【雑談】迷走する製薬会社と自殺するMRたち

どことは言わないが、とある大手製薬会社は勘違いをしている。

正直、もうダメだな、と思う。

 

製薬会社が患う病

企業名という看板(ブランド)が、まだ通用すると信じている。

おそらく信じたいのだと思う。

自分たちはすごいんだ、有名企業なんだ、そのブランドでまだ売れるんだ、と。

残念ながらそれは悲しい妄想だ。

今まで主流だった生活習慣病領域や消化器疾患領域で築き上げてきたブランドイメージが、他の疾患領域で通用するかというと、そうではない。

というか、そんなわけがない。

しかも、そのかつては栄華を極めていた(らしいがその当時も二番煎じばかりではなはだ疑問の)時代は、ほぼ金でつくりあげたものだ。

接待OK、派手な講演会OK、ゴルフや懇親会などのイベント参加OK、学会共催や医師会共催なんでも肩代わりOK、東京や大阪や福岡でバンバン研究講演会を開いて飛行機代とホテル代を負担して先生たちに旅行がてら話を聞いてもらって、予算を使いまくれた。

だから、それなりに先生たちも製薬会社と付き合うことに価値(メリット)を見出していた。

MRは「飲み友達」「遊び相手」というポジションで「こいつのためだったら話を聞くか」と思わせるような愛されキャラが売れて、そういう寝技的な営業手法がもてはやされた。すなわち、とことん付き合うこと、できるだけ会うこと、とにかく頑張りを見せること。実に体育会系というか、努力・根性・やる気という私が大嫌いな成分で構成されたエリート意識である。

だから、昔は与えられた予算を使い切らないと仕事してないとまで言われた。期末はみな何とか残予算を0にしたいから「飲みに行きませんか?」と先生を誘いまくった。結果、9月と3月は連日飲み会で二日酔いになりながらヘロヘロで仕事をしていた社員がたくさんいたらしい。完全に飲酒運転じゃん。

そんな時代に一番に評価してもらえたからといって、今、この環境で同じように評価されるわけがない。

なぜなら、金も使えない、飲み友達にもなれない、自分たちの団体に出資すらできない、そんな存在は利用価値(メリット)がないから。

むしろ今までそんな泥臭い部分でしかメリットを提供できていなかったことが問題。

社員たちはみなその問題を薄々分かっていながら、腫れ物に触るように口にしない。

昔の先輩を悪く言って睨まれたくないので、忖度している。過去の人々を否定することは、上司やその上の世代を否定すること。そんなことをする社員は出世できなくなる。

現役社員は、本質的な問題には目を逸らしつつ「自分たちはブランドがある」という幻想を捨てられない旧世代にゴマを擦ってご機嫌取りしている。

現実問題として、今この会社が参入している新しい疾患領域は発足当時ひどかった。MRは素人に毛が生えた程度で、私も含め本当に役に立たなかった。周辺疾患の知識がまるでなく、現場感覚も分かっていない人間の提案を、医師が聞くはずがない。

賢いMRは、その現実を謙虚に受け容れていたので「わからないのでどうか教えてください」のスタンスで最初は製品の紹介などせず、先生方の話をきちんと傾聴した。だから生の知識を得て、提案すべきポイントを踏まえることができたので、売上の立ち上がりは遅かったかもしれないが今後を支える人材として成長した。

でも、残念ながら、現在前者の賢いMRは結構他社に流れてしまったと思う。会社に失望するのも無理はない。当初コントラクトMRとして配属されていた賢いMRも派遣切りのようにして切ってしまった。せっかくの財産を自らみすみす手放すという愚を犯した。

アホなMRは、会社の洗脳をそのまま信じて一生懸命追いかけまわして話しかけた。今まで貢献してこなかった素人がえらそうにデータがデータがと毎日駆け寄ってきたら、そりゃあもうウザくてたまらなかっただろう。先生方は本当にお気の毒様である。

賢いMRが去り、アホなMRばかりが蔓延って幅を利かせているのが今だ。

「あんまりにもしつこすぎるから、ちょっとだけ使ってしばらく黙らせとこう」と少し処方したのを「ほら!やっぱり諦めずにしつこく宣伝するのが大事なんだ!」と小躍りして喜んでいる。真性のアホである。しかしそんなエピソードが成功例として社内プレゼンされる。そしてそれを他のアホがマネする。そうやって「やってます感」をうまく社内で形に残せたMRが社内でポイントを獲得して出世する。つまりアホが出世する。

そして会社の上層部はどんどんアホばかりになっていく。実際そうなっている。

だから、過去の栄光、ブランドイメージが今も通用するなどとおめでたい発想を「偉い人が言うんだから本当なんだ」とかあまり自分の頭で考えず継承してしまうのである。

 

私が社会的意義や医療貢献を主眼に置いて発言したり企画をあげたりすると、マネジメント層は決まってこの言葉を返してくる。

「私たちはNPO法人ではなく、営利企業なので、利益が見込めなくては投資できない」

 

はいはい。株式会社ですもんね。わかるわかる。

なんていうと思っとるんですか。何を寝ぼけているんだ。

 

私たちの製品は公的医療保険で7割~9割を負担してもらっている。つまり税金である。

私たちの医薬品が売れて入るお金は、70~90%が税金ということだ。

それって、ほぼ公務員じゃないの?

ボランティアじゃやれないとかいうけど、そもそもが公益事業でしょうよ。

税金から金もらっといて、自分たちにメリットがなければ何もやりませんって、それはおかしくない?

むしろ公に奉ずるものであって、個人の利益に走っていい財務体系をしていないじゃないの。

売上至上主義を正当化したい理由は、結局、株主である投資家様にもっと稼いでこいって言われてるからでしょ。

株式会社は「もっと金をよこせ」という支配的な株主に逆らえない。でもそれが真の理由だとは言えないので「研究開発に投資するためには売り上げを上げて利益を出さないといけない」とか「営利企業として成長し続けないとみんなを雇用し続けられない」とか言って誤魔化す。

残念ながら、このとある大手製薬会社の配当性向は100%を超えている。これは何を意味するかというと、実力以上に株主配当に回しているということ。その株主配当と高額すぎる役員報酬を含めると、研究開発費と同じくらいの額になる年もあるほど高額になる。

結局、会社をおもちゃにして金を稼ぎたい株主と経営者のために、売上を割いているんじゃない。研究開発費に使ってないじゃない。つまり売上達成の目的は研究開発に投資するためじゃないじゃん。

真実をていよく誤魔化して、建前で塗り固めた大義名分を述べているだけ。

 

木を見て森を見ず

活動方針や行動そのものも、功利主義的というか、自分たちのことしか考えていないようなも戦略がほとんどだ。

「とにかくたくさん処方してもらおう」

考えているのはこれだけだ。

患者さんの為とか社会の為とか、本当は全く考えていない。

建前として毎回口にする「患者さんのため」が、聞くに堪えない。

行動計画の端々から本音がだだ漏れしているのに、いけしゃあしゃあと「患者さんのため」とかいうのを見ているこっちが恥ずかしくなる。

 

世の中にとって必要なサービスと存在であるからこそ組織は存続できるわけで、自分たちの損得しか考えない組織はいずれ滅びる。

まさに滅びの道を全速力で突っ走っているのが、製薬業界じゃないかなと思う。

 

MRは、上司を通じて会社から毎日毎日プレッシャーをかけられ「とにかく計画を達成しないといけない」「そうじゃないとバカにされるし降格されるしクビにされる」と精神的に追い込まれる。

追い込まれた人間は、とにかくその苦しみから逃れようとあの手この手で説得しようと焦る。結果をコントロールしようとする。本来はコントロールできないのに。

当然ながら、処方というのは、医師が決めることだ。

私たちはその判断をサポートをする存在だ。私たちが医師の治療方針をこちらに都合のいいように誘導して変えさせよう、というのは根本的に越権行為であり、過干渉である。アプローチが間違っている。

私たちはあくまで医師と患者さんの困りごとを解決するお手伝いをするために存在していて、そのための一つの方法として自分たちが扱っている医薬品がある。

困りごとに寄り添い、その解決を一緒に考える過程で、医師と患者さんが「これは役に立つ」とご本人が判断して利用する。

その結果、医薬品が役立ち、その副産物として売上が生まれ利益が生まれる。

その間にある最も重要な活動をすっ飛ばして、いきなり自分たちに都合のいい結果を求めるなんて、お粗末すぎる。

例えるなら、とにかく女の子とヤりたいからって会って速攻ホテルに連行しようとする、モテないイモ男みたいな感じ。

 

自分たちに都合のいいデータしか紹介しないのも、話を聞く価値がないと思われる原因。

「自分たちの製品を使ってもらう」という結果有りきなので、必然的に良かったデータしか会社は取り上げないし、自分で調べない社員は会社が教えてくれるデータしか知らない。

そうなると、MRが持っている情報は実に偏った、ご都合主義の代物になる。

そんな情報を、医師が聞きたいと思うだろうか。当然、思うはずがない。

面会してくれている医師でさえ、「はいはい、売りたいから都合のいいデータ持ってきたんでしょ」と思いながら、会社に洗脳されたかわいそうなMRを見るに見かねて、聞いているふりをしているだけだと思う。

コロナを理由に会ってもらえないのは「MRなんてわざわざ会う価値がない」と思われているからだ。コロナのせいではない。ていのいい断り文句として使っているだけ。

医師が信頼するとしたら、同じ目線で現状をとらえ、純粋に力になろうとしてくれる味方だ。

医師は科学者だが人間でもある。自分たちと同じ目線で、より良い未来をつくろうと本気で考え話をする人だから、その人の話を信頼して時間を取ってでも聞きたいと思うんじゃないだろうか。それが人間だと思う。

MRが話を聞いてもらおうと思ったら、まずは目的を根本から見直さなくてはならない。

会う目的はどこにあるのか。売りたいだけなのか、それとも役に立ちたいのか。

医師はたくさんの患者さんを診ているので、人を見るプロでもある。下心で建前だけ並べているような人間は簡単に見抜かれる。

「英語論文なら信じてもらえるかも」などと小手先で説得しようとしてくるようなMRなど、ただただ小賢しい。

しかし、たいていのMRや製薬会社はそんなことはわからない。

あろうことか「医師はプライドが高いからMRを下に見ているので、MRの話を信用しないのだろう」と自分の無能を医師のせいにしている。

何を言っているんだろうか。

自分たちが学歴コンプレックスを抱えているだけじゃないか。

医学部に合格する偏差値がなかった自分たちの歪んだ劣等感を乗り越えられていないので、医師をプライドが高い偏屈で世間知らずの人種だと蔑視してプライドを守る。この傾向は実にずれているし、嘆かわしい。

たしかに、たまにやたらえらそうな態度のデカい先生もいるけど。

医師の世界は学歴バリバリの権威主義社会なので、一定数そういう勘違いしている人が出てくるのも事実。そういう社会の仕組みだから仕方がない。

学歴社会で受験戦争を勝ち抜いた。その成功経験だけがプライドを支えていると、自分を肯定するために学歴や社会的地位で価値を測る人間になってしまう。この社会も、学校という奴隷養成施設で良い子ちゃんでいることを肯定している。お勉強ができて余計な反抗をしない模範的な歯車でいれば大人に褒めてもらえる。

周りの大人の言うことを聞いていれば、偽りの自己肯定感を得られる。

学歴カーストに隷属して褒められることを精神的拠り所にしていると、人間的に成熟することができないまま年を重ね、自信のない傲慢不遜な人間に仕上がる。

そんな残念なタイプの医師にひどいことを言われたりゴミ扱いされたりした経験から、医師への歪んだ敵意が生まれたのかもしれない。虐げられてきた過去は、同情に価すると思う。

でも、そのバイアスで十把一からげに医師全部を色眼鏡で見るのは、どうかと思う。

他人のせいにして、自分が向き合うべき課題とそれに対してできることから逃げているだけ。

特定の医師の価値観が歪んでいるとしたら、それはその人たちの問題である。私たちにはどうしようもない。

売らなきゃいけない、というのはこちらのエゴ。そのエゴが通らないからと、己のチンケなプライドや自尊心を守るために、医師を不当に見下して、MRとしての使命を軽く見た。

その結果が、この惨状だ。

 

最後に

私は、MRは必要な存在だと思う。

ちゃんと副作用情報を収集して集積し、市場を挟まず適切な使い方について科学的な情報を提供するだけで、充分に存在価値がある。

患者さんの状況は千差万別だ。一つ一つの症例に寄り添ってベストな提案ができる薬剤の専門家は、AIやコールセンターだけではできない。

現在同社のコールセンターの質は残念ながら低く、オペレーターは空気が読めない。自分ならもう問い合わせしないだろうな、という応対で医療関係者をイライラさせるので、あとで謝罪に行かなくてはならないほどだ。仕事を増やすの、本当にやめてほしい。

そういう意味でも、独特の感覚と商習慣をもつ医療機関との橋渡しは、経験豊富なMRでなくては、現状務まらないと思う。外注したり、マニュアル人間に任せられるほどこのサービス業は簡単ではない。

でも、製薬会社が今のままなら、MRは要らなくなるし、製薬会社そのものも衰退する未来しかない。

エビデンス主義や西洋医学の論理が絶対ではないことは、最近の感染症にまつわるあれやこれやで詳らかになってきた。わかるひとはわかっている。

エゴから生まれた化合物なんて飲まないし打たないよ、そんなもの。製薬会社がそんな体たらくであり続ける限り、いずれ製薬会社とかかわりを持つことそのものが経営的なリスクになる。医師を信頼できないとして、患者さんのほうが離れていくだろうから。

もう遅いかもしれないけど。

【AC】他人といるだけで疲れてしまう原因とは?

