【社会福祉士】社会不信論

社会が信じているのは金である。

なぜならこの社会が資本主義経済社会だからだ。

金が社会の血液なので、金は命よりも重い。そういうふうにできている。

なので、いくら多様性とか平等とか福利厚生とか人権とか訴えても、根本的に無理なのだと思う。

最近そんな風に社会に対して絶望している。

 

この論考の始まりは、会社に対する不信だった。

会社という組織はとても不可解だ。

どうせ金が目当てなのに、大義名分を欲しがる。

いかにも社会に貢献しています、という「建前」を欲しがる。

欲しがるだけでそんなに大切にはしていない。

結局本音がにじみ出る。

 

だから、たとえば製薬会社でいうと、

「新規処方を〇〇例『獲得』する」とか

「恐怖をあおって病気を『つくる』」とか

「医師の『意識に刷り込む』」とか

常軌を逸したとんでもない表現をしがちである。

結局、患者を金づるとしか思っていないので、そういう言葉がでる。

 

何も製薬会社だけではない。

以前勤めていた会社も、同じようなもんだった。

中国から仕入れた粗悪な製品でシステムを組んで、とにかく納品しさえすればあとはトラブルが起きようが何しようが知ったこっちゃないというスタンス。

実際に取引先で損害が出たとき「そんなのうまくごまかして逃げろ」と遠回しに言われて愕然としたのを、昨日のことのように覚えている。全身の力が抜けて徹夜で現場に一人で張り付きまとめた検証報告書を取り落とした。

他の製品もなんだか技術的に心もとない製品で、案の定技術的なトラブルに見舞われたが、誰もケツを拭こうとしなかった。私は担当として必死に最後まで改善提案をし続け、問題は解消されたが、会社は嬉しそうではなかった。

 

つまり、金さえ儲けられれば、他人が困ろうが人が死のうが、心の底ではどうでもいいと思っている。

会社とはそういう組織だ。営利企業という存在のペルソナは偽れない。

業種・規模・業態に関わらず、全てがそうだ。

あんまり表立って困り過ぎたり死に過ぎたりすると、金儲けができなくなるリスクがあるから、最低限のラインを守っているに過ぎない。すべて自分たちの為だ。顧客の為ではない。

 

なので、会社が偽善で耳障りの良いことを口走ると、私は身の毛がよだつような気持ちがする。思ってもないことを言うな、気持ちが悪い、と思う。

でも、社員の大半は、そのおべんちゃらを信じて、あるいは分かっていて放っておくことができる。

それはとても奇妙で理解しがたい。でもそれが普通らしい。本当に意味が分からん。

 

会社は、どれもこれもそんなふうに腐っている。

なので、その会社で回っている社会は、腐らないはずがない。

結局のところ、社会というのは金である。

テレビばかり観ている人にはわからないかもしれないが、政治もすべて金次第で動いていて、自分の権力の座を奪われないための政治家による政治家の為の椅子取りゲームなのだ。そういう茶番だ、あれは。

官僚というやつも、公僕ではなくて、金の下僕だ。

損得勘定ばかり得意な人間がはびこるようにできている。この社会では誰もかれもがマウントを取り合い陣取りゲームをしている。他人を蹴落としても心が痛まないような、人間性に乏しい人間が昇進できるようにできている。

だから、会社の上司がクソなのは当たり前だ。

なぜなら役職が上に行くほどクズになるのだから、当然の帰結だ。何も不思議ではない。

社会的地位があるということは、より賢いクズだという証明でしかない。残念ながら、私は長いことこの社会的地位を求めて命を削るように頑張ってきたわけだが、骨折り損のくたびれ儲けというわけだ。痛恨の極みである。

そんな社会的地位と名声と権力というクソみたいなコレクションを求めて、政治の世界を志すような上昇志向の強い人が、この世の弱者に寄り添えるはずがない。

だから、社会が社会的弱者のことを考えるのは、土台無理な話なのだ。そんな高度な感性が必要な仕事ができるような人種ではないから。

「どうしようもないダメなやつを賢くて偉い俺様たちが救い出してやるか」みたいな考えで制度を考えるから、使えない制度ばかりつくる。

まともに考えているのは、自分たちにご褒美をくれる「スゴイ人たち」に融通を利かして褒めてもらうことだけ。そのためなら社会的弱者など必要な犠牲その1くらいにしか思ってない。だから永遠に社会は良くはならない。

 

こうすればいいとか、ああすればいいとか、そんな希望的観測はこの記事にはない。

このような資本主義経済社会はいずれ崩壊する。もう無理。諦めよう。こんな欠陥システムでは人はどんどん自殺したり餓死したりするだけなので、どこかの時点で転換期がくる。

まあそれで新しい原理の社会ができたとしても、あまり私は手放しに喜ぶ気にはなれない。

今よりはマシだろう。今は地獄だ。マシになるならそれには価値がある。

だけど、仕組みになった時点で効率と合理性に支配されるので、絶対にノイズが発生する。次第に人間側をノイズと考えて、システムが主役になる。だからシステムをつくった時点で、システムはもうすでに終わりに向かって進んでいる。

持続可能なシステムなどない。この完璧に調和しているかのように見える自然界ですら、いずれ太陽とマントルが原因で生き物が住めなくなるのだから。生と死は隣り合わせ、コインの裏表で在り、栄枯盛衰、永遠に続くものなど何一つないのがこの世の常だ。

 

唯一不幸にならない信仰といえば、愛だろうか。

愛と聞くと拒絶反応が起きるというか、むず痒いというか、それこそ建前でおべんちゃらのように聞こえるかもしれない。

しかし、今まで私が出会ってきたなかでは、「愛」これがベストな世界の「通貨」だと思う。

自助グループというのは、非営利で運営されていて、徹底して何の利害関係ももたないように団体の理念が構成されている。

同じような心の穴をもつ人が寄り添い、共感と慈しみによって繋がる。

そこには打算も駆け引きもない。ただただ、弱さという共通点が互いの存在に感謝する心を育み、交流の「通貨」として愛を込める。

まあ、共依存的に歪んだやり取りもぶっちゃけあるにはあるが、それもまた必要だから与えられたものだと理解することができる。謙虚に素直に生きていれば、そんなことを理解できる日がきっとくる。

見返りを求めない、ただただあげっぱなしの愛。

これほど尊いものはなく、価値のあるものはない。

経済的に価値のあるものなど、かすんでしまうほどに、それは光り輝いている。

その生きるために必要不可欠な光が見えなくなってしまったので、人々は病んでいるのだと思う。

陽が陰って澱んだままの部屋の片隅に放置されている、観葉植物のように。

金銭欲や所有欲を貪るのは、水をジャブジャブに植木鉢に注ぐようなもの。

そんなことをすれば草木は根が腐ってしまう。それと同じように、人も性根が腐ってしまう。

 

まあ、もうあーだこーだ言っても、この社会も所属している営利組織も、もう底が知れている。もうダメだ。いっさいは無駄である。

もう、期待するのはやめにしよう。

もっと、大切な目の前にあるリアルな繋がりに愛を注ごう。

損得が無くても関わってくれる人との会話や繋いだ手に、愛をこめよう。

 

【AC】「被害者」として生きる『嗜癖』を手放す

こういうタイトルにすると、なんだか責められるような予感を感じる人がいるかもしれないが、そんなことはないので安心して読み進めてほしい。

それにこのブログの記事は私が私の人生において感じる話なので、誰かの何かを責めるために書いているのではない。

基本的にこのブログはそんな感じのスタンスである。

 

さて、私は「被害者」として生きているほうが、自分の生きづらさをみないためにはとても都合がいいので、いつも誰かを責めたり、誰かの粗探しをしていたように思う。

その結果、私は他人を自分を見ないための道具として扱っていて、だから他人と深く付き合えなかった。なので、友達ができなかったし、親友がいないのだ。他人に好意を持たれなかったのは、私が他人を道具扱いしていたからだと思う。

全部、他人がどうのこうのというより、自分の在り方の話だったのだ。今振り返ると、そう思う。

でも、それはしょうがなかったと言えばしょうがなかったんよ。

だから「同じようにやっちまってたなぁ…」と思う読者がいたとして、私は「私も同じように、やっちまった人間だから、わかるよウンウン」と言いたい。

ベストなのはそりゃ最初から他人にアサーティブに道具扱いせずに接することができるほうがいいさ。

でも、私はACとしての課題を抱えていて他人とまごころから接することなんてとてもじゃないけどできない状態だった。

理想なんてわかってても、できなかった。それは誰のせいでもない。

 

もちろん、親が未熟だったのでACとしての私が爆誕したわけで、割と親のせいで苦労したというのはある。

もっとありのままを尊重してくれて、私の感性を正論で否定しないでくれたなら、別の人生もあったかもしれないと思う。だからこそ、私のペンネームは「ちあき」という名前なのだ。「ちあき」にしようか、今の本名にしようか迷って、結局「ちあき」は取り下げられた候補だったそうだ。もしも「ちあき」だったなら…という人生の分水嶺的な意味で私は人生の面白味を感じて、この名前を名乗っている。いわば、ブログのなかの私は、もう一つの世界線の私でもある。

 

話がそれたが、私は親を長らく心のなかで責めてきたし、恨んできた。

今もそんなに仲良くする気はない。私の目の届かないところで早く死んでほしいと思っている。彼らの生き方はあまり変わらないようなので、それなら私はあまり関わらないことを選ぶ。それだけの話だ。

こういう正直な親に対する感情をうっかり何も知らない他人に話してしまうと、だいたい中年以降の人々だが、よってたかって私にクソバイスをする。

 

「まだ若いから。親の気持ちがいずれ分かるわよ」

「でも、見えないところで親の努力のおかげで育ってきたのよ」

「親は本当にすぐボケて会話できなくなるから、早めに和解したほうがいい」

「親がかわいそう、仲良くしてあげてよ」

 

うるせぇ。(笑)

親になり親の気持ちはなんとなくわかってきた。仕方なかった部分もあることも。

しかし、親がやってきたことをどう思うかは、子どもの私にしか決められないし、他人が否定するものではない。

ぶっちゃけ、子どもの私が「地獄のような家だった」と思うなら、それが真実なのだ。外見的にどれだけリッチで幸せそうだろうが、親の愛情が深かろうが。それは子供には関係ない。子どもがどう思うかは、子どもの権利だ。それを否定するのは、人権侵害である。

 

そして、親が子供を権利あるいっこの人間として尊重して育てるのは、当然のことだ。

「子どもの権利条約」 一般原則

・生命、生存及び発達に対する権利(命を守られ成長できること)

すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障されます。

・子どもの最善の利益(子どもにとって最もよいこと)

子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。

・子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)

子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。

・差別の禁止(差別のないこと)

すべての子どもは、子ども自身や親の人種や国籍、性、意見、障がい、経済状況などどんな理由でも差別されず、条約の定めるすべての権利が保障されます。

引用元:ユニセフHP>HOME>世界の子どもたちを知る > 子どもの権利条約

 

