【仕事】優秀なプレーヤーをマネージャーにしてはいけない理由

マネジメントって難しい仕事だよな、と思う。

現場でプレイヤーとしていくら実績をあげていたとしても、マネージャーとして優秀かどうかといえば、話は全く違ってくる。

いや、むしろプレイヤーとして優秀であればあるほど、マネージャーとしては壁にぶち当たることになる。

えてして組織ではプレーヤーとして優秀な成績を収めたことを手土産にマネージャーに昇格するが、これが部下の不幸の源泉であるといっても過言ではない。

本来は適性が全く違うので無理して優秀なプレーヤーから選出することそのものに無理があるのだが、「納得感」と引き換えに非合理的な人事がまかり通るのが、この世の中である。

 

優秀さとは「点の状況」

まず、プレーヤーとして優秀なことはすばらしいことだ。別にそれを悪く言うつもりはない。

優秀なプレーヤーは、周りのプレーヤーよりも結果的に成果を出す。

成果の要因は実は複合的だ。プレーヤー自身の能力だけではない。

周りに協力してもらったこと、運がよかったこと、それら外部要因を全てをひっくるめて、結果的に結果が出た。それが、優秀なプレーヤーの背景である。

もちろん、プレーヤー自身の能力は、単純に比較してみて平均的な他のプレーヤーの能力よりもある点において優れているだろう。

お金集めというゲームのなかで「勝ちたい」「勝利者でいたい」という競争心が強い傾向にあり、そのために身体的精神的リソースを実際に割いている。「勝つ」という目的を達成するための知恵と工夫にも秀でたものがある。

つまり「他人との競争に勝つために思考し行動できる」という点では、個体として優れており、その行動が結実する環境(外部要因:周りの協力・運など)に恵まれた結果、優秀なプレーヤーと組織から認識される状況が生まれる。

 

そんなひとが陥りがちな落とし穴が、「自分は優秀だという思い込み」である。

確かに、事実、勝ってきたのだろう。

積み重ねた努力も並大抵ではないだろう。

周りのタスク処理能力と比べて、自分のそれは高いと自負しているだろう。

私も、そうだった。

「自分一人の力でのし上がってきた、苦しんでいるとき誰も手を差し伸べてくれなかったけど、なんとかしてきたのは私だ。だから私は優秀なんだ。そのへんの運だけで勝ってきたヤツらと一緒にしてもらっては心外だ。今のこの現状は私の実力なんだ。」

そんなふうに思っていた時期が私にもあった。

しかし結論から言えば、これはひどい勘違いであり、思い込みだ。

 

物事はそんなに分かりやすく合理的にはできていない。

 

たまたま勝ちを拾ってきたにすぎない。

何か一つ違えば、私は同じ結果を出せなかったかもしれない。

全て自分の力だけ、という条件そのものが、この世では成り立たないから。

自分には変えられないものが必ず介在する。そこに私の力は及ばない。

変えられるものを変えるチャンスがあった、そしてその時点で変えることができる個体だっただけだ。

変えることができたのは、自分の努力だから、自分の力だろうか。

私が努力できたのは、努力できる個体としてたまたまそういうふうに産んでもらったからだ。遺伝子の配列が少しでも違ったら、私の特性はどういうベクトルに向いていたかわからない。

「優秀さ」というのは、自分を含めたこの世のあらゆるものが総合的に作用した結果、ある一定の側面からある一定の集団が見たときの、「点の状況」に過ぎない。

 

成功者の内なる功罪

「勝てる法則」とか「成功の方程式」とか、ちまたにはたくさんの自己啓発本やビジネス本が本棚にひしめき合っている。

これらは、社会的に成功したという近視眼的な状況に、もっともらしく後付けの因果関係らしき理由を添えただけの、個人の物語だと私は思っている。

成功を一般化することはできない。

成功を不自然に一般化して人材として評価すると、評価された人はその勘違いにより、次第に傲慢になる。

「俺のほうが正しい」「私のやり方が最も優れている」「他人は俺より下だ」

心の奥底に、そうした傲慢さがこびりつく。これは自信ではなく勘違いなのだが、本人は自信として社会的な存在としての、精神的な拠り所にする。

これがとても厄介で、コントロールに心を支配され依存が生まれる温床となる。

一時的に偽りの自信を得るかわりに、健全な心を見失う。

 

自分は「優秀」なので他人の意見は自分の意見よりも劣っている、ととらえると、根本的に許容範囲が狭くなり視野狭窄に陥る。

人はみな違うので、意見や考えはそれぞれに良さも悪さもあり多種多様だ。環境と条件は常に変化しているので、行動がもたらす可能性を一概に推定することはできない。だから、やってみないとわからない。

しかし「優秀さ」に囚われていると、そうした落ち着いた賢い理解ができなくなる。

自分が自分のやり方でやることが、最もいい結果になる、と信仰してやまない。

なので本人は良かれと思って、他人に自分のやり方を強いる。あったかもしれない無限の可能性を潰して。

そして思い通りに他人が動かないと、さらに他人を下に見る。「俺の考えが理解できない低能なやつだ」とか「使えないやつだ」とか、自分のなかで他人の立場を下げることで、うまくコントロールできない不安と恐れを見て見ない振りをする。

あるいは、強制したり監視したりして何とか他人が思い通りに動くようコントロールしようとする。いわゆるイネイブリングである。

こうして、本来コントロールすることができない他人や成果を、「コントロールできる」と偽りの自信に裏打ちされた勘違いによって、一生懸命何とかしようとする羽目になる。

そしてうまくいかない現実を、自分以外の人間の無能さのせいにしながら、永遠に報われない試行錯誤を繰り返すのである。

 

部下が苦しむメカニズム

何となく見えてきたと思う。

優秀なプレーヤーがマネージャーになったときに部下の不幸が生じる原因が。

プレーヤーとして優秀であればあるほど、マネージャーになったとき今まで書いてきたような虚しいイネイブリングを部下にとことんやってしまう。

毎日のスケジューリング、訪問時の折衝の仕方、企画立案の方向性、はてはタスクの進捗管理まで、全てを管理・監視しようとされたら、される側はどうなるだろうか。

まるで成長しない。

全てを手取り足取り教えることは、とても親身になって部下を思う上司に見えるだろう、はたから見る分には。

しかし実際は、部下を自分の操り人形のように扱っているだけで、本人の自主性や独創性や可能性の価値を、生かせないばかりか貶めているのだ。

当然部下は最終的に「上司様の言われたことをやるだけ」の歯車になっていく。自分で考え自分で実行し、自分で結果を味わうという、成長に欠かせない経験を奪われるので、仕事をしていても自己効力感はなく、虚しいばかりである。

本来あったユニークさや個性はそぎ落とされ、ただ指示に従うだけの無気力人間の出来上がりである。

それが深層心理で上司であるマネージャーが望んだ部下の姿であり、本人の成長など本当はどうでもいいという本心の現れである。

そうやって自分のおもちゃのように部下に指図してやらせるだけのマネージャーがほとんどで、チームを台無しにしてしまうことがよくある。

そしてうまくいかなかった原因を、口では「私がリーダーとして至らなかった責任」だとか何とか言いながら、心のなかでは部下にあると思い込み、謙虚に省みることがない。

「たまたまそろった面子が使えないやつばかりだったから、今回は結果が出なかっただけだ、次はもっとうまく厳しくやろう」と決意を新たに、イネイブリングを強めていくだけだ。

 

この囚われから脱するのは、現実問題としてかなり難しい。

言い訳の余地もないほど徹底的に天狗の鼻がぽっきり折れるような「底つき」が必要だからだ。

自らの「優秀さ」が偶発的であった事実を認めることは、今まで社会的な存在としての自分を成り立たせてきた精神的な支えを失うことを意味する。なので、なかなか手放せない。アルコホーリクが酒を手放せないのと同じように。

「成功を掴み家族を養うため」という大義名分で、家庭を蔑ろにしてきたとしたら、いっそう始末に負えない。偽りの自信のために今まで失ってきたものを数えれば、事実はどんどん認めがたくなる。

あれやこれやと言い訳をしながら、必死にしがみついてしまうのは、しかたがない。

しかしこの囚われを乗り越えたひとは、マネージャーとして花開くだろう。

 

じゃあマネージャーに向いているのって?

むしろ一度ボキボキに折れて「優秀さ」とはかけ離れている人ほどいい。

己の無力さに打ちひしがれて、泥水をすすって地べたを這いずりまわってきたような、そんな人ほど、事実を謙虚に理解するために必要な経験をしてきたといえる。

こういう人は「自分自身すら、自分だけではどうにもならないこと」を心から認めている。

だから、自分以外の存在を有難いと思える。

他人に個体として敵わず、劣等性をまざまざと見せつけられて、自分ひとりだけでは何事もなしえないことを体験として知っている。自分の弱さを知っている。

 

しかしそれで他人を妬んだり世の中を恨んだりしているのではまだまだで、自分だけが弱いのではないことも知っているのが重要だ。

生きとし生けるものすべてが不完全な存在であり、多かれ少なかれその恩恵なくして、命すら成り立たない。それは皆同じで、みな弱いのだ。自覚しているかしていないかの違いしかない。

そのことを知るには、心を開いて他人と交流する経験が必要である。

自分の弱さを認めてさらけ出すのは、とてつもなく勇気がいる。

しかしこちらがその勇気を持たなくては、他人もまた弱さをさらけだすことができない。

勇敢な弱者が、その行動により他人の弱さを垣間見たとき、真実を理解することができる。

この「行動」こそ「変えられるもの」だ。

 

己の無力を認め、「変えられないもの」を受け容れる落ち着きを持ち、「変えられるもの」を変えていく勇気を持ち、その二つを見極める賢さを持つ。

そんな人がマネージャーに向いているわけだが、そんなひとはほとんどいない。

 

そう在れたなら、本当の意味での権限移譲ができる。

信じて託すことができる。愛に根をはる想いから行動し、他人に施すことができる。

異なる価値観を持つ他人を受容し、互いを尊重する前提で未来を語り合うことができる。

小手先の「効率性」や「合理性」を超えたギフトを、部下は上司から手渡されることになる。そうなると部下は上司であるマネージャーに対して、敬意と感謝を抱く。

心理的安全性が保たれた共同体が形成され、チームとして真の強さを帯びはじめる。

その結果、「自分でやればうまくいく」と想定したよりもはるかに大きな結果をともなって、行動の結果がマネージャーである自分にも還ってくる。

この好循環が生まれるからこそ、チームがあり、組織がある。、

 

俯瞰的な見方をすれば、貨幣経済の社会秩序を重んじる合理性と計算可能性に支配された行政官僚制の組織そのものが、この好循環を阻害する諸悪の根源であるといえる。

この経済社会において、営利組織に属するプレーヤーが傲慢さに囚われるのも、マネージャーがイネイブリングに陥るのも、ごく自然なことではある。

誰も悪いわけじゃない。社会がそういうつまらない社会だというだけ。

私が組織を形成するとしたら、このことを忘れないようにしたいと常々思う。

【発達障害】「社会不適合者」と呼ばれて

私は自分の疲れを認識するのがとても苦手だ。

「あれ、今日布団から起き上がれないな」

「なんかネクタイ締めようとすると、嘔吐くんだけどなんでだろ」

「立とうと思ったら膝に力が入らなくてこけちゃった」

みたいなことがある。

そこまできてはじめて、「あれ?俺ってもしかして疲れてる?」ってなる。

その不思議について今日は書いてみる。

 

