ず来るはずだから。

 

自分にもそう言い聞かせて。

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【依存症】断酒日数は「競う」ものではなく「祝う」もの

こんにちは、 ちあき です。

 

アルコール依存症の私は、断酒会に通っています。

今日はちょっと断酒継続と断酒日数についての考え方を書いてみたいと思います。

 

断酒会で断酒日数を自慢する、あるいは年数が長いからとマウントしようとする人がたまにいます。

「私は100日以上断酒できているから〇〇さんより上だ」

「2年断酒もできていないのに断酒を語るな」

本当にそうでしょうか?

そしてそれは果たして重要なことでしょうか?

 

どんぐりの背比べ

みんな、アルコール依存症の患者は、同じ病の病人です。

そして、この病に「完治」はありません。

治る、という概念には相当せず、何年も止めているような人は「寛解」が続いている、と表現できます。

「寛解」とは、関節リウマチやがんのように、「いつまた起こるかわからないけれど現在活動は停止している」という状態のことです。

つまり、何年止めている人だろうと、結局みんな治っていないのです。

なぜか?「脳のドパミン報酬系回路が破綻して不可逆的な変化を起こしてしまっているから」です。

不可逆的、とは、もう元には戻らない、という意味です。ですので、一度この病になってしまうと脳は変化したままでもう二度と飲酒前の状態になることはありません。

自転車に乗れるようになったら、乗れなかった頃には戻れないように。

沢庵になったら、元の瑞々しい大根には戻れないように。

したがって、断酒している日数や年数で「病状」は語れても、患者の「優劣」は語れないと思うのです。なぜなら、脳の回路が狂っているという点で全く同じであり、スリップ(再飲酒)して苦しんでいるのは、明日の自分かもしれないから。

つまり、どんぐりの背比べです。

「酒を1日1日やめている」という一点において、アルコール依存症患者は全員が平等であり、優劣なく病人であり、同じ方向を向いて努力する仲間でしかないのです。

だから、アルコール依存症患者の仲間が断酒を継続できているなら、それは他ならぬ自分の分身ともいえる同志が傍らにいてくれている、ということです。

断酒という、世間には理解してもらいにくい病を患い、孤独に戦う日々に確かに見える光です。「心強い、独りではない」と自分を励ましてくれる存在です。

そう考えると、他人がどれだけ続いていてるからと言って焦ることはないということが分かります。

逆に、他人が続いていないからと言って驕り高ぶることはないということもわかります。

他人の断酒歴は祝うもの

私は、この病気になって大切なことに、ひとつ、気づきました。

今までは自分にも他人にも厳しくて少しの失敗も許せない人でした。

足りないところがあったらそれが目に付いてイライラする。

「これができてないくせに」と他人を下に見る。

そういうところがありました。そうやって他人を下におろすことで自分の価値が上がると勘違いしていた節がありました。

恥ずかしい限りです。

 

今思えば、それは、ひとえに、『自分に自信がなかったから』です。

 

しかし、やり方は人それぞれだし完璧な人なんていないということを学びました。

自分が優れている点を挙げつらい、「ほら俺が優れているだろう!」「こいつは馬鹿だけど俺は優秀だ!」とマウンティングしたとしても、それは非常に虚しいことです。

そんな行為は、「私は自信がないんです!」と、震えながら大声で叫んでいるようなもの。

完璧な人なんていなくて、私だってどこか欠損していて、だけど、だからユニークなのであって、何も恥じることはないし、みんな違って当然なのです。

人と比べなくては自分の居場所を確認できなくて、いつも落ち着かないのは、「自分が自分を認めてあげられていない」から。

あなたは、断酒しようと努力を続けているだけで、立派です。少なくとも頑張っているのは確実です。そもそも人生は土壌が千差万別なので、他人と比べるためのものではないのです。

 

MRの仕事でも、同じこと

私は個人的には前任者の人々を悪く言うのは好きではありません。

その人にはその人なりの正義があったと信じているからです。それぞれに多様な強み弱みがありそれを補っていくのがチームであり会社であるからです。

MRとは製薬会社の営業です。私たちは6ヶ月ごとの決算で計画の達成率をほかのMR・営業所平均・支店平均・全国平均と比較されて、上だ下だと毎回ジャッジされます。

そのプレッシャーは大きく、毎回100%でないと人間扱いされないほどです。

これは、「他人と比べて良いか悪いか」で物事を判断する典型的な悪い例です。

 

そして、その評価制度に洗脳されていった人間は、

担当していて思うように数字が上がらない場面で、自分を守るために「前任者が頑張ってなかったから」「あいつの顧客は偶々ラッキーな環境だけど、俺のエリアはそうじゃないから」という弁明というか、言い訳をします。

こういう人が多くてびっくりします。

他人と比べることがもはや手段ではなく、最終目的になってしまった人だけがいう、最高につまらない言い訳です。

 

私は前職では

「ポストが赤いのも自分のせいだと思って原因と結果に向き合え」

「純利益で事務員2名を含めて計3名分の年収が稼ぎ出せない人間は、会社の寄生虫だ」

と言われて育てられてきました。(笑)

とんでもないパワハラも日常茶飯事で、契約をとれなければ相談に提出した見積を先輩にくしゃくしゃにして顔に投げつけられましたし、深夜になり終電を逃したため事務所で寝袋で寝ているところを、早朝出勤した上司にわき腹ごとサッカーのシュートのように蹴りつけられて起こされたりしました。(笑)

そんな超ブラック企業時代、そんな言い訳は通用しませんでした。

パワハラが正しいとは言いません。パワハラは人格を壊します。非常によくありません。私は実際やられてとても嫌でした。

だけど、前職の上司を含めた営業たちは「利益という絶対的な生み出すべき結果」に対しては、限りなくストイックであり、決して「他人との比較」を言い訳にすることはありませんでした。

そこは、尊敬すべき姿勢だったと思います。

 

そんな言い訳を考えている暇があったら、自分の周りで起こる全てのことに対して、自分に責任の一端がある、と拡大して考える。

そこから改善策を考案したほうが、結果的に問題は早期に解決できるし、もう今、私が解決しなくてはいけないのです。

現在の「担当者」は「私」なのだから。

 

「誰が悪いか」を議論するために時間を使うのではなく、「どうやって解決するか」をみんなで考えるために時間を使うべきだと考えるのは至極合理的だと思いませんか?

失敗の大きさと犯人探しに目を向けるのではなく、次に起こさないためには、今解決するためにはどうしたらいいか、を常に考えられる人間でありたいと思います。

 

あとがき

私は、最終的に得意先が喜んでくれれば、世の中の役に立てれば、出世しなくても良いと思っています。

出世するために社内営業に明け暮れたりすることは、出世を目指す人には非常に大事に映るのでしょうが、実に些末なことです。

私たちは、ひとりひとりが関わった人々を笑顔に出来るなら、もうそれで充分すばらしいくて、その実現のためにいろんな社員がいていろんなやり方があってしかるべきなのです。

だめなところも弱いところも強いところも、みんなでさらけ出して助け合ってやって行けたらいいなと思います。

では、また!

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【依存症】禅・仏教に学ぶ 自分を責めなくてもいい理由

こんにちは、 ちあき です。

 

私はよく、自分という存在に、固執しがちです。固執して、苦しんできました。

「私」「俺」「僕」という一人称に。

 

俺が○○だからすごい。

私が○○をしてあげた。

僕は○○だからダメだ。

 

しかし、インドの大乗仏教に位置する唯識思想では、

『「自己」は、あるようでなく、ないようである。』

という考え方が存在するのです。

 

アイタタ!やべーやつじゃんこいつ! ((((;゚Д゚)))))))

 

などと、まぁ、ドン引きしないで、まずは読んでみてください。

今日はそんなお話です。

 

我々が慣れ親しんでいる西洋哲学がすべでてはない

デカルトの有名な言葉「我思う、故に我あり」が示すように、

 

有るか無いか。

0か1か。

白か黒か。

YESかNOか。

 

そういう西洋哲学的な思想方法に慣れている私たちからすると

先に挙げた唯識思想を「何を曖昧なことを…ふぅ(´Д` )」と感じるでしょう?

