【共依存】信頼関係の原則のひとつは「アサーティブネス」

英語って大事だなと最近特に身に染みて思う。

日本語というとてもニッチな言語しか習得していないことはとても大きなリスクだった。

それを知らずにここまで生きてきたことを後悔している。

今からでも語学力はつけるべき能力だと思う。

 

最近観て勉強になった動画は すべて英語

 

全部ウイルス感染症に関する動画だが、英語を知らなければ何を言っているのか全く分からない。

親切に日本語字幕をつけてくれてYoutubeにアップされても、すぐに消されてしまうので、英語を勉強していない人は内容を知る由もない。

ここで上記の内容を要約して書いたりするとこのブログが閉鎖に追い込まれることは必至なので、ご勘弁願いたい。

 

分からない医学用語はネットで翻訳したり、聞いたイントネーションから単語を想像して打ち込んで調べたりと、時間がかかる。

とてもめんどうくさい。

だから、みんなあまりやりたくないだろう。

だからやらない。やる価値が無いと思い込めたほうが、不安にもならない。

だから、触らないで遠ざけてみて見ない振りをする。

まるで童話の『狐と葡萄』に出てくる、取れない葡萄を「どうせ酸っぱくてまずい」と言って諦める狐のように。

でも、めんどうくさいことには価値があるのだ。

そうでなければ知ることができない情報があるのなら。

 

実際、これをみるとかなり日本のメディアが報道している情報とはかけ離れている。

ワクチン接種を推奨している理由が、別の角度から見えてくる。

そしてその理由は私たちにとって歓迎できるような内容ではないことも・・・。

 

私たちはお互いに「見えている世界」しか見えない

私たちはつい、今見えている世界が、世界そのものだと思いがちだ。

でも、今見えている世界は、私たちが経験してきたものや今の立場から見えている景色の一つでしかなくて、全く違う人生を生きてきた他の人からは、180度違う世界として見えているかもしれない。

ついつい自分が見えているように、他人にも世界が見えていると思い込んでしまう。

だから分かり合えないと動揺するし、自分の世界観が揺らぐことはとてつもない恐怖なので、相手の世界を否定して自分の世界を守ろうとする。

こうして口論や戦争といった、人と人の醜い争いは勃発する。

 

この争いを生まないために最も重要なものは、想像力だ。

「もしかするとこの人は、私とは違う見え方で世界が見えているのかもしれない」という想像力をもつことだ。

どちらの見え方が正しいのでもない。

歪んでいると思っても、その人にとってはその世界が今まで見てきた親しみのある「世界」なのだ。

いきなりどこの馬の骨とも知らぬ人間から「違う!」と大声で指を指されたらどうだろうか。

自分を守るために「そんなことはない!」と意地になるだろう。誰もがそうだ。

 

自分と違う意見と出会ったとき、それを無理に一緒にしようとしないこと。

それぞれの見方や意見に、同等の価値があると認める謙虚さを持つこと。

論理的な正しさは、絶対的な正しさではないのだ。振りかざして武器に用いてはいけない。それは間違った使い方だ。

お互いの見え方を分かり合うために、より妥当な妥協点を探るために、コミュニケーションをとるために論理はある。相手を論破するだとか、そんな安い目的に使うものではない。

 

論破するのがひろゆき氏を筆頭にさも優れた人間の作法のように語られることには、嫌悪感とともに違和感が大きい。

本当に優れた人間性を持つ人間は、論破しようとはしないからだ。

なぜなら、正しさは一つではないことを知っているし、そんなに単純に世の中ができているわけでは無いことを経験しているから。

自分の頭のなかだけで考えているから、実態からかけ離れていく。しかし論理的には正しいので、だれも何も言わなくなる。結果、独りで頭のなかだけで閉じている。

独りでしゃべって得意になって他人を傷つけ、周りには誰も近寄らない人。

それはもはや、優秀な人とはいえない有様だとは思わないだろうか。

 

アサーティブに話ができる人を信用しよう

学歴とか資格とか、社会的地位とか収入とか、そんなものでは全く他人のことは分からない。

たまたまそういう基準があって、たまたまその基準にマッチする結果が、たまたまその人の手に転がり込んだだけだ。

なぜなら、人はひとりで何もかも成し遂げることができないからだ。

必ずすべては見えないチームの成果である。私たち一人一人がつかむものは、時代も国境も超えた見えないチームの成果だ、と自覚できていない時点で、その人の経験の浅さが知れる。

 

私の経験上、ひとつ指標になると思うのが、「アサーティブネス」だ。

画像引用元:http://www.genkipolitan.com/a/asa/3type.html

 

たとえば、Twitterは「アグレッシブ」同士が常に殴り合っている。24時間営業の異種格闘技のリングのようなものだ。疲れ・寂しさ・悲しみ・怒りが募るに決まっている。常に被害者か加害者としてその心に傷を負っているのだから。できるだけ離れたほうが良い。

そうした傷つけあう関わり方、あるいは無責任で消極的だったり罪悪感で誘導しようとするような「ノンアサーティブ(パッシブ)」な関わり方をする人を信頼しないのは、とても大事だ。

なぜなら彼らは、あなたをサンドバックにするか、あなたに体重を預けて寄りかかろうとしてくるからだ。あなた自身の自由と権利が脅かされかねない。

 

「アサーティブ」な関わりができる人と時間を過ごそう。信頼してお互いに助け合おう。

その限りにおいて、人と人との関わりはとても美しく愛に満ちたものになる。

RADの私がそう思うのだから、おそらく間違いない。

 

 

宮台真司氏は、各論でたまに誤ったことを自信満々に断言してしまったり、注目を集めるために強い言葉を使って人を傷つけたりすることもあるけれど、やはり一流の社会学者だと思っている。

「社会という荒野を仲間と生きる」

というスローガン、私はとても好きだ。

まさにこれだ。

アサーティブに他人と接することができ(他人の世界を尊重することができ)、失敗の痛みと正しさの薄っぺらさを経験した深みのある人間。そんな人間と仲間になって助け合うよりほかに、この社会という荒野を生き抜く術はないのではないかと思う。

幼少期とは、人生のためにその術を試行錯誤できる唯一の練習期間なのだ。

失敗しないように純粋培養しようとしてはいけないし、衝突を保護者が恐れて飼いならしてはいけない。

そういう悪い意味での温室育ちの弊害として、想像力の欠如と正しさの奴隷化を促進しているように思う。

まずは私が見本となれるよう、アサーティブを勉強し、身に着けていきたいと思っている今日この頃である。

どうせ12月に新型コロナウイルスは「流行らされる」ので、まともに仕事にならないだろうから、ちょうどよい。

【AC】他人が嫌いだという話(ACと反応性愛着障害)

私は人間のくせに、人間が嫌いだ。

とにかく近くに人間がいると落ち着かない。気になる。

人がいる安心感?冗談ではない。警戒感しかない。

ソーシャルディスタンスの2mくらい離れていないと、不安で仕方がない。

だから人混みを歩くことは、サメが泳いでいる海を裸で泳いで渡っているような心地だ。

ジムや温泉に人が片手以上の人数いると、思わず「チッ」と舌打ちをしてしまう。

レクリエーションをしにきたのに、これじゃあ気が休まらないじゃないか、と思う。

いつか家にジムとサウナを導入したい。誰にも邪魔されない安心できる環境で楽しめる日を夢見ている。

人混みにいると落ち着くとかいう感覚が本当に信じられない。

他人とゲームしたり、何かをやったりするのが楽しい感覚も信じられない。

できれば、独りでいたい。

そんな人はいないだろうか。多分いると思う。

 

反応性愛着障害(RAD)

私は個人的には、愛着障害って基本的にアダルトチルドレンの医学的分類だと思っている。

DSM-5では、「トラウマとストレス関連障害」のなかに「反応性愛着障害(以下、RAD)」がある。

養育者との愛着(きずな)がうまく形成されないことによる障害で、深刻な虐待/ネグレクトがその背景にあるとされている。

アダルトチルドレンは、機能不全のある家庭システムに育ち、幼少期に不健全な人間関係を構築するパターンを学んでしまったために、そのパターンの制約に成人してからも苦しんでいる人々のこと。

こうやって並べてみてみると、虐待やネグレクトがどうこうという限定された背景というよりは、本質的に「家庭の何らかの機能不全により、他者との交流に困りごと(障害)を抱えている」という点が、全く同じということがわかる。

 

RADは一言でいうと「人が(怖い・嫌)。だから人を求めない」という状態である。

とても共感する。

物心がつく幼稚園くらいには「親は正しいことをしないと味方をしてくれない」と思って半ばあきらめていたし、特に笑うこともなかった。子どもも大人も含めて他人と関わることを避けはじめていた。

私の幼少期は、殴る蹴るのない虐待みたいなものだったのかもしれないが、それは外から見てもよくわからない精神的なものだったのだろう。

 