 

ユニセフの「子どもの権利条約」にもあるように、これらの権利は当然与えられるべきものだ。それが子供をつくった親たちの責務であり、社会の責務だ。

そんな責務を果たすのは当たり前なのに、子どもに対して恩着せがましく「育ててやった」みたいに言ってんじゃねーよ、と思う。

生んで育てたことを担保にして感謝と献身を引き出し搾取しようとするのは、詐欺みたいなもので、とても質が悪い。

子どもが仲良くしてくれないのは、そういう詐欺を親がいい年こいて今もなおやろうとするところが忌避されているだけだし、それに気づかないで死んだりボケたりするのは「ああ、理解が間に合わなかったね、どんまい」で終わりなのである。子どもにしりぬぐいをさせようとするのはお門違いである。

 

とまあ、ボロクソに書いたが、親側が勘違いしすぎな感がある。

子どもに「お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう」と言われたい気持ちはわかる。

気持ちは分かるが、それを言わせるために洗脳したり抑圧したりするのは、

『子どもを道具に使っている』のだ。

 

ん??どっかで聞いたような。

 

そう、冒頭の話に帰ってくる。

「他人」を「自分を見ないための道具」に使っている。

 

それは、私そのものだ。この態度は、親から学んだものだったのだ。

親が私を「自分を見ないため道具」として使ったことをしっかり経験的に学んでいて、私は他人との関わり方をそのように徹底したのだ。なんて素直で勉強熱心な息子だろう。涙が出そうだ。(笑)

 

そうした何らかの目的のために特定の何かをやりがちな状態を「嗜癖にしている」という。

「嗜癖」とは英語で「addiction」ともいう。つまり「依存症」、有害な習慣を意味する。

 

親も結局、この他人を道具として扱うことをやめられないために、子どもとの関係が破綻したと言える。親の在り方次第だったのに、いまだに子供に対して親に歩み寄る努力を求めている。この不自然さ、不健全さがわかるだろう。

先の私にクソバイスを言う人々は、依存しているのだ。子どもに。

自分の問題をみないために、自分の心の穴を満たすために存在する道具扱いしている。それにまだ気づいていない。

むしろ親として正当なことだと思っている。だから子供はますます病むし、親に失望し心がだんだん離れていく。いつになったら気づくんだろうなぁ。否認を解くのはとても難しいんだな、と思う。

 

親は、親自身の課題に全集中するのがベストだ。

というか、親に限らず、人は全てそうだ。

自分自身の生きづらさや人生の課題について、プライオリティを第一において取り組んでいる限り、最も豊かな人生を送ることができる。

他人をコントロールしようとせずそのままを尊重し、全ては無理でも一定数を愛することができる。なぜなら他人は自分と同じ世界の一部だから。

 

最近、自分の人生を一番に生きるようになって、他人と少しずつ深く語ることができるようになってきたと思う。

例えば私が自殺しようとしていたこととか、アルコール依存症になった経緯とか、素直に率直に話す内容を受け止められる人は、同じく率直に自分自身を語ってくれる。

そうやって、他人はそれまで知らなかった辛いことや哀しいことを、なんとか乗り越えて生き延びてきたことを知る。

それは、私とは違う人生だけれども、懸ける思いは同じだったのだと。

得も言われぬ、人生への深い愛と真摯さが根底に流れていて、それで自分と他人は繋がっていたんだと気づく。独りではないと気づくというのは、そういう感覚だ。

 

この繋がっているという感覚。自己開示しなければ得られない繋がり。

繋がっているという実感がないからこそ、寂しくて独りぼっちで、何かに「嗜癖」していなければ生きていられないほど辛い。

しかし、拒絶されることが恐ろしいので、自己開示できないから、最終的に欲しいものをいつまでも手に入れられず(実感できず)に、苦しみ続けている。

 

それが、子どもを道具に使おうとした私の親と、他人を道具に使おうとした私自身の、真の姿だった。

 

その姿を隠すためには「被害者」である必要があった。

「私は悪くない」と他人に言い訳するための隠れ蓑が必要だったから。

全部、本当は自分のことしか考えていない。

そうやって「被害者」として独りぼっちで自分のことばかり守ろうとして、自分を自分に閉じ込めたまま生きているから、苦しい。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き。

変えられるものは変えていく勇気。

それら二つのものを見分ける賢さ。

 

それらが与えられますように、と祈ろう。

そして、勇気を出して「被害者」として生きる嗜癖を手放そう。

その先に、本当に欲しかった繋がりがあり、真の安らぎがある。

それが、本当の意味で子どもを愛することに繋がる。

やらない手はない。

【仕事】製薬業界(MR)から異業種へ転職したい人への注意点

国内MR数 1年で2300人超減少 新型コロナの影響はこれから ミクス調査 

中堅企業の人事担当者からは、「今回回答したMR数に新型コロナの影響は入っていない。MRの存在意義が問われており、今後の数は読めない」との声が寄せられた。新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、デジタルによる情報活動は増加し、MRの医療機関への訪問回数は減少すると見る向きは多い。MRの役割や活動がポストコロナに再定義されたとき、業界のMRの規模もみえてきそうだ。

 

こんな記事に不安になったり、いつまでも在宅勤務で医療機関への訪問ができずに歯ぎしりしているMRは全国にたくさんいそうだ。

特に若い20~30代の世代は、「このままこの業界にいていいのだろうか?」「このままいつまでも外に出られずに気がついたら転職できない年齢になりリストラされるのでは?」と将来が不安になっているかもしれない。

国内の大手製薬企業にストレートで受かってくるような人だから、それなりの学歴で、自分自身をそれなりに優秀と思っているだろう。

しかし、人材としての市場価値があるかどうかは別問題だということと、現状の有難みを理解していないと、決断を急いで悔いを残すことになると思う。

異業種から製薬業界に転職してきた身として、業界の特殊性から転職を考える上での注意点をいくつか紹介したい。

 

①見積書や請求書を取り扱っていない異質さを自覚しよう

MRを一生懸命やってきたひとほど、「私は今まで『営業』の経験を積んできました!」という自負があるだろう。

しかし、実際はMRは営業をしているとはいいがたい。

やっていることは、情報提供。それだけだ。

見積を出し、納品し、請求書を渡しているのは卸のMSだ。私たちは医薬品卸に購入していただいて売上をあげているわけで、実際金品をやり取りしているのは卸だけだ。

特約店担当者だけが、会社の窓口として自社製品に関する生々しいお金の取引をしている。

実際、営業として異業種で働く場合、交渉がどれだけ上手で論理的で話術が巧みであっても、見積の出し方や他社との駆け引きによっていくらでも覆る。

決裁権が誰にあるか、顧客の部門予算は何月〆なのか、会社の体力を考えると何%まで値引き可能なのか。

社外だけでなく社内と常に交渉しなくてはならない。社内が動かないから、という言い訳は通用しない。結局顧客のニーズに合致する金額を社内から引き出せなければ他社に負けるし、いくら動いても売り上げが無くては利益が生まれない。

営業活動も、活動効率を考えなくては、粗利益からどんどん経費が引かれて純利益がなくなっていく。そうした経営者的な感覚で利益を生み出すべく動くことができる人間が、「営業」と名乗っている。

社用車が与えられて、ガソリン代を湯水のごとく出してもらえて、1日得意先を訪問しただけで「日当」という名目で非課税の2000円相当の経費がもらえる会社など、製薬会社以外ありはしない。そうした経費を勘案する必要のない恵まれた職場環境だったという異質さを認識しておくべきである。

 

②営業は売る方法や手段を自分で考える世界だと知ろう

製薬会社が恵まれているのは、発表用のスライドや宣伝資材がすでに完璧に用意されていることだ。

異業種から来た私としては中身をいじることができない、というのは逆に縛りがきつくて窮屈に感じてきたので、その面ではある程度営業活動に自由が利くことにMRはある程度喜びを感じるに違いない。

しかし、自由には責任がつきまとう。

どこかが責任をもってつくってくれていた資材を使うのとは違い、自分でつくり、会社に確認して、会社から了解をもらうという工程を踏まなくてはならなくなる。

実は自分が使う武器をいつも他の部署にアウトソーシングしていたということに気づくだろう。

そして、そうやって作ってもらっているものに文句を言ってばかりで、自分の責任でつくって実績を生み出したことが無いことに気づくだろう。

 

売る方法についても同様である。

マーケティングの部門がボストンコンサルティングやマッキンゼーに高いお金を払って市場分析してくれて、オピニオンリーダーにヒアリングまでして、「こうすれば売れるのではないか」という仮説を立てて、会社として推奨してくれるのは、製薬会社がリッチであることを象徴している。(だいたいその仮説が的外れなので、いつもがっかりするが。)

よくある一般的な企業には高いコンサル料を払う体力はないので、自分で売る方法を考えなくてはならない。

今まで売れなかったものを売る手法を独自に考えることは、誰も正解を知らないのでトライ&エラーの連続だ。失敗の責任はマーケティング部門のせいにはできない。売上の責任はすべて自分にかかる。

月末や年度末に薬剤部にお願いすれば買ってくれることなど無い。あんなのは粉飾決算である。返品ありきで購入してもらうなど、他の業界ではまずありえない。

本当の営業職は会社から言われたことをやっていれば給料をもらえるわけではない、ということに気づかされるだろう。

 

③福利厚生や年収は今よりダウンすることを覚悟しよう

正直、この仕事量でこんなに給料をもらえる仕事は他にはないだろう。

こんな楽な仕事はないと思う。めっちゃ楽だよMR。

接待やイベントへの参加が難しくなってきた今、ほとんどのMRは、毎日数軒の得意先を訪問するかWEB面談をしたりして、海外の論文をいくつか読み、英語の勉強でも隙間時間にしつつ、夕方になったら日報を提出して業務終了するような生活ではないだろうか。

営業は、粗利益で3人分の年収を稼ぐくらいで、一人前だと言われている。

そして粗利率は業界によって大きく異なるものの、数百万の取引では約15~20%程度。

つまり、今の年収を3倍して、その5倍の金額を年間で売り上げることができるかどうか、というイメージである。

例えば年収600万くらいだとすると、転職先の製品を約一億売ることができなくてはならない。その実力があるということを証明できる経歴だろうか。今のビジネスのノウハウで本当にそれだけの売上を達成できるだろうか。面接において、転職希望先の採用担当者を納得させられるキャリアのプレゼンができるだろうか。

考えてみてほしい。そういう視点で自身のキャリアを振り返ってみることがとても重要だ。

医薬品というのは、日常的に処方される。定期的に売れることが当たり前だ。

だから、今MRをしていて、毎日数十万売れていくのは当たり前だと思いがちだが、製薬業界の特殊性はここにもある。

一度処方を決めたらしばらくは毎日飲んだり定期的に投与したりする医薬品のような製品は、ベースの売上を構築しやすく、ビジネスモデルとしてはとても優れている。

そうした売上システムのサービスは、異業種だと携帯電話キャリアの定期契約だったり、機器のリース契約やレンタル契約に近い。いわゆる『定額制ビジネス』だが、これはとてもうまみのある、安定して収益が上がる構造なのだ。

しかし、物販だったり工事契約だったりすると、受注して支払いを確認したら、次をまた一から探さなくてはならない。商売の匂いを嗅ぎつけてあの手この手で群がる営業のなかで、コンペを勝ち抜き、高い勝率を保ち続けなくてはならない。

今日売れても明日売れる保証はないのがデフォルト。

そして、売れなければ居場所はない。

 

それに、製薬会社は、これから転職する会社より「法定外福利厚生」が充実している傾向にあると考えておいたほうがいい。

信じられないかもしれないが、企業型確定拠出年金(DC)すらない会社もある。家賃補助や交通費・家族手当などは無くなることを覚悟したほうがいい。というか、MRはかなり恵まれていて、ぬるま湯だったということを自覚すべきだと思う。

 

 

まとめ:安易にMRから異業種への転職を考えると痛い目に遭う

なんとなく、今まで積もり積もってきた愚痴というか鬱憤を吐き出しただけのような文章になってしまったが、感覚としては間違いないと感じる。

ずっと業界に違和感を感じてきた。

「世の中の仕事はMRよりもっと楽なもんだ」と思っている社員が、多いこと多いこと。

MRのほうが楽だから!こんなに給料もらえること自体がおかしいから!

