【共依存】他人の存在の煩わしさ・私が唯一ほしい他人との繋がり

私は、孤独感からアダルトチルドレンになり、アルコホーリクになった。

ASD・ADHDとしての私を受け容れてもらえなかったことは寂しかった。

他人に対して愛着を感じないことに、私は罪悪感と怒りを持っている。

そのことについて今日は考えてみたい。

 

ゆだねる、そして手放す

先日、手放すことができたことと、できていないことについて、改めて考える機会を得た。

昔に比べると、「個人」に対する憎しみや恨みや恐れや不安は手放すことができてきた。それは、ACA・AAでそれぞれの12ステップ・プログラムに粛々と謙虚に取り組んできた結果である。

あんなに大きかった親や社会的成功者への恐れと不安が、自分の心に占める割合はごく僅かとなり、彼らが生きていても死んでいてもさほど気にならないくらいになってきた。

しかし、今でも無条件に反応してしまうものがある。

それは「コントロール」だ。

仕事の人間関係が嫌いで、基本的に人間が嫌いなんだと思って生きてきた。

人間そのものが嫌いなのではないんじゃないかしら?

私はアニメや漫画や映画が大好きで、人の物語に涙する感受性を有している。こんなに芸術で描かれる人間の喜怒哀楽に心の動きを感じるのに、私は本当に人が嫌いなのだろうか?

「本当は人間を好きでいてほしい」と願いにも似た思いを持ってきた。

 

・上下関係をつけるマウント合戦

・資本主義的なギブアンドテイク

こういうパワーゲームを土台にした「損得マシーン」との関わりが嫌いなだけで、人間そのものは好きなのではないか、と仮定してみよう。

 

フラットに損得抜きで語り合い交流する人間関係を、私はむしろ好きなんじゃないか。

じゃあなぜパワーゲームに反応するのか?過剰な反応の裏には恐れと不安がつきもの。

私の恐れと不安があるからだ。では私の恐れと不安はなにか?

私は「そのままを見て受け入れてほしい」という願いが満たされてこなかったことから、『これ以上傷つくこと』を恐れている。

これは真実だろう。

・他人に品定めされたくない

・わかったような口ぶりでたかを括られるたくない

・損得で関わりを持とうとされたくない

・能力を比較したくない

だから私は、他人との対戦ゲームをいっさい楽しめないし、性格診断的なアルゴリズムには無条件にアレルギーを感じる。

仕事の人間関係は、今も昔も唾棄すべき穢れた関わりのようにしか見えない。

損得をベースにしてしまうと、どんなに他人にとって魅力的な目標であっても、達成すること・共同で活動することに、価値を感じることができない。

 

そのままを見て、ただ受け入れる。

私の願い。

「私のそのままを受け容れてほしい」

という願い。

そのためには私がそのままで無くてはならず、そのままを貫き続ける勇気が今、必要なんだと思っている。

そうしてそのままでいたときに残る関係が、本当に大切な関係であると言える。

その関係の間ならば、対戦型のゲームだろうと経済活動だろうと、楽しめるはずだと期待している。なぜなら土台に心理的安全性が担保されているはずだから。

結果が出ても出なくても楽しめる、本当の遊び。本当の友人。

そういうものを夢見ている。

 

さて、そのままということで改めて考えてみよう。

私は人間が好きなのではないか?という願いは、実は自分を全量に見せるために己を欺く虚偽の感情ではないか?

私は心から好きなものは、キャンプだ。

なぜなら、キャンプは人間とではなく自然と対話する趣味だから。

キャンプは比較しない。

競ったり争ったりはもう部活やら学歴やら就活やら散々やってきて、心底ウンザリしている。

他人に勝つことに意味も無い。

自分に勝つことに意味がある。

だからキャンプが好きなんだと思う。

キャンプは、完璧さとか他人との比較などは全く関係ない。

楽しめればいい。

不足や不完全さはむしろ歓迎される世界。

キャンプサイトは、他人と程よい距離感が保てる。

それぞれの在り方が尊重される独立した空間。

だからキャンプが好きなんだと思う。

 

ということは、私は他人と適度な距離を保ちたいと思っている。

できるだけパーソナルエリアを侵害されることなく、快適に生きていたい。

恐れや不安があるからなんだというのだ。私は、嫌なものは嫌だ。

先輩だからと会って間もないのに呼び捨てタメ口をするやつなんかは、大嫌いだ。

その時点でATフィールド展開し、近寄らせることも近寄ることもない。

だいたい、少し長く生きているだけだ。その結果こんなクソみたいな社会を作っている連中の、何が誇れる?

そんなかたちで、私には結局、共同体の一員としての感覚をもつことができない。そしてそれは悪いことではない。私のそのままの姿だ。

ずっと他人とは脅威で、警戒すべき「同胞」で彼らは一番の敵だった。敵は身内だった。

たしかに、守られてきただろう。一人では生きてこられなかったろう。

だから感謝しろ、心を開けというのは、レイプと同じだ。

金を払ったんだから股を開けというようなもの。望んだわけでも無く産まれ落ち、散々苦しめられてきたことも事実なのだ。股を開くか開かないかは、私が決めることだ。

金を払ったから、恩があるから、救ってきたから、といって私の苦しみはプラマイゼロにはできない。

 

つまり、まだまだ理解してもらってない。

それは、私がありのままの自分を許していないから。

まだ「できるだけ良いもの」として自分を見せようとしている、飾っているから。

飾らない私を表す。それが理解してもらう唯一の方法。

理解できない、受け容れられない、という結果だったとしても、私が飾らないことが重要なのだ。本質の表出の結果であることが最も重要だ。

 

私は何が好きなのか

スポーツジムでは、他人との距離が近いだけで、イライラする。チラチラと蠅のように視界に入って邪魔だからだ。

私が決めた予定・私の空間を邪魔するやつは、基本的に死んでほしいと思う。

誰がどんな話をしていたか、なんてあんまり記憶に残ってない。他人がどうなるか・どう感じるか・どう思うかは、自分ほど興味をもって観察することができない。

 

私はやっぱり、私にしか興味が無いんだと思う。

 

自分とどれだけ正直に向き合ってきたか。

他人との比較、わかりやすい成功。これらはあまりその人の味わい深さとは相関しない。

仕事・出世・売上・賞罰・勝負。

それらの勲章をひけらかし振り翳すほど、空っぽの証。

自分の深淵を覗き込む自信がない、と言っているように聞こえる。

 

己の弱さを認めじっと目を逸らさずに生きてきた人をこそ、尊敬する傾向にある。

それが一番等しく難しいことだからだ。

勝つよりも成功するよりもはるかに難しい。

 

 

「……ひとつだけ言っておこう。君はぼくを乗り越えると言ったが……。君よりも9年も長く生きてるから教えてやろう……。他人を負かすってのはそんなむずかしい事じゃあないんだ……。もっとも『むずかしい事』は!いいかい!もっとも『むずかしい事』は!『自分を乗り越える事』さ!ぼくは自分の『運』をこれから乗り越える!!」

 

出典:集英社「ジョジョの奇妙な冒険」 作者:荒木飛呂彦 から引用

 

それぞれの人生は、交わらない異なる時空のようなものだ。

人間は結局、皆誰もがひとりだ。

生まれてから死ぬまで。

それは、偽ることができない。

同じと勝手に思っているだけで、実は同じではない。

違うと勝手に思っているだけで、知覚している違いは本質的な違いではない。

他人を見ている限り、全部自己満足だし、全部思い込みだ。

自分のなかの真実が、客観的にも真実かどうかはどうでもいい。

自分のなかでゆるぎない真実ならば、それこそが真実だ。

 

自分と向き合うこと。その末にたどり着いた今の「真実」をそれぞれに見せ合うこと。

その違いを楽しむこと。その謙虚さと努力に敬意を表すること。

尊敬で繋がること。

私が唯一ほしい他人との繋がりは、それだ。

本物であればよい。それは少しでいい。

【共依存】誰かが誰かを一般化するのは、恐ろしくて不安だから

何者かを一般化すればするほど、真実そのものから遠ざかる。

しかし、人は法則を見つけたがる。グループに共通点を見出して、他者を自分の理解の範疇に押しとどめたいと願う。だから、他人を観察し分析することに熱中する。

それは「恐れ」と「不安」から突き動かされている衝動。

しかし、その指摘は当事者から否認される。

なぜなら、それをやめてしまうと自分を見つめなくてはならなくなるから。

「共依存症の当事者はなぜ他人を一般化したがるのか?」ということについて考えてみる。

 

「共依存症の当事者はなぜ他人を一般化したがるのか?」

すでにこのテーマ自体が、一般化しているから反感買うよな、と思う。(笑)

共依存症になるのは、人それぞれで、抱えている寂しさのエピソードはそれこそオーダーメイドだ。環境は一つとして同じではない。当事者たちに限りなく共通点があるとしても。

まずはその土台に立たなくてはならない。

同じようで違う。違うようで似ている。

そして、それぞれが独立した貴重なストーリーだということ。

それを共通認識できて初めて対話ができる。

「アルコール依存症者はこうだから」

「ギャンブル依存症者はこうだから」

「医療機関はこうだから」

「福祉はこうだから」

 

こういうレッテルを貼るのは、当事者が見えていないからだ。

私がまさにいい例で、そういう偏見にまみれていたと思う。

信頼して打ち明けた心療内科で自分がアルコール依存症であるという事実を「隠したほうがいい」と言われた悲しみと怒り。それが医療者に対する疑心を生んた。結果として私はしばらくの間「『医療機関の多く』はまだ依存症に対して無知である。」という偏見を持った。

特にデータを取ったわけでもないのに、数十名の医師と面会しただけで、そう決めつけるのは明らかに早計だった。それに、一生懸命依存症に関わっているメンタルの先生方にしたら、私の不遜な態度や決めつけはとてつもなく心外だったことだろう。この場を借りて当時の自分の思い込みで傷つけなくてもいいひとを傷つける発言や態度をとってきた未熟さをお詫びしたい。

そもそも私たちは、このようなレッテル貼りに深く傷ついてきたではないか。

依存症という病への無理解や偏見、つまりスティグマを植え付ける社会を憎んできたはずではないか。

それなのに、レッテルを貼る側になってどうするんだよ、という話である。

大きな主語で語ると、その主語の大きさに比例して他人を傷つけるリスクを高くする。

気を付けなくてはならない。

 

ではなぜ大きな主語で語る(一般化する)のか?

では、なんでそんなリスクの高いことをしてしまうのだろうか。

自分が傷ついてきたはずの行動を無意識にしているのだろうか。

その答えは簡単で、「恐れ」ていて「不安」だからだ。

何が? 「わからないこと」が。

私にとって、分からないものと対峙することが、居ても立っても居られないほど脅威だから。

 

私が人間をカテゴライズする「性格診断」「タイプ診断」などを毛嫌いするのは、人間の心の弱さをまざまざと見せつけ、心にこすりつけられるようで、どうも苦手だからだ。

分からないものを分からないまま脇に置いておくことができない「弱さ」を誤魔化すためだったり、何かの基準にすがりたい弱さに付け込んでコントロールしようとするパワーゲーム的な戦略性(つまり別の種類の「弱さ」)を垣間見るからだ。

 

何故、他人が「わからない」ことがこれほどまでに怖いのか?

コントロールしたり予測したりできないことに、ここまで不安を覚えるのか?

それは、私たちが今までコントロールされたり誘導されたりしてきたからだ。

他人に意図を知らないままに操られてきたからだ。

他人に心理的安全性を脅かされてきたからだ。

つまり他人を警戒し心を閉ざしているのが私たちだ。なぜか?そうせざるを得ない経験をしてきているから。

自分の弱さを認識しようとしないで、他人を分かった気になることで覆い隠そうとする。

そうなった瞬間、弱さは気高さを失い、醜悪さになる。強くありたいという本来の願いから遠ざかっていく。

以上が「一般化する側」の弱さ・醜さ。

 

「一般化された側」も、弱さが共鳴する。反応する。それが炎上である。

一般化された言葉を読む。

それはおおむね当事者の真実と異なっている。なぜか?弱さゆえに分かった気になろうとした人が無理やりこじつけた虚像だからだ。安心するための張りぼてに過ぎない。

その張りぼてをさも自分であるかのように、他人が勝手に喧伝していたら、当事者はどう思うか。

「ちゃんと理解してもらえていない」

「誤解されている。本当の自分を受け容れてもらえていない」

当事者の聞き手は、不安と恐れが生まれる。

そして、その不安と恐れに突き動かされて、発言者を非難する。

どうやって非難するか?これまた一般化するのである。

「これだから○○は理解していない」

「こんなことを言うのは○○なやつだ」

それが連鎖反応して、どんどん人を傷つけていく。

ネットで炎上している状態というのは、だいたいこんなもんだと思う。

 

要は、「一般化する側」も「一般化される側」もそれぞれの弱さが反応して、無差別に傷つけあい燃え上っているだけ。

人が群がる空間に迸る「人間の醜悪さ」というのは、「弱さの否認の共鳴現象」の産物だと思う。

 

強くあるにはどうすればいいのか?