「人」と「人間」

そんなわけで、常にATフィールド全開の私だが、信頼できると思う人には心を開くこともある。

私にとって「人」と「人間」にはものすごい開きがある。

その辺に生きているのが「人間」という動物。

信頼できる人生に深く関わるのが「人」である。

「人間」は正直生きようが死のうがどうでもいい。

むしろうっとおしいので、ちょっとでも数が減ってくれたほうが助かる。

私も分類学上は同じ人間なので偉そうなことは言えないが、醜く学ばず傲慢で強欲で残酷で、基本的にろくでもない生物だと思っているので、死んだほうが地球のためにはなると思う。

でも、人間として生を受けた以上、人間として生きていくしかない。

人間という生物の枠のなかでみなそれぞれ思い思いに生きて、みな勝手に生きて勝手に死んでいくのである。

そんなことを言うと「他の人と自分も同じなんだから。自分が死んだほうがいいと言われたら嫌でしょ?」とか言われる。

ずっとそういう「死んでいても生きていてもどっちでもいい」という扱いだと思っていたし自分自身もそう思って生きてきたから、逆に言えば「他の人と自分が同じ」という論理なら、そう思われるのが自然ということで解釈一致なのでは?という感じである。

それに、他人は、私がされて嫌なことを、私にさんざん腐るほどしてきたではないか。「他人が嫌がることはしない」などというご高説を垂れられても。どの口が言うのか。全然ピンとこない。

クリック一つで簡単に人を殺すし、金のためならどんな汚いことでもするし他人を踏みつけていくくせに、よくそんなおべんちゃらが言えるよなあ、と思う。

 

基本的に私は、人間であることがいいことだとは思えない。

犬や猫や昆虫や草木のほうが、生を謳歌していると思う。真っすぐに今を生きている。そういう真摯な生命には、頭が下がる。

無駄がない。余計な不純物を抱えていない。洗練されている。生き様に覚悟と凛々しさがある。

できるだけ人間ではなくそういう別の生命に触れて、人間社会ではなく、自然界の大切な真理を学ぶこと。それが大事だと思う。人間社会は腐っているので、触れ続けていると魂が腐る。『風の谷のナウシカ』でいうところの腐海のようなもの。適度に抜け出して息継ぎをしないとやっていられないのは当たり前だ。

 

他人との関わりは食事のようなもの

とはいえ、他人との関わりなしに人間は生きていけない。

だから私は人間から人に自身を昇華して、人と繋がるしかない。

 

食事に似ている。

摂らなくては生きていけない。

でも、毎度毎度、胃が痙攣するようなゾッとする味の食事をするのはただの拷問だ。

こんな日々なら死んだほうがマシだ、と何度思ったことだろう。

無いと生きていけないから、と不安で焦って詰め込んでも、醜く肥え太るだけである。生命としての磨き抜かれた姿とは程遠くなる。いずれ死を選ぶことになる。

 

ちゃんと食べようとしているものを見て、選ぶ。

自分に必要で大切なものを、必要な分だけ頂く。

人付き合いも、それでいい。

全員と仲良くする必要はない。どことも知れない他人が活きようが死のうがどうでもいい、というのは、自然なことだ。建前上、聞こえがよくないから皆言わないだけで、本心はそうだ。

この目に映る「人間」はごく一部と知りながら、そのなかで信頼で繋がることができる「人」を見出して、その人たちと共生できればいい。それが「仲間」である。

必要な量は個体により異なる。

私は必要最低限でいい。そんなに他人に興味が無い。たくさん食べてしまうと食傷気味になる。お腹いっぱいだからもう見たくもない。

たくさん必要な人は、仲間をたくさん作ればいい。「たくさん友達がいるほうが幸せでしょう?」と自分の感覚を押し付けるのは、もうお腹いっぱいですと言っている相手の口に無理やり飯を押し込むのと同じだ。やめていただきたい。もはや当事者にとってはただの拷問である。映画『Se7en』を思い出す。

 

なんかすごくまとまりがないけど、漠然とこの感覚を可視化したくて文章にしてみた。

人間が嫌いな人間がいてもいいじゃないか、と思う。

人間は「やれ疾患だ」「やれ障害だ」「やれ回復してないからだ」とレッテルを貼って他者を欠陥品扱いするのが好きだが、それは「その人の認識の範囲」から当該の人物のパーソナリティが収まらないから、何かレッテルを貼らないと不安なだけではないか。

理解を超えたものがあると不安だから、自分の下に位置付けるために、欠けていると考えたいだけではないか。

そういう処理はご自身で勝手にやるのがよい。

勝手にこっちにレッテルを貼りに来ないでほしい。うっとおしい。

そんなにペタペタ他人に何かを貼ったりしている暇があったら、自分を見つめ直して、生きたい人生を生きたらいいのに、と思う。

私はとても理解しがたいと思いながらも放っておいているのだ。そっちもそのようにしてほしい。

いや、それこそ余計なお世話か。

私は、私の人生を、他人にこれ以上邪魔されずに楽しみたい。

ただそれだけだが、それがなかなか叶わない。

ままならないものだ。

【出産】無痛分娩レポ・後悔しない産院選びの3つポイントまとめ

結論を先に書く。

無痛分娩がいい。選べるならそっちにした方がいい。

それをこれから書いていく。

 

自然分娩と無痛分娩、比較してみた

こんな感じ。

無痛分娩はその名の通り、痛みが圧倒的に弱い。そして苦しい時間は短時間で済む。

分娩室にいた時間をみてもらうとわかると思うけど、相当違う。子宮口が全開になる直前までベッドでリラックスできるのはとっても貴重。分娩台は大体硬くて寝心地がそんなに良くないので、ずっと陣痛に耐えながら硬い場所にきつい体勢で寝かせられるのは地味だけどめちゃくちゃしんどい。

自然分娩の第一子は、前駆陣痛で3日寝れないまま本陣痛を迎え睡眠不足と痛みでヘロヘロになりながら産んだ。精も根も尽き果て、最後の方の会陰切開(会陰を麻酔せずはさみで2〜3センチ切る)ではジョキンという音は聞こえたが全く痛みを感じないほど痛覚は限界を超えていた。

一方の無痛分娩では、前日もちゃんと眠れて、睡眠不足には悩まされなかった。付き添うパートナーもお尻を押したり一緒に寝ずにマッサージしたりしなくても良い。

自然分娩は無痛分娩より安いのが良いところ。

記事を公開したところ、さっそく感想で「+2万はかなり良心的。+15万のところもあるよ」ご意見をいただいた。産院によりかなり料金設定にひらきがあるようで、私たちがお世話になった産院はかなり良心的だったのかも。

相場としては、+10万前後。割とするなー、という印象。

少しでも費用負担を抑えたいなら、自然分娩かな。

正直これだけ負担が減らせるなら、私は10万払う価値があると思う。

私たちとしては、次回があれば、迷わず無痛分娩を選択したいと思うほど違った。

 

無痛分娩の流れ

そんな無痛分娩。

ここからは、第二子の無痛分娩の流れを時系列で振り返ってみた。

⭐︎はワンポイントアドバイス。

出産前日(8月31日)

15:00 内診

夜20:15から入院が決定。

もう産まれてもいい大きさになっていること、子宮口が1センチ開いてきていることを確認したため決定した模様。

9月15日が予定日だったので焦る。

⭐︎無痛分娩の場合、入院準備は早めにしておいた方がいいよ!

 

20:25  入院・入院の説明など
21:00   前処置開始

麻酔を投与するための管を留置する前処置。

背中に管を入れる。前処置が一番痛いらしいと助産師さんから聞いてビビるが、少し痛かったくらいで特に違和感もなし。

そのまま22時就寝。

 

出産日(9月1日)

6:00 起床

起きて速攻座薬を入れる。座薬が一番きつい(笑)。

座薬を入れて3回トイレに行き、お腹空っぽになる。

腹が減ってひもじい。

8:00 朝食

待望の朝食タイムで軽く絶望する。

⭐︎どうしても我慢できない空腹を想定して、必ずゼリー飲料などの流動食やカロリーメイトなどの軽食を持っていっておこう!