私は他人と一緒にいるだけ、しゃべるだけで、ヘトヘトに疲れる。

そんな人はいないだろうか?

なぜ私は人としゃべるだけで疲れるのか

それは、勝手に自分で自分を傷つけるからだ。

言葉や行動の裏を読もうとする自分の思考に殺されるので、ヘトヘトになる。

たとえば、職場で私が主幹になって進めているプロジェクトに関する作業を、私には連絡がなく進めている同僚がいたとする。

その場合、私の頭のなかには以下のような言葉が浮かんでくる。

上司「あいつは使えないから、他の奴に依頼しよ」

同僚「このくらい気づいておまえがやれよな、余計な仕事増やしやがってよ」

これらは実際に言われているわけではない。

私が勝手に「彼らはそう思っているのではないか」と想像しているだけ。

しかし私の頭はまことしやかに彼らが私を侮辱しているように認識する。

 

それはなぜだろうか。

私が「恐れ」を抱いているからである。

 

いじめられた痛み。嗤われた痛み。受け容れられなかった痛み。

私の心は「もうこれ以上同じ痛みを感じたくない」と痛みを恐れて絶叫する。

パニックを起こして防衛本能から、体験しうる痛みをリスクとしてすぐ想起する。

「傷つくくらいなら自分で自分をあらかじめ刺しておけ」と言わんばかりに、言われるシチュエーションを疑似体験する。いわば、勝手にまだ刺されてもいないのに自傷する。

 

もっと深いところでは、悪く思われるのではないか、嫌われるのではないか、ということを恐れている。

親の顔色を窺って、友達の反応を窺って、びくびくしながら過ごした幼少期。

「暗黙の了解」や「言いたいこと」を「言わなくても察する」。

これがADHD・ASD併存の私はとても苦手だった。

人間はそんなに勇敢ではないので、言葉にできない主張を態度や表情に滲ませる。

そうやって滲ませた主張を全く受け取ってもらえないと、今度は怒りを滲ませる。

そしてそれも汲んでもらえないとなると、怒り出す。

その一連の流れを汲み取れない私は、何度も周囲の人間が「なぜか突然怒り出す」という体験をしてきた。

それは恐ろしかった。

地雷が埋まっている一見問題なさそうな道をずっと進んでいるような感覚だった。

だから、一挙手一投足を観察してあれやこれやと「気分を損ねていないか」検索する癖がついている。

そして、滲ませた何かを拾えなかった結果怒り出した過去の人たちの亡霊が、私の脳内で「気分を損ねたパターンの発言」としてインストールされた。

生き抜くためのご機嫌取りの呪いにかかっている。

だから、他人といるだけで徐々に擦り減り、しんどくなる。

 

他人の本音はわからない

「本人に素直に聞けばいいじゃない」

たしかにそうだ、と聞いてみると、

「そんなつもりはないよ、ハハハ」と返されたとしよう。

それが嘘か本当か。

それは本人にしかわからない。

つまり、どう答えられたとしても他人である私に真実は分からない。

つまり、コントロールすることもできないし、確認することもできない領域、アンタッチャブルだ。

ならば、相手の心理と言動というのは、実は結局「自分がどう受け取るか」によって決定される。

私は今までインストールされた呪いによって「悪意」という本音が隠されている前提で受け取っている。

ならば「善意」が本音だという前提で受け取るように書き換えればいい。

真実はどうだかわからないが、私の現実は私が決められる、ということだ。

 

 

「他人の本音は善意だ」と捉える生存戦略

「深く考えない」という技術は、私にとってとても重要で、発達の特性上最も難しい。

しかし、幸せに人生を送るうえでとても重要な感性として「鈍感さ」があるように思う。

 

ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』をご存じだろうか。

主人公のチャーリイ・ゴードン。

知的障害を抱えており6歳児程度の知能しかない彼は、パン屋で地道に働きながら、障害者向け学習クラスに通っている優しい32歳だが、障害にコンプレックスを抱えていた。

ある時、学習クラスの担任アリスは、大学のつてでニーマー教授、ストラウス博士を彼に紹介する。2人は知能発達に関する研究者で、チャーリイを最新の脳手術の臨床試験にリクルートしようと考える。

脳手術の動物実験によって賢くなったハツカネズミ「アルジャーノン」に感動した彼は、脳手術を承諾。実験によって彼はみるみる頭が良くなり、後天的天才になる。

「もっと賢くなれば」、そのコンプレックスを解決できると思っていた彼は、まさに望んでいた現実を手に入れるのだが、それはいいことばかりではなかった、というお話。

 

チャーリイが、今まで優しいと思っていた周囲の人の笑顔は、知能が低い自分をバカにして嘲笑する笑顔だった、と気づくというエピソードはまさに象徴的。

深く考えず、純粋に他人のことを「いいひとたち」だと信じていたころのほうが、彼の世界は優しさにあふれた幸せな世界だった。

結局本作では「偽り」だったわけだが、現実では先に述べたように「本当のところは知り様がない」。

ブラックボックスの中身を「良いもの」か「悪いもの」か決めるとしたら、チャーリイのエピソードから考えると、「良いもの」と決めてしまったほうが、世界は愛すべきものになる。

 

自分をありのまま肯定すれば世界は裏返る

信仰といってもいいだろう。

相対している他人の性質は善か悪か。そのどちらを信じるか。

善だと信じる人と悪と信じる人の違いは、自分を肯定しているかどうかだ。

前提に自己肯定感があると、そんな「私」を他人が悪く思う可能性をまずはあまり考えない。

そして、自分で自分を肯定しているので、他人に肯定される必要がない。だから、もし悪意があったと分かっても「あなたの問題」「あなたはそうなんだね、私は私を好きだけど」と「例外」として自己評価から切り離すことができる。

前提に自己否定があると、自分を他人が悪く思うのは当然だと受け容れてしまう。

歪んだ自己評価を補強する「客観的事実」として受け取るので、傷つく。他人を、自分のなかの自分をさらに下げてくる外敵として認識する。その結果、恐れるし敵意を持つし恨みも抱く。

実は他人が嫌いなのではなく、自分が嫌いなのだ。

受け容れてくれない他人ではなく、自分を受け容れられない自分の問題。

 

私は空気が読めない。

他人の心情を想像するのが苦手だ。チャーリイが知的障害を抱えているのと同じに。

そんな自分を、欠点も含めて受け容れる。

誰しも、何かが欠けている。一人では生きていけない。だから社会がある。

「もっと空気を読めれば」

「もっと賢ければ」

それは自己否定だ。欠けているから自分なのに、それを必死に埋めようとして、結果的に世界を敵に回すのだ。本当はもっと世界に繋がりたくて、さびしいから、やっていたのに。

つまり、アプローチが根本的に間違っているということだ。

まずは、自分の至らないところ、良いところ、それをあるがままに、それで充分100点満点だと思おう。

私が私のままで愛すべき存在であるように、これを読んでくれている皆さんも、そのままで愛すべき価値がある存在だ。

それを実感として与えてくれる「母親」が、たまたま不在だっただけ。

よく、そんな大きな喪失を抱えて、ここまで生きてきた。

それだけで、その人生が、あなたを肯定している。

苦しくて寂しいけれど、できるだけそれを何とかしたいと思って、一生懸命生きてきた。

あなたがあなたとして生きてきた証が、あなたを愛すべき存在であると実証している。

 

自分で自分をいじめるのは、もうやめよう。

チャーリイが、アルジャーノンに花束を贈ったように、自分自身に花束を。

【仕事】デキる上司ほど部下を潰す!:山田玲司先生直伝 自分を守る「4つの作戦」

この世の悩みは「人間関係」だと言い切ったのは、心理学者アルフレッド・アドラーだが、職場の悩みの原因もだいたいは「人間関係」だと言われている。

人間関係というかコミュニケーションの問題かもしれない。

 

やばい上司

人は、誰しも苦しくなると、過去の成功体験を支えにするものだ。

自分は他人よりも優秀だ、と考えている人ほど、過去の栄光に固執する。

「自分はこうやってうまくいって、今の立場がある。だから正しい。」と思いたい。

思いたいのは勝手だ。だが、それを他人に押し付けてはいけない。

でも押し付けちゃう上司ってほんと多いよね。

 

デキる人というのは、出来ない人がなんでできないかわからない。

原因や理屈を頭で理解しても、その心情までつぶさにその感覚に身を寄せることはできない。自分ではその挫折感や屈辱感を経験することができないからだ。

誰でも自分にできることが、相手にもできると思ってしまいがちで、デキる人は「自分にできるんだから頑張ればできる」と短絡的に思考してしまうことがある。

そう簡単にはできない人もいて、できる能力がたまたまあっただけなのに、それを「なまけている」「やる気がない」「根性がない」とその人の気持ちの問題だと思ってしまう。

ここに、大きなコミュニケーションにおける問題が発生する。

上司は「できるのにやらない」と思って不信感を募らせる。

かたや部下は「正しいのは分かるけどできない」だけなのに、今までの努力や熱意を全否定されたように感じて、次第に鬱屈していく。

あるいは、上司が過去の成功体験を引っ張り出してきて、前時代的だったり背景が違ったりして通用しないにも関わらず信仰していて押し付けてしまう。

部下は「こんなんうまくいくわけないじゃん」と思いながらも実績と経験がまだ少ないことを理由に拒否できず、やる気を失う。

 

やたら世話を焼き、手取り足取り細部まで管理したがるリーダーもやばい。

このダンゴムシのようなもの。

「自分の言う通りにすればうまくいくんだ」とやり方から過ごし方までマイクロマネジメントをして、部下を言う通りに動かそうとする行為は、虫をいじくりまわして意図せず殺してしまう幼児と同じだ。

あくまでも、本人の自主性が最も大切な原動力であり、尊重すべき個性なのに、それを否定されて道具のように扱われたら、人の心は簡単に死ぬ。

 

 

上に立って部下を育てるとき役立つのは、失敗した経験である。

部下はかつて成功した再現性のない武勇伝より、尊敬する上司の生々しい失敗経験のほうが、よっぽど聞きたいし、よっぽど勇気をもらえる。自分もがんばろう、と思える。

だから、本当に頑張ってできなかったことができるようになった人が、上司に最もふさわしい。

しかし、この資本主義経済社会では、負けたら終わりのルールなので、基本的に減点がたくさんついた人間は、出世しないようにできている。

結果として、あまり失敗を経験できなかった、保守的でリスク回避がうまいだけの、薄っぺらい人間が上に立つことになる。

ぶっちゃけ、システムとして、クズだけが上に行くようにできている。

だから上司にクズが多いのは当たり前のことなのだ。とんでもないブラック社会である。

 

上司の3要件として「ご機嫌でいる」「愚痴らない」「威張らない」というのがある。

「この3つができないなら人の上に立つ資格はない」とまで漫画家の山田玲司先生はいう。

 

今まで働きやすい環境を整えてくれて、人間的にも尊敬できる上司は、本当にこんな感じだ。

反対意見は逆に面白がるし、真剣かつ謙虚に耳を傾ける。

『貞観政要』で李世民が魏徴の率直な意見を兼聴することを忘れなかったように、優秀なリーダーはきちんとそこを踏まえている。

 

 

それに、会議でもなんでも、せっかくなら参加しているメンバーに楽しく参加してもらおうと態度だけでも明るくする。

そして、権力を振りかざすことを決してしない。

この世は、その逆をやっているマネージャーが多数派だと思う。

 

上司(他人)は変えられない

いつも不機嫌で愚痴ばかりで威張り散らすような上司と一緒に仕事をするのは、地獄でしかない。しかしそういう人がほとんど。

ではどうするか?