やりたいこと・やるべきことに集中しすぎる

私は、とにかく目の前にやりたいことややるべきことがあると、それに一点集中してしまう。

意識が全部もっていかれるというか、勝手に突っ走っていて、止まらない。

以前は、やりたいことなんてなかったので、とにかく仕事にまい進していた。

「もっと良くするには」「もっと早くするには」

そんなことが常に頭を占めていて、思いついたアイデアを形にするために具体的なアクションを描き、実行する。

ゲームをしているときの感覚に似ている。

この武器をつくるには素材は○○が〇個が足りないから、このモンスターを〇匹倒して、次は成長させるのにこれが足りないから・・・と、次々どんどん進めようとする。

ゲームの場合も、睡眠も食事も忘れて没頭してしまう。

なんかイライラするな、体の調子悪いな、とゲームの目的達成の進捗が悪くなり始めると気づく。

その感覚は「強迫的」というのが語感としてとてもしっくりくる。

「やろう」が「やらなきゃ」になり「なんでもっと早くできないんだ」になる。

具体的なアクションに意識が集中しすぎるあまり「楽しむ」から意識がどんどん離れていく。

こんなに疲れてイライラしてまで、なんでやってたんだっけ?とふと我に返るときがある。

 

諸刃の剣

これは「過集中」という発達障害の傾向のひとつである。

良い面も悪い面もある、いわば諸刃の剣だ。

良い面としては、並外れた集中力と意欲で、常人には困難なことを実現する突破力を持つという側面がある。

たとえば、社会福祉士の国家試験を7日で合格したりすることができる。

妻からもよく「その集中力うらやましい」と言われる。

ふつうは、そんなに一つのことだけに長時間没頭することはできないらしい。私には感覚がわからないけど、楽しい・好きと思っていても、途中で飽きたりして、中断しても全然嫌じゃないそうだ。

私は中断されるとパニックに陥り心が引きちぎられるような気持ちになる。そしてしばらくその不快感を引きずって生活することになる。

たとえば、今こんなふうにブログを書いているけど、書き切るまでに邪魔が入ってしまうと、尋常じゃない怒りとストレスに苛まれる。叫びたいくらいイライラする。頭のなかでは続きを書いているのに、今この瞬間にそれを文字にできないと、のちのち内容を忘れてしまったりして、それがものすごくキツい。

気持ちがノっているときに一気に書いてしまわないと、気持ちが削がれてもう続きが書けなくなってしまう。「続きを今更書いたって、どうせ気持ちの入らない、価値のない文章になる」ともう一人の私が呟くので、あとで続きをやっていてもどうも楽しくない。結局お蔵入りすることになる。

なので、マルチタスクで一つ一つの作業が途切れ途切れになる社会人の仕事は、私にとってとても高度な作業になる。

特に営業は突然電話が入って作業中断を余儀なくされる。急な連絡で予定が変わることが日常茶飯事だ。会社の方針ですらコロコロと朝令暮改を繰り返したりする。狂気の沙汰だ。よくみんな普通の顔をして働けるよな、といつも感心する。私はとても無理だ、向いていないと自覚している。

気持ちがせっかくノっているときに限って、クソつまらない会議で時間を拘束されたり、PCを開いてはいけない時間帯に差し掛かったりしてしまう。

やりたいけどやれない。その不快感に堪え神経をすり減らす。

時が経ち「さあ、もうやってもいいですよ」と言われても、もうその頃には心も体もエナジーはゼロだ。もはややる気はない。でもやらないといけない。締め切りがある。とてもつらい。

 

理解されない私の感覚

宿題をやろうとしていて母親に「早くやりなさい」と言われてしまい、やる気をなくす。

そんな経験が一度はあるのではないだろうか?

やろうとしていたことは、他人が指図した瞬間に「やらされ仕事」になる。言葉では言い表せない何か大切なものが台無しにされてしまった。そんなふうに感じるだろう。

それに近い。その台無し感をより強く感じ、かつ尾を引くタイプ、と思ってもらえるととてもイメージしやすいかもしれない。

しかし、なかなかこれは社会人としては受け入れられにくい。

「なに甘えたコトいってんだよ、気分がどうこう言ってないでやれよ」

「そんなの気分転換すればいいじゃん、上手にできないのが悪いんだよ」

「みんなそのルールでやってるんだから、わがまま言うなよ」

幾度言われたことだろう。正直に話せばそんなふうに「わがまま」な「怠け者」で、扱いにくい「社会不適合者」とレッテルを貼られてきた。

ちょっとお菓子を食べたりコーヒーを飲んだりして気分が変われば、どれだけいいか。それで変わるならいくらでも食べるしいくらでも飲む。

まあそんなふうにしてアルコールの鎮静作用を利用し、いや乱用した結果、アルコール依存症になるまで頼りに頼ったわけだが。

 

ルールなんてクソくらえ

勝手にお前ら定型発達が設定した謎のルールになんで従わねばならんのだ。

ルールは変えられる。私は私の特性を変えられないんだ。

やりやすいようにルールを変えるほうが合理的じゃないか。

それで雇用主が望むパフォーマンスに近づき、より早く目的が達成できるなら、そのほうがWin-Winじゃないか。なんでルールのほうを重要視するんだ、意味が分からん。

今までも、今も、そう思っている。

 

要は楽に管理したい、リスクを最小限にコントロールしたいから、行動を縛っているだけだ。

管理する側が責任をとらされないために、楽してリスクを回避したいだけだ。

でも責任者は、責任を取るためにいるわけで、全体の最適化を考えるならリスクを背負ってでも多様な働き方を認めるのがリーダーがすべき仕事であり責任である。

自分が楽をするために仕事をするんじゃないよ、と思う。

 

この世は多数決が好きだ。

過半数の人間が賛成するなら、それが正義になる。

残りの半分以下に苦しみを押し付ける。生贄にするために悪のレッテルを貼る。

そりゃ、みんなで生きているんだから、守らないといけない最低限のルールはあるだろうさ。

でも、そのルールをできるだけ最小化して誰にでもわかりやすく実行可能性が高いシステムにするのが、本当に管理する側の人間のやるべきことなんじゃないの?

ルールを無駄にたくさんつくって「私はルールつくったんで、守らないやつが悪いってことで、あとよろしくね」って、そりゃあんたお粗末すぎるでしょうよ。

一方でルールを逸脱した場合に罰則をつけることには本当に熱心で、薬物依存の悪名高い標語「ダメ、絶対」のように、権威と恐怖と不安で押さえつけるような力技を多用する。

それ意味ないんだってば。逸脱した人を追い詰め排斥することで、問題をなかったことにするだけなんよ。問題を隠ぺいして真の課題に向き合わない、典型的な失敗例である。

そういうふうに、とがった個性を持つ個体を世間から爪はじきにして、仮初めの平和を維持しているのが、この現代社会だと思う。

だから、どんどん世の中がつまらなくなるのは当たり前だ。ルールでガチガチの檻の中は、金太郎あめみたいにどこを切っても同じような人間ばかりになるからだ。

お互いに監視し合って、ババ抜きでJOKERを押し付け合うように生きている。

本当にくだらない。

 

むしろ社会不適合者で結構

そんなつまらん社会に適合していることや、その社会で褒めそやされることに、いったいどれだけの価値があるだろうか。

私は言いたい。そんなものこそ無価値であると。

「こんなことをしたら、世間に笑われるんじゃないか」

「失敗したら、下手を打ったら、もう成功できないんじゃないか」

そんなことを思って、本当にやりたいことを我慢している人は、少なくないのではないだろうか。

はっきり言おう。

社会で成功することなど、大して価値はない。

他人が笑おうが気にするな。そんなのは金太郎あめの独り言だ。無視していい。

社会不適合者で構わない。

生きるのが下手でいい。むしろ、下手こそ良い。

こんなくそみたいな社会に馴染まないぐらいで、あなたの価値をあなた自身が勝手に下げてはいけない。

たとえば、私は誰も読まないようなこのブログを結構な熱量で書いているけれども、この文章がそんなに読まれなくても、それはそれで構わない。

この社会だ。まだ理解できる人が少ないということもあるだろう。今教科書に名前が載っているような偉人も、生前は全く評価されなかった、ということが往々にしてあるくらいだ。

私は私を通してこの世界を知るために、文章を書いている。そして、それは私がやりたいから始めたことで、楽しいから続けていることだ。

それにこそ、最も尊い価値がある。

実益があるとか、社会的に意義があるとか、それらはいずれも後付けだ。

人間の行動の本当の理由は、だたひとつで、「それをやらずにはいられないほどやりたい」から。

素直に生きよう。それが命を授かって、私たちが人として最もすべき重要なことだ。

【メンタル】「おまえもやればできる」に隠された偏見と分断

この本、とても面白かったです。

かいつまんで内容に触れながら、エリート・能力主義の裏側について考えていきたいと思います。

 

エリートが抱えるアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)

この社会は自由と平等の名のもとに「能力主義」「成果主義」を土台として構築されてきました。

そしてその社会で成功を目指す人々はみな、平等に与えられた(ということになっている)権利とチャンスのなかで、自己を結果と結びつけて確立していきます。

その結果、だれもが多かれ少なかれ「他社にとって良い人(価値ある人)」であるように自己査定しながら生きていて、共依存的な生き方(「他者によって」自分の欲望を定義されることを必要とするような生き方)が主流となってしまいました。

共依存という概念は、今や依存症の臨床のなかだけでなく、社会全体のカギとなる概念になりつつあります。(斎藤学「イネイブリングと共依存」精神科治療学 10(9);963-968,1995)

 

成功を自分の努力や能力のおかげだと驕るいわゆる「エリート主義者」は成功できなかった者に対して冷たい心を持っています。

「平等にチャンスはあったはずなのに掴まなかったのが悪い」

と自己責任論を振りかざします。

この自己責任論は逃げ場を奪うきつい態度です。なぜなら、あらゆる人に言い訳を許さないからです。

能力主義が絶対的正義だと進行している彼らは、自分たちが無意識に権威や成果で他人を差別をしていることに鈍感です。

 

知識社会は高度化し、高学歴と低学歴の分断はいよいよ拡大し、溝は埋めがたいまでになっているのが現実です。

しかしエリート主義者は、学歴・経歴・自分のモチベーションはコントロールできるメリット(価値)だと信じて疑いません。

たとえばアメリカは特に顕著で、アメリカンドリームに表されているように、成功は「個人がどれだけ頑張ったか」という美談として語られます。

成功は個人の頑張り次第、ということは、機会の平等さえ確保すればいい。そう考え、小さな政府にしていった結果、社会保障が弱くなりました。医療費などはよい例で、保険会社によって受けられる医療サービスに格差が生じて、助かりたくてもお金がないと助かれない医療制度です。心臓疾患を患う娘の手術費が出せない…などの描写がよく洋画で登場するのはそのためです。

「努力」を過大評価しているのが、アメリカの姿です。

 

一方でヨーロッパの文化は、成功は「運」と考える傾向があります。

たまたま貴族の家に生まれてラッキーだったから富を得る。そんな運がある人は恵まれない人のために社会を支えるのが当然だろう。そういう価値観です。

そのため、社会保障は当然強くなります。

「努力」を過小評価しているのが、ヨーロッパの姿といえるでしょう。

 

努力できる才能も遺伝

実は、努力できる事も才能であり、遺伝によって生まれたときからすでに決まっていると言われています。

双子を何組もリクルートして行った面白い実験で、「A.裕福で高度な教育を受けられる家庭」と「B.経済的に恵まれず両親の生活レベルも学歴も低い家庭」2つの環境に送り込み、バイオリンをさせた結果、環境によってバイオリンの演奏に優劣が付くのか調べたデータがあります。

これによると、環境によってバイオリンの巧さに差は出ず、どの双子もそれぞれ同様のレベルの演奏をしたということです。つまり、遺伝子によってどんな環境であっても一定のレベルまでできるかできないかはすでに決まっているということになります。

成功者は、この議論を嫌います。

なぜなら、掴んだはずの経済的な成功はほとんどすべて運ということになるからです。

この結論は所得税を正当化するうえに、「成功者は偉いわけでも賢いわけでもない」ということになるので、彼らにとっては非常に具合が悪い。

しかし現実は「実力も運のうち」です。

 