8:15 内診

意図的に破水させる処置。お腹少しちっちゃくなる。

良い感じに張りが進んでいて「早ければお昼頃に出産かな」と言われる。

陣痛促進剤を投与。

9:00  アロマセラピストさんのマッサージ

足をマッサージしてもらう。めちゃ気持ち良い。

9:30ごろに陣痛促進剤が効いてきているのか、お腹の張りが徐々に強くなる。

 

10:00 麻酔処置開始

痛みが強くなってきた感じがするので、麻酔を入れてもらう。

子宮口の開きは、5cmぐらい。

1回入れると1時間程度鎮痛効果が持続すると説明を受ける。

実際、10:20には全然痛くなくなった。

処置されて待機している間は病室。

こんな感じ。腕についているのは促進剤投与のための点滴。↓

陣痛始まりまっせ、くらいの痛みぐらいまでしか味わわないままなので「このまま本当に産まれるのかな?」と少し不安になる。そのくらい痛みがない。

 

12:00 停滞

子宮口をちょいちょい確認してもらうも、5cmから開かないで停滞中。

2時間経っても麻酔はまだ効いていて、痛くない。

 

13:00 麻酔追加

3時間経つと少しずつ痛みが戻ってきたので、麻酔追加。

「だいぶ下がってきているからあと少しだね」と言われる。

「お尻押される感じがしたら、全開に近づいているから教えてね」と言われる。

痛くないし、お尻の感じもよくわからないが、とにかく腹が減っている。

お昼ご飯も来なかったので、出産後に食べたい食べ物のことばかり考えるようになる。

15:23 子宮口全開

全く痛くなく、お尻を押される感じも全然わからないまま「来ねーなぁ」と病室でボケーっとしていた。

回診に来た先生に「え?!もう全開になってるよ!!頭出てるよ!!」と言われ、分娩室へ緊急搬送される。

15:48 出産

分娩台に上がって15分くらいで産まれる。

分娩室にいたのは25分。

いきなり頭を出した状態で妊婦が運ばれてきたので、準備していなかったスタッフたち、テンパる。10分で準備してくれる。

「もうちょっとだけど、麻酔どうする?追加で打つ?」

と聞く助産師さん。

「このままいけます!余裕っす(`・∀・´)」

とイキって追加投与を断った結果、後陣痛で結構な痛みを味わう。出産後、痛みと空腹からか嘔吐する。

 

⭐︎「イケるかも」と思っても、痛いのが嫌な人は麻酔をしっかり追加しよう!(多少痛い方がいきみやすいらしいので、初産の人は多少痛みを感じられた方が逆に良いかもしれない‥。)

18:00 念願のご飯

やっと食べられたけど、吐く。しょげて薬を飲み横になる。

 

⭐︎一般的に術後悪心嘔吐には、オンダンセトロンやグラニセトロンなどの制吐剤が有効で、2021年9月から保険適用にもなったので、覚えておこう!

19:00 回復

麻酔で麻痺していただけで、思いのほか疲れていたのか、横になっていたら落ち着いてくる。

出産翌日以降

ご飯を食べたりおやつを食べたりたまにアロママッサージしてもらったりしながら、優雅に過ごす。

新生児のお世話。おっぱいをあげたりオムツを替えたりする。

自然分娩の時のような疲労感が残っていないので、あまり新生児の世話がキツくないように感じる。

そして検査等特に問題なかったので、退院。

 

まとめ:無痛分娩で産院を選ぶポイント

今回の経験から、産院を決める場合に確認しておきたいポイントを3つにまとめる。

①助産師さんが子宮口を確認できるかどうか

第一子の産院では、助産師さんのスキル不足で子宮口の開き具合をドクターしか確認できなかった。そして分娩室に放置して全然様子を見にも来なかった。

今回の第二子の産院は、助産師さんが子宮口の確認から新生児の取り上げまで行えるスキルがあった。定期的に様子を見にきてくれて、ちゃんと適切な処置ができた。

この違いは、大きい。

結局子宮口が開いていないことには出産できないので、自然分娩でも無痛分娩でもこの開き具合の確認はこまめに行わなくてはならないが、助産師さんが確認できないと、必然的にドクターしか判断できない。ドクターは忙しいのでそんなに頻繁に確認はできない。結果として、苦しむ時間が無駄に長くなる恐れがある。

第一子の出産時、強い陣痛が来てもうそろそろなのでは?と訴えても「子宮口が開いたら産まれますから」と壊れたレコードのように繰り返すばかり。自分では子宮口が開いているか確認できないくせにのらりくらりとしている助産師に対して、業を煮やした付き添いの夫がブチギレた。

「君に確認する能力がないのはもうわかった。君に出来ないのなら確認できる人間を連れてこい。そして速やかに確認しろ。妊婦である当事者がその必要があると言っているのに、必要があるかどうか判断出来ない君と話しても仕方がない。判断できる人を連れてこい。」と強くいうと、渋々呼びにいった。

医師にみてもらったところすでに全開だった。ぶっ殺してやろうかと思った。

 

②医師が日本産科麻酔学会に所属しているかどうか

無痛分娩のかなめは麻酔である。

麻酔に詳しくない医師の場合、何が起こるかというと、夜出産になったときに自分で麻酔ができない。なので、非常勤で外部から麻酔医を呼んで処置するのだが、夜に連携先の麻酔医を外注することは、基本的にできないと考えた方が良い。

つまり、無痛分娩を謳っていても、夜間の陣痛には対応できない産院が存在する、ということだ。

無痛分娩は基本的に計画的に生むので、前日の夜に入院して当日昼に生まれるように前処置をするし陣痛促進剤を投与するが、もし予定がずれ込んだ場合、麻酔処置に対応できないスタッフ編成の産院の場合、無痛分娩を諦めなくてはならなくなる。

なので、医師が「日本産科麻酔学会」に所属している医師かどうか、をよくみて決めてほしい。

この学会に所属している医師は、基本的に無痛分娩や帝王切開に必要な麻酔の情報をしっかり知っていて、対処方法を学んでいるし、スタッフ教育も熟練していると考えて良い。信頼できる一つの指標である。

 

③アロマセラピストがいるかどうか

入院中、地味に助かったのが、アロマセラピストの存在。

アロマを使った足のマッサージを術前術後にしてくれるし、出産時に立ち会ってくれるところもある。

安眠できるように好みのアロマを就寝時にセットしてくれるので、入院中とてもリラックスして過ごせる。

マストではないが、とても重要なポイントだった。

 

 

以上、参考になれば幸いです。

【メンタル・ヘルスケア】CBD(カンナビジオール)を使ってみた話

結論を先に書いてしまうと、よかったんだけど高すぎるという話。

 

カンナビジオール(CBD)とは?

大麻に含まれる成分の一つ。大麻には主にCBDとTHCが含まれている。

いわゆるハイになる成分はTHCのほう。

CBDはエンドカンナビノイドシステム(ECS)という身体調節機能に働きかける。体内でCB1受容体・CB2受容体に作用する。神経系において、CB1受容体は主に脳・中枢神経、CB2受容体は末梢神経に主に分布している。

CBDを体外から摂取することにより、CB1受容体が活性化して、記憶・認知・感情・睡眠・食欲・痛覚などに影響を与える。CB2受容体が活性化すると炎症を抑える方向に働く。

CB1受容体が活性化されると、以下のようにモノアミンが動く。

まず直接アセチルコリンを抑制して記憶機能を低下させる。次にグルタミン酸を放出促進することで意欲や食欲を増加させる。そして、GABAの放出を促進する。

これにより、ドパミン・ノルアドレナリン・アセチルコリン・ヒスタミン等のモノアミンを放抑制し鎮静に働く。それにより落ち着いていられて、興奮したり不安になったりしなくなる。

痛みに関しては、中脳と扁桃体に作用することで鎮痛効果を示すと確認されている。下行性疼痛抑制系にノルアドレナリンのシグナル伝達抑制を起こさせることによるものだと思う。申し訳ない、ちょっとはっきりわからなかった。CB2受容体の炎症抑制が関係している可能性も高い。

そんなわけで、炎症性疾患、疼痛管理、不安・抑うつ・PTSDなどの症状緩和、などを目的として海外では役立てられている、比較的安全性が高い物質。

それがCBDである。

 

実際に使ってみた

CBDオイルと、加熱式タバコタイプのCBDを購入して試してみた。

 

CBDオイル

CBDオイルは、MCTオイル(中鎖脂肪酸)にCBDが溶かしてある製品。

ダイエットであまり脂質を摂りたくない私にとって摂取をためらわせる製品特性である。

なんとなくあまり効果を感じなかった。

ひとビンで約8,000円する。1ヶ月もつとして、270円/日。

結構、コストがかかる。

 

 

加熱式タバコタイプのCBD

次に加熱式タバコタイプのCBDを試してみた。

 

これは、とても鎮静を実感した。

以下に示すのは、海外でのCBDの1日摂取量の推奨用量である。

 

引用論文;Corroon, J., Sexton, M. & Bradley, R. Indications and administration practices amongst medical cannabis healthcare providers: a cross-sectional survey. BMC Fam Pract 20, 174 (2019). https://doi.org/10.1186/s12875-019-1059-8

最も推奨している人の割合が多かったのは、16〜30 mg/日だった。しかしこれは対象疾患により大きく異なる。

このデータによれば、一般的には加熱式タバコタイプのCBD製品の場合、一1〜2本/日らしい。

私の場合は、他人といる不快感、いわゆる社交不安が常に隣にあるのが当たり前の日常だったので、CBDを摂取して鎮静し落ち着いて、他人がいても特にイライラしないで落ち着いてリラックスして過ごせる状態を維持するには、100mg/日必要だった。

1本10mgのCBD配合の製品で、私が満足する量は1日10本、つまり100mg。

これ、1本378円。

つまり一般的には約400〜800円/日のコスト感。

私の場合は、約4,000円/日。高すぎる。無理。

 

結論;効果は期待できるが高すぎるから、もういいや

鎮静によるリラックス効果は申し分ない。

今までリラックスというのがよくわからんかったけど、これがリラックスしているときの気持ちなんだなぁと思った。

ぼーっとするという感覚。常に頭が何かを考えたり何かを話している状態のASD・ADHD合併の私にとって、とても新鮮な感覚だった。

これで体内の炎症も抑えてくれるのだから、可能なら是非継続的に投与したいところだ。

 