私もそう思いました。それで、当たり前だと思います。

 

しかし、その西洋哲学的思想も、インドの大乗仏教に位置する唯識思想も、『考え方の一つ』。片方からの視点では、お互いにどちらも是であり、どちらも非であるといえます。

 

つまり、人には人の考え方があるんだから、「どちらも許容する大らかさ」を持ってもう一度見てみてもいいじゃないか、と改めて内容を整理してみたのです。

 

唯識思想で考える「自分」の概念

「自分」という存在は、大きく分けるならば、考えをめぐらし、感じ、動き、

熱くも、冷たくもなる「心」と、何十億もの小さな細胞でできた「身体」の

集合体であり、『ひとつでありながら、ひとつではない』という解釈には一先ず納得できそうです。

 

 

例えば、真っ白な、どこまでも何もない、音も匂いも時間すらない空間があったとして、

私は「自分」が『確かに「ある」』と確信できるか、自信は持てません。

 

例えば、屈強な軍人たちの中では

「自分」はひ弱な存在にもなるし、

反対に本の虫たちの中では、

「自分」は逞ましい存在となるように、

何かがあって、「対象に反響」することで、私たちは「自分」を初めて意味づけできています。

 

物理学において、「圧力」をかけると、「反発する力」として「斥力」が生まれますが、まさに、「自分」とは「斥力」のようなものと仮定しているのが唯識思想です。

(「圧力」がなければ無いものになるが、「圧力」の存在があれば、「確かに有る」ものでもある。)

 

そこから考えて、自分で自分に下す「自己評価」を確認すると、それが『実に不正確なもの』というのがわかります。

 

ダメなやつ、

勇気がない、

失敗ばかり、

弱い…

 

いったいなぜそう言い切れるのか?

自己評価のまえに、自分すら有るようで無く、無いようで有る、曖昧な存在。

その存在を正当に評価することは極めて困難です。

 

己の心が決める世界観 アドラー心理学的視点

つまり、決めつけているのは、己の心です。

 

脳神経科学の分野においても、イメージングすることでの神経伝達物質による影響が発見されて研究されています。

 

例えば重要な顧客に対して1回きりのプレゼン大会があるサラリーマン男性Aさんを仮定します。

 

「緊張する、私なんかうまくいかない、ダメだ」と脳が認識しただけで、神経伝達物質のひとつの「ノルアドレナリン」が過剰に分泌され身体に作用して、筋肉を緊張させ、血圧を上昇させ、イメージの通りに大舞台で、見事に「ダメな自分」を実現させようとします。

 

落ち着いた、成功できるイメージを持っていると体は、セロトニンという物質が分泌しており、「自分が話すことは相手に伝わる」「バランスよく状況を認識して話せる」という「イメージ通りの成功する自分」を実現させようとします。

 

プレゼンするAさんの身体的な状況やスキルは全く同じ状態なのに、全く逆の未来を、心が左右して実現させます。

 

 

 

この部分は、西洋でありながら「あなたはあなたが望む通りの現実を創り出している。」とするちょっと前に流行った「アドラー心理学」の解釈にも似ています。

 

アディクションに苦しむ自分を望んでると答える人はいないだろうが、実は自らが望んでアディクションに飛び込んでいるのだ、というのが、アルコール依存症において「アドラー心理学的立ち位置から見た場合のとらえ方といえると思います。

 

アディクションに陥ることにより、以下の目的を果たそうと無意識に動いていたのかもしれません。

 

「生き辛さに向き合わずに済む」

「家族に向き合わずに済む」

「仕事での無力感に向き合わずに済む」

「誰も構ってくれない孤独と向き合わずに済む」

 

みな、自分の願望を叶えるためにあえてアディクトになった、そう歩んできたのは隠れた己の意思だ と、アドラー心理学では考えるからです。

 

 

唯一絶対の正解や正義など存在しない

以上のことから、その自己完結的な思考が正しいか間違っているかは抜きにしても、心が「自分」をどう定義するかは非常に影響力が強いと言わざるを得ません。

 

ただ一つ言える確かなことは、「自分」だと信じる心と身体が、「識」することにより、世界は今のところ、この瞬間瞬間には、輪郭を成しているということです。

 

だから、その見え方感じ方捉え方は、人によっても状況によっても違って当たり前で、むしろ「同じでなければならない」という同族意識、「こうでなければならない」という常識、これらに全方位からみても、全て正しいことは、実は一つもないのだろう、ということです。

 

「確からしい」と特定多数の人が認識している「常識」や「当たり前」は、実は、白でも黒でもありません。

 

「常識」や「当たり前」から少し外れていたから、なんだと言うのでしょう。

 

それが悪か善か、正しいか間違いか、天にしかわからない。

天にもわからないかもしれない。

 

だから、「こうなんじゃないかな」と思ったなら、とりあえず、やってみるしかありません。

やってみて、「あれ?こうなったか」とか「やっぱりこうした方が楽しいな」とか、挫折や失敗を繰り返して、物事は道理に従い、なるようになっていくものなのです。

 

心配したってしかたない。

 

全てあやふやでも、完璧に確かなことなどひとつもなくても、それで、良いのです。

だって、そうでしか、ないのだから。

 

この歩みは、頼りないように見えて白と黒のあいだを渡り歩く力強いもの、これがすなわち、「中道(中庸)」です。

 

中る(あたる)道と書きます。

心に中る=心中。アルコールに中る=アル中。

断酒道にも、「中道」の精神が共通していると私は考えています。

 

だから、自分を責めたり思い悩むことはない

ここまでくるとお分かりいただけたと思いますが、実は自分に関する優越感や劣等感など、実にあやふやで気にしなくていい、どうでもいいことだ、ということです。

 

「常識」や「当たり前」や、「成功」や「失敗」も、全てあやふやです。

 

なるようになる。明日のことなど、自分の全てなど、完璧にはわからない。

心配したって仕方ない。

だから、自分を責めなくていい。

心が決めたことを、腹くくってやればいい。

心がいいと思うことを、唯唯、やればいい。

 

そう思うと、なんだか肩の力が抜けて楽になってきませんか?

 

存在しているものを許容するごとに、「自分」を映す鏡が広がっていくような感覚。

 

それは「斥力」に例えられる「自分」が、神経が、世界が、価値が、広がっていくことなのだと思います。

 

だから、私からみて『至った』人たちは皆、『皆さまに、生かされている』と表現するのだろうな、と思います。

 

彼らは、他人は自分の一部と考えているのです。

 

だから、そのままで生きていて安心できるのです。

なぜなら、他人といても、他人すら、「自分」の範疇だから。

 

だから、断酒会にいくと私たちは安心するんだと思います。

断酒会のメンバーはみな、どんな状況にあっても、どんなにダメでも、何度失敗したとしても、もう一人の自分だと思えるからです。

 

だから、マザーテレサのように、認められることを全く目的としない慈愛の心を持つ人の生き方は、どんなときも幸せなんだろうと思います。

 

他人のことを真剣に応援できたり、みんなに貢献するために頑張れたりしますが、それは、みんなに対してであると同時に、みんなという「自分」に対してでもあるから。

 

「自分」ごとだから、夢が叶ったら自分のことのように嬉しいし、悲しいことがあったら、共に涙を流して悲しむし、誰かと誰かが争っていたら、心が痛い。

 

 

宮沢賢治の、アメニモマケズが心に響くのは、おそらく「真理」に限りなく近い「慈愛」という概念が文章化されているからなんじゃないかと思っています。

 

『三輪清浄の不分別智』という考え方だそうです。

自分 他人 その間での行為 を、分けない。

AがBにしてあげたとか、自利と他利を分別したりしない。

優劣をつけたりしない。

上下関係をつけたりしない。

自分が他人にしたこと、他人が自分にしたことは、自利であり、他利でもある。

 

そのような認識に基づいて「慈愛」にただ誠実に生きることで、自分は清く在ることができ、他者にも温かさを感じてもらえるのではないでしょうか。

 

私にとっての幸せは、そのような人であること。

やっと私の幸せはここに輪郭を顕わしたと言えます。ここまで長かった…。

 

長文にお付き合いいただきありがとうございました。

では、また!