 

基本的に、合わないところにいてはいけない。

人というのは、合わない場所・合わない文化・合わない集団にいるだけで、疲れ果ててしまうものなので、基本的に向いている居場所で生きていくのが一番だ。

さっさと転職しよう。あるいは、上司がいない働き方を求めて独立しよう。

 

というのがベストだが、言うは易く行うは難し。なかなかハードルが高い。

 

つらいところなのが、他人である上司に何とか変わってもらおうというのは、現実問題難しいということだ。

なぜなら、上司は上司なりに人生を歩んできて、そのバックボーンがあってのその人なのであって、私に私の物語があり信念があるように、上司にもそれがあるのが当たり前だからだ。

そのバックボーンをタイムリープして変えることなどできないし、その人にはその人のやり方があり生き方があり意志がある。

それは私が私を尊重してほしいのと同じように、彼らも尊重してあげるべきなのだ。

変わろうとすることは、その人にしか決められない。変化は変わろうと自発的に思ったときにしか起こりえない。

私がコントロールできる範疇の外にある。変えられないものなので、そこはどうしようもない。

 

今すぐできる!山田玲司先生直伝の「4つの作戦」

だから、変えられるとしたら自分のほうだ。

「なんで?!私は間違ってないのに変わらないといけないの!?」と憤ったそこの貴方。

大丈夫。安心してほしい。

あなたそのもの、あなたの生き方や信念を捻じ曲げる必要はない。

それぞれに粛々と生きたいように生きればいいだけで、あなたは上司の納得できないやり方に首を縦に振る必要もないし、跪く必要もない。

じゃあどんなふうに振舞ったらいいの?ということで、4つの作戦を紹介したい。

 

①妖怪ウォッチ作戦

人間ではない「妖怪」だと思って接しよう。

同じ人間だと思うからしんどくなるわけで、年取ったジバニャンがなんか言ってるなー、変わってんなー、と思って聞き流すと、結構気が楽になる。

 

②主治医作戦

私もたいがい精神を病んでいるが、基本的にビジネスに携わっている人というのは、多かれ少なかれ精神を病んでいる。

ワーワーとまくしたてたり、意味不明な行動をしたりしている上司を、「患者さん」だと思って接してみる。

「はいはい、患者さんこっちですよ、今日はどうしたんですか?」と、主治医になった気持ちで耳を傾けてあげる。精神を病んでいる人のカウンセリングだと思えば、時間を浪費するというより、時給をもらいながら精神療法をしている感覚になるので、イライラしづらくなる。

でもこれは、比較的余裕があるときにしたほうがいい。

上司が「今、俺の話、部下に伝わってる!」と勘違いをしてやる気を出し、わりと終わらせるのに時間がかかることがある。しかしガス抜きさせてあげるのには得策。

③動物園の園長作戦

これは①に似てますが、さまざまな上司がそれぞれに狂っている場合に使う。

動物園で日々様々な獣のお世話をするような気持ちで接する方法だ。

無意味なうえに荒れて長引いている会議中など、とても有用。

「よしよし、今日もみんな元気に吠えてるな」と思って数歩引いてみてみると、頭に血が上ることもない。

④悲しみのバックストーリー政策委員会作戦

これは、思いがけず傷つくことを上司から言われたときに実行する。

「この人は、なんでこんな部下を悲ませるようなことを言うようになってしまったんだろうか」と考えを巡らせてみる。

たとえば、誰かより上だとか下だとか、誰のほうがすごいとかダメだとか、相対的な価値観に引っ張られる上司の場合、だいたい親から成績で他の子と比べられ続けてきた幼少期を過ごしていたり、他人にマウントを取られてとんでもないトラウマを抱えていたりしている。

「そうかそうか、ちっちゃい頃につらいことがあって、そのせいで病んでしまったんだね・・・」と思うと、なんとなくその人の人生の不幸に同情して受け流すことができる。

他人に何かを言われたとき、自分が否定されたと感じているから痛みを感じる。

しかし、指摘されたことに学ぶべきものがない限り、その発言はえてして他人の問題の表面化に過ぎない。

つまり、上司が自分にひどい言葉を投げかけるのは、自分に非があるのではない場合、たいてい上司の人生の問題なので、基本的に自分には関係ないことで、そんな言葉であなたの価値は傷つかないのである。

だから、「(あなたのなかでは)そうなんですか、気を付けます」とでも言って憐れんでおけばよい。

 

まとめ

正直今の上司は本当に困ったちゃんで、結構疲れる。

そんななか、われらが山田玲司先生が、とってもわかりやすく問題解決について語ってくれていたので、まとめてみた。

4つの作戦を実際に実践してみた結果、とてもストレスがなくなったしなんだか優しい気持ちになれるので、おすすめしたいと思った。

いろんなひとがいて、いろんな傷を抱えて生きている。

所詮金を稼ぐための仕事なんてゲームなので、気楽にいこうではないか。

自分の情熱を傾けて作品をつくったり、何かを育てたり、大切な人を大切にしてご機嫌に過ごすことのほうが、人生においては仕事の何億倍も大事なので、つまらないサブクエストで死にたくならないように、一緒にのんびりいこう。

 

【仕事】「仕事に行きたくない」「毎日が虚しい」「朝がくるのが憂鬱」

こんなふうに感じること、ない?

 

仕事をしていて思うのは「お金のため」に仕事をしている人ばかりだ、ということだ。

「社会のため」でもなく「自分のため」ですらなく、ただ「お金のため」。

稼ぐのに、効率がいいから、利回りがいいから、そんな理由で行動が選択されていて、そこには自分も他人も無い。

たとえば、今勤務している会社の社宅の賃貸契約をする代行業者がいる。

社宅の入退去時にやり取りするのだが、まぁ他人事でやる気がない。

彼らは不動産のプロのはずだ。プロとして契約し中抜きして収入を得るからには、入居者と大家や管理会社の仲介役として、何らかのバリューを生むべく存在していると私は思いたい。

しかしやり取りしている背後から聞こえてくるのは「面倒なことにはタッチしません」「私には責任ないです」「楽して適当に終わらせたいです」という、心の声。

私たちに価値を提供しようとは思っていない。私たちがどこに住んでどうなろうが、大家がどう思おうが、リスクを負わされて面倒なことになりさえしなければ、心底どうでもいいというのが伝わってくる。

本当にイライラする。いや、イライラするというより哀しくなる。

あんたら、そんなんでいいの?なんのためにそこにいるの?何のために今生きてるの?できるだけ効率的に金さえもらえれば、携わった人が困っていたってどうでもいいのかい?それが自分や自分の大切な人なら、同じように無気力に右から左に流して済ますのかい?

そんな?がたくさん浮かんでくる。

世の中にはこういう無責任な仕事をする人が本当に多いと思う。

自分の損得、会社の損得、全部、損得。損得マシーンと化している。

裏を返せば、それだけ余裕がないのだ。他人のことなど気にかける余裕もなく、毎日を生きるために日銭を稼ぐこと、それにできるだけエネルギーを使わないこと。それだけを死んだ目をして送りたくもない「日常」をやっている。それで精いっぱい。

そこに、込めることができる魂はない。マシーンだから。

 

替えがきく歯車でいいのか

替えの効く既製品の労働マシーンとして、私たちは組織に、資本主義社会に飼われている。

毎日カネ、カネ、カネと鳴きながら回る歯車である。しかも替えがきく。

そんなものであると自覚しているのかいないのか、自分自身の気持ちさえわからなくなっている。何が楽しいとか、何がうれしいとか、どう生きていきたいとか、そういう心のど真ん中にあるべき燃える大切な何かが見えない。もう完全に鎮火され消し炭になってしまったのか。

 

本当はもうこんなの嫌だ、と心が叫んでいる。

でもこんなの嫌だと自覚してしまうと、苦しくて仕方がないので、なかったことにしているのだ。

できるだけ心を痛めないように生きていくには、心を抹殺して「歯車」になりきって生きているほうが楽だから、無意識に逃げている。

歯車としての「立ち回り方」にだけ集中していれば、余計なことを考えなくて済む。(余計なことではなく、むしろ避けていることこそ人生を賭して考えるべきコトなのだが。)

他の歯車に簡単に交換されないように、毎日怯えながらいかに優秀な歯車かを示すそうとアピールに必死である。出世ばかりを気にする人や所謂エリートは、そんな感じの模範的な歯車。

しかし、どれだけアピールしようと所詮は替えがきくから歯車なのであって、いてもいなくてもどっちでもいい存在。この資本主義社会においては。

だから、出世レースは虚しい。マウント合戦は悲哀に満ちている。

心はいつまでも渇いたまま。

 

異世界に逃亡するたいやきくんたち

 

まいにち まいにち ぼくらは てっぱんのうえで やかれて いやになっちゃうよ

引用:『およげ!たいやきくん』作詞・作曲:‎‎高田ひろお、佐瀬寿一

たいやきくんのように、嫌になっちゃうのである。

嫌になっちゃった たいやきくんは、海に逃げ込む。

 

心の渇きを癒すために人は何をするかというと、さらに逃げる。

私は酒で前頭前野を麻痺させることで、現実という悪夢から合法的にトリップしようとした。そしてアルコール依存症になるまで飲み続け身も心もズタボロになった。

だから、逃げたくなる気持ちは人一倍わかるつもりでいる。

なろう系、いわゆる異世界転生モノが流行っているが、これもまさに麻酔コンテンツと言えるだろう。

「俺は特別」「オレは最強」「未来を好きなように変えられる」

歯車がみる夢を体現している。それが、なろう系を人が群がって貪る理由である。

しかし私は知っている。

大失敗して死ぬか生きるか悩むところまで堕ち、泥水をすすりながら這い上がってきたから知っている。

いくら麻痺させても、いくら逃げても、現実はそこにある。

私たちは、それぞれの個体の限界を受け容れて生きていくしかない。自分以外の存在にはなれない。

仮想世界にいくら逃げ道を探しても、自分自身の心の声を無視し続ける限り、渇きは癒えることはない。

どんなにどんなにもがいても ハリがのどから とれないよ

引用:『およげ!たいやきくん』作詞・作曲:‎‎高田ひろお、佐瀬寿一

何が嫌なのか、何が辛いのか、その暗く深い心の泉を覗き込み、水底の泥さらいをしなくては、本当に聞きたい本音は聞こえてこない。心に突き刺さったハリはとれない。

しかし、歯車たちはそれがどれだけしんどいか、どれだけ泥さらいの過程で傷つくか、薄々分かっている。もがいてもとれなかった学習性無力感で、もはや取る気もない。先延ばしにしてみて見ぬフリをしているのである。

そんな人がたくさんいれば、魂のない仕事が巷を埋め尽くすのは、当たり前だ。

だって、目の前の人は、そこにいないのだから。今この瞬間を生きていない。心の鼓動が聞こえない。ここではないどこかにトリップしていて、対話していると思っても、そこにいるのは心を持たないただの抜け殻なのだから。独り言を言い合っているようなものだ。

仕事で他人と話をしていると、どこか空虚な感じがするのは、ドッと疲れるのはそのためだ。

 

資本主義社会はもうお腹いっぱい

逃げている、といったが、それは歯車たちが弱いからではない。

むしろそれは当然である。なぜなら社会がそうなるようにできているからだ。いや、そうなることを望んでいるといってもいい。

資本主義社会、特に株主資本主義で経済が回っているこの現代社会は、仕事の社会的な意義よりも、投資可能性と計算可能性だけで構成されている。

お金を持っている人が、さらにお金を増やしたい、と思った場合、投資したときに確実に投資額よりも多いリターンを得られる未来が予測しやすいように、市場と人をコントロールしようとする。

そうなると人間性という非合理的なものは予測を不確実なものにする「ノイズ」「リスク」でしかないので、極力排除したいと考える。

 

資本主義社会において組織は行政官僚制を布く。つまりピラミッド型の組織体系である。

そのほうが理論上は、命令通りに人を動かすことができ合理的かつ効率的に最大効果を得られるはずだからだ。

しかし社会学者ロバート・キング・マートン(1910-2003)が指摘したように、行政官僚制は最終的に非合理的な組織に変貌する。

顧客のためではなく組織内の忖度のために働き、規則の奴隷となり自己成長をやめ、リスクを回避するために処罰を免れることができる必要最小限の行動しかとらず、既存体系を変えることを怖がる。

だから組織が大きくなればなるほど、中にいる人はどんどん没人格化していく。人間性を失い、先に述べた「死んだ目をした歯車」が大量に生産される。

 

資本主義社会を動かしている側、お金を持っているヒエラルキーの頂点にいる人たちにとっては、下民がそうやって人間をやめていってくれたほうが、予測可能性を狂わせるノイズがなくなり、かえって好都合だから。

病んだ現実逃避をしていようが、苦痛にあえいでいようが、野垂れ死のうが、知ったコトではない。自分たちより下の者たちなど、道具であり、商品であり、心の底では私たちを人間ではないと思っている。そうやってこの社会は、偽りの平和を語りながら、歯車たちの声なき悲鳴を轟かせつつ、今日も冷酷に回っている。

 

しかし、もうこんなのはうんざりだ!とさすがの歯車も軋み始めているんじゃないだろうか。そろそろ現実からあれやこれやと逃げ続けることも、限界を迎えているのではないか、という雰囲気を感じる。

 

テメェの人生は仕事かよ

歯車で生涯を終える。

本当に、心の底からそれでいいなら、それもまた一つの生き方だ。尊重したいと思う。

でも、本当にそうか?