と声を大にして言いたい。

 

現状に不満があるから異業種に転職したい?このコロナ禍で?

世の中を舐めるのもたいがいにしたほうがいいよ。

MRの経験だけで雇ってくれる一般企業なんて、今はほとんどないよ。

金銭感覚まずおかしいから。1個2000円とか3000円の弁当提供するのが当たり前の業種なんてありえないから。そんなふうに経費使ってサービスするときなんて、受注が確定した時だけだから!笑

そんな弁当をもらっておいて味に文句を言う取引先もあるので、たまげたが。そうした一部の医療関係者の金銭感覚に業界全体が引っ張られてきたというのもあるんだろうけど、浮世離れしていることを自覚しないと、本当に転職してから後悔すると思う。

そして、今は諸先輩方がやってきたような弁当や謝礼で釣る関わり方はもうできなくなっている。正直、やっていることは大したことがなくなってきた人が多いと思う。本当に存在意義が問われている。今、MRのままで自分のスタイルを改革するくらいの気概がないと、結局どの業種でも生きていけない、ジョブホッパーになってしまう瀬戸際にいると思ったほうがいい。

「そんなことはない、自分たちは医者と渡り歩いてきた経験があるし、薬学部を出るくらいには勉強もできたし、世の中のある程度の人間より優れているはずだ」と思うだろう。

ところがどっこい、お勉強ができてテストで点が取れて世の中に優秀な人材として求められるのは、「新卒というスペシャルカードがあるときだけ」なのだ。

勉強ができてもテストで点が取れてもたくさん暗記ができても、営業で生きていくからには今までとは違うサービスを生み出すクリエイティビティが必要不可欠だ。暗記や計算はもはやCPUのほうが早くて正確だ。そういうのは求められていない。

MRが本来強みとしていて、大切にしていたのに無くしてしまったものが、もっとも重要なものだったのだ。それは顧客のニーズととことん向き合い傾聴し、他の営業よりも早く、質の高い提案をもっていくということだ。以前は接待という名の深い付き合いのなかで信頼関係を構築し、先生方の右腕として陰ながら活躍してきたのが、MRだったんだろうと思う。

そうしたつながりは希薄になってしまったが、だからこそ今のこの難しい状況で転職に逃げずに創意工夫することにチャレンジできないMRが、他の業界に移って「優秀でデキる営業として即活躍できる」とは、私には思えないのだ。

 

現代のMRの強みとして、①論理的思考能力、②社内外で嫌われないための責任回避・危機回避能力、③英語力(海外文献を読み込み日常的に英会話を勉強しているMRのみ)④自動車運転の慣れ、が挙げられると思う。正直これだけってのはかなり心もとない。

もし今のこの強みしかない状態で転職するとしたら、同じ製薬業界内にしたほうがいいような気がする。

MR経験を活かしてオーファンドラッグベンチャーのMRに転職するとか、薬学知識と英語力を生かしてMA(メディカルアフェアーズ)やMSL(メディカル・サイエンス・リエゾン)として専門性をとがらせるほうがよっぽど現実的だと思う。地域包括ケアシステム構築のために必要不可欠なかかりつけ薬剤師として、患者さんに選ばれる地域の頼れる薬剤師を目指すのも素晴らしいことだと思う。

もしMRから異業種への転職を逃げ道に考えてフワフワしているとしたら、ちゃんと現実を見たほうがいい。

このままだと、多くの製薬会社の人間がどこにも行けない。

そうしたことは転職エージェントは商売をみすみす逃すことになるから言わないだろうし、面接でも直接教えてくれることはないだろうから、老婆心ながらちょっと書いてみた。

 

いずれにせよ、ここだけの話だが、製薬業界自体、もうかなり腐っている。

元々腐っていたが、もう回復の見込みがないほどの腐りっぷりだ。

このコロナ禍で、本当にはっきりした。絶望しかない。

今回のmRNAワクチンを世に出してしまったたことで、もはや後戻りできない一線を越えてしまった。これを理解していない人は多いが、もう決定的に道を誤った。

私は、もう製薬業界は終わったと思う。

これから就職する人は、絶対にやめておいたほうがいい業界である。

MRとして、製薬会社の人間として、生き残ろうというのはもうすでに破滅の一途をたどる道となった。未来はない。

そりゃ今の居場所に旨味はあるので、居れるだけはいるけど、絶対に長続きしないだろうから、泥船が沈む前に撤収するだろう。

そのために私は次に繋がるように働いているし、並行して勉強し他の業界で生き抜けるように工夫している。

だって、毒を売る会社が長続きするわけないじゃない。信用されるわけないじゃない。そんな会社に入りたい人が今後現れるわけないじゃない。

メガファーマのFとか、MとかTとかAとかは、遅かれ早かれ薬害訴訟だらけになると思う。

そして、誰も信用しなくなるだろう。『バイオハザード』シリーズのアンブレラ社のように。

もう、この業界からは、いつ足を洗うかというステージに来ている。時間は既に、ほとんど残されていない。

 

 

許しがたい罪は、いつの時代も、いつか贖われる運命にある。

人を殺めた大きな隠し事は、いつか白日の下にさらされ裁かれる運命にある。

オオカミ少年が、自分の嘘で己を追い詰めた。身から出た錆。

コントロールを手放せないACは、いつか底つきをする。

どうにもならなかったことを認めざるを得なくなる。

それは、必ず訪れる。

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

現代語訳:祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという物事の道理を示している。おごり高ぶっている人(の栄華)も長く続くものではなく、まるで(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう、まったく風の前の塵と同じである。

引用:平家物語『祇園精舎・冒頭』

 

 

【社会福祉士】現代社会が病んだ理由は「理性」

「理性的」というと、一般的には、とても聞こえがよい。

なんだかとてもスラッとしてスマートで無駄が無くてクールな感じがするだろう。

他人を尊重できて、礼儀正しくて、リッチな感じがするだろう。

理性で動くということは、この現代社会において肯定的にとらえられている。

 

「理性」=前頭前野

では、理性とは何か。

理性とは、脳の前頭前野(前頭葉)のことである。

 

引用元:http://www.matsusen.jp/ondoku/ondoku2-3.html

 

大雑把に言えば、感情をコントロールして、脳というチームの中間管理職的な働きをする。

人間は、他の動物に比べて前頭前野がとくに発達している生物である。

それゆえ、言語を持ち、道具を使い、文明を発展させてきたともいえる。人が「人らしさ」を体現しているのが、まさに前頭前野だと言える。

 

引用元:https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku1/kioku1_3.html

 

たとえば、アルコールを飲むと、人は「理性」を失う。

それは、アルコールという物質が脳の前頭前野を鎮静(麻痺)させてしまうからだ。

セクハラをしたり普段言わないことを言ったり、いつもより泣いたり笑ったりするのは、脳が麻痺しているから。その人の本性がダメなわけでも、意志が弱いのでもない。鎮静系の薬物(というか毒物)を体内に入れて「理性」という機能を停止させれば、誰でもいつでもそうなる。それだけだ。

感情をコントロールしたり、記憶に基づいて損得勘定したりすることができなくなってしまうので、その場の欲望に素直になるし、感情的になる。飲み過ぎると記憶もなくなる。

そういう薬物が、アルコールという薬物である。

私は文字通り死ぬ一歩手前で飲んだので、よく知っている(笑)。詳しくは、私のアルコール依存症の過去記事を参照されたし。

 

 

とまあそんなわけで、前頭前野こそ人間様の象徴、理性の源。

まさに前頭前野バンザイ、というわけだが、私はあまりこの理性万能主義とでもいうような現代の流れというか文化的風潮を、よく思っていない。

たしかに人間らしさは突き詰めると前頭前野であり、人間のなかでも前頭前野がより発達しているとすれば「より人間のなかでも人間らしい」個体ということで、他人に比べて優越性を感じるだろう。他者評価というのは常に不公平な相対評価である。

それはわかる。理屈は通っている。

 

引用元:http://www.matsusen.jp/ondoku/ondoku2-3.html

 

しかし一方で、とてもバランスが悪い。

前頭前野だけで考えて「正しい」「優れている」などと考えて決めるのは、早計すぎやしないか、と思うことが、現実には多々あると思っている。

何を言っているかというと、実際に五感をつかってその物質に触れてみて匂いをかいで…経験を経て持つ「実感」と、理屈だけ覚えて分かった気になっている「想像」とでは、大きな乖離がある。

だから前頭前野でばかり物を考えたり決めたりしていると「ズレて」くるということだ。答えが偏るし、ベストだと思った選択が必ずしもベストではない、ということが頻発する。

そういうわけで、その境界線を「肌で感じる」ことをしないで、脳内の仮想空間で分かったつもりになり、経験したつもりになり、とても狭い情報に基づいて可能性や魅力を計算してしまうことは、とても危険だ。

生身の感覚をともなって触れる世界こそが、本当に実在する世界であり、自分との境界線である。、

頭でっかちで自ら不幸になっていく種族、人間。

思えば、自然のなかで遊ぶことが本当に少なくなった。

コンクリートジャングルは、前頭前野の産物である。脳の世界を体現した、まさに「脳の檻」。

その檻の中に己の肉体を閉じ込めて、温度と湿度が管理された空間で季節を感じることもなく、朝から晩までPCやLEDの強い光に煌々と照らされて、私たちは毎日を過ごしている。

そのおかげで、自律神経はおかしくなり、うつになったり不眠になったり。その不調を治すためにはお金がいるので、さらに「脳の檻」のなかでほしくもないお金を求めて働かざるを得ない。