エリートによるエリートのための世界にひきこもる人々

優れた個体を真似る、成功個体に憧れる。

これは生まれ持った防衛本能であり、生き残るために備わったシステムです。

金持ちは金持ちを真似て、金持ちのなかだけで結束し孤立する傾向があります。

優れた個体の一員でありたいし、そう自己認識を持っていたいので、そう認識し合える一定の条件をクリアしている人間だけでコミュニティーをつくります。そのなかでお互いの客観的評価を補完し合い縛りあいながら強い絆を形成します。

 

官僚も同様で、定義としては公僕ですが、彼らは公僕だとは深層心理では思っていません。

官僚は官僚のなかで縛られた下僕であり、国民のために働く公僕ではありません。

つまり、コミュニティーの外側にいる国民が困ることより、コミュニティーの内側の仲間である省庁の身内が困ることを避けるように、意志決定をします。

だから、国民の生活を無視した法案や制度が出来上がるのは当然です。彼らのなかで重要なのは仲間のメンツを潰さないことと、エリートコミュニティーからはじかれないようにすることなのですから。

そんな官僚がつくった作文を読むだけの政治家でいくら政治をやっても、民主主義がまともに機能しないのは当然ですよね。そもそも身内のためで国民のためではないので、国民の声が政治に反映されるわけがない。

 

これは特定のバックグラウンドを持った社会的弱者にも言える傾向です。

ある種の負け組的なエリート意識を持つ者同士で集まると、同じような苦しみを味わっていない人間とは心理的物理的に距離を取り、傷を舐めあうためのコロニーを形成します。

そのなかだけで結束して孤立し「どうぜあいつらにはわからない」とコミュニケーションを拒絶します。

いずれにせよ、分断はかくして起こります。

 

全ては与えられたもの

この分断を打破するにはどうすればよいのでしょうか。

エリートがここから脱するには、経済的な貧富を超えた連帯、共同体としての共感覚を形成する必要があります。

たとえば、身分も収入も関係なく対等に互いを尊重することができるグループに属すること、マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻(経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性)」の外側に繋がりを持つことです。(「鉄の檻」について詳しくは、こちらをご参照ください。)

その繋がりによって、人と人との真に対等な繋がりを再確認すると、おそらく「できないのはやらないから」という能力主義のバイアスから目を覚ますことができるでしょう。

 

全ては与えられたもの。

全ては借りているだけ。

その恵みに感謝すること。

自分の力だ、自分のモノだ、自分の価値だと、勘違いしないこと。

持つ者と持たざる者。この世の不平等を自分では変えられないものとして受け容れること。

変えられないものへのコントロールを手放し、自分とはかけ離れた「誰か」になろうとする虚しい努力をあきらめること。

お互いに与えられた個性を慈しみ、尊敬して補い合うこと。

運によって今持っているものに固執せず、自分の実力などと思い違いをしないで、ありのままを受け容れる勇気と落ち着きと賢さが、この身にいつか宿るのを願うこと。

 

そうした認識ができていて行動でその内面を示している人間こそ、真のエリートなのだと思います。たとえばマハトマ・ガンディーのような。

この現代社会の価値はどれもこれも相対的で、誰もが自分と誰かを比べては一喜一憂しています。しかしそれではキリがなく、いつまでもどこか不安で苦しく、恐れに震えながら生きることになります。

そんな人生は、つまらないですよね。

誰かに認められるために生きるというのは、ちっともおもしろくない。

他人から褒められたり、世の中から評価されたりしなくても、全然問題ありません。

あなたが心から、おもしろいと思うこと、ワクワクすること、楽しい気持ちになること、愛しいと思うこと、尊いと思うこと。

それが最も大切な感覚であり、それによって繋がる人が、あなたが本当に大切にすべき人です。

世俗的な価値に換算できない繋がりを、大切にしていきましょう。

【子育て】家事育児を妻に任せて仕事に夢中になる男性に語りたいこと

同僚と話が合わない。

年配の同僚は、ほぼモーレツ社員というか、昭和のノリで生きている。

男は仕事をするのが当たり前。

女が家事育児をするのが当たり前。

今の時代、表立ってはそう言わないものの、根底にはそういう価値観があり、無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)がある。

 

だから、職場の男性陣からこんな声を耳にする。

「仕事で忙しいんだから、家のことは妻が頑張るのが当たり前なのに、期待されても困る」

「夜泣きなんて対応してたら日中眠くて運転が危ないから、別々に寝るしかない」

「稼いできてるんだから、仕事ばかりで手伝ってくれないとか、文句言わないでほしい」

 

うーん。

仕事がしんどいのは分かるけど、ちょっと違うんだよな。

その辺の認識の違いについて今日は触れていきたい。

 

イクメン

 

 

『イクメン』という言葉は、あんまり好きじゃない。

ぶっちゃけ、ちゃんと子育てしていないメンズのことを指す単語だと思う。

「子育てやってる感を外にアピールしている男性」とでもいうべきか。

 

 

たとえば、ちょっとお風呂に入れるだけ、ちょっとオムツ替えるだけ、数時間面倒見るだけ。

寝かしつけはしない、夜泣きの世話を交代したりしてない、お風呂から上がった後の着替えまではやってない、オムツ替えるのでもウンチのときは妻に任せる。

そういう覚えのある人、結構いると思う。

お風呂に入れることすらできない人もいると聞いたときは驚いた。沐浴のときからやってないから、お風呂に入れる経験もスキルも習慣もない。

物心つく前の小さい頃に肌と肌を触れ合っていないと、父親になつかないというのはよく聞く話だ。さびしい話である。

まあなついてもらいたいからやるものでもないんだが、やってないのって結構子供の態度見ればすぐわかっちゃう、ってことだ。

 

いわゆる育児のドロドロの部分。

きつくて眠くてイラっとしちゃう、そんなことが毎日起こる。

「かわいいねー♡キラキラ(´∀`*)ウフフ」みたいなことばかりじゃない。

 

育児のドロドロ

やろうとしていたことが、半分もできない。

中断しては面倒を見て、再開しようと思ったらまた中断、みたいな環境で、やるべきことを終わらせないといけない。

少し眠り始めて、やっと少し休めると思ったら、起きて泣き出して抱っこしないといけなかったりして、結局できずに一緒に寝落ちするほど疲れ果てて。

自分のご飯は満足に食べるヒマもなく、子どものご飯をつくり与える合間に残り物をかき込む。

それが毎日毎日毎日・・・ずーっと逃げ場なく休みなく続く。

それが子育てのドロドロ。

 

仕事はと言えば、朝出勤してしまえば、夕方までは妻と子どもから離れられる。

ある程度は自分のペースでタスクを進めて、お昼はひとりで食べられる。

たとえその日の仕事がうまくいかなくたって、命がなくなるわけじゃない。

 

交代したら、天国みたいに感じると思う。

自分の裁量で時間配分ができて、自分の時間があることだけでも、相当恵まれている。

子育てをやったことがない人ほど、それをあまり実感できないと思う。

 

「やり方が悪い」と語るケース

「いやいや、やることそんなに多くないんだから、タスクの処理を効率的にやればいいんだよ、自分なら、時間内に完璧にできる」

そう思うなら、まず1年くらい代わってあげてほしい。

そんなに効率よくさばけるんなら、仕事と両立できるだろう。それが無理でも半分受け持つくらいわけないだろう。

ん?できない?なぜ?

日中は仕事があるから?

仕事のタスクの処理を効率的にやればいいんだよ。仕事を子育てができるくらいに圧縮して半日で済ませて半休でもとればいいじゃないか。妻に言っていることを自分がやればいいだけだ。

常に自分のペースではできない、睡眠も満足にとれない、そんな状況でも効率よく処理できるんだろう?

いかに自分が無理を言っているか、理解できるだろうか。

 

「私の仕事は妻より大変だ」というケース

「いやいや、私は妻より稼いでいるから、妻より仕事がハイレベルで多いんだ。妻とは違うんだよ。」

なるほど、では、そんな大変なお仕事で、年間どれぐらい稼いでいるのだろうか。

ちなみに私は年収としては平均的だが、休職せず夜泣きに交代で対応したし、一通りすべて面倒が見れるよう妻と一緒に学んだ。おかげで一週間に一日は、妻がひとりで外出できてゆっくりする時間をあげられるくらいには、なれた。

400~1000万円の年収帯の仕事なんて、おおかたそんなレベルである。やり方次第でどうとでもなる。

そして、どのくらい子だくさんかにもよるが、普通に生活していくだけならこれ以上の年収はほぼ必要ない。

つまり「生活するだけじゃ足りない、もっと贅沢をするためにお金が必要だ、もっと稼いでこい」と妻がいうのであれば、「自分で足りない分の収入の穴埋めをできない分、子育ての一切を担うので、お金を稼いできてほしい」と願っているので、仕事を優先する道理があると理解できる。Win-Winだから。そうでないならその限りではない。

「ちあき(筆者)、俺はお前の年収よりもはるかに多く稼いでいる、だからあてはまらない」という人は、妻に、今の収入を維持するべきか、それとも少し減らしてでも家庭のために時間を持つべきか、アサーティブに聞いてみてほしい。おのずと答えは妻の口から聞こえてくるだろう。

 

そもそも、妻が自分より稼げないという主張は、それそのものが不公平だと認識する必要がある。

出産を経験するということは、男性にはできないので想像しにくいが、例えるなら交通事故でダンプカーに轢かれて全身を負傷するくらいの一大事だと思う。文字通り生きるか死ぬかである。

妊婦の頃から体調不良に悩まされ、お腹に重しをつけながら生活して、いざ出産したら骨はガタガタだし髪は抜けるし、もはや満身創痍である。

それだけの大事故を経験しても、入院せずどこ吹く風で仕事を続けるなんて、できるはずがない。どれだけ実力があっても、出世コースから外される可能性が高い。不平等だ。

かたや、妊産婦の苦しみを背負うことなくリソース全てを仕事に注ぐことができた男性が、妻より稼げていないとしたら、それはもう論外である。

妻より自分が努力しているから、今のポストにいるし、たくさん稼いでいるんだと信じたいかもしれないが、前述のとおり妻は女性だからというだけでとんでもないハンディキャップを背負っているので、出産時点で夫は妻より稼いでいるのがこの社会の仕組みでは自然なのだ。

だから、仕事が現時点で妻よりハイレベルで年収が多いというのは、だから自分のほうが大変だとか、優秀だとかという理屈には繋がらない。

満身創痍でも産後すぐに子供をつきっきりで世話しなくてはならない、という状況のほうが、よっぽどハイレベルで、年収に換算すれば3000万に匹敵する。

家事育児は、きつくて価値がある立派な「仕事」である。

 

「男は家族を養わなければいけない重圧を背負って仕事をしているんだ」というケース

なるほど。確かに男性には、収入を求められるプレッシャーがある。

稼いでこなければ存在価値がない、と言わんばかりの「世間」が押し付けてくるジェンダーロールに押しつぶされそうになる気持ちは分かる。

しかしそれは「妻」も押し付けただろうか?

