【共依存】仕事に逃げる男たち

男たちが仕事にこだわる理由。

それは結論から言えば「人生から逃げるため」である。

 

彼氏彼女の幻想の崩壊

男はジェンダーロールという呪いを背負っている。「強くなくてはならない」「社会で成功しなくてはならない」「仕事をして稼いでこなくてはならない」という洗脳を受けて大人になる。

これは戦前から連綿と続くアメリカでいうマッチョイムズである。日本では「家長」としての父親像から端を発する。戦後の核家族化・高度経済成長の流れのなかで、徐々に男性の役割が「家長」ではなく「大黒柱という名のATM化」に移行していくが、ジェンダーロールは今までの時代の流れから形成されている呪いである。

この呪いは根深い。

専業主夫という概念を若干見下す一定の世代の偏見は、こうした既存の価値観からきている。

「男は外で汗水たらして金を稼いでくるのが役割」だと刷り込まれている。

その価値観を引き継ぎ是とするままのこの現代社会で、若者が結婚する気になれるわけがない。

昨今の若者は、生まれてからずっと経済社会が悪くなるところしか見ていない。バブル崩壊後どんどん経済が低迷していき、ろくな景気対策もできない政治をする大人たちを見て育ってきた。経済が上向かない・よくなる未来が全く見えない今の日本で「金を稼いで家族を養う」なんてできないと絶望しているのである。

だから未婚率が高くなるのは必然だ。

 

結婚できたとしても、結婚生活がうまくいかない。

なぜなら「結局は自分が稼いでこなくてはならない」というプレッシャーを常に感じながら生活していて、仕事に重点を置かざるを得ない心理的呪縛が抜けないからだ。

結婚すると生活は一変する。

まるでナウシカのように、彼女は優しく自分をあるがまま受け容れてくれる存在だと、付き合っているときには勘違いしている。その認識のまま結婚する。結婚して妻になり子供が産まれた瞬間、彼女だったあの子はもういなくなる。完全に消滅する。

女性はその子の母になる。旦那の世話など二の次・三の次、いや果てしなく優先順位は下だ。

それは当然であり、男たちが勝手に勘違いして幻想を抱いていた彼女像が、そもそもの認識間違いである。

妻は、夫の母代わりではない。

独立した別の人格を持つ、尊厳ある一人の人間であり、共同生活を共に営む、いうなれば相棒・会社でいうところの共同経営者だ。

しかし男たちは、妻を、自分のことを一番に考えてくれて辛いときは慰めてくれて、欲しい承認欲求を与えてくれて、守るべき存在でありながら自分を包んでくれる存在だ、と思い込んで結婚している。

そんな風に妻のことをいつまでも自分だけの女神さまのように思ってきて、ある日「あれ?なんか思ってたのと違うな」となる。

子ども最優先になり、今までやってくれていたことはできなくなる。

妻はホルモンバランスが変わり、子ども最優先で行動するよう生体からプログラムされている。夫のことは、男性としてではなく子育てチームの一員としてみるようになる。ガラリと変わるその様は、男性にとって、まるで妻が別人になったかのように見える。

それは母として最適化するよう遺伝子にプログラムされていることなので、本人たちにもどうしようもない。

そして、夫が家事育児の領域で役に立たないと、妻はむちゃくちゃイライラする。そもそも寝不足で身体はガタガタなのでメンタルのコンディションは最悪だ。あらゆることが癪に障る時期なので、どうしようもない。役に立っていても基本的には存在しているだけでムカつく、そんな感じだ。

そうなると次第に夫は妻に、妻は夫に不満を持つようになる。

「付き合っていたときとは、変わっちゃったな」

「こんな人だとは思わなかった」

そもそも付き合っていたときに感じているときめきが一種の幻覚であり恋の「病」。異性に求めていることが根本的にマザコン的な依存である男性は、それをいつまでも叶えてくれるなんていうのがとんでもない幻覚妄想の類で、スタートから間違いなのだが、徐々に夢から醒めていく。

そしてある時期から「なんでこんな人と結婚したんだろ…これが望んだ結婚生活なのだろうか?」と夫婦ともにお互いが小首をかしげはじめる。

しかし、それを直視した先に、「離婚」あるいは「別居」という重いテーマに対峙しなくてはいけなくなることを、うすうす気づいている。

だからお互いに見て見ない振りをして、夫は仕事に逃げ、妻は子どもに逃げる。

その結果、2人のコミュニケーションは劇的に少なくなる。お互いに対する徐々に不満と怒りをため込む。ため込んだ不満と怒りは腐敗して、消しがたい恨みとなっていく。

そして両者の溝は決定的に埋めがたいほど深くなっていく。

 

仕事に逃げる男 子どもに逃げる女

両者の関係が険悪になるにつれ、一緒にいることが辛くなってくる。

ひとつ屋根の下共同生活を送ることそのものがストレッサーになり始める。

そうなると、男は仕事からなかなか帰ってこなくなる。

「家にいるより仕事をしていたほうが心理的ストレスがないから、朝早くても夜遅くても大丈夫です」

とは、最近新生児が生まれた後輩のMくんの発言だが、まさにこれだ。

そもそも二人でいることが辛いのに加えて、子どもは夜泣きするし、妻はいつも不機嫌だし、家庭にいる時間を針の筵のように感じているのだろう。

つまり、生きづらさの逃げ道として「仕事」を選ぶ。

社会的には仕事にまい進するのは肯定されているし、頑張って成果を出せば、組織内で評価してくれる。

条件付きではあるものの、かつて彼女に求めていた「俺を認めてほしい」「俺を褒めてほしい」という承認欲求を満たしてくれる体験を仕事に見出せるのではないか、と考える。

出発点として、自己肯定感とは、「自分が」「自分を」ありのままで存在を肯定できることなので、それがないから彼女に求めているところに、男性たちの闇がある。

結局は、他人の承認なくして自分の存在を価値あるものと認識できない男たちは、スタートからすでに共依存の病を抱えているのである。

しかしそんな概念をもちろん知りもしないし、自分が病んでいる自覚もないので、内省には至らない。

母として子を見るようになり自分を見てくれなくなった妻を逆恨みし、会社に足しげく通う。共依存相手を、妻(かつての彼女)から会社にシフトする。

だから、成果を出してもなかなか認めてもらえないと、望んでいるもの(承認欲求)を差し出さない会社を恨み、同僚と飲みに行って愚痴を言ったりするのである。

もっと評価されよう、もっと褒めてもらおう。よしよししてもらいたい一心で仕事を生活の中心に据えて、関係が悪くなり居心地の悪い家庭のこと、満たされない自分のことに向き合うことから逃げ続ける。

 

かたや妻のほうはといえば、逃げまくる夫に家事育児を押し付けられて、途方に暮れる。

かつて頼りにしていたカッコいい彼氏は消え失せて、独り。孤独感と閉塞感でいっぱいだ。

家から出られない。か弱い子どもの命を常に守らなくてはならない親の重責を抱えて、一時も休みがない。

そうなると、夫の環境に嫉妬する。夫は仕事とはいえ外に出ることができるし、独りの時間を持てる。自分には持てないものを享受していると、嫉妬する。

自分は我慢していることをさんざん日中やっているくせに、家に帰ってきても一向に戦力にならない夫に、怒りが蓄積されていく。

「あなたはいつもなんで何もやってくれないの?!」の裏には「私は苦しい、私を助けて」という本音が裏側にあるが、YOUメッセージ(主語に「あなたは」がくる)で伝えているので、夫は否定され責められているようにしか感じない。次第に聞いているのが辛くなり聞き流すようになる。ますます共依存で仕事に執着していくだけ。夫は妻のSOSに気づかない。

ある時期から、妻は悟りをひらく。

「ああ、こいつには何を期待しても無駄だ」

そう思って、期待するのを諦める。

夫は「最近小言を言われなくなったな」と内心ホッとする。実にアホである。なぜなら、この諦めは最後通告を無視し続けた末の完全なる決別の証であり、関係修復が絶望的になったことを意味するからだ。

この諦めの瞬間から、妻のなかでは夫はもう家族の一員ではなく「言葉をしゃべって飯を消費するATM」であり、人ではないのである。もはや期待しているのは稼ぎだけになる。

生きていても死んでいてもどうでもよくなった夫のことはさておいて、妻は子どもに失われた時間の対価を見出そうとする。

「子どもがより良い人生を送れるように」という大義名分を盾にして、結婚後の失われた人生、うまくいかなかった結婚生活から目を逸らすために、子どもに共依存していく。

母が子どもに過干渉・イネイブリングをするのはそのためである。

父親的な存在を彼氏に求めて結婚する女性もまた、自分そのものを肯定できていない。自分を愛し「君だけだ」と言ってくれる王子様に承認欲求を求める。

王子様だったはずの夫。恋焦がれた王子様は遠い幻影となり、使えない同居人になり、最終的にしゃべって食べるATMになる。

 

要するに、彼氏彼女はお互いに求めていたものを相手から得られなくなったので、向き合うことから逃げて他で承認欲求を補填しようとする、ということだ。

 

男女それぞれの共依存が生む弊害

まず男が仕事に依存すると、「プライオリティ(優先順位)の1番を仕事にすること」を他人にも強要するようになる。

「プライベートを言い訳にするのか」

「仕事ができて一人前」

という言葉で表面化するこの価値観の押し付けが発生する。

家庭から逃げてきた男たちにとって、会社こそが「家」であり、仕事仲間こそ「家族」だからだ。

だから会社(家)のために頑張り、家族(仕事仲間・上司)から褒めてもらおうと、必死で働く。会社(家)で存在価値を示すことが、唯一自分を肯定してくれることになってしまう。その一方で、心の奥底では、本当の家族をないがしろにしている後ろ暗さが常に背後にある。

恐れを抱いて震えながら、自分という存在の生き残りをかけて仕事でマウント合戦をやっている。それが仕事ばかりしている夫の真の姿である。

それで正しいんだと安心するためには、他人が同じでなくては困る。

今まで逃げ続けてきたこと、妻と向き合い家庭と向き合うことが仕事なんかよりよっぽど大切だった、ということに気づいてしまうと、今までのすべての自分が瓦解してしまう。

だから、自分を支えている世界観が壊れることを恐れて、他人にも自分と同じように生きよと強要するのである。

仕事よりも家庭を大事にしている同僚を目にすると、内心穏やかではない。

だから「あいつは仕事ができないダメなやつだ」とか「仕事をもっと真剣にやらないから出世できないんだ」とかレッテルを貼って下に見ることで、心の平穏を保とうと必死になる。

上から目線で見下すという態度は、自分ができなかったことをする人に恐怖している証拠である。

こうして、本当に大切なものを大切にしている人を迫害し始めるので、病んだ男たちにとっての歪な「会社」という家庭は地獄そのものになる。

 

妻はといえば、「子どものため」と言いながら、イネイブリングで子供を虐待する。

自分の生き直しとして手取り足取り教え、転ばぬ先の杖を用意し、子どもから「失敗の経験」という人生の宝を盗む。

自分の生きづらさを解消してくれる自分の所有物(おもちゃ)として子供にちょっかいを出しまくる。

そうして、子どもは「失敗の経験」を横取りされ、自分で自分の人生を決める権利を奪われ、アダルトチルドレンという生きづらさの呪いを背負わされる。

この幼少期の共依存的な関わりが「自分で挑戦して人生を生き成功も失敗も肯定する感覚」=自己肯定感をがっぽり子供から吸い取っていく。元から発生しないように阻害してしまうとでもいうべきか。

これがのちに成人すると、仕事に逃げる男、子どもに逃げる女、に変身する。

こうして、生きづらさは世代間連鎖する。

【仕事】営業は営業したら負けなんで(鷹嶺ルイ)

最近観たこの動画、おもしろかった。

とても丁寧に相談に答えていて、優秀な方なんだなと感じた。

多くに人に参考になる内容だったと感じたので、個人的にまとめてみる。

 

「鷹嶺ルイ」って誰?