弱さそのものは悪くない。むしろ必要だ。

しかし、それを認めず目を背けるとき、人は醜くなる。

否認すればするほど、みすぼらしい存在になっていく。

弱さを認めること。脇においておけること。それが、強くあるということ。

強かで美しい人間であるために必要な勇気だ。

 

まず、傷ついたときには素直に「私はあなたが○○だと決めつけて話すことに傷ついている。可能なら、次回から決めつけないでほしい。○○という風に理解してもらえたらうれしい」と言葉にして相手に伝えよう。

攻撃する必要はない。自分がどう感じたのかをありのまま、私を主語にして伝えよう。

それを受け取りどうするかは、相手次第。気持ちを渡した瞬間、それをどう処理するのかは相手の仕事だ。相手のなかでどう加工されようと、あなたに責任はない。伝わるように伝えるところまでが自発的に果たしたい役割。

とても勇気がいる。自分の気持ちをそのまま伝えて受け取ってもらえなかったら辛い。誤解されたら口を出して理解させたくなる。でもそこは境界線を越えてはいけない。私に「気持ちを伝えて渡す権利」があるように、相手には「受け取り方を決める権利」があるのだから。

 

そして、他人の言葉を聞いたり、自分が発言するときに、「主語が大きくなっている」と感じたとき。

それは誰かが誰かに「恐れ」や「不安」を抱いているときだと覚えておこう。

覆い隠したい「自分のなかにある恐れや不安」が別の形で表出していることを知覚しよう。

 

わかったようなふりをして安心したいのはなぜか?

そこにはどんな「不安」がある?

「この相手を理解した」と周囲に示すことで気持ちよくなりたいのはなぜか?

そこにはどんな「恐れ」がある?

 

そういうとき世界は「自分を見つめ直そう」というメッセージをくれている。

【依存症】12ステップ・プログラム STEP11の「黙想と祈り」を仏教から考える

祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。

出典:ACAジャパン「ACのための12ステップ」

 

めちゃくちゃ宗教っぽい。

私は不可知論者(神様はもしかしたらいるかもしれないけどいるかどうかわからないと思ってる人)なので、神がどうとか言われると胡散臭いなと思う素直な性格をしている。

神の意思?は?って感じだし、いるんだったらもっとマシだろ世の中、と思う。

だけど、STEP11が言わんとしていることには納得しているし、他の宗教も同じような考え方に行きついているので、おそらく私にとっての真理に近いと思っている。

今日はその辺のことを書こうと思う。

 

大乗仏教の「唯識学派」

大乗仏教にも似た思想があって、『唯識学派』という学派がある。

各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する考え方である。

最も根底に、『阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)』という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

過去記事:「【依存症】祈りとは信じることだという話」より

 

唯識学派の八識説は、図に表すとこう。

 

つまり仏教においても無意識の領域があって、その領域の最深部に「阿頼耶識」という「自我を超えた大きな力の源」があり、それが根本となり世界を形づくっていると考える。

自分が意識していることをはるかに超えた「大きなもの」が横たわっている。

全ては「潜在意識」によって生み出されている。

 

潜在意識を顕在化してコントロールしようとするのは愚の骨頂

「潜在意識」といえば、引き寄せの法則がどうとか詐欺チックなページがよくWEBでヒットする。

真実に近い匂いを醸し出させつつ騙すのは詐欺の常套手段というか、信じ込ませやすいからそっちに寄っていくというか、人って何でも金に換えたがるなー、と呆れる。

これらの詐欺と本当のステップ・プログラムの見分け方は簡単。

「夢・願望を達成する」と謳っているものは偽物だ。

「この考え方をすればみんなが欲しいものが手に入りますよ~」っていうのは、「これを飲むだけで3ヶ月で10kg痩せられます!」というのと同じ。

皆苦しいときは救われたくて、効果が劇的で早いと宣伝する方法に魅力を感じがち。

ダイエットがうまくいかない人が運動しなくても痩せると謳うダイエット詐欺商法に騙されるのと全く同じ。そんな問題ではないのだ。ダイエットは一朝一夕に成るものではない。

筋肉量を増やすために地道にトレーニングを重ね、低脂肪食で摂取カロリーを考えて生活した結果、その「生活に合った体」が自然にもたらされる。「痩せたいから痩せよう」とするのではなく、無意識に痩せるような生活をしている、在り方が自然と変わると、いつの間にか自然に受け容れられる自分を認識している、という感覚。

「痩せたい」を叶えるためにやるから、失敗する。

ステップ・プログラムは、潜在意識に身をゆだねる。

結局どうあがこうが、潜在意識に導かれるように私は導かれるんだよな、ということを理解して信頼する。

だからその限りにおいて、自由に楽しみ、心の充実に専念することができる。それが幸せという物の正体。

つまりコントロールしようとすればするほど、どんどん遠ざかっていくものなのだ。

 

12ステップ・プログラムにおける「ハイヤーパワー」=「潜在意識」=「阿頼耶識」

ACやAAの12ステップ・プログラムにおいて、依存症は「顕在意識」ではなく「潜在意識」からきている、と説いている。

なぜなら「渇望」は理性ではコントロールできないから。すでに無意識なので自身の手を離れている問題なのだ。

「いつの間にか」酒に口をつけている。「いつの間にか」共依存性に反応している。

だから、もうこの問題を取り除ける力はないので、他の力を頼るしかない、と無力を認める。(STEP3)

んで神とやらに祈るわけなんだけど、それは偶像崇拝でしかない。

崇拝の対象とする、助けを求めるものをとりあえず「神」という呼び方にしているので、みんなアレルギーを引き起こすのであって、「神」と呼ばなくてもいい。

ある人にとっては「良心」だろうし、ある人にとっては「自分のなかの天使」かもしれない。

つまり、呼び方はどうでもよい。

唯識論でいうところの「阿頼耶識」、12ステップ・プログラムでいうところの「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」が「『潜在的に在る』という認識を共有しようよ」ということをどの考え方も言いたいのだ。表現が違うだけ。

潜在意識は、自分の存在がまずあってそこを起点に発出する意識というよりは、この世の命がみんなでシェアしている大きなインフラストラクチャーみたいなもの。めっちゃでかくてエネルギーを持っている自分と繋がっている何か、と捉えられる。

だから「内なる神」と表現するけど「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」として分離しているのだ。内包しているようで、内包していない。シェアしているようで、自分とは完全に切れた何かではない。

だから唯識論では自分という実体を「有るようでなく、無いようである」と知覚するんだと思う。「全は一、一は全」すべては繋がっているので、個体として存在しているというよりは、全部が繋がりながら大きな流れのなかで揺蕩い、集っているのが世界だと考える。

 

近代社会では個人主義が徹底され、比較や競争を良しとする市場原理で精神的にも肉体的にもどんどん分断されているので、より実感しにくくなっている。

誰もが何かの共同体に属していて、成し遂げたことは決して一人の成果ではないし、ひとりきりで生きているわけでもない。それなのに、孤独で傲慢で乏しいモノとして生きようとするから病むのである。生命は生まれながらに独りではないと言える。孤独というのは自分が創り出しているのだ。

 

「黙想と祈り」はリコネクト

なぜ、STEP4~9までの取り組みを10で繰り返す約束をしたうえで、黙想と祈りをするSTEP11があるかといえば、これがなくては「STEPを踏んだ努力(自分自身の力)により私は回復したんだ」と勘違いしやすいからだと思う。

自分の力ではない。確かに私は頑張った。

しかし、たまたまステップに出会って、たまたまそこまでステップを進めることができただけだ。

タイミング、出会い、心の準備。何か少しでもずれが生じたら、今の私はなかったことだろう。

そんな数々の奇跡的な偶然を用意したのは何か?

唯識論でいうところの「阿頼耶識」、12ステップ・プログラムでいうところの「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」だと思う。

すでに決まっていた、というとまた胡散臭くなるんだけれども、私にはコントロールできない数々のモノにより支えられているのは確かだ。そしてそれは予定調和的に様々なものを伏線として用意されていたように絶妙のタイミングで与えられる。

たとえば私がベンチャー企業に行かずに今の会社にストレートで入っていたとしたら、仕事上の苦しみはこんなにもなかったかもしれない。しかし、赴任地が東北にならなかったら、妻とは出会えなかったかもしれない。そしたら、私は依存症を認めずに自死していた自信がある。今ココにはいない。

私には必要だったのだ。ブラック企業でボロ雑巾のように働く時間が。その経験が。

同じようにアルコール依存症になることも、ACであることも、全部全部必要だった。今の私になるには。

それは私が選んだものじゃない。私はそんなにドМな人生設計をするタイプではない。できれば楽してあまり苦しまずに生きていたいタイプだ。

そういうものに巡り合うことをすでに決めている大きな何か。

言っちゃえば全部それ次第であり、私たちができるのは精一杯今を生き切ることだけ。

だから、私たちはその大きな何かにお願いするくらいしかできないのだ。そのお願いを積み重ねると「ああ、これってこういう授かりものだったんだな」という感謝ができるようになる。

それが「黙想と祈り」によるリコネクトだ。

横たわる大きな何か、支えてくれている大きな何か。それに感謝できる、存在を感じる。

そのために「黙想と祈り」はある。

 

 

 

【AC】他人を頼れないあなたの「自己責任論」には感謝に対する「恐れ」が隠れている

「ひとりで生きてるような顔しちゃってさ」

2年前義母にそう言われたとき、私は「はぁ?」と青筋を立てた。

 

義母に対して感じた蔑み

第1子の産後、手伝いのために義母が私たち夫婦の家に来て、生後間もない長女の子育てを手伝ってくれていたのだが、私は当時とにかく義母が気に食わなかった。

何で気に食わなかったのか?

それは彼女を心の底ではバカにしていたからだ。

ろくな企業に就職した経験も、ましてや成功した経験もない。子育て中に夫婦生活に耐えかねて3人目の子どもである妻が当時まだ小学生にもかかわらず蒸発して逃げた。今まで最も時間を費やしてきたであろう料理すら、大しておいしくない。

それら全てにおいて、私のほうが現時点で上である、という自信があった。

自分は基本的に能力がなかったけれど、それを努力で埋めて何とか生きてきた自負があった。

だから、冒頭の言葉を言われたとき「それはてめぇがしょぼくて、その上頑張りが全く足りてねぇからだろ?自分の無能さを棚に上げて偉そうに何言ってんだボケ」と思った。

そんな無能なやつに助けなんて借りなくてもやれるのに。

こんなやつに助けを借りないと子供を育てていけないなんて。

だから感じたのは感謝ではなく屈辱だった。

とてつもなく心根が腐った娘婿。

それが私だった。

 

当時、私は独りで生きてきたつもりだった。

親は精神的支えとしては頼りにならなかった。それどころか、過干渉で侵食してきて逆に人生を邪魔をしてくる存在だった。

クソ田舎でいじめられて辛い思いをした。大しておもしろくもない小さい世界で生きているくそみたいな田舎者に囲まれて暮らしていたのに、何とか抜け出して努力して努力して努力して努力して、なんとか形にしたのだ、と思ってきた。

決して環境は恵まれていないという自覚があった。

そのなかで自分の努力で這い上がってきたと思っていた。

それなのに、特に頑張りもしていない下等なやつが、独りで生きているような顔をしている、と私を下にみるのは許せなかった。

そりゃてめーが無能なのに努力しねーのが悪いんだろうが。ふざけんな。俺は頼れる人間なんていなかったし、独りで生きてこなきゃいけなかったんだよ。お前みたいにしんどかったら逃げたりするような、クズじゃないから大変だったんだよ。ぬるま湯のなかで他人に迷惑をかけて生きてきたくせに偉そうに。用が済んだら大して役に立ってねーんだからさっさと巣に帰れよ。

と思っていた。

だいぶやばいな、書いてて引くわマジ。

つまり、私は共同体に対する感謝なんぞは全くなくて、むしろ憎しみと恨みがあった。

他人はすべて敵だった。自分を否定してきた敵だと思っていた。

 

ちなみに、私の両親もそのようなルサンチマンを抱えていたように思う。

だから子供に「社会的成功」を求めた。あの、私たちを虐げてきたあいつらを見返そう、という競争に勝ち抜く生き直しを子供に求めたと言える。

我が子が親元を離れても独りで強く生きていけるように。

そんなきれいな言葉の裏には、社会に対する憎しみと恐れが隠れている。

自分たちが優秀であること、それを裏付ける実証的結果を子供の社会的な成功に求めるという「人生の押し付け」が、機能不全家庭では行われる。

 

感謝は、屈辱であり隷属宣言?