そんなの、生き物として不健康に決まっている。

 

人と人との繋がりは、どんどん希薄になったと思う。

実際に出会って手と手で触れて、同じものを見たり同じものを食べたりすることが、とても少なくなった。そういったことは「コスパが悪い」と言って切り捨てられた。

感情を表出することは「損をすること」で「未熟な人がすること」という『理性教』の偉大なる教えのもと、金銭的な不利益をこうむりたくないという損得もあいまって、人は気持ちに向き合うのをやめた。

自分の気持ちも他人の気持ちも、恐ろしいので目を逸らしている。

だから皆、さびしくてたまらないのである。

だから、怖くなったら簡単に終わらせることができるインスタントな繋がりにその寂しさの埋め合わせを求めて、お金で買える関係性(キャバクラ・ホスト・パパ活など)やSNS・Vtuberなどの仮想空間での関係性に群がる。

しかし、抱えた心の穴によってお互いを傷つけあい摩擦を起こしている。とても哀れだ。

喉が渇いていて水を求めているのに、水を飲む映像をいくら見ても渇きは癒えない。実際に水を飲むしか解決策はない。そんな感じだ。しかし、水を飲み込むのが怖いので、水を飲む映像を四六時中みながら涙を流して「喉が渇いた」と嘆いている人々。

 

これが、みんなが目を背けている、現実である。

 

前頭前野=理性を神と崇め奉り、人として最も優れた重要な特性なのだと信じて突っ走ってきた人類史のどん詰まりである。

幸せってなんだっけ?と思わないか。

もっと何もなかった時代のほうが幸せだったのではないか。

草木を愛で、山河に感謝し、朝日や月に祈り、ともに暮らす人を愛して生きていた時代と比べて、人は進化したのだろうか。退化したのではないだろうか。

その元凶が、理性至上主義・論理的思考ではないだろうか。

 

理性とは、世界のとらえ方の一つに過ぎない。

「はい論破」

論理で相手を言い負かしマウントを取るこのセリフが、子供たちの間では流行ってるという。

そんな児戯で天狗になりニヤニヤしているような人間は本当に「安い」。

人としての有り様がチープだとしか言いようがない。薄っぺらい。

「論理的思考というのはレゴのようなもの」だと岡田斗司夫さんが語っているのを聞いたことがある。まさしくそうだと私も思う。

しかし、こういう幼い人が、社会においては「優秀な人」「デキる人」「勝ち組」である。

私はこんなクズどもを結婚相手に選ぶとか趣味が悪いにもほどがあると思うけど、みんなこういう人がいいらしい(笑)。

 

理性とは、ものの考え方であり、捉え方の一つでしかない。

実際に体験して掴み取った実感が、あなたにとってのこの世界の真実であり、あなたの世界のカタチをつくっていく。

礎となる体験がないまま頭でわかった気になっても、実際は少しの拡がりもない。

成果や結果は運である。自分の能力で影響して予想した通りに動かしたように見えたとしても、それは思い込みである。

世界には世界の大きな理があり、それは人類なんかには到底コントロールできないものである。それを知らずに「コントロールできる」と得意になっているのは、お釈迦様の手の上の孫悟空そのものだ。

しかし、この前頭前野が発達していると自称する全てのエリートたちは、そろってみんな思い違いをしている。

「世界を持続可能にするため」

「もっと良い社会をつくるため」

「みんなを幸せにするため」

という共通のうわ言を言いながら、本当にこの理性だけで世界を改変しようとするから驚きである。

その改変は、総じて改悪にしかならない。

なぜなら、原理原則である「実感」が伴わない限り、頭のなかでの思考は「ゲーム」の域を出ないからである。

今人々がやっているのは、生きることではない。ゲームなのである。

世界のどこかで遊び半分でお金をもっともっと集めようとするプレイヤーが、世界のどこかで負けたプレイヤーを現実に餓死させたり自殺させたりしている。それがこの資本主義経済社会。新自由主義、グローバリズムを加速させて「進化した現代社会」である。控えめに言って地獄である。退化の間違いでは?

このゲームが好きなプレーヤーたちは、もっと効率的に、もっと自分たちがゲームしやすいように、ゲーム設定までいじろうとしている。

ゲームはゲームであって、他人の命を取る権利は、誰にもない。

前頭前野が他人より大きく発達しているから人殺しをしてもいいというのであれば、それは動物以下の行動原理ではないか。

 

最も持続可能な世界の原理原則は、愛。

なんでこんなにもこのゲームはつまらないのだろうか。

それは、最も重要な生命の行動原理、生命の象徴である「愛」がゴッソリ抜けているからだ。

 

愛情のホルモンであるオキシトシンは、脳下垂体後葉から分泌される。

 

引用元:https://www.chugai-pharm.co.jp/ptn/medicine/karada/karada021.html

 

引用元:http://dogwan.jp/information/index.php?%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%96%BE%E6%82%A3%2F%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E6%A9%9F%E8%83%BD

 

脳下垂体(下垂体)は、前頭前野を含む大脳皮質よりもずっと古くから生物に存在してきた、ベースの脳部位である。

つまり、新参者の前頭前野よりも、よっぽど長く生命を支えてきた脳の根幹だ。

そこから分泌されるオキシトシンは、幸せや安心を感じるホルモンである。

オキシトシンは、長期的なこの内因性オピオイド(エンドルフィンなど)の分泌を促し報酬効果を増強する作用があるといわれています。また、オキシトシンはストレスホルモン(コルチコステロイド)を抑制する作用もあります。

つまり、ずっと幸せに生きるための脳内麻薬の効きを良くしてくれてストレスを感じにくくしてくれる、安心と幸せのホルモンなのです。

引用元:【メンタル】知ってるつもりでよく知らない「ホルモン」のトリセツ③(セロトニン・オキシトシン・エストロゲン)

 

この愛を失ってしまって、人は代替的に様々なことを試してみたけれども、全然うまくいきませんでした、というのが、今の現状なんだと思う。

それを理性を基にひねり出したテックやらでなんとか誤魔化そうとまだ否認を続けているのが、現代の人間たちだ。

アルコール依存症の当事者が「オレはまだアル中じゃねー!減酒でイケる!」とか言ってなんとかしようとしているのと同じだ。そういう人は否認していることを認めるまで、何回でもズタボロになって入院しにくる。否認の病、とはよく言ったものだ。

そんなふうに「まだ理性でなんとかイケる!他の人間はバカだから無理だけど俺なら優秀だから理性で世界を変えられる!アホどもと一緒にすんじゃねー!!」とか言って世界をこねくり回して何とかしようとしている人たち。

「愛なしにはすべて無理だったんだ」と悟るまで、あと何回人を殺して、あと何回失敗するのだろう。

アルコール依存症では「底つき」と言って、仕事も家族も生きる希望を何もかもすべて失ってはじめて「自分ではどうにもならなかったこと」を認める。

無力を認める、ということは、本当に難しい。

勇気と謙虚さを持つものにしかできないことだからだ。簡単ではない。

自分の無力を認めて、世界のあるがままに委ねる。

そういう真の賢さを持つ人が、理性の信者に代わって、この世に残るだろう。

それはごく少数かもしれない。それまでにとてもたくさんの命とかけがえのないものが失われるかもしれない。

もはやすでに残された時間は、ほんのわずかになってから立ち返るのかもしれない。

でも、それも人類という種族の宿命だったのだろうと思う。

「恐竜がでかくなりすぎて氷河期に絶滅したように、次は愚かな人間という生き物が一世を風靡したんだけど、前頭前野をアホみたいに信じまくって突っ走った結果、もっと生きられただろうに早期に自滅したんよ( ̄∇ ̄;)ハッハッハウケる」というような歴史を、のちに現れた知的生命体がシェアしている。

そんな未来も近いのかもしれない。

【発達障害】「友達」をつくるって、具体的にはどうすればいいの?(神経発達症)

私は友達をつくるのがとんでもなく下手だ。

よくわからない。

どこからが友達で、どこまでが知り合いなのか。

何をきっかけに人々は友達になり、どうなったら親友と呼び合えるのか。

今日はそんな不器用な私の「友達」にまつわる話。

 

後輩にもタメ口で話せない

私は後輩にも基本的に敬語だ。

年下だろうが、経験が浅かろうが、関係が希薄なのにいきなりタメ口で話されるのが、私は好きではない。

だから、自分がされて嫌なことはしない。

しかし、違和感があるらしく、ずっと敬語を使っていたら後輩から「後輩なんでタメ口でいいっすよ」「そんなに気を遣わないでくださいよ」と言われる。

そう言われたら、たどたどしくはあるがタメ口でしゃべるようにしている。

でも、気を抜くとすぐに敬語に戻るので、個人的にはずっと敬語のほうが楽なのにな、と思っている。

 

なぜわざわざ、年下だから・後輩だから、と語尾を変えるのだろうか。

微妙な距離感がつかめない。

どのような通過儀礼を経て「タメ口でもよい」という認可が下りるのだろうか。

私にとって、それは中学高校時代からずっと謎に満ちた不可思議なことだった。

全く法則がわからず、とてもまごついた。今もまごついている。

 

親しくなったつもりが相手にギョッとされる

かといって、私のほうが親しくなった・理解しあえたと思い突っ込んだ話をすると、相手にギョッとされる。

私にとって話題が合うと感じたり、思考回路が似ていると感じたりする人は少ない。

だから、そういう「合う人」に出会うととても期待してしまう。

今まで話せなかった理解されない人生観や、世の中の不条理、人生の悲哀など、どんどん話したくなってしまって、相手がどうなのかも知りたくなってしまう。

そうやって『がっついて』しまうため、相手はいきなり大人しかった中年のおじさんが鼻息を荒くして近寄ってくるので恐れおののいてしまう。確かに怖い。

私はそのたびに「あ、また間違えた」と思って一気にトーンダウンする。

恥ずかしいし、哀しい気持ちになり、落ち込む。

もうしばらく人と話すのはいいかな、と思ったりする。実際1週間くらいはできるだけ誰にも会わないようにして、ひとりでぼんやりしている。

 

私は、いわゆる『コミュ障』と呼ばれる人だろうな、と思っている。自覚はある。

人との距離感は、とてもはかるのが難しく、毎回「違和感が無いように接する」というミッションを達成することがつらく、とてつもなく疲れる。一つ一つの会話が『魔界村』みたいな難易度である。何回も死ぬ。

だから私は人に会うのがあまり好きではない。無駄に疲れるから頻繁にはしたくない。

そう思って生きてきた。

こんな調子で、よく今まで生きてこられたと思う。

 

共有できる範囲が多いほど「仲良し」=「友達」

最近になってわかってきたことがある。

友達や仲良しに、明確なラインなどないのである。

神経発達症がスペクトラム状であるように、友人関係もグラデーションのようで一様に定義できるようなものではないらしい。

 