ホロライブというVtuber事務所に所属している人で、もともとブラック企業に勤めていた経験がある。

通常、同業他社で30軒くらいの取引先担当数が相場の業界で、何倍ももたされてクレーム対応も任されてしまい、一時は常に胃が壊れた状態で生活していたとのこと。

始発で出勤して終電で帰り、家でも残業して2~3時間寝たらもう始発の時間・・・というような苛酷な時代を生き抜いてきただけあって、話に説得力がある。

鷹嶺ルイ先生のお話は大きく分けて3つ。

①営業・伝え方について

②人間関係について

③セルフコントロールについて

では、さっそくひとつひとつルイ先生のアドバイスを見てみよう。

①営業・伝え方について

営業は営業したら負けというのは本当にそうで、売れない人ほど売ろうとしてしまう。

売りたいのはこちらのエゴ。

顧客に寄り添い、その人にとって役立つ必要なものだと気づいてもらったからこそ、買いたいと思ってくれて、結果として売れるのである。

自分が良いと思っていて、この人にもそうなんじゃないか?と思うから勧められるわけで、自分が欲しくもないようなものを勧めることができないように、そういうものは売るのが困難で、売れているとしてもストレスがハンパではない。

そういう場合ルイ先生は、早めの転職をお勧めしている。

 

ルイ先生が好きじゃないタイプの営業、という話題のなかで出てきた重要なキーワード。

「勝手に人の気持ちを語る営業」。

これめっちゃくちゃ多い。マジで巷にあふれている。

とにかく相手のニーズを勝手に決めつけて、購入を強要しようとするのだが、それはただの迷惑である。嫌がられるに決まってる。

また、そのニーズを口に出させようとあからさまに誘導尋問しようとするのも、これと同じようなものだ。

結論ありきで質問してこちらに都合の良い回答を引き出そうとするのなら、結局他人の気持ちや願いには全く耳を貸していないのと同じ。人の話を聞いているようで聞いていない。

本心から出てくる言葉を確認するために質問するのであり、自分の質問に本心で答えてもらえるためには、その人にとって誠実で信頼してもらえるような人でなくてはならない。

信用はカネでは買えない。

 

それに通じるのだが、社内であっても相手を思いやること、それは相手の時間を大切にする意味で分かりやすい伝え方をするのが大切だ、というお話もされている。

・カテゴリに分けてあらかじめ伝える

・結論から言う

これは本当に大事な2要素で、これに気をつけるだけで、相手にとっては話を聞くとき負担が相当少なくなる。

伝わり理解してもらえるので、相手はその後の行動がしやすい。だから結果が出る。

 

②人間関係について

職場の悩み、退職の理由の第1位はいつも「職場の人間関係」である。

特に上司との人間関係に悩む人は、いつの時代もどこにいても絶えることはない。

2つ目が特に大事だ。

こちらの思い込みで、何となく伝えにくいと思っていたけど、話してみたら理解してくれた。そんなことは往々にしてある。

私は話してみて理解してもらえないようだったらスッパリ諦めて距離を取るタイプだが、わりと話を聞いてもらうと理解してくれるケースがある。

その人の表情や印象などの先入観で、こちらがつくってしまった壁が障害になっているなんてもったいない。

勇気を持つことが、誤解を解くきっかけになる。

ホウレンソウは私もとても苦労した。

新入社員の頃、何を言わないといけないのか、何を言わなくていいのか、全くわからなかった。

報連相をしろと言われて逐一報告していたら「そんなつまらないことでいちいち話しかけてくるな」と言われるし、それなら重要なことだけ…と話していないと「なんで前もって言ってくれなかったんだ」と言われる。その繰り返しだった。

その繰り返しのなかでだんだんわかってきたのは、「自分以外の人の作業・最終的な着地に影響があるかもしれないこと」が「重要なこと」であり報連相すべきことだということだ。

報連相をしろというのは、自分以外の誰か影響があるかもしれないことがあったら話してほしいということだった。そう言ってほしかった。

つまり、言いづらいこと、というのは、悪い意味で結果に影響が出るかもしれないとわかっているから、言いづらく感じている。ということは、影響が出るかもしれないと自覚している時点で報連相の対象になる。「悪いことほど早めに報告」しなくてはならないのはそのためだ。

途中にミスがあろうが予定変更があろうが組織としては「最終的に勝てばよかろうなのだァ~!」なので、帳尻が合えば問題ないし、少し違った結果になっても誤差が少ないほうがいい。

だから修正可能な初期のうちに言われたほうが組織としては助かる。

逆に言えば、問題を抱え込む人はリスクを抱え込むということなので、計算可能性が低くなる。

組織としては仕事を任せることそのものがリスクと認識されるので、社員としての信頼は失われていく。

だから、評価を下げたくなくて言いにくいことを抱えるよりも、むしろ積極的に悪いことほど報連相しておいたほうが信頼されるし評価される。

 

社内でキャリアアップするためにも好かれよう、嫌われないようにしよう、と意気込む人はどの年代にも存在する。

しかしそんなことは必要ない。

どんな人とも仲良くできるはずがない。人はそれぞれ個性を持っていて、その人らしく生きている限り合わない人は必ず存在する。

それを我慢してヘコヘコしたりキョロキョロしたりしていると、心が腐っていく。やめといたほうがいい。

基本的にはビジネスライクに対応しておけば問題ない、というのは、私もまったく同じ意見。

むしろあまり深い付き合いをしたくない。金が絡むと人付き合いはだいたい醜いものになるから、わざわざ深めたいとは思わない。

 

私も人を頼るのが苦手だ。

なぜなら不確実性が増す気がするからだ。

これはコントロール欲求の裏返しで、結果にこだわっているときにこうなる。

自分のできることというのは限られている。時間も有限だ。

同じ目的のために集まっている職場の人間は、仲間だから、頼るために存在してる。

遠慮なく頼ろう。

 

これめちゃくちゃ笑った。

休憩まで他人に気を遣っていたら、疲れちゃうよ。休もう。

③セルフコントロールについて

少し②の人間関係にも重なるが、自分の承認欲求のコントロールという意味でこちらにカテゴライズした質問である。

早く出世したいという人もいるだろう。

そんな人にはこのアドバイスを心に刻んでほしい。

焦ってもいいことはない。ひとつひとつ着実に力にしていくのが、遠回りしているようで、実は最短距離である。

その組織が健全で審美眼のある組織なら、普通にしていればおのずと輝きを見出してくる。

無理に装飾しようというのは、自分に自信がないことの現れであって、虚飾を評価されて期待されたとしても、自分のキャパを超えていて期待を裏切ったりするから、結局お互いのためにならない。

私も寝坊にはとても悩んだ。

私はアルコール依存症真っ只中のときは、毎日ワイン2本飲んで寝ていた、というか気絶していたので、どうしても起きられなかった。

上司に馬鹿にされ続けてぶちギレ「定刻起床装置 個人簡易型 (SAC-5A型)」というクソ高い(10万円)JR乗務員が使う目覚ましをつかったりしていた。

モーニングコールサービスを頼ったらよかったなぁ、と思った。

まあ結果的に睡眠障害(REM睡眠行動障害)もあったし、そもそもアルコール依存症の底付きのために必要なことだったので、どうしても起きられないときは何かが病んでいるから、病院にかかったほうがいいよ。

 

まとめ

鷹嶺ルイさんは、他にも様々なおもしろい動画を投稿していて、これ以外にもぜひ観てみてほしい。『アウトラスト』というホラゲ実況で伝説を残していることで有名。(笑)

随所に高い知性が垣間見えるし、社会人としてしっかり生きてきたからか、話し方がちゃんとしていて聞きやすい。英語もタイ語も話せるので、語学に興味がある人も知っておいたほうがいい人のひとり。

あとセクシーでかわいい。

 

【メンタル】まともな人ほど心は病むよね(山田玲司)

 

この動画で山田玲司さんが話していることがむちゃくちゃ重要だったので、要点を書き起こして考察してみる。

 

ちゃんと感じることのできる「まともな人」が「メンヘラ」になる、

ちゃんと感じることのできる人なんじゃないのって俺は思ってる。メンヘラって。

だからこそキツいことになっちゃうよね、この文明社会では。

だから俺は近代病だと思ってる。文明病みたいな。

 

本当にそうだよな、と思う。

この世の中は基本的に狂っている。

この資本主義経済がベースにある社会では、なんでも市場価値に換算して相対的に比較するし、合理主義が神よりも信仰されているし、とにかく人間がクズになる。

没人格化して機械のように生きることが正解の世の中で、病まないはずがない。

今の社会に適応できている人こそ狂っている。

だから、今の社会で成功を掴んでいるとかいって称えられている人を素直に憧れるのはやめておいたほうがいい。

人間をやめた人を参考にしても、人間をやめることになるだけだからだ。

まだ人間をやめていないまっとうな人が、耐えきれずにメンヘラになる。

だから、メンヘラこそまともな人、というわけ。

 

スターウォーズ問題

 

「親の問題」っていうものを解決できるかどうかっていうことを、子どもは関係ないのに背負わされるわけ。これは、本人のせいではないわけ。親がダースベーダーだったかどうかだよ。

 

これはいわゆるAC(アダルト・チルドレン)の話だ。

日本の家はほぼ機能不全家庭だといっても過言ではない。

過干渉・共依存のオンパレードで、何かしら闇を抱えた親に育てられて、そのまま闇を繰り越すことを何代もやってきたのが、日本人だろう。

学歴がなくて出世できず苦労したから、やたらと高学歴にこだわる父親。

旦那がパッとしなくてタワマンカーストでマウントを取られたトラウマがあるから、やたらとハイスペックな男と娘を結婚させたがる母親。

もう日本中だいたいおかしなことになっている。

おかしいと自覚していないだけで。

親はそういうトラウマからくる「偏執性」を子供に背負わせる。

子どもは自分の分身である親を信じているし、無条件で愛してしまうので、最初にその「偏執性」をインストールしてしまう。

そして、自分の問題ではない問題を背負った呪いに苦しむ。

 

 

「君は努力が足りない」とか「暗いからダメなんだ」とか、そういう簡単な浅ーい認識で人間を評価してきた歴史があんだけど、もういい加減分かってきてるでしょって、この時代ならさ。

(中略)

これ(親やその前の代の影響がその人のフォーマットをつくっていること、それは本人のせいではないこと)をわかんないで本人のせいにしたり薬入れたりとかするから…

そんな簡単に治んないですよって話。

 

最近医療がアホらしいな、と思うのはココで、本人しか見ていないのに何がわかるのか?というところ。

エビデンスが、研究結果が、とかいうけど、同じ家族背景で対象患者をリクルートすることなどできない。ここに抱えている呪いは程度も種類も違う。

そんな精神を病んだってだけで十把ひとからげに集めてきて、この薬使ったら効きました!とか言ってるのを聞くと、本当かよ?と思う。

担当医がちゃんと診察の過程で、背負わなくていい自分の荷物を下ろすのを手伝ってくれたから回復したのかもしれない。

あるいは、他人との出会いで、自分に気づきを与えてもらって、捉え方が変わった結果、そんなに悩まなくて済む状態になったのかもしれない。

人生の長い長い期間で、ほんの一瞬、よくなったからと言って、本当に効果があったといえるだろうか。

精神領域の実臨床というのは、それこそオーダーメイドである。

他人がポッと現れてちょっと見て「とりあえず今こんな感じだからこの病気だよね」と勝手にレッテルを貼って薬だしときゃ治るなら、そもそも苦労しない。

それぞれの物語に自分自身が向き合っていく手助けくらいしか、他人にはできない。治すとか治さないではない。その人自身にしか、その人を変えることはできない。

そのあたりに簡単に介入できる、と思っている時点で疑わしいことこの上ない。

 

