【雑談】結婚はしてもしなくてもいい(男女それぞれの勘違い)

未婚率を年齢(5歳階級)別にみると、2015(平成27)年は、例えば、30~34歳では、男性はおよそ2人に1人(47.1%)、女性はおよそ3人に1人(34.6%)が未婚であり、35~39歳では、男性はおよそ3人に1人(35.0%)、女性はおよそ4人に1人(23.9%)が未婚となっている。長期的にみると未婚率は上昇傾向が続いているが、男性の30~34歳、35~39歳、女性の30~34歳においては、前回調査(2010(平成22)年国勢調査)からおおむね横ばいとなっている。

引用:内閣府HP 内閣府ホーム >  内閣府の政策 >  子ども・子育て本部 > 少子化対策 > 少子化社会対策白書 > 平成30年版 少子化社会対策白書(全体版<HTML形式>) > 第1部 少子化対策の現状(第1章 3)

 

結婚とは、国の洗脳でありビジネスのためのもの

結婚は幸せと直結しない。

なぜなら、国のための制度だから。

1898年に明治民法で家制度が制定された。

なぜか?天皇制の国家制度を定着させるためだ。

家長である世帯主と家族の関係を、天皇と国民の関係性になぞらえて、「天皇は国の家長」という価値観を定着させるため。

戦後の民法改正で家制度は廃止されたが、刷り込まれた価値観はそのまま国民のなかに残存する。

そのため、今なお「結婚して家庭を持つもの」という価値観をぬぐえないのだ。

 

結婚産業の力も大きい。

結婚式は大きなカネが動くので、ビジネスとして旨味がある。婚活イベントや結婚専門雑誌や結婚式場や写真家や飲食業界など様々な利害関係者が存在している。

だから「結婚するのが当然」と社会が認識しているほうが、彼らにとっても都合がいい。

あの手この手で婚期を焦らせる。「結婚適齢期」とか「婚活偏差値(結婚偏差値)」とか、数字で横並びにして劣等感を煽る。「みんなしているのに、自分だけしていないのは変に思われるでは」とこの国が大好きな同調圧力で不安を煽る。

 

こうして、なんとなく「みんながするものだから」と他人の価値観をもとに結婚を選択する。

国がかつて意図した仕組みのための洗脳と、結婚によって儲かるビジネスを終わらせたくない人々に選択させられている。

自分が「したいからする」ことは、少ないのではないだろうか。

 

 

女も男も、どっちも幻想を「待っている」

承認欲求を満たしてくれる白馬の王子様を待っている女

「誰かが見つけて迎えに来てくれる」

そう思って運命の人が自分にアプローチしてくれる日を待っている。

女性は、ルッキズムの呪いで、男性からも同性からも容姿で順位を付けられる苛酷な世界を生きている。

そんな厳しい競争社会のなかで、自分磨きによりをかけ、女としての価値を高める努力を強いられながら、「一生幸せにする」という確約をくれる契約相手が現れるのを待つ地獄。

いつか自分の輝きを見出してくれる異性が現れる、その特別な誰かと一緒になれば幸せになれるという、幻想を信じている。

実は、「幸せ」より「安心」が欲しい。

真の敵は女の目であり、自分の女としてのランキングが平均より下にならないか、知り合いの誰かより下にならないか、それを心底恐れている。

腕によりをかけて女としての自分を高めたと認識すればするほど、その努力と築いてきたプライドに報いるような収入・ルックス・甲斐性がある異性でなくては納得できなくなる。

しかしそんな異性は、この貧困にあえぐ日本において数%であり、すでに契約済みの物件ばかり。

白馬の王子様候補は他に取られてしまったと気づいて、何とか我慢できる程度の相手に妥協する。

しかし、欲しい「安心」は理想より格下の「王子もどき」では得られないので、徐々にストレスを抱えていく。

「妥協して私にふさわしくないにも関わらず結婚相手に選んでやった」という忸怩たる思いがあるので、一挙手一投足が癪に障る。

家事育児ができない、仕事ができない、配慮ができない。できないことばかりが目に付く。

 

 

自分より弱い自分だけのマリア様を待っている男

「女はどうせ相手にしてくれない」

スクールカーストのトラウマを抱えた男の子。それが多くの男性の姿。

バスケ部のキャプテンやテニス部のエースなど、スクールカーストトップの男しか男として認識されない。思春期の多感な時期に、否定され続けた心の傷を抱えて、「女は怖くてめんどくさい生き物だ」と半ばあきらめムードで引いていっている。

それでも、誰かを守って死にたいとどこかで思っている、哀れな生き物。

異性に褒められたい、認められたい。否定され続けた恐れで自分からはもうアプローチする気力はない。だが、自分より弱い、儚げな誰かを求めている。

だから、女性が強いとなると、男はもう出る幕がない。

マウントを食らって正論で論破されようモノなら、もう黙るしかなくなる。

実家のお父さんがしゃべらない静かな存在になっていくのはそのため。

女性と喧嘩するということは、男性にとっては裁判で尋問されるようなものだ。

自動的に女性は判事であり、男性は被告である。過去に遡って過失をひとつひとつ列挙され、人格否定とジャッジが始まる。

判事に1つ口答えすれば、100倍になって返ってくることを知っている。

否定され続けた思春期を経て、もう男性の心はボロボロなので、裁判を戦える心の体力はすでに皆無。

馬鹿で弱いので「とりあえず同意して聞き流しておけば収まる、言い返しても長くなるだけだ」と諦めている。だから、男性を説教して成長させようなどとは、女性は期待しないほうがいい。男は正論で論破しても決して成長しない。殻にこもるだけだ。

このように、弁舌やコミュニケーション能力もさることながら、女性のほうが基本的に生物として男性よりも強い。痛みにも強い。精神力も強い。男性が敵うわけがない。

男性が夢見ている女性像が、そもそも現実の女とはかけ離れているのが問題。

自分を褒めてくれて、優しく包んでくれる優しさを持つマリア様を望んでいる。幻想を待ち望んでいるのは男性も同じ。

そう錯覚して幻想と結婚すると、すぐに現実を突きつけられてまごつく。

生理により毎月ホルモンバランスと激しい闘いを繰り広げる妻。楽屋は戦場である。仕事で疲れて帰ってきても、家庭も戦場。終わりなき戦場めぐりを体験し、こんなはずではなかった、と後悔する。

一緒になった妻は、もうあの頃の可憐でか弱い彼女ではない。

「結婚して・子供ができて妻は変わってしまった」と嘆く男性が多いが、それは男性側が勝手に勘違いしていただけだ。変わってなどいない。元からそうだったのだ。

目の前の女性ではなく、妄想のなかの自分だけのマリア様と結婚した気になった。

だから、女性としても、夫から自分以外の誰かのような期待を持たれて当惑するし、寂しさを感じるようになる。自分を自分として愛してくれていたのではないと思うようになる。

夫は「か弱い守るべき存在」と思い込んで接してくるので、妻である自分を下に見ているように感じる。

 

お互いに「あれ?なんか違う」ということに、結婚してから気づく。

 

どちらも孤独で不安で、病んでいる

女性も、男性も、病んでいる。

どちらも「助けて」と叫んでいる。

溺れながら相手を求め、相手も溺れているので、一緒に足を引っ張りあいながら水底に沈んでいく。そして、さらに深い場所で息もできない孤独と不安にもがき苦しむ。

これが、結婚後うまくいかない夫婦の姿だと思う。

 

自分に欠けた何かを、相手に求める。

それは自然なことだし、自分に無いものを持っているから惹かれる。似た遺伝子をかけ合わせないで子孫を残すために、遺伝子配列が異なる個体を本能的に求めている。

ここで問題なのは「相手の『自分と違う部分』を含めて『人』として尊敬しているか」ということ。

自分に無い部分の補填要員として夫・あるいは妻をリクルートすると、『自分と違う部分』が鼻につく。それは結婚により自由を失う代わりに求めているサービスとは関係がない、不純物だから。

お互いにある種のビジネスで一緒になってしまうと、相手を人として見ていない。所有物として、購入済みの商品として見ている。

それが問題の根本。

自分の生きづらさを他人で埋めようとしない。埋める手段にしない。

自分の生きづらさは自分の課題として引き受けたうえで、相手を人として尊敬するから一緒に生きていきたいと思う。

そういう前提で結婚して一緒に生活するなら、独りでいるよりも人生は実り多いものになると思う。

夫婦間の愚痴、諍い、内に秘めた恨みを感じるたびに、結婚するにあたって前提を間違えて選択している男女がとても多いのではないか、と想像する。

 

結婚はしてもしなくてもいい

結婚は、してもしなくてもいい、そんなに気にする必要のないものだと思う。

他人の目を気にしてするものでは、決してない。

男女とも、同性間でランキングをつけられることに恐怖している。

その恐れから逃れるための「逃げ道」として結婚を手段として使うと、自分の幸せから余計に遠ざかる。

誰かの一番でなくても、私もあなたもそれぞれの世界のなかで一番であることに変わりはない。主人公は自分自身。

私は永らく、同性の親友がいないことにコンプレックスを抱えていた。

他人との関係を深められない、つまらない人間だから、親友ができないのだと思っていた。

それは、相手に特別視されることで、自分が価値ある人間だと思いたかったからだった。

自分自身が自分に価値があると信じられないから、他人の物差しを頼る。それは、他人の目を気にして結婚を急ぐ人と全く同じ思考回路だった。

自分が「こいつは俺にとっての親友だ」と思っていれば、もう親友でよかった。

相手がどれだけ自分を慕っているかは、あまり関係なかった。そのことに気づいた。

つまり、自分が「いない」と思っていただけで、実はそこかしこに居たのだった。

あえて形にしなくても、または相手が証言してくれなくても、自分が信じるならそれは真実であり、他人には否定できない。

だから、親友がいるかいないか、と同じように、伴侶がいるかいないか、はそんなに大きな問題ではない。真の幸せに必要な条件ではない。

そう考えると、結婚しても離婚しても、それは自然なことでもあり、必要かどうかは人それぞれであり、結婚していなくてもしていても、自分の価値には大して影響を与えないという価値観は、素直に受け入れられるようになるだろう。

素直に自由に選択することが、結果的に後悔しない選択をすることに繋がると思う。

【メンタル】生きるのが楽になる!コミュニケーションの2つの大原則(山田玲司)

この内容がすごく大事だったので、文章にまとめてみる。

 

コミュニケーションからは逃げられない

私はASDの特性からか、他人と話すのを苦痛に感じることが多い。

というか、他人に関わるのが結構しんどい。

そういうタイプなので、できればコミュニケーションを避けて生きていきたかった。

それこそ幼稚園の頃などは、とにかく幼稚園が好きではなかった。

なんでこんなよくわからない他人と一緒の空間にいないといけないんだろう…そう思って行きたくないと親に言い、着せられた服を脱いだりしたが、無駄な抵抗だった。

無慈悲にもバスは毎朝きて、暗澹たる気持ちでゆられていた白黒の世界を思い出す。

帰るときは嬉しかった。

何故かヤクルトを飲んでから帰るという風習がある幼稚園で、ヤクルトが配られるときは希望に満ち溢れていた。

やっと帰れる!このくそみたいな空間から、自分の居場所である自宅に帰れる!