あなたに妻が「ひとりで自分たちを生涯養え」と実際に言ったのだろうか。

ありもしない「世間」に負い目を感じて、勝手に重圧を背負っている可能性はないだろうか。

家族とは、一緒に協力して、楽しく暮らせる生活を維持しようという共同体である。

持ちつ持たれつ、協力し合いながら、営みを続けていくための仲間である。

あなたが家族に役割を押し付けられていると感じているなら、家族で話し合う必要がある。

 

「私の力では今、これぐらいの収入を得ることができる。しかし、申し訳ないが、仕事を二の次にして家事育児を半分担うとすると、生涯賃金でこのぐらい下がるかもしれない。さて、お互いにより良い生活を実現するには、どうしたらよいだろうか?」

と具体的に落ち着いてパートナーと相談しただろうか。

おそらく子育てと家事で追い詰められ疲弊している妻なら、「今は少しくらい下がってもいいから、助けてほしい」というだろう。

子供が成長してからなら、妻も収入を得られるように力を合わせることを、考えてくれるはずだ。

 

つまり、話し合いもせずに、勝手にジェンダーロールを背負っているのではないか?ということだ。

収入が少ないと言われるのが怖い。

できない夫だと思われるのが怖い。

家事育児ができなかったら見下されたりしないか不安。

 

自分の居場所がなくなるのが不安で怖いのだ。

そういう言葉にできない恐怖や不安を見て見ぬフリをするために、仕事に逃げていないだろうか。あるいは、今まで自分が妻に手を差し伸べなかったせいで悪化した家庭環境に対する罪悪感を「妻の無理解のせいだ」と他人に押し付けて無かったことにしていないだろうか。

「稼いでこないとどうせ文句を言うくせに」

「お金がなかったら妻だって生活できないのに」

それは、文句を言うかどうか、生活できなくなるかどうか、ちゃんと二人で話して検証して、そう言われてから、思い込むべきである。

思い込みで対話をせずに、勝手に責任をなすりつけようとするのは、罪深い。

 

パートナーを、家族をなめるな

妻は、夫に「年収」だけを期待しているのだろうか。

そうではない。

もしそうなら、お金様と結婚したのであって、あなたと結婚したのではないのだから、離婚してもいいと思う。もっとたくさんの「お金様」が、その女にはお似合いだ。他をあたってもらおう。

しかし、ほとんどの妻は、つまりあなたの妻は、別にお金だけに眼がくらんで婚姻届に判を押したのではないはずだ。

「この人となら、一緒に生きていける」

「この人なら、信頼し合える」

そう思って、あなたと何十年も一緒に生きることを決めたのだ。

 

その決断の重みをなめないでほしい、と思う。

健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?

この誓いの重みをなめないでほしい、と思う。

 

家族とは、役割分担できっちり割り切れるほど、簡単でもないし、軽くもない。

合理性とは対極にある。

だからこそ実直な対話が必要で、お互いを思いやり助け合う努力が必要で、様々なことを乗り越えていく過程で育まれるものなのだ。

もっとパートナーはあなたそのものを必要としている。

もっと信頼しているし、頼りにしている。お金ではなく、あなた自身を。

 

なんか、同僚と話していると、そんなことを悶々と思うことがある。

【雑談】仕事ってつまんないよね

仕事をしながら生きていくのって、しんどいですよね。

働かなくていいなら、金のことなんて気にしなくていいなら、どんなにいいでしょうか。

生きるのに金が必要な資本主義経済社会では、何でも金金金カネ…。

ひどくつまらない、価値観が固定された、いろどりの希薄な社会だなと思います。

 

会社で働いていて私が思うのは、金や権力が好きで、あまり深く物事を考えない人間ほど、この社会は生きやすくできているということです。

 

仕事とは一種のゲームです。

金を集める。そのためにいろいろな手練手管を使って目的を達成する。

結局はこれだけの遊びです。

仕事に意味なんてない。人生における意義もない。金儲けが目的のレベルではね。

心から顧客の役に立とうなんて考えて仕事をしている人は、ごく一握りだし、そう思っていても組織内のプレッシャーに負けて手前勝手な都合を押し付ける営業をしてしまうことがほとんどです。

結局は我が身大事で、他人のことなんて心の底では気にかけていない。

そのくせ、「顧客のために」とか「社会のために」とかきれいごとを並べます。

だから言うことが薄っぺらいし、所作は偽善がにじみ出て、どこかうすら寒い。

私が仕事で社内の人間と会うだけで疲弊するのは、こういう「気持ちが悪いもの」を見せつけられる気持ちがするからでしょう。

 

私は会議に出るだけで翌日まで人と話をしたくなくなります。

そんな元気はまるでなくなってしまうのです。

意味のない、ただ自分の欲望を実現したいだけの分析や考察を長々と聞かされるだけで、うんざりです。胃もたれします。

素直にそういえばいいものを、聞こえがいいように、耳障りの良い言葉に置き換えてしゃべるから、脳が混乱するので、気持ち悪くなります。

 

「建前」って、本当に気持ちが悪いんですよね。

ADHD・ASDだからかもしれませんが、本音なのか嘘なのか、冗談なのか本気なのか、人と会話しているといつも測りかねます。

たとえば妻は発言の内容に冗談が80%くらい含まれていますが、出会った当初は冗談で言われた『いじり』に対して真に受けて「なんてひどいことをいうひとだろう」と思ってました。(笑)

思えば幼少期から、いわゆる『いじる』という感覚がよくわからなくて、発言一つ一つに傷つきながら苦笑いを浮かべていました。「冗談だよ」といえば、どんなひどいことでも言ってないことになるのか、と解釈違いをして、辛辣なことを言ってしまい他の子を泣かせてしまったり、怒らせてしまうことがありました。それからは「私には『いじる』というのは高度過ぎてできない芸当だ」と戦線離脱してただ横で調子を合わせてニコニコしたりウケたふりをしたりするモブに徹しました。

正直、なんてこいつら笑ってんだろ?って思ってまったく楽しくありませんでした。友人との会話って、そんな感じです。

一定の役割をやって、起承転結というか、序破急というか、オチをつけてという一連の作業。それには、なんの新規性もありません。

冗談を言い合える程度に「自分と相手の仲が良い」ということを確認するための儀式なのだろうか。それは、不安を埋めるための児戯にすぎないのではないか。何も生産的ではなく、新たな驚きもなく、不安を見て見ない振りをするために他人と自分の時間を犠牲にしているようにしか思えなかったのです。

結局人間はひとりなので、どれだけ仲が良いと錯覚していようとも、それは確かめようがない。相手が腹の底でどう思っているかなんて、定量的に測ることはできない。

つまり、それを確かめようがないのだから、気にしても仕方がない。

私が確かに相手を好きで、愛しているのなら、それを伝えることしかできない。それは人間なら誰しもそうでしょう。

 

話がそれましたが、つまり「建前」を言われるとそれを信じようとする脳みそを持っているので、とても困るわけです。

本当はそう思っていないのに、そう思っていると錯覚してしまうから。

顧客のためというので、顧客のためになることを真剣に考えたら、ドン引きされますからね。

「いやいや、お前何マジになって慈善事業しようとしてんの?ビジネスなんだから金儲からなきゃダメでしょ」

っていうんですけど、いやいやそれなら「どんなことをしてでも金を稼ぎたい」って言ってくれよ、って感じなんですよね。

どうせ金がほしいだけなら、変なおべんちゃらくっつけんなよ、と。

程度の違いだけの話であって、金が欲しくて顧客をコントロールして売りつけたいだけなら、オレオレ詐欺でもなんでも結局はやってること変わらないじゃん、と。

そう思っちゃいますね。

だから会議で「建前」言われるの、すごく疲れます。

「といってますが本当は?」と考えながら聞かないといけないの、イライラするんですよね。

社会人向いてないなーって思いながら、途中からぼーっとしてます。

 

金儲けっていうゲームは、つまんないんですよ。私からすると。

なぜかというと、この世のものはいくら集めていくら所有権を主張しても、結局は世界のモノであって、自分だけのものではないからです。

この世にいる間借りているだけ。どんな富豪もどんな偉人も、金や権力は本当はその人のモノではない。全ては脈々と引き継がれてきた生命の歴史の一瞬を切り取ったに過ぎないので、その一場面で金を持っていたり権力を持っていたりするのって、虚しいことなんです。

たとえば、みんなで使うコップがあったとして、それに水がたまたまたくさん入っていたとしますよね。

それを、そのときたまたま使う順番だった人が、「俺のコップに俺の水がたくさん入ってるぜ!」と言ったとしたら「はぁ?みんなのコップだし、たまたまたくさん入ってるだけじゃん」ってなるでしょ。

そういうことです。

この世に存在するものは全てが有限で、誰のものでもない。

誰もが必ず死ぬし、死んだら持っていたものは誰かの手に渡るだけだし、そんなものに執着しても何の意味もない。

って考えると、金は必要最小限だけあればいいし、無理して社会に認められたり何かの称号を誰かに授けてもらう必要なんてないし、他人にどう思われようが好きに思わせておけばいいわけです。

だから、出世には何の意味もないし、職場で人望があるかないか、上司や同僚に好かれるか嫌われるか、はどうでもよい問題で、私たちの貴重な時間の大半を割くほど優先度は高くない。

そういうわけで、根本的に仕事って、意味ないしつまんないんですよね。

だけど、この世の大半の人は、そういうつまんないゲームを寝る間を惜しんで時間を投資するほど好きだったり、人生を見誤るほど熱狂している。

それを私はなんとなく眺めていて、変わってんなーと思っている。そんな感じです。

 

「じゃあそんなにスレてるあんたが、価値があると認めるものって何なのさ?」

と言われれば、今このときをあるがままに生きることだ、と答えます。

なんのために、とかない。誰のために、でもない。

絶対感によって無条件で生きること。

これには価値がある。

つまり、仕事というゲームにいそしまなくとも、社会不適合であろうとも、充分に人生には価値がある、ということです。

あるがままに生きていて、ワクワクして、何かやってみようと思いたつ。

その先に人生を通じて感じるべき、生命の歓喜がある。

もちろん楽なことばかりではなくて、何かをやってみよう、ここまでやってみたい、という己の目指す場所にたどり着くためには苦しみはつきものですし、時につらく苦しく光を浴びない側面がともなうことから、何も知らない他人には、上京が悪くなっているようにも見えたりします。

「あいつは道を踏み外した」「あいつはエリートコースから外れた負け組」と、仕事ゲームに夢中な人は、歓喜を道しるべに生きる人に、そんなことを言うかもしれないですが、勝手に言わせておけばいいのです。私からすると、見当違いも甚だしいのですが、彼らには彼らの価値観があり、それは良くも悪くもない。彼らの人生は、彼らの人生です。がんばって、彼らなりの価値観で一生を全うしてくれればそれでよろしい。私の人生には深く影響しない人たちです。

今あるものを失うことを恐れて「でも○○してからにしよう」とか「○○になったら損だからやめておこう」とか、そういうふうに自分のまごころを裏切っていると、雁字搦めになって、結局他人の道具としてやりたくないことをやるだけの人生になってしまいますよ。

その現実を見て見ぬふりをしたくて、「仕事こそ人生だ」とか「社会人は働いて社会に貢献する必要があるんだ」とか独自の価値観を他人にも強要したがるようになってしまうのです。余計なお世話なんだよね。それはあなたが今に不満があるのを、見て見ぬフリしたいだけでしょうが。そっちの問題こっちに押し付けてくんなよ、って感じです。

無条件で生きる、というのは、そういうことです。

「○○したら○○しよう」なんて勝手に条件を付けない。

やりたいと思ったら、それが正解なんです。

むしろそれだけが、耳を澄ませるべきことなんです。

正論や常識なんてどうでもいい。あんなのはゴミです。

生きているという確かな感覚は、ワクワクドキドキを感じる心にしか宿らない。

 

自分の心に素直に生きるって、この世ではどんなことよりも難しく、どんな鍛錬よりも厳しい道なんですが、本来はそのために、私たちはリソースを割くべきなんだよな、というお話でした。

 

 

【仕事】「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

上司が最近とても焦っています。

おそらく上からプレッシャーをかけられているのでしょう。中間管理職ってなりたくないなーって思います。割に合わないですよね、ストレス度合いと給料のバランスから考えて。

まあとにかくあれこれと口を出し、成果が出そうだと感じたことを片っ端から思い付きで指示を出そうとしていらっしゃいます。

成果が出ていなければ、当然焦るのはわかります。

でも、焦ってあれこれ手を付けても、物事というのは結局は結実しないものです。

なぜか?

結論から申し上げますと、「自分の都合しか考えていないから」です。

繋がるべき相手が見えていない。自分のなかの不安や恐れと、独り相撲を取っているようなものです。

今回は、そんなふうに「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」状況について考えてみたいと思います。

 

なぜ焦るのか?