水槽(アクアリウム)問題

中にいる魚って、魚単体が病気になるんじゃなくて、水槽全体が病気をつくるんだよ。

魚単体の話をしてもしょうがないんだよ。これが、患者単体の話、心を病んでいる人単体の話にしてはいけないっていうやつ。

もう結局そこって環境じゃないですか?って話。

 

結局、この社会でそこそこ良い位置にいるような人間が、心を病んでいる人の健全な心をわかるはずがないのである。

この社会でそこそこ良い位置にいるということは、この行政官僚制のバトルロワイヤルで生き残ってきた、「勝ち組という狂人類」のカテゴリにいる人だからだ。

狂っている人に、狂っていない人の気持ちがわかるはずがない。

そんな狂人たちに支配されているこの社会は、もう完全に終わっている。

 

この国のな、なんで心を病むかっていったら、だいたい1%の勝者と99%の負け犬っていうシステムになってんの。

「野球やりたい!」っつったときに全員がイチローになれないの。「そういうふうになったら良いなと思ってました」っていうひとたちがほとんどの国なのこの国は。

だからそこで夢を語るとかいうのが、まずそこでちょっとおかしいんだよ。

 

誰かが富めば、誰かが貧しくなる。

他人の幸せは自分の不幸になるシステムになっている。

そんな救われないシステムのなかで夢を抱いて前に進めと言われたって、そんなの無理に決まってるじゃないの。

もう『カイジ』の利根川さんみたいな人ばっかりである。

勝たなきゃゴミだとか言われて、それが正論で、そんな世の中で生きていて楽しいわけがない。

 

学校という地獄

学校ってさ、異常なシステムだと思うんだよ。

家庭でスターウォーズやって、学校でバトルロワイヤルやって、もう戦争から戦争ですわ。そんな毎日を送って「学校行きたくない」って言うに決まってるべ。

 

学校というのは、地獄である。

いきなり年齢が同じだから、と箱にぶち込まれて、そのなかでバトルロワイヤルをやらされる。そういう空間である。

成績・ルックス・運動能力。

そういう薄っぺらい限られた価値観で相対的に互いを評価しあい、1%のリア充と99%の有象無象に分けられるトラウマを製造する。1%のエリートも、金という虚しい紙きれを追い求める悲しい怪物として使い倒せるように型にはめられていく。

まさに蟲毒である。

お互いを敵として、モノとして認識させ、コントロールしやすい歯車を生み出すための奴隷養成所。それが学校である。

そんなとこ、行きたくなるわけがない。

行きたくなくなるのが普通だ。行けているほうが狂っている。

だけど、不登校というと、なんだか道から外れたダメな子だとか言われる。

逆だ。

まともだから、不登校になるんだ。感性がまだ死んでいないから、しんどくなれるんだ。

だから、私は子どもに学校なんてどうしても行きたくないなら行かなくてもいいからね、と言っている。

 

学校ってなんで…話の下手なね、公務員のね、つまらない話をね、1日6時間も聞かなきゃいけないのっていう、この苦行。

俺の若い時代を返せと言いたい。だって時計しか見てなかったもん。「終わんないかなー」しか考えないでしょそんなもん。そうでしょ?

なんでで12時になったら嬉しいの?おかしくない?1日の半分が終わっちゃうのに。

つまんないからだよ!つまんないから!

くそみたいな授業受けるから、学問っていうのがつまんなくなっちゃって、「学校つまんない」=「学問つまんない」っていってしまった人たちのなんと多いことか。

 

一生懸命授業の準備してくれていたんだと思うんだけど、申し訳ないけど、先生という人種の話は基本的にとてもつまらない。

教師は社会にまともに出ずに教師になることが多い。

教育学部で実習して、そのまま学校に公務員として就職して、民間で働いた経験がないので、社会でいろいろな人と話をしていろんな人がいるんだなということに触れる機会もない。

ずっと「学校」という異常なシステムの箱庭のなかにいた人間が、社会を語ることそのものが困難だ。だから仕方がないと思う。

 

実際、社会で不条理や苦渋を味わってから古典哲学に触れて、ハマりまくっている。

学問はこんなに面白いのか、と思う。

私が学校でやっていたことは、狂った異常なシステムで表向き正しいとされているノウハウだとか、受験というゲームを攻略するために必要な暗記方法だとか、そんな些末な似非学問であって、学問じゃなかった。

学問とは、生きることのど真ん中にあり、それは「学校」で机に座っているだけでは絶対に教わることができないものだった。

なのに、人生の大半を机にかじりつき続けてきた人が学問を語る。

もはやコントである。

 

生き延びて逃げろ

今どうしたらいいかっていうと「逃げろ」「生き延びて逃げろ」ってこと。

今はまだわかんないんだよ、でもこの先には巨大なカタストロフ(壮大な破滅)が待ってますから。一気に壊れるからバーッていろんなことが。

そうするとまた「空き地(フロンティア)」できるから。っていうことの繰り返しなんで歴史って。

だから、そのときまで「なんとか生き永らえろ」って話なの。

 

早く破滅してほしいな、と思う。

世の中が全部完全に壊れて、今までの価値観なんて木っ端みじんになってほしい。

言っちゃ悪いけど、だんだんとみんな気づいてきていると思うけど、もうこの社会はもうダメなんだ。

今はまだ外向きのカタチを保ってはいるけど、中身がもうスッカラカンの張りぼて社会だ。

だからそんな社会に否定されたって、気にするな。

頭おかしなやつがなんか言ってんな、って聞き流しておけばいい。

学校に馴染めなくても、一向にかまわない。むしろそのほうがいい。

変に周りをキョロキョロみて怯えながら空気を読んで、合わせようとしなくていい。どんどんクズになっていくだけだから。

不登校でもいい。むしろ行きたくないと言えてお前は偉い!と言いたい。私は親に洗脳されていたので、行きたくないという本心を握り潰してしまった。私よりもみんなのほうが優秀だ。誇るべきことだ。

おそらく苦労はあるだろう。

学歴がないことで、金が稼げないことで、今は不遇の時期を過ごすかもしれない。

しかし、全てが終わったとき、メンヘラこそが世界を再構築できる救世主でもある。

それまで、ともに狂人の圧政から逃げて、生き永らえよう。

 

【共依存】モノとして生きる空虚さについて

上司というか、職場の過干渉がきつい。

めっちゃうざい。

電話するのも嫌だし顔を見るのも嫌になってきた。

いよいよやばい。

 

結論としては、他人は変えられないので、自分の行動をどう変えるか、しかない。

極力接点を減らすこと。

仕事だけの関係だと割り切って、淡々と接すること。

できるだけ意識を割かず、『時間管理のマトリックス(4象限)』でいうところの第二領域=重要だけど緊急じゃない自分がやりたい行動に意識のキャパを割くこと。

それを徹底する。それ以外にできることはない。

 

ワーカーホリックの男というのは、仕事で褒められることに固執する。

これは、アイデンティティを、個として置くことができず、「社会的役割の商品価値」に置くからだ。

仕事で認められることが、唯一の生きていていい理由だからだ。

そう考えると、哀しい生き物なのである。

 

何を隠そう、私もそういう時期があった。

自分に自信がない。生きていていい確証がない。

「自分がどう生きたいか」ではなく「他人の目からどう見えるか」で生きている。

自分が嫌いで、ありのままの自分を肯定することができない。

自分のなかに輝く大事なものが何もない。

だからその空虚感を埋めるために承認を求める。

 

安野モヨコ先生の『後ハッピーマニア』の主人公、シゲカヨと同じだ。

「女の目」からどう見えるか、そのための結婚、そのための恋愛、そのための自分。

自分そのものを好きじゃない。だからそんな自分を好きな相手も愛せない。だから愛されていても愛し合えない。相互的な愛の交換ができないので、結局は関係は続かないし、本当に欲しいものはいつまでも手に入らない。

 

さびしさ。

さびしさを埋めるために男を道具として見てしまう。

だから、自分も商品である「モノ」として自覚してしまう。

だから「女」としての商品価値で自分を語る。しかも相対的に。

人間を人間として見ていない。自分も他人も。

だから限りなく承認を求めても、それは自分自身ではなくモノとしての自分なので、モノとして商品価値がなくなれば消失する承認をいくら両手いっぱい抱えきれないくらい集めても、決して満たされることはない。

形式的・物質的なハッピーをマニアのように集めても、それに「幸せ」は入っていない。

己のなかにしか、幸せは探すことができないのに。

そんな苦しみを生々しく描いている作品である。

 

そもそも、岡本太郎先生に言わせれば、幸せなんてものは、嘘っぱちだ。

自分がモノとして大切にされているのであっても、愛されていると勘違いできる、そういう突き詰めて考えない鈍い人が「幸せ」を偽っているだけ。

自分が自分として生きる。その過程で歓喜を味わう。今までのつらさが吹っ飛ぶくらい心が揺さぶられる瞬間に出会えば、この人生をもう一度生きてもいい、いや生きたいと思える。ニーチェのいう永遠回帰である。

それこそ「自己肯定感」というやつである。

自分のココが長所だから良いとか、これができるとかあれができるとかではない。それはモノとしての市場価値に過ぎない。

良いところも悪いところも、自分の人生の運不運も、まるっとすべてひっくるめて肯定できる。それが自己肯定感だ。生そのものの肯定だ。

 

そこまでいくと、結果はどうでもよくなる。

どういう結果であっても、自分のやりたいようにやること、自分の内なる声にしたがって素直に行動したかどうかが全てであって、何かを集めることには執着しなくなる。

他人のなかの自分の印象もそうだし、仕事の結果もそうだし、お金の多い少ないもそう。

結局は自分そのものの外側にある「概念」でしかないからだ。

外側に価値を置く限り本当の自分に価値を認めることはできないので、大して力を割くほどでもない副次評価項目が「結果」である。

 

そんなさびしさゆえの結果への執着。

そのノリを押し付けられると、げんなりする。

結果を出すことが正しいという信仰を持っているし、寂寥感・空虚感ゆえにそれに固執するのも分かる。自分もそうだったから。

しかし、いま改めて他人を通じて過去の自分を認識し、これほどウザかったのか…と愕然とする。黒歴史である。

仕事という興味のないMMORPGのギルドに無理やり入れられて、毎日「ログインしろ」「アレを集めてこい」「なんで同じ情熱でやらないんだ」って責められてやらされているような感じだ。

いや、ゲームだし。所詮ゲーム。これ本筋の人生のサブだし。どれぐらい一生懸命やるかどうかは個人の自由じゃん。押し付けないでくれます?って感じである。

資本主義社会はその「仕事ゲーム」に夢中になることを全力で肯定している。計算可能性・投資可能性・合理性を担保するために、人間は人間らしく不条理でいてもらっては困るからだ。

歯車のように、機械のように、予想できる欲望に支配されて行動してくれなくては、予測できないから。結局、社会全体がコントロール欲求に支配されているので、その社会という水槽で生きている私たちは病むに決まっているのだ。