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【依存症】映画に学ぶアルコール依存症の怖さ(『ウォーリアー(原題:Warrior)』2011年アメリカ)

こんにちは、 ちあき です。

ウォーリアー』(Warrior)は、2011年アメリカ合衆国のスポーツドラマ映画。 ギャヴィン・オコナーが監督・脚本・製作を務めた。 主演はジョエル・エドガートントム・ハーディ。 (Wikipediaより)

トム・ハーディといえば、現在人気公開中の『ヴェノム(Venom)』で主演を務める肉体派の俳優さんです。 めっちゃ筋肉がかっこよい人で、『White&BLACK』のときからかっこいい人だな、と思っていましたが、この『ウォーリアー』では群を抜いて鍛え上げられています。

肩と背中とか、もう、プロの筋肉です。  

 

そんな映画にアルコール依存症のお父さんが出てきて、いろいろ思うところがあったので、書きたいなと思います。

アルコール依存症の家族に対する傷は限りなく深い

お父さんが一人孤独に暮らしているところに、トム・ハーディが演じるトミーが帰ってきたところから物語は始まります。

お父さんはアルコール依存症で現在1,000日断酒継続中。 なんだか親しみがわきませんか? しかし、そんなお父さんにトミーはかなり他人行儀です。

なぜなら、トミーとお母さんはお父さんの酒害に耐えかねてお父さんから逃げたのでした。 そしてお母さんは逃げた先で呼吸器系の疾患にかかり、逃亡先で薬も買えず亡くなっていました。 トミーは父親に激しい憎悪を抱きながらアメリカ海兵隊に入り、とある理由で退役していました。

彼はお父さんに「お前に何の感情もないが、トレーナーになれ」とトレーニングのコーチを依頼するのですが、お父さんが昔の絵や思い出を話し出すと、「いいかよく聞け。そんな絵を持ってくるな。トレーニング以外でお前と話すことは何もない、くだらないことで話しかけるな。」と一蹴します。

兄のブレンダンは、お父さんのもとに逃げずに残り、その後教師になりましたが、お金がなく苦しんでいます。愛する妻と二人の娘と家を守るため、危険な総合格闘技の試合に出てお金を稼ぐことになります。

兄のブレンダンも、お父さんには憎しみがぬぐい切れません。自宅に押し掛けてきたお父さんに対して、こう言い放ちます。

「いいか、連絡をしたいなら電話か手紙にしろと言っているだろ。来るな。許してくれというなら許すが信用するわけじゃない。1000日がなんだ、ふざけるな、どうでもいいよそんなことは。孫に会いたい?お前はもう家族じゃない。」

お父さんは、1000日断酒して変わった、信用してくれ、と懇願しますが、「そんなことどうでもいい」と、家族にはもう忘れたくても忘れられない深い深い傷と溝ができているのです。    

こんなおじいちゃんにはなりたくない

家から覗いていた孫娘二人が「あのおじさん、だれ?」というシーンで、もう「うわー…」ってなりました。

「あんなに大きくなったのか!」と嬉しそうに近寄ろうとするお父さんを目で睨みつけて、娘たちに「知らない陽気なおじさんだよ、さあ中に入ろう、早く。」というブレンダン。 「家でコーヒーでも、」とまだ話しかけているお父さんをしり目に、突き放すように扉は大きな音を立ててしまるのでした。

  どう思います?

  でもこれ、酒害者のご家族からしたら当然の反応ですよね?

  今まで「もうやめて」と言い続けてきたのに、何にも変わらず酒ばかり飲んで暴言暴力してきた人間を、信用することは難しい、というか普通不可能に近いです。 憎しみは海よりも深く、怒りは山よりも高いでしょう。 しかも腹立たしいことに、本人は酒におぼれていて自覚がないというか、罪の重さを理解していないで、「そんなに冷たくするなんてひどいじゃないか」とか言っちゃうんですから。    

酒害者とその家族の間には、大きな認識の隔たりがある

酒害者にとっては、酒をやめるのはそれはそれは大変なことで、毎日鉋で骨を生きながら削られるような思いをして1日1日断酒しています。 それは例えるなら、今まで杖にしてきた「アルコール」という支えを失い、折れた足で毎日10km走れというようなものです。 不眠症の患者さんが、ある日突然、「これは体に悪いから飲んじゃダメ」と言われて睡眠薬を取り上げられ、毎日眠れない日常にいきなりぶち込まれて絶望する感じに似ています。

でも、ご家族からすると、 「あんなひどいことをする人が酒をやめるのは当然」であり、 「酒は好きで飲んだんだろう、好きでそんな風になったんだから自業自得」 「酒を飲んでいようと本人がしたことなんだから、本人の性格の問題」と思うでしょう。 それは、知識がなければ自然な感情だし、もし反対の立場だったら、もういっそのこと死んでくれよ、って願ったりしてしまうと思うんです。

もう数十年断酒している旦那さんの奥様の話を聞く機会がありました。 旦那さんが酔いつぶれて寝ている隣で、毎晩こう囁いていたそうです。

「頼むからしんでくれ。なあ、頼むからしんでくれな。自殺はしないでおくれ、保険金が出ないから。どこぞで車にでも轢かれて、事故で死んでくれ、な。頼むから今までお酒につぎ込んできた、そのお金、保険金で返してくれな。」

  ぞっとしました。

  私は、「ああ、これ俺飲み続けてたら絶対こうなってたな」と思って、 心底ぞっとしました。    

断酒で許されるとかではなく、「もう飲んではいけない」ということだけが真実

よく、許されることを私たちは期待してしまいますが、それは本当にご家族からしたらお門違いも甚だしい話なんだと思います。

一生許せるわけない。で、話は終わり、ジ・エンドです。 「もうどうでもいいけど、今後一切飲むなよな。」というのがご家族の本音だと思います。

まだ、あなたのお酒を「もう少し控えて」とか「飲みすぎなんじゃない?」とか「もういい加減にして、あなたの体が心配」とか言ってくれているうちが花です。  

一回諦めたら、人はもう何も、期待しないし言わなくなります。

  「お前がそうぐちぐちいうから飲むんだ!」とか言って、お酒を抱え込んでいませんか? そのうち、気が付いた時にはトミーのお父さんみたいになっていますよ? 孫にも会わせてもらえない、寂しく「1000日たったんだと、信じてくれ」と誰も聞いてくれない独り言をつぶやくだけの人生を送ることになりたくないなら、 いま、ここで、立ち上がるべきなのです。      

 

 

では、また!

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【依存症】依存症に対する偏見の深刻さ

こんにちは、ちあき です。

丸山穂高議員の言動に端を発した辞職勧告案が立憲民主党や日本維新の会など野党6党派から提出されました。

日本維新の会代表の松井一郎大阪市長は15日、日本記者クラブで会見し、戦争による北方領土返還を元島民に質問し、維新から除名された丸山穂高衆院議員について「ことの重大さに早く気付いて、潔く身を処すべきだ」と述べ、重ねて議員辞職を促したとのことです。

この騒動を見ていて、日本の依存症に対する理解の無さについてちょっと思うところがあり、まとめてみました。

 

 

そもそも、丸山穂高議員は何を言って問題になったの?