そう思って幼稚園にいる時間のなかで、唯一ウキウキした。

小学校も嫌だった。

次第に、この変な集まりには絶対に参加しなくてはならない社会のルールなのだと理解した。

深く絶望した。

他人は必ず存在して、うまく付き合っていかなくてはいけない。

そういうことなのだと悟った。諦めた。

 

そこから私の戦いははじまった。

とにかく他人を模倣して、馴染むように徹底的に努力した。

偽りの関係しか結べない、偽りの人間関係だったが、徐々にコツがつかめてきて、周りから迫害されることはなくなった。

しかし、相変わらず空虚で、接すれば接するほど病んでいった。

もっとうまくやらないといけない。

そうしないと社会で生きていけない。

その危機感はあった。

 

だから、向いていない営業を仕事に選んだのだろう。

ほぼ無意識に、この欠点を補修工事しないことには、人間らしく生きていくことが不可能だと思っていたようだ。

そして地獄のような社会人生活がはじまった。

「空気を読め」「ちょっと想像すればわかるだろ」「相手の立場に立て」

意味不明だった。

今までは勉強とスポーツができていれば、ある程度の処世術になったが、社会人はそうはいかなかった。

より高度なコミュニケーションを要する社会人生活で、私は完全に挫折した。

アルコールで何とか不安をかき消し、頑張り続けた結果、うつになりアルコール依存症になり、ボロボロになった。

 

そんな私は今、ある程度人との関わりを前向きにとらえることができるようになった。

それは、私の病巣の根本に欠けていた「自己受容」を成し得たからだと思う。

ASD・ADHDである自分。アダルトチルドレンである自分。

生きづらさを生む根本的な他人との違いを、問題として認識し、受け容れ、それでも自分には価値があると思えたこと。

それにより「他人に合わせなくてはならない」「うまくやらないといけない」という呪いを祓った。

自分を認めることは、他人を認めることに繋がった。

違ってもいい、間違ってもいい、だから自分も他人も許せる。

そういう到達点にあって、山田玲司先生のおっしゃることは真理だと思った。

 

コミュニケーションの大原則①

「人は変えられない」

相手のためを思ってって言いながら

相手を自分の意のままにコントロールしようとするというのは

近代の病です。

そして人間の傲慢なんですよ。

とんでもない傲慢で 己を知らない

無知の知ってやつですよ。

自分が無知であることが分かってないから

自分が言ってることが正しいと信じて

相手をその考えのもとで変えようとしている。

 

私の親は、私を変えようとしたがった。

私が一人で居ようとすると、無理にでも友達と遊ばせようと外に追い出した。

私が他の子と違うと、悲しげな表情で「なんで他の子と同じようにできないの?」と聞いた。

違うんだからしかたないじゃないか。

そう思っても、そう言っても、違和感があってはダメだと言われた。

これはとてつもなく強い呪いとして、私の幼い心に冷たい楔を打ち込んだ。

「ちあきのためを思って、言っているのよ」

と何度言われたことか。

私のためを思うなら、私のありのままを受け容れてくれさえすればよかった。

最も私を肯定してくれるはずの両親が、私が私のままでいたらダメだと言われたら、立つ瀬がない。もうどこにも居場所がない。

親は、親自身の考えが正しいと信じ込んでいるとき、子どもを否定する。

自分たちのほうが正しいと思い込んで、それを刷り込もうとする。

何と傲慢なことだろう。

子どもだって一人の尊厳ある人間であり、その瞬間に感じることは、その子にとってのゆるぎない真実だ。それを否定してはいけない。そんな権利は、親にも、世界中の誰にもありはしない。

結局、私は私のままだった。全力で偽装と模倣はしたが、本質は変わらない。

人は他人が変えるものではなく、自ら変わろうとするときに変わるものだ。他人が変えようとすることは、そもそも不可能なのだ。

なのに、親は自分の子どもを「教育できる」「育てられる」と思っている。

自分の分身のように勘違いしているので、そういう発想になるのだと思う。

そうやって子供を自分の持ち物のように扱っていると、私のように病んだ子供になる。

 

まずは、自分が正しい、という思い込みを捨てること。

正しいことなんて、この世にありはしない。正しいように見えるだけで、本人が信じる世界が、そのすべてだ。それを書き換えようとするのは、人権侵害であり越権行為だ。

そして、影響を及ぼせるのは自分だけで、自分すらままならない、という事実を受け容れること。

まして、他人をや、である。

自分で自分をコントロールできる、ということすら、傲慢な思い込みで、そんなことはできはしない。

人間というのは、ありとあらゆるこの世のすべてから影響を受けていて、その一部でしかない。

木の葉が木の幹に逆らうことができないように、木の葉の栄養なしに木の幹が太くなることができないように、全は一、一は全である。

 

 

コミュニケーションの大原則②

「デスノート禁止」

自分内憲法によって相手を裁くのが、デスノート理論です。

(自分のなかの)「許せない」が多い人ほど不幸な人生になる。

自分憲法をやめて、自分美学にしなよ。

 

小さい頃から思い知ってきた。自分と他人とは違う、ということを。

価値観も違う。背丈や見た目も違う。育ってきた環境も、目指している場所も違う。

譲れないことも、許せることも違う。

他人とは、別の宇宙で生きているようなものだ。

同じ空間、同じ世界で生きているようで、心が通うように錯覚することはあれど、それぞれの精神世界は完全にシンクロすることはない。

違って元々。そしてそれぞれが美しくて元々。

私は自分の世界を否定されて育ったので、自分の世界を憎み、他人の世界をもっと憎んでいた。

「そんなにお前らが正しいって言うんなら、どんなに素晴らしいもんか見せてみろや」

と思っていた。

否定する気満々なので、見るものすべてが不快で、欠点ばかりに思えた。

それを心のなかで否定するにとどまらず、対外的に攻撃性として内包し続けた。

それを他人に直接ぶつけられないので、反転して自分に殺意が向いた。アルコールを過剰摂取していたようなもの。自傷したり、過食や拒食に陥る人も、同じような感覚なのかな、と思う。

私は私のなかで、他人を決して許しはしなかった。

虐めた人間はフルネームで覚えていて、どこかで会ったらいつか復讐してやろうと思っていたし、何か気に入らないことを言った人間のことを繰り返し思い出していた。

心のなかのデスノートは、たくさんの名前でいっぱいだった。

恨みを抱えて、誰も許せない。「許せない」が飽和状態になり、心を埋め尽くす。

それはそれは生きるのが辛かった。なんてしんどいんだろうと思った。

こんなに嫌な世の中、早く寿命がきて終わりにならないかな、いっそのこと終わらせてしまおうか。

そんな風に思って生きていた。

外への攻撃性を自分に向けた結果、自暴自棄になる。

そのまま外に攻撃性を向けた場合は、わかりやすく逮捕される。

それだけの違いだと思う。

 

つまり、自分の世界を認めさえすれば、他人の世界も許容できる。お互い様だから。

自分の世界を他人に否定され続けて、自分自身も否定するようになると、苦しくなる。

他人は、親も含めて、否定して当たり前だった。違う宇宙だから。

それを私に押し付けたことは、彼らの罪だが、それは彼らもそうされて育ってきた呪いを継承したに過ぎないのだろう。

だから私は親を許すことができた。彼らもまた被害者だから。

ただ、同じ呪いを受け継ぐつもりはないので、私は私をありのまま受け容れる決心をした。

そして私の世界を、他人に押し付けることをしないと誓った。

とはいえ、なかなか難しいもので、他人が私の世界を否定して変えてやろうと干渉してきたとき、境界線を越えてきたことへの怒りでついつい反撃したくなる。

そういうときは「この人は今なお、受け継いだ呪いに苦しんでいるんだな」と思うことだ。

ガンディーは狂信的なヒンズー教原理主義者の凶弾に倒れ暗殺されるとき、薄れゆく意識のなか、自らの額に手を当てた。

これはイスラム教で「あなたを許す」というジェスチャーだった。

つまり、彼は自分の命を奪いにきた相手にすら「それでもあなたを許そう」と思える偉大な人だった。

私はまだまだそんな域には達することはできないが、これが一つの解答だと思う。

 

 

まとめ

①変えられない自分を含めて、人は変わらないということを、それでいいんだと受け容れる。

②心のなかのデスノートを抱えて生きるより、自分も他人も許して生きていくほうが、楽しいし幸せだと理解する。

このふたつで、人生は、今までよりはるかに生きやすくなると思う。

私は遙かに楽になった。生きやすいし、毎日が楽しい。

心の大部分を占めていた怒りや恨みを手放すと、心のなかにゆとりができる。

それではじめて、世界の美しさや自分の心の声が視えてくる。それなしには、自分の世界を愛することなどできはしない。「他人」という負の意識に埋め尽くされているうちは、己を理解しようと耳を澄ます余裕すらないのだから。

仕事においては、呪いを背負いまくっている自称エリートの病人たちが同僚なので、度重なる過干渉に辟易とすることはある。

というか、この世の中はそんな病人ばかりだ。社会そのものの病み方がもはや末期的。そりゃしかたない、この人たち一人一人のせいじゃないよな、と同情する。

しかしまあ、それも含めて変えることはできないし、私の仕事ではない。私は私をご機嫌にすることが唯一他人ができる事なので、「御気の毒様」と思ってあまり触らず流している。流せるようになったのは、成長の証だ。

彼らからしたら「なんでいうことを聞かないんだ」「私が正しい、あんなのはダメだ」と心底受け入れがたいかもしれないが、申し訳ないけど私のなかで違うものは違う。違っていいと思うし、他人が違う世界の理で生きていてもいいと思う。私に押し付けさえしなければ。まあ押し付けてしまう気持ちも分かるので、それも含めて、彼らが思うように生きたらいいと思うよ。

私の世界を受け容れられないのは彼らの心の問題であって、私は私で生きていくほかない。それでベストだから、もうどうしようもない。あきらめてほしい。(笑)

なんだか、そういう最近よく感じることに重なる動画だったので、とても感慨深かった。

 

参考:冒頭にご紹介したまとめ動画の元動画はこちら↓

 

【AC】他人の目が気になってやりたいことができない人へ

ACは特に「他人の目」を気にしやすい。

具体的には、問題でいうところの、以下の太字部分に、悩みを抱えている。

 

機能不全のある家庭で育ったことにより、わたしたちが共通して持っていると思われる特徴

  1. わたしたちは孤立し、人や権威を恐れるようになっていた。
  2. わたしたちは承認を追い求めるようになり、そうしているうちに自分が何であるか分からなくなっていた。
  3. わたしたちは人が怒っていたり、何であれ個人的な批判を耳にしたりすると怯えてしまう。
  4. わたしたちはアルコホーリクになったり、アルコホーリクと結婚したり(両方の場合もある)、あるいはワーカホリックなどの他の強迫的な問題を持つ人を見つけたりして、病んだ「見捨てられ欲求」をみたそうとする。
  5. わたしたちは人生を犠牲者の視点から生きていて、そういう弱さによって恋愛関係や友情関係で人にひきつけられる。
  6. わたしたちは行きすぎた責任感を持っていて、自分のことに気をつかうより他人の心配をする方が簡単にできる。そうすることで例えば、自分の欠点をよく見ないですむ。
  7. わたしたちは人のいいなりにならずに自分の意見を述べると罪悪感を感じる。
  8. わたしたちは刺激に嗜癖するようになっていた。
  9. わたしたちは愛を哀れみと取り違え、自分が “哀れみ” “救える” 人を “愛する” 傾向がある。
  10. わたしたちは悪夢のようだった子ども時代から感情を抑え込んできて、そうするとひどく傷つくので、自分の感情を感じることや表現することが出来なくなっていた(否認)。
  11. わたしたちは自分のことを厳しく裁き、自己評価が非常に低い。
  12. わたしたちはとても依存的になっていて、見捨てられることを怖れ、見捨てられる痛みの感情を経験しないですむように、人との関係が切れないようにするためになら、どんなことでもしようとするほどだ。その痛みの感情は、わたしたちにとって情緒的に不在だった病んだ人たちと、一緒に生きてきたことから受け取ったものだった。
  13. わたしたちは、自ら行動する人ではなく反応する人である。

これは特徴を述べたものであって、非難ではない。

引用:ACA(アダルトチルドレン・アノニマス)>問題

 

結論から言えば、これらの悩みを手放すには、ACの自助グループに参加し、12ステップ・プログラムに取り組む必要がある。

今回は、取り組んだ結果、どんなマインドで生きることができるようになるかについて話していきたい。

 

「自信がないこと」に自信を持つようになる

プライドや自信というのは、自分らしい挑戦の邪魔になる。

そういった余計なものを抱えていると、何かをやろうとするとき、あるいはやりたいとき、「うまくできるかどうか」を気にしてしまう。

うまくできなければ、他人と比べて下手だったら、バカにされるのではないか。

傷つくのではないか。

生まれた恐れが、踏み出そうとする足を止める。

 

たとえばこの世に、自分以外誰もいなければ、どうだろうか。

比較する対象がないので、優劣をつけられる心配はない。

上とか下とか、そんなランキングもない。

そんな状況なら、好きなようにのびのびと、やりたいようにやれるのではないだろうか。

評価されなければ、評価されるために何かをしなくて済む。

 

他人の目がある状況と、無い状況。

いずれも、自分がやりたいようにやったとして、うまくいくかどうかわからないのは、同じだ。

うまくいったか否かすら、見る角度によっては異なる。

つまり、周りがどうであれ、結果はやってみなくてはわからない。

そして、結果は、やってみて初めて得られる。

他人がいるか、いないか、は関係ない。

 

私も、やる前から、あれやこれやと思案して躊躇してしまうことがある。

結果が不安だからだ。

失敗して他人と比べられ、下に見られる痛みを経験したくない。誰もがそうだ。

自信がない。

 

しかし、今まで述べてきたように、自信なんてものは、実はどうでもいい。

そんなもんは必要ない。

 

私と他の人は、同じじゃない。

あらゆる面で、同じではない。

だからそもそも比較することができない。

生まれた環境も、与えられたポテンシャルも、個性も、全てが違う。

世の中でいう上下や優劣というのは、ひとつの角度から無理やり比べてひねり出したものであって、絶対ではない。

私がやったことの結果、というのは、私が行動することで初めて得られる果実であり、それは私以外誰も獲得できない、唯一無二のものだ。

「私」という人間が、行動を起こさなければ、私の現実に影響を及ぼすことはできない。

私の行動ひとつひとつが、私にしかできないこと。

 