この水槽の宗教と、私個人の価値観との乖離がとんでもなく大きすぎて、辟易としている、といったところなのだろう。

 

仕事ゲームを人生の中心に据えている人にとって、あるいはこの現代社会の価値観に照らし合わせると、結果なんてどうでもよいとコントロールを手放した私は「やる気がない」「仕事ができない」「優秀じゃない」「存在が我慢ならない、なんとかして思い通りに動かそうとしたくなる」そういう存在なのだろう。

さびしさを抱える人が仕事で偽りの自己肯定感を得るための比較対象として、格好の餌食になる立ち位置である。

比較して「俺のほうが優秀だ」「俺のほうががんばってる」「俺のほうができてる」と感じるために最適な比較材料として、つまり「モノ」として利用しようとする。

でも私はモノではないので、そういう材料として扱われるのは不快だから距離を取るだけだし、私が思う通りに動くので、他人のコントロール欲求を満たすために動くことはない。

そうなると「なんで思い通りに動かないんだ?!」とフラストレーションがたまり、責めたり罰したりし始める。

 

本当にウザい。しらんがな。好きなもの同士で勝手にやっといてくれよ。

たしかに江戸時代の五人組のように、組織はチームで動いているので、組織に従わないで好き勝手やっている人間には、ルサンチマンの負の圧力を発生し同僚がボコボコにするようにできている。特に日本は同調圧力が強い水槽なので、居心地が悪くなるのは当たり前っちゃ当たり前だ。

徒党を組むことがないスイミーのようなもんだ。

 

この濁り切った水槽で光を探すためには、のらりくらりと共依存的に関わってくるイネイブラーの同僚を躱しつつ、セルフケアで自分自身をご機嫌にしていくしかない。

とにかく光に集中すること。

しかし、困ったことに私は興味がなくなるととことん興味がなくなるので、最近仕事に興味がなくなり過ぎてタスクを綺麗に忘却することがある。これには本当に困っている。

上司が過干渉すればするほど、興味を消失していく。そして仕事が進まなくなる。

私を最も効果的に動かしたいのなら、最も良いのは放っておくことなのだが、結果をコントロールすることへの不安と恐れに苛まれているので、それは同僚たちにはできない。管理して強制しないと気が済まない。

無力を認めてくれるまでには、まだ時間がかかりそうだ。

憂鬱だけど、私は私として生きることしかできないので、のらりくらりとやらせてもらおう。

 

 

【仕事】優秀なプレーヤーをマネージャーにしてはいけない理由

マネジメントって難しい仕事だよな、と思う。

現場でプレイヤーとしていくら実績をあげていたとしても、マネージャーとして優秀かどうかといえば、話は全く違ってくる。

いや、むしろプレイヤーとして優秀であればあるほど、マネージャーとしては壁にぶち当たることになる。

えてして組織ではプレーヤーとして優秀な成績を収めたことを手土産にマネージャーに昇格するが、これが部下の不幸の源泉であるといっても過言ではない。

本来は適性が全く違うので無理して優秀なプレーヤーから選出することそのものに無理があるのだが、「納得感」と引き換えに非合理的な人事がまかり通るのが、この世の中である。

 

優秀さとは「点の状況」

まず、プレーヤーとして優秀なことはすばらしいことだ。別にそれを悪く言うつもりはない。

優秀なプレーヤーは、周りのプレーヤーよりも結果的に成果を出す。

成果の要因は実は複合的だ。プレーヤー自身の能力だけではない。

周りに協力してもらったこと、運がよかったこと、それら外部要因を全てをひっくるめて、結果的に結果が出た。それが、優秀なプレーヤーの背景である。

もちろん、プレーヤー自身の能力は、単純に比較してみて平均的な他のプレーヤーの能力よりもある点において優れているだろう。

お金集めというゲームのなかで「勝ちたい」「勝利者でいたい」という競争心が強い傾向にあり、そのために身体的精神的リソースを実際に割いている。「勝つ」という目的を達成するための知恵と工夫にも秀でたものがある。

つまり「他人との競争に勝つために思考し行動できる」という点では、個体として優れており、その行動が結実する環境(外部要因:周りの協力・運など)に恵まれた結果、優秀なプレーヤーと組織から認識される状況が生まれる。

 

そんなひとが陥りがちな落とし穴が、「自分は優秀だという思い込み」である。

確かに、事実、勝ってきたのだろう。

積み重ねた努力も並大抵ではないだろう。

周りのタスク処理能力と比べて、自分のそれは高いと自負しているだろう。

私も、そうだった。

「自分一人の力でのし上がってきた、苦しんでいるとき誰も手を差し伸べてくれなかったけど、なんとかしてきたのは私だ。だから私は優秀なんだ。そのへんの運だけで勝ってきたヤツらと一緒にしてもらっては心外だ。今のこの現状は私の実力なんだ。」

そんなふうに思っていた時期が私にもあった。

しかし結論から言えば、これはひどい勘違いであり、思い込みだ。

 

物事はそんなに分かりやすく合理的にはできていない。

 

たまたま勝ちを拾ってきたにすぎない。

何か一つ違えば、私は同じ結果を出せなかったかもしれない。

全て自分の力だけ、という条件そのものが、この世では成り立たないから。

自分には変えられないものが必ず介在する。そこに私の力は及ばない。

変えられるものを変えるチャンスがあった、そしてその時点で変えることができる個体だっただけだ。

変えることができたのは、自分の努力だから、自分の力だろうか。

私が努力できたのは、努力できる個体としてたまたまそういうふうに産んでもらったからだ。遺伝子の配列が少しでも違ったら、私の特性はどういうベクトルに向いていたかわからない。

「優秀さ」というのは、自分を含めたこの世のあらゆるものが総合的に作用した結果、ある一定の側面からある一定の集団が見たときの、「点の状況」に過ぎない。

 

成功者の内なる功罪

「勝てる法則」とか「成功の方程式」とか、ちまたにはたくさんの自己啓発本やビジネス本が本棚にひしめき合っている。

これらは、社会的に成功したという近視眼的な状況に、もっともらしく後付けの因果関係らしき理由を添えただけの、個人の物語だと私は思っている。

成功を一般化することはできない。

成功を不自然に一般化して人材として評価すると、評価された人はその勘違いにより、次第に傲慢になる。

「俺のほうが正しい」「私のやり方が最も優れている」「他人は俺より下だ」

心の奥底に、そうした傲慢さがこびりつく。これは自信ではなく勘違いなのだが、本人は自信として社会的な存在としての、精神的な拠り所にする。

これがとても厄介で、コントロールに心を支配され依存が生まれる温床となる。

一時的に偽りの自信を得るかわりに、健全な心を見失う。

 

自分は「優秀」なので他人の意見は自分の意見よりも劣っている、ととらえると、根本的に許容範囲が狭くなり視野狭窄に陥る。

人はみな違うので、意見や考えはそれぞれに良さも悪さもあり多種多様だ。環境と条件は常に変化しているので、行動がもたらす可能性を一概に推定することはできない。だから、やってみないとわからない。

しかし「優秀さ」に囚われていると、そうした落ち着いた賢い理解ができなくなる。

自分が自分のやり方でやることが、最もいい結果になる、と信仰してやまない。

なので本人は良かれと思って、他人に自分のやり方を強いる。あったかもしれない無限の可能性を潰して。

そして思い通りに他人が動かないと、さらに他人を下に見る。「俺の考えが理解できない低能なやつだ」とか「使えないやつだ」とか、自分のなかで他人の立場を下げることで、うまくコントロールできない不安と恐れを見て見ない振りをする。

あるいは、強制したり監視したりして何とか他人が思い通りに動くようコントロールしようとする。いわゆるイネイブリングである。

こうして、本来コントロールすることができない他人や成果を、「コントロールできる」と偽りの自信に裏打ちされた勘違いによって、一生懸命何とかしようとする羽目になる。

そしてうまくいかない現実を、自分以外の人間の無能さのせいにしながら、永遠に報われない試行錯誤を繰り返すのである。

 

部下が苦しむメカニズム

何となく見えてきたと思う。

優秀なプレーヤーがマネージャーになったときに部下の不幸が生じる原因が。

プレーヤーとして優秀であればあるほど、マネージャーになったとき今まで書いてきたような虚しいイネイブリングを部下にとことんやってしまう。

毎日のスケジューリング、訪問時の折衝の仕方、企画立案の方向性、はてはタスクの進捗管理まで、全てを管理・監視しようとされたら、される側はどうなるだろうか。

まるで成長しない。

全てを手取り足取り教えることは、とても親身になって部下を思う上司に見えるだろう、はたから見る分には。

しかし実際は、部下を自分の操り人形のように扱っているだけで、本人の自主性や独創性や可能性の価値を、生かせないばかりか貶めているのだ。

当然部下は最終的に「上司様の言われたことをやるだけ」の歯車になっていく。自分で考え自分で実行し、自分で結果を味わうという、成長に欠かせない経験を奪われるので、仕事をしていても自己効力感はなく、虚しいばかりである。

本来あったユニークさや個性はそぎ落とされ、ただ指示に従うだけの無気力人間の出来上がりである。

それが深層心理で上司であるマネージャーが望んだ部下の姿であり、本人の成長など本当はどうでもいいという本心の現れである。

そうやって自分のおもちゃのように部下に指図してやらせるだけのマネージャーがほとんどで、チームを台無しにしてしまうことがよくある。

そしてうまくいかなかった原因を、口では「私がリーダーとして至らなかった責任」だとか何とか言いながら、心のなかでは部下にあると思い込み、謙虚に省みることがない。

「たまたまそろった面子が使えないやつばかりだったから、今回は結果が出なかっただけだ、次はもっとうまく厳しくやろう」と決意を新たに、イネイブリングを強めていくだけだ。

 

この囚われから脱するのは、現実問題としてかなり難しい。

言い訳の余地もないほど徹底的に天狗の鼻がぽっきり折れるような「底つき」が必要だからだ。

自らの「優秀さ」が偶発的であった事実を認めることは、今まで社会的な存在としての自分を成り立たせてきた精神的な支えを失うことを意味する。なので、なかなか手放せない。アルコホーリクが酒を手放せないのと同じように。

「成功を掴み家族を養うため」という大義名分で、家庭を蔑ろにしてきたとしたら、いっそう始末に負えない。偽りの自信のために今まで失ってきたものを数えれば、事実はどんどん認めがたくなる。

あれやこれやと言い訳をしながら、必死にしがみついてしまうのは、しかたがない。

しかしこの囚われを乗り越えたひとは、マネージャーとして花開くだろう。

 

じゃあマネージャーに向いているのって?