他人から「あれをしなさい」「これができていない」「他の人はできているのに」などと言われると、なぜ焦るのでしょうか。

それは、他人のなかの自分の評価が下がってしまう、そのことに恐れを抱いているからです。

悪く思われてしまうのではないか。

バカにされてしまうのではないか。

嫌われて悲しい思いをしたり、不利益を被るのではないか。

恐れは、不安を呼びます。

不安になって、その悪い未来について考えます。

あたかも、今行動しなければ、その悪い未来が現実になるような気持ちになって、いてもたってもいられなくなる。

そんな感じじゃないでしょうか。

 

では、いったん落ち着いて考えてみましょう。

自分を他人がどうとらえるか、その印象って、操作可能なものだと思いますか?

私は、これはコントロールできない、自分の範疇を超えたところだと思っています。

他人がどう思うかは、他人次第です。他人に決める権利があることです。

私たちには、どうすることもできない手の届かないところにある問題。

なので、まずは、それをどうにかしようとすることはとても不確実なことだということ。

あれこれ焦って取り繕っても、コントロールできないことだ、と認識すると、それなら焦っても仕方ないよな、って思いませんか。

 

なぜ評価されたいのか?

もう一段深く考えてみましょう。

なぜ、焦って自分を追い詰めてまで、その人のなかの自分の評価を高く保ちたいのでしょうか。

特別に尊敬している大事な人だから?

評価を下げられて出世できなくなったら嫌だから?

なめられて馬鹿にされたくないから?

 

本当に付き合いを深めるべき本質を理解している人というのは、実は世の中にはそんなにいません。

本質を理解している人は、他人を見下したり、成果というひとつのものさしで他人を測ろうとしたりしません。一人の人間として、あなたの価値観を尊重し、自分の価値観も尊重する。あなたの尊厳を傷つけようとはしない人です。

だから、今たまたま成果に繋がっていなくとも、あなたが自分が可能な範囲で心を込めて丁寧な仕事をしているのなら、何も取り繕う必要もありません。ちゃんとわかってくれます。

つまり、表面的な結果や数字だけを見てあれやこれやと他人を勝手にジャッジする人は、本質を理解していない人です。道端の石と同じ、付き合いを深める必要のない、あなたの人生にそこまで関係しない人、ということになります。

道端の石に「お前はダメなやつだ」と言われたところで、あなたは気にするでしょうか。

「ああ、オレは本当にダメなやつだ」と思うでしょうか。

私はそんな人たちにどう思われるかより、愛する家族や尊敬すべき人たちとの交流に時間と頭を使いたい、と感じます。心を込めて、そういう人たちに接するために人生を費やしたいと思います。

 

目の前にいる他人のなかの評価を高く保ちたい、という欲求は、自分を他人に認めてもらいたい=他人から認められないと自分の価値が無いように感じて不安だから安心したい、という願望の現れです。

 

なぜ他人からの承認が必要なのか?

他人に認められないと自分の価値が無いように感じる、というのは、なぜでしょうか。

それは自分に自信がないからです。

では自信とは何でしょうか。

それは何かを「他人と比べて」自分のほうができる、と信じることです。

自信とは、相対的な価値観です。

他人がもし誰もいなかったとして、あなたが好きなことをやるとき、そこには比較対象が存在しないので、あなたは誰かより優れているとか劣っているとか、そんな些末なことを気にせず思うまま楽しく好きなように熱中して取り組むでしょう。

他人と比較するから、自信という価値観にとらわれる、ということです。

 

ひとは、誰もが違います。同じ人はひとりもいない。

得意なことも苦手なことも、考え方も、価値観も、やり方も違います。

もっと言ってしまえば、与えられた才能や環境など、自分にはどうにもならないことも、それぞれ全然違います。

昨今では「能力主義」が正義とされていて、そうした違いを言い訳ととらえる人が多くなりましたよね。

「やればできるのにやらないのは、お前が怠けているからだ」

「平等にチャンスを与えられているのだから、つかめないお前が悪い」

「成果が出ないのは、お前の頑張りが足りないからだ」

一度はこんなことを言われた経験があるのではないでしょうか。

でも、実際そんなに人間は万能でもないし、強くもありません。

人類は、誰もがひとりだけでは何もおぼつかないので、家族を構成し、社会を構築して、この世を生き延びてきた種族です。

やってもできないことはあるし、チャンスは平等ではないし、頑張っても報われないことだってたくさんありますよね。

それはあなたが悪いわけではない。何かのめぐりあわせでこの世にあなたとして生まれて、今できるorできないがある。それだけの話です。

 

だから、他人と比べてもしかたがないし、意味がないのです。

楽しむ分にはいいですけどね。ゲームとして。

優劣はゲームでしかない。本来自分と他人は前提が違い過ぎて比べられないからです。

そんな不確かなゲームに委ねなくてはならないほど、あなたは無価値ではない。

他人より優れていようと劣っていようと、あなたが考える、あなたがやりたいこと。それが実行に移されて、世界と繋がること。

それにこそ価値があり、それであなたが楽しい・嬉しい・好きと感じることが、もっとも意味のあることです。

「下手なら、なお結構。」とは、大阪万博の「太陽の塔」でおなじみの芸術家:岡本太郎さんの言葉です。

「ダメならダメなりに、ダメでもいいと思って、全力でその瞬間にすべてをかけろ。」

そのように岡本太郎さんはおっしゃいます。私もそう思います。

 

自分には自信がない、と他人の目を気にして、本当にやりたいことを自由にできない。

なんて悲しいことでしょう。

自分にはどうしようもない、比べる意味もない。

そんな概念でブレーキをかけ、自分が本当にしたいことをしない。

なんともったいない。

 

なぜ生きているのか?

自分が本当にしたいことを我慢して、他人の目に怯えて、やれと言われたことを焦りながらやって。

それが、あなたが生きたい人生でしょうか。

そのおかげで家があるから、お金が稼げるから、他人に嫌われないから、幸せ?

本当に?

本当にそうでしょうか?

あなたはそれで本当に幸せといえるでしょうか。

もう一度全く同じ人生をやれと言われて、喜んで生きたいと思うでしょうか。

 

私は小さい頃、自由に生きていたら、クラスメートから「異質な存在」と判断され、いじめられました。両親からは「なんで他の子と同じようにできないの?」と悲しげに叱責されて、つらかったのを覚えています。

それから他人に気に入られよう、両親に認められよう、と思って、やりたくない勉強も、やりたくない人付き合いも、一生懸命努力してやってきました。

自分が本当にしたいことがわからなくなるくらい、気持ちにふたをして。

そして、アルコール依存症になり、うつになり、自殺しようと思うまで追い詰められました。

 

私としては、そんなふうに生きるのはお勧めしません。

私はそのままもっと自由に生きていてもよかった。

両親が求める「優秀な息子」でなくてよかった。

みんなに好かれる「普通の人」でなくてよかった。

それらに囚われる人生は、私が生きたい人生ではなかった。

 

「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

それは、こんな小さい頃の私を見ているようです。

だから私は、そんな人に、小さい頃の私に語りかけるように、こう伝えたい。

 

あなたは、他人より優れていなくてもいい。

あなたは、誰からも好かれなくても全然悪くない。

あなたが心からやりたいと思うことのなかに、本当の価値がある。

他人の目なんか気にするな。ただ、やりたいことを精一杯がんばってやればいい。

そのために、あなたはこの世にいるのだから。

【雑談】人生と仕事とか、哲学とか

随分間が空いてしましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

何か意味のあること・メリットがあることを記事にして…とか堅苦しく考えず、あとで手直しして分類すりゃいいや、ということで、とりあえず話してみます。

 

四国にいたのですが、4月から東北に転勤になりました。

異動するってのはそれだけで結構ストレスがかかるものですね。

四国では仕事そのものはめちゃくそ上手くいっていて、行動・成果ともに支店のエース級だということで支店表彰を連続で受け、売上100%を達成したのは私だけという状況で、なんというか気分的に左団扇で暮らしておりました。(笑)

しかし、転勤族というのは4年~10年でだいたいその地を離れるので、良くも悪くも同じ環境が長く続くことはありません。

今度の新天地は東北ということで、引っ越し・仕事の引継ぎ・社会福祉士としてお世話になった方々へのご挨拶・・・とあれよあれよという間に3月が終わり4月に突入していった感じです。

しかし、管理会社というのはどこもひどいですね。

今回の四国でお世話になったマンションは、特に管理会社と大家さんの態度がひどかったです。高圧的で「貸してやってる」みたいな態度がとても鼻につきました。ああいう人間にはなりたくないもんだ。

特に法的拘束力もない勝手に決めたルールを押し付けてきたり、退去時にはこちらがわからないと思って高額な退去費用を請求してきたり。私はそういうことは許せないタイプなので、全部調べて撤回させました。退去費用はまだ粘ってるみたいだけど、専門業者のくせに国交省のガイドラインの内容も把握できていないようでは、私からボッタくろうとするなんて100年早いなって感じです。

 

引っ越し業者もひどかった。

いくつもの家財を破損させられました。全額補償してもらいましたが、人のモノだと思って適当に扱うなんて、プロ意識ないのかなって思います。

破損を隠ぺいしようと、なんやかんや理由をつけて厚かましくも自社の製品と交換購入してもらおうとする始末。そんな仕事をして家族に自分は社会のために頑張っていると胸を張れるのでしょうか?

「お父さんは詐欺みたいな仕事で顧客から金をむしり取っているんだよ、そのお金で生活できているんだよ」なんて我が子に言えるのでしょうか。

 

そうそう、私はそんなことを言うのが嫌で、転職を決意したんですよね。

前職は海外から輸入した欠陥品を売りつけるような仕事で、平均利益率50%の超ぼったくりな商売でした。金属の市場相場を知らない顧客を騙して、廃棄予定のモノを安く買いたたいたりね。今も詐欺みたいな仕事してるのかな…同期のみんな。流行りのビジネスには注意したほうがいいですよ、みなさん。

 

ただ、転職してきても、そんなにやることは変わらなかったなぁ。

仕事ってのは、どれも詐欺みたいなもんなんだな、というふうに最近思います。

私は、自分の給料のために、自分の承認欲求を満たすために、つまり、自分の利益のために他人を踏みつけて利用してのし上がろう、みたいなの、全然モチベーションが上がらないタイプです。

営業職というのは基本的にそういうのが好きで短絡的な人が、精神を病まずに仕事が続いている印象ですね。善悪や倫理に照らし合わせることから目を逸らせない、自分の行動の本質を考えるようなタイプには向いてないと思います。

イケイケのデキる営業マン。

その正体は、自分のことしか考えていない、小賢しく思考の薄っぺらい没人格人間なのかもしれません。(全員がそうではないかもしれないけどね。)

 

仕事は、人生のうちのほんの一部です。

そのための学歴も、資格も、それを取得するための学校も、職場も。

全部ほんの一部なんですが、人は社会的地位によりどころを求めがちですよね。

「社会に認められているから存在価値がある。

だからいいところで働かなきゃいけない。

そのためにいい学校を出なきゃいけない。

そのために内申点を下げられないように大人にいい顔をしなくてはいけない。」

小さい頃からそんなふうに敷かれたレールをただ言われるままに進み、好きなことよりやらなければいけない(と他人から言われた)ことを忠実にこなす。そんな「権力に隷属するためのスキル」を伸ばし続けて今に至るのが、いわゆるエリート・高学歴の人々の一般的な成育歴といえます。

 

そんな奴隷養成機関(社会であり学校であり会社)に認められるための人生が本当に優秀で賢い人間の歩みかと問われると、私にはどうも、そうとは思えない。

最近、古典哲学をよく読むようになりました。

エピクテトス。マルクス・アウレリウス。ニーチェ。アラン。ラッセル。ヒルティ。

彼らの人生哲学と幸福論は、私が今まで違和感を感じてきた胸の奥に暖かい陽が差し込むようです。

経済社会化が進んで、世の中は物質的に豊かになりましたが、精神的には貧相になりました。これはおそらく間違いない。

だから満たされなくて何かに依存したり、誰かに依存したり、自殺してしまったりする。

自らが依存症になり、依存症啓発をするようになって、根本にあるのは精神的な貧困なんだと確信するようになっています。

「自分以外の誰か」が人生の評価の中心になってしまって、「自分」というものがどこまでも置き去りになっているから、寂しくて苦しい。

自分の声を無視して他人に認められるために生きているから、だんだん自分のことがわからなくなってしまう。

本質的な問題点はそこなんだなぁ、と思っています。

 

