英語って大事だなと最近特に身に染みて思う。
日本語というとてもニッチな言語しか習得していないことはとても大きなリスクだった。
それを知らずにここまで生きてきたことを後悔している。
今からでも語学力はつけるべき能力だと思う。
最近観て勉強になった動画は すべて英語
全部ウイルス感染症に関する動画だが、英語を知らなければ何を言っているのか全く分からない。
親切に日本語字幕をつけてくれてYoutubeにアップされても、すぐに消されてしまうので、英語を勉強していない人は内容を知る由もない。
ここで上記の内容を要約して書いたりするとこのブログが閉鎖に追い込まれることは必至なので、ご勘弁願いたい。
分からない医学用語はネットで翻訳したり、聞いたイントネーションから単語を想像して打ち込んで調べたりと、時間がかかる。
とてもめんどうくさい。
だから、みんなあまりやりたくないだろう。
だからやらない。やる価値が無いと思い込めたほうが、不安にもならない。
だから、触らないで遠ざけてみて見ない振りをする。
まるで童話の『狐と葡萄』に出てくる、取れない葡萄を「どうせ酸っぱくてまずい」と言って諦める狐のように。
でも、めんどうくさいことには価値があるのだ。
そうでなければ知ることができない情報があるのなら。
実際、これをみるとかなり日本のメディアが報道している情報とはかけ離れている。
ワクチン接種を推奨している理由が、別の角度から見えてくる。
そしてその理由は私たちにとって歓迎できるような内容ではないことも・・・。
私たちはお互いに「見えている世界」しか見えない
私たちはつい、今見えている世界が、世界そのものだと思いがちだ。
でも、今見えている世界は、私たちが経験してきたものや今の立場から見えている景色の一つでしかなくて、全く違う人生を生きてきた他の人からは、180度違う世界として見えているかもしれない。
ついつい自分が見えているように、他人にも世界が見えていると思い込んでしまう。
だから分かり合えないと動揺するし、自分の世界観が揺らぐことはとてつもない恐怖なので、相手の世界を否定して自分の世界を守ろうとする。
こうして口論や戦争といった、人と人の醜い争いは勃発する。
「こっちはあっちと。
私はあなたと違う。
この世の戦争の全てはそれが全て。
人間がこの世に生まれてからな」— ちあき🏳️A4C (@chiakiA4C) June 23, 2019
この争いを生まないために最も重要なものは、想像力だ。
「もしかするとこの人は、私とは違う見え方で世界が見えているのかもしれない」という想像力をもつことだ。
どちらの見え方が正しいのでもない。
歪んでいると思っても、その人にとってはその世界が今まで見てきた親しみのある「世界」なのだ。
いきなりどこの馬の骨とも知らぬ人間から「違う!」と大声で指を指されたらどうだろうか。
自分を守るために「そんなことはない!」と意地になるだろう。誰もがそうだ。
自分と違う意見と出会ったとき、それを無理に一緒にしようとしないこと。
それぞれの見方や意見に、同等の価値があると認める謙虚さを持つこと。
論理的な正しさは、絶対的な正しさではないのだ。振りかざして武器に用いてはいけない。それは間違った使い方だ。
お互いの見え方を分かり合うために、より妥当な妥協点を探るために、コミュニケーションをとるために論理はある。相手を論破するだとか、そんな安い目的に使うものではない。
論破するのがひろゆき氏を筆頭にさも優れた人間の作法のように語られることには、嫌悪感とともに違和感が大きい。
本当に優れた人間性を持つ人間は、論破しようとはしないからだ。
なぜなら、正しさは一つではないことを知っているし、そんなに単純に世の中ができているわけでは無いことを経験しているから。
自分の頭のなかだけで考えているから、実態からかけ離れていく。しかし論理的には正しいので、だれも何も言わなくなる。結果、独りで頭のなかだけで閉じている。
独りでしゃべって得意になって他人を傷つけ、周りには誰も近寄らない人。
それはもはや、優秀な人とはいえない有様だとは思わないだろうか。
アサーティブに話ができる人を信用しよう
学歴とか資格とか、社会的地位とか収入とか、そんなものでは全く他人のことは分からない。
たまたまそういう基準があって、たまたまその基準にマッチする結果が、たまたまその人の手に転がり込んだだけだ。
なぜなら、人はひとりで何もかも成し遂げることができないからだ。
必ずすべては見えないチームの成果である。私たち一人一人がつかむものは、時代も国境も超えた見えないチームの成果だ、と自覚できていない時点で、その人の経験の浅さが知れる。
私の経験上、ひとつ指標になると思うのが、「アサーティブネス」だ。
画像引用元:http://www.genkipolitan.com/a/asa/3type.html
たとえば、Twitterは「アグレッシブ」同士が常に殴り合っている。24時間営業の異種格闘技のリングのようなものだ。疲れ・寂しさ・悲しみ・怒りが募るに決まっている。常に被害者か加害者としてその心に傷を負っているのだから。できるだけ離れたほうが良い。
そうした傷つけあう関わり方、あるいは無責任で消極的だったり罪悪感で誘導しようとするような「ノンアサーティブ(パッシブ)」な関わり方をする人を信頼しないのは、とても大事だ。
なぜなら彼らは、あなたをサンドバックにするか、あなたに体重を預けて寄りかかろうとしてくるからだ。あなた自身の自由と権利が脅かされかねない。
「アサーティブ」な関わりができる人と時間を過ごそう。信頼してお互いに助け合おう。
その限りにおいて、人と人との関わりはとても美しく愛に満ちたものになる。
RADの私がそう思うのだから、おそらく間違いない。
◎RAD(Reactive attachment disorder):反応性愛着障害
苦痛があっても安楽を求めない・安楽に反応しない。経験的に他人に絶望して人を求めない。
訴えや要求にこたえてくれる母親などの限られた養育者との間で形成されていく親密な絆が、うまく形成されないことで起こる子供の反応や行動。
— ちあき🏳️A4C (@chiakiA4C) October 30, 2021
宮台真司氏は、各論でたまに誤ったことを自信満々に断言してしまったり、注目を集めるために強い言葉を使って人を傷つけたりすることもあるけれど、やはり一流の社会学者だと思っている。
「社会という荒野を仲間と生きる」
というスローガン、私はとても好きだ。
まさにこれだ。
アサーティブに他人と接することができ(他人の世界を尊重することができ)、失敗の痛みと正しさの薄っぺらさを経験した深みのある人間。そんな人間と仲間になって助け合うよりほかに、この社会という荒野を生き抜く術はないのではないかと思う。
幼少期とは、人生のためにその術を試行錯誤できる唯一の練習期間なのだ。
失敗しないように純粋培養しようとしてはいけないし、衝突を保護者が恐れて飼いならしてはいけない。
そういう悪い意味での温室育ちの弊害として、想像力の欠如と正しさの奴隷化を促進しているように思う。
まずは私が見本となれるよう、アサーティブを勉強し、身に着けていきたいと思っている今日この頃である。
どうせ12月に新型コロナウイルスは「流行らされる」ので、まともに仕事にならないだろうから、ちょうどよい。