下記の北海道新聞の記事がわかりやすいので、抜粋いたします。

唐突に領土問題投げかけ/周囲の制止聞かず 丸山議員 国後での言動

ICレコーダで取材中に「団長、団長」と呼びかけ

 訪問団は10日に根室港を出港し、国後島古釜布に滞在した。11日午後4時ごろから、団員は12班に分かれてロシア人島民宅で交流し、午後7時半ごろから宿泊施設「友好の家」に順次戻った。その後、団員約10人が友好の家の食堂で飲酒を伴う懇談を始め、丸山議員もその中にいた。丸山議員は帰港後、記者団に島民宅や懇談で「酒をたくさん飲んだ」と証言している。

記者は他の同行記者1人とともに午後7時40分ごろから、食堂の端で大塚小彌太団長(90)に対し、ICレコーダーを使用して取材を始めた。午後8時すぎ、離れた場所で懇談していた丸山議員が「団長、団長」と大きな声で呼び掛けた。当初団長は応じなかったが、丸山議員は団長の横に座り、日本人墓地を巡る議論を投げかけた。

唐突に始まった領土問題の会話

 その後、唐突に領土問題に関する会話が始まった。

丸山氏「団長は戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」

大塚氏「戦争で? 反対です」

丸山氏「ロシアが混乱しているときに取り返すのはオッケーですか」

大塚氏「いや、戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」

丸山氏「でも取り返せないですよね」

大塚氏「いや、戦争するべきではない」

丸山氏「戦争しないとどうしようもなくないですか」

大塚氏「いや、戦争は必要ないです」

(中略)

丸山氏「何をどうしたいんですか」

大塚氏「えっ」

丸山氏「何をどうしますか」

大塚氏「何をですか」

丸山氏「うん。どうすれば」

大塚氏「どうすれば、って何をですか」

丸山氏「うん」

大塚氏「いや。何をどうすればいいって言って」

丸山氏「この島。この島を」

大塚氏「それを私に聞かれても困ります。率直に言うと、返してもらったら一番いい」

丸山氏「戦争でも」

大塚氏「戦争なく。はい。戦争はすべきではないと思います。これは個人的な意見です」

丸山氏「なるほどね。そうでございますね」

大塚氏「早く平和条約を結んで、解決してほしいです」

注意を聞かなかい丸山氏 深夜まで騒ぐ

 この後も丸山氏は大塚氏への質問を続け、大塚氏や他の団員、訪問団事務局員らが注意したが、丸山氏は聞かずに取材は中止に。午後8時15分ごろ、大塚氏は「先生、失礼します」と言って食堂を出た。丸山氏は深夜まで食堂や廊下で大声で騒いだり、事務局や外務省職員の制止を聞かずに外出しようとしたりした。

複数の団員が「元島民に失礼な発言だ」「騒がないでほしい」などとして丸山氏に抗議。事務局にも苦情が相次ぎ、翌12日の朝食時、丸山氏が事務局員に促される形で陳謝。昼食時にも団員を前に「ご迷惑をかけたことをおわび申し上げます」と謝罪した。(今井裕紀)

5/17(金) 17:57配信 北海道新聞 より

この様子をみてどうでしょうか?

明らかに酒に酔って前後不覚になっている様子がわかりますね。

もちろん、私はこの発言を擁護する気はありません。

戦争は繰り返してはならない悲劇だし、領土を戦争で取り返そうなどというのは戦国時代に逆戻りであり平和と民主主義に則って議論の中で解決策を見出そうとするべきです。

だから、丸山穂高議員が今回発言した内容については、残念ながら政治家として発言するには思慮が浅かったと言わざるを得ません。

 

丸山穂高議員は以前にも飲酒で問題を起こし「禁酒」していた

私たち依存症の既往歴のある人間から見て、どうにも引っかかるのは、ここです。

ご本人のtweetから引用します。

 

 

2016年1月なので、3年前ですね。

そのときの事件が下記のような内容でした。

 

飲酒が原因で問題を起こして「禁酒」を宣言していた、ということは「社会生活に困難を感じていた」のですから、そこで止めることができれば依存症ではありませんが、こうした困難を経験しているにもかかわらず「ほどほどにできない」「やめることができない」場合は、依存症か依存症の予備軍であると考える、と厚生労働省の依存症対策HPに記載されています。

 

やめたくても、やめられないなら...

アルコールや薬物、ギャンブルなどを“一度始めると自分の意思ではやめられない”、“毎回、やめようと思っているのに、気が付けばやり続けてしまう”それは「依存症」という「病気」かもしれません。

依存症は、一般的なイメージでは、“本人の心が弱いから”依存症になったんだ、と思われがちですが、依存症の発症は、ドーパミンという脳内にある快楽物質が重要な役割を担っています。

アルコールや薬物、ギャンブルなどの物質や行動によって快楽が、得られます。そして、物質や行動が、繰り返されるうちに脳がその刺激に慣れてしまい、より強い刺激を求めるようになります。その結果、物質や行動がコントロールできなくなってしまう病気なのです。

また、依存症は、「孤独の病気」とも言われています。

例えば、「学校や職場、家庭などとうまくなじめない」といった孤独感や「常にプレッシャーを感じて生きている」、「自分に自信が持てない」などの不安や焦りからアルコールや薬物、ギャンブルなどに頼るようになってしまい、そこから依存症が始まる場合もあります。

さらに、依存症は「否認の病気」とも言われており、「自ら問題を認めない」ため、本人が病気と認識することは困難です。一方、家族はアルコールによる暴力やギャンブルによる借金の尻ぬぐいになどに翻弄され、本人以上に疲弊するケースが多くみられます。

「(家族や知人が)依存症かもしれない」そう思ったら、1人で抱えこまず、また1人で解決しようとせずに、まずは、お近くの「保健所」や「精神保健福祉センター」に御相談ください(本ページからでも検索することができます)。

家族や友人など周りの人が、依存症について正しい知識と理解を持ち、当事者の方を早めに治療や支援につなげていくこと。それが依存症を予防し、また回復につなげる大事な一歩です。

厚生労働省ホームページ 依存症対策 より

 

個人的には、三森みさ先生の「だら夫」然り(ブログ記事:【依存症】厚労省監修の依存症啓発漫画がスゴすぎる件)本当に厚生労働省にはちゃんと考えてくれている人がいるんだな、と思います。

依存症対策に真剣に取り組んでくださる優秀な方が政府としてきちんと対応を検討してくれるのはとても素晴らしいことです。

 

さて、話がそれてしまいましたが、このように丸山穂高議員はもしかすると違うかもしれませんが、アルコール依存症(もしくは予備群)の可能性があるので、「家族や友人など周りの人が、依存症について正しい知識と理解を持ち、当事者の方を早めに治療や支援につなげていくこと。それが依存症を予防し、また回復につなげる大事な一歩です。」という文言に則り、支援につなげていく必要があります。

もし違ったとしても、専門の医療機関や支援に繋がり、そうではなかった、とわかるだけでも本人やそのご家族、そして一緒に活動していた日本維新の会やその代表は病気を視野に入れて丸山穂高議員の今後を一緒に考えることができます。

しかし、そのような兆しはまるでなく、ただ責任を取らせてやめさせよう、という「要らなくなったゴミは早く捨ててしまおう」「失敗したやつをつついて問題にして引きずりおろそう」という魂胆が透けて見える議員たちの対応に、がっかりせざるを得ません。

それで本当にギャンブル依存症対策ができるのでしょうか?はなはだ疑問です。

 

ギャンブル等依存症対策を進めるためにも模範を示してほしい

日本維新の会は「ギャンブル等依存症対策基本法案」を参議院に提出し積極的に対策を取り組む姿勢をみせています。

この法案の目的にあるように、「予防等(発症、進行及び再発の防止)、医療の提供等による回復等を社会的な取り組みとして総合的かつ計画的に推進」を本当に実行するためには、まずは元身内のアルコールによる不祥事を切り捨てて「我々は関係ない」と突き放すのではなく、「予防等及び回復を図るための対策の適切な実施、本人及びその家族が日常生活及び社会生活を円滑に営むことができるように支援」する必要があるのではないでしょうか?

自分たち優秀な政治家は、この法案には当てはまりませんか?