しかしながら、高すぎる。

もはや1日4,000円も必要なら無理である。諦めざるを得ない。

結局私が求めているのは、慢性的な社交不安・ストレスに対処することだ。

具体的には、ドパミンとノルアドレナリンの過剰分泌による交感神経系の過興奮を鎮静すること。

そう考えると、D2受容体のパーシャルアゴニストである、エビリファイやレキサルティでシグナル伝達を安定化させる方がクリティカルだし、セロトニン濃度を上昇させつつ一部パーシャルアゴニスト的な作用を示すS-RIMという新しい薬効群であるトリンテリックスの方がまだ有効な気がする。

加えて、モノアミンに直接作用しないで扁桃体〜青斑核のノルアドレナリンを抑制することができると考えられるADHD治療薬のインチュニブを組み合わせることで、パニック・社交不安の症状とストレスを軽減できるはずである。

これらを全て合わせても、保険診療で精神科の先生に処方してもらうならば、1日4,000円はいかない。

1日薬価で1,400円程度なので、3割負担でも約400円。1/10である。絶対こっちの方がコスパがいい。

私の場合は自立支援医療制度を受けているので、1割負担だから、140円/日である。断然こっち。

もしもCBDが医療用医薬品として保険収載されたら、投与を再度検討するだろうけど。

費用対効果を考えると今のところ、もういいかな。

 

あとは、ドパミンやアセチルコリンを分泌抑制するからか、SSRIを飲んだときのようなアパシー・アンへドニア(無気力、ポジティブ感情の低下、意欲の減退、報酬に対する感受性の低下、喜びの喪失)のような脱力感がある。

意欲のもとになるグルタミン酸は分泌増加しているはずなのに、おかしい。

筋トレや読書など、何かをしようとは思えない。

有意義な何か、と思うと全然意欲がないが、食欲や睡眠欲など、生き物としての根源的な行動については欲求が高まる。なので、よく食べよく寝ることはできる。

嫌なことをしているときに吸っていると、嫌悪感を麻痺させてくれるので作業そのものは終わりやすい。しかし吸いながらやっていると何をやったかはいまいち記憶していないから、勉強には向かない。

最終的には記憶に残さなくてもいいどうでもよくて面倒なタスク処理のときに吸っていた。仕事中はこれが一番の活用方法だった。

とにかく、心が瀬戸内海の水面のように穏やかで波が無い感じ。

喜びもないが悲しみもない。ただ生きている。そんな感じ。

以上の感覚から、モノアミンの動きから社会機能・認知機能を低下させる可能性がある関係で、社会生活をパワフルに営みたい人には少しデメリットがあるとも感じた。

 

少しでも役に立てば幸い。

【依存症】ゲーム依存症「ゲームそのものやハマる子供が悪いワケじゃない」

最近、ゲーム依存の相談が多い。

私は課金ゲームやスマホゲームはあまりハマれなかったので、その手のゲームには疎いのだが、「CERO:Z」のゲームで人を殺しまくるのにはハマったことがあるから、ゲーム依存当事者の自覚があり、気持ちの一部を分かるつもりでいる。

「CERO」とは、ゲームソフトの年齢別レーティング制度を運用・実施する機関としてコンピュータエンターテインメントレーティング機構(略称CERO)である。

 

ゲームには種類がある

そのCEROが定める「年齢別レーティング制度」において、市販されているゲームは以下の分類で表記されている。

 

引用:https://www.cero.gr.jp/publics/index/17/

 

基本的には、下記のような刺激の強い描写があるかどうか、で年齢制限を判定している。

引用:https://www.cero.gr.jp/publics/index/17/

 

相談してくださる私より年配の相談者の皆様は、このCEROのような年齢制限を知らないことも多々ある。

「とにかくゲームはよくない!」と十把ひとからげに思い込んでいらっしゃる方もいるので、まずはこのようにゲームのなかにも種類があることを説明する。

 

私のゲーム依存遍歴

私は大学時代、とにかく殺したり盗んだりする刺激の強いゲームが好きだった。

CERO:B(12歳以上対象)の『戦国BASARA』シリーズ・『三国無双』『戦国無双』いわゆる無双シリーズ、

CERO:C(15歳以上対象)のホラーゲーム『サイレントヒル』シリーズ。

CERO:Z(18歳以上のみ対象)にあたる『グランド・セフト・オート』シリーズ、『ウォッチドッグス』。

などなど。

一時期などは、大学の講義など全てそっちのけで、酒を飲みながら部屋を真っ暗にしてずーっとやっていた。食べ物と酒を補充するためにコンビニに行くくらいしかしなかった。結果、単位をほとんど落とし必修科目すら落としかけて、留年の危機を味わった。卒業が危ぶまれたが、なんとか卒業できた。まさに奇跡である。

とにかく現実が好きじゃなかった。

仮想の街、仮想の物語、仮想の人物と過ごす世界にどっぷりハマって戻ってこれない、いや、これないんじゃないな。

私は意識的に、現実になんか戻ってきたくなかった。

当時。エチルアルコールで曖昧になった意識のなかで、別の人生を生きているような幻想的なゲーム中の時間。それが、最も私が安心できる時間だったように思う。

捨てきれない義務感でなんとか卒業し就職したものの、その後アルコール依存症や精神疾患に悩まされることになるのだが、それはまた別の話。

つまり、ゲームの刺激が強いからハマる、という脳のドパミン神経系の医学的な考えも分かるのだが、本当の問題の根本は「こんな現実くそくらえだ」「生きているのがつらくて少しでもいいから忘れたい、逃げたい」と本人に感じさせる『生きづらさ』だ。

いくら無理やりゲームをやることはやめさせられたとしても、その『生きづらさ』に寄り添わない限り、必ず別の形で表出してくるだろう。

 

ゲーム依存は子供たちの悲鳴の現れ

親は、自分の子育てのしかたのせいで我が子を辛い気持ちにさせている、などと思いたくない。

ゲーム依存になっているのは自分たちにも問題があるかも…と認めることは、愛情をもって育てていることを否定されるような気がして、恐ろしさを感じるだろう。

その痛みと恐れは、とてもわかる。

私も親になり、子供が自分のせいで苦しんでいるなんて言われたら、認めたくない。いかに「自分がこの子のために尽くしてきたか」「どれだけこの子を愛しているか」を唾を飛ばして必死に弁明するかもしれない。

誰も悪くないと思う。

分からないなりに、必死にやってきたのだ。

子どものことを必死に考えて、良い人生を歩めるように、自分と同じ失敗をしないために、と思うがゆえ、というのが、親たちの生の姿だと思う。

だからこそ、私たちは親として、本当は「自分のため」にやっていることを「子どものため」とすり替えて押し付けない勇気と真の愛情をもって、子供と向き合う必要がある。

 

なぜ、我が子はゲームをするのか?

我が子は、面白くてやっているのか?それとも面白いとは感じていないのか?

そもそも何が面白いと感じるゲームなのか?

一緒にやったことがあるか?一緒でなくても、ひとりで試しにやったことはあるか?やったことがないなら、どんなところが面白いのか、興味をもって子供に尋ねたことはあるか?

 

そうしたことをしていないのに「ゲームのやり過ぎはよくない」「いい加減やめなさい」と言っているとしたら、立場を置き換えて考えてみるとわかりやすい。

 

あなたがとても好きなもの、寝ても覚めてもそのことを考えるような趣味があるとする。

それを知りもせず、やったこともなく、共に語り合ったこともないのに、「そんなもののやり過ぎはよくない」「いい加減やめなさい」と言われたら、どうだろうか。

「こういう脳によくないというデータがある」「そんなにハマるのは病気だ」と言われたら、どうだろうか。

私なら、心を閉ざす。

この人には私のことは分からない。だから、こっそりやろう。よく知りもしないくせにえらそうに面倒なことを言うから、もう黙っていよう。

そうやってどんどん、双方の心の距離は離れていくだろう。

 

たとえば「これから仲良く付き合いたいな」と思っている人がいるとして、まずはその人が興味を持っている物事のことを真剣に聞くだろう。真剣に調べるだろう。話題が合うように、努力するだろう。

その労力こそ、すなわち「愛情」である。

 

それを、我が子に注いでいるだろうか?