偽りの安心を買うために、やりたくもないことをやり、話したくもないことを話し、嬉しくもないのに笑って、数十年を無意味に過ごし、何も残さないまま土に還る、そんなことを本当に心から望んでいるのか?それが、子どもの頃からの夢だったのか?

本当は、そうじゃないんじゃないか?

 

私は我が子を見ていて思う。

子どもの目からみて、世界はとても美しく輝いて映っていると思う。

それは、損得だとか、規則だとか、既存の価値観だとか、そういう「ノイズ」で心を檻に閉じ込めないで、ありのままの心で見ているからだ。

人間性が「ノイズ」なんじゃない。社会を縁取る枠組みこそ「ノイズ」なんだ。

素直な驚き。純粋な疑問。瑞々しい、心揺さぶられるような感覚。それを子供たちは全身で表現する。だからこちらまで嬉しくなるような眩い光を放つ。それが美しいということではないだろうか。

子どもは絵を描くとき、ルールや得手不得手を気にしない。

「描きたい」ただそれだけだ。

筆の手触りと重み、画用紙の上をすべる筆の感覚、現れた色彩。

全身全霊で今ここにあるリアルに向き合い格闘する。

自分が表現したいものを形にするためだけに、全神経を集中させて画用紙を見つめる瞳は、どんな宝石よりも美しい。

そこに「これは売れるだろうか」とか「これをやってキャリアに意味があるだろうか」とか、そういったつまらない打算は存在しない。

だからこそ、たどたどしく描かれたその線に、その迫力に、圧倒されるのである。

 

そんな生き方をもう一度取り戻したいとは、思わないだろうか。

あのとき、私たちもそうだったではないか。

汚れてしまったかもしれない、いまさら恥ずかしいかもしれない。

でも、まだ生きている。命はまだ終わってない。

なら、もう一度、本気で賭けてみよう。

 

私は断酒をはじめたとき、そんな気持ちだった。

再飲酒をして何度もこけた。でも諦めないで生きてきた。今が人生で最高だ。

だからこんなふうに思うのかもしれない。

【AC】「子どもを産むのは親のエゴ」問題について

こんなツイートが流れてきた。

今回は「子どもは親に感謝すべき」という洗脳の間違いについて書いてみる。

 

子どもをつくったのは親の責任

「育ててもらった恩も忘れて」

「ここまで大きくなれたのは誰のおかげだ」

とは、 よく目にする親側のセリフである。

確かに親が働いて稼いだお金で、子どもはご飯を食べて育つ。

母の世話がなければ生きていけず、泣くことしかできない赤子の時期もあった。

 

しかし、産むと決断したのは親である。

産まないこともできた。しかし産んだ。

それは自分の人生の選択であり、働いて養わなければならないことも、毎日世話をしなくてはならないことも、容易に想像できたはずだ。

それでも産むことを選んだ。

「親のエゴ」というキーワードでTwitterでは拡散されていって物議をかもしているが、もっと近いニュアンスとしては「親の決断」だよなと思う。

決断には当然責任がともなう。ある行動を選択するということは、その行動がもたらす責任を負うことを委細承知したということだ。

産みたくて産んだのではなかったかもしれない。SEXで気持ちいいなということ以外はよく考えていなくて、たまたまできてしまって、そのとき中絶する金銭的な余裕がなかったかもしれない。あるいは避妊していたけれど授かったのかもしれない。

しかしSEXしなければ受精は起こらないので、SEXをするという選択をした時点で、親になる可能性を排除しない、という行動を選択している。

ということは、結局自分が選択した行動を経ているので、背景はどうあれ責任は発生する。

当時はそこまで考えていなかった、と言っても現実は変わらない。責任も無くならない。背負ってしまったなら、それはともに歩むしか選択肢がない。

 

責任は感謝とは関係がない

この人が言うことはもっともで、親に感謝するかどうかは、子どもが判断することである。

「感謝」という感情を生むのは、子どもの心であり、その心に感謝の気持ちが宿らないのは、親にはどうしようもない。

私は親になったが、子どもたちが私に感謝してくれるとは限らない。むしろ恨まれるかもしれないとさえ思っている。

なぜなら、この世は生き地獄だから。

特に現代社会などは、功利主義・合理主義・結果主義によって沈みつつある泥船である。いずれ大きなカタストロフが起きてすべてがひっくり返り大混乱になる。

とてつもない痛みと苦しみを味わう世代になるかもしれない。

 

いや、そんな時代でなくとも、生きることはとても苦しい。

努力は報われるとは限らない。個体差が冷酷に粛然と存在する、弱肉強食の世界。そのなかで生き延びなくてはならない。傷つくことや傷つけることを避けては通れない。

そんな空間に招待するのである。「おめでとう」と言いながら。

そんなことをされて、感謝するだろうか。

基本的には感謝しないのではないか、と私は思う。

なので、そんな地獄にわざわざ生み落としておいて、感謝を請求するというのは、はなはだ筋違いである。

親の責任を果たすのは、感謝をもらえるからなのか。そうではない。

責任を果たすのは、行動の当然の帰結であり、自分自身の問題である。

他人である子供に、自分が負った責任の一部を押し付けてはいけない。

 

なぜ感謝されたいと思うのか。

それは、自分の「所有物」として子供の存在を認識しているからだ。

自分が与えたものを返してくれるのが当たり前、なぜなら自分が満足を得るためのおもちゃだから。そんなふうに考えているから、感謝されないことに憤る。もらえるはずのご褒美をもらえなかった子供のように。

つまり、親がまだ精神的に子供なのである。

子どもを尊重すべき独立した別人格として見ていないので、自分の手足のような感覚で思い通りになると思っている。

その傲慢さが、子どもに呪いをかける。子どもは呪いに長きにわたって苦しむことになる。

感謝されるわけがない。

 

感謝されるのではなく感謝する

むしろ、感謝しなくてはならないのは、親のほうだ。

「母の無償の愛」などというが、無償の愛を受け取っているのは親のほうだと思う。

子どもはどんな親でも、自分の親を愛さずにはいられない。どんなに愛されていないと薄々感づいていても、どこかで自分のことを愛してくれるのではないかという希望を健気に手放さない。

虐待されていても、子供は親をかばう傾向がある。本当は愛してくれるのではないか、優しくしてくれるのではないか、抱き締めてくれるのではないか。そう切なる願いを込めて、小さい体で精一杯できる限りの愛情を示す。

自分の存在を全肯定してくれる存在。それが我が子という存在だと思う。

そんな得がたい思慕を捧げてくれる存在が、他にあるだろうか。およそ他人には期待できない貴重な体験を与えてくれる我が子。感謝するのはむしろ親のほうだといえる。

 

私は親になることが不安だった。

子どもが嫌いだったから。後になってそれは、私がまだ子供を生きられていなかったからだとわかった。

無邪気に笑って自由に素直に感情を表現することが許されている子供を見ると、我慢ならなかった。とてもイライラした。

それは、私がそんなふうに子供時代を過ごすことができなかったからだった。

アダルトチルドレンを自覚し、回復のために12ステップ・プログラムに取り組んでいくにつれ、その苛立ちはゆっくりと氷解していった。

私も本当は、キラキラと感じるままに笑って泣いて、親が定めたあるべき姿ではなくありのままの姿を肯定されていると感じながら、満ち足りた幼少期を生きたかったのだった。

『子供を生きれば大人になれる』とは、かの有名なクラウディア・ブラック先生の著書だが、大人になるためには、子どもをしっかり生きなくてはダメなのだというのは、よくわかる。

 

「親のエゴ」問題の真相と解決策

結局この「親のエゴ」問題の真因は、大人たちの未熟さだ。

親になった人が、まだ子どもをちゃんと生きていなくて大人になってもいないのに、親になってしまったというのが、問題の根本だろう。

もちろん、親も人間なので完璧ではないし、育てながら一緒に成長するものだ。それだけ、子どもたちは親に様々なギフトを与えてくれるという裏返しでもある。ここでも、親は子どもからもらいまくりだ。

完璧ではないにしろ、せめてもの最低ラインとして、親は子どもを生き切っていなくてはならないのだ。

今親として未熟な人間が親をし、感謝を取り立てているのは、本人の性質が悪だからではない。その前の親世代の課題を引き継がせられて、その人も苦しい幼少期を過ごしてきたのだと思う。私のように。

気の遠くなるような世代間連鎖のすえに、私たちは存在している。

社会では、我々は個として存在をジャッジされがちだが、そんな簡単な問題ではない。根深い、何代にも続く病が、今この瞬間に表面化しているだけだ。

つまり、社会の問題だ。この親が悪いとか、この親は良いとか、そういうのではなく、能力でランキングをつけたり経済的利益のために人格をそぎ落としたりしてきた社会そのものによる哀しい産物のひとつが「子どもに感謝を強要する親」だということだ。

親を怨むなとは言わない。しかし親もまた独立した別個の存在「他人」であり、その人の人生は本人にしかどうにもならない。そのことも、理解する必要がある。

 

私たちは生まれてしまった以上、生きていくしかない。

他人は変えられない。自分の行動・自分の認識しか、変えることはできない。

ならば、感謝を求めてくる親には「残念だけど無理なので、あとは自分のためにがんばってくださいね」と手を振って、自分の人生にしっかり焦点をあてて今この瞬間を生きていくしかない。

自分が世界に与えることができる愛に、力を注ぐ。

自分の感情を、良いも悪いもなく素直に受け取る勇気を持とう。

私たちのこれからは、私たちが選択していく。そしてそれは謙虚に素直に向き合っている限り、自分以外の何かの導きによって、必ずどこかに繋がっている。

良いことばかりではないだろう。でも、悪いことばかりでもないかもしれない。

その受け取り方を、私たちは決められる。

古代の哲学者エピクテトスも、唯一「自分の意志」だけは自由だ、といっている。

何をしようと決めるか、何を好きだと思うか、何を尊いと思うか、は、本人が決められる唯一の自由なのである。

何をするかを、他人に委ねていないだろうか。

他人にどう思われるかびくびくしながら、他人に嫌われないように行動を選択するというのは、その唯一の自由を他人に受け渡していることと同じだ。

会社の命令で嫌だけどお金のためにしかたなく人生の大半をつまらない作業で浪費する。

嫌われるのが怖いから、行きたくもない集まりに行く。

そういうことをやめること。そこから、親として生きる第一歩が始まる。

 

 

【メンタル】失われた「愛する」という技術(エーリッヒ・フロム)

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』『愛するということ』を読了して、内容をまとめつつ思うところを書いてみる。

 