むしろ一度ボキボキに折れて「優秀さ」とはかけ離れている人ほどいい。

己の無力さに打ちひしがれて、泥水をすすって地べたを這いずりまわってきたような、そんな人ほど、事実を謙虚に理解するために必要な経験をしてきたといえる。

こういう人は「自分自身すら、自分だけではどうにもならないこと」を心から認めている。

だから、自分以外の存在を有難いと思える。

他人に個体として敵わず、劣等性をまざまざと見せつけられて、自分ひとりだけでは何事もなしえないことを体験として知っている。自分の弱さを知っている。

 

しかしそれで他人を妬んだり世の中を恨んだりしているのではまだまだで、自分だけが弱いのではないことも知っているのが重要だ。

生きとし生けるものすべてが不完全な存在であり、多かれ少なかれその恩恵なくして、命すら成り立たない。それは皆同じで、みな弱いのだ。自覚しているかしていないかの違いしかない。

そのことを知るには、心を開いて他人と交流する経験が必要である。

自分の弱さを認めてさらけ出すのは、とてつもなく勇気がいる。

しかしこちらがその勇気を持たなくては、他人もまた弱さをさらけだすことができない。

勇敢な弱者が、その行動により他人の弱さを垣間見たとき、真実を理解することができる。

この「行動」こそ「変えられるもの」だ。

 

己の無力を認め、「変えられないもの」を受け容れる落ち着きを持ち、「変えられるもの」を変えていく勇気を持ち、その二つを見極める賢さを持つ。

そんな人がマネージャーに向いているわけだが、そんなひとはほとんどいない。

 

そう在れたなら、本当の意味での権限移譲ができる。

信じて託すことができる。愛に根をはる想いから行動し、他人に施すことができる。

異なる価値観を持つ他人を受容し、互いを尊重する前提で未来を語り合うことができる。

小手先の「効率性」や「合理性」を超えたギフトを、部下は上司から手渡されることになる。そうなると部下は上司であるマネージャーに対して、敬意と感謝を抱く。

心理的安全性が保たれた共同体が形成され、チームとして真の強さを帯びはじめる。

その結果、「自分でやればうまくいく」と想定したよりもはるかに大きな結果をともなって、行動の結果がマネージャーである自分にも還ってくる。

この好循環が生まれるからこそ、チームがあり、組織がある。、

 

俯瞰的な見方をすれば、貨幣経済の社会秩序を重んじる合理性と計算可能性に支配された行政官僚制の組織そのものが、この好循環を阻害する諸悪の根源であるといえる。

この経済社会において、営利組織に属するプレーヤーが傲慢さに囚われるのも、マネージャーがイネイブリングに陥るのも、ごく自然なことではある。

誰も悪いわけじゃない。社会がそういうつまらない社会だというだけ。

私が組織を形成するとしたら、このことを忘れないようにしたいと常々思う。

【発達障害】「社会不適合者」と呼ばれて

私は自分の疲れを認識するのがとても苦手だ。

「あれ、今日布団から起き上がれないな」

「なんかネクタイ締めようとすると、嘔吐くんだけどなんでだろ」

「立とうと思ったら膝に力が入らなくてこけちゃった」

みたいなことがある。

そこまできてはじめて、「あれ?俺ってもしかして疲れてる?」ってなる。

その不思議について今日は書いてみる。

 

やりたいこと・やるべきことに集中しすぎる

私は、とにかく目の前にやりたいことややるべきことがあると、それに一点集中してしまう。

意識が全部もっていかれるというか、勝手に突っ走っていて、止まらない。

以前は、やりたいことなんてなかったので、とにかく仕事にまい進していた。

「もっと良くするには」「もっと早くするには」

そんなことが常に頭を占めていて、思いついたアイデアを形にするために具体的なアクションを描き、実行する。

ゲームをしているときの感覚に似ている。

この武器をつくるには素材は○○が〇個が足りないから、このモンスターを〇匹倒して、次は成長させるのにこれが足りないから・・・と、次々どんどん進めようとする。

ゲームの場合も、睡眠も食事も忘れて没頭してしまう。

なんかイライラするな、体の調子悪いな、とゲームの目的達成の進捗が悪くなり始めると気づく。

その感覚は「強迫的」というのが語感としてとてもしっくりくる。

「やろう」が「やらなきゃ」になり「なんでもっと早くできないんだ」になる。

具体的なアクションに意識が集中しすぎるあまり「楽しむ」から意識がどんどん離れていく。

こんなに疲れてイライラしてまで、なんでやってたんだっけ?とふと我に返るときがある。

 

諸刃の剣

これは「過集中」という発達障害の傾向のひとつである。

良い面も悪い面もある、いわば諸刃の剣だ。

良い面としては、並外れた集中力と意欲で、常人には困難なことを実現する突破力を持つという側面がある。

たとえば、社会福祉士の国家試験を7日で合格したりすることができる。

妻からもよく「その集中力うらやましい」と言われる。

ふつうは、そんなに一つのことだけに長時間没頭することはできないらしい。私には感覚がわからないけど、楽しい・好きと思っていても、途中で飽きたりして、中断しても全然嫌じゃないそうだ。

私は中断されるとパニックに陥り心が引きちぎられるような気持ちになる。そしてしばらくその不快感を引きずって生活することになる。

たとえば、今こんなふうにブログを書いているけど、書き切るまでに邪魔が入ってしまうと、尋常じゃない怒りとストレスに苛まれる。叫びたいくらいイライラする。頭のなかでは続きを書いているのに、今この瞬間にそれを文字にできないと、のちのち内容を忘れてしまったりして、それがものすごくキツい。

気持ちがノっているときに一気に書いてしまわないと、気持ちが削がれてもう続きが書けなくなってしまう。「続きを今更書いたって、どうせ気持ちの入らない、価値のない文章になる」ともう一人の私が呟くので、あとで続きをやっていてもどうも楽しくない。結局お蔵入りすることになる。

なので、マルチタスクで一つ一つの作業が途切れ途切れになる社会人の仕事は、私にとってとても高度な作業になる。

特に営業は突然電話が入って作業中断を余儀なくされる。急な連絡で予定が変わることが日常茶飯事だ。会社の方針ですらコロコロと朝令暮改を繰り返したりする。狂気の沙汰だ。よくみんな普通の顔をして働けるよな、といつも感心する。私はとても無理だ、向いていないと自覚している。

気持ちがせっかくノっているときに限って、クソつまらない会議で時間を拘束されたり、PCを開いてはいけない時間帯に差し掛かったりしてしまう。

やりたいけどやれない。その不快感に堪え神経をすり減らす。

時が経ち「さあ、もうやってもいいですよ」と言われても、もうその頃には心も体もエナジーはゼロだ。もはややる気はない。でもやらないといけない。締め切りがある。とてもつらい。

 

理解されない私の感覚

宿題をやろうとしていて母親に「早くやりなさい」と言われてしまい、やる気をなくす。

そんな経験が一度はあるのではないだろうか?

やろうとしていたことは、他人が指図した瞬間に「やらされ仕事」になる。言葉では言い表せない何か大切なものが台無しにされてしまった。そんなふうに感じるだろう。

それに近い。その台無し感をより強く感じ、かつ尾を引くタイプ、と思ってもらえるととてもイメージしやすいかもしれない。

しかし、なかなかこれは社会人としては受け入れられにくい。

「なに甘えたコトいってんだよ、気分がどうこう言ってないでやれよ」

「そんなの気分転換すればいいじゃん、上手にできないのが悪いんだよ」

「みんなそのルールでやってるんだから、わがまま言うなよ」

幾度言われたことだろう。正直に話せばそんなふうに「わがまま」な「怠け者」で、扱いにくい「社会不適合者」とレッテルを貼られてきた。

ちょっとお菓子を食べたりコーヒーを飲んだりして気分が変われば、どれだけいいか。それで変わるならいくらでも食べるしいくらでも飲む。

まあそんなふうにしてアルコールの鎮静作用を利用し、いや乱用した結果、アルコール依存症になるまで頼りに頼ったわけだが。

 

ルールなんてクソくらえ

勝手にお前ら定型発達が設定した謎のルールになんで従わねばならんのだ。

ルールは変えられる。私は私の特性を変えられないんだ。

やりやすいようにルールを変えるほうが合理的じゃないか。

それで雇用主が望むパフォーマンスに近づき、より早く目的が達成できるなら、そのほうがWin-Winじゃないか。なんでルールのほうを重要視するんだ、意味が分からん。

今までも、今も、そう思っている。

 

要は楽に管理したい、リスクを最小限にコントロールしたいから、行動を縛っているだけだ。

管理する側が責任をとらされないために、楽してリスクを回避したいだけだ。

でも責任者は、責任を取るためにいるわけで、全体の最適化を考えるならリスクを背負ってでも多様な働き方を認めるのがリーダーがすべき仕事であり責任である。

自分が楽をするために仕事をするんじゃないよ、と思う。

 

この世は多数決が好きだ。

過半数の人間が賛成するなら、それが正義になる。

残りの半分以下に苦しみを押し付ける。生贄にするために悪のレッテルを貼る。

そりゃ、みんなで生きているんだから、守らないといけない最低限のルールはあるだろうさ。

でも、そのルールをできるだけ最小化して誰にでもわかりやすく実行可能性が高いシステムにするのが、本当に管理する側の人間のやるべきことなんじゃないの?

ルールを無駄にたくさんつくって「私はルールつくったんで、守らないやつが悪いってことで、あとよろしくね」って、そりゃあんたお粗末すぎるでしょうよ。

一方でルールを逸脱した場合に罰則をつけることには本当に熱心で、薬物依存の悪名高い標語「ダメ、絶対」のように、権威と恐怖と不安で押さえつけるような力技を多用する。

それ意味ないんだってば。逸脱した人を追い詰め排斥することで、問題をなかったことにするだけなんよ。問題を隠ぺいして真の課題に向き合わない、典型的な失敗例である。

そういうふうに、とがった個性を持つ個体を世間から爪はじきにして、仮初めの平和を維持しているのが、この現代社会だと思う。

だから、どんどん世の中がつまらなくなるのは当たり前だ。ルールでガチガチの檻の中は、金太郎あめみたいにどこを切っても同じような人間ばかりになるからだ。

お互いに監視し合って、ババ抜きでJOKERを押し付け合うように生きている。

本当にくだらない。

 

むしろ社会不適合者で結構

そんなつまらん社会に適合していることや、その社会で褒めそやされることに、いったいどれだけの価値があるだろうか。

私は言いたい。そんなものこそ無価値であると。

「こんなことをしたら、世間に笑われるんじゃないか」

「失敗したら、下手を打ったら、もう成功できないんじゃないか」

そんなことを思って、本当にやりたいことを我慢している人は、少なくないのではないだろうか。

はっきり言おう。

社会で成功することなど、大して価値はない。

他人が笑おうが気にするな。そんなのは金太郎あめの独り言だ。無視していい。

社会不適合者で構わない。

生きるのが下手でいい。むしろ、下手こそ良い。

こんなくそみたいな社会に馴染まないぐらいで、あなたの価値をあなた自身が勝手に下げてはいけない。

たとえば、私は誰も読まないようなこのブログを結構な熱量で書いているけれども、この文章がそんなに読まれなくても、それはそれで構わない。

この社会だ。まだ理解できる人が少ないということもあるだろう。今教科書に名前が載っているような偉人も、生前は全く評価されなかった、ということが往々にしてあるくらいだ。

私は私を通してこの世界を知るために、文章を書いている。そして、それは私がやりたいから始めたことで、楽しいから続けていることだ。

それにこそ、最も尊い価値がある。

実益があるとか、社会的に意義があるとか、それらはいずれも後付けだ。

人間の行動の本当の理由は、だたひとつで、「それをやらずにはいられないほどやりたい」から。

素直に生きよう。それが命を授かって、私たちが人として最もすべき重要なことだ。

【メンタル】「おまえもやればできる」に隠された偏見と分断

この本、とても面白かったです。

かいつまんで内容に触れながら、エリート・能力主義の裏側について考えていきたいと思います。

 

エリートが抱えるアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)

この社会は自由と平等の名のもとに「能力主義」「成果主義」を土台として構築されてきました。

そしてその社会で成功を目指す人々はみな、平等に与えられた(ということになっている)権利とチャンスのなかで、自己を結果と結びつけて確立していきます。

その結果、だれもが多かれ少なかれ「他社にとって良い人(価値ある人)」であるように自己査定しながら生きていて、共依存的な生き方(「他者によって」自分の欲望を定義されることを必要とするような生き方)が主流となってしまいました。