 

まだ幼い子どもだから、親である私たちの言うことを聞くのが、当たり前だろうか。

とんでもない。彼らは、私たちと対等な一人の人間である。

親である私たちの言うことは常に正しくて、彼らの考えることは稚拙でとるに足らない考えだろうか。

とんでもない。私たちも間違う。彼らは彼らなりに考えている。その考えを尊重しないのは、彼らの人格を尊重しないのと同じことだ。

 

必ずしも、親だけではなく。

先生も、塾の講師も、クラブのコーチも、近所のおじさんおばさんも。

子どもを取り巻くこの社会の大人たちが、尊重してくれない。話を真剣に聞いてくれない。正面から真剣に向き合ってくれない。

その辛さに「もういやだ!!限界だよ!!」と悲鳴を上げているのが、聞こえてくるのではないだろうか。

 

まとめ:ゲーム依存症は、子ども個人の病ではなく、社会の病

その土地の自然(人工物ではない土や水や動植物たち)に触れることがなくなり、自然と遊ぶという最も重要な営みを子供から奪ってきた社会。

子どもたちを、自然から不自然に隔離している都市。過剰に干渉し正しさで管理する社会が、子供たちの精神と肉体を蝕み、WHOが示すような自殺率の高さや幸福度の低さを招いているなぁ…と思う。

ゲーム依存は、そうして居場所を奪われ苦しんできた子供達が、この現代社会でなんとか見つけた避難シェルターのようなものではないだろうか。

つまり、ゲームに依存する子供側の問題というよりは、私たちに問題の本質があるのではないだろうか。

彼らの居場所を奪ってきた正しさへの囚われ・リスク偏重主義的な社会構造。それを是とする私たち社会人の貧相な価値観。これら社会的な背景・生育環境に問題の本質がある、と私は考えている。

「やめさせるためにどうすればいいか?」とか「ゲームやスマホが脳にいかに有害か?」とか。私たちは誰しもHOWに頭が偏りがちで、本質的な課題を見て見ぬフリをしやすい弱さを持っている。その弱さを、隠さず認めることが、まず第一歩だと私は思う。

子供の行動を制約する正しさや、コントロールするための方法論ばかりを考えて、子供に強要する前に、私たちのほうにこそ議論すべき課題は山積しているのではないか。

相談を受けていると、そのように思うことがある。

【共依存】助けること、愛すること。

この二つは、簡単なようでとても難しい。

なので、人はよく間違う。

 

私たちは、それ(コントロール)を手放すことを学ぶ。

家族を手放すことを学ぶ。

自分のショー以外、人の回復のショーを仕切ることはできない。

自分の考えが、母、父、兄妹、祖父母の役に立つかどうかということは関係ない。

家族がどうしても必要とする答えを何とか見つけたとしても、それで家族の人生が確実に改善されるとしても、

それは関係のないことだ。

それは全くどうでもよいことだ。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222 より

 

家族を大切にするということ

これを、何でもかんでも転ばぬ先の杖を用意することや、過剰な世話焼きをすることと、わたしたちは誤解しやすい。

「失敗」とは、必要だから用意されている。

経験すべき「失敗」を与えないことは、一種の略奪であり虐待である。

家族を本当に大切にするのであれば、私たちは本人がするに任せることである。

本人が経験する痛みも喜びも、本人のものであると尊重することである。

落ち着くこと、そして辛抱強く見守ることだ。

それこそが家族を「愛する」ということだと私は思う。

 

そういう意味では、私は愛されていなかった。

社会的な失敗を回避するためにうんざりするほど世話を焼かれた。

そして自己効力感を失った。生きている実感を失った。

私にとって、親の「愛情」は、無理やり神経を引き剝がされるような拷問だった。

私の人生は成人して病気になりにっちもさっちもいかなくなるまで、半分死んでいるようなものだった。

私は実感をもって、これらの行いが「愛情」という仮面をかぶった虐待であると自信をもって伝えることができる。

 

なぜ、私の両親はコントロールを、私たち子どもを、手放せなかったのだろうか。

 

それは、自分の人生を生きていなかったからだ。

自分のショーを健全に楽しむことを放棄して、他人のショーに没頭した。

自分のショーに向き合う勇気がなかった。自分のショーを立て直す根気がなかった。

うまくいかない自分のショーよりも、責任を負わなくてもいい他人のショーにばかり一生懸命になった。

そのほうが、楽だと錯覚したから。

「愛しているから」という免罪符を使えば、子供に干渉していいと社会も背中を押した。

社会に疲弊した大人たちの多くは、大義名分をつくって、自分自身が楽になるために子供を生贄にしたのである。

そのなかの一組がたまたま私の両親だったと、いうだけのことである。

しかし、楽だと錯覚しているけれども、本当はどんどん苦しくなっていくだけ。

だから、親も子供も苦しくなり、最終的にはお互いに殺し合ったりする。

それは、愛しているというにはあまりにも凄惨である。

 

「家族を大切にする」というのは、こんなエンディングを迎えるような状態ではなく、それぞれがそれぞれに生きることを楽しんでいて、それを尊重する状態ではないだろうか。

 

何をしていようと、どんな職業だろうと、どこに住んでいようと、子供がいようと居まいと、五体満足であろうとなかろうと、本人が満足しているなら、それは確実に良い人生なのである。

なぜなら、良い人生かどうかは、本人にしか決められないからだ。

自分の家族に与えられる最もパワフルでポジティブな影響とは、自分が健康で幸せな人生を送ることである。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222 より

私の両親は、ただ楽しく生きてさえいればよかった。

息子のために、娘のために、と望まないままに何かを我慢したり何かを犠牲にしたりしないほうがよかった。

無理をして暗い気持ちを隠さなくてよかったし、家庭に問題があることを「なかったこと」にして幸せな家族を演じなくてもよかった。

そういう「〇〇しなければ」で家族を縛り付けた結果、誰も楽しくも幸せでもなくなった。

子どもにとって、親が果たすべき最も重要な役割は、人生を楽しむ姿を見せることだ。

「お前が生まれてきてくれたこの世はこんなに輝きであふれていて楽しい世界なんだ」ということを、言葉ではなく行動で、生きている背中で伝えることだ。

私は、親の後姿を見て、絶望的な気持ちになった。

こんなに我慢しながら、やりたくもないことをして、誰かの陰口を子供に吹き込まないと生きていけないほどのストレスを抱えて、かたちにばかりこだわって生きていかなくてはならないのか。

もはや世界は牢獄であり、生きることは義務のように見えた。

そんな世界で生きていきたい人は少ないだろう。

事実、私は生まれて物心ついたころから、ほどなくして死にたくなった。

さっさと終わらないかな、こんな人生、と思って生きてきた。

そしてアルコール依存症にもなったし、うつ病にもなった。

様々なものを失ったが、「失敗」を経た今が、最も幸せである。

 

家族を助けるということ

では私たちは、家族を、大切な我が子を「助ける」ために、何をすべきなのだろうか。

助ける人として私の役割は、助けようとする人たちのために 何かをする のではなく、何かになる ことである。

つまり、彼らの行動をコントロールして変えようとするのではなく、理解と意識をもって、それらに対する自分の反応を変えることである。

(中略)

他人の将来の行動には一切考えを持たない。

時間が経過しても、他人が良くなるか悪くなるかを期待しないということだ。

なぜなら、そういった期待をするということで、本当は私が望むイメージに作り上げてコントロールしようとしているからだ。

なるがままにする。

引用:『共依存症12ステップへのガイド』メロディ・ビーティ著(ワンネス出版)P222~223 より

つまり、彼らがするに任せる、彼らが向かう未来を信じる、ということだ。

私が望むイメージがあったとして、それは娘や息子が望むイメージではない。

私が勝手に思い描いているだけだ。

娘や息子は、自分自身でイメージを描く権利がある。むしろ、その権利は彼ら自身にしかない。

それを勝手に描いておいて、その通りにコントロールしよう、などというのは、とんでもないことだ。

「将来は野球選手にしよう」「将来は医者や弁護士になってほしい」

しぬほど余計なお世話である。

彼らは立派に勝手に生きるのだから、親は親の人生のことでも考えておればよい。口出しする権利は親にはない。誰にもない。

 

私が精いっぱい自分の人生を生きる。

先に様々なケースを学ぶ。

それを参考にして、子供たちは自分を生きる。

『何かをする のではなく、何かになる』とはそういうことだ。

何かゴールがあってそのために何かをする、というのは、ゴールを勝手に設定している。

彼らが歩む。その道を行くために、「私」という親が「一例」となる。

サンプルの一つである。それが信頼できるかできないか、使うか使わないかは、子供らが決める。

「こんなめんどうくさいやつにだけはなりたくねぇ」と思うかもしれない。

「こんなふうに楽しむにはどうすればいいんだろう」と思うかもしれない。

どちらでもいい。

思いたいように思ってくれていい。

それを使って、自分の頭で考え、自身が思うように生きてみてくれさえすればそれでよい。

 

結果がうまくいこうと行くまいと、正直、俺には関係ないし。

彼らの人生なのだから、彼らがけつを持つのが当然である。

それに、結果がどうであったとしても、当事者として主体的に生きられることは楽しい、と私は思う。

私が途中まで、親にコントロールされるうちに当事者意識を持てなくなり、結果として半生を主体的に生きることができなかったから、かもしれないが。

 

経験上、結果や責任を誰かに盗まれることほど、肩を落とすことはない。

私の親はこの盗みをはたらきがちだった。それは子供である私を深く失望させた。

 

それをしないだけで、私にとっては、私の両親よりマシな親でいられる、と思っている。

 

「助けない。君が勝手に助かるだけさ。」

「人は、一人で勝手に助かるだけ。」

引用:『化物語』忍野忍のセリフ

 

本人が助かろうとしなくては、いくら他人が横から助けようとしても無駄である。

助かりたい人が、『何かになろう』と思って生きている人にヒントを得て、勝手に助かる。

『何かをする のではなく、何かになる』ように生きる誰かが、使いたきゃ勝手に使ってくれ、と置いておいたものを、通るべきタイミングで通りがかってうまく活用する。

それは、利用されているのではない。

たまたま引き合わされただけ。

意図せず活用してくれただけ。

損得ではない。

世の中は計り知れないめぐり合わせで回っていて、私たちは個別でありながらひとつでもあるから。(このあたりは、また話すとしよう。)

 

ともかく、コソコソと計算して、これが必要だろうから何かをしようだなんて、姑息なことを考えてはいけない。何も見えなくなってしまう。

 

自分のために生きた道筋が道となり、その後を歩く人に道のひとつとして役立つ。

それ以上でもないし、それ以下でもない。

自分自身を変えることはできるが、人のことは、愛することしかできない。

それを知って落ち着いて生き、安心して愛するひとでありたい。

【共依存】「感謝」を取り立ててはいないだろうか?