それなら、自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。

そんなものを持っているから、やりたいときに、やりたいようにできない。

そもそも私は、そんなになんでもうまくできるわけじゃない。

やってみないと分からないことばかりだったし、すぐにうまくできることなんて、ほとんどなかった。

ポンコツで結構。下手で結構。むしろ下手こそ、なお素晴らしい。

下手だと分かることは喜びだ。

今の自分にできないことがわかるということは、未来の自分にはもっとできる事が増えるかもしれないということだ。自分のなかに可能性を見つけたという、喜び。

 

他人と比較するかどうかは、私が決められる。

他人がどう思うかは、他人の仕事であって、私が気にすることじゃない。他人が他人のために、私のイメージを他人の心のなかでポジショニングしているにすぎない。どうでもいいうえに、私にはどうしようもない。

であれば、そんな自分には関係のない「他人の評価」を気にして、やりたいことを我慢することは、馬鹿馬鹿しい。

実にもったいない。

まだ自分も見たことがない色の絵の具を試したいのに「他の人が変な色と言わないだろうか」とブツブツ言いながらパレットに出す前にためらっているようなものだ。

変か変じゃないかは、私がパレットに出して実際に画用紙に描いてみて、私が決めるのだ。

他人には変な色でも、私にとって綺麗ならそれは綺麗な色だ。

描いてみないと、どんな色かわからない。気に入らない色かどうかもわからない。

わからないことをずっと考えていても、ずっとわからないままだ。

 

新しい色を試すとき、失敗はたくさんある。初めてだからしょうがない。

試したことがたくさんあるから、私は失敗が珍しくないことを知っている。

失敗する自信がある。つまり、自信はない。

自信がないことに、自信を持っている。

 

 

「分かりやすい成功」にあまり価値はない

お金がある。

社会的地位がある。

賞をもらう。世間から認められる。

 

目に見える、他人が与えてくれるもの。

それらは、確かなもののようで、確かじゃない。

だからいくら集めても、いつまでも渇きが癒えない。

 

この地球は、今までもこれからも、ずっと続くだろうか。

残念ながら、地球にも寿命がある。

地球のプレート運動は、地熱をエネルギー源としている。

この地熱は有限であり、地球がある程度冷えてしまうとプレートの運動も止まる。

プレートの運動が止まると、太陽からのフレアで、いずれ地球の大気がはぎとられていき、海水は蒸発し、数10年程度で火星の様な不毛の地と化す。

いずれ地球上のすべての生命は消えてなくなる。

私にいずれ寿命が来るのと同じに、万物にはすべて終わりがある。

そのことを考えると、お金をどれだけため込もうと、どれだけ他人が賞賛しようと、それが永久に残るわけでは無い、ということがわかる。

だから、分かりやすい価値に、そこまで価値はない。

いずれ消えるからだ。

 

では、何が価値あるものなのか。

それは、今存在している「私」という役割を果たすこと。

今という時間を生きる一個の存在として、全力で自分らしく生きることが、自分であることを全うする、ということ。

豆粒のような小さな存在。誰もがそう。だから尊いしかけがえがない。

小さな存在こそが世界を覆い、だからこそ世界が成り立っている。

「今」という時間を構成するために、私もあなたも必要不可欠な存在だということ。

それが最も重要な価値あること。

つまり、存在し、自分らしく生きていることそのものが、真の価値だ。

分かりやすく、褒められる必要もない。認められる必要もない。たくさん稼ぐ必要もない。

それは「価値がある」と自分自身を肯定することができないから必要だと錯覚するだけで、まるっと自分そのものを肯定してしまうと、きれいさっぱり要らなくなる。

つまり、他人がつくった「確からしい証明」は、無くていい。

 

生き死にを越えて追い求めるべきもの

親が子どもに莫大な財産を残したとして、果たしてその子は幸せだろうか。

往々にして、2代目・3代目はその財産を食いつぶしたり、要らぬ贅沢をして、一生を終えていく。その歴史を鑑みるに、金銭的な遺産を引き継ぐことは、およそ幸せとは程遠いのではないかと感じる。

何か金銭的・物質的に価値があるとされるものを残さなければ、我が子は幸せに生きられないだろうか?

自分の子どもの可能性をそんなに軽んじてはいけない。

本人の幸せは、本人にしか決められない。

失敗する経験こそが糧となる。試行錯誤のなかで自らを考え行動し成長していく。生命はいずれの個体もその力を充分に持っている。

自分たちの子どもが、自分で自分の生きる道を探せないわけがない。

「きっとできる」

そう信じて任せることこそ、本当に愛するということではないだろうか。

 

自分で自分の命そのものを肯定できさえすれば、生きること自体を楽しむことができる。

逆にそれが親自身にぽっかり抜けているから、何かを残さないと安心できないし、何か結果にならないと子どもを褒められない。

自分を肯定できないから、子どもを信じられない。

子どもを信じられないから、過干渉して世話を焼き、「あなたの幸せのため」と言って「経験」と「失敗」という果実を横取りして、AC(アダルトチルドレン)という呪いを残す。

自分の人生を楽しめない親が、子どもの人生を楽しくないものにする。

他人へ与えられる唯一のギフトは、自分がご機嫌で、希望に満ちて人生を生きていること。

私たちはそんな姿を、子どもたちに見せられているだろうか。

 

「My life is my message.」

「私の人生が、私のメッセージ」というガンディーの言葉。

親が子供に残せるのは、人生の先輩として楽しんで命を生きている姿。生き様。

だから、お金を稼ぐため、家族のため、と自分に言い聞かせて、やりたくもないことをやらないほうがいい。それは逆に家族のためにならない。

他人に認められるために、人の目にビクビクしながら我慢したり遠慮したりしないほうがいい。

ため息をつきながら嫌々生きる必要はない。

自分の気持ちに素直にのびのびと生きればいい。

他人の目など気にする必要はない。

好きなことを言わせて、好きに評価させておけばいい。それはあなたの価値に1ミリも傷をつけたりしない。

自分のご機嫌をとろう。

それが最も大切にするべきことだ。

「自分のことばかりでいいのか」と他人のことを気にかけるヒマがあるなら、自分自身が人生を最高に楽しくご機嫌で過ごすことだ。

それだけが、他人に与えられる唯一の贈り物だ。

 

こう思えるようになると「他人の目を気にしてやりたいことができない」という悩みは、消えてなくなる。

【仕事】「底辺の仕事ランキング」問題からわかる現代社会の病

このニュースが話題になっていたので、ちょっと書いてみる。

就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

 

「就活の教科書」というサイトに掲載された『【底辺職とは?】底辺の仕事ランキング一覧』という記事が炎上したという話。

引用:「就活の教科書」HP

 

問題のランキング表はこちら。

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

 

なぜこのランキングが生まれ、なぜ人々が反応したのか。

そこから現代社会の病が見えてくる。

 

①資本主義・新自由主義が生む「損得マシーン」の世界

②自己肯定感を失った寄る辺ない心

③共感性・想像力を失う「言葉の自動機械」化

④正義という暴力 現実逃避のための憂さ晴らし

 

この4つに分けて、抱える病について話していきたい。

 

①資本主義・新自由主義が生む「損得マシーン」の世界

経済で社会を構成しよう、というのが資本主義。

できるだけ公的介入を少なくして、自由に競争させることで資本主義経済を最適化しよう、というのが新自由主義。

現代社会は資本主義社会であり、新自由主義社会である。

儲かるか、儲からないか。つまり、損か得か。

そういった合理的な判断をもとに、計算可能性・投資可能性で人がやることを決めるのが、今の社会のルールとなった。

そのルールのもと、人間は「損得マシーン」になっていく。

そうなると、就職活動も結局は「楽して稼げるか」という観点で就職先を選ぶのが、最も合理的という判断にならざるを得ない。

底辺職の特徴について、

(1)肉体労働である

(2)誰でもできる仕事である

(3)同じことの繰り返しであることが多い

—- と解説しており、

デメリットについては、

(1)平均年収が低い

(2)結婚の時に苦労する

(3)体力を消耗する

—- を挙げた。

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

だから、デメリットの箇所のような思考になる。

投資する労力に対して、金銭的なメリットが大きいかどうか、婚活において市場競争力があるか、という「効率」でしか仕事を評価していない。

つまり何もかも「コスパ」で考えてしまうそもそものこの社会における価値判断が、大きく歪んでいるのである。

画一的な価値観を刷り込まれている。その歪んだ思考回路に気づいていないのが、病。

 

②自己肯定感を失った寄る辺ない心

なんで「ランキング」をつくるのか。

なぜそれを人々は嬉々として、あるいは戦々恐々として見に行ってしまうのか。

それは、順位をつけて上か下かを見て、安心したいからだ。

裏を返せば「相対的に他人と比べて上か下か」しか自分を肯定する材料がない、ということだ。

しかも、収入というごく一部の側面での、優劣でしか、自分を測れなくなっているということだ。

元々狩猟採集民族であった人類は、「目標」というものに弱い。

命を繋ぐために100万年以上「目標」を達成してきた私たちの遺伝子には、「目標」を達成しようとする精神神経回路が強烈に組まれている。

なので、競争の勝ち負けに人間の脳は引かれやすくできている。

ゲーム開発者はハマりやすいこの回路に働きかけて、よりゲームにハマってたくさん時間を使ってもらえるように、ゲーム内のランキングという「目標」をあえてつくっている。

本来、自分に合った仕事を誠実に行っていれば、それだけで有意義だと感じられるはずだ。仕事を通じて感謝され、自己実現が叶うのなら、それはその人にとって最良の仕事だといえる。

しかし、そういった自分の内面から湧き上がるような意思を持っていないと、与えられた「目標」に引っ張られる。それが、「お金=収入」という社会が与えた「目標」だ。

他人が考える他人が良しとする他人の為の目標。それに引っ張られて、自分が本当に成し遂げたい目標が無い。

つまり自分がない。空っぽだ。

自分の心から出発するものではないから、いくら他人から賞賛されても、いくら稼げても、その胸のうちは空虚で飢えている。

自己肯定感は、自分が自分として生きる過程でしか育まれない。そして、成功ではなく失敗からしか、実は自分のありのままを肯定するエッセンスは得られない。

失敗しないように、他人に認められるように、と生きていればいるほど、自己肯定感は養われない。

そうやって、空っぽになり穴を抱えた寄る辺ない寂しい心を「ランキング」で慰めるのは、実に空虚な行いだ。

 

③共感性・想像力を失う「言葉の自動機械」化

再びこの引用箇所を読んでみてほしい。

底辺職の特徴について、

(1)肉体労働である

(2)誰でもできる仕事である

(3)同じことの繰り返しであることが多い

—- と解説しており、

引用:就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列…運営会社は削除し「事実関係を確認する」

決定的に、想像力が足りないことに気づくだろう。

たとえば11番目に挙げられた、保育士。

この仕事は、肉体労働という側面だけではない。神経発達症や学習障害をもつ子の療育について専門書を読んで学ぶ必要もあるし、子どもだけでなく親についても学ぶ必要がある、実に専門性を問われる性質を持っている。

誰でもできるわけではない。子どもを複数人同時に見守る、ということは、そう簡単にできる事ではない。子育てをした経験がある人なら、容易に想像できるはずだ。

毎日が同じことの繰り返しであるはずがない。子どもたちは日々成長するし、その子ごとに日によって遊びたい内容も気分も違う。喧嘩が起こる日もあれば、急な体調変化で対応に迫られる日もある。

つまり、この記事を書いた人は、保育士という仕事のリアルを知らない。

なぜリアルを知らないのに底辺の仕事と位置づけたかというと、給与水準・平均的な学歴といった、データでしか仕事を見ていないからだ。

実際に体験したことのない、あるいは体験した人の話を聞いたことすらない、共同身体性を伴わない平坦な言葉や数字だけの情報を鵜吞みにしてしまう思慮の浅さ。これこそが「言葉の自動機械」化であり、問題の本質だ。

 

④正義という暴力 現実逃避のための憂さ晴らし

「職業に貴賎なし」

この正義の名のもとに、問題の記事を書いた人、掲載した会社を断罪するツイートをよく見かけた。

ごもっともだし、正論だ。正論には力がある。

その力を借りて、自らの残虐な嗜虐心を正当化してはいないだろうか。

人間が最も残虐になるのは、悪に染まったときではなく、真偽どうあれ「正義の側に立った」と思ったときだ。

「自分は正しい」という免罪符を手に入れて、正義という名のこん棒で悪とみなしたものの頭を打ちのめす快感に溺れる。

何かの漫画の一コマで有名な一節である。なんだったっけ・・・。

 

言いたいのは、この記事を書いた人と同じ、加害者になっているということ。

正義で他人を叩き殺す快感で、何を忘れたいのか。

それは「うまくいかない自分の現実(リアル)」だ。

自分の仕事の報われなさ、虐げられた記憶で同調し、その憎しみをぶつけることで、憂さを晴らす。そのために、このネタを使っているに過ぎない。

 