共依存という概念は、今や依存症の臨床のなかだけでなく、社会全体のカギとなる概念になりつつあります。(斎藤学「イネイブリングと共依存」精神科治療学 10(9);963-968,1995)

 

成功を自分の努力や能力のおかげだと驕るいわゆる「エリート主義者」は成功できなかった者に対して冷たい心を持っています。

「平等にチャンスはあったはずなのに掴まなかったのが悪い」

と自己責任論を振りかざします。

この自己責任論は逃げ場を奪うきつい態度です。なぜなら、あらゆる人に言い訳を許さないからです。

能力主義が絶対的正義だと進行している彼らは、自分たちが無意識に権威や成果で他人を差別をしていることに鈍感です。

 

知識社会は高度化し、高学歴と低学歴の分断はいよいよ拡大し、溝は埋めがたいまでになっているのが現実です。

しかしエリート主義者は、学歴・経歴・自分のモチベーションはコントロールできるメリット(価値)だと信じて疑いません。

たとえばアメリカは特に顕著で、アメリカンドリームに表されているように、成功は「個人がどれだけ頑張ったか」という美談として語られます。

成功は個人の頑張り次第、ということは、機会の平等さえ確保すればいい。そう考え、小さな政府にしていった結果、社会保障が弱くなりました。医療費などはよい例で、保険会社によって受けられる医療サービスに格差が生じて、助かりたくてもお金がないと助かれない医療制度です。心臓疾患を患う娘の手術費が出せない…などの描写がよく洋画で登場するのはそのためです。

「努力」を過大評価しているのが、アメリカの姿です。

 

一方でヨーロッパの文化は、成功は「運」と考える傾向があります。

たまたま貴族の家に生まれてラッキーだったから富を得る。そんな運がある人は恵まれない人のために社会を支えるのが当然だろう。そういう価値観です。

そのため、社会保障は当然強くなります。

「努力」を過小評価しているのが、ヨーロッパの姿といえるでしょう。

 

努力できる才能も遺伝

実は、努力できる事も才能であり、遺伝によって生まれたときからすでに決まっていると言われています。

双子を何組もリクルートして行った面白い実験で、「A.裕福で高度な教育を受けられる家庭」と「B.経済的に恵まれず両親の生活レベルも学歴も低い家庭」2つの環境に送り込み、バイオリンをさせた結果、環境によってバイオリンの演奏に優劣が付くのか調べたデータがあります。

これによると、環境によってバイオリンの巧さに差は出ず、どの双子もそれぞれ同様のレベルの演奏をしたということです。つまり、遺伝子によってどんな環境であっても一定のレベルまでできるかできないかはすでに決まっているということになります。

成功者は、この議論を嫌います。

なぜなら、掴んだはずの経済的な成功はほとんどすべて運ということになるからです。

この結論は所得税を正当化するうえに、「成功者は偉いわけでも賢いわけでもない」ということになるので、彼らにとっては非常に具合が悪い。

しかし現実は「実力も運のうち」です。

 

エリートによるエリートのための世界にひきこもる人々

優れた個体を真似る、成功個体に憧れる。

これは生まれ持った防衛本能であり、生き残るために備わったシステムです。

金持ちは金持ちを真似て、金持ちのなかだけで結束し孤立する傾向があります。

優れた個体の一員でありたいし、そう自己認識を持っていたいので、そう認識し合える一定の条件をクリアしている人間だけでコミュニティーをつくります。そのなかでお互いの客観的評価を補完し合い縛りあいながら強い絆を形成します。

 

官僚も同様で、定義としては公僕ですが、彼らは公僕だとは深層心理では思っていません。

官僚は官僚のなかで縛られた下僕であり、国民のために働く公僕ではありません。

つまり、コミュニティーの外側にいる国民が困ることより、コミュニティーの内側の仲間である省庁の身内が困ることを避けるように、意志決定をします。

だから、国民の生活を無視した法案や制度が出来上がるのは当然です。彼らのなかで重要なのは仲間のメンツを潰さないことと、エリートコミュニティーからはじかれないようにすることなのですから。

そんな官僚がつくった作文を読むだけの政治家でいくら政治をやっても、民主主義がまともに機能しないのは当然ですよね。そもそも身内のためで国民のためではないので、国民の声が政治に反映されるわけがない。

 

これは特定のバックグラウンドを持った社会的弱者にも言える傾向です。

ある種の負け組的なエリート意識を持つ者同士で集まると、同じような苦しみを味わっていない人間とは心理的物理的に距離を取り、傷を舐めあうためのコロニーを形成します。

そのなかだけで結束して孤立し「どうぜあいつらにはわからない」とコミュニケーションを拒絶します。

いずれにせよ、分断はかくして起こります。

 

全ては与えられたもの

この分断を打破するにはどうすればよいのでしょうか。

エリートがここから脱するには、経済的な貧富を超えた連帯、共同体としての共感覚を形成する必要があります。

たとえば、身分も収入も関係なく対等に互いを尊重することができるグループに属すること、マックス・ヴェーバーのいう「鉄の檻(経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性)」の外側に繋がりを持つことです。(「鉄の檻」について詳しくは、こちらをご参照ください。)

その繋がりによって、人と人との真に対等な繋がりを再確認すると、おそらく「できないのはやらないから」という能力主義のバイアスから目を覚ますことができるでしょう。

 

全ては与えられたもの。

全ては借りているだけ。

その恵みに感謝すること。

自分の力だ、自分のモノだ、自分の価値だと、勘違いしないこと。

持つ者と持たざる者。この世の不平等を自分では変えられないものとして受け容れること。

変えられないものへのコントロールを手放し、自分とはかけ離れた「誰か」になろうとする虚しい努力をあきらめること。

お互いに与えられた個性を慈しみ、尊敬して補い合うこと。

運によって今持っているものに固執せず、自分の実力などと思い違いをしないで、ありのままを受け容れる勇気と落ち着きと賢さが、この身にいつか宿るのを願うこと。

 

そうした認識ができていて行動でその内面を示している人間こそ、真のエリートなのだと思います。たとえばマハトマ・ガンディーのような。

この現代社会の価値はどれもこれも相対的で、誰もが自分と誰かを比べては一喜一憂しています。しかしそれではキリがなく、いつまでもどこか不安で苦しく、恐れに震えながら生きることになります。

そんな人生は、つまらないですよね。

誰かに認められるために生きるというのは、ちっともおもしろくない。

他人から褒められたり、世の中から評価されたりしなくても、全然問題ありません。

あなたが心から、おもしろいと思うこと、ワクワクすること、楽しい気持ちになること、愛しいと思うこと、尊いと思うこと。

それが最も大切な感覚であり、それによって繋がる人が、あなたが本当に大切にすべき人です。

世俗的な価値に換算できない繋がりを、大切にしていきましょう。

【子育て】家事育児を妻に任せて仕事に夢中になる男性に語りたいこと

同僚と話が合わない。

年配の同僚は、ほぼモーレツ社員というか、昭和のノリで生きている。

男は仕事をするのが当たり前。

女が家事育児をするのが当たり前。

今の時代、表立ってはそう言わないものの、根底にはそういう価値観があり、無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)がある。

 

だから、職場の男性陣からこんな声を耳にする。

「仕事で忙しいんだから、家のことは妻が頑張るのが当たり前なのに、期待されても困る」

「夜泣きなんて対応してたら日中眠くて運転が危ないから、別々に寝るしかない」

「稼いできてるんだから、仕事ばかりで手伝ってくれないとか、文句言わないでほしい」

 

うーん。

仕事がしんどいのは分かるけど、ちょっと違うんだよな。

その辺の認識の違いについて今日は触れていきたい。

 

イクメン

 

 

『イクメン』という言葉は、あんまり好きじゃない。

ぶっちゃけ、ちゃんと子育てしていないメンズのことを指す単語だと思う。

「子育てやってる感を外にアピールしている男性」とでもいうべきか。

 

 

たとえば、ちょっとお風呂に入れるだけ、ちょっとオムツ替えるだけ、数時間面倒見るだけ。

寝かしつけはしない、夜泣きの世話を交代したりしてない、お風呂から上がった後の着替えまではやってない、オムツ替えるのでもウンチのときは妻に任せる。

そういう覚えのある人、結構いると思う。

お風呂に入れることすらできない人もいると聞いたときは驚いた。沐浴のときからやってないから、お風呂に入れる経験もスキルも習慣もない。

物心つく前の小さい頃に肌と肌を触れ合っていないと、父親になつかないというのはよく聞く話だ。さびしい話である。

まあなついてもらいたいからやるものでもないんだが、やってないのって結構子供の態度見ればすぐわかっちゃう、ってことだ。

 

いわゆる育児のドロドロの部分。

きつくて眠くてイラっとしちゃう、そんなことが毎日起こる。

「かわいいねー♡キラキラ(´∀`*)ウフフ」みたいなことばかりじゃない。

 

育児のドロドロ

やろうとしていたことが、半分もできない。

中断しては面倒を見て、再開しようと思ったらまた中断、みたいな環境で、やるべきことを終わらせないといけない。

少し眠り始めて、やっと少し休めると思ったら、起きて泣き出して抱っこしないといけなかったりして、結局できずに一緒に寝落ちするほど疲れ果てて。

自分のご飯は満足に食べるヒマもなく、子どものご飯をつくり与える合間に残り物をかき込む。

それが毎日毎日毎日・・・ずーっと逃げ場なく休みなく続く。

それが子育てのドロドロ。

 

仕事はと言えば、朝出勤してしまえば、夕方までは妻と子どもから離れられる。

ある程度は自分のペースでタスクを進めて、お昼はひとりで食べられる。

たとえその日の仕事がうまくいかなくたって、命がなくなるわけじゃない。

 

交代したら、天国みたいに感じると思う。

自分の裁量で時間配分ができて、自分の時間があることだけでも、相当恵まれている。

子育てをやったことがない人ほど、それをあまり実感できないと思う。

 

「やり方が悪い」と語るケース

「いやいや、やることそんなに多くないんだから、タスクの処理を効率的にやればいいんだよ、自分なら、時間内に完璧にできる」

そう思うなら、まず1年くらい代わってあげてほしい。

そんなに効率よくさばけるんなら、仕事と両立できるだろう。それが無理でも半分受け持つくらいわけないだろう。

ん?できない?なぜ?

日中は仕事があるから?

仕事のタスクの処理を効率的にやればいいんだよ。仕事を子育てができるくらいに圧縮して半日で済ませて半休でもとればいいじゃないか。妻に言っていることを自分がやればいいだけだ。

常に自分のペースではできない、睡眠も満足にとれない、そんな状況でも効率よく処理できるんだろう?