子供に対する親の「過干渉」「過保護」がしばしば家庭内・教育の分野で問題になる。

しかし、これは親子関係のみに限ったことではない。成人した人間同士であっても、社会の様々な場所で再現されている。

他ならぬ自分自身の為にも、他人に過干渉することをライフワークにするべきではない。

自分も相手も望ましい状態から遠ざかるだけだ。

 

エンパワメント

あくまでもクライエントが自己実現を可能にするために自ら自発的に達成したい目標に対して、我々ソーシャルワーカーはエンパワメントの考え方で寄り添うのであり、クライエントが寄りかかって生きていくような状況を創ってはならない。

また、クライエントに対してのリスペクトを忘れ、専門家としての自負に目を眩まされ手段を強硬的に推し進めてしまうような事もあってはならない。

あくまで本人が人生をより良く生きるためのサポートであると肝に銘じるべきである。

引用:ソーシャルワーク、はじめました。>【社会福祉士】相談援助展開の8つのステップ

 

主役は、本人。私たちは手を添えることくらいしかできない。

他人である援助者が課題を勝手に決めちゃいけない。

本人が課題設定から決めなくてはならない。

それが「エンパワメント」であり、ソーシャルワークの根幹をなす在り方の基礎。

しかし、それはエンパワメントのプロであるはずのソーシャルワーカーですら、しばしば忘れてしまう。

 

頼られることは、気分がいい。

自分の存在が全肯定されたような気持ちになるからだ。

「あなたがいてくれてよかった」と言われることがどれだけ快感かを知ってしまうと、その誘惑から逃れ難い気持ちは分かる。

そういう正のフィードバックが報酬系に刻まれているから、私たちは他人に優しくするのかもしれない。

他人に優しくしたことで、感謝されたり喜ばれたり。その経験がモチベーションとなり人を助ける行動に繋がる。

それ自体は決して悪いことではない。実質的にそうやって行動することが人の助けになっているし。

 

問題は、必ずしも正のフィードバックが毎回得られるわけではない現実に気づいたとき、だ。

 

尻ぬぐい

 

助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けたら、あなたならどう感じるだろうか?

 

「せっかく助けてやったのに」と思うだろうか。

私はそう思ってきた。

感謝されないのに最良のものを与えることなんてない。

感謝の代わりにそれなりに良質なもの(行動)を与えているのだから。

そうして私は感謝の形として、金銭だったり承認欲求だったりを受け取ることを欲した。

 

しかし、それは「助ける」ではなくて、ギブアンドテイクであり取引なのだと気づいた。

「助ける」とか「誰かのために」というのは、本来感謝されることを前提にしていない。

「助ける」の材料は「純粋なあげっぱなしの愛情」だと気づいて、私は今まで誰も助けてなどいなかったのだということを理解した。

まず、本人が自分で立てると信じていなかった。

そいつができないからできる俺が代わりにやってやる、という傲慢さがあった。

相手に潜在的な能力があると信じていなかったということだ。

その人の生きる力を信じなくては、本来エンパワメントはできない。

では私は何をしたかったのかというと、その人をエンパワメントしたいのではなくて、私は『他人を上手に使って』私に力があることを自分に示して安心したかっただけだったのだ。

私は他人を救うくらいの力がある、と思えれば、ダメな自分ではなくなる気がして、他人を助けるふりをした。

だから、助ける相手がいないと困るのは私のほうだった。

私ばかりいつも辛い目に遭う?

とんでもない誤解だ。

自分が、能動的に困っている人に近寄って行ったんじゃないか。

わざわざ他人が解決できる面倒ごとに首を突っ込んで、口では「つらいつらい」と言いながら、内心嬉々として他人の尻ぬぐいを手伝ってきたのだ。

 

「他人のため」というのは「他人の『役に立ちたい自分の』ため」

これは今までの私自身に対する自戒のツイートでもある。
他ならぬ私自身が、私は何者かにならないといけないと思っていた。社会を変えるには影響力がないといけないと思っていたし、自分で組織のひとつくらい立ち上げられる実行力がないと認められないと思っていたし、誰よりも正しい知識を身につけなくてはいけないと思っていたし、現時点で啓発活動で名前が知れた権威ある人々とお近づきにならなくてはいけないと思っていた。

全部、勘違いだった。

AC(アダルトチルドレン)としての『認知の歪み』を引きずっているだけだった。

全ては自分のためだ。そこは誰にも偽ることはできない。

私が勝手にやりたくてしかたないからやっているだけで、その結果勝手に相手が助かり、たまに勝手に感謝されるのだ。

それが「助ける」という事象の顛末。

だから相手に感謝されないからと腹を立てるのはとても変なことだし、問題が何とかならなかったとしても、悔いたり言い訳したりする必要もない。

なぜなら、もともと他人の人生であり、他人の課題なのだから。

解決できなかったのなら、その人に責任があるのだ。人生の責任はその人以外誰も代わることができない。

その人が笑顔でいてくれたら私がうれしいから、「こうなったらいいな」「こうなったらみんな笑顔になれるんじゃないかな」と思うことを勝手にやるだけだ。

迷惑でやってほしくないようなことをしてしまっているなら、他人がそういうメッセージを言葉にしろ態度にしろ、発するのだろう。

そうしたら、私は目的を達成できる行動ではないと理解して「やってほしくない」という相手の意思を尊重して、手を止めるだろう。相手を苦しませることは、私がやりたいことではないからだ。

 

やめてほしいのにやめてくれと言えない、というのは、相手の課題であり、私にはどうすることもできない。

私はエスパーではないから、本人が伝える努力をしてくれないと分からない。コミュニケーションは双方向であり、対等な対話の責任は常に、50/50だ。

「察する」「配慮する」ということを過度に他人に期待するひとは、伝える責任を放棄している。それは、相手をリスペクトしていないことと同じだ。

コミュニケーションの責任を相手に負わせて結果をコントロールしようとしても無駄だ。

いつの時代も人のコントロールは思うようにはいかない。なぜなら相手が成長したら、いつか必ずあなたがその人をリスペクトしていなかったことに気づくからだ。

そして次第にあなたから離れていく。どちらかが搾取する関係は不自然だから永続的ではありえない。いつか必ず、終わりを告げる。

 

誰かを自分の支配下において相手から「感謝」を取り立てて共依存の鎖で縛りつけておくことが、本当に人生を賭けてまで、したいことなのだろうか?

そんなふうに奴隷を増やすことをいくら続けても、自身の人生は一歩も前に進まないよ。

そして相手は本当の意味で感謝してくれることはないし、本当の意味で救われることもないだろう。

登場人物全員が苦しんで、虚ろな人生を過ごして終わり。

そんなのが望んだことではないはずだ。

 

私たちは、自分がしたいことをするために、この世で時間をもらっていると思う。

耳障りの良い言葉で本心を誤魔化しているうちに、もらった時間は矢のように過ぎ去ってしまって、死の淵で「ああすればよかった」「こうすればよかった」と後悔する。

そういうことの繰り返しは、割と珍しくないんだなぁ、と最近はよく思う。

誰よりも自分のために、Just for today.

それがひいては、誰かにとって本当の意味で最も優しい。

 

【依存症】社会啓発って何だろう?(STEP12)

社会は、腐ってる。

私は、基本的に救いようがないと思う。

それは社会の仕組みがそうだからで、誰かが特別悪くて何かを捻じ曲げているからではない。

鉄の檻の内側はディストピア

資本主義経済社会で、行政官僚制の組織を構築して、今人々は生きている。

その仕組みの内側、すなわち「鉄の檻」の内側である以上、人は入れ替え可能な部品として扱われるし、経済的価値に換算される冷たい世界で生きることを余儀なくされる。

そういうシステムだからだ。

もちろん、悪い。

政府も悪いし、企業も悪い。しかしそれを言い出したら、この社会に寄生して生きている私たちは全員悪い。

この社会を否定するなら、山に引きこもって自給自足で文明と切り離された仙人みたいな生活をしなくてはならなくなる。

それは現実的ではない。

すなわち、私たちは「鉄の檻」の内側の世界の人格を持ち続けなくてはならない。

それがどれだけクソのような世界でも。

そのクソっぷりを少しでもマシにするために、社会啓発があるのだろうか?

いや、そんな活動はいつまで続けてもしかたがない。最終的に己が病むだけだ。

そもそも、他人に影響しようというのは、善意を通り越して過干渉なのではないだろうか?