それこそ、依存症の本質を全く理解していない、と言わざるを得ません。

そのような人々がいくら「絵に描いた餅」を法案にしても、世の中は何も改善されません。

誰でもなる可能性がある。

だから、対策をとらなくてはならない。

それは議員だろうが、一般市民だろうが、人間である以上変わりなく平等にリスクと権利があるのではないでしょうか。

 

一方で、丸山穂高議員の失敗に対して依存症の知識が乏しい一般的な人たちが、偏見や嫉妬や正論を振りかざし快感を得るために丸山穂高議員を攻撃し、もし依存症なら回復を遅らせるような発言をしていて、それに「いいね」が多数ついているのもこの国の悲しい事実であり現状です。

 

 

このように、アルコールを摂取した状態での失敗や不祥事に対して個人の「人格」の問題だと見誤ったり、禁酒(断酒)を簡単にできるものと誤解したりする理解の無さ、つまり偏見や差別がアディクションに対する見方を歪め、社会を生きにくくしていることに、大多数の人は残念ながら気づいていないようです。

 

 

このような無知や誤解を解き、社会を改善できるようなソーシャルワーカーとして、一刻も早く資格を取得して、率先して啓発活動をやっていけたらいいなと考えております。

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【発達障害】私の正論へのこだわりは「正論への恨み」から来ていたという話

こんにちは、ちあき です。

さて、私はASD(自閉症スペクトラム)という発達障害で、ADHD(注意欠陥・多動性障害)も併存しているタイプです。

そんな私は正論に対するこだわりが強い傾向にあり、よく会議やディスカッションになると論理的に正しいかどうか、社会的に意義があるかどうか、という視点で考えてしまい、よく他人の主張や感情とぶつかります。

言っちゃえば、すぐ揉めます。

このように、中堂系さんみたいなことを会議で言ってよく空気が最悪になります。

なんでなんだろう…?と思っていた矢先、Twitterで素晴らしいサイトに出会いました。

 

私がハッとした「アスペルガー研究家マスペルさん」のtweet

 

 

マスペルさんのサイトがこちらになっており、詳細が掲載されています。

サイトから引用させていただきました、こちらの文章が実におもしろい。

 

アスペルガーASDは皆元々は積極奇異型であるという仮説

私の仮説にアスペルガーASDは元々は積極奇異型であるというものがあります。

積極奇異型は最も感情的で自己本位なタイプと言われています。

感情的、自己本位的に振る舞った結果周囲の人との間にコミュニケーションの問題が起き、これじゃダメなんだと思い自分を抑えて周りの言うことを聞くように適応していくと受動型へと変化していくと思われます。

受動型になると周りの言うことに合わせて自己を抑え合わせるのでどんどんとストレスが大きくなっていきます。

その結果もう限界だと感じるようになると自己を抑えることをやめて他人から遠ざかり関わることをやめる孤立型へと変化していくと思われます。

ツイッターでこの仮説についてツイートしたところ、子どものときはガンガン自分から行く積極奇異型だったが大人になっていくうちに周りと衝突し孤立型になったというリプライや、受動型だったが周りに合わせるのがしんどくなって孤立型になってきたというリプライをいくつもいただきました。

 

この考察をもとに私の成育歴を振り返る

先ほどのtweetに対する私の反応がこちらです。

興奮してます。笑

 

 

①積極奇異型シーズン:生後~小学校低学年

とにかく幼稚園でも学校でも習い事でも浮きまくっていました。笑

どこに行っても仲間外れにされたし、いじめられました。

言いたいことを言語化できないもどかしさで殴ったり物を投げたりする攻撃性を大人からも子供からも非難されたことや、ドハマりすると24時間でも延々平気でやってしまう極端さが「集団で仲良く遊ぶ」という幼稚園や学校が奨励する価値観と真逆で『厄介な子供』扱いされたことなどが、背景にあったように思います。

当時は、美術と図画工作が好きでした。

材料を使って『好きなように何をしてもいい』という授業は心が躍りました。

しかも、好き勝手に発想したことをやればやるほど褒められる。

こんなことは他の授業や習い事では未だかつてなかったので、どんどんエキセントリックなことをやりました。

それが気に入らないいじめっ子が、賞をもらった私の絵を一生懸命「たいしたことない」と罵り、嫉妬からいじめが激化しました。

やがてそうした副作用が面倒になり、美術や図画工作も楽しくなくなりました。

そんな感じでどんどん歪んでいった私はだんだん周囲の人間は憎いもの、という認識を形成していき「俺から時間や尊厳を略奪したり大好きなものをこき下ろすクラスメイトなど、敵と同じだ。敵なら自分がやられる側でも文句言えないだろう」などと考えはじめ、いじめっ子や日和見主義のクラスメイトたちにいじめられたらとにかく『奪われたら奪い返す。やられたらやり返す』という生き方をしていました。

 

②受動型:小学校高学年〜大学2年

そんな生き方をしてきてどんどん嫌われていきました。

私が発言すれば皆が異を唱える、という具合で、四面楚歌になり、学校で終業間際に行われる「クラス会」は毎回紛糾しました。

まさに私にとって会議は今も昔も鬼門です。

多勢に無勢。

徒党を組まれてはたとえ独りで奮闘していてもいずれ押さえ込まれ屈服させられる。

今までのスタイルに対して敗北感と危機感を持ち始めます。

 

私小学校3~4年のころだったと思いますが、ある事件が起こりました。

ある日、砂場で一人きりで丹精込めて作っていた砂の城を、いじめっ子の主犯格Fくんが

「イエーイ」と言いながら踏みつぶしてきました。

ニヤニヤしたその顔を見た瞬間、私の中で何かが切れました。

追いかけましたが、足が相手のほうが早いので勝てません。

先生を呼ぼうか…いや、大人は私を認めてくれないのであてになりません。

しかたない。自分で報復するしかない。

私はその子のランドセルの中身が大事なものだと知っていたので、置いてあるランドセルをつかんで走り、池に投げ捨てました。

その子は泣きながら私に蹴りを入れようと走ってきたので、身を躱したところ、池に落ちました。

それを見て千載一遇のチャンスに舌舐めずりしました。

「こいつは何回も『やめてよ』と訴えたがいっこうに改善されないんだからしかたない。最早ここで殺すしかない。」

とランドセルをつかんで上がろうとするFくんの顔や手を踏みつけて池に蹴り落とし続けました。

誰かが通報したのか、先生が慌てて2~3人飛んできました。羽交い絞めにされるまで、ずっとその子を殺そうと蹴り落としていました。

その事件はクラス中を戦慄させました。

私が大した力がないと見くびっていたいじめっ子グループや日和見主義のその他大勢も、私を恐れているのが翌日のクラスの様子で分かりました。

ここらで『擬態』するしかない。

私はその突き落として殺し損ねたいじめっ子の主犯格Fくんに作り笑いを浮かべて

「昨日はごめんね」と皆の前であえて自ら歩み寄るポーズをとりました。

これでどちらが人間的に上か印象付けることができる、と考えて先手を打ったわけですが、

これが功を奏して「怒ると怖いけど優しい」というイメージを周囲に鮮烈に植え付けることができました。

 

そこからとにかく他人に気を遣う生活になりました。

学校では登校時と下校時が最も苦痛でした。

なぜか?あいさつしなくてはいけないからです。

もれなくあいさつしなくてはならない。目が合ったりすれ違ったのに挨拶をし忘れて「無視した」と思われてはならない。笑顔で過ごして印象を悪くしてはならない。

集団で団結したときの他人の脅威をこちらに向けられないよう過ごしていたら、うわべだけの友人・仲間がたくさんできました。

自分の気持ちを押さえつけて押さえつけてとにかく集団に馴染む。擬態する。

安全でした。でも、実につまらなかったです。

 