「自分はそうはならない」と心のなかで思っている。

それはわからない。私たちは誰もが、何もかも知っているわけではない以上、見えない差別(アンコンシャス・バイアス)で誰を傷つけてもおかしくない。

自分も叩かれる側になる日がくるかもしれない。その想像力にかけている。それは誰もが同じなのかもしれない。

その共感性と想像力の欠如こそ、この社会が抱える問題であり、議論すべきことではないだろうか。

そして、こうした「尊い仕事の給料が低いこと」が解決すべき課題であり、本来目を向けて皆で解決していかなくてはならない問題の本質ではないか。すなわち新自由主義的な社会が構造的に間違っている、それをどうするか、という問題だ。

暴力を暴力で解決しようとするのでは、同じになってしまう。いつまでも形を変えて同じ悲しみが繰り返されるだけ。

 

私が就活生に声をかけるとしたら

この社会は、いずれ崩壊する。

行き過ぎた資本主義が行きつく先は、ごく一部の富裕層による全体主義化だからだ。

99%の人間が不幸になる。そしてその不満が頂点に達したとき、カタストロフが起こる。歴史は繰り返されてきた。

潰える運命のこの社会の常識。それにどれほど価値があるだろうか。

常識はいずれ非常識に裏返る。そのとき私たちは何を寄る辺として立つのだろうか。

 

本当に価値あるものは、自分のなかにしか見いだすことができない。

ランキングなど、ただの低俗な遊び。気にする価値もない。

自分に問いかけよう。

本当に価値があると心から思えることをしよう。それが天職だ。

そして志を同じくする、損得ではなく心で通じ合える仲間を持とう。

金の切れ目が縁の切れ目。金で繋がる縁など、本当の繋がりではない。本当に困ったとき、手を差し伸べられる、手を差し伸べてくれる友人こそ、最も大切にすべきものだ。

経済も社会も崩壊したとき、本当に頼りになるのはそれだけだ。逆に言えば、その繋がりさえあれば、愛で繋がるコミュニティーに属していさえすれば、助け合って生きていける。

 

私が就職活動をしている学生にアドバイスをするとしたら。

 

何度失敗してもいい。まずはやってみること。そうでなくては見えない世界がある。

自分でつかんだ経験と哲学に照らし合わせ、自分の内なる声を聞き、望む道を見出すこと。

その道で出会えた心から尊敬できる仲間を大切にすること。

 

そんなところだろうか。

【雑談】迷走する製薬会社と自殺するMRたち

どことは言わないが、とある大手製薬会社は勘違いをしている。

正直、もうダメだな、と思う。

 

製薬会社が患う病

企業名という看板(ブランド)が、まだ通用すると信じている。

おそらく信じたいのだと思う。

自分たちはすごいんだ、有名企業なんだ、そのブランドでまだ売れるんだ、と。

残念ながらそれは悲しい妄想だ。

今まで主流だった生活習慣病領域や消化器疾患領域で築き上げてきたブランドイメージが、他の疾患領域で通用するかというと、そうではない。

というか、そんなわけがない。

しかも、そのかつては栄華を極めていた(らしいがその当時も二番煎じばかりではなはだ疑問の)時代は、ほぼ金でつくりあげたものだ。

接待OK、派手な講演会OK、ゴルフや懇親会などのイベント参加OK、学会共催や医師会共催なんでも肩代わりOK、東京や大阪や福岡でバンバン研究講演会を開いて飛行機代とホテル代を負担して先生たちに旅行がてら話を聞いてもらって、予算を使いまくれた。

だから、それなりに先生たちも製薬会社と付き合うことに価値(メリット)を見出していた。

MRは「飲み友達」「遊び相手」というポジションで「こいつのためだったら話を聞くか」と思わせるような愛されキャラが売れて、そういう寝技的な営業手法がもてはやされた。すなわち、とことん付き合うこと、できるだけ会うこと、とにかく頑張りを見せること。実に体育会系というか、努力・根性・やる気という私が大嫌いな成分で構成されたエリート意識である。

だから、昔は与えられた予算を使い切らないと仕事してないとまで言われた。期末はみな何とか残予算を0にしたいから「飲みに行きませんか?」と先生を誘いまくった。結果、9月と3月は連日飲み会で二日酔いになりながらヘロヘロで仕事をしていた社員がたくさんいたらしい。完全に飲酒運転じゃん。

そんな時代に一番に評価してもらえたからといって、今、この環境で同じように評価されるわけがない。

なぜなら、金も使えない、飲み友達にもなれない、自分たちの団体に出資すらできない、そんな存在は利用価値(メリット)がないから。

むしろ今までそんな泥臭い部分でしかメリットを提供できていなかったことが問題。

社員たちはみなその問題を薄々分かっていながら、腫れ物に触るように口にしない。

昔の先輩を悪く言って睨まれたくないので、忖度している。過去の人々を否定することは、上司やその上の世代を否定すること。そんなことをする社員は出世できなくなる。

現役社員は、本質的な問題には目を逸らしつつ「自分たちはブランドがある」という幻想を捨てられない旧世代にゴマを擦ってご機嫌取りしている。

現実問題として、今この会社が参入している新しい疾患領域は発足当時ひどかった。MRは素人に毛が生えた程度で、私も含め本当に役に立たなかった。周辺疾患の知識がまるでなく、現場感覚も分かっていない人間の提案を、医師が聞くはずがない。

賢いMRは、その現実を謙虚に受け容れていたので「わからないのでどうか教えてください」のスタンスで最初は製品の紹介などせず、先生方の話をきちんと傾聴した。だから生の知識を得て、提案すべきポイントを踏まえることができたので、売上の立ち上がりは遅かったかもしれないが今後を支える人材として成長した。

でも、残念ながら、現在前者の賢いMRは結構他社に流れてしまったと思う。会社に失望するのも無理はない。当初コントラクトMRとして配属されていた賢いMRも派遣切りのようにして切ってしまった。せっかくの財産を自らみすみす手放すという愚を犯した。

アホなMRは、会社の洗脳をそのまま信じて一生懸命追いかけまわして話しかけた。今まで貢献してこなかった素人がえらそうにデータがデータがと毎日駆け寄ってきたら、そりゃあもうウザくてたまらなかっただろう。先生方は本当にお気の毒様である。

賢いMRが去り、アホなMRばかりが蔓延って幅を利かせているのが今だ。

「あんまりにもしつこすぎるから、ちょっとだけ使ってしばらく黙らせとこう」と少し処方したのを「ほら!やっぱり諦めずにしつこく宣伝するのが大事なんだ!」と小躍りして喜んでいる。真性のアホである。しかしそんなエピソードが成功例として社内プレゼンされる。そしてそれを他のアホがマネする。そうやって「やってます感」をうまく社内で形に残せたMRが社内でポイントを獲得して出世する。つまりアホが出世する。

そして会社の上層部はどんどんアホばかりになっていく。実際そうなっている。

だから、過去の栄光、ブランドイメージが今も通用するなどとおめでたい発想を「偉い人が言うんだから本当なんだ」とかあまり自分の頭で考えず継承してしまうのである。

 

私が社会的意義や医療貢献を主眼に置いて発言したり企画をあげたりすると、マネジメント層は決まってこの言葉を返してくる。

「私たちはNPO法人ではなく、営利企業なので、利益が見込めなくては投資できない」

 

はいはい。株式会社ですもんね。わかるわかる。

なんていうと思っとるんですか。何を寝ぼけているんだ。

 

私たちの製品は公的医療保険で7割~9割を負担してもらっている。つまり税金である。

私たちの医薬品が売れて入るお金は、70~90%が税金ということだ。

それって、ほぼ公務員じゃないの?

ボランティアじゃやれないとかいうけど、そもそもが公益事業でしょうよ。

税金から金もらっといて、自分たちにメリットがなければ何もやりませんって、それはおかしくない?

むしろ公に奉ずるものであって、個人の利益に走っていい財務体系をしていないじゃないの。

売上至上主義を正当化したい理由は、結局、株主である投資家様にもっと稼いでこいって言われてるからでしょ。

株式会社は「もっと金をよこせ」という支配的な株主に逆らえない。でもそれが真の理由だとは言えないので「研究開発に投資するためには売り上げを上げて利益を出さないといけない」とか「営利企業として成長し続けないとみんなを雇用し続けられない」とか言って誤魔化す。

残念ながら、このとある大手製薬会社の配当性向は100%を超えている。これは何を意味するかというと、実力以上に株主配当に回しているということ。その株主配当と高額すぎる役員報酬を含めると、研究開発費と同じくらいの額になる年もあるほど高額になる。

結局、会社をおもちゃにして金を稼ぎたい株主と経営者のために、売上を割いているんじゃない。研究開発費に使ってないじゃない。つまり売上達成の目的は研究開発に投資するためじゃないじゃん。

真実をていよく誤魔化して、建前で塗り固めた大義名分を述べているだけ。

 

木を見て森を見ず

活動方針や行動そのものも、功利主義的というか、自分たちのことしか考えていないようなも戦略がほとんどだ。

「とにかくたくさん処方してもらおう」

考えているのはこれだけだ。

患者さんの為とか社会の為とか、本当は全く考えていない。

建前として毎回口にする「患者さんのため」が、聞くに堪えない。

行動計画の端々から本音がだだ漏れしているのに、いけしゃあしゃあと「患者さんのため」とかいうのを見ているこっちが恥ずかしくなる。

 

世の中にとって必要なサービスと存在であるからこそ組織は存続できるわけで、自分たちの損得しか考えない組織はいずれ滅びる。

まさに滅びの道を全速力で突っ走っているのが、製薬業界じゃないかなと思う。

 

MRは、上司を通じて会社から毎日毎日プレッシャーをかけられ「とにかく計画を達成しないといけない」「そうじゃないとバカにされるし降格されるしクビにされる」と精神的に追い込まれる。

追い込まれた人間は、とにかくその苦しみから逃れようとあの手この手で説得しようと焦る。結果をコントロールしようとする。本来はコントロールできないのに。

当然ながら、処方というのは、医師が決めることだ。

私たちはその判断をサポートをする存在だ。私たちが医師の治療方針をこちらに都合のいいように誘導して変えさせよう、というのは根本的に越権行為であり、過干渉である。アプローチが間違っている。

私たちはあくまで医師と患者さんの困りごとを解決するお手伝いをするために存在していて、そのための一つの方法として自分たちが扱っている医薬品がある。

困りごとに寄り添い、その解決を一緒に考える過程で、医師と患者さんが「これは役に立つ」とご本人が判断して利用する。

その結果、医薬品が役立ち、その副産物として売上が生まれ利益が生まれる。

その間にある最も重要な活動をすっ飛ばして、いきなり自分たちに都合のいい結果を求めるなんて、お粗末すぎる。

例えるなら、とにかく女の子とヤりたいからって会って速攻ホテルに連行しようとする、モテないイモ男みたいな感じ。

 

自分たちに都合のいいデータしか紹介しないのも、話を聞く価値がないと思われる原因。

「自分たちの製品を使ってもらう」という結果有りきなので、必然的に良かったデータしか会社は取り上げないし、自分で調べない社員は会社が教えてくれるデータしか知らない。

そうなると、MRが持っている情報は実に偏った、ご都合主義の代物になる。

そんな情報を、医師が聞きたいと思うだろうか。当然、思うはずがない。

面会してくれている医師でさえ、「はいはい、売りたいから都合のいいデータ持ってきたんでしょ」と思いながら、会社に洗脳されたかわいそうなMRを見るに見かねて、聞いているふりをしているだけだと思う。

コロナを理由に会ってもらえないのは「MRなんてわざわざ会う価値がない」と思われているからだ。コロナのせいではない。ていのいい断り文句として使っているだけ。

医師が信頼するとしたら、同じ目線で現状をとらえ、純粋に力になろうとしてくれる味方だ。

医師は科学者だが人間でもある。自分たちと同じ目線で、より良い未来をつくろうと本気で考え話をする人だから、その人の話を信頼して時間を取ってでも聞きたいと思うんじゃないだろうか。それが人間だと思う。

MRが話を聞いてもらおうと思ったら、まずは目的を根本から見直さなくてはならない。

会う目的はどこにあるのか。売りたいだけなのか、それとも役に立ちたいのか。

医師はたくさんの患者さんを診ているので、人を見るプロでもある。下心で建前だけ並べているような人間は簡単に見抜かれる。

「英語論文なら信じてもらえるかも」などと小手先で説得しようとしてくるようなMRなど、ただただ小賢しい。

しかし、たいていのMRや製薬会社はそんなことはわからない。

あろうことか「医師はプライドが高いからMRを下に見ているので、MRの話を信用しないのだろう」と自分の無能を医師のせいにしている。

何を言っているんだろうか。

自分たちが学歴コンプレックスを抱えているだけじゃないか。

医学部に合格する偏差値がなかった自分たちの歪んだ劣等感を乗り越えられていないので、医師をプライドが高い偏屈で世間知らずの人種だと蔑視してプライドを守る。この傾向は実にずれているし、嘆かわしい。