私は「感謝」は「隷属」の宣言だと同じだと思って恐れていた。簡単に感謝することなどできなかった。

親との関係がそうだったからだろう。

「親を頼る」というのは、親の過干渉の支配下に甘んじる状況を許容することを意味したからだ。

屈辱的だった。感謝するときは負けたと思ってた。

成功は自分のおかげ、失敗は自分の努力不足。

そうやって自己責任論に終始していれば、「親に飼われているという屈辱」は少なくとも避けられる。

だからより、他人に感謝したり頼ったりすることを忌避していったといえる。

 

そうやって凝り固まっていく「自分は自分でコントロールできる」という思い込み。

それは恐れから来ている。

権威ある存在に対する恐れ。コントロールされる恐れ。

親のように、社会にそうされてきたように、「お前の想いなんて知るか、私たちが思うように動け」と強制されるのではないか。

安心感が無い環境で生きてきたことが、他人に伸ばす手を引っ込めさせる。

 

「無力」という弱さを認める

コントロールに対する恐れ。その劣等感から立脚される自己責任論。

それは「弱さ」そのものだ。

今この日本の社会で成功している人って、実はそういう弱い人が多いんじゃないだろうか。

そしてその弱さに自覚がないからこそ更なる社会的成功を求める。

自己肯定するような大義名分を周囲にも求めるので、認知の歪みをそのまま社会構造に反映させて、システム的に他人にも強いる。

それが日本の貧弱な現代社会の在り方ではないか。

自己責任論はつまり「なんでお前は俺のように強く生きられないの?」という意味なのだが、自己責任論はある種の「弱さ」からくる弱者の処世術だとは気づいていないから、そんな言葉が口から出る。

特に1960年代(2021年現在で50代)の世代などは特に濃い。日本の高度成長期の下克上的歴史的背景のなかで生きてきたので、共同体(関係性や恩)を切り捨てて全部自分でやってきたという自負がある。だから無意識に同じ苦しみを味わうのが当然だと思いこみやすい。

だから論理的に効率的に、共同体の機能的向上や快適さの追求を下の世代が訴えると、「甘え」だと思い批判的な態度を取りがちだ。

たとえば、今あるプラットフォームに乗っかって何かしようとすることを不自然に嫌う。

一から何か作れよ、そしててめーの力見せろよ、とヤンキーが根性焼きを迫るようなパワハラをかましてくる。それは結局ただのマウンティングだけど、本人たちは良かれと思っている。タチが悪い。

この動画がとても勉強になった。

 

持たざる者として辛酸をなめてきた人々。社会を恨み構造改革してメガコンペティションのなかに人々をぶち込むという「自分が信じる正義」の実現を目指した人々。それがグローバリストの背景だと思うし、今偉い立場にいる人たちのメンタリティの基礎だと思う。

このメンタリティは「自分の人生をコントロールできる」という驕りの上に成り立っていて、結局は12ステップ・プログラムにおけるステップ1の「無力」を認めていない。

だから、認知の歪みを生じる。

自由競争のなかで、助けを借りず、生き抜く・勝ち抜く・自己成功することは「良いことだ」と思っているわけだが、そうではない。

なぜなら、人は誰であっても人である限り例外なく「無力」で、自分の人生すらコントロールできないからだ。

たまたま日本に産まれて、たまたま食うに困らない家に生まれて、たまたま学費が払える家に生まれて、たまたま他の人たちが立ち上げてくれた会社があったから就職先があって。

私はいろいろなものに支えられて今の状況を生きている。

それと同じように、今成功している人もまた、様々な共同体に無意識に所属していて、その「自分を超えた大きな力」に支えられて立っている、か弱い存在なのだ。

どんなに偉い人も、どんなにすごい人も、どんなに魅力がある人も、そうだ。

人は誰であっても人である限り例外なく「無力」で、自分の人生すらコントロールできない。

それを謙虚に認めたとき、景色は変わる。

この世にあるものは憎き敵ではなく、親愛なる友だったということだ。自分が敵だと思うから敵に仕立て上げていて、遠回りではあるが本当は全てのこの世のものが私を助けるものだったということに気づく。

 

無力を認めるステップ1を阻む「恐れ」を乗り越える

今までの文章を読んで冒頭の義母のセリフを読んでみると「ムカつくけどまあそうだよね」と思わないだろうか。私は思う。

当時、私には驕りがあった。だれにも頼らず独りで生きてきたという驕り。初期のステータスが大して恵まれてはいなかったのに、努力・自分の力で何とか生きてきたという驕り。

それは、恐れから目を背けるためだった。

恐ろしい他人を頼らなくては生きていけないような無力な自分を抱えて生きていかないといけないなんて、叫びだしたいほど怖い。

つまりそれほどの孤独のなかで生きてきたということで、それは意外と多くの人が抱えている心の穴なのではないだろうか。

頼れない。頼らないのではない、恐ろしくて頼れないのだ。

それは弱さに他ならない。でも弱さが悪いなんて言わない。みんな弱いのだ。私やあなただけが弱いわけでは無い。

弱い。それは変えられない。それでも頼れる勇気がある。それは強くあろうとする心。

勇気が持てないのもしかたない。心臓をえぐり取って差し出すようなことを、そうそうできるものではない。少なくとも私たちアダルトチルドレンにとって、依存症当事者にとっては、他人を頼るというのはそういう行為だったのだと受け容れよう。

何故、他人を頼ることができる人は、それができるのかといえば、安心感があるからだ。

頼ることを否定されなかった経験。皆に支えられて生きていて、それを交換条件に取引されるような環境ではなかった幸運。それらに恵まれているから、我々より勇気が比較的必要ないだけ。

つまり、その経験を私たちも積めばいい。そうすれば勇気が出せる。

それができるのが、自助グループという場所だ。

自分が思うことを話し、自分がしたいから協力する。

そういう共同体だからこそ、他人の好意を素直に受け取ることができる。

その経験を積み重ねて、勇気を出す練習をする。

それが、自助グループという守られた共同体で行える「尊いやり直し」だ。

 

今、社会で成功しているように見える・社会的成功に固執する人にこそ、12ステップ・プログラムと自助グループは、必要不可欠な処方だと思う。

だけど、それはあと20年後くらいの話だろう。

グローバリズムが終焉を迎えて、私たちが信じてきた自己責任論でどうにも首が回らなくなったとき。

私たちのなかで、最も尊いテックとして12ステップ・プログラムが注目され、自助グループという共同体の意味を知るのだと思う。

今はまだまだ残念だけど社会の壊れ方が足りないんだろう、これでも。充分やべーけど。

もっともっとどうしようもない地獄になって社会全体が「底付き」することが必要だ。

私はそのときのために、できる準備をしていきたい。

【AC】子供の頃の自分を癒すワーク(インナーチャイルドワーク)

インナーチャイルドワークというものがある。

方法は以下の通り。

 

1、落ち着ける静かな環境で椅子に座り、数回深呼吸しリラックスします。

2、自分の目の前に、こちらを向いて立っている56歳の小さな子供(自分の子供の頃の姿)をイメージします。

子供の頃の自分をリアルに思い出せなくても、なんとなくイメージすれば大丈夫です。

できれば何か嫌なことがあったのか、寂しそうにしているところをイメージします。

3、その子の気持ちを察してあげます。

あなたの目の前に立っているその子は、何か話をしていますか?

その子が何か話してきたら、しっかりと聞いてあげます。

何も言わなかったとしても、その子の気持ちを優しく受け入れてあげてください。

4、その子が癒されるように、その子がかけてほしいと思っているであろう言葉をかけてあげます。

例えば

〇〇ちゃん、あなたはそのままで価値があるよ

〇〇くん、あなたは~ても~てもそのままで価値があるよ

〇〇ちゃん、お母さんは、あなたのことが大好きよ

〇〇くん、あなたはお母さんにとって大切な存在だよ

こうした言葉をかけながら、小さな子供の自分を膝の上に乗せて抱きしめ、優しく背中や頭を撫でてあげます。実際に撫でる仕草をします。

5、もう一度、4と同じように言葉をかけます。

そして、あなたの言葉を聞いて、その子が嬉しそうな顔をしているところ(癒されているところ)をイメージします。

6、その子が喜んだり安心したりしているのを感じます。

喜んでいるその子供をゆっくりと自分の胸の中にいれ(その子と自分が一体となる感じ)、あたたかさや安心感、喜びの感覚が自分の体に広がっていくのを感じます。

ゆっくりと目を開けて終了です。

このワークは、15分から10分位でおこないます。

ワークのコツは、その子に何が起きたのか、何が原因だったのかを頭で分析しないようにすることです。

ただ自然にイメージがあらわれるに任せます。

自分の心の中で自然と起こる出来事を静かに観察するような気持ちで、リラックスした状態で行いましょう。

 

初期のインナーチャイルドの様子

ほんとこっちがいくら話しかけてもガン無視だった。

全然こっちを信用してくれずに土いじりして下向いてるイメージしか浮かばない。マジ心閉ざしとるなと思ったよ。

近寄ると離れるし、手を差し伸べるとペシってやられるし。

もう手の施しようがない‥だめだこりゃって思って愕然とした。

対話できてるっていう教えてくれた人、本当にすごいなと思った。私のインナーチャイルド、もう全身から負のオーラ出して全力でこっち拒否ってたもん。

幼稚園の制服を着ているから、幼稚園に行かなきゃ行けないけど、行きたくないんだろう、と思った。

 

「行きたくなかったら行かなくていいんだよ?あんなとこくだらねーんだから」

「別にさ、いい子にしなくていいんだよ」

というと、やっと顔を若干上げるんだけど、まだこちらの真意を探っている感じ。

 

当時の私は、本当は何がやりたかったのだろう?