だから、四国にいるときもそうでしたが、すこぶる仕事がつまらない。(笑)

「お金を稼ぐ」というのは、自分が生きていたい人生を生きるためにこの社会ではお金が必要だから必要な分だけ集める、ただそれだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。

人物としては尊敬していますが、稲盛和夫や本田宗一郎の本で説かれている仕事哲学を読んでも、いまいちピンとこなかったのは、「仕事」を過剰に美化する思想にアレルギーがあったからかもしれません。

彼らの思想は経済社会にとっては都合がいいですけどね。「仕事」に人生をささげた奴隷が馬車馬のように勝手に働いてくれますからね。

高度経済成長期には、やればやるだけ見返りがあって、それはそれはやりがいがあったことでしょう。喜ばれ、必要とされ、生きていていいんだ、と思えたでしょう。

でもそれは、ある種の依存で在り、今でいう仕事依存症(ワーカーホリック)の問題が、時代背景的には表面化されなかっただけで、依存症の症状であったと私は思っています。

 

マハトマ・ガンディは弟子たちに「盗み」をするなと教えました。

ガンディーがいう「盗み」というのは、「己が生きるのに必要な分以上に財産を蓄えたり、欲しがったり、持っている人をねたんだり、分け与える気持ちを失ったりすること」を指しています。

全てのものは与えられたものであり、その人の財産のように見えても、本質的にはこの世界の所有物で、一時的に借りているだけ。

それをいくら集めて「私にはお金がある、権力がある」といったって、それは本来その人のものではないのだから、いくら集めても虚しくなるのは当然ですよね。

だから仕事でいくら認められようと、いくらたくさん稼ごうと、それを糧にして良心に根差した心の底からやり遂げたい何かのために行動しているのでなければ、生きづらさから逃れるための逃避でしかない。

だから私は仕事で会社に認められても認められなくても私の価値は変わらないと思います。

どれだけ売上がトップであってたくさんお金があっても、それは一時的に私のそばに今は在るだけで、私が他の人より優秀だからだとは思わない。

たまたま私にチャンスがあって、チャンスをつかめる能力を与えられて、私以外のあらゆるものが力を貸してくれたから、今があるだけ。

マイケル・サンデル教授が書いた『実力も運のうち』で「今のエリートが謙虚さを失っている」と主張なさっているのは、そういう本質的なことを現代社会のエリートは忘れている、といっているんですね。理由は、偽りの平等を能力主義が下支えしていて、与えられたものを己のモノと勘違いしているからです。

そういう勘違いがとっても多い。

働いていてそう思います。自分は優秀だから、成果が出ると思っているし、成果をコントロールできると思っている。

できるわけないでしょう。そもそもそれらのチャンスを与えてくれた世界への感謝を忘れているのですから。

なんかそんな感じで、また社会不適合者になりそうです。(笑)

 

 

【発達障害】なぜ社会で生きているだけなのにストレスがたまるのか?(神経発達症)

私はADHD・ASDとして一定の特性を持っている。

そんな私は社会で生きているだけで、強いストレスを感じる。イライラする。

それはなぜなのか?

最近考えているところをまとめてみる。

 

①「待つ」が超苦痛

ADHDには、多動性・衝動性という特性がある。

 

画像引用元:日本イーライリリー株式会社 成人期ADHD診断上の重要ポイント

 

多動性(成人期の特徴)

□過剰におしゃべりをする、相手の話を遮る。
□内的な落ち着きのなさ(そわそわしていて忙しそう)。
□感情の起伏が激しい。
□仕事を過剰に引き受けてしまう。
貧乏ゆすりなど、目的のない動きがある。

衝動性(成人期の特徴)

□易刺激性・短気
□転職が頻繁である。
□思いつきの旅行。
□危険な運転(信号無視、スピード違反)・交通事故
□喫煙・カフェインの過剰な摂取。
□衝動的・無計画な買い物(待てない)

 

引用元:医療法人ウェルライフ アイさくらクリニック > ADHD(注意欠如・多動性障害)とは

ただし全員がこのようなダメな行動をするわけでは無い。

個人的にはダメ出ししているかのような表現に違和感があるが、おおむねこの通り。

 

さて、上記の引用のうち、太字にしたようなところが「待つ」ということへの苦手さを表している。

 

「内的な落ち着きのなさ」とあるが、そうなるのは、単に多動だからだけではない。

多動性・衝動性を理性で抑え込むだけで精いっぱいだからだ。

本当は動きたいのに、動けない。社会的に動いてはいけないタイミングだということは、学習して知っている。知ってはいるし理解もしているが、体と心は止まってはくれない、そういう特性だから。

「相手の都合に合わせて待つ」

「ちょうどいいタイミングを計る」

「空気を読む」

これらの動作は、神経発達症の当事者にとって、とんでもないストレスを生む。

理性で全力でブレーキをかけながら同時にアクセルをふかしまくって、なんとか運転しているような感じだ。内蔵されているエンジン(脳)は常に過剰な負荷を強いられる。

そのストレスからくる疲労で、「不注意」の特性がより顕著になる

つまり、作業中のミスにつながる。

 

②「思考の多動性」・「興味関心の偏り」でいつも脳がヘトヘト

神経発達症の脳は常に活発に動いている。

眼に入る全ての映像や、耳から聞こえてくる全ての会話を情報としてひろってしまうので、情報過多で脳の前頭前野が疲労しやすい。

たとえば、ショッピングモールを歩いているとする。

目に入った商品を見て「あ、そういえばアレって」と頭の片隅で考え事①が始まったと思ったら、「○○ってさー」という通りすがりの人の声を聞いて「あ、○○ってなんで人気なんだろう?」と考え事②がはじまり、ふと目に入った時計塔の時刻をみて「そういえば午後からWEB講演会だったな、演者は誰だっけ」と考え事③が始まり、頭がいっぱいになってきてイライラし始めたところで「ガランガランガラン!!大当たり!!!二等おめでとうございます!!!」と福引の抽選に当たったであろう鐘の音が大音量で響き渡ったせいで今まで考えていたことが吹っ飛び、「ああああああああああ!何考えてたんだっけ!!!!!もおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」と発狂しかける。こんな感じ。

だからおちおち情報が多すぎる場所には行きたくない。行くだけで疲れる。

だから都会の人混み・テーマパーク・パチンコ店・会社の集合会議など、光・音・人が多いところが苦手。行くだけで翌日は全く使い物にならなくなる。

 

加えて、ASD傾向もある私は、興味関心の範囲が狭い

つまらないこと、意味のないこと(みんながやっているからやるとか意味不明)をやるのがとんでもなく嫌。

例えば、意味のない会議。「これ集まってやる意味ないやん」と思ったが最後、その瞬間に興味が1ミリも無くなる。無くなるので聞いていても内容が耳に入らない。が、たまに「ちあきさんは、どうお考えですか?」とか質問されたりするので、全無視もできないから、聞いておかなくてはならない。音声がだんだん雑音にしか聞こえなくなり、シンプルにうるさいので癪に障るようになってくる。次第に他のやるべきことがいくつも頭をチラつきはじめ、そちらに手を出したくてたまらない(多動性・衝動性)が、意味のない話を聞かないといけないので、行動を制限されるストレス、多動性・衝動性を抑え込んでいるストレスで、どんどんイライラしてくる。

会議ばかりの日の後も、回復に一日を要する。

 

あとは、効率的でない、楽しくないこともダメだ。

掃除とかかな。

片づけても片づけても散らかる。散らからないように気を付けていても、他人が散らかす。ハゲ散らかすんじゃないかと思うくらい、労力をかけて清潔にした空間が汚れてしまった事実にイライラする。

そもそも他人の行動はコントロールできないし、片づけてもいずれ散らかるのだから、もういっそのこと片づけないでも変わらないのではないか?と思ってしまうと、片づけなくなる。片付けが苦手なのはそういうわけ。

 

謎に毎日できるだけリアルタイムで入れろと言われる、営業日報・勤怠報告・経費精算なども苦手だ。「各々が入れられるときにガッと入れればいいじゃん」と思う。

一日二日遅れただけで特に結果が変わるわけでもない。決算で数字が変わるとマズいとかならわかるけど、それ以外のときになぜ強制されなくてはならないのか。

それは、入力された仕事を管理する仕事をやっている人の最適化のためだ。

それはそうだが、仕事のための仕事は、優先順位が低くて当たり前だ。なのに、それが最も重要な仕事かのようにいう会社が私には分からない。意味がわからない。

自分のルーティーンは大事だが、他人が勝手に決めたルーティーンは、自分にとって重要性が低い場合、たいてい取り入れることができない。

しかし、やらないととんでもなく怒られるし、評価が下がって立場がマズくなるのは、経験上よく知っている。「いかに良い子にして他人の指図に従うか」というのが、この世界で学生時代から変わらない評価の物差し。

だから、ある程度、怒られない程度には、そちらの都合にも合わせなくてはならない。生きていくために、妥協しなくてはならない。とてつもなく嫌だが、やるしかない。

「ああ、こんなん入れようが入れまいが特に何も困らない、意味ないことなのにな」

と思いながら、しぶしぶアフリカゾウより重い腰を上げて取り掛かる毎日。嫌がる自分をなだめて奮い立たせて何とか鼓舞してそれらをやりきると、泥のように疲れ切っている。

なので、私のなかでは重要でクリエイティブな、時間をかけて完成させたい仕事が全くできずに、一日が終わる。

これは会社にとって最もやってほしい仕事だろうし、これが後回しになることそのものが損なんじゃないかと思うが、あちらは意味のない作業をチマチマすること(会社の指図に従うこと)を求めていて「会社とは、働くとはそういうものなの!」とプンプン怒るので、彼らのなかではそうなんだろう。

お金をもらうってそんな感じ。ただただ不毛で意味がないことだ。

 

③マルチタスクが困難

仕事・社会は、同時多発テロのようにいろいろなことが起こり、決めた通りの順番で対応することなど不可能な世界だ。往々にして、日常というのは、並行して何かをしなければならない。イレギュラーはつきものであり、それに柔軟に対応しながら、通過しないといけないチェックポイントをもれなく回る必要がある。

とんでもない世界だ。とても困る。でもここで生きていくしかない。

それが、ASDの私にとってはとんでもなくストレスで、パニックを起こすほど苦痛なのである。

3つ以上同時並行でやらないといけないと、私はストレスで発狂しそうになる。

例えば、夕方の子育て。

チェックしたいWEB講演会があるのに、下の子はミルクを求めて泣き叫び、その相手をしていると焼きもちを焼いた上の子が「パパ一緒に遊ぼうよ」と半べそで腕を引っ張る。

結果的に、WEB講演会は集中して聞けないし、ミルクをあげていると上の子がへそを曲げるので、あげながら相手をすることにあるが、おざなりな相手の仕方では結局ご機嫌を損ねる。すべてが中途半端、うまくいかない。求めている結果に到達しない。でも、これ以上どうしようもない。

そういう「達成したい状態に届かないとわかっているのに、同時に3つ以上のことを実行しなくてはならない」という環境にいると、ものすごい勢いでライフが削られていくのを体感する。文字通り命を削って状況に相対しているような心地である。

基本的に同時に何かをすることは苦手、何か一つにしか集中できない。

逆に言うと、集中力はずばぬけていて、自分の好きなように一つに絞らせてもらえさえすれば、定型発達よりすごい成果を短期間で出せる。

集中しさえすれば短期間で良い成果が出せると分かっているので、集中させてほしいが、自分の優先順位通りに時間と順番を割り振りさせてもらえないと「あーもういいや、どうでも」とすべてを投げ出す。だってどうせ完璧にできないし満足にできないのだから、頑張る気がしないのだ。出来上がる状況や成果物は出来損ないなのがすでに確定しているのに、頑張る価値が無い。そう感じる。

「まあまあ、そうはすべてはうまくいかないなかで、みんな頑張っているんだからさ」

などとよく言われる。

たしかに、みなこの条件でよくやっていると思う。発狂しそうな心を抑えながら私も日々奮闘しているが、よく挫けそうになる。

脳の特性上、マルチタスクがそんなにストレスではないなら、この条件だろうと、1個に集中できる環境であろうと、成果はそんなに変わらないだろう。それなら、そこまで凹むこともないので、受け容れられもするだろう。

しかし、私たちは環境と裁量さえ与えてくれれば、もっともっと役に立てるのに、強みをつぶされているので、それはとても残念だし、凹む。

神経発達症当事者にとっては、この社会は不利な条件で力を発揮しなくてはならない環境だ。社会がそうなっているのは、神経発達症非当事者にとって快適な社会に設計されているからだ。そりゃー、「みんなそうなんだから」って言うあんたがたは快適だろうさ、もともとそういう設計だもの。だけど私たちマイノリティにとっては、そうじゃないんだよ。

この違いを「少数だから」と配慮しないまま、各々のベストのパフォーマンスを発揮させずに使いつぶそうというのは大変効率が悪く、せっかくの高いパフォーマンスで得られるメリットが低下する。実にもったいないことをしていると思う。

 

まとめ:では、どうすれば私たちはもっと力を発揮できるのか?