③孤立型になりかけ:大学3年〜今

少し本音を出したり自分を出すと、不協和音を奏でる私の性質に辟易として、他人との関わりにもう限界を感じ始めた高校時代。

大学に入り、アルコールを知りました。

アルコールを飲めば前頭葉を麻痺させ感情を開放して普段押さえつけている本音が出せる。

受動型でため込んできた鬱屈したストレスを開放することができる。

しかも、「酔っていたから」という理由で多少破天荒なことを言ってもやっても許されるので、どんどん酒にハマっていきました。

これが悪魔的に素敵に愉快にキマってしまい、良くも悪くも相乗作用を発揮したといえます。

特に親しい友人数名としか飲み交わさず、本音も明かさず、話さなくてもいい、最低限の繋がりのみで生きていける大学生活はかなり快適でしたが、それも長くは続きませんでした。

そう、社会人生活です。

私立大学で、通称「やめと経済学部」と揶揄される文系の有象無象が集うマンモス学部、経済学部をただ卒業しただけの、なんの特色もない私が行きつく新卒採用ポストは、定番の営業職しかありませんでした。

嫌でも毎日他人と話をしなくてはなりません。

それが仕事だから。

受動型の時代とは比較にならないほどのストレスを抱えていきます。

それを晴らすために毎日浴びるように飲みます。

その結果、社会人にあるまじき失敗をするようになります。

どんどん自尊心が削られていきます。

次第に必要最低限のことしか話さなくなり、失礼だなんだと文句をつけられないように、慇懃無礼なほどの丁寧語でしか誰とも話さなくなっていきました。

妻に言わせると、最初に合コンで出会ったとき

「ロボットみたいな人だな」

と思ったそうです。(なのになぜ付き合ってくれたのか謎)

気を遣っているのがまるわかりの、常に強張った顔。(なんなら瞼は痙攣)

言われた言葉を分析して応答するまでにパターン化して〇×を判断していたので応答が遅い。

ギャグと嫌味の区別がつかないのでとりあえず愛想笑い。

そんな感じでした。

 

アルコール依存症になったことが、気づきを与えてくれた

とにかくもう自分に自信がなかったです。

そのまま生きていたら嫌われてきた。

だから擬態しないと、この世の中では生きていけない。

しかし、生きていくために擬態すると、ずっと理性で感情を抑えているから苦しくてたまらない。

だから、アルコールで緩和してきたけど、それももう限界に近づいている。

アルコール依存症だと診断されるまでの新社会人の約5年間は地獄のようでした。

 

 

「るろうに剣心」の登場人物の、瀬田宗次郎にシンパシーを感じていて、ずっと心から離れなかったセリフがあります。

 

 

所詮この世は弱肉強食

強ければ生き、弱ければ死ぬ

殺さずとか、弱いものを守るとか

貴方の言うことは間違いなんだ

あのとき貴方は、僕を守ってくれなかったじゃないですか

貴方が正しいというのなら

なんで守ってくれなかったんです

あのとき、誰も僕を助けてくれなかった

僕を守ってくれなかった

あの時僕を守ってくれたのは

志々雄さんが教えてくれた「真実」と、一振りの脇差だった

だから間違っているのは、貴方なんだ

 

このシーンになんで心が揺さぶられるのかなぁ、と思っていたのですが、ようやくわかりました。

 

たしかに、私はずっとイライラして生きてきました。

 

「俺が正しくないというのなら、お前らはとことん正しいんだろうな?」と

他人に対して自分に対するのと同様に常に正論とルールにこだわり、外れるものを許しませんでした。

他人が、私のありのままを許してくれなかったことに対して、恨み憎んでいました。

 

でも、自分が幼少期にされて性格が歪むほど嫌だったことを、他人にまで強いて徹底して主張してきたのか…。

と思うと、なんだかやるせない気持ちです。

 

本当はありのままに生きたかったのに、そうさせてはもらえなかった。

そのままの自分を受け容れてもらえなかった。

だから、こっちは死ぬ気で我慢しているんだ。

俺が我慢してるのに、否定してきたお前らは我慢しないなんて、ずるいじゃないか。

正しくないと私にいうのなら、あなたたちは徹底的に正しくいてくれなくては嘘だろう?

正しくないのに、私に間違っていると言うな!

間違ってもいいというのなら、どうしてあのとき私を許してくれなかったんだ?

全部おかしいじゃないか。

 

という怒りが私を正論に駆り立てていたんだなぁ、と気づいてすっごくすっきりしました。

 

また、生きてるだけでストレス抱える理由もわかりました。

受動型で周囲に合わせて理性で抑え込んでいるからだったのか。

だから、アルコールやタバコなど依存物質に頼って脳を弛緩させたかったのか。

 

これらを解決するためには、

誰よりも私自身が、私に対して

「そのままで生きていていい」

という許可を出すしかないのだと思います。

偽らなくてもいい。

正しさにこだわらなくてもいい。

感じるままに感じてもいい。

やりたいと思うことをやってもいい。

そういうカギをひとつひとつ解除して自分を解放してあげたいなと思います。

 

剣心から「真実の答えは己の人生の中から見出せ」と諭されて歩き始めた宗次郎のように。

 

ではまた。

【発達障害】ASDやADHDは本当に「使えないやつ」なのか?

こんにちは、ちあき です。

妻によく「めんどくせー!笑」と突っ込まれる私はASD(自閉スペクトラム症)+ADHD(注意欠陥・多動症)です。

俗に言う「空気を読む」「行間を読む」がすごく下手です。

そんな人はよく社会に出て「使えないやつ」と言われて馬鹿にされます。

本当にそうでしょうか?という話です。

 

 

私の懲戒処分事件に見るASDの特性

何回か書かせていただいていますが、私はアルコール依存症でして、度重なる飲酒による失敗から懲戒解雇をネタに依願退職を勧められた経験があります。

結果的には「戒告」という懲戒処分になりました。

会社としては、何回も酒で問題を起こすような「使えないやつ」はさっさと退場させたい。

そこで、上層部は結託し、私がいかに成果が出ていなくて、いかに効率が悪い働き方しかできなくて、会社に迷惑をかけるやつかを証明するために証拠集めを始めます。

並行して、もし証拠不十分で辞めさせられない可能性を視野に入れて、「自宅謹慎」を命じて仕事を取り上げ、社内外への連絡を一切禁じて、孤立させます。

そうして、たまに人気のない喫茶店などに呼び出しては、以下のような事を言葉を繰り返し言い聞かせます。

「このままもし会社に残ってもお前のためにならない」

「業績も大したことはないし、私から見たら君はこの仕事は向いていないから、違う可能性を探したらどうか」

「懲戒解雇されたら退職金も出ないぞ、今のうちなら自己都合退職扱いにしてもらえるぞ」

「今まで散々指導した事実がある以上懲戒処分は免れない、そうなったらお前のこの会社でのキャリアはもう終わりだ」

 

つまり、言外に

『お前は使えない。懲戒解雇されたくないだろ?自己都合にしてやるから、早く辞めろ。』

と繰り返し言い聞かせる、ということです。

 

しかし、私は残念ながらASDでした。

このような行間は、追い詰められていればなおさら、簡単には読めません。

しかも、真剣に考え反省して決断しなくてはならないと、徹頭徹尾、空気を読むなどという『曖昧な決め方』はしてはいけない、と思って論理的に考えようとしました。

 

これが私にとっては幸いし、上司にとっては災いしました。笑

 

ここまでズタボロに言えばさすがに「辞めます」っていうだろう、と思ったのに、首を一向に縦に振らない私に、次第に上層部は苛立ちを隠さなくなりました。

言い方は徐々に直接的になりました。唾を撒き散らしながら罵倒し、さながら「千と千尋の神隠し」の湯婆婆のようでした。

私も負けじと善意から真剣に「恩返しと罪滅ぼしを具体化するためには会社に残り成果を上げてから辞めるのが最低の礼儀だ」と考えて、上司の遠回しな主張や提案(=マジ早く辞めてくれというお願い)を結果的に丁重にお断り(いっちゃえば全無視)して

「ここで働かせてください」

という一言だけを壊れた人形のように繰り返し、終いには泣きながら土下座し始めたあたり、千尋並みの狂気を彼らは私に感じたようでした。

 

表現が時間が経つにつれ直接的になるに伴い、私も徐々に言いたいことが分かってきました。

そうかそうか、私に「迷惑だからもうどっかいけよ」と言いたいんだな、君たちは、と。

その理由では納得できませんでした。

それはパワハラだよね?

