随分間が空いてしましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
何か意味のあること・メリットがあることを記事にして…とか堅苦しく考えず、あとで手直しして分類すりゃいいや、ということで、とりあえず話してみます。
四国にいたのですが、4月から東北に転勤になりました。
異動するってのはそれだけで結構ストレスがかかるものですね。
四国では仕事そのものはめちゃくそ上手くいっていて、行動・成果ともに支店のエース級だということで支店表彰を連続で受け、売上100%を達成したのは私だけという状況で、なんというか気分的に左団扇で暮らしておりました。(笑)
しかし、転勤族というのは4年~10年でだいたいその地を離れるので、良くも悪くも同じ環境が長く続くことはありません。
今度の新天地は東北ということで、引っ越し・仕事の引継ぎ・社会福祉士としてお世話になった方々へのご挨拶・・・とあれよあれよという間に3月が終わり4月に突入していった感じです。
しかし、管理会社というのはどこもひどいですね。
今回の四国でお世話になったマンションは、特に管理会社と大家さんの態度がひどかったです。高圧的で「貸してやってる」みたいな態度がとても鼻につきました。ああいう人間にはなりたくないもんだ。
特に法的拘束力もない勝手に決めたルールを押し付けてきたり、退去時にはこちらがわからないと思って高額な退去費用を請求してきたり。私はそういうことは許せないタイプなので、全部調べて撤回させました。退去費用はまだ粘ってるみたいだけど、専門業者のくせに国交省のガイドラインの内容も把握できていないようでは、私からボッタくろうとするなんて100年早いなって感じです。
引っ越し業者もひどかった。
いくつもの家財を破損させられました。全額補償してもらいましたが、人のモノだと思って適当に扱うなんて、プロ意識ないのかなって思います。
破損を隠ぺいしようと、なんやかんや理由をつけて厚かましくも自社の製品と交換購入してもらおうとする始末。そんな仕事をして家族に自分は社会のために頑張っていると胸を張れるのでしょうか?
「お父さんは詐欺みたいな仕事で顧客から金をむしり取っているんだよ、そのお金で生活できているんだよ」なんて我が子に言えるのでしょうか。
そうそう、私はそんなことを言うのが嫌で、転職を決意したんですよね。
前職は海外から輸入した欠陥品を売りつけるような仕事で、平均利益率50%の超ぼったくりな商売でした。金属の市場相場を知らない顧客を騙して、廃棄予定のモノを安く買いたたいたりね。今も詐欺みたいな仕事してるのかな…同期のみんな。流行りのビジネスには注意したほうがいいですよ、みなさん。
ただ、転職してきても、そんなにやることは変わらなかったなぁ。
仕事ってのは、どれも詐欺みたいなもんなんだな、というふうに最近思います。
私は、自分の給料のために、自分の承認欲求を満たすために、つまり、自分の利益のために他人を踏みつけて利用してのし上がろう、みたいなの、全然モチベーションが上がらないタイプです。
営業職というのは基本的にそういうのが好きで短絡的な人が、精神を病まずに仕事が続いている印象ですね。善悪や倫理に照らし合わせることから目を逸らせない、自分の行動の本質を考えるようなタイプには向いてないと思います。
イケイケのデキる営業マン。
その正体は、自分のことしか考えていない、小賢しく思考の薄っぺらい没人格人間なのかもしれません。(全員がそうではないかもしれないけどね。)
仕事は、人生のうちのほんの一部です。
そのための学歴も、資格も、それを取得するための学校も、職場も。
全部ほんの一部なんですが、人は社会的地位によりどころを求めがちですよね。
「社会に認められているから存在価値がある。
だからいいところで働かなきゃいけない。
そのためにいい学校を出なきゃいけない。
そのために内申点を下げられないように大人にいい顔をしなくてはいけない。」
小さい頃からそんなふうに敷かれたレールをただ言われるままに進み、好きなことよりやらなければいけない(と他人から言われた)ことを忠実にこなす。そんな「権力に隷属するためのスキル」を伸ばし続けて今に至るのが、いわゆるエリート・高学歴の人々の一般的な成育歴といえます。