たしかに、たまにやたらえらそうな態度のデカい先生もいるけど。

医師の世界は学歴バリバリの権威主義社会なので、一定数そういう勘違いしている人が出てくるのも事実。そういう社会の仕組みだから仕方がない。

学歴社会で受験戦争を勝ち抜いた。その成功経験だけがプライドを支えていると、自分を肯定するために学歴や社会的地位で価値を測る人間になってしまう。この社会も、学校という奴隷養成施設で良い子ちゃんでいることを肯定している。お勉強ができて余計な反抗をしない模範的な歯車でいれば大人に褒めてもらえる。

周りの大人の言うことを聞いていれば、偽りの自己肯定感を得られる。

学歴カーストに隷属して褒められることを精神的拠り所にしていると、人間的に成熟することができないまま年を重ね、自信のない傲慢不遜な人間に仕上がる。

そんな残念なタイプの医師にひどいことを言われたりゴミ扱いされたりした経験から、医師への歪んだ敵意が生まれたのかもしれない。虐げられてきた過去は、同情に価すると思う。

でも、そのバイアスで十把一からげに医師全部を色眼鏡で見るのは、どうかと思う。

他人のせいにして、自分が向き合うべき課題とそれに対してできることから逃げているだけ。

特定の医師の価値観が歪んでいるとしたら、それはその人たちの問題である。私たちにはどうしようもない。

売らなきゃいけない、というのはこちらのエゴ。そのエゴが通らないからと、己のチンケなプライドや自尊心を守るために、医師を不当に見下して、MRとしての使命を軽く見た。

その結果が、この惨状だ。

 

最後に

私は、MRは必要な存在だと思う。

ちゃんと副作用情報を収集して集積し、市場を挟まず適切な使い方について科学的な情報を提供するだけで、充分に存在価値がある。

患者さんの状況は千差万別だ。一つ一つの症例に寄り添ってベストな提案ができる薬剤の専門家は、AIやコールセンターだけではできない。

現在同社のコールセンターの質は残念ながら低く、オペレーターは空気が読めない。自分ならもう問い合わせしないだろうな、という応対で医療関係者をイライラさせるので、あとで謝罪に行かなくてはならないほどだ。仕事を増やすの、本当にやめてほしい。

そういう意味でも、独特の感覚と商習慣をもつ医療機関との橋渡しは、経験豊富なMRでなくては、現状務まらないと思う。外注したり、マニュアル人間に任せられるほどこのサービス業は簡単ではない。

でも、製薬会社が今のままなら、MRは要らなくなるし、製薬会社そのものも衰退する未来しかない。

エビデンス主義や西洋医学の論理が絶対ではないことは、最近の感染症にまつわるあれやこれやで詳らかになってきた。わかるひとはわかっている。

エゴから生まれた化合物なんて飲まないし打たないよ、そんなもの。製薬会社がそんな体たらくであり続ける限り、いずれ製薬会社とかかわりを持つことそのものが経営的なリスクになる。医師を信頼できないとして、患者さんのほうが離れていくだろうから。

もう遅いかもしれないけど。

【AC】他人といるだけで疲れてしまう原因とは?

私は他人と一緒にいるだけ、しゃべるだけで、ヘトヘトに疲れる。

そんな人はいないだろうか?

なぜ私は人としゃべるだけで疲れるのか

それは、勝手に自分で自分を傷つけるからだ。

言葉や行動の裏を読もうとする自分の思考に殺されるので、ヘトヘトになる。

たとえば、職場で私が主幹になって進めているプロジェクトに関する作業を、私には連絡がなく進めている同僚がいたとする。

その場合、私の頭のなかには以下のような言葉が浮かんでくる。

上司「あいつは使えないから、他の奴に依頼しよ」

同僚「このくらい気づいておまえがやれよな、余計な仕事増やしやがってよ」

これらは実際に言われているわけではない。

私が勝手に「彼らはそう思っているのではないか」と想像しているだけ。

しかし私の頭はまことしやかに彼らが私を侮辱しているように認識する。

 

それはなぜだろうか。

私が「恐れ」を抱いているからである。

 

いじめられた痛み。嗤われた痛み。受け容れられなかった痛み。

私の心は「もうこれ以上同じ痛みを感じたくない」と痛みを恐れて絶叫する。

パニックを起こして防衛本能から、体験しうる痛みをリスクとしてすぐ想起する。

「傷つくくらいなら自分で自分をあらかじめ刺しておけ」と言わんばかりに、言われるシチュエーションを疑似体験する。いわば、勝手にまだ刺されてもいないのに自傷する。

 

もっと深いところでは、悪く思われるのではないか、嫌われるのではないか、ということを恐れている。

親の顔色を窺って、友達の反応を窺って、びくびくしながら過ごした幼少期。

「暗黙の了解」や「言いたいこと」を「言わなくても察する」。

これがADHD・ASD併存の私はとても苦手だった。

人間はそんなに勇敢ではないので、言葉にできない主張を態度や表情に滲ませる。

そうやって滲ませた主張を全く受け取ってもらえないと、今度は怒りを滲ませる。

そしてそれも汲んでもらえないとなると、怒り出す。

その一連の流れを汲み取れない私は、何度も周囲の人間が「なぜか突然怒り出す」という体験をしてきた。

それは恐ろしかった。

地雷が埋まっている一見問題なさそうな道をずっと進んでいるような感覚だった。

だから、一挙手一投足を観察してあれやこれやと「気分を損ねていないか」検索する癖がついている。

そして、滲ませた何かを拾えなかった結果怒り出した過去の人たちの亡霊が、私の脳内で「気分を損ねたパターンの発言」としてインストールされた。

生き抜くためのご機嫌取りの呪いにかかっている。

だから、他人といるだけで徐々に擦り減り、しんどくなる。

 

他人の本音はわからない

「本人に素直に聞けばいいじゃない」

たしかにそうだ、と聞いてみると、

「そんなつもりはないよ、ハハハ」と返されたとしよう。

それが嘘か本当か。

それは本人にしかわからない。

つまり、どう答えられたとしても他人である私に真実は分からない。

つまり、コントロールすることもできないし、確認することもできない領域、アンタッチャブルだ。

ならば、相手の心理と言動というのは、実は結局「自分がどう受け取るか」によって決定される。

私は今までインストールされた呪いによって「悪意」という本音が隠されている前提で受け取っている。

ならば「善意」が本音だという前提で受け取るように書き換えればいい。

真実はどうだかわからないが、私の現実は私が決められる、ということだ。

 

 

「他人の本音は善意だ」と捉える生存戦略

「深く考えない」という技術は、私にとってとても重要で、発達の特性上最も難しい。

しかし、幸せに人生を送るうえでとても重要な感性として「鈍感さ」があるように思う。

 

ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』をご存じだろうか。

主人公のチャーリイ・ゴードン。

知的障害を抱えており6歳児程度の知能しかない彼は、パン屋で地道に働きながら、障害者向け学習クラスに通っている優しい32歳だが、障害にコンプレックスを抱えていた。

ある時、学習クラスの担任アリスは、大学のつてでニーマー教授、ストラウス博士を彼に紹介する。2人は知能発達に関する研究者で、チャーリイを最新の脳手術の臨床試験にリクルートしようと考える。

脳手術の動物実験によって賢くなったハツカネズミ「アルジャーノン」に感動した彼は、脳手術を承諾。実験によって彼はみるみる頭が良くなり、後天的天才になる。

「もっと賢くなれば」、そのコンプレックスを解決できると思っていた彼は、まさに望んでいた現実を手に入れるのだが、それはいいことばかりではなかった、というお話。

 

チャーリイが、今まで優しいと思っていた周囲の人の笑顔は、知能が低い自分をバカにして嘲笑する笑顔だった、と気づくというエピソードはまさに象徴的。

深く考えず、純粋に他人のことを「いいひとたち」だと信じていたころのほうが、彼の世界は優しさにあふれた幸せな世界だった。

結局本作では「偽り」だったわけだが、現実では先に述べたように「本当のところは知り様がない」。

ブラックボックスの中身を「良いもの」か「悪いもの」か決めるとしたら、チャーリイのエピソードから考えると、「良いもの」と決めてしまったほうが、世界は愛すべきものになる。

 

自分をありのまま肯定すれば世界は裏返る

信仰といってもいいだろう。

相対している他人の性質は善か悪か。そのどちらを信じるか。

善だと信じる人と悪と信じる人の違いは、自分を肯定しているかどうかだ。

前提に自己肯定感があると、そんな「私」を他人が悪く思う可能性をまずはあまり考えない。

そして、自分で自分を肯定しているので、他人に肯定される必要がない。だから、もし悪意があったと分かっても「あなたの問題」「あなたはそうなんだね、私は私を好きだけど」と「例外」として自己評価から切り離すことができる。

前提に自己否定があると、自分を他人が悪く思うのは当然だと受け容れてしまう。

歪んだ自己評価を補強する「客観的事実」として受け取るので、傷つく。他人を、自分のなかの自分をさらに下げてくる外敵として認識する。その結果、恐れるし敵意を持つし恨みも抱く。

実は他人が嫌いなのではなく、自分が嫌いなのだ。

受け容れてくれない他人ではなく、自分を受け容れられない自分の問題。

 

私は空気が読めない。

他人の心情を想像するのが苦手だ。チャーリイが知的障害を抱えているのと同じに。

そんな自分を、欠点も含めて受け容れる。

誰しも、何かが欠けている。一人では生きていけない。だから社会がある。

「もっと空気を読めれば」

「もっと賢ければ」

それは自己否定だ。欠けているから自分なのに、それを必死に埋めようとして、結果的に世界を敵に回すのだ。本当はもっと世界に繋がりたくて、さびしいから、やっていたのに。

つまり、アプローチが根本的に間違っているということだ。

まずは、自分の至らないところ、良いところ、それをあるがままに、それで充分100点満点だと思おう。

私が私のままで愛すべき存在であるように、これを読んでくれている皆さんも、そのままで愛すべき価値がある存在だ。

それを実感として与えてくれる「母親」が、たまたま不在だっただけ。

よく、そんな大きな喪失を抱えて、ここまで生きてきた。

それだけで、その人生が、あなたを肯定している。

苦しくて寂しいけれど、できるだけそれを何とかしたいと思って、一生懸命生きてきた。

あなたがあなたとして生きてきた証が、あなたを愛すべき存在であると実証している。

 

自分で自分をいじめるのは、もうやめよう。

チャーリイが、アルジャーノンに花束を贈ったように、自分自身に花束を。

【仕事】デキる上司ほど部下を潰す!:山田玲司先生直伝 自分を守る「4つの作戦」

この世の悩みは「人間関係」だと言い切ったのは、心理学者アルフレッド・アドラーだが、職場の悩みの原因もだいたいは「人間関係」だと言われている。

人間関係というかコミュニケーションの問題かもしれない。

 

やばい上司

人は、誰しも苦しくなると、過去の成功体験を支えにするものだ。

自分は他人よりも優秀だ、と考えている人ほど、過去の栄光に固執する。

「自分はこうやってうまくいって、今の立場がある。だから正しい。」と思いたい。

思いたいのは勝手だ。だが、それを他人に押し付けてはいけない。

でも押し付けちゃう上司ってほんと多いよね。

 

デキる人というのは、出来ない人がなんでできないかわからない。

原因や理屈を頭で理解しても、その心情までつぶさにその感覚に身を寄せることはできない。自分ではその挫折感や屈辱感を経験することができないからだ。

誰でも自分にできることが、相手にもできると思ってしまいがちで、デキる人は「自分にできるんだから頑張ればできる」と短絡的に思考してしまうことがある。

そう簡単にはできない人もいて、できる能力がたまたまあっただけなのに、それを「なまけている」「やる気がない」「根性がない」とその人の気持ちの問題だと思ってしまう。

ここに、大きなコミュニケーションにおける問題が発生する。

上司は「できるのにやらない」と思って不信感を募らせる。

かたや部下は「正しいのは分かるけどできない」だけなのに、今までの努力や熱意を全否定されたように感じて、次第に鬱屈していく。

あるいは、上司が過去の成功体験を引っ張り出してきて、前時代的だったり背景が違ったりして通用しないにも関わらず信仰していて押し付けてしまう。

部下は「こんなんうまくいくわけないじゃん」と思いながらも実績と経験がまだ少ないことを理由に拒否できず、やる気を失う。

 

やたら世話を焼き、手取り足取り細部まで管理したがるリーダーもやばい。

このダンゴムシのようなもの。

「自分の言う通りにすればうまくいくんだ」とやり方から過ごし方までマイクロマネジメントをして、部下を言う通りに動かそうとする行為は、虫をいじくりまわして意図せず殺してしまう幼児と同じだ。

あくまでも、本人の自主性が最も大切な原動力であり、尊重すべき個性なのに、それを否定されて道具のように扱われたら、人の心は簡単に死ぬ。

 

 

上に立って部下を育てるとき役立つのは、失敗した経験である。

部下はかつて成功した再現性のない武勇伝より、尊敬する上司の生々しい失敗経験のほうが、よっぽど聞きたいし、よっぽど勇気をもらえる。自分もがんばろう、と思える。

だから、本当に頑張ってできなかったことができるようになった人が、上司に最もふさわしい。

しかし、この資本主義経済社会では、負けたら終わりのルールなので、基本的に減点がたくさんついた人間は、出世しないようにできている。

結果として、あまり失敗を経験できなかった、保守的でリスク回避がうまいだけの、薄っぺらい人間が上に立つことになる。

ぶっちゃけ、システムとして、クズだけが上に行くようにできている。

だから上司にクズが多いのは当たり前のことなのだ。とんでもないブラック社会である。

 

上司の3要件として「ご機嫌でいる」「愚痴らない」「威張らない」というのがある。

「この3つができないなら人の上に立つ資格はない」とまで漫画家の山田玲司先生はいう。

 

今まで働きやすい環境を整えてくれて、人間的にも尊敬できる上司は、本当にこんな感じだ。

反対意見は逆に面白がるし、真剣かつ謙虚に耳を傾ける。

『貞観政要』で李世民が魏徴の率直な意見を兼聴することを忘れなかったように、優秀なリーダーはきちんとそこを踏まえている。

 

 

それに、会議でもなんでも、せっかくなら参加しているメンバーに楽しく参加してもらおうと態度だけでも明るくする。

そして、権力を振りかざすことを決してしない。

この世は、その逆をやっているマネージャーが多数派だと思う。

 

上司(他人)は変えられない

いつも不機嫌で愚痴ばかりで威張り散らすような上司と一緒に仕事をするのは、地獄でしかない。しかしそういう人がほとんど。

ではどうするか?