 

「みんな嫌いだから行きたくない」

「全然楽しくない」

「そうかそうか、何ならしたい?」

「お話ししたい」

「もっとちゃんと聞いてよ。僕の話は、誰もいつも聞いてくれない」

「そっかそっか、それはつれーな」

 

「話したいこといつも途中で否定しないで」

「なんで最後まで聞いてくれないの?」

「僕が考えてることはダメなことなの?」

「いやいや、ダメじゃないよ。少なくとも俺はちゃんと聞くよ」

やっと立ち上がってこちらを睨みつけながら泣いている握り拳を握っている。枝を握っている。

「そう言って、いつも聞いてくれなかった。どいつもこいつも騙しやがって。信用できるもんか。そうやって聞くフリをしていつも答えは決まってる。それは聞いてないのと同じなんだよ!」

「わかるわ、それつらかったよね。それは話す気もなくなるよね」

「なくなるよ。もう諦めてたのに今更何しにきたんだよ。

「君の話を今度こそちゃんと聞きにきたんだよ」

「信じられるわけねーだろ、しね。ふざけんなよ」

「まぁ信じてもらえるまでいつまででも待つさ。話してくれてありがとうね」

キョトンとしている。

「めんどくさいって怒らないの?離れていかないね。不思議。あんたは俺に『なんでいい子にできないの』って怒らないのはなんで?」

「別に、いい子でなくてもいいからだよ。俺は模範解答じゃなくて、君の話を聞きたいと思ってここにいるからだよ」

「ふーーん、ま、今までのやつとはちょっと違うみたいだね。あんたは。」

「そう思ってもらえたら嬉しいけど、まぁ無理に話さなくてもいいさ、気が向いたら。いつでもそばにいるからさ。一心同体なんだし」

「そうなんだ、変なの」

ちょっと笑ってくれた。

 

最近のインナーチャイルドの様子

「本当は自分のなかでぐるぐる考えるのが好きなんだ。景色とか匂いとかいろんなことを感じて、頭のなかで空想するの楽しいんだ。

でも他の人といると、他の人が邪魔してくるんだ。

集中したいのにできなくてイライラしちゃうんだ。

だからひとりでぼーっとしてるのを怒られるのはすごく悲しかった。」

「めっちゃわかるわー。あるよねーそれ。」

「いやいやwおじさんはちゃんと大人なんだからそんなこと言ってちゃダメなんじゃないの?」

「んなことないよ、大人だって、1人になりたい時くらいあるんだよ。君のママや周りの大人はダメって言ったかもしれないけど、ダメじゃない、当たり前のことなんだよ」

「そうなの?お母さんは嘘つきだね」

「うん、あいつの言うことはマジで信じなくていいよ」

「ウケる!じゃあ感じたいものを感じて自分の過ごしたいように過ごしていいんだ?」

「うん、そうそう」

「それだったら、生きていくのも嫌じゃないかもしれないなー。おじさんありがとう」

「よかったよかった」

 

幼少期の私は本当に偉いと思う

私は本当によくここまで生き延びてきたと思う。

マジで暗黒でしかなかったのに、よく自殺しないで今まで我慢してきたよ。偉いよマジ。

だって、ほんときつかったもん。

例えば、近所のガキがサッカーしようて毎日くるのが死ぬほど嫌で、なんでお前らと玉蹴り遊びしなきゃならんのだ、俺はファミコンがしたいんだ、と常々思っていた。正直にそのことを言ったら誘われなくなった。(当たり前)

俺はそれで全く構わなかったし、面倒な誘いをしてくるうるせー奴らが消えてせいせいしていた。

しかし親が許してくれなかった。「友達になんてことを言うんだ、今から一緒に遊んできなさい」と外に叩き出された。

家にこっそり帰ろうとしたけど見張られていたので、渋々遊びに加えてもらおうとした。断られた。(そりゃそうだよなw)

そこで私は近所のガキにブチギレた。「こっちだってやりたくねーんだよ、でも家に帰れねーんだよ!付き合えクソ野郎!!」と泣きながら胸ぐらを掴んで入れてもらった記憶がある。相手も迷惑だったことだろう。

幼稚園もそう。一人で色水を作ったり、ナイフで極限まで木を削ったり、そういうことができればよく、わざわざ幼稚園というウジャウジャと人間がいる場所に通う意味がわからなかった。遊んでいるのにスペースが狭くなるし、他の遊びをしている連中に邪魔されるし、何だかちょっかいかけてくるような奴がいるし、地獄でしかなかった。早く帰りたかったし、一ミリも楽しくなかった。何でこんなことをしないといけないのか、最後まで謎のまま卒園した。

 

友達って何?って感じだった。

親が友達と遊んでいるところなんてほとんど見なかったし、本当に友達なのかなという距離感だった。

お互いにマウントを取り合ったりして、結局一人が寂しいから補完的に目的もなく群れているだけなんじゃね?っていうイメージだった。繋がりなどないもない。信頼関係も何もない。そんなのは私は欲しくなかった。

友達という概念そのものが歪んでいたと思う。

 

何だか、もうとにかく生きるのが面倒だった。

他の人間と絡まなくてはならないし、思ったことをいうと嫌われて不利益を被るし、こいつらより上じゃないと親が曇った表情をするし。

いっそのことこいつらが全員いなければいいのに‥と何度思ったことか。

それなのに、殺したりもせずなんとか上手く頑張ってきたと思わんか?マジでこんな無理して依存症になったり鬱になったり強迫性障害になったりしながら、人間をなんとか続けてきたことに心から敬意を表したいと思う、自分に。

 

もう我慢しないで自分を生きる

もうね、嫌われるときは嫌われるんよ。好かれる時は好かれるし。嫌われないために生きてるわけじゃないからね、こちとら。知らんし。

あーもう知らん。笑 って感じよ。

他人なんてものすごく色々な考え方で生きているしびっくりするくらい違うんよ。そして特に考え無しに生きている人間が結構多い。ふわふわとした「空気」とやらで平気で人間を攻撃したり信じたりする。

そんなボウフラみたいなのに嫌われたって、どーってことないと思わん?

もうね、いちいち気にしとってもしゃーないんよ。

私もつい最近まではねー、結構信じとった。

世の中にはすんげーイエスキリストやマザーテレサみたいな人徳者がゴロゴロおって、俺は矮小で浅学菲才な凡人なんだと。

でもそうそうおらんよ、そんなんは。結構みんな地味にすごい。そして地味にしょぼい。だいたい同じくらい。どんぐりの背比べ。

尊敬してるから見解を知りたくて色々質問したら迷惑そうに「なんでも答えがあるって思わないようにしましょうね」とかあしらわれてさ、「ああ、そんな風にしか異業種の新人の話を聞けないレベルの器の小ささなんだな‥」とガッカリしたり。

我こそは依存症者を導くぜ!みたいにオラついてる人も実際は共依存真っ只中だったり、依存症からの回復というフィールドでパワーゲーム繰り広げていたり。

効率的に世の中を良くするために手と手を取り合おう、っていうこと自体そんなにフラットにできる人いない。

みんな自分の功績にしたいという名誉欲があったり、自分がしてきた苦労をしないで楽してシステム化するようなのを妨害しようとしたり。その辺の有象無象と同じ穴の狢。

自分たちが持っている視点が正しいと思っている。

それってほんと私の親と同じ。そりゃ今までの自分に自負があるだろうし、自分の方がわかってる、やったことあるって思い込みやすいんだけど、その先入観を超えられないから、人の話のありがたみがわからないんだよね。

そして、そういうふうに見くびるから見くびられる。

因果応報。残念でした。

 

だからさー、特別に私の親がクソだったわけでもなく、だいたい人間てそんなもんだったんだなーということなんだよね。

特別親だけを恨む必要も要因もなかった。

最近は結構親のことは、憎くもないし気にもならなくなってきたのは、結構おどろき。

巨人に見えた両親は、よくいる小さい一個の人間だった。

小さい頃の私は欠陥品ではなく、尊重され大事にされるべき一個の人間だった。

ただそれだけのことに気づくのに、35年かかったのは、早いのか遅いのか。笑

でも、私の人生に最も良いタイミングだったのだろう。

 

インナーチャイルドワークを通じて実感したのは、親を特別視して恨まなくてもいいんだな、他人を必要以上に怖がらなくてもいいんだな、ということ。

そして、そのままの自分って割と悪くなかったんだな、というかめっちゃ偉いしすげーやつじゃん!という根本的な事実。

みんなも、一人一人がそうだと思う。

そして何より自分のために生きてほしいと思う。

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ3

3、今までの生き方を支えてきた意志の力への信仰をやめ、他人の評価を恐れることなく、あるがままの自分の心と体を受け容れようと決心した。

あるがままの自分でいたら、どんどん自分を甘やかして、どんどんナマケモノになって、誰にも相手にされなくなるのではないか、という恐怖が襲ってくるかもしれません。しかし、だまされたと思って、とりあえず「今のままの自分でいい」とすべてを認めてみてください。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P210より引用

 

 

前回の振り返りと今回のステップの位置づけ

前回のステップで、私は2つのことを認めた。

①小さい頃から感じてきた寂しさを埋めるために、他人の評価を気にし過ぎたことがきっかけだった。

②今まで自分の意志の力を信じ過ぎ努力してきたことが、私の人生を不健康にしてきた。

意志の力を信じてひたすら自分に鞭打って生きてきた生き方は、それはもう見事に破綻して、実際にアルコール依存症という形で表面化した。不健康そのものだ。

なまじ中途半端に他人よりできたことが災いして、間違った「意志の力への信仰」を強化するという皮肉。他人の評価はコントロールできる、今評価が低いのはコントロールが甘いからだ、という驕り。それが自分にも他人にも厳しい態度を生んだ。世界をどんどん他ならぬ私が狭くしていった。

だから、このやり方はもうやめなくてはならない。やめざるを得ない。

というか、やめる以外の選択肢はない。そうだろう?だって失敗したんだから。

「それをもういい加減認めようぜ」というのがステップ3だ。

 

時はきた

「でもだってほかにどうすりゃいいんだよ?!」って不安になると思う。

なんというか、今まで必死に拝んできたお地蔵さんが砂でできていてバッサリ崩れ去った感じだ。私はこれから何を道しるべに生きていけばいいんだろう?的な。

今までの人生に対する後悔も半端ではない。

何という無駄。なんという徒労。意味のない、間違ったことを一生懸命してきたなんて…。その事実をとてもじゃないけど受け止められない。後悔が重すぎる。

そう思ってもしかたないし、むしろ当然だと思う。

だって、もう本当に、私たちは健気に一生懸命にやってきたんだから。

認められよう、褒められよう、ここにいていいって言ってもらいたい。

そんな悲痛な叫びをぐっとこらえながらただひたすらに努力してきた。その切実さ、内に秘めた怒りはとてもよくわかる。私も同じだったから。

でももう、それは失敗に終わってしまった。いよいよ「失敗だった」「間違いだった」という事実を受け容れるときが来た。

 

実は、薄々わかっていただろう?

こんな事いつまで続けるのだろう。報われない努力をいつまで。

本当に私はそんなにダメなのか?結果が伴わなくちゃ生きていることすら許されないのか?

愛するってそんなギブアンドテイクか?そんなに渇いたやり取りなのか?それで私は本当に癒されるのか?

そんな思いが心のどこかにあったのではないか。

 

努力不足なんかじゃない

なぜそんなに自分をダメだと思うのかといえば、親に愛されていない事実を誤魔化すために自分に矛先を向けているからだ。

「親はもちろん自分をありのまま愛している」ということを肯定するには、親の望む「いい子」になって認められ褒められる必要があった、というのがすでに矛盾していて歪んでいる。

本当は、親がどんな私でも他との比較を抜きにして、ちゃんと見てちゃんと話を聞いてちゃんと正直に話をしてくれれば、何の問題もなかった。

そういう心の交流をしてもらえないということは、つまり愛されていないわけだが、幼い私はそれを認めてしまったら壊れるので、他に理由を探したのだ。つまり自分の能力に責任転嫁したのだ。なぜなら親を愛しているから。健気すぎて泣けてくる。

「私は親を愛している。だから親が私を愛していないはずがない。親が私を愛していないように見えるのは、私が至らないから。両親が私を愛していないわけがない、だとしたら私に原因があるに決まっている」

 

そんな哀しいことってある?と思う。

親には正直人を愛する余裕がなかったと思う。自分を愛していなかったから。

自分を愛していない親は、自分の寂しさや憎しみ、つまり抱えているパーソナルな問題を見ない振りをするために、子供に関わる(過干渉だったりネグレクトだったりする)。

そのとき親は自分しか見えていない。もちろん子供そのものは全然見えていない。

そういう両親のもとで、子供はとてつもない孤独を感じる。見てもらえない、愛されていない事実が肌身に染みる。

だから親が求める模範的な「いい子」になろうとする。あるいは、問題を起こしてそれでも見捨てないかどうか試す。

しかし、今思えば、無理な要求だったのだ。

彼らはまだ人間として未熟なのに子を授かってしまった。そもそも彼らができないことを、私たちアダルトチルドレンは期待していたと言える。

期待することはもちろん悪くない、というか当然のことで、親はそれに全力で応えるのが役割なので、全ては親が親として必要最低限の能力を欠いていたせいだ。

 