人は安心に依存する

ナチスドイツのファシズムに服従したように、人は自由を求めながら権威に跪く。

中世ヨーロッパでは、身分が決まっていた封建社会だったので、決まった役割をやっていればよかった。それなりに生きていけた。

社会・共同体の一部として、やりたいことは全て叶わなくても、やるべき役割をやっていれば誰かが守ってくれる。そんな「安心」があった。

しかしルネサンスを期に、資本主義・自由主義が社会に広まるにつれて「個人」という概念が生まれるようになる。

中世の崩壊とともに、自分が何者かわからなくなり、今まで享受していた「安心」を失う。繋がりを失い、路頭に迷う。

そこで宗教改革である。

今まで教会は「神」と「人々」を繋ぐ役割を担う権威そのものだったが、プロテスタントは「神」と「個人」が直接繋がれる代わりに「神」には絶対服従で、本来が存在として悪である人間は「労働」に真面目に禁欲的に励むことにより禊を済ませることができる、と説いた。

これにより、産業革命の只中、過酷な労働を強いられても喜んで働く、今でいう社畜のような状態に人々をコントロールすることに成功する。

寄る辺をなくした民衆は、身を粉にして働いていれば「神」が救ってくれる、という新たな「安心」を得る。代わりに「神」に服従するマインドを刷り込まれる。

近代資本主義は、人間を伝統的な束縛(役割)から解放したが、同時に人間を孤立させ、無力感・孤独感・恐怖を与えた。資本的に「強い個人」と「弱い個人」を生み、社会は金儲けのための機械になり、人々は歯車として生きるようになった。

自分の幸せが生きる目的ではなくなり、あくまでも組織・社会の経済的な発展に奉仕することを目的とする、孤独な歯車である。

近代から現代に時代が進むにつれ、さらに孤独感や無力感を増大させていく。

 

自由から逃げたくなる3つの心理(逃避のメカニズム)

人が自由という重責から逃げてしまうのは、3つの心理が働いているからだとフロムはいう。

権威主義

自分が欠けている力を獲得するために、自分以外の何かに依存して補おうとする心理のことである。

自分の進むべき道をあれこれ指示してくれる「権威」にすがりたくなるパターン。影響力のある人、カリスマ性のある集団に思考停止でついていってしまう。(マゾヒズム)

もう一つが、他人を支配し操作することで自らが権威者になりたがるパターン。(サディズム)

両者とも、上下関係でいいから誰かと繋がりたい、安心したいという気持ちが働いている。

破壊性

対象を壊すことによって苦しみから逃れたい心理のことである。

どうしても敵わない・邪魔な対象を、殺してしまいたい、消滅させてしまいたい、と考える。外側に攻撃性が表出するパターンである。

それが自分自身、つまり内側に向かうと、自殺になる。自分を破壊することで全てを終わらせるのである。

 

機械的画一性

自分が自分であることをやめることである。

自分の思考・感情・意思を放棄して、集団に迎合することにより、溶け込ませて孤独感を埋めようという心理である。

心を殺してまるでターミネーターのように生きる。そこには偽りの「安心」はあるが、幸せはない。

 

こうして、人々は「安心」を得るために自由から逃げだし、個性を失い、自分を失い、権威に簡単に服従するような生き物になっていったのである。

その受け皿として機能したわかりやすい代表例が、冒頭にふれたファシズムだ。権威ある集団帰属意識を与えるファシズムは、孤独感でいっぱいの民衆を取り込むことに成功した。

しかし、歴史が示すように、その結果は多くの犠牲者と不幸の量産だった。

残された道

では、孤独な私たちは何を頼りに歩んでいけば良いのだろう。

役割でもなく、神でもなく、権威でもない世界に繋がる何かとは、なんだろう。

自発的に自己表現をすることで、私たちは世界と繋がることができる。その最たるもの、つまり先の問いに対する答えは「愛する」ということだ。

愛することは、能動的かつ自発的な活動である。受動的な感情ではない。自ら踏み込み与えることである。愛は他人としての態度であり、性格の方向性のことをいう。

健全に自由に自分と自分以外を繋げるものは「愛」だと、フロムは訴えている。

 

現代人は、愛について誤解をしている。

たとえば、収入さえあれば、容姿がよければ、愛されることができると条件で考えている人。

または、運命の人が現れ自然発生的に恋に落ち、いつか誰かと愛し合えると思って待ち焦がれている人。

これは間違いだという。

では、どうすることが、真に愛するということなのだろうか。

 

愛する人というのは、与える人である。

自分のなかに息づいているもの、大切なものを相手に与えることだ。

多くの人は、何かを与えれば、自分から何かが失われるのではないか、損をするのではないかと内心恐怖している。そのせいで、愛する勇気を持てないでいる。

自分の大切なものを自ら与えることができる勇気と、自立した精神をもつ成熟した人格の持ち主が、愛を実践することができる。

モノや力や正しさで相手をコントロールしようとすることは愛ではない。歪んでいる。この歪みはいつか破綻を招く。

 

愛を構成している4つの要素

愛を形づくる要素は4つである。

配慮

愛する者の生命や成長を積極的に気にかけているだろうか。愛をいくら語ろうとも、積極的な行動に現れていなければ、それは疑わしいものになる。

責任

自分に対して誰かが何かを求められたとき、その要求に応える準備ができているだろうか。自分と同じように他人のことに責任を持ち、その人本人から発せられるSOSに快く応えるマインドセットができている必要がある。

尊重

相手がその人らしく成長していくことを気遣うことである。相手の行動や思考を自分の都合のいいようにコントロールしよう、というのは、利用しようという意図が介在している。母親が、子どもを自分の思い通りのいい大学に進学させよう、良い会社に就職させよう、と過干渉することは愛ではない。

なぜなら、子どもを尊重すべき一つの人格として認める気持ちがそこにはないからである。自分が精神的に自立していなくては、相手に施す余裕などなく、結果として相手をありのままに尊重することもできない。

知る

相手の性格や考え方や価値観を知っているだろうか、知ろうとしているだろうか。

相手のことを知らなければ、その人が真に必要としているものも、その人の発言の裏にある真意も理解することはできない。能動的に知ろうとする態度が、愛するうえで必要不可欠だ。

 

真実の愛

ここまで読んでくださった方のなかには、愛って存外難しくて面倒臭いな、と感じる人もいるかもしれない。

それもそのはず。ある人を愛する、ということは、その人の周囲・世界・構成するすべてのものを愛するということ、つまり博愛である。

人類全体に対する愛を「友愛」という。

表面的な個人の能力の差や損得など関係なく、無条件に人類全体を愛するということだ。

他人への愛は、自分への愛でもある。人類全体のなかには、自分も入っている。

ちなみに自己愛は利己心とイコールではない。

利己的だということは、自分を愛していないことを意味している。エゴイズムの根底にあるのは、不安と恐れであり、その埋め合わせとして自己中心的な態度でごまかしているに過ぎない。利己的な人は、不幸な人である。

 

資本主義社会では、愛は失われて久しい。

計算可能性・合理性をもとに行動するようプログラムされた社会を生きる現代人は、まるでみな「商品」である。モノとして人はお互いを見ている。愛がかようはずもない。

自他共に存在を商品化してしまった現代人は、自分の時間やエネルギーを使うことを投資のように考えてしまっている。これは人生を損得で動かされていることを意味している。

また、個人は集団からはみ出さないよう、空気を読み顔色をうかがいながら暮らしている。そんな私たちは、集団のなかにあっても、いつも孤独で、不安と恐れに押しつぶされそうになっている。

そのため、組織の歯車として画一化された仕事や、音や映像のエンターテイメントで、傷んだ心の痛みを麻痺させることにいつも一生懸命だ。

心の鎮痛剤として、様々な商品やコンテンツとして市場に出回る。酒・たばこ・ギャンブル・薬物・背景に哲学のないメディアやゲームコンテンツなどは、その代表作だ。そう考えると依存症というのは、愛のない社会が生んだ社会そのものの病である。

目を逸らすためにインスタントな「楽しさ」「痛み止め」を限りなく消費しながら、身も心も商品として売り渡している哀しい存在が、私たちの姿だ。

 

愛する技術を習得するための4条件

そんな私たちが愛を実践するためには、何を会得する必要があるのか。

フロムは4つの条件を提示している。

規律を守る

外から強制された仕事の反動で、休日は何もせずダラダラしたくなりはしないだろうか。

愛する技術を身につけるのなら、外側から強制された命令に嫌々でも従うようなトレーニングをしてはいけない。

学校というのは、いわばそうした絶対服従のためのトレーニングである。だから私は個人的に、自分の意志で目的を持ち通うのでなければ、学校は行かなくていいとさえ思っている。

自分の意志こそが絶対の約束である。規律とはそれだ。

自分との約束を守れる人、それが規律を守れる人である。

 

集中

マルチタスクをしてはいけない。1つの行動だけに集中しよう。社会が推奨する逆が正解である。

あなたは相手の話を聞くとき、次に何を話そうか思案してはいないだろうか。

相手がしゃべっているときは「傾聴」に集中しなくてはいけない。

しかし、昨今流行りの会話術といえば「○○と言われたら○○と切り返す」とか、理論武装としての応酬話法ばかりである。これは全く相手の話を聞いていない。

特にビジネスにおいては、自分の都合のいいように会話の着地点をコントロールしようと、あの手この手で相手に素直に話をさせない。そんなエゴにまみれたノウハウばかりをもてはやしている。

実にくだらない。

他人を愛していない、商品として見ているから、こんな関わり方になる。こういうコミュニケーションの取り方をするようでは、お互いに愛することはできないばかりか、さらに遠ざかる。しかし、今は夫婦間ですらこんな調子ではないだろうか。そりゃ離婚もするよな、と思う。

また、集中という観点では、自己との対話に集中することもまた重要である。

つまり、ボッチでいるトレーニングをする必要がある。

瞑想が現代人に勧められるべきルーティーンなのは、愛することに繋がっているからだ。自分の内なる声を「傾聴」する時間と技術を身につけなくては、自分を見失ってしまう。自分を見失っていては、自立し成熟した人間として愛を実践することはできなくなる。

敏感に、自分の不調や不安、恐れを見直す。それらを誤魔化さず客観的に受け容れる勇気は、すなわち謙虚さである。

そのひとつの方法として確立しているのが、12ステップ・プログラムなのだろう。

だから回復を目指すアディクトって、素敵な人が多いのかな、と納得した。

忍耐

すぐに結果や答えを求めたり焦ったりしないで、地に足をつけて一歩一歩身に着ける忍耐強さが、愛には必要である。

現代は合理主義や結果主義で、速さばかりを評価する。まるで逆だから、愛から離れていくのは当然だ。

私の愛は信頼に値する、そう信念を持とう。他人の可能性を信じる忍耐は、信念によって支えられる。

たとえば子育て。

子どもの精神が健全に発達するためには、保護者や教師やそのような立場にいる大人が、子どもの可能性を忍耐強く本気で信じなくてはならない。

教育とは、子どもの未来を信じ、それを助けること。信念がない教育は教育ではなく、ただの「洗脳」である。そう考えると、巷に溢れる教育という名のカリキュラムは、ほぼどこかの誰かの損得で差し向けられた洗脳コンテンツではないだろうか。

愛はギブアンドテイクではない。愛すれば自分が愛されるだろう、と他人に愛情を押し売りする態度は、愛ではない。

愛すれば、きっと相手の心に届き、相手のなかに愛が生まれるだろうという希望に全身をゆだね、何の保証も見返りもなしに行動することである。

そんな親は、いったいどれほどこの世にいるだろうか。

関心

愛が習得したい技術ならば、常に強い関心をもつことが重要だ。

古典哲学に触れるのが大切なのは、この観点に由来するのだろう。

真に成熟した人間とはどういうものか。それを現代を生きる浅い人間から学ぶことは容易ではない。

古典哲学という作品を通じてであれば、先人たちの叡智に触れることによって、彼らが愛をどう哲学していたのか、偉人たちと時空を超えて対話し学ぶができる。その思想を鏡にして、自分の価値観や在り方を見直すのである。

 

愛は、以上のように、真剣な想いと弛まぬ実践を通じてやっとたどり着ける険しい道のりであり、簡単においそれと身につくものではないと、覚悟しなくてはならない。

 

愛を生涯にわたって実践したマハトマ・ガンディーは次のように言っている。

愛とは、一般的に思われているほど単純でもなければ、体得が容易なものでもありません。

愛の道は、綱渡りをしているかのような集中力を要求されます。

そのため、心にごくわずかな隙があっても、たちまち地上に転落してしまうのです。

絶え間ない努力はもちろん、終わりなき苦痛と果てしない忍耐を覚悟する必要があります。

しかしそれによって私たちは、生きとし生けるものが自分の友であることを知り、自分の果たすべき務めと謙虚さを学ぶのです。

愛の道を進む者は、どんな邪念も、嘘も、憎しみも、もってはなりません。

また、皆が欲しがるものをひとりで貯め込んではなりません。

愛とは私たちにとって、最高の義務です。

一切の執着を断ち切り、力の限り理想に向かって進んでいくのです。

 