いかに自分が無理を言っているか、理解できるだろうか。

 

「私の仕事は妻より大変だ」というケース

「いやいや、私は妻より稼いでいるから、妻より仕事がハイレベルで多いんだ。妻とは違うんだよ。」

なるほど、では、そんな大変なお仕事で、年間どれぐらい稼いでいるのだろうか。

ちなみに私は年収としては平均的だが、休職せず夜泣きに交代で対応したし、一通りすべて面倒が見れるよう妻と一緒に学んだ。おかげで一週間に一日は、妻がひとりで外出できてゆっくりする時間をあげられるくらいには、なれた。

400~1000万円の年収帯の仕事なんて、おおかたそんなレベルである。やり方次第でどうとでもなる。

そして、どのくらい子だくさんかにもよるが、普通に生活していくだけならこれ以上の年収はほぼ必要ない。

つまり「生活するだけじゃ足りない、もっと贅沢をするためにお金が必要だ、もっと稼いでこい」と妻がいうのであれば、「自分で足りない分の収入の穴埋めをできない分、子育ての一切を担うので、お金を稼いできてほしい」と願っているので、仕事を優先する道理があると理解できる。Win-Winだから。そうでないならその限りではない。

「ちあき(筆者)、俺はお前の年収よりもはるかに多く稼いでいる、だからあてはまらない」という人は、妻に、今の収入を維持するべきか、それとも少し減らしてでも家庭のために時間を持つべきか、アサーティブに聞いてみてほしい。おのずと答えは妻の口から聞こえてくるだろう。

 

そもそも、妻が自分より稼げないという主張は、それそのものが不公平だと認識する必要がある。

出産を経験するということは、男性にはできないので想像しにくいが、例えるなら交通事故でダンプカーに轢かれて全身を負傷するくらいの一大事だと思う。文字通り生きるか死ぬかである。

妊婦の頃から体調不良に悩まされ、お腹に重しをつけながら生活して、いざ出産したら骨はガタガタだし髪は抜けるし、もはや満身創痍である。

それだけの大事故を経験しても、入院せずどこ吹く風で仕事を続けるなんて、できるはずがない。どれだけ実力があっても、出世コースから外される可能性が高い。不平等だ。

かたや、妊産婦の苦しみを背負うことなくリソース全てを仕事に注ぐことができた男性が、妻より稼げていないとしたら、それはもう論外である。

妻より自分が努力しているから、今のポストにいるし、たくさん稼いでいるんだと信じたいかもしれないが、前述のとおり妻は女性だからというだけでとんでもないハンディキャップを背負っているので、出産時点で夫は妻より稼いでいるのがこの社会の仕組みでは自然なのだ。

だから、仕事が現時点で妻よりハイレベルで年収が多いというのは、だから自分のほうが大変だとか、優秀だとかという理屈には繋がらない。

満身創痍でも産後すぐに子供をつきっきりで世話しなくてはならない、という状況のほうが、よっぽどハイレベルで、年収に換算すれば3000万に匹敵する。

家事育児は、きつくて価値がある立派な「仕事」である。

 

「男は家族を養わなければいけない重圧を背負って仕事をしているんだ」というケース

なるほど。確かに男性には、収入を求められるプレッシャーがある。

稼いでこなければ存在価値がない、と言わんばかりの「世間」が押し付けてくるジェンダーロールに押しつぶされそうになる気持ちは分かる。

しかしそれは「妻」も押し付けただろうか?

あなたに妻が「ひとりで自分たちを生涯養え」と実際に言ったのだろうか。

ありもしない「世間」に負い目を感じて、勝手に重圧を背負っている可能性はないだろうか。

家族とは、一緒に協力して、楽しく暮らせる生活を維持しようという共同体である。

持ちつ持たれつ、協力し合いながら、営みを続けていくための仲間である。

あなたが家族に役割を押し付けられていると感じているなら、家族で話し合う必要がある。

 

「私の力では今、これぐらいの収入を得ることができる。しかし、申し訳ないが、仕事を二の次にして家事育児を半分担うとすると、生涯賃金でこのぐらい下がるかもしれない。さて、お互いにより良い生活を実現するには、どうしたらよいだろうか?」

と具体的に落ち着いてパートナーと相談しただろうか。

おそらく子育てと家事で追い詰められ疲弊している妻なら、「今は少しくらい下がってもいいから、助けてほしい」というだろう。

子供が成長してからなら、妻も収入を得られるように力を合わせることを、考えてくれるはずだ。

 

つまり、話し合いもせずに、勝手にジェンダーロールを背負っているのではないか?ということだ。

収入が少ないと言われるのが怖い。

できない夫だと思われるのが怖い。

家事育児ができなかったら見下されたりしないか不安。

 

自分の居場所がなくなるのが不安で怖いのだ。

そういう言葉にできない恐怖や不安を見て見ぬフリをするために、仕事に逃げていないだろうか。あるいは、今まで自分が妻に手を差し伸べなかったせいで悪化した家庭環境に対する罪悪感を「妻の無理解のせいだ」と他人に押し付けて無かったことにしていないだろうか。

「稼いでこないとどうせ文句を言うくせに」

「お金がなかったら妻だって生活できないのに」

それは、文句を言うかどうか、生活できなくなるかどうか、ちゃんと二人で話して検証して、そう言われてから、思い込むべきである。

思い込みで対話をせずに、勝手に責任をなすりつけようとするのは、罪深い。

 

パートナーを、家族をなめるな

妻は、夫に「年収」だけを期待しているのだろうか。

そうではない。

もしそうなら、お金様と結婚したのであって、あなたと結婚したのではないのだから、離婚してもいいと思う。もっとたくさんの「お金様」が、その女にはお似合いだ。他をあたってもらおう。

しかし、ほとんどの妻は、つまりあなたの妻は、別にお金だけに眼がくらんで婚姻届に判を押したのではないはずだ。

「この人となら、一緒に生きていける」

「この人なら、信頼し合える」

そう思って、あなたと何十年も一緒に生きることを決めたのだ。

 

その決断の重みをなめないでほしい、と思う。

健やかなる時も 病める時も
喜びの時も 悲しみの時も
富める時も 貧しい時も
これを愛し 敬い 慰め合い 共に助け合い
その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?

この誓いの重みをなめないでほしい、と思う。

 

家族とは、役割分担できっちり割り切れるほど、簡単でもないし、軽くもない。

合理性とは対極にある。

だからこそ実直な対話が必要で、お互いを思いやり助け合う努力が必要で、様々なことを乗り越えていく過程で育まれるものなのだ。

もっとパートナーはあなたそのものを必要としている。

もっと信頼しているし、頼りにしている。お金ではなく、あなた自身を。

 

なんか、同僚と話していると、そんなことを悶々と思うことがある。

【雑談】仕事ってつまんないよね

仕事をしながら生きていくのって、しんどいですよね。

働かなくていいなら、金のことなんて気にしなくていいなら、どんなにいいでしょうか。

生きるのに金が必要な資本主義経済社会では、何でも金金金カネ…。

ひどくつまらない、価値観が固定された、いろどりの希薄な社会だなと思います。

 

会社で働いていて私が思うのは、金や権力が好きで、あまり深く物事を考えない人間ほど、この社会は生きやすくできているということです。

 

仕事とは一種のゲームです。

金を集める。そのためにいろいろな手練手管を使って目的を達成する。

結局はこれだけの遊びです。

仕事に意味なんてない。人生における意義もない。金儲けが目的のレベルではね。

心から顧客の役に立とうなんて考えて仕事をしている人は、ごく一握りだし、そう思っていても組織内のプレッシャーに負けて手前勝手な都合を押し付ける営業をしてしまうことがほとんどです。

結局は我が身大事で、他人のことなんて心の底では気にかけていない。

そのくせ、「顧客のために」とか「社会のために」とかきれいごとを並べます。

だから言うことが薄っぺらいし、所作は偽善がにじみ出て、どこかうすら寒い。

私が仕事で社内の人間と会うだけで疲弊するのは、こういう「気持ちが悪いもの」を見せつけられる気持ちがするからでしょう。

 

私は会議に出るだけで翌日まで人と話をしたくなくなります。

そんな元気はまるでなくなってしまうのです。

意味のない、ただ自分の欲望を実現したいだけの分析や考察を長々と聞かされるだけで、うんざりです。胃もたれします。

素直にそういえばいいものを、聞こえがいいように、耳障りの良い言葉に置き換えてしゃべるから、脳が混乱するので、気持ち悪くなります。

 

「建前」って、本当に気持ちが悪いんですよね。

ADHD・ASDだからかもしれませんが、本音なのか嘘なのか、冗談なのか本気なのか、人と会話しているといつも測りかねます。

たとえば妻は発言の内容に冗談が80%くらい含まれていますが、出会った当初は冗談で言われた『いじり』に対して真に受けて「なんてひどいことをいうひとだろう」と思ってました。(笑)

思えば幼少期から、いわゆる『いじる』という感覚がよくわからなくて、発言一つ一つに傷つきながら苦笑いを浮かべていました。「冗談だよ」といえば、どんなひどいことでも言ってないことになるのか、と解釈違いをして、辛辣なことを言ってしまい他の子を泣かせてしまったり、怒らせてしまうことがありました。それからは「私には『いじる』というのは高度過ぎてできない芸当だ」と戦線離脱してただ横で調子を合わせてニコニコしたりウケたふりをしたりするモブに徹しました。

正直、なんてこいつら笑ってんだろ?って思ってまったく楽しくありませんでした。友人との会話って、そんな感じです。

一定の役割をやって、起承転結というか、序破急というか、オチをつけてという一連の作業。それには、なんの新規性もありません。

冗談を言い合える程度に「自分と相手の仲が良い」ということを確認するための儀式なのだろうか。それは、不安を埋めるための児戯にすぎないのではないか。何も生産的ではなく、新たな驚きもなく、不安を見て見ない振りをするために他人と自分の時間を犠牲にしているようにしか思えなかったのです。

結局人間はひとりなので、どれだけ仲が良いと錯覚していようとも、それは確かめようがない。相手が腹の底でどう思っているかなんて、定量的に測ることはできない。

つまり、それを確かめようがないのだから、気にしても仕方がない。

私が確かに相手を好きで、愛しているのなら、それを伝えることしかできない。それは人間なら誰しもそうでしょう。

 

話がそれましたが、つまり「建前」を言われるとそれを信じようとする脳みそを持っているので、とても困るわけです。

本当はそう思っていないのに、そう思っていると錯覚してしまうから。

顧客のためというので、顧客のためになることを真剣に考えたら、ドン引きされますからね。

「いやいや、お前何マジになって慈善事業しようとしてんの?ビジネスなんだから金儲からなきゃダメでしょ」

っていうんですけど、いやいやそれなら「どんなことをしてでも金を稼ぎたい」って言ってくれよ、って感じなんですよね。

どうせ金がほしいだけなら、変なおべんちゃらくっつけんなよ、と。

程度の違いだけの話であって、金が欲しくて顧客をコントロールして売りつけたいだけなら、オレオレ詐欺でもなんでも結局はやってること変わらないじゃん、と。

そう思っちゃいますね。

だから会議で「建前」言われるの、すごく疲れます。

「といってますが本当は?」と考えながら聞かないといけないの、イライラするんですよね。

社会人向いてないなーって思いながら、途中からぼーっとしてます。

 

金儲けっていうゲームは、つまんないんですよ。私からすると。

なぜかというと、この世のものはいくら集めていくら所有権を主張しても、結局は世界のモノであって、自分だけのものではないからです。

この世にいる間借りているだけ。どんな富豪もどんな偉人も、金や権力は本当はその人のモノではない。全ては脈々と引き継がれてきた生命の歴史の一瞬を切り取ったに過ぎないので、その一場面で金を持っていたり権力を持っていたりするのって、虚しいことなんです。

たとえば、みんなで使うコップがあったとして、それに水がたまたまたくさん入っていたとしますよね。

それを、そのときたまたま使う順番だった人が、「俺のコップに俺の水がたくさん入ってるぜ!」と言ったとしたら「はぁ?みんなのコップだし、たまたまたくさん入ってるだけじゃん」ってなるでしょ。