悪くない

そう。ここまで読んでもらえたらわかると思う。

私たちが必要以上に承認欲求に振り回される、諸悪の根源は、親の能力不足だ。

あなたが悪いんじゃない。

そう、あなたが悪いんじゃないんだ。

だから、あなたは「今のままの自分」でいいんだ。

他人との対比は関係ない。する必要がない。

比べたとして、そもそも他人は私たちが思うより、大したことない。恐るるに足らない。

他人のほうが自分よりめっちゃすごいと思ってきた。特に先生と呼ばれる偉い人やお金持ちや社会的ステータスがある人は、人間として上質なのだ、と。

それは、思い込みだ。

どんぐりの背比べ。似たり寄ったりだ。人間ひとりの力なんて大差ない。

自信満々そうに見える人も、実は内心怯えていることを悟られないように虚勢を張っているだけだったりする。他人にやたらとマウントを取ろうとする人も私たちと同族である。病んでいる。

本当に自信がある人は、親が成績や実績なんかじゃなくちゃんとありのままの姿を認めてきてくれるまともな親で、健全な家庭育ちだからだったりする。

つまり、親ガチャでちょっとその人たちのほうがラッキーだっただけだ。私たちは親ガチャが残念だっただけ。彼らとの人間的な質の差は特にない。

 

人が創りあげるものは何でも、完璧ではない。だいたい何か足りないところがある。

自分一人の貧弱な能力では足りない何かを埋め合わせるために、どこか足りない者同士の私たちは、身を寄せ合い力を合わせて何とかかんとか今を生きている。世の中ってのはだいたいそんなもんだ。

しかし段々と社会が高度化しシステム化して、人が人でなくても良い社会になってきた。言い換えると、私たちはいくらでも替えがきくような冷たいシステムの歯車として生きているから、どんどんさみしくなっている。

人が創った不完全な社会だから当たり前なんだけど、物質的な豊かさと引き換えに、自ら不安で不幸になるような仕組みに乗っかって、今まさに情緒不安定になっている。

コーヒー飲んだら仕事がはかどるからっていってガボガボ毎日飲んで、カフェイン依存の症状として不眠やイライラに苦しんでいる、みたいなもんだ。

 

「勘違い」から一歩抜け出そう

今、いわゆる「勝ち組」として社会で華やかに活躍しているふうな人を羨む必要はない。

彼らはまだ騙されている。私たちが騙されてきたのと同じトリックに騙されているけれど、気づいていない。

そもそも社会に認められることって実は価値が無い。だって社会がクソだから。

自殺者をこんだけ増加させて、金儲けと出世のために仲間が苦しんでても「知らねーよ」って顔ですっとぼける人間が、国を動かす立場に立てるんだぜ?

それが今の社会のヒエラルキーの正体。

最も権力のある立場に立つ条件は、徹底的にクズになるということだ。

私利私欲を追求して他人が死ぬのを何とも思わないような、KING OF クズになること、それがこの今の社会で最も認められるということ。

嫌でしょ?

私は嫌だね。お金もらえても願い下げ。だってそれはもはや、人間じゃないもの。

だから、勝ち組って言われている人たちは、クズの優等生ってこと。自分たちのクズっぷりが認められて「私はとても幸せで他人よりすごいんだわ!」って言ってる感じ。やばいよね、それってもう悪趣味すぎじゃない?

まあでも「蓼食う虫も好き好き」ということわざがある通り、人間やめちゃってもいいからお金や権力がほしい、と人もいる。そういうのは、悪魔か獣か人外の類だと思って、放っておこう。

まさに冒頭から申し上げている、意志の力への信仰の狂信者もいる。私たちと同じだけど、コントロールに取りつかれていることにまだ気づかないまま狂信者。ガチャ的なラッキーも積み重なってしまったがゆえに、狂った宗教から抜け出せなくなっちゃった人たち。かわいそうに。同情せざるを得ない。

社会的に認められる、競争社会で勝つ、というのは「価値観の一つ」であって、場合によっては「大いなる勘違い」でもある。

価値観が一つではないように、社会で認められるというのは「認められているなら優れている」と錯覚しているだけであって、実際は何の指標にもならない。

なぜなら、人は不完全で、不完全な人間がつくった物差しなど正しいわけがないから。

 

では何を道しるべに生きるのか?

「良心」だ。

自分は、こんな善い自分でありたい。

この人を尊敬しているから、こんなことをしてあげたい。

そういう自分の心の奥深くから湧き上がる尊い気持ちに従って行動すれば、それだけでいい。

それが最も私が私らしく生きる法則であり、この世の誰にも否定する権利が無い人生になる。

そもそも正しい人生なんてない。間違っている人生もない。それを他人が決めるなんておこがましい。

法律も、ただ人間が勝手に決めただけだ。ルールを設けてみんなが生きやすくしようね、という取り決めで、絶対的に正しいわけじゃない。

自分の心に問いかけよう。

それこそが真実だ。それしか真実はない。誰も教えてくれない。

人生の答えは、あなたのなかにしか、存在しない。

 

 

【依存症】私がブログを書く理由は

私は今日、なぜこのブログを続けているのかな、とふと思ったので書いてみる。

 

変化の記録

特に誰に依頼されたわけでもない。特別読者が多いわけでもない。私などあまたいる浅学菲才な凡人だ。

そんな人間が書くものが、読者にとってどれほどの価値があるかわからない。そんなにたいしたことを書いてないなと思う。文章も無茶苦茶だしね。

でも、私が「依存症者」として至らない思考の数々を記録に残し、その恥を全世界に晒す意味は、私にとってけっこうあるんじゃないかと思う。

私の考えは常に変化している。

だから、ブログを始めた当初の記事は、書いていることがなんとなしにイキっていて過激でしつこくて、なんか相当イタイ内容だったりする。やめて、ブラウザバックして確認しないで。

だけど、それも確実に私だし、そういう一貫性のなさみたいなものが私そのものだなぁと思う。

正しいことばっかり書いてあっても、つまんないじゃない?

みんな日々変わる。それが当たり前なんだから、一貫性がなくったっていいじゃない。

そんなふうにもともと超頭固い人間だった私が、悩みながら自己受容ができるようになっていく過程。それが生々しく開示されているのがこのブログ。

すなわち、毎日毎日せっせと恥の上塗りをしているのだ。とんでもないドMだ。

でも案外、私と同じような悩みを持つ人に最高に寄り添えるんじゃないかなぁ。恥を晒しっぱなしにしているのはそういうわけ。

え?恥ずかしすぎて読み返せないからそのままにしてるんじゃないよ、ほんとだよ。ほんとほんと。

 

灰色を振り返る

私は物心ついたときから、とにかくめっちゃ生きているのがつまんなかった。

マジかよ、これあと何十年もあんの?地獄じゃん、と思っていた。

他の子達はとても楽しそうだけど、私が混じると微妙な空気が生まれてみんな楽しそうじゃなくなる。とても不思議だった。

私は一人の方がとても楽だったから、幼稚園にはじまり酒を飲めない時代の教育機関において楽しいと思った記憶はあまりない。大学は酒が飲めたから楽しかった。そのあと地獄が待ってたけど。

学校に行くとみんな楽しそうにしていて、毎日飽きもせず他人と遊んでいた。本当に不思議だった。

「なぜこんなに挨拶だけで疲れるのに遊べる体力があるのか?私に体力がないのか?いや、水泳では一番泳げるし、走るのも速い。どうやら身体能力の違いではない。」

「なぜこんなクソつまらない授業を聞いて御山の大将を決めるような小規模でダサいお遊びの部活をやって『毎日楽しくてたまんないぜ』みたいなフリができるのだろう?演技力半端なくない?なぜこんなにつまらないのに生きていけるんだろう?楽しいフリじゃないとしたら、一体全体何が面白いのだろう?彼らが感じている面白みは、何のどこにあるのだろう?」

そんなことを思いながら灰色の気分で周りを観察する日々だったなぁと思う。小中高とそんな感じだった。

 

スポーツや勉強で他人に勝てることは最初は楽しかったけど、上には上がいるわけで、いつも勝てるわけじゃない。

勝ち負けにとらわれても結局苦しいだけなんだなと思ってから、競うことにあまり興味がなくなった。

相手に馬鹿にされない程度に強くて勝てていれば、生存戦略としては必要十分。それ以上の意味はないなと思った。

親が喜ぶし、周りも「すごい」と言って賞賛するから、これが「良きこと」なのだと信じたいと思った。

社会に認められることこそが正しいこと。

そういう既製品の価値観をじわりじわりと深層心理に塗り込んでいった。

心の中で疑わないわけではなかった。

「本当にこれがやりたいことなのか?」「本当にこれが意味のあることなのか?」「皆が良いと言うから良いと信じるのは危険なんじゃないか?」

そう思ったけど、その方が楽だったし、親から見てもらえる効果的な方法を手放せなかった。安心できた。その偽りの安心を維持できるならと目を瞑った。

私は私の気持ちをみるのをやめて、周りの物差しを信じようと努力してしまった。

 

成長すればするほど違和感はどんどん膨らんでいく。

社会的にもてはやされる事柄に興味が持てないのだ。結構焦った。

女性と何人関係を持てたかを自慢したりする同性たち。価値観が合わない。自分の娘が「一発やれたらいい」みたいな腐った男に好きにされたら、親として一体どう思うのか?そんなことも想像できないのだろうか?大切な家に侵入してくるゴキブリのような存在になっているとは思わないのだろうか?

他人を間接的に殺してでも金をたくさん稼いでいる人間が上等だと言う先輩の社会人。冗談だろう?なんで人の命より金が重いんだ。カイジの利根川かよ。世の中を良くするための仕事じゃないのか?武力以外で効率的にたくさん人殺しするために(高級取りになるために)私は我慢に我慢を重ねて大学までクソつまらない勉強をしてきたと言うのか?ひょっとして今までの高等教育というやつは、みなインテリヤ◯ザになるための英才教育だったのか?

一生懸命合わせようとしてきたけど、瓦解した。

もうだめだ、私は社会不適合者なんだ、と思った。

結婚も仕事も何も魅力的じゃない。だけど、どうせ今までと同じようにやらなきゃいけない。だってそれが正しいことだから。そうでない人間は生きていてはいけないような言われ方をする。恥さらしだとゴミのように扱われる。

それは嫌だけど、この世界もいい加減うんざりしてきた。

どうしよう?

このクソつまらない世界に付き合うのと、もういっその事終わりにするのと、どっちが楽なんだろう。

 

そんなとき酒に出会った。

簡単に私を現実ではないところに連れて行ってくれる酒。

このゴミ溜めのような世界を輝かせてくれる酒。

酒によって私は解決の鍵を手にしたと思った。

酒に酔っていれば、この灰色の世界も色を取り戻す。

なるほどな、世の中の人は、この桃源郷にありつくために楽しくないのに楽しいフリをし、土の中で夏を待つ蝉のように、成人になるのを待っていたのか!