 

基本的に、合わないところにいてはいけない。

人というのは、合わない場所・合わない文化・合わない集団にいるだけで、疲れ果ててしまうものなので、基本的に向いている居場所で生きていくのが一番だ。

さっさと転職しよう。あるいは、上司がいない働き方を求めて独立しよう。

 

というのがベストだが、言うは易く行うは難し。なかなかハードルが高い。

 

つらいところなのが、他人である上司に何とか変わってもらおうというのは、現実問題難しいということだ。

なぜなら、上司は上司なりに人生を歩んできて、そのバックボーンがあってのその人なのであって、私に私の物語があり信念があるように、上司にもそれがあるのが当たり前だからだ。

そのバックボーンをタイムリープして変えることなどできないし、その人にはその人のやり方があり生き方があり意志がある。

それは私が私を尊重してほしいのと同じように、彼らも尊重してあげるべきなのだ。

変わろうとすることは、その人にしか決められない。変化は変わろうと自発的に思ったときにしか起こりえない。

私がコントロールできる範疇の外にある。変えられないものなので、そこはどうしようもない。

 

今すぐできる!山田玲司先生直伝の「4つの作戦」

だから、変えられるとしたら自分のほうだ。

「なんで?!私は間違ってないのに変わらないといけないの!?」と憤ったそこの貴方。

大丈夫。安心してほしい。

あなたそのもの、あなたの生き方や信念を捻じ曲げる必要はない。

それぞれに粛々と生きたいように生きればいいだけで、あなたは上司の納得できないやり方に首を縦に振る必要もないし、跪く必要もない。

じゃあどんなふうに振舞ったらいいの?ということで、4つの作戦を紹介したい。

 

①妖怪ウォッチ作戦

人間ではない「妖怪」だと思って接しよう。

同じ人間だと思うからしんどくなるわけで、年取ったジバニャンがなんか言ってるなー、変わってんなー、と思って聞き流すと、結構気が楽になる。

 

②主治医作戦

私もたいがい精神を病んでいるが、基本的にビジネスに携わっている人というのは、多かれ少なかれ精神を病んでいる。

ワーワーとまくしたてたり、意味不明な行動をしたりしている上司を、「患者さん」だと思って接してみる。

「はいはい、患者さんこっちですよ、今日はどうしたんですか?」と、主治医になった気持ちで耳を傾けてあげる。精神を病んでいる人のカウンセリングだと思えば、時間を浪費するというより、時給をもらいながら精神療法をしている感覚になるので、イライラしづらくなる。

でもこれは、比較的余裕があるときにしたほうがいい。

上司が「今、俺の話、部下に伝わってる!」と勘違いをしてやる気を出し、わりと終わらせるのに時間がかかることがある。しかしガス抜きさせてあげるのには得策。

③動物園の園長作戦

これは①に似てますが、さまざまな上司がそれぞれに狂っている場合に使う。

動物園で日々様々な獣のお世話をするような気持ちで接する方法だ。

無意味なうえに荒れて長引いている会議中など、とても有用。

「よしよし、今日もみんな元気に吠えてるな」と思って数歩引いてみてみると、頭に血が上ることもない。

④悲しみのバックストーリー政策委員会作戦

これは、思いがけず傷つくことを上司から言われたときに実行する。

「この人は、なんでこんな部下を悲ませるようなことを言うようになってしまったんだろうか」と考えを巡らせてみる。

たとえば、誰かより上だとか下だとか、誰のほうがすごいとかダメだとか、相対的な価値観に引っ張られる上司の場合、だいたい親から成績で他の子と比べられ続けてきた幼少期を過ごしていたり、他人にマウントを取られてとんでもないトラウマを抱えていたりしている。

「そうかそうか、ちっちゃい頃につらいことがあって、そのせいで病んでしまったんだね・・・」と思うと、なんとなくその人の人生の不幸に同情して受け流すことができる。

他人に何かを言われたとき、自分が否定されたと感じているから痛みを感じる。

しかし、指摘されたことに学ぶべきものがない限り、その発言はえてして他人の問題の表面化に過ぎない。

つまり、上司が自分にひどい言葉を投げかけるのは、自分に非があるのではない場合、たいてい上司の人生の問題なので、基本的に自分には関係ないことで、そんな言葉であなたの価値は傷つかないのである。

だから、「(あなたのなかでは)そうなんですか、気を付けます」とでも言って憐れんでおけばよい。

 

まとめ

正直今の上司は本当に困ったちゃんで、結構疲れる。

そんななか、われらが山田玲司先生が、とってもわかりやすく問題解決について語ってくれていたので、まとめてみた。

4つの作戦を実際に実践してみた結果、とてもストレスがなくなったしなんだか優しい気持ちになれるので、おすすめしたいと思った。

いろんなひとがいて、いろんな傷を抱えて生きている。

所詮金を稼ぐための仕事なんてゲームなので、気楽にいこうではないか。

自分の情熱を傾けて作品をつくったり、何かを育てたり、大切な人を大切にしてご機嫌に過ごすことのほうが、人生においては仕事の何億倍も大事なので、つまらないサブクエストで死にたくならないように、一緒にのんびりいこう。

 

【仕事】「仕事に行きたくない」「毎日が虚しい」「朝がくるのが憂鬱」

こんなふうに感じること、ない?

 

仕事をしていて思うのは「お金のため」に仕事をしている人ばかりだ、ということだ。

「社会のため」でもなく「自分のため」ですらなく、ただ「お金のため」。

稼ぐのに、効率がいいから、利回りがいいから、そんな理由で行動が選択されていて、そこには自分も他人も無い。

たとえば、今勤務している会社の社宅の賃貸契約をする代行業者がいる。

社宅の入退去時にやり取りするのだが、まぁ他人事でやる気がない。

彼らは不動産のプロのはずだ。プロとして契約し中抜きして収入を得るからには、入居者と大家や管理会社の仲介役として、何らかのバリューを生むべく存在していると私は思いたい。

しかしやり取りしている背後から聞こえてくるのは「面倒なことにはタッチしません」「私には責任ないです」「楽して適当に終わらせたいです」という、心の声。

私たちに価値を提供しようとは思っていない。私たちがどこに住んでどうなろうが、大家がどう思おうが、リスクを負わされて面倒なことになりさえしなければ、心底どうでもいいというのが伝わってくる。

本当にイライラする。いや、イライラするというより哀しくなる。

あんたら、そんなんでいいの?なんのためにそこにいるの?何のために今生きてるの?できるだけ効率的に金さえもらえれば、携わった人が困っていたってどうでもいいのかい?それが自分や自分の大切な人なら、同じように無気力に右から左に流して済ますのかい?

そんな?がたくさん浮かんでくる。

世の中にはこういう無責任な仕事をする人が本当に多いと思う。

自分の損得、会社の損得、全部、損得。損得マシーンと化している。

裏を返せば、それだけ余裕がないのだ。他人のことなど気にかける余裕もなく、毎日を生きるために日銭を稼ぐこと、それにできるだけエネルギーを使わないこと。それだけを死んだ目をして送りたくもない「日常」をやっている。それで精いっぱい。

そこに、込めることができる魂はない。マシーンだから。

 

替えがきく歯車でいいのか

替えの効く既製品の労働マシーンとして、私たちは組織に、資本主義社会に飼われている。

毎日カネ、カネ、カネと鳴きながら回る歯車である。しかも替えがきく。

そんなものであると自覚しているのかいないのか、自分自身の気持ちさえわからなくなっている。何が楽しいとか、何がうれしいとか、どう生きていきたいとか、そういう心のど真ん中にあるべき燃える大切な何かが見えない。もう完全に鎮火され消し炭になってしまったのか。

 

本当はもうこんなの嫌だ、と心が叫んでいる。

でもこんなの嫌だと自覚してしまうと、苦しくて仕方がないので、なかったことにしているのだ。

できるだけ心を痛めないように生きていくには、心を抹殺して「歯車」になりきって生きているほうが楽だから、無意識に逃げている。

歯車としての「立ち回り方」にだけ集中していれば、余計なことを考えなくて済む。(余計なことではなく、むしろ避けていることこそ人生を賭して考えるべきコトなのだが。)

他の歯車に簡単に交換されないように、毎日怯えながらいかに優秀な歯車かを示すそうとアピールに必死である。出世ばかりを気にする人や所謂エリートは、そんな感じの模範的な歯車。

しかし、どれだけアピールしようと所詮は替えがきくから歯車なのであって、いてもいなくてもどっちでもいい存在。この資本主義社会においては。

だから、出世レースは虚しい。マウント合戦は悲哀に満ちている。

心はいつまでも渇いたまま。

 

異世界に逃亡するたいやきくんたち

 

まいにち まいにち ぼくらは てっぱんのうえで やかれて いやになっちゃうよ

引用:『およげ!たいやきくん』作詞・作曲:‎‎高田ひろお、佐瀬寿一

たいやきくんのように、嫌になっちゃうのである。

嫌になっちゃった たいやきくんは、海に逃げ込む。

 

心の渇きを癒すために人は何をするかというと、さらに逃げる。

私は酒で前頭前野を麻痺させることで、現実という悪夢から合法的にトリップしようとした。そしてアルコール依存症になるまで飲み続け身も心もズタボロになった。

だから、逃げたくなる気持ちは人一倍わかるつもりでいる。

なろう系、いわゆる異世界転生モノが流行っているが、これもまさに麻酔コンテンツと言えるだろう。

「俺は特別」「オレは最強」「未来を好きなように変えられる」

歯車がみる夢を体現している。それが、なろう系を人が群がって貪る理由である。

しかし私は知っている。

大失敗して死ぬか生きるか悩むところまで堕ち、泥水をすすりながら這い上がってきたから知っている。

いくら麻痺させても、いくら逃げても、現実はそこにある。

私たちは、それぞれの個体の限界を受け容れて生きていくしかない。自分以外の存在にはなれない。

仮想世界にいくら逃げ道を探しても、自分自身の心の声を無視し続ける限り、渇きは癒えることはない。

どんなにどんなにもがいても ハリがのどから とれないよ

引用:『およげ!たいやきくん』作詞・作曲:‎‎高田ひろお、佐瀬寿一

何が嫌なのか、何が辛いのか、その暗く深い心の泉を覗き込み、水底の泥さらいをしなくては、本当に聞きたい本音は聞こえてこない。心に突き刺さったハリはとれない。

しかし、歯車たちはそれがどれだけしんどいか、どれだけ泥さらいの過程で傷つくか、薄々分かっている。もがいてもとれなかった学習性無力感で、もはや取る気もない。先延ばしにしてみて見ぬフリをしているのである。

そんな人がたくさんいれば、魂のない仕事が巷を埋め尽くすのは、当たり前だ。

だって、目の前の人は、そこにいないのだから。今この瞬間を生きていない。心の鼓動が聞こえない。ここではないどこかにトリップしていて、対話していると思っても、そこにいるのは心を持たないただの抜け殻なのだから。独り言を言い合っているようなものだ。

仕事で他人と話をしていると、どこか空虚な感じがするのは、ドッと疲れるのはそのためだ。

 