たとえば、ノウハウとして「仲良くなりたければ、共通の話題を探しなさい」というものがある。

具体的には、営業マンが取引先の人と仲良くなりたいときの方法としてビジネス書に書いてある。なるほど…世の人間は私利私欲のためにこうやって他人に近づいていくのか、と嫌悪感をにじませながらその手のハウツー本を三桁は不承不承眺めてきた。

この法則はある意味当たっている。

なぜなら、仲良くなるという現象は、『二人の間に共有できる「共通言語」をできるだけ広く深い範囲でシェアすること』により発生する。

例えば、出身地、出身校、好きな人物、好きな食べ物、好きな映画、好きな音楽、好きな場所、好きな休日の過ごし方、などなど「同じ」を探す。探して好きな気持ちに共感する。

自分と相手に「好ましい重なる興味の範囲」があるという認識が共有される。

つまり、相手と自分はシンクロして、一部分を共有する間柄となる。

このようにして「共通言語」としての「好き」が増えていけばいくほど、相手は自分とシンクロし、自分自身に近しい存在になっていく。

人間は、自分自身のことが一番好きで嫌い、つまり関心が高いので、自分の分身であるその人のことを気にするようになる。関心が向いていく。何をするのか気になり、一緒に時間を過ごしたくなる。

そうやって境界線があいまいになり、融合していくことを「仲良くなる」と人は表現する。

シェアしている「共有範囲」が大きければ大きいほど「親密度」は高くなる。

相手を一定の親密度を満たすと感じるようになったとき、その人にとって相手は友達になる。その一定の親密度の閾値はひとそれぞれである。そして要する期間もひとそれぞれ。

そうだと思えばそう、という世界だ。

 

特別な相手には期待しすぎてしまう

その親密度が相互にほぼ極限まで高まると、人は恋人になったり夫婦になったり親友になったり、他の人とは一線を画した関係を結ぼうとする。

シェアされた「共有範囲」は広く深く、お互いをよく知っているように思う。

しかし、それはあくまで共有されている部分が他人と比べて相対的に広く深いというだけにすぎない。

他人のすべてを把握することはできない。

自分の内面すら常に変化するし、把握していない部分があるのに、どうして他人のすべてを掌握することができようか。

できるわけがない。

つまり、全てを認識して理解するなど、お互いに人間である以上不可能なのである。

 

しかし不都合なことに、「共有範囲」つまり似ている部分が多いと、自分と相手は通じ合っていて言わなくても「同じ」なのだからわかるだろうと思い込んでしまうことがある。

期待しすぎてしまう。同じことを共有して認知を強化してきたから、自分の延長線上に相手もいると期待してしまう。

しかし、他人とは別の宇宙。似ているようで違う。同じようで同じではない。

基本的に分かったような気がしているだけ。勘違いである。

完全に分かり合うことは部分的であっても本来不可能。

それを親しくなればなるほど忘れてしまうし期待してしまう。それはしかたのないことだ。

 

多様性の尊重と受容って 実際は意外にドライ

実は優しい人ほど、他人に期待しすぎない。

それは、相手も自分も異なる人間だということを大前提として認めて受け容れているから。

相手が、自分の予測とは違う動きをしたり、思いもしない側面をみたりすることは必ずある。このすれ違いは、100%いつか訪れる。

そのときにひどく失望するか、「ああそういうこともあるか」とすんなり受け容れるか。

私は今まで結構、失望してきたタイプだ。

自分と同じはずの相手が予想外の反応や動きをしたことにひどく動揺して、相手を怒ったり自分の思考が至らなかったことを責めたりした。

自分の一部になったはずの相手に裏切られた気がしたし、すでに自分の一部に取り込んだはずの部分がゴッソリ欠けるような喪失感。地面が抜けるような恐怖を感じた。

相手との境界線があいまいになり、相手の領域を侵食しているのだ。

自他の境界線(バウンダリー)を適切に引けていない、お互いに領域を侵略しあっている状態を「共依存」という。

まさに「相手を理解しているつもり」「自分を分かってくれているはず」という思い込みは、共依存状態に感じる感覚だ。

「他人に期待する」という行為は、もしかすると相手の領域を勝手に想像して、「自分と同じなんだからこうに違いない」と勘違いして侵略することかもしれない。そう思って一歩引いて自分を眺めてみると、相手がどれだけ想像の斜め上を行っていても、意外と腹も立たないし、悲しみも感じない。今までのように不安や焦りに突き動かされることもない。

なぜなら、それらは元々コントロールできない、自分には触れることができない問題だったのだと心から納得できるからである。

私は相手に対して無力だったのだ、そもそも相手の行動をとやかくいうような、そんな権利はなかったのだということを認識し、執着を手放せる。相手のするように任せることを自然なこととして受け入れる心が宿る。

そうなれば、無理に相手と「合わせない」「強要しない」。自分が無理に従うこともないし、相手を無理に従わせることもない。

それぞれが生きたいように生きる人生を尊重し、離れることがあったとしてもそれを静かに受け容れることができる。

それは、相手を最大限に信頼しているし、尊重している姿だと私は思う。

はたから見ると、その人がどうなっていようがどうでもよい、というような投げやりでドライな態度に見えるかもしれない。

しかし私は、この在り方こそが、最もその人のことを愛していて優しい接し方だと、最近は思うようになった。

 

相手の自由意志を尊重しながら「共有範囲」を増やす=友達をつくる

ここで話題はタイトルに還ってくる。

今までの話を経て、私は友達をつくるという作業がどういうことなのか、だいたいわかってきた。

つまり、相手の自由意志を尊重しながら「共有範囲」を増やすことが、友達をつくることだ。

相手のすべては分からない。また、自分をすべてわかってもらうことも不可能だ。

1対1の関係で、全てを満たそうとするから、依存的になるし限界がある。

「友達」というのは、特定のひとりでなくてもよいのだ。

つまみ食いのようなものだ。

ある分野ではA君と、ある分野ではBさんと。「共有範囲」は1対Nの関係性のなかでその質量(クオリアに近い)を増やしていけば、それだけ「友人関係」というリソースは増大する。

だから、友達をつくるというのは、私と相手の間に固有の関係性があるかないか、ということでは本質的には語れないということだ。

私からみて「友達をつくる」という行為は、固有の関係性に閉じて限定されてはいけない。「共有範囲」をいかに1体Nの関係で多く多様なクオリアを保持するか、が重要。

分かりやすく言うと、様々な人と率直に会話を重ねて、お互いにシェアできる「好き」を多くの質と量、見つけ育てていくのが、「友達をつくる」という一連の作業の具体的な方法なのだということ。

友人に恵まれ豊かな人生を送っている人は、このトライ&エラーをとんでもない回数行ってきたことに気づく。

最初から好かれる正確だったわけでもないし、生まれた時から友達を一定数契約して確保しているのでもない。

潜在的な能力でもないし、性格が悪いから友達が少ないのでもない。

ただ単に、まだ「好き」の「共有範囲」を見つけられていないのだ。その相手に巡り合っていないだけだ。

だからどんどん新しくあった人と会話をして、相手の好きなものを聞こう。自分の好きなものを話そう。そうすれば、共通の好きなことが見つかる。その瞬間から、もうすでに私たちの「友達」は増えているのだ。

好きが重ならないこともある。その場合は、もっと他の人がその人の好きとめぐりあって、「共有範囲」を構成する。だから心配はいらない。その人と合わないのにいつまでも話を合わせる必要はないんだ。

最もよくない恥ずべきことは、相手を「かわいそう」だと勘違いして「共有範囲」をもっているふりをすることだ。それは相手にとって最も屈辱的で、相手を不幸せにする。

相手を尊重しているからこそ、小賢しく合わせたり従ったりしない。

自分を尊重しているからこそ、自分の好きを強制したり、逆に恥じたり隠したりしない。

そうでありさえすれば。

その基本姿勢さえ常に崩さず、爽やかに生きていさえすれば。

そして会話の母数を増やしていきさえすれば、確率論的に誰でも必ず友達はつくれる。そして増えていく。

今、合意できる範囲が他人の平均からずれていて【友達】がいなくても。

それは私が悪いせいじゃない。

私はダメなわけじゃない。

私は少し他の人とは違うだけだ。少数派であるだけ。

分母を増やせば確実に【友達】が形成される確率は増えていく。

出会えば出会うほど、共有できる価値観のクオリアは増える。

 

これはここ最近で一番うれしい希望。清々しい発見だな、と思っている。

【AC】「上から目線だね」と言われるのはなぜ?

私はよくひとから「上から目線だね」と言われることがある

私は、よく顔に出る。態度にも出る。

そういう意味ではとても素直な性格をしていると思うけれど、他人からは「性格がねじ曲がっている」と言われる。

確かに言われるままを信じないという意味では、人々の言う「素直さ」はないのかもしれない。でも、私にとっては「他人の言うことは信用ならない」という信念に真っすぐなのであって、そういう意味ではある種の一途さがあるとは思わないか。

まあ思わないから「ありえないくらいにひん曲がっている」とまで表現されるんだろう。

 

ごく最近になって、そんな私が他人に対して「上から目線だな」と思うことがあった。

それは、あるイベントで私が開催しているものに参加してくれた人のこんな一言に対しておもったことだった。

「まあ、私としてはこのイベントに参加する意味があるとは思えなくなってきたんですけれど、みなさんの成長をここで見守っていきたいと考えているのです」

なかなかの高みから我々を見下ろしているご意見を頂戴した。

「そうですか」としか言いようがなかった。

私は「上から目線だな」と思う側の立場になって、ある法則を発見した。

 

上からだと思う=「君は下から見上げるのが当然」と思ってるから

それは、発言者に対して、聞き手が「お前は私より下だ」という前提の認識を持っているということだ。

「上から目線だ」と感じるのは、本来下にいるはずの人に下からではなく上から目線を送られたことに対して、自分の認識とは異なる相手の予想外の態度に対する違和感・怒りの感情が発生しているからである。

分かりやすく喩えるなら、自分は上司で相手は部下だと思っていたり、自分は先輩で相手は後輩だと認識している状態なのに、いきなりため口で説教を垂れてこられたような感覚である。

つまり「上から目線だな」と思うということは、言ってきた相手を自分より下に見ているということを意味している。

それこそ、上から目線ではないだろうか。

私は当該の発言をしてきた人を、今まで自分が悩んできたけれど解決に近づいている問題に今もなお悩んでいて、問題の本質に気づいていないのに、分かったつもりになっている、と思って下に見ていたように思う。

それが事実だったとしても、私はその人よりも問題の認識レベルが上にあるという傲慢な思い込みを自分のなかに発見して、少しショックだった。

 

本来人には上も下もないのに、上下関係をつくるのは、常に自分の「思い込み」だ。

そしてその思い込みは、己のなかの不安や恐れから生成されている。

「私は分かっている」「私は成長している」

そう思いたい。自信がないから他人と比べて安心したくなる。本当にそうであればそれは全く気にする必要が無いのだが。

不安や恐れは必要な感情である。

ネガティブな気持ちがあるおかげで、私たちは己を省みたり来るべきリスクを予想して備えることができる。それが行き過ぎると、強迫性障害や全般性不安障害になるが、全くなくても双極性障害の躁状態のようなもので、バランスを欠く。