なるほど納得だ。これで私は安心だ。よっしゃ時代が来た。酒さえあればこの地獄をなんとかあと数十年しのぐことができる。

そう思っていた当時の阿呆すぎる自分を殴りたい。

 

尾崎放哉と父の思い出

そのあとは他の記事で語っている通りの凋落ぶりで、尾崎放哉のような急転直下の崖のふちでなんとか踏みとどまった。

そして今もまだかろうじて生きている。

あのまま酒で全てを失って孤独死していたら、放哉とはあの世でめっちゃ仲良しになったことだろう。同郷だし話も弾む気がする。鳥取をボロクソに言って盛り上がれそう。

「咳をしても一人」「肉がやせてくる太い骨である」「こんなよい月を一人で見て寝る」

私が思春期の頃、父が尾崎放哉で個展をやった。

父の筆で書かれたこれらの句をみたときのなんとも言えない郷愁。このときの記憶はいつまでも色あせない。

汗がにじむ夏の日に、蝉の声がうるさい。父の書斎に行ってみる。父は休憩中で不在。床には展覧会に出す前、苦しみ抜いている父のたくさんの練習書きが散乱している。

命の最後のひと絞りを渾身の力で絞り出す。放哉の魂の叫びが聞こえる。定型に縛られず、決まりにとらわれず、自由律俳句を叫ぶ放哉が見える。こんなに弱々しい言葉なのに、圧倒されるようなエネルギーがある。

慣れ親しんだ何もなさ。何もないことへの静かな怒り。その郷愁に震えた。

全てを失って孤独になり今際の際になった瞬間でこそ、このような言葉が生まれるのなら、その瞬間のために何十年も生きるのかもしれない。とても美しい。

そういうようなことを、幼いながらに感じ取った。生きることの最後の希望として胸の奥深くに刻み込まれた。

 

輝くものを見つけたい。自分の中に見つけたい。

尾崎放哉に、それを書く父に感じたような輝きを私も生み出せる人でありたい。

私は、芸術家としての父を尊敬していたし、今でも大きい存在だと思っているんだな、と思う。

色も輝きもなかった私の幼年期〜青年期。

その何もなさがあったから、眼を凝らしてよく見るようになった。他人と違ったから、より深く意味を考えるようになった。簡単には納得しない厄介で可愛げのある人格が育った。

自分に正直に生きるようにして、灰色の時代は寂寥感ばかりではなくなった。「信じなくては」「正しいのだから合わせなくては」と思っていたルールや社会というものの脆弱性を知ったから。実は虚構だし正しいわけでもなかった。私の心が発した警告は間違ってなかった。

今灰色を生きている人へ。そういう世界が音を立てて崩れながら色を取り戻す。あなたにもそういう感動的な瞬間がきっとくる。私なんぞに来たんだから、きっとくる。

でもその事実は、今の私から語るものではなくて、未熟でもがいていて、イキっているけど怯えていて、もうどうしようもなくだめで恥ずかしい、当時の私しか語り得ない。

当時の私の青さが奥行きとなる。私が変化しても、別の段階にいる悩める人の仲間として「かつての私」「未来の私」つまり「あなた」と今の私を、繋いでくれる。

 

あの日にみた放哉は、かっこ悪くてみっともないからこそ、そのままだからこそ、美しかった。

だから私はこんな恥ずかしいブログを書いているのだと思う。

【依存症】仕事依存症(ワーカーホリック)はゲーム依存症

最近、社会学者の宮台真司さんの話が面白すぎて、ずっと聴いている。宮台さんの話に感化されてうすうす思っていたことが確信に変わる。それが実に快感。腹落ちすることばかり。分かりみの嵐というべきか。

そんな確信に変わった事柄をつらつらと書いてみる。

 

ヴェーバー予想の実現

まず、宮台真司さんが言う「ヴェーバー予想の実現」から紐解かなくてはならない。

ドイツの政治学者・社会学者・経済学者であるマックス・ヴェーバーによって、今の社会システムが限界を迎えることは喝破されていた。

複雑な社会システムを運営するためには計算可能性が必要。

なぜなら計算可能性が無くては投資可能性が無いから、資本主義が回らないから。

そして計算可能性を担保するためには行政官僚制が必要。

行政官僚制とは、ヒエラルキー構造を持った組織運営で、属人的にならないようにシステムにとって取り換え可能な存在として人間を部品化することに他ならない。

行政官僚制でしか回らない社会は、他の組織の形態と比して、業務の正確性と継続性や、曖昧性と恣意性を排除するなどの側面が認められうる。

しかし他方、行政官僚制は形式合理性の論理にしたがって組織を閉鎖化し、単一支配的な傾向を生み出す。

つまり合理性を求めれば求めるほど人間性はノイズになるので、人としての性格がどんどん削られていき合理性と組織の奴隷になるしかなくなる。

この経済的システム的豊かさを求めるが故に人間性の欠落に陥ることの閉鎖性を、ウェーバーは「鉄の檻」と比喩した。

行政官僚制のなかでは人事(権力)と予算(金)が人を支配するので、上の意向を尊重し周りをキョロ見し自分のポジション取りしか考えない損得勘定だけで動く「損得マシーン」が自然と増える。

同時に、行政官僚制は文書による事務処理を原則としているので、人々は自分で考えるのをやめ既存のもっともらしい言葉・概念の持つシステムや体系にそのまま乗っかるようになる。

プログラムのように言葉によって自動的に動くだけで、自分の感情にも他人の感情にも鈍くなり「感情が劣化」する。

なので、人々の「言葉の自動機械」化が進む。わかりやすく言えば、主語がでかい人。

中国に行ったこともないのに「中国は〜だ」と語ったり、性というカテゴリで安易に分けて反応するミソジニーやミサンドリーのこと。

しかし、この行政官僚制に基づく社会システムに乗らなければお金が稼げないし生きていけないので、結局人々はシステムの支配から抜けられない。法に閉じ込められた人々を指して「法の奴隷」と呼ぶ。

この「損得マシーン」「言葉の自動機械」「法の奴隷」が3つそろうと「人はどんどんクズになる」と宮台氏は言う。ヴェーバーは「没人格」と表現していて、つまり結局人はシステムに頼れば頼るほど、人間をやめていくということだ。

「鉄の檻」つまり宮台氏のいう「クソ社会」では、どんどんクズが生まれていき、結局頼みの綱だった民主主義や民主制は育たなくなる。「鉄の檻」の破綻は、その存在そのものが持つ性質上、成立した瞬間から運命づけられているということ。

ここまでのことを予見したウェーバーは絶望して神経症になってしまうわけだが、「ウェーバー予想の実現」は、自称「先進国」日本において、先進国らしく世界に先駆けていよいよ完了しそうだ、ということ(社会システム崩壊のトップバッター)。

今の社会の阿鼻叫喚の正体は、システムそのものに最初からプログラムされていた。当然の帰結だったのだということ。

行政官僚制は何も政治経済だけではなく、ありとあらゆるところに蔓延っている。だってそれが資本主義経済社会の在り方そのものだから。

つまり経済活動である「仕事」などは、例外なく「鉄の檻」の内側の出来事でしかない。

すなわち働く人々は組織的であればあるほどクズ化(法の奴隷×言葉の自動機械×損得マシーン)していくのが、むしろ当たり前なのだ。

だから、私が日ごろ同僚や上司の良心の欠如を嘆き「なんでなんだろう?」と頭を抱えていたのは、とても滑稽な話だったのだ。だって当たり前のことなんだから。

「もしかしてこの世の中のほうが間違っているのではないか?」とうすうす感じてきた感覚は、まさにビンゴだった。

この日本社会(日本に限らず資本主義社会全部だけど)がクソ社会なんだから、正常な思考能力を持っている人ほど生きづらくて絶望するのは、当たり前だったということ。

だから依存症になるほど悩むというのは、むしろ上等な人間だという証明でもある!

私は依存症者であることを誇りに思うと同時に、自分の人間性を確認出来てとても安心した。

 

クズにより世界規模で繰り広げられるMMORPG=仕事

結局大企業にいるいわゆるエリートサラリーマンや行政・政府に所属するエリート官僚や政治家が何をしているかというと「ゲーム」だ。

泥船であるこの社会のなかで、限られた椅子を奪い合う椅子取りゲームをしている。

分かりやすく言うと「出世しようゲーム」「成果出そうゲーム」「勝ち組になろうゲーム」だ。これは男性だけではなく近年女性も参戦している。性差はない。

(言語ゲーム理論について話した記事でも似たようなこと書いたなあ。)

地位・名声・名誉・権力。これらをいかに集められるかというミッションを掲げ、貨幣価値を共通言語として「MMORPGMassively Multiplayer Online Role-Playing Game、マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)」つまり「大規模多人数同時参加型オンラインRPG」をやっている。

このゲームにおいて、プレーヤーの人道的・良心的な価値観は、どんどん剥ぎ取られていく。当然だ。だってクズ化がレベルアップだから。

法の奴隷で、自分で何も考えなくて、損得勘定だけで動くもはや人の形をした「人間をやめたもの」にならなきゃ、このゲームでは勝ち残れないから。

学歴や資格などはたとえば「課金アイテム」と位置付けられる。

不平等の極みだが、経済的に恵まれていなければテストを受けるチャンスすらもらえない。ガチャをまわす金がないのと同じ。もともと初期値で割り振られた所持金が低いからアイテムが手に入れられないプレーヤーが一定数いる感じ。

一定数のゲームランク上位にいるクズたちが強くてニューゲームして、「課金アイテム」を独占し、よりボロ勝ちするために自分たちに有利なようにガチャ自体の設定を好き勝手いじっている。

上位ゲーマーたちは下位のゲーマーは負けてんだからログアウトすればいい(死ねばいい)と本気で思っている。「下手で弱いヤツはやめちゃえよ」と課金アイテム使いまくってふんぞり返ってるイメージ。

だからこの社会では、お金がある人がよりお金持ちになるための法制度を行政府をコントロールして成立させるのが当たり前。

そうやって現に日本は、グローバリズムによってどんどん国の財産であるヒト・モノ・カネを、なますに切り刻まれている。そして、これから激安で海外にたたき売りする予定だ。

日系大企業で働いていて思う。

社員は本当に、社会や消費者のことなど考えていない。クズこそ出世するクソシステムだとしみじみ実感する日々である。

御上のご機嫌を損ねず、周りに合わせておいて要所で騙して出し抜く。限られた椅子をいかに自分のモノにするかしか考えていないプレーヤーばかり。

 

エリートサラリーマンの面白いところは、総じてこのクソみたいなゲームに依存していることだ。

仕事そのものは決して悪いものではないのと同じように、ゲーム依存症の当事者からも「ゲームそのものは悪くない」という話をよく聞く。共通している。

ゲームにも良さはある。

ITスキルの向上であったり、ゲーム好き同士の利害を超えた繋がり(仲間・居場所)であったり。資本主義に寄らない社会的価値を生み出すプラットホームとしての価値を持っている。

同様に仕事も社会とそこに住む人々を豊かにするためにするのであれば、これほど自己実現できるものはない。

仕事を通じて心を通わせる瞬間はあるし、仕事という共通言語のなかで育まれる共同体はときとして損得勘定を上回る。

 

ゲーム依存症と仕事依存症

つまり、ゲーム(仕事)それ自体は悪くない。

ゲームに依存して人としての道を踏み外すことが問題だということ。

ゲーム依存症では、ゲーム以外に楽しみを見出せなくなったり、実生活をおろそかにしてしまうなど、仮想空間に入れ込むあまり不健全になっていくことで自分だけでなく他人にも悪影響を及ぼすことが問題だとされる。

仕事に依存するワーカーホリックも全く同じ。

仕事依存症だと仕事以外に達成感を味わえるものがない。その結果、夫婦生活や親子の関係を犠牲にしてまで椅子取りゲームに夢中になる。それにより機能不全家族という不健全性を自分にも他人にももたらす。これがどれだけ有害かに無自覚で、このクソ社会にとっては問題にならないことが問題の本質なのだが、ほとんどの人がわからないまま病んでいく。

そしてゲーム依存症や摂食障害と同じように、うまく付き合いながら生きていくしかないのが、残念ながら今の時代だ。

資本主義経済社会で生きていく以上、お金は血液みたいなものなので、仕事をせずに生きていくことなどなかなかできない。

この世で生きる限り経済活動を余儀なくされる。

食べ物を食べなくては生きていけないように。ゲームによる繋がりが必ずしも悪ではないのと同じように。

要は、依存症に陥らないためには『「鉄の檻」の外側をもつこと』『損得に寄らないで関わり助けあえる「仲間」をもつこと』が重要だ。

宮台氏がいう社会という荒野を仲間と生きろというスローガンは、まさにこのことだと理解している。

ゲーム依存症でいえば、自助グループ。

仕事依存症でいえば、仕事以外に意味を見出せる繋がり。

家族でもなんでもいいから資本主義経済社会とは一線を画した共同体を持つことで、人はなんとか「鉄の檻」の外側に自ら己の居場所を創り出す。それでいて初めてクズでなくなることができる。クズ社会から一歩抜け出すことができる。

 

つまり世に言う「勝ち組」というのは、ただのジャンキーなんだということを覚えておきたい。一昔前に言われたネトゲ廃人というのに似ている。

仕事というゲームにどっぷりハマって、何が良きことで何を感じているかを考えることを放棄した人たち。

「俺のほうがすごい」

「俺のほうが偉い」

「私のほうが優秀だ」

と周りをキョロキョロ伺いながらゲームで勝つために何もかも犠牲にして人間をやめたクズ。

それが、今の社会で認められている人だ。

だから、むしろ社会から認められないほうがいい。

そのほうが誇らしいことなのだ。社会からボッコボコに叩かれるほうが「ああ、俺ってやっぱ間違ってないわ」と安心するというもの。

社会から否定されることこそ「まともな人間である」という証明だと思う。

だって社会は、いずれ滅びるクソ社会だから。そんなもんに認められちゃったら「おめでとうございます!あなたもいずれ滅びる方向に向かってる一味だよ」とクズに笑いかけられている状況なわけ。

むしろ背筋が凍る話だと思わないか。

 

まとめ:仕事がゲーム化しているからゲーム依存症と親和性を持つのは当たり前

仕事がゲーム化している以上、仕事依存症はゲーム依存症である。

そして、今日本社会ではありとあらゆる人が没人格化、つまりクズ化しつつあるので、クソ社会の沈みゆく泥船のシステムのなかで生き残りをかけてバトルロイヤルをやっている。

例えるならば、サービス終わりかけのリアル『フォートナイト』なのかな。

MMOPRG要素を追加した「フォートナイト改」のなかで、一生懸命課金して毎日毎日必死こいて他人と殺し合いしてるんだけど、もうサービス終了がすでに決まっていてそろそろなのに気づいていない感じ。

ゲーム以外に何も関係性を育ててこなかったゲーマーの末路は想像に難くないよね。

だからアホみたいに仕事依存症になってないで、経済的価値観では測れない、己の人間性に共鳴する経験や繋がりに投資すべきなんだよ。

「金になるか、ならないか」で考えると心がどんどん貧しくなっていくのはつまりそういうこと。

経済的価値はゲームのなかの通貨の話で、ドラクエの「ゴールド」はいくら集めても現実世界では何の恵みも与えてくれないでしょ?