【参考文献】

 

【共依存】仕事に逃げる男たち

男たちが仕事にこだわる理由。

それは結論から言えば「人生から逃げるため」である。

 

彼氏彼女の幻想の崩壊

男はジェンダーロールという呪いを背負っている。「強くなくてはならない」「社会で成功しなくてはならない」「仕事をして稼いでこなくてはならない」という洗脳を受けて大人になる。

これは戦前から連綿と続くアメリカでいうマッチョイムズである。日本では「家長」としての父親像から端を発する。戦後の核家族化・高度経済成長の流れのなかで、徐々に男性の役割が「家長」ではなく「大黒柱という名のATM化」に移行していくが、ジェンダーロールは今までの時代の流れから形成されている呪いである。

この呪いは根深い。

専業主夫という概念を若干見下す一定の世代の偏見は、こうした既存の価値観からきている。

「男は外で汗水たらして金を稼いでくるのが役割」だと刷り込まれている。

その価値観を引き継ぎ是とするままのこの現代社会で、若者が結婚する気になれるわけがない。

昨今の若者は、生まれてからずっと経済社会が悪くなるところしか見ていない。バブル崩壊後どんどん経済が低迷していき、ろくな景気対策もできない政治をする大人たちを見て育ってきた。経済が上向かない・よくなる未来が全く見えない今の日本で「金を稼いで家族を養う」なんてできないと絶望しているのである。

だから未婚率が高くなるのは必然だ。

 

結婚できたとしても、結婚生活がうまくいかない。

なぜなら「結局は自分が稼いでこなくてはならない」というプレッシャーを常に感じながら生活していて、仕事に重点を置かざるを得ない心理的呪縛が抜けないからだ。

結婚すると生活は一変する。

まるでナウシカのように、彼女は優しく自分をあるがまま受け容れてくれる存在だと、付き合っているときには勘違いしている。その認識のまま結婚する。結婚して妻になり子供が産まれた瞬間、彼女だったあの子はもういなくなる。完全に消滅する。

女性はその子の母になる。旦那の世話など二の次・三の次、いや果てしなく優先順位は下だ。

それは当然であり、男たちが勝手に勘違いして幻想を抱いていた彼女像が、そもそもの認識間違いである。

妻は、夫の母代わりではない。

独立した別の人格を持つ、尊厳ある一人の人間であり、共同生活を共に営む、いうなれば相棒・会社でいうところの共同経営者だ。

しかし男たちは、妻を、自分のことを一番に考えてくれて辛いときは慰めてくれて、欲しい承認欲求を与えてくれて、守るべき存在でありながら自分を包んでくれる存在だ、と思い込んで結婚している。

そんな風に妻のことをいつまでも自分だけの女神さまのように思ってきて、ある日「あれ?なんか思ってたのと違うな」となる。

子ども最優先になり、今までやってくれていたことはできなくなる。

妻はホルモンバランスが変わり、子ども最優先で行動するよう生体からプログラムされている。夫のことは、男性としてではなく子育てチームの一員としてみるようになる。ガラリと変わるその様は、男性にとって、まるで妻が別人になったかのように見える。

それは母として最適化するよう遺伝子にプログラムされていることなので、本人たちにもどうしようもない。

そして、夫が家事育児の領域で役に立たないと、妻はむちゃくちゃイライラする。そもそも寝不足で身体はガタガタなのでメンタルのコンディションは最悪だ。あらゆることが癪に障る時期なので、どうしようもない。役に立っていても基本的には存在しているだけでムカつく、そんな感じだ。

そうなると次第に夫は妻に、妻は夫に不満を持つようになる。

「付き合っていたときとは、変わっちゃったな」

「こんな人だとは思わなかった」

そもそも付き合っていたときに感じているときめきが一種の幻覚であり恋の「病」。異性に求めていることが根本的にマザコン的な依存である男性は、それをいつまでも叶えてくれるなんていうのがとんでもない幻覚妄想の類で、スタートから間違いなのだが、徐々に夢から醒めていく。

そしてある時期から「なんでこんな人と結婚したんだろ…これが望んだ結婚生活なのだろうか?」と夫婦ともにお互いが小首をかしげはじめる。

しかし、それを直視した先に、「離婚」あるいは「別居」という重いテーマに対峙しなくてはいけなくなることを、うすうす気づいている。

だからお互いに見て見ない振りをして、夫は仕事に逃げ、妻は子どもに逃げる。

その結果、2人のコミュニケーションは劇的に少なくなる。お互いに対する徐々に不満と怒りをため込む。ため込んだ不満と怒りは腐敗して、消しがたい恨みとなっていく。

そして両者の溝は決定的に埋めがたいほど深くなっていく。

 

仕事に逃げる男 子どもに逃げる女

両者の関係が険悪になるにつれ、一緒にいることが辛くなってくる。

ひとつ屋根の下共同生活を送ることそのものがストレッサーになり始める。

そうなると、男は仕事からなかなか帰ってこなくなる。

「家にいるより仕事をしていたほうが心理的ストレスがないから、朝早くても夜遅くても大丈夫です」

とは、最近新生児が生まれた後輩のMくんの発言だが、まさにこれだ。

そもそも二人でいることが辛いのに加えて、子どもは夜泣きするし、妻はいつも不機嫌だし、家庭にいる時間を針の筵のように感じているのだろう。

つまり、生きづらさの逃げ道として「仕事」を選ぶ。

社会的には仕事にまい進するのは肯定されているし、頑張って成果を出せば、組織内で評価してくれる。

条件付きではあるものの、かつて彼女に求めていた「俺を認めてほしい」「俺を褒めてほしい」という承認欲求を満たしてくれる体験を仕事に見出せるのではないか、と考える。

出発点として、自己肯定感とは、「自分が」「自分を」ありのままで存在を肯定できることなので、それがないから彼女に求めているところに、男性たちの闇がある。

結局は、他人の承認なくして自分の存在を価値あるものと認識できない男たちは、スタートからすでに共依存の病を抱えているのである。

しかしそんな概念をもちろん知りもしないし、自分が病んでいる自覚もないので、内省には至らない。

母として子を見るようになり自分を見てくれなくなった妻を逆恨みし、会社に足しげく通う。共依存相手を、妻(かつての彼女)から会社にシフトする。

だから、成果を出してもなかなか認めてもらえないと、望んでいるもの(承認欲求)を差し出さない会社を恨み、同僚と飲みに行って愚痴を言ったりするのである。

もっと評価されよう、もっと褒めてもらおう。よしよししてもらいたい一心で仕事を生活の中心に据えて、関係が悪くなり居心地の悪い家庭のこと、満たされない自分のことに向き合うことから逃げ続ける。

 

かたや妻のほうはといえば、逃げまくる夫に家事育児を押し付けられて、途方に暮れる。

かつて頼りにしていたカッコいい彼氏は消え失せて、独り。孤独感と閉塞感でいっぱいだ。

家から出られない。か弱い子どもの命を常に守らなくてはならない親の重責を抱えて、一時も休みがない。

そうなると、夫の環境に嫉妬する。夫は仕事とはいえ外に出ることができるし、独りの時間を持てる。自分には持てないものを享受していると、嫉妬する。

自分は我慢していることをさんざん日中やっているくせに、家に帰ってきても一向に戦力にならない夫に、怒りが蓄積されていく。

「あなたはいつもなんで何もやってくれないの?!」の裏には「私は苦しい、私を助けて」という本音が裏側にあるが、YOUメッセージ(主語に「あなたは」がくる)で伝えているので、夫は否定され責められているようにしか感じない。次第に聞いているのが辛くなり聞き流すようになる。ますます共依存で仕事に執着していくだけ。夫は妻のSOSに気づかない。

ある時期から、妻は悟りをひらく。

「ああ、こいつには何を期待しても無駄だ」

そう思って、期待するのを諦める。

夫は「最近小言を言われなくなったな」と内心ホッとする。実にアホである。なぜなら、この諦めは最後通告を無視し続けた末の完全なる決別の証であり、関係修復が絶望的になったことを意味するからだ。

この諦めの瞬間から、妻のなかでは夫はもう家族の一員ではなく「言葉をしゃべって飯を消費するATM」であり、人ではないのである。もはや期待しているのは稼ぎだけになる。

生きていても死んでいてもどうでもよくなった夫のことはさておいて、妻は子どもに失われた時間の対価を見出そうとする。

「子どもがより良い人生を送れるように」という大義名分を盾にして、結婚後の失われた人生、うまくいかなかった結婚生活から目を逸らすために、子どもに共依存していく。

母が子どもに過干渉・イネイブリングをするのはそのためである。

父親的な存在を彼氏に求めて結婚する女性もまた、自分そのものを肯定できていない。自分を愛し「君だけだ」と言ってくれる王子様に承認欲求を求める。

王子様だったはずの夫。恋焦がれた王子様は遠い幻影となり、使えない同居人になり、最終的にしゃべって食べるATMになる。

 

要するに、彼氏彼女はお互いに求めていたものを相手から得られなくなったので、向き合うことから逃げて他で承認欲求を補填しようとする、ということだ。

 

男女それぞれの共依存が生む弊害

まず男が仕事に依存すると、「プライオリティ(優先順位)の1番を仕事にすること」を他人にも強要するようになる。

「プライベートを言い訳にするのか」

「仕事ができて一人前」

という言葉で表面化するこの価値観の押し付けが発生する。

家庭から逃げてきた男たちにとって、会社こそが「家」であり、仕事仲間こそ「家族」だからだ。

だから会社(家)のために頑張り、家族(仕事仲間・上司)から褒めてもらおうと、必死で働く。会社(家)で存在価値を示すことが、唯一自分を肯定してくれることになってしまう。その一方で、心の奥底では、本当の家族をないがしろにしている後ろ暗さが常に背後にある。

恐れを抱いて震えながら、自分という存在の生き残りをかけて仕事でマウント合戦をやっている。それが仕事ばかりしている夫の真の姿である。

それで正しいんだと安心するためには、他人が同じでなくては困る。

今まで逃げ続けてきたこと、妻と向き合い家庭と向き合うことが仕事なんかよりよっぽど大切だった、ということに気づいてしまうと、今までのすべての自分が瓦解してしまう。

だから、自分を支えている世界観が壊れることを恐れて、他人にも自分と同じように生きよと強要するのである。

仕事よりも家庭を大事にしている同僚を目にすると、内心穏やかではない。

だから「あいつは仕事ができないダメなやつだ」とか「仕事をもっと真剣にやらないから出世できないんだ」とかレッテルを貼って下に見ることで、心の平穏を保とうと必死になる。

上から目線で見下すという態度は、自分ができなかったことをする人に恐怖している証拠である。

こうして、本当に大切なものを大切にしている人を迫害し始めるので、病んだ男たちにとっての歪な「会社」という家庭は地獄そのものになる。

 

妻はといえば、「子どものため」と言いながら、イネイブリングで子供を虐待する。

自分の生き直しとして手取り足取り教え、転ばぬ先の杖を用意し、子どもから「失敗の経験」という人生の宝を盗む。

自分の生きづらさを解消してくれる自分の所有物(おもちゃ)として子供にちょっかいを出しまくる。

そうして、子どもは「失敗の経験」を横取りされ、自分で自分の人生を決める権利を奪われ、アダルトチルドレンという生きづらさの呪いを背負わされる。

この幼少期の共依存的な関わりが「自分で挑戦して人生を生き成功も失敗も肯定する感覚」=自己肯定感をがっぽり子供から吸い取っていく。元から発生しないように阻害してしまうとでもいうべきか。

これがのちに成人すると、仕事に逃げる男、子どもに逃げる女、に変身する。

こうして、生きづらさは世代間連鎖する。

【仕事】営業は営業したら負けなんで(鷹嶺ルイ)

最近観たこの動画、おもしろかった。

とても丁寧に相談に答えていて、優秀な方なんだなと感じた。

多くに人に参考になる内容だったと感じたので、個人的にまとめてみる。

 

「鷹嶺ルイ」って誰?