資本主義社会はもうお腹いっぱい

逃げている、といったが、それは歯車たちが弱いからではない。

むしろそれは当然である。なぜなら社会がそうなるようにできているからだ。いや、そうなることを望んでいるといってもいい。

資本主義社会、特に株主資本主義で経済が回っているこの現代社会は、仕事の社会的な意義よりも、投資可能性と計算可能性だけで構成されている。

お金を持っている人が、さらにお金を増やしたい、と思った場合、投資したときに確実に投資額よりも多いリターンを得られる未来が予測しやすいように、市場と人をコントロールしようとする。

そうなると人間性という非合理的なものは予測を不確実なものにする「ノイズ」「リスク」でしかないので、極力排除したいと考える。

 

資本主義社会において組織は行政官僚制を布く。つまりピラミッド型の組織体系である。

そのほうが理論上は、命令通りに人を動かすことができ合理的かつ効率的に最大効果を得られるはずだからだ。

しかし社会学者ロバート・キング・マートン(1910-2003)が指摘したように、行政官僚制は最終的に非合理的な組織に変貌する。

顧客のためではなく組織内の忖度のために働き、規則の奴隷となり自己成長をやめ、リスクを回避するために処罰を免れることができる必要最小限の行動しかとらず、既存体系を変えることを怖がる。

だから組織が大きくなればなるほど、中にいる人はどんどん没人格化していく。人間性を失い、先に述べた「死んだ目をした歯車」が大量に生産される。

 

資本主義社会を動かしている側、お金を持っているヒエラルキーの頂点にいる人たちにとっては、下民がそうやって人間をやめていってくれたほうが、予測可能性を狂わせるノイズがなくなり、かえって好都合だから。

病んだ現実逃避をしていようが、苦痛にあえいでいようが、野垂れ死のうが、知ったコトではない。自分たちより下の者たちなど、道具であり、商品であり、心の底では私たちを人間ではないと思っている。そうやってこの社会は、偽りの平和を語りながら、歯車たちの声なき悲鳴を轟かせつつ、今日も冷酷に回っている。

 

しかし、もうこんなのはうんざりだ!とさすがの歯車も軋み始めているんじゃないだろうか。そろそろ現実からあれやこれやと逃げ続けることも、限界を迎えているのではないか、という雰囲気を感じる。

 

テメェの人生は仕事かよ

歯車で生涯を終える。

本当に、心の底からそれでいいなら、それもまた一つの生き方だ。尊重したいと思う。

でも、本当にそうか?

偽りの安心を買うために、やりたくもないことをやり、話したくもないことを話し、嬉しくもないのに笑って、数十年を無意味に過ごし、何も残さないまま土に還る、そんなことを本当に心から望んでいるのか?それが、子どもの頃からの夢だったのか?

本当は、そうじゃないんじゃないか?

 

私は我が子を見ていて思う。

子どもの目からみて、世界はとても美しく輝いて映っていると思う。

それは、損得だとか、規則だとか、既存の価値観だとか、そういう「ノイズ」で心を檻に閉じ込めないで、ありのままの心で見ているからだ。

人間性が「ノイズ」なんじゃない。社会を縁取る枠組みこそ「ノイズ」なんだ。

素直な驚き。純粋な疑問。瑞々しい、心揺さぶられるような感覚。それを子供たちは全身で表現する。だからこちらまで嬉しくなるような眩い光を放つ。それが美しいということではないだろうか。

子どもは絵を描くとき、ルールや得手不得手を気にしない。

「描きたい」ただそれだけだ。

筆の手触りと重み、画用紙の上をすべる筆の感覚、現れた色彩。

全身全霊で今ここにあるリアルに向き合い格闘する。

自分が表現したいものを形にするためだけに、全神経を集中させて画用紙を見つめる瞳は、どんな宝石よりも美しい。

そこに「これは売れるだろうか」とか「これをやってキャリアに意味があるだろうか」とか、そういったつまらない打算は存在しない。

だからこそ、たどたどしく描かれたその線に、その迫力に、圧倒されるのである。

 

そんな生き方をもう一度取り戻したいとは、思わないだろうか。

あのとき、私たちもそうだったではないか。

汚れてしまったかもしれない、いまさら恥ずかしいかもしれない。

でも、まだ生きている。命はまだ終わってない。

なら、もう一度、本気で賭けてみよう。

 

私は断酒をはじめたとき、そんな気持ちだった。

再飲酒をして何度もこけた。でも諦めないで生きてきた。今が人生で最高だ。

だからこんなふうに思うのかもしれない。

【AC】「子どもを産むのは親のエゴ」問題について

こんなツイートが流れてきた。

今回は「子どもは親に感謝すべき」という洗脳の間違いについて書いてみる。

 

子どもをつくったのは親の責任

「育ててもらった恩も忘れて」

「ここまで大きくなれたのは誰のおかげだ」

とは、 よく目にする親側のセリフである。

確かに親が働いて稼いだお金で、子どもはご飯を食べて育つ。

母の世話がなければ生きていけず、泣くことしかできない赤子の時期もあった。

 

しかし、産むと決断したのは親である。

産まないこともできた。しかし産んだ。

それは自分の人生の選択であり、働いて養わなければならないことも、毎日世話をしなくてはならないことも、容易に想像できたはずだ。

それでも産むことを選んだ。

「親のエゴ」というキーワードでTwitterでは拡散されていって物議をかもしているが、もっと近いニュアンスとしては「親の決断」だよなと思う。

決断には当然責任がともなう。ある行動を選択するということは、その行動がもたらす責任を負うことを委細承知したということだ。

産みたくて産んだのではなかったかもしれない。SEXで気持ちいいなということ以外はよく考えていなくて、たまたまできてしまって、そのとき中絶する金銭的な余裕がなかったかもしれない。あるいは避妊していたけれど授かったのかもしれない。

しかしSEXしなければ受精は起こらないので、SEXをするという選択をした時点で、親になる可能性を排除しない、という行動を選択している。

ということは、結局自分が選択した行動を経ているので、背景はどうあれ責任は発生する。

当時はそこまで考えていなかった、と言っても現実は変わらない。責任も無くならない。背負ってしまったなら、それはともに歩むしか選択肢がない。

 

責任は感謝とは関係がない

この人が言うことはもっともで、親に感謝するかどうかは、子どもが判断することである。

「感謝」という感情を生むのは、子どもの心であり、その心に感謝の気持ちが宿らないのは、親にはどうしようもない。

私は親になったが、子どもたちが私に感謝してくれるとは限らない。むしろ恨まれるかもしれないとさえ思っている。

なぜなら、この世は生き地獄だから。

特に現代社会などは、功利主義・合理主義・結果主義によって沈みつつある泥船である。いずれ大きなカタストロフが起きてすべてがひっくり返り大混乱になる。

とてつもない痛みと苦しみを味わう世代になるかもしれない。

 

いや、そんな時代でなくとも、生きることはとても苦しい。

努力は報われるとは限らない。個体差が冷酷に粛然と存在する、弱肉強食の世界。そのなかで生き延びなくてはならない。傷つくことや傷つけることを避けては通れない。

そんな空間に招待するのである。「おめでとう」と言いながら。

そんなことをされて、感謝するだろうか。

基本的には感謝しないのではないか、と私は思う。

なので、そんな地獄にわざわざ生み落としておいて、感謝を請求するというのは、はなはだ筋違いである。

親の責任を果たすのは、感謝をもらえるからなのか。そうではない。

責任を果たすのは、行動の当然の帰結であり、自分自身の問題である。

他人である子供に、自分が負った責任の一部を押し付けてはいけない。

 

なぜ感謝されたいと思うのか。

それは、自分の「所有物」として子供の存在を認識しているからだ。

自分が与えたものを返してくれるのが当たり前、なぜなら自分が満足を得るためのおもちゃだから。そんなふうに考えているから、感謝されないことに憤る。もらえるはずのご褒美をもらえなかった子供のように。

つまり、親がまだ精神的に子供なのである。

子どもを尊重すべき独立した別人格として見ていないので、自分の手足のような感覚で思い通りになると思っている。

その傲慢さが、子どもに呪いをかける。子どもは呪いに長きにわたって苦しむことになる。

感謝されるわけがない。

 

感謝されるのではなく感謝する

むしろ、感謝しなくてはならないのは、親のほうだ。

「母の無償の愛」などというが、無償の愛を受け取っているのは親のほうだと思う。

子どもはどんな親でも、自分の親を愛さずにはいられない。どんなに愛されていないと薄々感づいていても、どこかで自分のことを愛してくれるのではないかという希望を健気に手放さない。

虐待されていても、子供は親をかばう傾向がある。本当は愛してくれるのではないか、優しくしてくれるのではないか、抱き締めてくれるのではないか。そう切なる願いを込めて、小さい体で精一杯できる限りの愛情を示す。

自分の存在を全肯定してくれる存在。それが我が子という存在だと思う。

そんな得がたい思慕を捧げてくれる存在が、他にあるだろうか。およそ他人には期待できない貴重な体験を与えてくれる我が子。感謝するのはむしろ親のほうだといえる。

 

私は親になることが不安だった。

子どもが嫌いだったから。後になってそれは、私がまだ子供を生きられていなかったからだとわかった。

無邪気に笑って自由に素直に感情を表現することが許されている子供を見ると、我慢ならなかった。とてもイライラした。

それは、私がそんなふうに子供時代を過ごすことができなかったからだった。

アダルトチルドレンを自覚し、回復のために12ステップ・プログラムに取り組んでいくにつれ、その苛立ちはゆっくりと氷解していった。

私も本当は、キラキラと感じるままに笑って泣いて、親が定めたあるべき姿ではなくありのままの姿を肯定されていると感じながら、満ち足りた幼少期を生きたかったのだった。

『子供を生きれば大人になれる』とは、かの有名なクラウディア・ブラック先生の著書だが、大人になるためには、子どもをしっかり生きなくてはダメなのだというのは、よくわかる。

 

「親のエゴ」問題の真相と解決策

結局この「親のエゴ」問題の真因は、大人たちの未熟さだ。

親になった人が、まだ子どもをちゃんと生きていなくて大人になってもいないのに、親になってしまったというのが、問題の根本だろう。

もちろん、親も人間なので完璧ではないし、育てながら一緒に成長するものだ。それだけ、子どもたちは親に様々なギフトを与えてくれるという裏返しでもある。ここでも、親は子どもからもらいまくりだ。

完璧ではないにしろ、せめてもの最低ラインとして、親は子どもを生き切っていなくてはならないのだ。

今親として未熟な人間が親をし、感謝を取り立てているのは、本人の性質が悪だからではない。その前の親世代の課題を引き継がせられて、その人も苦しい幼少期を過ごしてきたのだと思う。私のように。

気の遠くなるような世代間連鎖のすえに、私たちは存在している。

社会では、我々は個として存在をジャッジされがちだが、そんな簡単な問題ではない。根深い、何代にも続く病が、今この瞬間に表面化しているだけだ。

つまり、社会の問題だ。この親が悪いとか、この親は良いとか、そういうのではなく、能力でランキングをつけたり経済的利益のために人格をそぎ落としたりしてきた社会そのものによる哀しい産物のひとつが「子どもに感謝を強要する親」だということだ。

親を怨むなとは言わない。しかし親もまた独立した別個の存在「他人」であり、その人の人生は本人にしかどうにもならない。そのことも、理解する必要がある。

 

私たちは生まれてしまった以上、生きていくしかない。

他人は変えられない。自分の行動・自分の認識しか、変えることはできない。

ならば、感謝を求めてくる親には「残念だけど無理なので、あとは自分のためにがんばってくださいね」と手を振って、自分の人生にしっかり焦点をあてて今この瞬間を生きていくしかない。

自分が世界に与えることができる愛に、力を注ぐ。

自分の感情を、良いも悪いもなく素直に受け取る勇気を持とう。

私たちのこれからは、私たちが選択していく。そしてそれは謙虚に素直に向き合っている限り、自分以外の何かの導きによって、必ずどこかに繋がっている。

良いことばかりではないだろう。でも、悪いことばかりでもないかもしれない。

その受け取り方を、私たちは決められる。

古代の哲学者エピクテトスも、唯一「自分の意志」だけは自由だ、といっている。

何をしようと決めるか、何を好きだと思うか、何を尊いと思うか、は、本人が決められる唯一の自由なのである。

何をするかを、他人に委ねていないだろうか。

他人にどう思われるかびくびくしながら、他人に嫌われないように行動を選択するというのは、その唯一の自由を他人に受け渡していることと同じだ。

会社の命令で嫌だけどお金のためにしかたなく人生の大半をつまらない作業で浪費する。

嫌われるのが怖いから、行きたくもない集まりに行く。

そういうことをやめること。そこから、親として生きる第一歩が始まる。

 

 

【メンタル】失われた「愛する」という技術(エーリッヒ・フロム)

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』『愛するということ』を読了して、内容をまとめつつ思うところを書いてみる。

 