大切なのは、誤魔化さないことである。

不安や恐れがある、ということを認める。認めて、傍らに置いておくことができる。

それが最も自然な状態だということ。

感情に反応する人ではなく、感情を認めて自ら行動する人であるということ。

不安や恐れが自分のなかに「ある」と謙虚に認識しているか否か、だが、この違いはとても大きい。そしてとても難しい。

 

Timing is everything; don’t jump the gun

とらわれないようにするには「この人との間に上下関係はなく、対等な関係なのだ」と自分の認識を正すことだ。

先の私の思い込みを例にとって言えば。

その人が「このイベントには意味がない」と思うことは、その人の権利であり自由だ。好きなようにそう思っていればよく、今後参加するかしないかも、私がどうこう言うものではない。必要だと思えば参加するのだろうし、不必要だと思えば離れていくのだろうし、意味がないと言いながらも足しげく通ってくるかもしれない。それは私にとってはどうでもよいことだ。

その人の人生は、その人が決めるからだ。そうでしかありえない。

私は私で、意味があるイベントにしたいという願いを形にするためにできる事をするだろうし、意味がある時間と空間を作り上げるためだったら、意見を求めたりもするだろう。

そうやってできたものをどう評価するかは、一切合切他人の領分なのであって、私は私が提供できる最良のものを準備するところまでしか、できることはないのである。

チャンスをどう受け取るかは他人の準備ができているかどうかにもかかっている。

啐啄同時というのか、わかるべきときはわたしにもあなたにも「与えられる」ものであって、遅いも早いもないのである。その人にとってベストなタイミングがある。

私が未だに知らないことは星の数ほどあり、私より頭がよく詳しい人は数えきれない。

そういう無数の英知から、私は日々学んで少しずつ「なりたい自分」になっていく。

そのような牛歩の歩みは人間であればだれでもそうで、特別なことは何もない、こと人生という営みにおいては。

だから、上から目線だと言われたときには「ああ、この人にとっては、私には至らない点があるんだな、それはどういう部分なのだろう」と思って耳を傾けてみる。

それが私にとってもそう思える内容なら改善のチャンスだし、的外れな思い込みなら「不安だから私を下に置いておきたいだけの人なんだな」と思ってスルーしておけばいい。

上から目線だな、と思って怒りの炎が心のなかでチリリとしたときには「ああ、今自分のなかには相手を下に見ている気持ちと、それを生む不安や恐れがあるんだな」と思って心に耳を澄ませてみる。

不安や恐れが見つかったなら、それを信頼できる人に打ち明けて聞いてもらえばいい。楽になるだろう。そして客観的にその思いが真実か思い込みかどうか、落ち着いて眺めてみることだ。冷静になれたあなたは、たいていが杞憂だと気づくはずだ。

こうやって書いているけれど、言うは易く行うは難し。実に難しい。

まだまだだな。

【共依存】信頼関係の原則のひとつは「アサーティブネス」

英語って大事だなと最近特に身に染みて思う。

日本語というとてもニッチな言語しか習得していないことはとても大きなリスクだった。

それを知らずにここまで生きてきたことを後悔している。

今からでも語学力はつけるべき能力だと思う。

 

最近観て勉強になった動画は すべて英語

 

全部ウイルス感染症に関する動画だが、英語を知らなければ何を言っているのか全く分からない。

親切に日本語字幕をつけてくれてYoutubeにアップされても、すぐに消されてしまうので、英語を勉強していない人は内容を知る由もない。

ここで上記の内容を要約して書いたりするとこのブログが閉鎖に追い込まれることは必至なので、ご勘弁願いたい。

 

分からない医学用語はネットで翻訳したり、聞いたイントネーションから単語を想像して打ち込んで調べたりと、時間がかかる。

とてもめんどうくさい。

だから、みんなあまりやりたくないだろう。

だからやらない。やる価値が無いと思い込めたほうが、不安にもならない。

だから、触らないで遠ざけてみて見ない振りをする。

まるで童話の『狐と葡萄』に出てくる、取れない葡萄を「どうせ酸っぱくてまずい」と言って諦める狐のように。

でも、めんどうくさいことには価値があるのだ。

そうでなければ知ることができない情報があるのなら。

 

実際、これをみるとかなり日本のメディアが報道している情報とはかけ離れている。

ワクチン接種を推奨している理由が、別の角度から見えてくる。

そしてその理由は私たちにとって歓迎できるような内容ではないことも・・・。

 

私たちはお互いに「見えている世界」しか見えない

私たちはつい、今見えている世界が、世界そのものだと思いがちだ。

でも、今見えている世界は、私たちが経験してきたものや今の立場から見えている景色の一つでしかなくて、全く違う人生を生きてきた他の人からは、180度違う世界として見えているかもしれない。

ついつい自分が見えているように、他人にも世界が見えていると思い込んでしまう。

だから分かり合えないと動揺するし、自分の世界観が揺らぐことはとてつもない恐怖なので、相手の世界を否定して自分の世界を守ろうとする。

こうして口論や戦争といった、人と人の醜い争いは勃発する。

 

この争いを生まないために最も重要なものは、想像力だ。

「もしかするとこの人は、私とは違う見え方で世界が見えているのかもしれない」という想像力をもつことだ。

どちらの見え方が正しいのでもない。

歪んでいると思っても、その人にとってはその世界が今まで見てきた親しみのある「世界」なのだ。

いきなりどこの馬の骨とも知らぬ人間から「違う!」と大声で指を指されたらどうだろうか。

自分を守るために「そんなことはない!」と意地になるだろう。誰もがそうだ。

 

自分と違う意見と出会ったとき、それを無理に一緒にしようとしないこと。

それぞれの見方や意見に、同等の価値があると認める謙虚さを持つこと。

論理的な正しさは、絶対的な正しさではないのだ。振りかざして武器に用いてはいけない。それは間違った使い方だ。

お互いの見え方を分かり合うために、より妥当な妥協点を探るために、コミュニケーションをとるために論理はある。相手を論破するだとか、そんな安い目的に使うものではない。

 

論破するのがひろゆき氏を筆頭にさも優れた人間の作法のように語られることには、嫌悪感とともに違和感が大きい。

本当に優れた人間性を持つ人間は、論破しようとはしないからだ。

なぜなら、正しさは一つではないことを知っているし、そんなに単純に世の中ができているわけでは無いことを経験しているから。

自分の頭のなかだけで考えているから、実態からかけ離れていく。しかし論理的には正しいので、だれも何も言わなくなる。結果、独りで頭のなかだけで閉じている。

独りでしゃべって得意になって他人を傷つけ、周りには誰も近寄らない人。

それはもはや、優秀な人とはいえない有様だとは思わないだろうか。

 

アサーティブに話ができる人を信用しよう

学歴とか資格とか、社会的地位とか収入とか、そんなものでは全く他人のことは分からない。

たまたまそういう基準があって、たまたまその基準にマッチする結果が、たまたまその人の手に転がり込んだだけだ。

なぜなら、人はひとりで何もかも成し遂げることができないからだ。

必ずすべては見えないチームの成果である。私たち一人一人がつかむものは、時代も国境も超えた見えないチームの成果だ、と自覚できていない時点で、その人の経験の浅さが知れる。

 

私の経験上、ひとつ指標になると思うのが、「アサーティブネス」だ。

画像引用元:http://www.genkipolitan.com/a/asa/3type.html

 

たとえば、Twitterは「アグレッシブ」同士が常に殴り合っている。24時間営業の異種格闘技のリングのようなものだ。疲れ・寂しさ・悲しみ・怒りが募るに決まっている。常に被害者か加害者としてその心に傷を負っているのだから。できるだけ離れたほうが良い。

そうした傷つけあう関わり方、あるいは無責任で消極的だったり罪悪感で誘導しようとするような「ノンアサーティブ(パッシブ)」な関わり方をする人を信頼しないのは、とても大事だ。

なぜなら彼らは、あなたをサンドバックにするか、あなたに体重を預けて寄りかかろうとしてくるからだ。あなた自身の自由と権利が脅かされかねない。

 

「アサーティブ」な関わりができる人と時間を過ごそう。信頼してお互いに助け合おう。

その限りにおいて、人と人との関わりはとても美しく愛に満ちたものになる。

RADの私がそう思うのだから、おそらく間違いない。

 

 

宮台真司氏は、各論でたまに誤ったことを自信満々に断言してしまったり、注目を集めるために強い言葉を使って人を傷つけたりすることもあるけれど、やはり一流の社会学者だと思っている。

「社会という荒野を仲間と生きる」

というスローガン、私はとても好きだ。

まさにこれだ。

アサーティブに他人と接することができ(他人の世界を尊重することができ)、失敗の痛みと正しさの薄っぺらさを経験した深みのある人間。そんな人間と仲間になって助け合うよりほかに、この社会という荒野を生き抜く術はないのではないかと思う。

幼少期とは、人生のためにその術を試行錯誤できる唯一の練習期間なのだ。

失敗しないように純粋培養しようとしてはいけないし、衝突を保護者が恐れて飼いならしてはいけない。

そういう悪い意味での温室育ちの弊害として、想像力の欠如と正しさの奴隷化を促進しているように思う。

まずは私が見本となれるよう、アサーティブを勉強し、身に着けていきたいと思っている今日この頃である。

どうせ12月に新型コロナウイルスは「流行らされる」ので、まともに仕事にならないだろうから、ちょうどよい。

【AC】他人が嫌いだという話(ACと反応性愛着障害)

私は人間のくせに、人間が嫌いだ。

とにかく近くに人間がいると落ち着かない。気になる。

人がいる安心感?冗談ではない。警戒感しかない。

ソーシャルディスタンスの2mくらい離れていないと、不安で仕方がない。

だから人混みを歩くことは、サメが泳いでいる海を裸で泳いで渡っているような心地だ。

ジムや温泉に人が片手以上の人数いると、思わず「チッ」と舌打ちをしてしまう。

レクリエーションをしにきたのに、これじゃあ気が休まらないじゃないか、と思う。

いつか家にジムとサウナを導入したい。誰にも邪魔されない安心できる環境で楽しめる日を夢見ている。

人混みにいると落ち着くとかいう感覚が本当に信じられない。

他人とゲームしたり、何かをやったりするのが楽しい感覚も信じられない。

できれば、独りでいたい。

そんな人はいないだろうか。多分いると思う。

 

反応性愛着障害(RAD)

私は個人的には、愛着障害って基本的にアダルトチルドレンの医学的分類だと思っている。

DSM-5では、「トラウマとストレス関連障害」のなかに「反応性愛着障害(以下、RAD)」がある。

養育者との愛着(きずな)がうまく形成されないことによる障害で、深刻な虐待/ネグレクトがその背景にあるとされている。

アダルトチルドレンは、機能不全のある家庭システムに育ち、幼少期に不健全な人間関係を構築するパターンを学んでしまったために、そのパターンの制約に成人してからも苦しんでいる人々のこと。