ホロライブというVtuber事務所に所属している人で、もともとブラック企業に勤めていた経験がある。

通常、同業他社で30軒くらいの取引先担当数が相場の業界で、何倍ももたされてクレーム対応も任されてしまい、一時は常に胃が壊れた状態で生活していたとのこと。

始発で出勤して終電で帰り、家でも残業して2~3時間寝たらもう始発の時間・・・というような苛酷な時代を生き抜いてきただけあって、話に説得力がある。

鷹嶺ルイ先生のお話は大きく分けて3つ。

①営業・伝え方について

②人間関係について

③セルフコントロールについて

では、さっそくひとつひとつルイ先生のアドバイスを見てみよう。

①営業・伝え方について

営業は営業したら負けというのは本当にそうで、売れない人ほど売ろうとしてしまう。

売りたいのはこちらのエゴ。

顧客に寄り添い、その人にとって役立つ必要なものだと気づいてもらったからこそ、買いたいと思ってくれて、結果として売れるのである。

自分が良いと思っていて、この人にもそうなんじゃないか?と思うから勧められるわけで、自分が欲しくもないようなものを勧めることができないように、そういうものは売るのが困難で、売れているとしてもストレスがハンパではない。

そういう場合ルイ先生は、早めの転職をお勧めしている。

 

ルイ先生が好きじゃないタイプの営業、という話題のなかで出てきた重要なキーワード。

「勝手に人の気持ちを語る営業」。

これめっちゃくちゃ多い。マジで巷にあふれている。

とにかく相手のニーズを勝手に決めつけて、購入を強要しようとするのだが、それはただの迷惑である。嫌がられるに決まってる。

また、そのニーズを口に出させようとあからさまに誘導尋問しようとするのも、これと同じようなものだ。

結論ありきで質問してこちらに都合の良い回答を引き出そうとするのなら、結局他人の気持ちや願いには全く耳を貸していないのと同じ。人の話を聞いているようで聞いていない。

本心から出てくる言葉を確認するために質問するのであり、自分の質問に本心で答えてもらえるためには、その人にとって誠実で信頼してもらえるような人でなくてはならない。

信用はカネでは買えない。

 

それに通じるのだが、社内であっても相手を思いやること、それは相手の時間を大切にする意味で分かりやすい伝え方をするのが大切だ、というお話もされている。

・カテゴリに分けてあらかじめ伝える

・結論から言う

これは本当に大事な2要素で、これに気をつけるだけで、相手にとっては話を聞くとき負担が相当少なくなる。

伝わり理解してもらえるので、相手はその後の行動がしやすい。だから結果が出る。

 

②人間関係について

職場の悩み、退職の理由の第1位はいつも「職場の人間関係」である。

特に上司との人間関係に悩む人は、いつの時代もどこにいても絶えることはない。

2つ目が特に大事だ。

こちらの思い込みで、何となく伝えにくいと思っていたけど、話してみたら理解してくれた。そんなことは往々にしてある。

私は話してみて理解してもらえないようだったらスッパリ諦めて距離を取るタイプだが、わりと話を聞いてもらうと理解してくれるケースがある。

その人の表情や印象などの先入観で、こちらがつくってしまった壁が障害になっているなんてもったいない。

勇気を持つことが、誤解を解くきっかけになる。

ホウレンソウは私もとても苦労した。

新入社員の頃、何を言わないといけないのか、何を言わなくていいのか、全くわからなかった。

報連相をしろと言われて逐一報告していたら「そんなつまらないことでいちいち話しかけてくるな」と言われるし、それなら重要なことだけ…と話していないと「なんで前もって言ってくれなかったんだ」と言われる。その繰り返しだった。

その繰り返しのなかでだんだんわかってきたのは、「自分以外の人の作業・最終的な着地に影響があるかもしれないこと」が「重要なこと」であり報連相すべきことだということだ。

報連相をしろというのは、自分以外の誰か影響があるかもしれないことがあったら話してほしいということだった。そう言ってほしかった。

つまり、言いづらいこと、というのは、悪い意味で結果に影響が出るかもしれないとわかっているから、言いづらく感じている。ということは、影響が出るかもしれないと自覚している時点で報連相の対象になる。「悪いことほど早めに報告」しなくてはならないのはそのためだ。

途中にミスがあろうが予定変更があろうが組織としては「最終的に勝てばよかろうなのだァ~!」なので、帳尻が合えば問題ないし、少し違った結果になっても誤差が少ないほうがいい。

だから修正可能な初期のうちに言われたほうが組織としては助かる。

逆に言えば、問題を抱え込む人はリスクを抱え込むということなので、計算可能性が低くなる。

組織としては仕事を任せることそのものがリスクと認識されるので、社員としての信頼は失われていく。

だから、評価を下げたくなくて言いにくいことを抱えるよりも、むしろ積極的に悪いことほど報連相しておいたほうが信頼されるし評価される。

 

社内でキャリアアップするためにも好かれよう、嫌われないようにしよう、と意気込む人はどの年代にも存在する。

しかしそんなことは必要ない。

どんな人とも仲良くできるはずがない。人はそれぞれ個性を持っていて、その人らしく生きている限り合わない人は必ず存在する。

それを我慢してヘコヘコしたりキョロキョロしたりしていると、心が腐っていく。やめといたほうがいい。

基本的にはビジネスライクに対応しておけば問題ない、というのは、私もまったく同じ意見。

むしろあまり深い付き合いをしたくない。金が絡むと人付き合いはだいたい醜いものになるから、わざわざ深めたいとは思わない。

 

私も人を頼るのが苦手だ。

なぜなら不確実性が増す気がするからだ。

これはコントロール欲求の裏返しで、結果にこだわっているときにこうなる。

自分のできることというのは限られている。時間も有限だ。

同じ目的のために集まっている職場の人間は、仲間だから、頼るために存在してる。

遠慮なく頼ろう。

 

これめちゃくちゃ笑った。

休憩まで他人に気を遣っていたら、疲れちゃうよ。休もう。

③セルフコントロールについて

少し②の人間関係にも重なるが、自分の承認欲求のコントロールという意味でこちらにカテゴライズした質問である。

早く出世したいという人もいるだろう。

そんな人にはこのアドバイスを心に刻んでほしい。

焦ってもいいことはない。ひとつひとつ着実に力にしていくのが、遠回りしているようで、実は最短距離である。

その組織が健全で審美眼のある組織なら、普通にしていればおのずと輝きを見出してくる。

無理に装飾しようというのは、自分に自信がないことの現れであって、虚飾を評価されて期待されたとしても、自分のキャパを超えていて期待を裏切ったりするから、結局お互いのためにならない。

私も寝坊にはとても悩んだ。

私はアルコール依存症真っ只中のときは、毎日ワイン2本飲んで寝ていた、というか気絶していたので、どうしても起きられなかった。

上司に馬鹿にされ続けてぶちギレ「定刻起床装置 個人簡易型 (SAC-5A型)」というクソ高い(10万円)JR乗務員が使う目覚ましをつかったりしていた。

モーニングコールサービスを頼ったらよかったなぁ、と思った。

まあ結果的に睡眠障害(REM睡眠行動障害)もあったし、そもそもアルコール依存症の底付きのために必要なことだったので、どうしても起きられないときは何かが病んでいるから、病院にかかったほうがいいよ。

 

まとめ

鷹嶺ルイさんは、他にも様々なおもしろい動画を投稿していて、これ以外にもぜひ観てみてほしい。『アウトラスト』というホラゲ実況で伝説を残していることで有名。(笑)

随所に高い知性が垣間見えるし、社会人としてしっかり生きてきたからか、話し方がちゃんとしていて聞きやすい。英語もタイ語も話せるので、語学に興味がある人も知っておいたほうがいい人のひとり。

あとセクシーでかわいい。

 

【メンタル】まともな人ほど心は病むよね(山田玲司)

 

この動画で山田玲司さんが話していることがむちゃくちゃ重要だったので、要点を書き起こして考察してみる。

 

ちゃんと感じることのできる「まともな人」が「メンヘラ」になる、

ちゃんと感じることのできる人なんじゃないのって俺は思ってる。メンヘラって。

だからこそキツいことになっちゃうよね、この文明社会では。

だから俺は近代病だと思ってる。文明病みたいな。

 

本当にそうだよな、と思う。

この世の中は基本的に狂っている。

この資本主義経済がベースにある社会では、なんでも市場価値に換算して相対的に比較するし、合理主義が神よりも信仰されているし、とにかく人間がクズになる。

没人格化して機械のように生きることが正解の世の中で、病まないはずがない。

今の社会に適応できている人こそ狂っている。

だから、今の社会で成功を掴んでいるとかいって称えられている人を素直に憧れるのはやめておいたほうがいい。

人間をやめた人を参考にしても、人間をやめることになるだけだからだ。

まだ人間をやめていないまっとうな人が、耐えきれずにメンヘラになる。

だから、メンヘラこそまともな人、というわけ。

 

スターウォーズ問題

 

「親の問題」っていうものを解決できるかどうかっていうことを、子どもは関係ないのに背負わされるわけ。これは、本人のせいではないわけ。親がダースベーダーだったかどうかだよ。

 

これはいわゆるAC(アダルト・チルドレン)の話だ。

日本の家はほぼ機能不全家庭だといっても過言ではない。

過干渉・共依存のオンパレードで、何かしら闇を抱えた親に育てられて、そのまま闇を繰り越すことを何代もやってきたのが、日本人だろう。

学歴がなくて出世できず苦労したから、やたらと高学歴にこだわる父親。

旦那がパッとしなくてタワマンカーストでマウントを取られたトラウマがあるから、やたらとハイスペックな男と娘を結婚させたがる母親。

もう日本中だいたいおかしなことになっている。

おかしいと自覚していないだけで。

親はそういうトラウマからくる「偏執性」を子供に背負わせる。

子どもは自分の分身である親を信じているし、無条件で愛してしまうので、最初にその「偏執性」をインストールしてしまう。

そして、自分の問題ではない問題を背負った呪いに苦しむ。

 

 

「君は努力が足りない」とか「暗いからダメなんだ」とか、そういう簡単な浅ーい認識で人間を評価してきた歴史があんだけど、もういい加減分かってきてるでしょって、この時代ならさ。

(中略)

これ(親やその前の代の影響がその人のフォーマットをつくっていること、それは本人のせいではないこと)をわかんないで本人のせいにしたり薬入れたりとかするから…

そんな簡単に治んないですよって話。

 

最近医療がアホらしいな、と思うのはココで、本人しか見ていないのに何がわかるのか?というところ。

エビデンスが、研究結果が、とかいうけど、同じ家族背景で対象患者をリクルートすることなどできない。ここに抱えている呪いは程度も種類も違う。

そんな精神を病んだってだけで十把ひとからげに集めてきて、この薬使ったら効きました!とか言ってるのを聞くと、本当かよ?と思う。

担当医がちゃんと診察の過程で、背負わなくていい自分の荷物を下ろすのを手伝ってくれたから回復したのかもしれない。

あるいは、他人との出会いで、自分に気づきを与えてもらって、捉え方が変わった結果、そんなに悩まなくて済む状態になったのかもしれない。

人生の長い長い期間で、ほんの一瞬、よくなったからと言って、本当に効果があったといえるだろうか。

精神領域の実臨床というのは、それこそオーダーメイドである。

他人がポッと現れてちょっと見て「とりあえず今こんな感じだからこの病気だよね」と勝手にレッテルを貼って薬だしときゃ治るなら、そもそも苦労しない。

それぞれの物語に自分自身が向き合っていく手助けくらいしか、他人にはできない。治すとか治さないではない。その人自身にしか、その人を変えることはできない。

そのあたりに簡単に介入できる、と思っている時点で疑わしいことこの上ない。

 

水槽(アクアリウム)問題

中にいる魚って、魚単体が病気になるんじゃなくて、水槽全体が病気をつくるんだよ。

魚単体の話をしてもしょうがないんだよ。これが、患者単体の話、心を病んでいる人単体の話にしてはいけないっていうやつ。

もう結局そこって環境じゃないですか?って話。

 

結局、この社会でそこそこ良い位置にいるような人間が、心を病んでいる人の健全な心をわかるはずがないのである。

この社会でそこそこ良い位置にいるということは、この行政官僚制のバトルロワイヤルで生き残ってきた、「勝ち組という狂人類」のカテゴリにいる人だからだ。

狂っている人に、狂っていない人の気持ちがわかるはずがない。

そんな狂人たちに支配されているこの社会は、もう完全に終わっている。

 