と、いくら文句を言っても、社会はそう簡単には変容しない。

社会をいくら批判したところで、煙たがられるだけである。基本的人権や権利について蹂躙しようとしてくるような輩には毅然としてNOを突き付ける必要がある(戦う必要がある)が、この箱モノをどうにかしようというのは生産的ではない。

なぜなら社会とはすでに生まれた瞬間から崩壊に向けてスタートしていて、社会になった瞬間に、社会は悪い方向に傾いていくようプログラムされている。ウェーバー予想というやつだ。

だから「社会」そのものに期待するのはやめたほうがよい。あまり精神衛生上、よくない。社会システムのなかの一部の繋がりに期待するのはよいが、システムそのものはシステムでしかない。カスである。いずれ破綻する。

なので、ここからは、個人として今の社会システムになんとか合わせて擬態し生きていくためのHOWを考えていきたい。

どうすれば、今の箱モノのなかで力を発揮しやすいか、ということに集中してみよう。

①専門職に就く

興味があって何時間でも没頭できるものがあれば、それだけができる仕事をなんとか見つける。

専門職は、専門性という尖った個性が価値になる。

研究職(大学など)・職人・図書館・博物館・水族館・動物園などで興味があることにずっと触れ合える居場所が見つかれば、天職といっても過言ではない。

 

②お互いの特性を話して、凸凹をチームで補い合う

それぞれ凸凹があって当然。すべてを一人でできないからチームがある。

「こういうタイプでこれが苦手だけどこれができる。だから、こういう時は助けてほしい。こういうときは役に立ちたいから声をかけてね。」

と、チームのマネージャーとメンバーに謙虚に素直に自己開示しよう。

マネージャー(管理職)とは本来、こうした特性を加味して業務を割り振り、適材適所で仕事の種類や量を管理することが仕事だから、そのリソースとしての自分を理解してもらう必要がある。

そして、その情報を与えて謙虚にお願いしたにもかかわらず、よくわからん人員配置をしたり、十把一絡げな指示しか出せないようなら、マネージャーが能力不足なのであって、あなたのせいではない。割り切ろう。あなたは悪くない。マネージャーが代わるしかない。

この方法は、まだうまくはいかないことはもちろんある。というか結構うまくはいかない。

理由は2つ。

この社会には、そんなに優秀なマネージャーがそんなに存在していないから。

損得で出世してきたようなつまらん人間がゴマすりで管理職まで上がってきているから。

もうひとつは、神経発達症の理解がまだまだだから。

まだ本音では「全部ひとりでやれよ」というオールマイティを評価しがちな日本において、スペシャリストは生きにくい。それはこれから社会の側が改善していかなくてはならないこと。

つまり、理由は2つとも外部要因なので、私たちが直接どうしようもない。だから気にしても仕方ない。

自己開示して、運を天に任せよう。「あ、ダメだココ」と心底思ったら、転職しよう。そんなに違いはないが、よりマシな組織を探そう。

 

③「こんなクソみたいな社会に適応なんてできなくてもいい」と大きく構える

「ちゃんと普通に一般就職で一人前に働かなきゃ」

「ちゃんと社会人として自立して生きていかなきゃ」

そんなふうに思わなくていい。

社会は、教えられたような、正しい世界ではない。そんなにいいものではない。

自殺率は高い。政府はダメダメ。金のことばかり考えていて、実に浅い。

ぶっちゃけ、私たちより社会のほうが間違っている。

そんな社会に適応できていないからといって、自分を卑下する必要はない。

そもそも適応する価値のない社会なんだ、と思ってもよい。

「しかたないからこっちが合わせてやってる」くらいの気持ちでいこう。

あなたが感じる世界観・価値観・人生観は、あなただけのものだ。そして一番大切なものだ。

あなたが信じるようにあなたの人生をイキイキと生きていくことが、世界が求めているベストな状態だ。

お金があろうがなかろうが、有名だろうが無名だろうが、なにかをなそうがそうでなかろうが、それは大した問題ではない。

 

「人生 どげんかなる。どげんでんなる。」

 

 

とても好きな「龍たまこ」さんのブログに示されていた、この言葉。

そう、どうにかなる。だいたい、どうにでもなる。

だから、あまり「○○するべき」とか思わないで、試してみよう。

試してみてダメでも、私たちには仲間がいる。同じ痛みを知る者同士、助け合っていける。

私たちは、少数だけれども、独りじゃない。一人だけど、独りじゃない。

【発達障害】発達傾向のある子供たちは希望の光(神経発達症)

私は、世の中のほうが、基本的に狂っていると思う。

だから、発達傾向にある人や、精神疾患、ことに依存症になるような人を「普通」とは違う、異質な人間だとみなす。

しかし、本来は逆で、正常だからこの異常な世の中には馴染めなくて生きづらさを抱えるのだと思う。

 

正常か異常かの境界線は、実はとてもあいまいだ。

 

Is it just me, or is it getting crazier out there?

こんなの僕だけか? それとも世間が狂っているのか?

 

Comedy is sub, subjective, isn’t that what they say?
All of you, the system that knows so much, you decide what’s right or wrong.
What’s real or what’s made up.
The same way you decide what’s funny or not.

お笑いなんて主観さ、そうだろ?
みんなだって、この社会だってそうだ、よく知ってるだろ、みんなは善悪を主観で決めてるん
だ。
何が本当で何がでっち上げかは、笑えるか笑えないかと同じように、自分で決めればいいってことさ。

 

引用元:映画『JOKER』JOKERのセリフ

正常と異常の境界線など誰に引ける?ふとしたきっかけで入れ替わらないと、誰に言える?もうすぐ分かる。狂ってるのはきっとこの世界の方さ。
引用元:映画『COWBOY BEBOP 天国の扉』ヴィンセントのセリフ

 

結局は「なんとなく」そう思っている人が多いことが、正義や正常として「なんとなく」

多数決で決まっている。

ということは、その数のバランスが逆に傾いたら、正誤は真逆になりえる。

正しいことなど存在しない。

あるのは、事実に対する解釈と損得である。

 

マスクを外せないことにしてもそう。

考えなしにサンタクロースを踏襲することにしてもそう。

なんとなく、特に自分の意見もなく、流されるままに物事を取り扱っている。その結果、どこかの誰かが苦しんで最悪命を落としたとしても。「普通の人たち」は意に介さない。その犠牲者が自分のすぐ隣で寝息を立てている愛する我が子だったとしても。「なんでこんなことに」と悲劇のヒロインのように嘆く。誰かの何かのせいにして被害者ヅラをするのだ。

これが喜劇でなくてなんなんだ、と思わないか?

鈍感さを持つ人にとって何の違和感もないこの世界を一つ一つちゃんとひも解いてみると、いかに歪かがよくわかるだろう。

 

と思うんだけど、大人たちにはなかなか同志が見つからない。

同じ神経発達症の子たちの世界観はとても近くて、同じ世界線を生きている感がある。

 

彼らは不当に「困った子」のように扱われている。

なぜなら、学校や社会など、今の「常識」に合致しない立ち居振る舞いを「普通の人」が受け容れられないので、現在の集団のなかでは浮いてしまいがちだからだ。

今の「正しい」にそぐわない。だから「異常」とみなされ、「欠陥」があると思い込まれる。

間違っていると断定される。

それはとんでもなく一方的な勘違いである。

 

むしろ、彼らは希望だ。

「そんなの納得できない、だから従わない」

と堂々と言えるのは、ちゃんと自分の感覚を信じているからだし、自分の頭で考えて結論を出しているから。それは最も重要な人生の姿勢である。

空気を読んで、周りの様子をオドオドビクビク怯えながら窺って、嫌われないように生きるよりはるかに健康的だ。

自分の好きがはっきりしているから、過集中するし、多動衝動で動ける。

むしろ今の「普通の人」はブレーキをかけて余計なことを考えるので、何をしたいのかよくわからなくなっているだけだ。

つまり、今の大多数を占めている人類の欠点を補う凸凹が、発達障害の特性であり、神経発達症の強みなのだ。

社会的な能力が足りていないのではない。逆だ。

複雑になった世界を生き抜くために特化された新しい姿であり、むしろ他人にない強みを搭載した進化系なのだと思う。

それをまだ社会が未熟だから受け容れられていないだけ。多数派が困るから長所と認めていないだけだと思う。

 

これからは貨幣経済社会ではなく、岡田斗司夫氏の提唱する評価経済社会に移行していくだろうと想像している。

貨幣経済社会はもう限界だ。

新自由主義とグローバリズムが人類に何をもたらすか、もうすでにこの「コロナ禍」という悲劇的な喜劇が明らかにしている。

損得による殺人と分断と混乱と腐敗である。

昨今のメガファーマにみられるような利益至上主義により、多くの犠牲を厭わない非人道的行為が実現してしまった。遠くないうちに、大企業の社会的信頼は失墜するだろう。残念ながら富豪たちの目論見通りにこの世は動かせない。現在のこの茶番は、彼らが「他人はコントロールできない」という無力を知り認めるための道程に過ぎない。

もう先が無い。お金の時代は終わる。多くの犠牲を払って。

 

◎評価経済社会

「評価」が通貨のような意味合いで社会に流通する状態のことを言います。

貨幣経済以前は、不動産を借りる時に知り合いだから貸してもらえるような縁故社会でした。その後、貨幣経済になりお金を出せばそれなりの部屋に住めるようになった。お金を持っていれば、オールマイティに強かったんです。

ですが、これから評価経済が浸透してくると、部屋を汚したりゴミをちゃんと出さなかったりする人には誰も部屋を貸してくれなくなります。すると家賃はスライドして、いやな家主の賃貸物件は家賃が下がるし、ルーズな住人の家賃は上がっていきます。これらの評価が透明化されてオープンに流通しているのが、評価経済の第一段階です。

縁故社会が貨幣経済においても残ったのと同じように、評価経済社会になっても貨幣経済はそのまま残ります。評価経済が貨幣経済の上に乗っかるだけです。

お金で評価は買えないけれども、評価があればお金はいらなくなるという優越関係ははっきりします。

貨幣経済社会でもお金さえもっていればいいというわけではないように、評価経済でも紙幣が淘汰されるわけではありません。

引用元:https://canary.lounge.dmm.com/17241/

岡田斗司夫氏は、上のように述べている。

 