こうやって並べてみてみると、虐待やネグレクトがどうこうという限定された背景というよりは、本質的に「家庭の何らかの機能不全により、他者との交流に困りごと(障害)を抱えている」という点が、全く同じということがわかる。

 

RADは一言でいうと「人が(怖い・嫌)。だから人を求めない」という状態である。

とても共感する。

物心がつく幼稚園くらいには「親は正しいことをしないと味方をしてくれない」と思って半ばあきらめていたし、特に笑うこともなかった。子どもも大人も含めて他人と関わることを避けはじめていた。

私の幼少期は、殴る蹴るのない虐待みたいなものだったのかもしれないが、それは外から見てもよくわからない精神的なものだったのだろう。

 

「人」と「人間」

そんなわけで、常にATフィールド全開の私だが、信頼できると思う人には心を開くこともある。

私にとって「人」と「人間」にはものすごい開きがある。

その辺に生きているのが「人間」という動物。

信頼できる人生に深く関わるのが「人」である。

「人間」は正直生きようが死のうがどうでもいい。

むしろうっとおしいので、ちょっとでも数が減ってくれたほうが助かる。

私も分類学上は同じ人間なので偉そうなことは言えないが、醜く学ばず傲慢で強欲で残酷で、基本的にろくでもない生物だと思っているので、死んだほうが地球のためにはなると思う。

でも、人間として生を受けた以上、人間として生きていくしかない。

人間という生物の枠のなかでみなそれぞれ思い思いに生きて、みな勝手に生きて勝手に死んでいくのである。

そんなことを言うと「他の人と自分も同じなんだから。自分が死んだほうがいいと言われたら嫌でしょ?」とか言われる。

ずっとそういう「死んでいても生きていてもどっちでもいい」という扱いだと思っていたし自分自身もそう思って生きてきたから、逆に言えば「他の人と自分が同じ」という論理なら、そう思われるのが自然ということで解釈一致なのでは?という感じである。

それに、他人は、私がされて嫌なことを、私にさんざん腐るほどしてきたではないか。「他人が嫌がることはしない」などというご高説を垂れられても。どの口が言うのか。全然ピンとこない。

クリック一つで簡単に人を殺すし、金のためならどんな汚いことでもするし他人を踏みつけていくくせに、よくそんなおべんちゃらが言えるよなあ、と思う。

 

基本的に私は、人間であることがいいことだとは思えない。

犬や猫や昆虫や草木のほうが、生を謳歌していると思う。真っすぐに今を生きている。そういう真摯な生命には、頭が下がる。

無駄がない。余計な不純物を抱えていない。洗練されている。生き様に覚悟と凛々しさがある。

できるだけ人間ではなくそういう別の生命に触れて、人間社会ではなく、自然界の大切な真理を学ぶこと。それが大事だと思う。人間社会は腐っているので、触れ続けていると魂が腐る。『風の谷のナウシカ』でいうところの腐海のようなもの。適度に抜け出して息継ぎをしないとやっていられないのは当たり前だ。

 

他人との関わりは食事のようなもの

とはいえ、他人との関わりなしに人間は生きていけない。

だから私は人間から人に自身を昇華して、人と繋がるしかない。

 

食事に似ている。

摂らなくては生きていけない。

でも、毎度毎度、胃が痙攣するようなゾッとする味の食事をするのはただの拷問だ。

こんな日々なら死んだほうがマシだ、と何度思ったことだろう。

無いと生きていけないから、と不安で焦って詰め込んでも、醜く肥え太るだけである。生命としての磨き抜かれた姿とは程遠くなる。いずれ死を選ぶことになる。

 

ちゃんと食べようとしているものを見て、選ぶ。

自分に必要で大切なものを、必要な分だけ頂く。

人付き合いも、それでいい。

全員と仲良くする必要はない。どことも知れない他人が活きようが死のうがどうでもいい、というのは、自然なことだ。建前上、聞こえがよくないから皆言わないだけで、本心はそうだ。

この目に映る「人間」はごく一部と知りながら、そのなかで信頼で繋がることができる「人」を見出して、その人たちと共生できればいい。それが「仲間」である。

必要な量は個体により異なる。

私は必要最低限でいい。そんなに他人に興味が無い。たくさん食べてしまうと食傷気味になる。お腹いっぱいだからもう見たくもない。

たくさん必要な人は、仲間をたくさん作ればいい。「たくさん友達がいるほうが幸せでしょう?」と自分の感覚を押し付けるのは、もうお腹いっぱいですと言っている相手の口に無理やり飯を押し込むのと同じだ。やめていただきたい。もはや当事者にとってはただの拷問である。映画『Se7en』を思い出す。

 

なんかすごくまとまりがないけど、漠然とこの感覚を可視化したくて文章にしてみた。

人間が嫌いな人間がいてもいいじゃないか、と思う。

人間は「やれ疾患だ」「やれ障害だ」「やれ回復してないからだ」とレッテルを貼って他者を欠陥品扱いするのが好きだが、それは「その人の認識の範囲」から当該の人物のパーソナリティが収まらないから、何かレッテルを貼らないと不安なだけではないか。

理解を超えたものがあると不安だから、自分の下に位置付けるために、欠けていると考えたいだけではないか。

そういう処理はご自身で勝手にやるのがよい。

勝手にこっちにレッテルを貼りに来ないでほしい。うっとおしい。

そんなにペタペタ他人に何かを貼ったりしている暇があったら、自分を見つめ直して、生きたい人生を生きたらいいのに、と思う。

私はとても理解しがたいと思いながらも放っておいているのだ。そっちもそのようにしてほしい。

いや、それこそ余計なお世話か。

私は、私の人生を、他人にこれ以上邪魔されずに楽しみたい。

ただそれだけだが、それがなかなか叶わない。

ままならないものだ。

【出産】無痛分娩レポ・後悔しない産院選びの3つポイントまとめ

結論を先に書く。

無痛分娩がいい。選べるならそっちにした方がいい。

それをこれから書いていく。

 

自然分娩と無痛分娩、比較してみた

こんな感じ。

無痛分娩はその名の通り、痛みが圧倒的に弱い。そして苦しい時間は短時間で済む。

分娩室にいた時間をみてもらうとわかると思うけど、相当違う。子宮口が全開になる直前までベッドでリラックスできるのはとっても貴重。分娩台は大体硬くて寝心地がそんなに良くないので、ずっと陣痛に耐えながら硬い場所にきつい体勢で寝かせられるのは地味だけどめちゃくちゃしんどい。

自然分娩の第一子は、前駆陣痛で3日寝れないまま本陣痛を迎え睡眠不足と痛みでヘロヘロになりながら産んだ。精も根も尽き果て、最後の方の会陰切開(会陰を麻酔せずはさみで2〜3センチ切る)ではジョキンという音は聞こえたが全く痛みを感じないほど痛覚は限界を超えていた。

一方の無痛分娩では、前日もちゃんと眠れて、睡眠不足には悩まされなかった。付き添うパートナーもお尻を押したり一緒に寝ずにマッサージしたりしなくても良い。

自然分娩は無痛分娩より安いのが良いところ。

記事を公開したところ、さっそく感想で「+2万はかなり良心的。+15万のところもあるよ」ご意見をいただいた。産院によりかなり料金設定にひらきがあるようで、私たちがお世話になった産院はかなり良心的だったのかも。

相場としては、+10万前後。割とするなー、という印象。

少しでも費用負担を抑えたいなら、自然分娩かな。

正直これだけ負担が減らせるなら、私は10万払う価値があると思う。

私たちとしては、次回があれば、迷わず無痛分娩を選択したいと思うほど違った。

 

無痛分娩の流れ

そんな無痛分娩。

ここからは、第二子の無痛分娩の流れを時系列で振り返ってみた。

⭐︎はワンポイントアドバイス。

出産前日(8月31日)

15:00 内診

夜20:15から入院が決定。

もう産まれてもいい大きさになっていること、子宮口が1センチ開いてきていることを確認したため決定した模様。

9月15日が予定日だったので焦る。

⭐︎無痛分娩の場合、入院準備は早めにしておいた方がいいよ!

 

20:25  入院・入院の説明など
21:00   前処置開始

麻酔を投与するための管を留置する前処置。

背中に管を入れる。前処置が一番痛いらしいと助産師さんから聞いてビビるが、少し痛かったくらいで特に違和感もなし。

そのまま22時就寝。

 

出産日(9月1日)

6:00 起床

起きて速攻座薬を入れる。座薬が一番きつい(笑)。

座薬を入れて3回トイレに行き、お腹空っぽになる。

腹が減ってひもじい。

8:00 朝食

待望の朝食タイムで軽く絶望する。

⭐︎どうしても我慢できない空腹を想定して、必ずゼリー飲料などの流動食やカロリーメイトなどの軽食を持っていっておこう!

8:15 内診

意図的に破水させる処置。お腹少しちっちゃくなる。

良い感じに張りが進んでいて「早ければお昼頃に出産かな」と言われる。

陣痛促進剤を投与。

9:00  アロマセラピストさんのマッサージ

足をマッサージしてもらう。めちゃ気持ち良い。

9:30ごろに陣痛促進剤が効いてきているのか、お腹の張りが徐々に強くなる。

 

10:00 麻酔処置開始

痛みが強くなってきた感じがするので、麻酔を入れてもらう。

子宮口の開きは、5cmぐらい。

1回入れると1時間程度鎮痛効果が持続すると説明を受ける。

実際、10:20には全然痛くなくなった。

処置されて待機している間は病室。

こんな感じ。腕についているのは促進剤投与のための点滴。↓

陣痛始まりまっせ、くらいの痛みぐらいまでしか味わわないままなので「このまま本当に産まれるのかな?」と少し不安になる。そのくらい痛みがない。

 

12:00 停滞

子宮口をちょいちょい確認してもらうも、5cmから開かないで停滞中。

2時間経っても麻酔はまだ効いていて、痛くない。

 

13:00 麻酔追加

3時間経つと少しずつ痛みが戻ってきたので、麻酔追加。

「だいぶ下がってきているからあと少しだね」と言われる。

「お尻押される感じがしたら、全開に近づいているから教えてね」と言われる。

痛くないし、お尻の感じもよくわからないが、とにかく腹が減っている。

お昼ご飯も来なかったので、出産後に食べたい食べ物のことばかり考えるようになる。

15:23 子宮口全開

全く痛くなく、お尻を押される感じも全然わからないまま「来ねーなぁ」と病室でボケーっとしていた。

回診に来た先生に「え?!もう全開になってるよ!!頭出てるよ!!」と言われ、分娩室へ緊急搬送される。

15:48 出産

分娩台に上がって15分くらいで産まれる。

分娩室にいたのは25分。

いきなり頭を出した状態で妊婦が運ばれてきたので、準備していなかったスタッフたち、テンパる。10分で準備してくれる。

「もうちょっとだけど、麻酔どうする?追加で打つ?」

と聞く助産師さん。

「このままいけます!余裕っす(`・∀・´)」

とイキって追加投与を断った結果、後陣痛で結構な痛みを味わう。出産後、痛みと空腹からか嘔吐する。

 

⭐︎「イケるかも」と思っても、痛いのが嫌な人は麻酔をしっかり追加しよう!(多少痛い方がいきみやすいらしいので、初産の人は多少痛みを感じられた方が逆に良いかもしれない‥。)

18:00 念願のご飯

やっと食べられたけど、吐く。しょげて薬を飲み横になる。

 

⭐︎一般的に術後悪心嘔吐には、オンダンセトロンやグラニセトロンなどの制吐剤が有効で、2021年9月から保険適用にもなったので、覚えておこう!