 

他人のために、という嘘

自分のためだ。

社会啓発であれ何であれ、全ての行動は全部、自分がやりたいからやることだ。

「誰それのために」という言葉には虫唾が走る。

自分の動機を他人になすりつける卑怯さを感じる。

 

善行をするのは、そういう自分が好きになれるからだ。

喜ぶ顔をみると、自分の存在を肯定された気がするからだ。

見返りを求めて行う人助けは、善行ではない。感謝の略奪である。

結局、無理をすれば誰もが破綻する。

滅私奉公、自己犠牲はしばしば美徳として語られるが、実際はオブラートに上手に包んだだけの「共依存」でしかない。

自分で決定し、自分の人生を自分のために生きることを放棄する、無責任な行いだ。

つまり、自分の人生を丸投げしてるだけ。

 

では私たちができる社会啓発(STEP12)とは何なのか?

個人としての気の持ちようにアクセスするくらいしかないのではないだろうか?と私は最近しみじみと思う。

人は、与えられる範囲でしか、施すことができない。

他人に施すには、自分のこと以外に関心を持ちエネルギーを注ぐ「余裕」が必要だ。

「余裕」を持つためにはまず、誰よりも自分が健康である必要がある。健康でない者は自分のことで精いっぱいだからだ。

だから、自分の健康をまず整えることが、まわりまわって他人にとっても一番優しい行動なのだ。自分を差し置いて他人を優先することでは絶対に無い。

だからこそ、まずは、自分自身の回復を謙虚に目指すことが重要なのだ。

回復を目指すうち、無理なくやれることが増えていく。そうして少しずつ、還元できることを増やしていく。それが自然な姿だと思う。

 

荒野を歩く身であっても健全に生きていけるのは、「鉄の檻」の外側に仲間を持つことができるからだ。

私たちは外側に健全な繋がりを持たなかったから破綻した。

繋がりが持てなかったのは、方法がわからなかったからだ。

そして内側にしか価値が無いと思い込んできたからだ。

 

アサーティブ。

自助グループ。

12ステップ・プログラム。

 

それらの道具を学びながら、私たちアディクトは「鉄の檻」の外側で、自分と大切な人との信頼関係を守り育てる方法を後天的に身に着けていく。

内側ではなく、外側にこそ価値があるということに気づく。

そのためにまず第一に考えるべきは、己の心身を健康に保つことだ。

そのために時間と労力を怠らない。

そうしてはじめて、「鉄の檻」の内側、つまり社会という荒野を生き抜くことができる。内側への囚われから解放されて、穏やかな世界を持つことができる。

 

つまり、檻の内側を変えることではなくて、外側を創り出すことが、社会啓発の最も重要な役割だと思うのである。

私ができる事をしていきたいと思う。

【社会福祉士】この世の虚しさについて

なんかめっちゃ疲れた。

最近とても疲れることがある。

何にかというと、世の中や人との関わりにまつわる虚しさに。

 

会社(仕事)の虚しさ

会社での仕事なんてまさにそうで、虚しさの塊みたいなところだ。

昨日社内テストがあって、取り扱っている製品について何時間も解かされて疲れた。

しかも、「○○○○試験において、試験の背景はどうだったか?」みたいなクソどうでもいい内容のテストだ。

なんでクソどうでもいいかというと、そんなのパンフレット読めば書いてあるからだ。覚えなくていい。暗記する必要が無いので、問題にする意味がない。

問題を作っている人の意図は「営業の人たちの理解が深まるように」ではない。

「デキない人だという理由を積み重ねてしかるべきときに楽にリストラできるように」というのが目的だ。

それが見え透いているから、心底くだらねぇなぁと思う。

私はそういう実質的に私にとっても世の中にとっても意味がないものにはやる気がしない人だ。

よくこんな無意味な問題をつくっていて、自分は仕事してる、給料をもらう価値がある、と思えるよな、と思う。

私が問題作成者側だったら嫌になって会社やめるレベル。子どもに胸を張って言える内容ではない。

役員も株主の顔色をうかがいながら、既成事実の捏造のために下に当たり散らして、権力者にはこびへつらう。やっているのはそれだけだ。

美辞麗句を並べ見た目ばかり取り繕って中身がスッカスカ。まるで私の実家のような吐き気を催す邪悪そのものじゃないか。

こんなオママゴトみたいな仕事で、人間本来のライフサイクルから外れたゲスくてつまらない仕事もどきのほうが、実際に食べ物を作ったりお世話が必要な人を助けている人々の仕事より実入りがいいなんて、世の中ってお金って何なんだろうな、と思わざるを得ない。

 

善行 でもそう

他人のためにどうのこうのというのも、同じようにくだらない。

結局、全部自分のためなんよ。

耳障りの良いこと言っているけど、結局は他人の役に立つ自分なら少しは好きになれたり、マシに思えたりするから人助けをしているだけ。

つまり自分を好きになりたいから他人を助けている。

それを見失っている人は感謝や尊敬という見返りが得られないと分かると途端に、「せっかくやってあげたのに」とか「恩知らずだ」とか急に被害者ぶって手助けしていたはずがいつの間にか加害者側に180度反転している。おそろしいことだ。

重要な決定は誰もがしたくない。責任を取りたい人なんていない。

だけどいつか誰かが決めなくてはいけない。

その役割をやってもらっておきながら、文句言いや責任追及だけはいっちょまえにする人がいる。ホント、どんだけ都合がいいんだよ、と思う。

私は何かを決めるときには、良い面も悪い面も責任を持つつもりで決定する。

だから後でなんだかんだと後付けで言われることも引き受ける前提で考えをまとめて、それを私の意見として話す。

いろんな場面でそんなことがあり、結果的に私が提唱した案が採用されて状況が動くこともよくある。

経験しているからわかるんだけど、ほとんどの場合、思うように感謝されたりしない。

全方位的にうまくいくような解決策を制限時間内に定めることはほぼ不可能なので、どこかで負荷がかかるし何かを満たせないことはある意味しょうがない。

だけど代替案も出さないような無責任なやつが往々にして「これが問題だった」「あれが想定できていないからストレスがかかった」などと騒ぎだして、ちあきのやった方法は間違いだったんじゃないか?などと最終的には救おうとした人にまで後ろ指を指される。

知ってる。

そうなるって知ってた。

だから静観することもできた。

だけど、それは嫌だからやった。

だから納得してる。

だけど、虚しいわ。正直。

頑張ったよ、俺だって。いろんな方法を考えて、最も最適だとその時判断したことに、誰も異議を唱えなかったじゃん。でも、結局何か言われるのは決断を下した人なんだよな。

頭のなかのもう一人が「そんなに苦しむだけなんだったら、関わらなきゃいいじゃん」という。

そうだよなぁ。その通りだと思う。

でも俺は、見て見ぬふりしてだんまりを決め込むほうがもっと夢見が悪いんだよ。

だから致し方ない。

私はそれ以外を選べなかったし、無責任に途中で放り出すこともできない人間なんだ。

 

社会支援 でもそう

何かしらの啓発だってそうだ。

私は好きでやっているし、やれる範囲でやっている。

これ以上もこれ以下もない。

使命感とやらで無理をしてやっても、最終的には押し付けにしかならない。

自分がやらないと居ても立っても居られない気持ちになり、落ち着かないからやっているだけ。

こうなったらいいな、と思うことは勝手だけれど、その通りになることが必ずしも正しいわけでは無いんだよ。

それぞれがそれぞれに在るように在るだけで、クズはクズでいるのが自然だし、良心がある人は良心に従って生きていくだけ。脅威や侵略をする哀れな生き物(他人の権利を侵害するタイプのホモサピエンス)からは、知恵ある我々が逃れるしかない。必要なら本人が必要な手段で必要な対策を講じるサポートをすればいいだけ。

結局は、本人がどう生きたいか決める。

私たちは、自分が、どう人生を生きるかに責任があるだけであって、それ以外は結局どこまで行っても他人事なんだよ。

あーだこーだ言ったところで、私たちは私たち自身が幸せに生きること以上にできる事など、実は何もない。

正直、私は他人の人生は結構どうでもいいし、割と信頼している。信頼しているというのは、勝手にがんばるし、勝手に幸せになる力を持っている。

助けるというのは本来おこがましくて、その人に手を貸した結果、その人の力で勝手に助かるだけだ。私はただ手を貸すということを、したいからしただけ、余裕があるからしただけ。

余裕がないのに他人の手を掴もうとするのは、逆に奈落に引きずり込んでいる。

まずは自分の足場をしっかり固めないと、一緒に落ちていくだけだ。

そのあたりを自覚しないで、他人とより多くよりしっかりと手を繋いでいることを誇るような支援者や啓発者は、自分が助けているのではなくて、自分がその人たちが困っていることで助けられているだけだ。自らの存在意義を確認するために、その人たちを遠回しに利用しているだけ。

その辺の薄気味が悪い偽善が垣間見えて、なんだか萎える。

 

 