人は安心に依存する

ナチスドイツのファシズムに服従したように、人は自由を求めながら権威に跪く。

中世ヨーロッパでは、身分が決まっていた封建社会だったので、決まった役割をやっていればよかった。それなりに生きていけた。

社会・共同体の一部として、やりたいことは全て叶わなくても、やるべき役割をやっていれば誰かが守ってくれる。そんな「安心」があった。

しかしルネサンスを期に、資本主義・自由主義が社会に広まるにつれて「個人」という概念が生まれるようになる。

中世の崩壊とともに、自分が何者かわからなくなり、今まで享受していた「安心」を失う。繋がりを失い、路頭に迷う。

そこで宗教改革である。

今まで教会は「神」と「人々」を繋ぐ役割を担う権威そのものだったが、プロテスタントは「神」と「個人」が直接繋がれる代わりに「神」には絶対服従で、本来が存在として悪である人間は「労働」に真面目に禁欲的に励むことにより禊を済ませることができる、と説いた。

これにより、産業革命の只中、過酷な労働を強いられても喜んで働く、今でいう社畜のような状態に人々をコントロールすることに成功する。

寄る辺をなくした民衆は、身を粉にして働いていれば「神」が救ってくれる、という新たな「安心」を得る。代わりに「神」に服従するマインドを刷り込まれる。

近代資本主義は、人間を伝統的な束縛(役割)から解放したが、同時に人間を孤立させ、無力感・孤独感・恐怖を与えた。資本的に「強い個人」と「弱い個人」を生み、社会は金儲けのための機械になり、人々は歯車として生きるようになった。

自分の幸せが生きる目的ではなくなり、あくまでも組織・社会の経済的な発展に奉仕することを目的とする、孤独な歯車である。

近代から現代に時代が進むにつれ、さらに孤独感や無力感を増大させていく。

 

自由から逃げたくなる3つの心理(逃避のメカニズム)

人が自由という重責から逃げてしまうのは、3つの心理が働いているからだとフロムはいう。

権威主義

自分が欠けている力を獲得するために、自分以外の何かに依存して補おうとする心理のことである。

自分の進むべき道をあれこれ指示してくれる「権威」にすがりたくなるパターン。影響力のある人、カリスマ性のある集団に思考停止でついていってしまう。(マゾヒズム)

もう一つが、他人を支配し操作することで自らが権威者になりたがるパターン。(サディズム)

両者とも、上下関係でいいから誰かと繋がりたい、安心したいという気持ちが働いている。

破壊性

対象を壊すことによって苦しみから逃れたい心理のことである。

どうしても敵わない・邪魔な対象を、殺してしまいたい、消滅させてしまいたい、と考える。外側に攻撃性が表出するパターンである。

それが自分自身、つまり内側に向かうと、自殺になる。自分を破壊することで全てを終わらせるのである。

 

機械的画一性

自分が自分であることをやめることである。

自分の思考・感情・意思を放棄して、集団に迎合することにより、溶け込ませて孤独感を埋めようという心理である。

心を殺してまるでターミネーターのように生きる。そこには偽りの「安心」はあるが、幸せはない。

 

こうして、人々は「安心」を得るために自由から逃げだし、個性を失い、自分を失い、権威に簡単に服従するような生き物になっていったのである。

その受け皿として機能したわかりやすい代表例が、冒頭にふれたファシズムだ。権威ある集団帰属意識を与えるファシズムは、孤独感でいっぱいの民衆を取り込むことに成功した。

しかし、歴史が示すように、その結果は多くの犠牲者と不幸の量産だった。

残された道

では、孤独な私たちは何を頼りに歩んでいけば良いのだろう。

役割でもなく、神でもなく、権威でもない世界に繋がる何かとは、なんだろう。

自発的に自己表現をすることで、私たちは世界と繋がることができる。その最たるもの、つまり先の問いに対する答えは「愛する」ということだ。

愛することは、能動的かつ自発的な活動である。受動的な感情ではない。自ら踏み込み与えることである。愛は他人としての態度であり、性格の方向性のことをいう。

健全に自由に自分と自分以外を繋げるものは「愛」だと、フロムは訴えている。

 

現代人は、愛について誤解をしている。

たとえば、収入さえあれば、容姿がよければ、愛されることができると条件で考えている人。

または、運命の人が現れ自然発生的に恋に落ち、いつか誰かと愛し合えると思って待ち焦がれている人。

これは間違いだという。

では、どうすることが、真に愛するということなのだろうか。

 

愛する人というのは、与える人である。

自分のなかに息づいているもの、大切なものを相手に与えることだ。

多くの人は、何かを与えれば、自分から何かが失われるのではないか、損をするのではないかと内心恐怖している。そのせいで、愛する勇気を持てないでいる。

自分の大切なものを自ら与えることができる勇気と、自立した精神をもつ成熟した人格の持ち主が、愛を実践することができる。

モノや力や正しさで相手をコントロールしようとすることは愛ではない。歪んでいる。この歪みはいつか破綻を招く。

 

愛を構成している4つの要素

愛を形づくる要素は4つである。

配慮

愛する者の生命や成長を積極的に気にかけているだろうか。愛をいくら語ろうとも、積極的な行動に現れていなければ、それは疑わしいものになる。

責任

自分に対して誰かが何かを求められたとき、その要求に応える準備ができているだろうか。自分と同じように他人のことに責任を持ち、その人本人から発せられるSOSに快く応えるマインドセットができている必要がある。

尊重

相手がその人らしく成長していくことを気遣うことである。相手の行動や思考を自分の都合のいいようにコントロールしよう、というのは、利用しようという意図が介在している。母親が、子どもを自分の思い通りのいい大学に進学させよう、良い会社に就職させよう、と過干渉することは愛ではない。

なぜなら、子どもを尊重すべき一つの人格として認める気持ちがそこにはないからである。自分が精神的に自立していなくては、相手に施す余裕などなく、結果として相手をありのままに尊重することもできない。

知る

相手の性格や考え方や価値観を知っているだろうか、知ろうとしているだろうか。

相手のことを知らなければ、その人が真に必要としているものも、その人の発言の裏にある真意も理解することはできない。能動的に知ろうとする態度が、愛するうえで必要不可欠だ。

 

真実の愛

ここまで読んでくださった方のなかには、愛って存外難しくて面倒臭いな、と感じる人もいるかもしれない。

それもそのはず。ある人を愛する、ということは、その人の周囲・世界・構成するすべてのものを愛するということ、つまり博愛である。

人類全体に対する愛を「友愛」という。

表面的な個人の能力の差や損得など関係なく、無条件に人類全体を愛するということだ。

他人への愛は、自分への愛でもある。人類全体のなかには、自分も入っている。

ちなみに自己愛は利己心とイコールではない。

利己的だということは、自分を愛していないことを意味している。エゴイズムの根底にあるのは、不安と恐れであり、その埋め合わせとして自己中心的な態度でごまかしているに過ぎない。利己的な人は、不幸な人である。

 

資本主義社会では、愛は失われて久しい。

計算可能性・合理性をもとに行動するようプログラムされた社会を生きる現代人は、まるでみな「商品」である。モノとして人はお互いを見ている。愛がかようはずもない。

自他共に存在を商品化してしまった現代人は、自分の時間やエネルギーを使うことを投資のように考えてしまっている。これは人生を損得で動かされていることを意味している。

また、個人は集団からはみ出さないよう、空気を読み顔色をうかがいながら暮らしている。そんな私たちは、集団のなかにあっても、いつも孤独で、不安と恐れに押しつぶされそうになっている。

そのため、組織の歯車として画一化された仕事や、音や映像のエンターテイメントで、傷んだ心の痛みを麻痺させることにいつも一生懸命だ。

心の鎮痛剤として、様々な商品やコンテンツとして市場に出回る。酒・たばこ・ギャンブル・薬物・背景に哲学のないメディアやゲームコンテンツなどは、その代表作だ。そう考えると依存症というのは、愛のない社会が生んだ社会そのものの病である。

目を逸らすためにインスタントな「楽しさ」「痛み止め」を限りなく消費しながら、身も心も商品として売り渡している哀しい存在が、私たちの姿だ。

 

愛する技術を習得するための4条件

そんな私たちが愛を実践するためには、何を会得する必要があるのか。

フロムは4つの条件を提示している。

規律を守る

外から強制された仕事の反動で、休日は何もせずダラダラしたくなりはしないだろうか。

愛する技術を身につけるのなら、外側から強制された命令に嫌々でも従うようなトレーニングをしてはいけない。

学校というのは、いわばそうした絶対服従のためのトレーニングである。だから私は個人的に、自分の意志で目的を持ち通うのでなければ、学校は行かなくていいとさえ思っている。

自分の意志こそが絶対の約束である。規律とはそれだ。

自分との約束を守れる人、それが規律を守れる人である。

 

集中

マルチタスクをしてはいけない。1つの行動だけに集中しよう。社会が推奨する逆が正解である。

あなたは相手の話を聞くとき、次に何を話そうか思案してはいないだろうか。

相手がしゃべっているときは「傾聴」に集中しなくてはいけない。

しかし、昨今流行りの会話術といえば「○○と言われたら○○と切り返す」とか、理論武装としての応酬話法ばかりである。これは全く相手の話を聞いていない。

特にビジネスにおいては、自分の都合のいいように会話の着地点をコントロールしようと、あの手この手で相手に素直に話をさせない。そんなエゴにまみれたノウハウばかりをもてはやしている。

実にくだらない。

他人を愛していない、商品として見ているから、こんな関わり方になる。こういうコミュニケーションの取り方をするようでは、お互いに愛することはできないばかりか、さらに遠ざかる。しかし、今は夫婦間ですらこんな調子ではないだろうか。そりゃ離婚もするよな、と思う。

また、集中という観点では、自己との対話に集中することもまた重要である。

つまり、ボッチでいるトレーニングをする必要がある。

瞑想が現代人に勧められるべきルーティーンなのは、愛することに繋がっているからだ。自分の内なる声を「傾聴」する時間と技術を身につけなくては、自分を見失ってしまう。自分を見失っていては、自立し成熟した人間として愛を実践することはできなくなる。

敏感に、自分の不調や不安、恐れを見直す。それらを誤魔化さず客観的に受け容れる勇気は、すなわち謙虚さである。

そのひとつの方法として確立しているのが、12ステップ・プログラムなのだろう。

だから回復を目指すアディクトって、素敵な人が多いのかな、と納得した。

忍耐

すぐに結果や答えを求めたり焦ったりしないで、地に足をつけて一歩一歩身に着ける忍耐強さが、愛には必要である。

現代は合理主義や結果主義で、速さばかりを評価する。まるで逆だから、愛から離れていくのは当然だ。

私の愛は信頼に値する、そう信念を持とう。他人の可能性を信じる忍耐は、信念によって支えられる。

たとえば子育て。

子どもの精神が健全に発達するためには、保護者や教師やそのような立場にいる大人が、子どもの可能性を忍耐強く本気で信じなくてはならない。

教育とは、子どもの未来を信じ、それを助けること。信念がない教育は教育ではなく、ただの「洗脳」である。そう考えると、巷に溢れる教育という名のカリキュラムは、ほぼどこかの誰かの損得で差し向けられた洗脳コンテンツではないだろうか。

愛はギブアンドテイクではない。愛すれば自分が愛されるだろう、と他人に愛情を押し売りする態度は、愛ではない。

愛すれば、きっと相手の心に届き、相手のなかに愛が生まれるだろうという希望に全身をゆだね、何の保証も見返りもなしに行動することである。

そんな親は、いったいどれほどこの世にいるだろうか。

関心

愛が習得したい技術ならば、常に強い関心をもつことが重要だ。

古典哲学に触れるのが大切なのは、この観点に由来するのだろう。

真に成熟した人間とはどういうものか。それを現代を生きる浅い人間から学ぶことは容易ではない。

古典哲学という作品を通じてであれば、先人たちの叡智に触れることによって、彼らが愛をどう哲学していたのか、偉人たちと時空を超えて対話し学ぶができる。その思想を鏡にして、自分の価値観や在り方を見直すのである。

 

愛は、以上のように、真剣な想いと弛まぬ実践を通じてやっとたどり着ける険しい道のりであり、簡単においそれと身につくものではないと、覚悟しなくてはならない。

 

愛を生涯にわたって実践したマハトマ・ガンディーは次のように言っている。

愛とは、一般的に思われているほど単純でもなければ、体得が容易なものでもありません。

愛の道は、綱渡りをしているかのような集中力を要求されます。

そのため、心にごくわずかな隙があっても、たちまち地上に転落してしまうのです。

絶え間ない努力はもちろん、終わりなき苦痛と果てしない忍耐を覚悟する必要があります。

しかしそれによって私たちは、生きとし生けるものが自分の友であることを知り、自分の果たすべき務めと謙虚さを学ぶのです。

愛の道を進む者は、どんな邪念も、嘘も、憎しみも、もってはなりません。

また、皆が欲しがるものをひとりで貯め込んではなりません。

愛とは私たちにとって、最高の義務です。

一切の執着を断ち切り、力の限り理想に向かって進んでいくのです。

 

【参考文献】