それに弁護士に聞いたり調べたところ、著しく戒告事由に抵触し会社に損害を与えた実績がなければ、懲戒解雇はできないよね?

理由が十分ではないうえに、懲戒解雇という単語を使うのは、一種の脅迫だよね?

私は確かにあなた方に多大な迷惑をかけたし大した特殊能力があるわけじゃない。

だけど、あんたたちが今まで言ってきた事は「貴方のため」という嘘に包んだ自分勝手な理論だよね?

それって私が辞めないことを責める大義ではないよね。

じゃあ、その主張は聞く価値ないよね。

それゆえに、私は私の判断に従い、やめるより残って実績で贖罪と恩返しをしてから辞めたいし、やりたかった仕事をやるまでは辞めたくない。

だから、絶対に「今は」辞めない。

この方程式がおかげで組み上がっていたので、的確な変数(合理的かつ良心的な理由)を示してもらわないと自己都合退職という無責任な決断はできない、とある種の融通の利かなさが功を奏した形で、強い意志でありがたい退職勧告を頑なに固辞し続けることになりました。

結果として、予想通り懲戒解雇はコンプライアンス委員会と組合を通過できず、人事部と上層部の頑張りも虚しく「戒告」のみにとどまりました。

 

ASDは目的と理由が明確かつ正当であればムラなく動ける

今回の事例で会社が得るべき教訓は、「ASD+ADHDの私に察してほしいとか空気を読んで欲しがるのは最適解ではない」ということです。

定型発達が多用する「言わなくても分かるでしょ」的暗黙知を前提にしてしまったので、私が自主退職すべき明確な理由を提示できていませんでした。

発達障害同士なら、むしろ周到に目的と手段を明確化して言語化して意思疎通しようとするから、認識に齟齬がなく、伝達ミスも起こり得ないので、私を説得できたと思います。

「採用コスト(初期費用)がこれだけかかっているのに、給料と売上と純利益から考えて、月当たり○○円の損害だから、会社を一日も早く辞めてくれたほうが我が社のためになる」

「その上で最も早く辞められて、退職金を支払ったとしても○○万円だから、このまま懲戒会議にかける時間的コストを勘案すればむしろプラスなので、お互いwin-winだから、懲戒解雇より依願退職が望ましい」

という分析が妥当であったなら、私は首を縦に振っていたでしょう。

 

結果として、土下座した頭を踏まれるような陰口と嘲笑を、泥水をすすり血反吐を吐きながら耐え抜いて会社に残り努力を続けました。

それからは、売上計画(ノルマの110%)を達成し続けており、四国地方の支店内でトップ5の連続達成記録を達成しており、この決算期もすでに見通しは立っているので、記録更新予定です。

ほら、やはり私の考えが正しかったじゃあないですか。辞めさせるより金を生んだでしょう?笑

 

ASD、ADHDが「出来ない子」なんじゃない。

伝え方や受け取り方が違うだけであり、活かし方次第なのに、それを定型発達者が理解していないだけなのではないかなぁ、と思います。

https://twitter.com/frenchbeansaya/status/1125166350349897728?s=20

このツイートにもあるように理由をつけて説明することは重要ですし、

何をしてほしいのか?

どうすればできるのか?

なぜやるのか?

いつまでにしてほしいのか?

 

5W1Hを明確にしさえすれば、これほど説得しやすい人種は逆にいないのではないか、とすら思います。

 

しかし、私の場合は

・マルチタスクになると著しくエネルギーの消耗が速く精度が落ちる

・急な予定変更や作業中断に激しいストレスを感じる

という特性ゆえのマイナス面もあります。

この辺りについての対策はまた改めてまとめたいと思います。

 

子供をあやしながら、つらつらとそんなことを考えた連休最終日でした〜。

明日からお仕事の方も、そうでない方も、のんびりいきましょう。

だいたい会社の言うことは論理的ではなく都合の良いことです。

相手が適当なんだから、こちらも適当にこなしたって文句言われる筋合いはありませんから。

気楽にいきましょー!

 

 

【依存症】お酒しかなかった数年前のGWを振り返ってみた

こんにちは、ちあき です。

GWも残すところあと少しですね。

世の中的には長い休みですよねー。10連休とかすごすぎ!

今日は断酒例会で酒を飲みまくっていた時の長期連休の話になり、自分自身を振り返っていました。

 

とにかく酒を抱えて引きこもった3年前までのGW

妻と出会う前、独りで迎えたGWの記憶は、あまりありません。

ずっと、酒で酩酊していたからです。

連休の最初の夜にしこたま酒を買い込んでましたねー。

ビール・ワイン・ストロング系チューハイ・ウイスキー・ジン・ウォッカ・リットル単位の焼酎…

なぜこんなに買うのか?

酒を買いに出ると人に会ってしまうから。

そう、私は休みはとにかく人に会いたくなかった。

「やっと、人に気を遣わずに過ごせる!!」というのが、連休前の金曜日の感想でした。

人に会うのは今も疲れますが、当時は本当に苦痛でした。(なのに営業という意味不明さ)

聞きたくもない話に愛想笑いして。自分の話など怖くてできなくて。

「つまらなそうに見えて悪く思われないか」「失礼なことをしてないか」「言葉を間違えて勘違いされやしないか」とビクビク怯えて。

そんな針の筵のような平日が、やっと!やっと!小休止を迎えたぞ~!!やったー!!

という感じでした。笑

 

そして金曜の夜、カーテンも閉め切り、PCだけつけて電気も真っ暗にして、独りきりで飲み始めます。

飲んでは気絶・飲んでは気絶・たまに吐いてトイレに籠って・また飲んで気絶

気がついたら、もう連休も最終日。

 

「ああ、また明日から地獄の日常がはじまるのか…」

 

と思って最後の瓶を空けながら、さめざめと泣いて最後の夜も気絶するまで飲んでいました。

 

断酒していると「人といるのもいいかな」と思えてきた

こんな鎖国状態の私も、今は少しずつですが、人に本心を打ち明けたり、人の話を聞いたりすることが、いいことなのかもな、と思うようになりました。

それは断酒会に行き始めてからでした。

会社を懲戒解雇されかけ、運よく首の皮一枚繋がって戒告処分で済んで、それから悔しさと恨みで1年3ヶ月飲まずにいられていました。

しかし、転勤して環境が変わり、周りから懲戒処分をネタに馬鹿にされたり揶揄されたりしたことに負けて一度スリップしてから、もう自分の力ではどうしようもなくなりました。

妻に教えてもらって病院に繋がり、初めて断酒会に出席した時、私は生まれたての小鹿のように震えながら中を覗き込むような心境でした。

「もう、情けないけど自分の力だけでは、どうしようもない」

「でも、こんな人生の落伍者の集まりに参加するまでに落ちぶれてしまった」(超失礼)

「どうせやめたって、もう俺の人生は終わったも同然なんだ」

「これからは、今までの情けない自分を罰しながら、日陰で一生謝りながら生きていくんだ」

そんな気持ちで覗いた断酒会場の椅子に、ちょこんと仲良く座っている老夫婦がいらっしゃいました。

Kさんご夫婦は、旦那さんが依存症者本人で、奥様が酒害者家族でした。

口を開いたKさんの酒歴はそれはそれはすさまじいもので、警察沙汰・刃物も出てきて、留置所もバンバン入っているという、私が足元にも及ばない(と当時は勘違いしていた)ものでした。

そんな酒害を盛大にまき散らしてから、断酒を志し、以来30年近く断酒しているというではありませんか!