まあ、今日は唯々愚痴を言うだけのブログになってしまったけど、何とか生きている。

こんな感じに落ち込むことはよくあること。というか、酒を飲んでいたころはいつもそういう不快感があったから酒に逃げていただけで、酒が無い今表面化するのは当たり前。

この虚しさを受け容れてもなおできるだけ楽しく生きようとしているだけでも、というかそういう姿勢こそが、回復した証拠だよな、と思う。

前なら死んじゃいたかったからな。つまんなすぎて。

動物も娘もかわいいし、捨てたもんじゃないよな、と思う瞬間があるから、私はまだ虚しくてもやっていけるし、楽しみを見つけるセンサーの感度を取り戻しつつある。

マザーテレサが言うように、他人がどう反応しようとも実は関係なくて、私のなかの最良のものを手渡すことが、自分の為なのだ。他人との間のことは一つもなく、私と私のなかの魂とのやり取りなのだ。

だから、反応が返ってこなくとも、逆恨みされようとも、動揺せずにできることをするだけなのだ。人生はそれだけだ。

そしてそれが一番遠回りのように見えるが、最終的に私がたどり着きたい場所への一番の近道になる。

他人に後ろ盾を求めたり、責任を押し付けたりすることは、もう卒業したからこそ、世の中に蔓延るそれらが浮き彫りになってきただけだ。

そう信じて、休み休み生きていきたいと思う。

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」④20万を借りパクしていった君へ

私は「ある出来事」があってから、お金は一切貸さなくなった。

貸すときは、あげるときだ。

返ってこないとしてももう構わないや、と思うときだけ、貸す。

「ある出来事」とは、高校からの知り合いに20万円を借りパクされたことだ。

 

S君

借りパクしたのは、S君という男の子だ。

彼は一人っ子だった。名犬ラッシーのようなフサフサの毛の犬を飼っていた。

ピアノがうまくて、ラフマニノフやショパンが弾けて、割とイケメンだったからモテていた。運動は少し苦手だった。

元いた中学校では成績がトップだったらしく、高校でもそこそこ成績が良く、同じ進学クラスにいたので徐々に話すようになった。

 

彼は、少し落ち着きがなく、どこか陰があった。

なので、高校生の当時、私は彼を少し面白いなと思った。

ピアノが弾けて勉強ができてイケメンなのに、アニメが好きでオタクだったし、先生や学校に従うのを嫌うので、完全な優等生タイプとは少し違っていた。

私は反抗挑戦性障害(ODD)なんじゃないかと今思い返せば疑うほど、先生や学校にたてついていた。学校の備品を破壊したり、高圧的な教師に徹底的に反抗して授業を妨害し職員室に呼ばれたりしていた。

教師をバカにして目をつけられていた。勉強をしなかったので成績が悪くなる一方だったが、スポーツでは表彰され続けていたので、一目置かれてはいた。

S君は、自分より下だったり、どこか欠けている人と付き合う傾向にあった。

私は見事にバランスを欠いていたので、彼にとってはとても興味がある存在だったのだろう。彼から話しかけてきたように思う。

なんとなく教師をバカにしているところが共鳴して、よく一緒にいた。

このままおそらくお互いにある程度の成績で関関同立程度以上の大学に進学し、エリートではないまでも、そこそこのステータスで社会に出るはずだった。

 

しかし、S君は受験に失敗した。

原因は、バカにしていじめていた中学時代の同級生に深く恨まれてストーキングされた挙句、復讐を誓うその子につきまとわれる恐怖で不登校になってしまったことだった。

受験どころではなくなり、彼は統合失調症を患った。

受験でそこそこのところに合格できなかったので、たしか大阪にある駿台か代ゼミか河合塾かなんかの寮に入って浪人していたと思う。

私は現役合格したので、大学生として関西にいた。

彼は私を友達だと思っていたので、よく連絡してきた。

学祭を一緒に回ったり、一緒に酒を飲んだりした。想像に難くないと思うが、そんなちょうしだったので勉強は全然していなかったようで、当然のように受験はその年もその次の年も全然うまくいかなかった。

そして、ゴミみたいな私立大学に入って、彼はもっと精神のバランスを崩していった。

 

学歴コンプレックスが極まっていた。

在学生たちをバカにして、自分より優秀な人はいないと言っていた。

私をおそらく高校時代は下に見ていたのだが、圧倒的に差をつけられて嫉妬と羨望が入り混じったような妙な絡み方をしてくるようになった。

何人もの中学生と同時に付き合って「彼女がたくさんいる」と紹介して自慢してきたり、私より優れているところを見せつけるのに必死だった。

 

タバコを持つ手は常に震え(おそらく統合失調症の治療薬等による錐体外路症状)、うわごとのように昔語りを繰り返すさまは、哀れだった。

 

私の共依存的な関わり

私は、彼が私より下にいることを安心材料にするようになった。

とても恥ずかしいことだが、私はうまくいっていない当時の自分の状況を見て見ぬふりをするために、彼を憐れみ、利用するために関係を続けていたのである。

最低のクズだと思う。

私は大学までは何とかギリギリ及第点だったものの、そのあとベンチャー企業に入ってあまりのブラックさに「これは失敗した」と思って焦っていた。

アルコールの問題も日に日に深刻になり、もともと小さい自尊心を毎日鑢でゴリゴリと削られるような毎日だった。私はみるみる摩耗していった。

そんな私にとって、さらに底辺に近いS君の惨状を見るのは、とても安心できたし、気分がよかった。

「ああよかった、私もたいがいゴミだけど、さらに下でうごめいているやつもいる」

そんな気持ちで、彼が一生懸命女性関係をアピールして私にマウントを取ろうとしてくる様子を心配している優しい友人を装いながら、その実哀れな彼の姿を酒の肴に一杯やっていた。「彼よりはマシ」という優越感を味わうことで、毎日毎日上司にコケにされ馬鹿にされるしんどい日々を頭の外に追いやろうとしていた。

 

これは、明らかに共依存的な関わり方だったと思う。

共依存とは、自分自身に焦点があたっていない状態のこと。

私もS君も、お互いを見ることで自分の苦しさを見ないようにした。

まさに、自分の人生に焦点が当たっていない。むしろ意図的にずらそうとしている。

 

ついに、S君は金に困るようになり、金を無心してくるようになった。

私は、表向き「彼は大切な友人だから助けてあげなくちゃ、そしてまともに生きていけるように俺がしっかり言って聞かせなくちゃ」などと自分に言い聞かせて、なけなしの貯金から20万円を貸した。

私が望んでいたものは、それによって私が決定的にS君の上に立つことだったと言わざるを得ない。

当時の私の醜さは、今振り返るとみるに堪えない。

金を貸したのは、「俺のおかげで」問題を解決できた、という既成事実をつくりたかっただけだろう?彼の為でもなんでもない、自分の為じゃあないか。

「私は働いている。友人が困ったときに手を差し伸べられるくらい素晴らしいんだ」とブラック企業で死にそうになりながらこき使われている惨めな自分にも、少しは価値があると思い込みたかっただけ。自分の問題から目を逸らしたかっただけだろう?

何を「その人のためだ」などと偉そうなことを。

その後彼が結局借りた金を返せないことも計算ずくで、また息詰まるのを舌なめずりをして待っていたくせに。

そのときに「借りた金を返さないとはどういう料簡だ」と正論を振りかざして「そんなんだからダメなんだ」と彼を責めてサンドバックにするために。

「厳しいことを言うようだけど」などともっともらしく前置きをして神妙なふりをして、実際は相手の話や状況を想像するのをサボって自分が正しいと信じ込んでいるだけ。

言っていたことはひどい有様だった。

「統合失調症だと?病気を言い訳にすんなよ」

「返す気がないから働かないんだろ?俺は毎日終電逃しても働いてるよ」

偏見にも程がある。冷たいにも程がある。

自分が言われた傷つく言葉を、言う側になって溜飲を下げたいだけ。

自分の言いたいことを自分の言葉で素直に伝える勇気がないだけ。

弱さや不安を正しさで取り繕っているだけ。

自分を慰めるために金で囲ったようなものだ。

それは友人に対して、人間に対してすることでは無い。

S君に謝らなくてはならないこと

S君、私は、君のことを本当の意味で友人として大切にしていなかった。

友人として、とても恥ずかしいことをした。

君を尊重しているのなら、君が自分で人生を選び取ることを信じるべきだった。それが友達のすることだった。

だから、あのとき金を貸さないことが、君のために最もすべきことだった。

そして、同時に、私が私を大切にするためにすべき選択は、君の問題に首を突っ込んで共依存することではなくて、自分に向き合うことだった。

それから逃げるために君を使い、君をイネイブリングしたことを、心から謝罪したい。

君をバカにして、本当に申し訳なかった。

私は後悔している。

君に当時伝えたかったことは、本当は少なくて良かった。

「私も頑張る、君も頑張れ。信じている。」それだけでよかった。

変に上から目線で言ったことは、すべて私の弱さと醜さだった。

君は君で一生懸命に生きていたのに、私はとんでもなく失礼だった。

 

もう今はS君がどこにいて何をしているか分からないけど、彼が幸せでありますようにと思う。

20万ぽっち、安い授業料だったよ。私は私の問題に気づくために、S君と出会ったのだと思う。

お金はもう返さなくていいから、元気でいてくれたならうれしい。