アルコール依存症の私がお酒をやめてから言うから間違いないけど、リアルにもたくさん依存していたこと以外に面白いことはあるし、それはお金なんていうクズの価値の物差しでは測れない価値なわけ。

いろいろ話が飛んだけど、依存症ってこのクソ社会が生んだ社会的な病で、むしろ踏み絵的位置づけだと最近思うんだよね。

こんな人が人でなくなるようなシステムに順応できる狂人が健常者で、システムが嫌すぎて他に何かドラッグ使わなきゃとてもじゃないけどやってらんねーよ…っていう人間をまだやめてない連中が依存症者なのよね。

たとえば「覚せい剤やめますか?人間やめますか?」なんて腸ねん転起こすくらい笑える高度なギャグ。「おまえらみたいなガチガチの行政官僚制のなかで椅子取りゲームやってる、生粋のジャンキー(マトリの方々)にそんなこと言われたくねーよw」って話なわけ。

だから依存症の人たちは胸を張ってほしい。あなた方こそ人間の希望だし、まだ人間だという証拠だと思う。

恥でもなんでもない。むしろ名誉だよこれ。だって社会がクソだしクズが評価される世の中なんだもん。そりゃ依存したくもなるって。

そんなことを思うわけです。

【AC】「思考停止に陥る『自称』エリート」を社会心理学から考える

自称エリートだらけの職場で働いている。

確かに、一流大学を出て一流企業に勤めている。年収だって平均に比べてもらっているほうだろう。

しかし、その実態や現状認識は、実に shabby だ。気が狂ってしまったんじゃないかと思うくらい短絡的だったりする。

それでも自信満々を装っている。むしろ逆に見ていて面白い。こちらが赤面するほどショボい内容を誇らしげにプレゼンしてくれるのだから鑑賞しごたえがあるというものだ。

社内会議が昔からものすごく退屈で嫌いだったのだが、最近は一周回ってエンターテイメントだなと感じるようになってきた。全員がアホみたいな指示に振り回される姿は実にシニカルで情趣を感じる。

 

何も私もただただ傍観者を決め込んでいるわけではない。

営業戦略的にも社会貢献的にも意味がないことについては「意味がないからやらないほうがいい」と提案し、合わせて理由と代替案を論理的に説明する。それらは我ながらだいたいいつも正しい。しかし「大企業」の「エリート」と自称する彼らにとって、それは受け入れがたい内容のようだ。

一歩引いて彼らの言動を観察していると、だいたい社会心理学の用語でこの3つに該当する行動をよく選択している。

・認知的不協和

自分が信じてきた認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感のこと。この不快感を解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。イソップ童話で、キツネが届かなくて手に入らないブドウを「酸っぱいに決まっている」と思い込んで諦めようとしたときの思考方法と同じ。

 

商売というのは、古今東西 信頼関係を丁寧に築くことが必要不可欠である。

営業を「自分の利益のために顧客にゴミを高値で売りつけて金をできるだけ多く巻き上げる仕事」と勘違いしているビジネスマンが多いが、実はそういう詐欺とは違う。

営業が、商材を「きっかけ」とした有形無形のサービスを顧客に価値を提供する、それがその先にある社会を豊かにする。

先にあるものが見えていないと、小銭をあさましく漁るハイエナと同じに見える。残念ながら同僚はほぼハイエナだ。全然信頼も尊敬もしていないくせにゴマをすり煽てて褒めそやして、金くれ金くれと群がっている。

今まで自分がそういう中身のある仕事をしてこなかったので、ハイエナのような振る舞いをしなくては売上は上がらないと思い込んでいるのだ。

だから私が社会貢献を前提とした提案を落ち着いて推奨しても、

「それは時間がかかりすぎるから今は無理だ」(じゃあいつならできんの?)

「我々営業(のような下賤のもの)をそんな風に顧客は見てくれないに決まっている」(そんなに情けない仕事しかやってないの?)

「そもそも社会貢献自体、机上の空論、ただの自己満足だ」(それを言うなら、あなたはむしろ詐欺のほうが儲かるし向いてるんじゃない?)

という風に認識を歪めたり自分や私を過小評価して、できるだけ見たくないものを見ないようにする。

大きい組織の末端の人間はだいたいそんなもん。

 

・認識共同体

同じような考え・現状認識・心の反射を持った集団。「朱に交われば赤くなる」「郷に入っては郷に従う」に示される通り共同体という組織内での『常識』を生成する。共通認識により集団生活が送りやすくなるというメリットの反面、自分たちと異なる考え方を受け容れられず、無視しよう、排除しようとする。すなわち思考が硬直化し無意識に偏るデメリットがある。

 

そういうハイエナ根性で生きてきた人ばかりが集まっているので、会社のなかでそれが当たり前になる。

 

本当はそんな卑屈なことはしたくない。

仕事に誇りを持ち理想を高く持ち実行する人でありたい。

もっと認められたい。

自分だって納得していないのに我慢してやっているんだから、他の人間も我慢すべき。

 

そんな鬱憤を抱えているけれど、自分の在り方を変えることができない。

なぜなら、自分の決断に責任を持つのが不安だから。他の社員と違うことをやって失敗して笑われるのが怖いから。

変えることができない自分を恥じている。

そんななか、完全に価値観をオーダーメイドに転換して楽しそうにしている私が横にいると、内心我慢ならなくなってくる。

 

「あいつの考えていることは取るに足らない」

「私のほうが実績が上がってるからあいつなんかより俺のほうがすごい」

「あいつは仲間じゃないから距離を置こう」

 

そんな風になるべく涼しい顔をして「おまえなんか相手にしてないよ」というポーズを取り出す。

 

・センメルヴェイス反射

「Semmelweis reflex」。通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを指す。人は自分が信じてきたことと違う説を聞くと、今までの常識が崩れ去る不安と恐れから反射的に拒絶し、反対意見を持つ人・集団を攻撃する反射をもっている。

 

しかし、それでも相手がダメージを受けないとなると、だんだんイライラしてくる。

そして攻撃し始める。

例えば会議中に重箱の隅を楊枝でほじくるような質問をしてみたり。あえて情報をまわさないようにしてみたり。

子どもっぽい嫌がらせをして自分の心を落ち着かせようとする。

どんだけおじさんおばさんになっても、この子供らしさは失われない。人とは本当にいつまでもたいして変わらず幼稚なものなんだなと感じる。

反射しまくり。

 

 

なぜ彼らは社会心理学的反応の一歩先に進めずにいるのか

「私はエリートだ」

他の人より優れてるから今があるんだ」

「私のいる場所は素晴らしい場所なんだ」

そう思いたい。思い込んでいたい。

そうでないとわかってしまったら、怒りと不安で自分が大きく揺さぶられ掻き乱される。

なぜか?

それまでにやりたくもないことをやらされ、競争にさらされ、重圧に押しつぶされそうになりながら生きてきた人生が間違いだったと思い知るから。

だから、ちゃんと見るのが怖い。

人間はみんなそうだが、善悪は主観で決めている。

優劣も主観で決めている。正しいか間違いかも主観で決めている。

確実に保障された、善くて優れていて正しいことなんてない。

何か絶対的に正しい法則やルールがあるのだと思ってずっと探してきた私がいうんだから間違いない。

そんなもんはない。

 

「自分が」何を大切にし、どう行動するか。これしか我々に拠り所はない。

つまり自分の美学。信念を拠り所にするしかない。

それが人生の背骨だ。最も信頼できる主軸だ。

 

自分の背骨を育てるという重要な仕事を、

他人に預けてきたのだ。他人に奪われてきたのだ、私もお前たちも。

誰に?

親や学校や社会に、だ。

親が過干渉してきたりこの日本社会がゴミだったりと環境要因があり、決して私たちの内的要因だけのせいでこうなったわけではない。

寄ってたかって「好きに生きてはいけない」と思い込まされてきたから。

自分が好きに生きていないから、他人が自分らしく生きていることに反応して、苛立ち無視し軽く扱い、よりにもよってその人の邪魔までしようする。ご苦労なことだ。

そういう幼い頃の私たちが最も憎んできた社会をつくる存在に、今まさになっている人たち。

それが『自称』エリートのみなさんの本当の姿だ。

拍手!!

 

まとめ:社員のみんなは ACの12ステップやればいいと思う

これが喜劇と言わずしてなんだというのだろう。

私たちを苦しめたものに知らず知らずのうちになり、地獄を再生産している。

それは私たちが「不安」と「恐れ」にコントロールされているからだ。

 

具体的には『ACのための12のステップ』のSTEP4にある「権威ある人たちを恐れること」という課題だ。

■権威ある人たちを恐れること■

権威ある立場の人たちを恐れることは、親たちの非現実的な期待ーわたしたちがそうできた以上のことを求めたことーの結果であるかもしれません。

彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。

私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。

他の人たちが単に何かを主張しただけなのに、私たちはしばしばそれを怒り、またはコントロールと誤解してしまいます。

このことで威嚇されたように感じるかもしれないし、さらにそれに対して、わたしたちの過剰に敏感で脆弱なやり方で反応するかもしれません。直面や批判を避けるために、私たちは自分の統合や価値を犠牲にして、力を持つ人のそれに合わせていくのです。

自分がどれくらい有能であるか正当に評価できなくて、他の人と比べ、自分は不十分で不適当であると結論するのです。

権威あるひとたちを恐れることは、わたしたちに次のような問題を引き起こしているかもしれません:

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
67Pより引用

 

もうまさに、って感じじゃない?

本当は自分に確固たる自信も指針もない。だからパワーゲームの勝者に引き寄せられていく。そして権威ある人の言うことを聞いているほうが楽だから、次第に自分の魂の隷属を正当化しだすのだ。

「恐れ」と「不安」で、現状を変えることができない。いや違うな。

「できない」という体裁をとりながら積極的に心の奥底では「変えない」ほうを選択している。

変えられないのではなく、変えないから変わらないのだ。それが事実だ。

なぜなら、そのほうが勇気がいらなくて楽だから。

私はずっと、ずっと楽をしてきた。人のことは言えない。

だから最近まで何が楽しいか何が好きかもわからないまま、言われるままに人生を生きてきた。

結果がこのざまだ。

自分にふたをし続け、他人を見ようともせず、自分を見ようともせず、自分を信じようとせず生きてきた結果、病気になった。

アルコール依存症になり、REM睡眠行動障害や強迫性障害に悩まされ、今でもうつ病を併発している。

 

だから私は、『自称』エリートを気取る社員を見ると、いつも自分を思い出す。

断酒会やAAで同じアルコホリックを見て当時の自分を思い出すように。

彼らは私そのものだ。

だから自分と区別して優越感に浸りたいわけでもないし、攻撃したいわけでもない。

 

ひとつ願うとすれば、彼らもまたアダルトチルドレン(AC)という概念に出会い、自分の「不安」と「恐れ」の正体に出会えますように、そのようなハイヤーパワーの導きがありますように、ということくらいだ。

 

 

【メンタル】「自分さえよければいい」エリートたちの魂が貧しくなった理由

本当におぞましいな、と思う。

最近人々のなかに共通して見出されるもの、それが「自分さえよければいい」という文化的経済的貧困からくる「魂の貧しさ」だ。

本当におぞましいな、と思う。

誰が悪いとか、どのカテゴリが悪いとか、そういう話ではない。

この日本社会に生きる人々の魂がどんどん貧しくなっているんじゃないかと思う。

私はとても哀しい。

 

自分良ければすべてよし(エリートサラリーマン編)

同期で出世街道まっしぐらのエリートサラリーマンはこういった。

「家族さえ幸せならそれでいい」と。

その単語だけなら別に「そうだよね」なんだけど、彼は、患者さんには必要のない薬を医師を騙して病院のクリニカルパスに組み込ませ使わせているのだ。はっきり言って無益だ。

具体的に言ってしまえば胃薬なんだけど、ある血液をサラサラにする薬と一緒に使えば胃からの出血を抑えられると言われている。でもそれは特定の種類の薬剤の出血傾向に対してエビデンスをもっているのであって、それ以外の種類と一緒に飲んでも厳密には効果があるとは言えない。

つまり、患者さんは本当に必要かどうかわからない高い胃薬を買わされることになる。医師が騙されているせいで。製薬会社がちゃんと事実に基づいた説明を意図的にしないせいで。

なぜ本当に必要とはいえないような使用方法に誘導するのか?