この国のな、なんで心を病むかっていったら、だいたい1%の勝者と99%の負け犬っていうシステムになってんの。

「野球やりたい!」っつったときに全員がイチローになれないの。「そういうふうになったら良いなと思ってました」っていうひとたちがほとんどの国なのこの国は。

だからそこで夢を語るとかいうのが、まずそこでちょっとおかしいんだよ。

 

誰かが富めば、誰かが貧しくなる。

他人の幸せは自分の不幸になるシステムになっている。

そんな救われないシステムのなかで夢を抱いて前に進めと言われたって、そんなの無理に決まってるじゃないの。

もう『カイジ』の利根川さんみたいな人ばっかりである。

勝たなきゃゴミだとか言われて、それが正論で、そんな世の中で生きていて楽しいわけがない。

 

学校という地獄

学校ってさ、異常なシステムだと思うんだよ。

家庭でスターウォーズやって、学校でバトルロワイヤルやって、もう戦争から戦争ですわ。そんな毎日を送って「学校行きたくない」って言うに決まってるべ。

 

学校というのは、地獄である。

いきなり年齢が同じだから、と箱にぶち込まれて、そのなかでバトルロワイヤルをやらされる。そういう空間である。

成績・ルックス・運動能力。

そういう薄っぺらい限られた価値観で相対的に互いを評価しあい、1%のリア充と99%の有象無象に分けられるトラウマを製造する。1%のエリートも、金という虚しい紙きれを追い求める悲しい怪物として使い倒せるように型にはめられていく。

まさに蟲毒である。

お互いを敵として、モノとして認識させ、コントロールしやすい歯車を生み出すための奴隷養成所。それが学校である。

そんなとこ、行きたくなるわけがない。

行きたくなくなるのが普通だ。行けているほうが狂っている。

だけど、不登校というと、なんだか道から外れたダメな子だとか言われる。

逆だ。

まともだから、不登校になるんだ。感性がまだ死んでいないから、しんどくなれるんだ。

だから、私は子どもに学校なんてどうしても行きたくないなら行かなくてもいいからね、と言っている。

 

学校ってなんで…話の下手なね、公務員のね、つまらない話をね、1日6時間も聞かなきゃいけないのっていう、この苦行。

俺の若い時代を返せと言いたい。だって時計しか見てなかったもん。「終わんないかなー」しか考えないでしょそんなもん。そうでしょ?

なんでで12時になったら嬉しいの?おかしくない?1日の半分が終わっちゃうのに。

つまんないからだよ!つまんないから!

くそみたいな授業受けるから、学問っていうのがつまんなくなっちゃって、「学校つまんない」=「学問つまんない」っていってしまった人たちのなんと多いことか。

 

一生懸命授業の準備してくれていたんだと思うんだけど、申し訳ないけど、先生という人種の話は基本的にとてもつまらない。

教師は社会にまともに出ずに教師になることが多い。

教育学部で実習して、そのまま学校に公務員として就職して、民間で働いた経験がないので、社会でいろいろな人と話をしていろんな人がいるんだなということに触れる機会もない。

ずっと「学校」という異常なシステムの箱庭のなかにいた人間が、社会を語ることそのものが困難だ。だから仕方がないと思う。

 

実際、社会で不条理や苦渋を味わってから古典哲学に触れて、ハマりまくっている。

学問はこんなに面白いのか、と思う。

私が学校でやっていたことは、狂った異常なシステムで表向き正しいとされているノウハウだとか、受験というゲームを攻略するために必要な暗記方法だとか、そんな些末な似非学問であって、学問じゃなかった。

学問とは、生きることのど真ん中にあり、それは「学校」で机に座っているだけでは絶対に教わることができないものだった。

なのに、人生の大半を机にかじりつき続けてきた人が学問を語る。

もはやコントである。

 

生き延びて逃げろ

今どうしたらいいかっていうと「逃げろ」「生き延びて逃げろ」ってこと。

今はまだわかんないんだよ、でもこの先には巨大なカタストロフ(壮大な破滅)が待ってますから。一気に壊れるからバーッていろんなことが。

そうするとまた「空き地(フロンティア)」できるから。っていうことの繰り返しなんで歴史って。

だから、そのときまで「なんとか生き永らえろ」って話なの。

 

早く破滅してほしいな、と思う。

世の中が全部完全に壊れて、今までの価値観なんて木っ端みじんになってほしい。

言っちゃ悪いけど、だんだんとみんな気づいてきていると思うけど、もうこの社会はもうダメなんだ。

今はまだ外向きのカタチを保ってはいるけど、中身がもうスッカラカンの張りぼて社会だ。

だからそんな社会に否定されたって、気にするな。

頭おかしなやつがなんか言ってんな、って聞き流しておけばいい。

学校に馴染めなくても、一向にかまわない。むしろそのほうがいい。

変に周りをキョロキョロみて怯えながら空気を読んで、合わせようとしなくていい。どんどんクズになっていくだけだから。

不登校でもいい。むしろ行きたくないと言えてお前は偉い!と言いたい。私は親に洗脳されていたので、行きたくないという本心を握り潰してしまった。私よりもみんなのほうが優秀だ。誇るべきことだ。

おそらく苦労はあるだろう。

学歴がないことで、金が稼げないことで、今は不遇の時期を過ごすかもしれない。

しかし、全てが終わったとき、メンヘラこそが世界を再構築できる救世主でもある。

それまで、ともに狂人の圧政から逃げて、生き永らえよう。

 

【共依存】モノとして生きる空虚さについて

上司というか、職場の過干渉がきつい。

めっちゃうざい。

電話するのも嫌だし顔を見るのも嫌になってきた。

いよいよやばい。

 

結論としては、他人は変えられないので、自分の行動をどう変えるか、しかない。

極力接点を減らすこと。

仕事だけの関係だと割り切って、淡々と接すること。

できるだけ意識を割かず、『時間管理のマトリックス(4象限)』でいうところの第二領域=重要だけど緊急じゃない自分がやりたい行動に意識のキャパを割くこと。

それを徹底する。それ以外にできることはない。

 

ワーカーホリックの男というのは、仕事で褒められることに固執する。

これは、アイデンティティを、個として置くことができず、「社会的役割の商品価値」に置くからだ。

仕事で認められることが、唯一の生きていていい理由だからだ。

そう考えると、哀しい生き物なのである。

 

何を隠そう、私もそういう時期があった。

自分に自信がない。生きていていい確証がない。

「自分がどう生きたいか」ではなく「他人の目からどう見えるか」で生きている。

自分が嫌いで、ありのままの自分を肯定することができない。

自分のなかに輝く大事なものが何もない。

だからその空虚感を埋めるために承認を求める。

 

安野モヨコ先生の『後ハッピーマニア』の主人公、シゲカヨと同じだ。

「女の目」からどう見えるか、そのための結婚、そのための恋愛、そのための自分。

自分そのものを好きじゃない。だからそんな自分を好きな相手も愛せない。だから愛されていても愛し合えない。相互的な愛の交換ができないので、結局は関係は続かないし、本当に欲しいものはいつまでも手に入らない。

 

さびしさ。

さびしさを埋めるために男を道具として見てしまう。

だから、自分も商品である「モノ」として自覚してしまう。

だから「女」としての商品価値で自分を語る。しかも相対的に。

人間を人間として見ていない。自分も他人も。

だから限りなく承認を求めても、それは自分自身ではなくモノとしての自分なので、モノとして商品価値がなくなれば消失する承認をいくら両手いっぱい抱えきれないくらい集めても、決して満たされることはない。

形式的・物質的なハッピーをマニアのように集めても、それに「幸せ」は入っていない。

己のなかにしか、幸せは探すことができないのに。

そんな苦しみを生々しく描いている作品である。

 

そもそも、岡本太郎先生に言わせれば、幸せなんてものは、嘘っぱちだ。

自分がモノとして大切にされているのであっても、愛されていると勘違いできる、そういう突き詰めて考えない鈍い人が「幸せ」を偽っているだけ。

自分が自分として生きる。その過程で歓喜を味わう。今までのつらさが吹っ飛ぶくらい心が揺さぶられる瞬間に出会えば、この人生をもう一度生きてもいい、いや生きたいと思える。ニーチェのいう永遠回帰である。

それこそ「自己肯定感」というやつである。

自分のココが長所だから良いとか、これができるとかあれができるとかではない。それはモノとしての市場価値に過ぎない。

良いところも悪いところも、自分の人生の運不運も、まるっとすべてひっくるめて肯定できる。それが自己肯定感だ。生そのものの肯定だ。

 

そこまでいくと、結果はどうでもよくなる。

どういう結果であっても、自分のやりたいようにやること、自分の内なる声にしたがって素直に行動したかどうかが全てであって、何かを集めることには執着しなくなる。

他人のなかの自分の印象もそうだし、仕事の結果もそうだし、お金の多い少ないもそう。

結局は自分そのものの外側にある「概念」でしかないからだ。

外側に価値を置く限り本当の自分に価値を認めることはできないので、大して力を割くほどでもない副次評価項目が「結果」である。

 

そんなさびしさゆえの結果への執着。

そのノリを押し付けられると、げんなりする。

結果を出すことが正しいという信仰を持っているし、寂寥感・空虚感ゆえにそれに固執するのも分かる。自分もそうだったから。

しかし、いま改めて他人を通じて過去の自分を認識し、これほどウザかったのか…と愕然とする。黒歴史である。

仕事という興味のないMMORPGのギルドに無理やり入れられて、毎日「ログインしろ」「アレを集めてこい」「なんで同じ情熱でやらないんだ」って責められてやらされているような感じだ。

いや、ゲームだし。所詮ゲーム。これ本筋の人生のサブだし。どれぐらい一生懸命やるかどうかは個人の自由じゃん。押し付けないでくれます?って感じである。

資本主義社会はその「仕事ゲーム」に夢中になることを全力で肯定している。計算可能性・投資可能性・合理性を担保するために、人間は人間らしく不条理でいてもらっては困るからだ。

歯車のように、機械のように、予想できる欲望に支配されて行動してくれなくては、予測できないから。結局、社会全体がコントロール欲求に支配されているので、その社会という水槽で生きている私たちは病むに決まっているのだ。

この水槽の宗教と、私個人の価値観との乖離がとんでもなく大きすぎて、辟易としている、といったところなのだろう。

 

仕事ゲームを人生の中心に据えている人にとって、あるいはこの現代社会の価値観に照らし合わせると、結果なんてどうでもよいとコントロールを手放した私は「やる気がない」「仕事ができない」「優秀じゃない」「存在が我慢ならない、なんとかして思い通りに動かそうとしたくなる」そういう存在なのだろう。

さびしさを抱える人が仕事で偽りの自己肯定感を得るための比較対象として、格好の餌食になる立ち位置である。

比較して「俺のほうが優秀だ」「俺のほうががんばってる」「俺のほうができてる」と感じるために最適な比較材料として、つまり「モノ」として利用しようとする。

でも私はモノではないので、そういう材料として扱われるのは不快だから距離を取るだけだし、私が思う通りに動くので、他人のコントロール欲求を満たすために動くことはない。

そうなると「なんで思い通りに動かないんだ?!」とフラストレーションがたまり、責めたり罰したりし始める。

 

本当にウザい。しらんがな。好きなもの同士で勝手にやっといてくれよ。

たしかに江戸時代の五人組のように、組織はチームで動いているので、組織に従わないで好き勝手やっている人間には、ルサンチマンの負の圧力を発生し同僚がボコボコにするようにできている。特に日本は同調圧力が強い水槽なので、居心地が悪くなるのは当たり前っちゃ当たり前だ。

徒党を組むことがないスイミーのようなもんだ。

 

この濁り切った水槽で光を探すためには、のらりくらりと共依存的に関わってくるイネイブラーの同僚を躱しつつ、セルフケアで自分自身をご機嫌にしていくしかない。

とにかく光に集中すること。

しかし、困ったことに私は興味がなくなるととことん興味がなくなるので、最近仕事に興味がなくなり過ぎてタスクを綺麗に忘却することがある。これには本当に困っている。

上司が過干渉すればするほど、興味を消失していく。そして仕事が進まなくなる。

私を最も効果的に動かしたいのなら、最も良いのは放っておくことなのだが、結果をコントロールすることへの不安と恐れに苛まれているので、それは同僚たちにはできない。管理して強制しないと気が済まない。

無力を認めてくれるまでには、まだ時間がかかりそうだ。

憂鬱だけど、私は私として生きることしかできないので、のらりくらりとやらせてもらおう。