3:30に寺を訪ねて仕事前に4時間の座禅を組み、仕事終わりにまた深夜にかけて4時間の座禅を組み、それを毎日!10年続けたそうです。

そのエピソードを話す傍らで、やわらかい笑顔を浮かべている奥様。

比喩ではなく殺し殺されかけた修羅を乗り越えたお二人が、

「今は、断酒していて幸せです」

とおっしゃる姿が、私には太陽よりも眩しかった。

こんな未来があるのか、こんな未来もあるのか!

なら、もう一回頑張ってみよう。

こんな未来があるのなら、もう一回、覚悟を決めて『生きて』みよう!

この出会いが今も私を支えています。

 

断酒会って、本当に不思議なところです。

みんな言いっぱなし・聞きっぱなし。

終わったら特に感想を言い合うでもなく

「おつかれっしたー」と思い思いに散っていきます。

でも、心が・魂が、触れ合った実感があります。

お互いにあえて何も言わなくても「私たちは仲間だ」という共通認識が産まれます。

それは、私にとって素のままでいられる、とても安心できる空間であります。

言い訳やキレイごとを全部なくした生の感覚を話すことができる、数少ない私の居場所。

そうして自分のそのままを話すことで、私はヒトの魂に触れることができる。

そのままを聞くことで、自分の魂に触れることができる。

ああ、だから皆、あんなに人に会うと嬉しそうだったのか!

だから今、私はこんなに涙が出るほど、人に会えて、人に会うだけで感謝されることが嬉しくてたまらないのか!

と、最近は「人と会ったり話したりするのも悪くないんじゃないかな」思うのです。

 

数年前のGW、酒瓶を抱えて映画やニコニコ動画を観ながら、さめざめと泣いていた当時の俺に教えてあげたい。

「そんなに、他人は痛みばかりを与えてくる存在じゃないよ」

「自分も他人もそのままに触れ合えれば、こんなにも癒されることはないよ」と。

 

夢に出てきた恩師が思い出させてくれた昔ばなし

東北に赴任していた時、とてもお世話になった整形外科のO先生が昨夜、夢に出てきました。

「元気にやっとるかね」

「はい、先生にお世話になっていたときよりも、ちゃんと真剣に生きてますよ(笑)」

「そうかい、そうかい。せっかく生きてるんだから、やりたいことやって精一杯全力で生きんとね。」

「そうですね。当時は先生がおっしゃっている意味が分かってませんでしたよ。」

「そうだろうと思ったよ(笑)。」

先生はご存命なので夢枕に立つという表現は正しくなく、「おい!まだ勝手に殺すなよオイ!」と怒られそうですが、久々に夢ででもお会いして今朝は嬉しかったですよ、先生。

 

O先生のご専門は「筋ジストロフィー」で、国立病院勤務にも拘らず患者さんやご家族のために休日も個人的に動くなど、本当に日夜奮闘していらっしゃる、それはそれはエネルギッシュな先生でした。

■「筋ジストロフィー」とはどのような病気ですか?

筋ジストロフィーとは骨格筋の 壊死 ・再生を主病変とする遺伝性筋疾患の総称です。筋ジストロフィーの中には多数の疾患が含まれますが、いずれも筋肉の機能に不可欠なタンパク質の設計図となる遺伝子に 変異 が生じたためにおきる病気です。遺伝子に 変異 が生じると、タンパク質の機能が障害されるため、細胞の正常な機能を維持できなくなり、筋肉の 変性 壊死 が生じます。その結果筋萎縮や脂肪・ 線維化 が生じ、筋力が低下し運動機能など各機能障害をもたらします。

引用:難病情報センター:筋ジストロフィー(指定難病113)

 

 

当時小児(5歳から7歳くらい)で発症した患者さんだと、その地域ではだいたい20歳代で亡くなるケースが多く、先生はそうした若年の患者さんとそのご家族を多く担当してこられました。

私は先生のご専門を調べ、営業として毎週訪問していたわけですが、筋ジストロフィーの話になるといつも悲しい気持ちになってしまいました。

 

たぶん暗ーい顔をしていたんでしょう。

ある日、先生が言いました。

「君は、『筋ジストロフィーの患者さんって可哀想だな』と、思っているね?」

「はい、だって20歳までしか生きられなくて、全身も思うように動かないなんて…」

言葉に詰まる私に、先生は笑いながら言いました。

「それはねぇ、偏見だよ。君の。」

私はその言葉を聞いたとき、背中からドッと冷たい汗が出るような、心臓を握りしめられるような心地がしました。

それは、真実を言い当てられたときに胸に突き立てられるあの独特の感覚でした。

先生の言葉は氷柱のような鋭さで私を貫きました。

「偏見…ですか…」

「そう。だって、可哀想な人生かどうかは、その人自身が決める事だろう?

君が決める事じゃない。君の物差しで決められることじゃないし、測れることじゃない」

「君の物差しで、勝手に可哀想だと決めつけるなんて、非常に無礼なことだろう?」

穏やかに笑いながら先生が放ってくる言葉に、私は顔から火が出るくらい恥ずかしい気持ちでした。

 

先生によると、患者さんもご家族も

『自分たちに与えられた運命を覚悟して真剣に生きている』ということでした。

 

「この子とは20年しか一緒にいられない」

ではなく、

「この子といられるこの20年を全力で楽しもう!」

という輝きを放っている、私はそれに何度も救われてやっと医者できている、とおっしゃっていました。

それは、魂の輝きだ、と。

 

それを思い出すにつけ、

私はいま、ちゃんと与えられた運命を受け容れて、

全力で、真剣に、覚悟して生きているだろうか? と思うのです。

 

アルコールに溺れて様々な人を傷つけ迷惑をかけ、

早期に昇進してマネジメント層になることを期待されて転職してきて

最下層まで降格され、懲戒処分まで受けて、いつクビになってもおかしくない。

 

だから、可哀想か?

否。

それは、もうどうしようもないこと。

罪を悔い改めて、償いながら、前を向いて生きていくしかない。

そう、もうやってしまった罪は消えない。

もはや、私にはコントロールできない、動かしようもない、仕方がない事実なのです。

 

私がこれまでやってきたことや生きてきた道は、

他人から見れば

「自業自得」「身から出た錆」と思うかもしれない。

「もう終わったな」「負け組で可哀想」と思うかもしれない。

 

私にとっては、受け容れるべき「私の人生」という運命なんだろうな、と思います。

私の運命そのものは、恥ずかしいことでも、可哀想なことでもない。

20歳まで生きる運命を背負ってこの世に産まれた筋ジストロフィーの子が、

決して『可哀想な人生』などでは無いのと同じように。

 

テニスクラブで知り合った、重症筋無力症の娘さんを授かった女性が、朗らかに笑いながら言っていました。

「〇〇ちゃんがせっかく産まれてきてくれたのに、『どうして』とか『なんで私の娘だけ』なんて、嘆いている時間がもったいない。私たちに神様が与えてくれた時間をもう、精一杯思いつく限り楽しむ!それっきゃないでしょ!だって、私たちはもう、そうでしかないんだもの!

この人の笑顔は本当に美しいなと思った記憶があります。

 

奇しくも、やはり先生もおっしゃっていたのでした。

「君にはしたいことがあるかい?ちゃんと、『生きている』かい?」

「せっかく生きているんだから、生きている間に好きなこと・したいことをするしかないよ、君。そんな浮かない顔している間に、どんどん時間が過ぎていく、それは実にもったいないじゃないか」

「どう生きるかは、君自身が決めて、君が思いっきり精一杯思いつく限りの楽しいことや成し遂げたい事をやりつくすことだよ。そうやって楽しむために、今、まさに君は息をしているんだよ。」

「私も患者さんに教えてもらったんだけどね。どんなに欠けていたって、どんなに悔やんだり羨んだって、もう、君も僕も、そうでしかないんだから、そのまま限界まで燃えるように楽しむこと以外、やるべきことは一つもない。

 

先生、今は少しちゃんと『生きている』気がしますよ。

 

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