それは他の社員より売り上げをあげて社内で目立ち出世するためである。自分のために患者さんを食い物にする。それは我々の存在意義から完全に逸脱している。

そのことに言及したとき、彼は冒頭の言葉を吐いたのだ。

世の中の為より家族の為。自分たちさえ豊かで得をしていれば、他の人が余計な金を払おうが、苦しもうが知ったコトではない。

そういったのだ。

 

あるチームリーダーはこういった。

「我々は利益を求める株式会社だよ。慈善事業でやっているのではないから、患者さんの為っていうのは建前でしかない。社会的に良いことなんてのは、NPOやなんかの慈善事業団体に任せておけばいいのさ。そういう『意味ないもの』は自分のなかで折り合いをつけてちょっと脇に置いといてよ。私たちはとにかく計画を達成しなきゃダメなんだよ。そうしないと私たちの所得が下がって生活できなくなるから。」

私たちの事業の目的は、医薬品を通じて人々の健康に貢献することではなかったか。それが本質ではなかったか。「手段を選ばず売りを上げて自分たちの社会的地位と所得を守ること」ではない。

それなのに本当の事業の目的を、どこか経済的利益を求めないところにアウトソーシングしとけばいいや、と軽く考えている現実。

子どもの頃、遠足のおやつにと手に取った「ラムネが本体でおもちゃがおまけ」なのに、実際にあけてみれば「ラムネがおまけでおもちゃが本体」の、お菓子のガッカリ感を思い出す。

価値観が逆転している。

患者さんの為なんて理念は無価値だから、そんな「オプション」は塵取りで集めて端っこに寄せて見ないようにしよう、といったのだ。

 

信じられるだろうか。

私はこういう人たちと話すと背筋が凍る。

この人たちはもはや人をやめてしまったのではないか。真剣にそう思う。

サラリーマンというのは、部品化されたホモ・サピエンス、すなわち人から劣化した人型をした魂の抜け殻である。基本的に利益を追求する機能だけに特化した企業。企業の口車に乗せられて、すっかり「目標達成マシーン」に調教されている。

部品としての優秀さは、他人を踏み台にすることを何とも思わないこと。そういう「優秀な」社員は、経営者にとって操作するのに都合がいいから。

部品として「優秀」であればあるほど使いやすい。調教されて目標達成してよしよしヾ(・ω・`)されるために動くから、実にコントロールしやすい。いうことを聞かせられる犬がたくさんいたほうが経営者は金儲けをスムーズに行うことができる。

無駄に「社会の為」「患者さんの為」「国民の為」とか考える人は、組織にとって使いづらい。

だから私は出世しないわけだが、出世しないほうが人間性を残しているという意味で、むしろ今は本当に出世したくない。

人としての魂を失う代わりに諭吉をもらうなんて、悪魔の取引だと思わないか?私はまっぴらごめんだ。

 

自分良ければすべてよし(政財界編)

同じことが政財界にも言える。

財務省の官僚は「出世しようゲーム」に参加して遊ぶことを彼らの人生のメインに据えている。だから、MMT理論ですでに無意味だと証明されている「プライマリバランス黒字化」を今も掲げている。

「プライマリバランス黒字化」とは、簡単に言うと、国の借金をなくしましょう、ということ。

国の借金とはつまり国債。誰かの負債は誰かの資産。国債を刷るということは、世の中の資産が増えるということ。ということはつまり、私たちの 使える資産が増えない=お金がない のは、国債を刷るのを渋っているから。つまり国がプライマリバランス黒字化を掲げる限り必然なのだ。

実は国の借金(国債)は返さなくてもいい。現に世界では借金がどんどん膨らんでいる国ほど景気を上手にコントロールして経済成長している。

日本も昔から考えれば何百倍もの借金になっているけど、私たちは別に返してきたわけじゃない。

返さなくても経済が回る、むしろ国が借金しなきゃ成長できないことを証明したのがMMT理論だから、当然なんだけど。

返さなくてもいい借金を「返さなきゃいけない」と思い込んで国が出し渋るから国内経済がどんどん縮小する。そうすると物が売れないからみんなお金を使わない。そうするとデフレだから景気が悪くて苦しい。景気が悪いから税収が減る。税収が減るから…という「間違った思い込みの悪循環」のなかにいる。

つまり、国債を発行してお金を刷り、みんなに分配しても本当は何の問題もない。だけどやらない。なぜなら財務省の人たちにとっては「出世できなくなる」行動だから。

国民がいくら貧しくなり経営難で自殺しても、そんなことはどうでもいい。出世できなくなるよりはいい。そう思っている。

では閣僚なぜ財務省に「お金刷れよ」と言わないのか?その権限を持っているにもかかわらず。なぜ命令できないのか?

それは、財務省の管轄庁である国税庁が怖いから。つつかれると困る不祥事を国税庁につつかれるのが怖いから。つつかれて暴かれて政治家として失脚するのが怖いからだ。

国税は警察をしのぐほどの強力な権力を持っていて、税金に関することなら国民のありとあらゆることを調査する権限を持っていて、我々には拒否権が無い。

いろいろ黒いことをやってのし上がってきたのに、国税庁にばらされたら政治家をできなくなる。今の生活を維持できなくなる。

だから、今の立場を守るために国民がどんなに困っていても、とりあえずはぐらかして騙しておこうと思っている。見殺しにしてもいいと思っている。

 

エリートたちは 寂しい「黒死牟」

ここまでの事例で、サラリーマンから行政機関まで、全部のエリートに共通するのは「自分さえよければいい」という浅ましさ、「魂の貧しさ」だ。

だから、本当におぞましいな、と私は思うのだ。

 

今のこの社会に認められる人というのは「魂が貧しい人」なのだ。

人としての浅ましさを認められ、その代わりに金や権力が与えられるのだ。だから、お金を必要以上にたくさん集めていることはむしろ恥。社会的地位があることもむしろ恥。そうとも言える。

 

ではなぜ、この恥ずかしい人たちは、こんなにも魂が貧しくなってしまったのだろうか?

それは彼らの人間性が劣悪だからではない。

誰もが持っている寂しさ・苦しさ。それを誰かに認めてほしい、受け容れてほしい、そういう切なる願いが出発点だと思う。

努力が結果的に社会的に報われないと、それらの切望は嫉妬、すなわりルサンチマンになる。

努力が結果的に社会的に報われると、傲慢な自己顕示欲となる。

 

「どうだ、俺はすごいんだぞ」

「こんなに苦労して頑張ったから成功したんだ」

「成功できないやつは俺みたいに努力してないからだ」

「俺には人よりも優れた能力がある」

「俺はほかの出来損ないとは違う」

 

この言葉の真意は以下のような「切なる願い」から来ている。

 

「私はとても苦しかった、つらかった、それを分かってほしい、がんばったねって言ってほしい」

「私は自信がない、優秀なんだと信じたい、自分に生きていけるパワーがあると信じたい、だからみんなに認めてほしい」

「負けるのが怖い、人と比べて優れていなくては自分の価値がわからなくなるから、だから何としてでも勝ちたい」

 

つまり寂しいのだ。

めそめそ泣いているインナーチャイルドを抱えて、表では傲慢で横柄な人を無意識に演じている。ふんぞり返っているように見えるが、実に弱々しい。

そしてチャンスがなく結果が残せなかった弱者に「自己責任論」を振りかざして悦に入るのが好き。なぜなら弱い自分を克服したように錯覚できるから。まだ弱いんだけどね。

『鬼滅の刃』でいうところの、上弦の壱「黒死牟」そのものではないだろうか。

 

自己肯定感をメリットと相関させなくていい

これら社会の真の病巣は、本当の自己肯定感を育んでこられなかったことにあると思う。

本当の自己肯定感とは何かというと、「あるがままで生きている価値がある。自分の人生は自分で決めて歩んで行って何の問題もない。私の意思や願いは誰にも否定できない。」ということだ。

よく「5分で高まる自己肯定感!」みたいな怪しい自己啓発セミナーで「自分のいいところを探そう!」とか「みんなでお互いに相手のいいところを褒めまくろう」とか言っているのを見かける。

それもいいんだけど、本質的にはちょっと違う。

何か社会的なメリット、特に他の個体と比べたメリットを支えにしてしまったのでは、不健全だ。先の空虚な黒死牟たちと同じになってしまう。

「メリットがあるからそこにいていい」というのは寂しい。なぜならメリットがなくなればそこにいてはいけなくなるということだから。

私たちは何かメリットが無くてはここにいてはいけないのだろうか?生きていてはいけないのだろうか?そんなに命そのものだけでは足りないだろうか?価値が無いものなのだろうか?

 

そんなわけがない。

そんなわけがあるはずがない。

 

人は、生きているということそのものが、とてつもない意義を持っている。実体があり命がある。それが事実。メリットもデメリットもない。絶対的に肯定される尊厳がある。

だって、子供を持っている人は分かると思うけど、我が子が生まれてきたとき、そのか弱い姿がどれほどの希望になった?

彼らはメリットを提供したか?むしろ仕事が増えてデメリットしかなかったのではないか?我が子に対してメリットが無いから「こいつココにいてはいけないな」と思ったか?

赤ちゃんは、自分では何一つできず、言葉も話せず、放っておいたら死んでしまう、か弱い存在。それでも日々進化し懸命に生きようとする命の輝きは眩い。その輝きは親である私たちにとてつもないパワーを与え続けてくれたことを、今も覚えているだろう。静かで温かくずしりと質量をもつ覚悟を私たちに与えてくれただろう。

だから、人が懸命に生きる姿というのは、それだけで意味がある。

どんなに病んでいて、どんなに至らなくて、どんなに汚くても、己の信念のために命を燃やしているその姿には、貨幣という紙切れには変えられない強烈な美しさがある。だから世の中の人々の多くが、煉獄杏寿郎をはじめとする鬼殺隊の面々の必死に生き抜く姿に心を動かされたのではないだろうか。

自己肯定感というのは、そういうものだ。

生まれた時点で「私たちは外界にすらとても大きな力を与える存在なのだ」という健全な自覚を持つこと。

それが「自己肯定感」だ。

つまり、もうすでに生まれた時から持っているのだから、探し求める必要が無い。だってもうすでに誰もが持っているのだから。

だから、好きなことをやっていいし、己の信念に従って生きている限り何を選んでもどう生きても間違いではない。お金が無かろうが、人望が無かろうが、誰に認められなくても、何の保証もなくても、人はヒトをやめない限り絶対的に価値がある。

 

まとめ:理想の平和な世の中を願って

このことに全人類が気づきさえすれば、だれもが、誰かに対峙した時に心を不安で揺らさなくてもよくなる。

なぜなら、比べなくていいから。優れていなくていいから。

違いを認め、おもしろがり、対話することでさらに心が豊かになっていく。社会がどんどんおもしろくなっていく。

どうか、そうなってほしい。

そのために、私は私ができる事をしたい。