19:00 回復

麻酔で麻痺していただけで、思いのほか疲れていたのか、横になっていたら落ち着いてくる。

出産翌日以降

ご飯を食べたりおやつを食べたりたまにアロママッサージしてもらったりしながら、優雅に過ごす。

新生児のお世話。おっぱいをあげたりオムツを替えたりする。

自然分娩の時のような疲労感が残っていないので、あまり新生児の世話がキツくないように感じる。

そして検査等特に問題なかったので、退院。

 

まとめ:無痛分娩で産院を選ぶポイント

今回の経験から、産院を決める場合に確認しておきたいポイントを3つにまとめる。

①助産師さんが子宮口を確認できるかどうか

第一子の産院では、助産師さんのスキル不足で子宮口の開き具合をドクターしか確認できなかった。そして分娩室に放置して全然様子を見にも来なかった。

今回の第二子の産院は、助産師さんが子宮口の確認から新生児の取り上げまで行えるスキルがあった。定期的に様子を見にきてくれて、ちゃんと適切な処置ができた。

この違いは、大きい。

結局子宮口が開いていないことには出産できないので、自然分娩でも無痛分娩でもこの開き具合の確認はこまめに行わなくてはならないが、助産師さんが確認できないと、必然的にドクターしか判断できない。ドクターは忙しいのでそんなに頻繁に確認はできない。結果として、苦しむ時間が無駄に長くなる恐れがある。

第一子の出産時、強い陣痛が来てもうそろそろなのでは?と訴えても「子宮口が開いたら産まれますから」と壊れたレコードのように繰り返すばかり。自分では子宮口が開いているか確認できないくせにのらりくらりとしている助産師に対して、業を煮やした付き添いの夫がブチギレた。

「君に確認する能力がないのはもうわかった。君に出来ないのなら確認できる人間を連れてこい。そして速やかに確認しろ。妊婦である当事者がその必要があると言っているのに、必要があるかどうか判断出来ない君と話しても仕方がない。判断できる人を連れてこい。」と強くいうと、渋々呼びにいった。

医師にみてもらったところすでに全開だった。ぶっ殺してやろうかと思った。

 

②医師が日本産科麻酔学会に所属しているかどうか

無痛分娩のかなめは麻酔である。

麻酔に詳しくない医師の場合、何が起こるかというと、夜出産になったときに自分で麻酔ができない。なので、非常勤で外部から麻酔医を呼んで処置するのだが、夜に連携先の麻酔医を外注することは、基本的にできないと考えた方が良い。

つまり、無痛分娩を謳っていても、夜間の陣痛には対応できない産院が存在する、ということだ。

無痛分娩は基本的に計画的に生むので、前日の夜に入院して当日昼に生まれるように前処置をするし陣痛促進剤を投与するが、もし予定がずれ込んだ場合、麻酔処置に対応できないスタッフ編成の産院の場合、無痛分娩を諦めなくてはならなくなる。

なので、医師が「日本産科麻酔学会」に所属している医師かどうか、をよくみて決めてほしい。

この学会に所属している医師は、基本的に無痛分娩や帝王切開に必要な麻酔の情報をしっかり知っていて、対処方法を学んでいるし、スタッフ教育も熟練していると考えて良い。信頼できる一つの指標である。

 

③アロマセラピストがいるかどうか

入院中、地味に助かったのが、アロマセラピストの存在。

アロマを使った足のマッサージを術前術後にしてくれるし、出産時に立ち会ってくれるところもある。

安眠できるように好みのアロマを就寝時にセットしてくれるので、入院中とてもリラックスして過ごせる。

マストではないが、とても重要なポイントだった。

 

 

以上、参考になれば幸いです。

【メンタル・ヘルスケア】CBD(カンナビジオール)を使ってみた話

結論を先に書いてしまうと、よかったんだけど高すぎるという話。

 

カンナビジオール(CBD)とは?

大麻に含まれる成分の一つ。大麻には主にCBDとTHCが含まれている。

いわゆるハイになる成分はTHCのほう。

CBDはエンドカンナビノイドシステム(ECS)という身体調節機能に働きかける。体内でCB1受容体・CB2受容体に作用する。神経系において、CB1受容体は主に脳・中枢神経、CB2受容体は末梢神経に主に分布している。

CBDを体外から摂取することにより、CB1受容体が活性化して、記憶・認知・感情・睡眠・食欲・痛覚などに影響を与える。CB2受容体が活性化すると炎症を抑える方向に働く。

CB1受容体が活性化されると、以下のようにモノアミンが動く。

まず直接アセチルコリンを抑制して記憶機能を低下させる。次にグルタミン酸を放出促進することで意欲や食欲を増加させる。そして、GABAの放出を促進する。

これにより、ドパミン・ノルアドレナリン・アセチルコリン・ヒスタミン等のモノアミンを放抑制し鎮静に働く。それにより落ち着いていられて、興奮したり不安になったりしなくなる。

痛みに関しては、中脳と扁桃体に作用することで鎮痛効果を示すと確認されている。下行性疼痛抑制系にノルアドレナリンのシグナル伝達抑制を起こさせることによるものだと思う。申し訳ない、ちょっとはっきりわからなかった。CB2受容体の炎症抑制が関係している可能性も高い。

そんなわけで、炎症性疾患、疼痛管理、不安・抑うつ・PTSDなどの症状緩和、などを目的として海外では役立てられている、比較的安全性が高い物質。

それがCBDである。

 

実際に使ってみた

CBDオイルと、加熱式タバコタイプのCBDを購入して試してみた。

 

CBDオイル

CBDオイルは、MCTオイル(中鎖脂肪酸)にCBDが溶かしてある製品。

ダイエットであまり脂質を摂りたくない私にとって摂取をためらわせる製品特性である。

なんとなくあまり効果を感じなかった。

ひとビンで約8,000円する。1ヶ月もつとして、270円/日。

結構、コストがかかる。

 

 

加熱式タバコタイプのCBD

次に加熱式タバコタイプのCBDを試してみた。

 

これは、とても鎮静を実感した。

以下に示すのは、海外でのCBDの1日摂取量の推奨用量である。

 

引用論文;Corroon, J., Sexton, M. & Bradley, R. Indications and administration practices amongst medical cannabis healthcare providers: a cross-sectional survey. BMC Fam Pract 20, 174 (2019). https://doi.org/10.1186/s12875-019-1059-8

最も推奨している人の割合が多かったのは、16〜30 mg/日だった。しかしこれは対象疾患により大きく異なる。

このデータによれば、一般的には加熱式タバコタイプのCBD製品の場合、一1〜2本/日らしい。

私の場合は、他人といる不快感、いわゆる社交不安が常に隣にあるのが当たり前の日常だったので、CBDを摂取して鎮静し落ち着いて、他人がいても特にイライラしないで落ち着いてリラックスして過ごせる状態を維持するには、100mg/日必要だった。

1本10mgのCBD配合の製品で、私が満足する量は1日10本、つまり100mg。

これ、1本378円。

つまり一般的には約400〜800円/日のコスト感。

私の場合は、約4,000円/日。高すぎる。無理。

 

結論;効果は期待できるが高すぎるから、もういいや

鎮静によるリラックス効果は申し分ない。

今までリラックスというのがよくわからんかったけど、これがリラックスしているときの気持ちなんだなぁと思った。

ぼーっとするという感覚。常に頭が何かを考えたり何かを話している状態のASD・ADHD合併の私にとって、とても新鮮な感覚だった。

これで体内の炎症も抑えてくれるのだから、可能なら是非継続的に投与したいところだ。

 

しかしながら、高すぎる。

もはや1日4,000円も必要なら無理である。諦めざるを得ない。

結局私が求めているのは、慢性的な社交不安・ストレスに対処することだ。

具体的には、ドパミンとノルアドレナリンの過剰分泌による交感神経系の過興奮を鎮静すること。

そう考えると、D2受容体のパーシャルアゴニストである、エビリファイやレキサルティでシグナル伝達を安定化させる方がクリティカルだし、セロトニン濃度を上昇させつつ一部パーシャルアゴニスト的な作用を示すS-RIMという新しい薬効群であるトリンテリックスの方がまだ有効な気がする。

加えて、モノアミンに直接作用しないで扁桃体〜青斑核のノルアドレナリンを抑制することができると考えられるADHD治療薬のインチュニブを組み合わせることで、パニック・社交不安の症状とストレスを軽減できるはずである。

これらを全て合わせても、保険診療で精神科の先生に処方してもらうならば、1日4,000円はいかない。

1日薬価で1,400円程度なので、3割負担でも約400円。1/10である。絶対こっちの方がコスパがいい。

私の場合は自立支援医療制度を受けているので、1割負担だから、140円/日である。断然こっち。

もしもCBDが医療用医薬品として保険収載されたら、投与を再度検討するだろうけど。

費用対効果を考えると今のところ、もういいかな。

 

あとは、ドパミンやアセチルコリンを分泌抑制するからか、SSRIを飲んだときのようなアパシー・アンへドニア(無気力、ポジティブ感情の低下、意欲の減退、報酬に対する感受性の低下、喜びの喪失)のような脱力感がある。

意欲のもとになるグルタミン酸は分泌増加しているはずなのに、おかしい。

筋トレや読書など、何かをしようとは思えない。

有意義な何か、と思うと全然意欲がないが、食欲や睡眠欲など、生き物としての根源的な行動については欲求が高まる。なので、よく食べよく寝ることはできる。

嫌なことをしているときに吸っていると、嫌悪感を麻痺させてくれるので作業そのものは終わりやすい。しかし吸いながらやっていると何をやったかはいまいち記憶していないから、勉強には向かない。

最終的には記憶に残さなくてもいいどうでもよくて面倒なタスク処理のときに吸っていた。仕事中はこれが一番の活用方法だった。

とにかく、心が瀬戸内海の水面のように穏やかで波が無い感じ。

喜びもないが悲しみもない。ただ生きている。そんな感じ。

以上の感覚から、モノアミンの動きから社会機能・認知機能を低下させる可能性がある関係で、社会生活をパワフルに営みたい人には少しデメリットがあるとも感じた。

 

少しでも役に立てば幸い。