そういうことです。

この世に存在するものは全てが有限で、誰のものでもない。

誰もが必ず死ぬし、死んだら持っていたものは誰かの手に渡るだけだし、そんなものに執着しても何の意味もない。

って考えると、金は必要最小限だけあればいいし、無理して社会に認められたり何かの称号を誰かに授けてもらう必要なんてないし、他人にどう思われようが好きに思わせておけばいいわけです。

だから、出世には何の意味もないし、職場で人望があるかないか、上司や同僚に好かれるか嫌われるか、はどうでもよい問題で、私たちの貴重な時間の大半を割くほど優先度は高くない。

そういうわけで、根本的に仕事って、意味ないしつまんないんですよね。

だけど、この世の大半の人は、そういうつまんないゲームを寝る間を惜しんで時間を投資するほど好きだったり、人生を見誤るほど熱狂している。

それを私はなんとなく眺めていて、変わってんなーと思っている。そんな感じです。

 

「じゃあそんなにスレてるあんたが、価値があると認めるものって何なのさ?」

と言われれば、今このときをあるがままに生きることだ、と答えます。

なんのために、とかない。誰のために、でもない。

絶対感によって無条件で生きること。

これには価値がある。

つまり、仕事というゲームにいそしまなくとも、社会不適合であろうとも、充分に人生には価値がある、ということです。

あるがままに生きていて、ワクワクして、何かやってみようと思いたつ。

その先に人生を通じて感じるべき、生命の歓喜がある。

もちろん楽なことばかりではなくて、何かをやってみよう、ここまでやってみたい、という己の目指す場所にたどり着くためには苦しみはつきものですし、時につらく苦しく光を浴びない側面がともなうことから、何も知らない他人には、上京が悪くなっているようにも見えたりします。

「あいつは道を踏み外した」「あいつはエリートコースから外れた負け組」と、仕事ゲームに夢中な人は、歓喜を道しるべに生きる人に、そんなことを言うかもしれないですが、勝手に言わせておけばいいのです。私からすると、見当違いも甚だしいのですが、彼らには彼らの価値観があり、それは良くも悪くもない。彼らの人生は、彼らの人生です。がんばって、彼らなりの価値観で一生を全うしてくれればそれでよろしい。私の人生には深く影響しない人たちです。

今あるものを失うことを恐れて「でも○○してからにしよう」とか「○○になったら損だからやめておこう」とか、そういうふうに自分のまごころを裏切っていると、雁字搦めになって、結局他人の道具としてやりたくないことをやるだけの人生になってしまいますよ。

その現実を見て見ぬふりをしたくて、「仕事こそ人生だ」とか「社会人は働いて社会に貢献する必要があるんだ」とか独自の価値観を他人にも強要したがるようになってしまうのです。余計なお世話なんだよね。それはあなたが今に不満があるのを、見て見ぬフリしたいだけでしょうが。そっちの問題こっちに押し付けてくんなよ、って感じです。

無条件で生きる、というのは、そういうことです。

「○○したら○○しよう」なんて勝手に条件を付けない。

やりたいと思ったら、それが正解なんです。

むしろそれだけが、耳を澄ませるべきことなんです。

正論や常識なんてどうでもいい。あんなのはゴミです。

生きているという確かな感覚は、ワクワクドキドキを感じる心にしか宿らない。

 

自分の心に素直に生きるって、この世ではどんなことよりも難しく、どんな鍛錬よりも厳しい道なんですが、本来はそのために、私たちはリソースを割くべきなんだよな、というお話でした。

 

 

【仕事】「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

上司が最近とても焦っています。

おそらく上からプレッシャーをかけられているのでしょう。中間管理職ってなりたくないなーって思います。割に合わないですよね、ストレス度合いと給料のバランスから考えて。

まあとにかくあれこれと口を出し、成果が出そうだと感じたことを片っ端から思い付きで指示を出そうとしていらっしゃいます。

成果が出ていなければ、当然焦るのはわかります。

でも、焦ってあれこれ手を付けても、物事というのは結局は結実しないものです。

なぜか?

結論から申し上げますと、「自分の都合しか考えていないから」です。

繋がるべき相手が見えていない。自分のなかの不安や恐れと、独り相撲を取っているようなものです。

今回は、そんなふうに「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」状況について考えてみたいと思います。

 

なぜ焦るのか?

他人から「あれをしなさい」「これができていない」「他の人はできているのに」などと言われると、なぜ焦るのでしょうか。

それは、他人のなかの自分の評価が下がってしまう、そのことに恐れを抱いているからです。

悪く思われてしまうのではないか。

バカにされてしまうのではないか。

嫌われて悲しい思いをしたり、不利益を被るのではないか。

恐れは、不安を呼びます。

不安になって、その悪い未来について考えます。

あたかも、今行動しなければ、その悪い未来が現実になるような気持ちになって、いてもたってもいられなくなる。

そんな感じじゃないでしょうか。

 

では、いったん落ち着いて考えてみましょう。

自分を他人がどうとらえるか、その印象って、操作可能なものだと思いますか?

私は、これはコントロールできない、自分の範疇を超えたところだと思っています。

他人がどう思うかは、他人次第です。他人に決める権利があることです。

私たちには、どうすることもできない手の届かないところにある問題。

なので、まずは、それをどうにかしようとすることはとても不確実なことだということ。

あれこれ焦って取り繕っても、コントロールできないことだ、と認識すると、それなら焦っても仕方ないよな、って思いませんか。

 

なぜ評価されたいのか?

もう一段深く考えてみましょう。

なぜ、焦って自分を追い詰めてまで、その人のなかの自分の評価を高く保ちたいのでしょうか。

特別に尊敬している大事な人だから?

評価を下げられて出世できなくなったら嫌だから?

なめられて馬鹿にされたくないから?

 

本当に付き合いを深めるべき本質を理解している人というのは、実は世の中にはそんなにいません。

本質を理解している人は、他人を見下したり、成果というひとつのものさしで他人を測ろうとしたりしません。一人の人間として、あなたの価値観を尊重し、自分の価値観も尊重する。あなたの尊厳を傷つけようとはしない人です。

だから、今たまたま成果に繋がっていなくとも、あなたが自分が可能な範囲で心を込めて丁寧な仕事をしているのなら、何も取り繕う必要もありません。ちゃんとわかってくれます。

つまり、表面的な結果や数字だけを見てあれやこれやと他人を勝手にジャッジする人は、本質を理解していない人です。道端の石と同じ、付き合いを深める必要のない、あなたの人生にそこまで関係しない人、ということになります。

道端の石に「お前はダメなやつだ」と言われたところで、あなたは気にするでしょうか。

「ああ、オレは本当にダメなやつだ」と思うでしょうか。

私はそんな人たちにどう思われるかより、愛する家族や尊敬すべき人たちとの交流に時間と頭を使いたい、と感じます。心を込めて、そういう人たちに接するために人生を費やしたいと思います。

 

目の前にいる他人のなかの評価を高く保ちたい、という欲求は、自分を他人に認めてもらいたい=他人から認められないと自分の価値が無いように感じて不安だから安心したい、という願望の現れです。

 

なぜ他人からの承認が必要なのか?

他人に認められないと自分の価値が無いように感じる、というのは、なぜでしょうか。

それは自分に自信がないからです。

では自信とは何でしょうか。

それは何かを「他人と比べて」自分のほうができる、と信じることです。

自信とは、相対的な価値観です。

他人がもし誰もいなかったとして、あなたが好きなことをやるとき、そこには比較対象が存在しないので、あなたは誰かより優れているとか劣っているとか、そんな些末なことを気にせず思うまま楽しく好きなように熱中して取り組むでしょう。

他人と比較するから、自信という価値観にとらわれる、ということです。

 

ひとは、誰もが違います。同じ人はひとりもいない。

得意なことも苦手なことも、考え方も、価値観も、やり方も違います。

もっと言ってしまえば、与えられた才能や環境など、自分にはどうにもならないことも、それぞれ全然違います。

昨今では「能力主義」が正義とされていて、そうした違いを言い訳ととらえる人が多くなりましたよね。

「やればできるのにやらないのは、お前が怠けているからだ」

「平等にチャンスを与えられているのだから、つかめないお前が悪い」

「成果が出ないのは、お前の頑張りが足りないからだ」

一度はこんなことを言われた経験があるのではないでしょうか。

でも、実際そんなに人間は万能でもないし、強くもありません。

人類は、誰もがひとりだけでは何もおぼつかないので、家族を構成し、社会を構築して、この世を生き延びてきた種族です。

やってもできないことはあるし、チャンスは平等ではないし、頑張っても報われないことだってたくさんありますよね。

それはあなたが悪いわけではない。何かのめぐりあわせでこの世にあなたとして生まれて、今できるorできないがある。それだけの話です。

 

だから、他人と比べてもしかたがないし、意味がないのです。

楽しむ分にはいいですけどね。ゲームとして。

優劣はゲームでしかない。本来自分と他人は前提が違い過ぎて比べられないからです。

そんな不確かなゲームに委ねなくてはならないほど、あなたは無価値ではない。

他人より優れていようと劣っていようと、あなたが考える、あなたがやりたいこと。それが実行に移されて、世界と繋がること。

それにこそ価値があり、それであなたが楽しい・嬉しい・好きと感じることが、もっとも意味のあることです。

「下手なら、なお結構。」とは、大阪万博の「太陽の塔」でおなじみの芸術家:岡本太郎さんの言葉です。

「ダメならダメなりに、ダメでもいいと思って、全力でその瞬間にすべてをかけろ。」

そのように岡本太郎さんはおっしゃいます。私もそう思います。

 

自分には自信がない、と他人の目を気にして、本当にやりたいことを自由にできない。

なんて悲しいことでしょう。

自分にはどうしようもない、比べる意味もない。

そんな概念でブレーキをかけ、自分が本当にしたいことをしない。

なんともったいない。

 

なぜ生きているのか?

自分が本当にしたいことを我慢して、他人の目に怯えて、やれと言われたことを焦りながらやって。

それが、あなたが生きたい人生でしょうか。

そのおかげで家があるから、お金が稼げるから、他人に嫌われないから、幸せ?

本当に?

本当にそうでしょうか?

あなたはそれで本当に幸せといえるでしょうか。

もう一度全く同じ人生をやれと言われて、喜んで生きたいと思うでしょうか。

 

私は小さい頃、自由に生きていたら、クラスメートから「異質な存在」と判断され、いじめられました。両親からは「なんで他の子と同じようにできないの?」と悲しげに叱責されて、つらかったのを覚えています。

それから他人に気に入られよう、両親に認められよう、と思って、やりたくない勉強も、やりたくない人付き合いも、一生懸命努力してやってきました。

自分が本当にしたいことがわからなくなるくらい、気持ちにふたをして。

そして、アルコール依存症になり、うつになり、自殺しようと思うまで追い詰められました。

 

私としては、そんなふうに生きるのはお勧めしません。

私はそのままもっと自由に生きていてもよかった。

両親が求める「優秀な息子」でなくてよかった。

みんなに好かれる「普通の人」でなくてよかった。

それらに囚われる人生は、私が生きたい人生ではなかった。

 

「他人からプレッシャーをかけられ焦っている」

それは、こんな小さい頃の私を見ているようです。

だから私は、そんな人に、小さい頃の私に語りかけるように、こう伝えたい。

 

あなたは、他人より優れていなくてもいい。

あなたは、誰からも好かれなくても全然悪くない。

あなたが心からやりたいと思うことのなかに、本当の価値がある。

他人の目なんか気にするな。ただ、やりたいことを精一杯がんばってやればいい。

そのために、あなたはこの世にいるのだから。