私自身は、評価が貨幣のように流通可能な一定の基準を持つとは思っていない。

なぜなら、評価は「人による」からだ。

 

共通言語となるのは、評価というより繋がり。お金・損得によらない繋がり。真の信頼関係とでもいうべきか。

結局は「こいつになら弱っているとき背中を預けてもいい」と思えるかどうか。そういう個人としての人と人との繋がりの原点に、この社会も回帰していくと思っている。

お金や評価に振り回されてボロボロになりがちな依存症当事者が、回復するにしたがって「仲間」や「繋がり」のありがたさに気づく。そのお金では買えない価値に目覚めて豊さを取り戻していく光景を見てきた。

おそらく失望で底付きした社会にも、同じことが起こるに違いない。人は、損得で生きていけないからだ。独りでは生きていけない生き物だからだ。

というわけで。お金さえあれば、学歴さえあれば、社会的地位さえあれば、勝ち組として幸せに生きていけると思われてきたこの社会は、残念ながら近い将来終わる。

大学を出ても、いい会社に就職しても、いくら資産を持っていても、明日どうなるかわからない世の中になる。

そうなったとき、自分の頭で考えて、独自の世界観で突き進んでいける神経発達症の子たちは、実に頼もしく力強い。

今は不遇な扱いをされているが、私はこのような希望にあふれた子どもたちを支援していきたい。この社会の構造とくだらなさとやり過ごし方は、いろいろ経験してわかっている。それを教えて、社会に潰されないように守りたい。彼らはもっと他の圧力に曲げられたりしないで、その特性をいかんなく発揮して自由に生きるべきだ。それを応援したい。

社会福祉士になって、依存症啓発で児童福祉施設で活動して、そんな夢を抱くようになった。

人生とは、わからないものだ。

ついこの間まで、早く死にたかった。それがこうなるんだから、みんなまだまだどうなってもおかしくない。いい意味で。

まだまだ世界は希望にあふれている。

【子育て】サンタクロースという欺瞞

「サンタクロースは本当にいるの?」

という子どもたちの質問に、なんかどっかの新聞社が美しい答え方をしたとか、夢を壊さないようにできるだけ合理的に説明できたとか、そんなツイートが12月になると溢れかえる。

反吐が出るな、と毎年思う。

結局やっていることは偽りと誤魔化しである。それは誰にも否定できない。

私は、12月24日の夜に「サンタクロースが届けてくれた」と称して自分が購入したプレゼントを子供の枕元に置くかどうか、親として嘘をついたり偽善を行なったりしたくなくて、かなり悩んだ。

そんな過程で考えたことをまとめてみる。

 

問1、サンタクロースは存在するか?

解答:存在する。

 

グリーンランド国際サンタクロース協会が実施している公認サンタクロースの資格を取得すれば、協会公認のサンタクロースになることができる。

試験はデンマークで実施される。

■公認サンタクロース 認定試験受験条件

  • 結婚していること
  • 子どもがいること
  • これまでにもサンタクロースとして活動した経験があること(履歴書の提出がある)
  • サンタクロースにふさわしい体型であること(衣装やその他装備込みで体重120kg以上)

 

そして、以下の体力テストを乗り切らないといけない。

■サンタクロース認定試験 体力テスト

  1. プレゼントの入った大きな袋を持って50mを全力疾走
  2. はしごで高さ2.8mの煙突に登り、煙突から家に入って暖炉から這い出る
  3. ツリーの下にプレゼントを置き、暖炉の上に置かれたクッキー6枚とミルク568mlを完食する
  4. 再び暖炉から煙突を登り、煙突から出たところで国旗を振る
  5. 煙突を降りたらさらに50mダッシュ

 

その後、先輩サンタクロースたちの圧迫面接に加えて、「HOHOHO」だけで宣誓文を延々と読まされる体育会系特有の嫌がらせにあう。その試練に耐え抜いたものだけが、サンタクロースになれる。

サンタクロース界とは、意外と縦社会で嫌な世界である。

2020年現在では、世界に180名のサンタクロースが実在し、日本にも1名の公認サンタクロースがいる。パラダイス山元さんという人だ。

まとめると「サンタクロース」というボランティア活動の国際資格はある。

その国際資格を取得した「サンタクロース」は存在するので、するかしないかと問われれば、存在する。

 

問2、では、子どもが想像する『サンタクロース』とはどんな人物だろうか?

解答:見ず知らずの白人・白髪・白髭・デブ・赤と白の服がユニフォーム・ソリに乗って24日の夜だけ上空を高速移動する・家宅に不法侵入をしても許される・自宅に不法侵入して何も盗らずプレゼントを置いていく・何らかの方法で思考を読みほしいものをあらかじめ突き止めてくる

 

こんなところだろうか。

おそらく、当初よりきちんと「サンタクロース」=「グリーンランド公認サンタクロース」の説明をしている保護者は少数だと思われる。

基本的には「いい子にしてたらサンタさんがプレゼントを届けてくれるよ」「サンタさん今年は何くれるかなぁ」などと供述しているパターンが散見される。このことから、多くの保護者が『サンタクロース』=「何かをくれるがいい子にしていないとくれない、保護者である自分たち以外の存在」として説明しているとみなすことができる。

これを踏まえて、前述の「『サンタクロース』は存在するか?」と子供に問われたなら、その答えは「NO」である。

なぜなら、『サンタクロース』の実態は現実には保護者と同一であり、購入予算は世帯主の収入から捻出されているからだ。どこかの誰かが、その子がいい子だからタダでくれるわけではない。つまり、両親が示唆するような『サンタクロース』という都合のいい存在は実在のものではない。

それは完全に噓偽りである。

 

問3、なぜ保護者は『サンタクロース』がいると嘘をつくのか?

解答:保護者が、子どもたちをぬか喜びさせることで、子どもたちの笑顔を見ることができるから。

 

つまり、保護者の為、親の為。

「子どもたちに夢を与えてあげたくて」

「子どもたちを喜ばせたくて」

というが、それは嘘だ。

 

つくりものの夢を与えることを、一般的には「詐欺」「欺瞞」「ペテン」という。

ありもしない幻想を信じ込ませ喜ばせて「親がみていたい笑顔」を搾取している。

だから、嘘をつくのは子どもの為ではない、自分の為である。

 

「人数が少なくて回り切れないから、本物のサンタさんから代行を頼まれたんだよ」というのも、残念ながら筋が通らない。

なぜなら、本当に公認サンタクロースから依頼がきていたとするならそれは事実だが、自発的にあちらから「代行よろしくお願いします」という依頼が発出されていないなら、それはただの妄想である。妄想ではないというなら、客観的な証拠が必要だ。

いやいや「本物のサンタクロースからは、テレパスで指令が送られてきたんだよ」と言うことができるかもしれない。

であるならば「サンタクロースからテレパスで代行の指令を受け取れる」ということを証明するために、子どもが一切情報を伝えなくても、本当に欲しいものを提供できなくてはならない。心を読めるサンタクロースが依頼者なのだ、そうでないとおかしい。

そして、そのプレゼントは無料で提供されなくてはならない。

 

いやいや「本物のサンタクロースが運営資金が足りないというから補助していた」と言うことができるかもしれない。

ダメだ。それはもう、結局サンタクロースはただ指示を出しているだけで予算を出していない指示厨でしかない。結局プレゼントをくれているのはサンタクロースではなく保護者だと認めていることに他ならない。

「プレゼントをくれる」という行為は、予算を出して届けるまでを言うのであって、そのどちらもアウトソーシングしてしまったら、本物のサンタクロースは「あなたのお子さんはこれが欲しいらしいよ」という情報提供だけだ。情報提供はプレゼントをしていることにはならない。

 

「サンタクロースはテレパスでほしいものを教えてくれて、予算が無いから私たちが補填していた」と説明するとしても、サンタクロースの定義そのものの説明を改めなくてはならない。

『サンタクロース』=「何かをくれるがいい子にしていないとくれない、保護者である自分たち以外の存在」ではなく、「何が欲しいかを保護者に教え、こっそり購入することを促すが、いい子にしていないと情報すらくれない、保護者以外の存在」だと説明しなくてはならない。

そんな存在に子供が夢を抱くだろうか。かなり関与が低い。ぶっちゃけあまりいてもいなくても変わらない。結局買うかどうかは保護者次第であり、普通に買ってもらうこととほぼ遜色ない。

唯一違うのは、心を読まれて何が欲しいかを把握されているということだけだ。

子どもにとっては、プレゼントの限度額を最大化させるための駆け引きを不利にする要素でしかない。むしろ、いないほうがマシである。

 

問4、ではなぜ、世の中の保護者の大半が『サンタクロース』を偽装するのか?

解答:親にそうされてきたから。みんながそうしているから。(同調圧力)それを愛情だと信じたいから。

 

それが「当たり前」だという長年の洗脳の結果である。

他の家がそうしているのに、自分の家がそうしなかったら「変に思われるかもしれないから」「子どもが浮くかもしれないから」と他責にする。

騙すことになるかもしれない、などと深く考えない。

周りがそうだし今までそうだったから、自分たちも詐欺に加担している。

自分以外のひとたちがやっていて、「社会」が「世間」がそうするから私たちは悪くない、と責任転嫁をしている。

それを愛情だと勘違いしている。

 

私は子どもの頃、親に嘘をつかれたことがとても哀しかった。

私が信じてきた『サンタクロース』は幻想だった。

そのこともショックだったが、それよりも、両親が、信頼している味方だと思っていた人間が、私を騙していたことがただただ哀しかった。

見ず知らずの私を、友達もいない私の善行を、ちゃんと見ている保護者以外の存在がいるというのは希望だった。しかし、そんな第三者などいなかった。

そんな都合のいい存在などいないことを両親はわかっていた。

わかっていたのに、私に「サンタクロースがいる」と、虚偽の発言を繰り返していたのだ。毎年毎年、何度も騙していたのだ。

その事実に深い失望感を感じ、とても傷ついた。

 

クラスメートから「まだ信じてんのかよw」とバカにされたことがきっかけだった。

クラスメートとは「信じる両親が『存在する』と言っているのに、お前は何を言うんだ、失礼だぞ、私の両親を嘘つき呼ばわりしてバカにするのか」と取っ組み合いの喧嘩になった。

家に帰ってから「サンタさんいるよね?!そう言ってたもんね??!」と確認したときに、父と母の目は大いに泳いだ。

そしてそのあとゴニョゴニョと誤魔化したのだ。

 

情けない。

情けなかった。

 

この情けない両親を信じた私が情けなかった。

そのときの両親の有様が、とても惨めにみえた。

そしてそんな人たちの言うことを信じて戦ってしまった自分が、ただただ惨めだった。

 

 

もし「サンタクロースはいる」という嘘をつくのなら、正確に意義を認識して腹を括るべきだ。

子どもからの信頼を贄として、「大人になると人は他人を騙す」という社会の不条理を疑似経験させるためにやっていたのだ、と。

「他人の言葉や『皆が信じているから』という同町圧力に流されず、事実を洞察できる推理力を養ってもらうための伝統的な儀式」だという位置づけで、世帯主の責任の下、この家でもこの慣習を取り入れたのだ、と言うべきだ。

騙したことが明るみに出たときには、子どもには、非礼を真っすぐに謝るべきなのだ。

もっともらしく「いるにはいる」みたいな言い逃れをしないで。

自分たちが楽しみたくて嘘をついたのだと認めなくてはならない。

それができないなら、騙すべきではない。騙るべきではない。

 

だから、我が家にはサンタクロースは来ない。

クリスマスプレゼントはある。両親から渡す。

得体のしれない誰かからの贈り物だと嘘をつかず。

古代ローマから続く太陽を神とあがめて行われた祭りとして、素直に祝われる。

我が家の太陽。子どもたちは太陽だ。だから愛情の表現の一つとして贈り物がある。

それだけでよい。嘘は要らない。