そんな奴隷養成機関(社会であり学校であり会社)に認められるための人生が本当に優秀で賢い人間の歩みかと問われると、私にはどうも、そうとは思えない。
最近、古典哲学をよく読むようになりました。
エピクテトス。マルクス・アウレリウス。ニーチェ。アラン。ラッセル。ヒルティ。
彼らの人生哲学と幸福論は、私が今まで違和感を感じてきた胸の奥に暖かい陽が差し込むようです。
経済社会化が進んで、世の中は物質的に豊かになりましたが、精神的には貧相になりました。これはおそらく間違いない。
だから満たされなくて何かに依存したり、誰かに依存したり、自殺してしまったりする。
自らが依存症になり、依存症啓発をするようになって、根本にあるのは精神的な貧困なんだと確信するようになっています。
「自分以外の誰か」が人生の評価の中心になってしまって、「自分」というものがどこまでも置き去りになっているから、寂しくて苦しい。
自分の声を無視して他人に認められるために生きているから、だんだん自分のことがわからなくなってしまう。
本質的な問題点はそこなんだなぁ、と思っています。
だから、四国にいるときもそうでしたが、すこぶる仕事がつまらない。(笑)
「お金を稼ぐ」というのは、自分が生きていたい人生を生きるためにこの社会ではお金が必要だから必要な分だけ集める、ただそれだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。
人物としては尊敬していますが、稲盛和夫や本田宗一郎の本で説かれている仕事哲学を読んでも、いまいちピンとこなかったのは、「仕事」を過剰に美化する思想にアレルギーがあったからかもしれません。
彼らの思想は経済社会にとっては都合がいいですけどね。「仕事」に人生をささげた奴隷が馬車馬のように勝手に働いてくれますからね。
高度経済成長期には、やればやるだけ見返りがあって、それはそれはやりがいがあったことでしょう。喜ばれ、必要とされ、生きていていいんだ、と思えたでしょう。
でもそれは、ある種の依存で在り、今でいう仕事依存症(ワーカーホリック)の問題が、時代背景的には表面化されなかっただけで、依存症の症状であったと私は思っています。
マハトマ・ガンディは弟子たちに「盗み」をするなと教えました。
ガンディーがいう「盗み」というのは、「己が生きるのに必要な分以上に財産を蓄えたり、欲しがったり、持っている人をねたんだり、分け与える気持ちを失ったりすること」を指しています。
全てのものは与えられたものであり、その人の財産のように見えても、本質的にはこの世界の所有物で、一時的に借りているだけ。
それをいくら集めて「私にはお金がある、権力がある」といったって、それは本来その人のものではないのだから、いくら集めても虚しくなるのは当然ですよね。
だから仕事でいくら認められようと、いくらたくさん稼ごうと、それを糧にして良心に根差した心の底からやり遂げたい何かのために行動しているのでなければ、生きづらさから逃れるための逃避でしかない。
だから私は仕事で会社に認められても認められなくても私の価値は変わらないと思います。
どれだけ売上がトップであってたくさんお金があっても、それは一時的に私のそばに今は在るだけで、私が他の人より優秀だからだとは思わない。
たまたま私にチャンスがあって、チャンスをつかめる能力を与えられて、私以外のあらゆるものが力を貸してくれたから、今があるだけ。
マイケル・サンデル教授が書いた『実力も運のうち』で「今のエリートが謙虚さを失っている」と主張なさっているのは、そういう本質的なことを現代社会のエリートは忘れている、といっているんですね。理由は、偽りの平等を能力主義が下支えしていて、与えられたものを己のモノと勘違いしているからです。
そういう勘違いがとっても多い。
働いていてそう思います。自分は優秀だから、成果が出ると思っているし、成果をコントロールできると思っている。
できるわけないでしょう。そもそもそれらのチャンスを与えてくれた世界への感謝を忘れているのですから。
なんかそんな感じで、また社会不適合者になりそうです。(笑)