【共依存】違うからおもしろい

私は妻と結婚してよかったなー、と心から思うことがよくある。

今日は入籍記念日。

空は青く澄んで晴れ渡り、鳥の声と虫の音が聞こえる。

秋の訪れを予感させる涼しい風が吹き、まだ夏の余韻を残す暖かい日差しが降り注いでいる。

 

妻と私

私と妻は、全く違うタイプだ。

「なんで結婚したの?」と知人から訝しげに聞かれるほどに。

 

私はASD/ADHDで、人間が基本的に苦手だ。

人の集まりなどは、極力避けたい。近くに人がいるだけで疲れる。

ひとつのことにしか集中できない。マルチタスクができない。

熱中しているときに他人に邪魔されると発狂しそうになる。

しかし、集中すると驚くべき行動力と創造性を発揮すると言われる。

そして愚直で嘘が下手で、論理的な思考が好きだ。

なので、冗談がわからないし言うのが下手だ。

 

妻は、友人にいつも囲まれている。

求められて、よくいろいろな人と交友している。それが楽しいらしい。

抜けているところはあるものの、基本的に同時進行でいろいろなことを片付けていく。

集中する、というのが苦手で、本人は何かに没頭できないことが悩みだという。

しかし、今を最大限に楽しみ機嫌よく過ごすことについてはエキスパートであり、その生き方はとても清々しい。

本人も言っているが、本人の言動の8割は冗談で構成されていて、虚実入り混じるというか、なんとなくニュアンスで伝わればいい、というコミュニケーションスタイルである。

 

私は妻と出会ったとき、なんとなく直感があった。

「このひとなら、ありのままの自分を表現しても否定されないのではないか」

「私に無い世界を見て、私に無い発想で驚かせてくれるのではないか」

その直感は当たった。

私とは全く違う、世界観と背景を持っていて、私には驚きの連続だった。

 

妻も実は同じように感じていたようで「こいつ、変わってんな」と思ったそうだ。

私の印象は「ロボットのようだった」とのちに妻は語る。

いろいろ考えながらしゃべっているので、いつも反応がワンテンポ遅い。

冗談を言うと、毎度真に受けて青ざめる。

それを妻は「おもしろい」と感じたらしく、しつこく交際を申し込んでくる私は特にタイプではなかったが「おもしろそうだから」と交際をOKしてくれたらしい。

当時の私はと言えば「この直感を感じたのはこの人だけだ。この人に交際を申し込んでダメだったら、おそらく今後もダメだろう」と謎の焦燥感を抱えて猛アタックしていた。

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった縁だった。

それが二人の子宝に恵まれて、今最も幸せな人生の時間を過ごしている。少なくとも私は。

人生とは、数奇なものだ。

 

似ているからうまくいく?

似ている人を好きになったこともある。

しかし、それは長続きしなかった。

似ている、ということは、同じであることを期待させる。

全く別の人間なのだ、違って当然。なのに、ちょっとでも違うと、裏切られたように感じる。

それはなぜかというと、自分の延長線上に相手を見てしまうから。

寄る辺のない自分と相手を「同化」させることで孤独を埋めようとすると、移植した細胞が拒否反応を起こすように、様々な軋轢を生じさせる。

似ていれば似ているほど、期待は大きくなり、それが叶わないとき強い怒りを感じる。

相手は自分とイコールなのだから、自分の思う通りに動いて当然と思い込む。

とんでもない傲慢だが、勝手にそうとらえてコントロールしたがる。

意に沿わない結論を相手が出したとき、「間違った結論」に至った「原因」があると信じ込み、相手の結論を変えようとする。

相手を尊厳ある別人格の個体として尊重していない。

尊重し合えない関係は、互いに怒りと恐れと不安を生む。どんどん不快になっていく。

なので、片一方が精神的に自立した結果、違和感に気づいて離れようとする。

すると、まだ相手が自分と地続きにいると信じているもう一方は、恐れと不安から激しく抵抗する。自分の半身を無理やり引き剥がされるような恐怖の感覚に陥る。

これが当人たちが「共依存」の状態にある証明でもあり、病んだ関係の末期症状でもある。

嫌いなのに、離れられない。好きなはずなのに、一緒にいるだけで苦しい。

終わりを告げる側が罪人扱いを引き受けて切り離さない限り、この地獄は続く。

告げられたほうは、被害者という免罪符を片手に握りしめて、相手に罵詈雑言を浴びせたり、泣いたり謝ったりして憐れみの情を催すよう働きかけたりする。

そして、それでも結論が変わらないことを悟ると、センメルヴェイス反射よろしく、相手のすべてを否定して拒絶する。

つまり、この場合、似ているからこそ、うまくいかなかったといえる。

似ているからこそ「理解し合える」という幻想を信じてしまった。

だから、その幻想を維持できなくなった瞬間、夢から醒めるように関係も終焉を迎える。

そして、修復不可能なほどに傷んでしまう。

 

人間は誰もが不完全だ。

完璧な人間など、この世に一人もいない。

だから、不安にもなるし、寂しくもなる。

誰かに認めてもらわないと、自分には価値がないのではないか、と不安と焦燥にかられる。

理解し合えるもう一人がいれば、と夢想する。

 

しかし残念ながら、他人と「理解し合える」というのは、不可能だ。

共感することはあっても、他人の感情や世界観をそっくりそのまま実感することはできない。

人間が鳥や虫の気持ちを想像することはできても、実際に彼らになることはできないのと同じように。

理解しているつもりになるだけだし、理解してもらえたつもりになるだけ。

すべては妄想だ。

 

違うからこそ、おもしろく、違うからこそ、知らなかった新しい自分を知ることができる。

それは喜びであり、生きていくうえで必要な刺激だと私は思う。

外界との輪郭を得るからこそ、「自分」という認識が成立している。

違う角度から光を当ててくれる光源が、自分とは違う人である。

だから人間嫌いの私も、哲学書を通じて古代ローマの哲学者などの死者が考えてきた思想に、自分の価値観のカタチをみて、ワクワクする。

 

死者は嘘をつかない。生に固執して偽りを言うことがない。

生きている人は、自分を利するため、生き残るために、息を吐くように嘘を吐く。

それは良い悪いではなく、生きている限り当然のことで、私もそうだ。

だから、そういうものだと思っておくのがよい。

嘘を言うかもしれない他人と、いくら言葉を重ねても、最終的に完全な理解に到達することはできないだろう。

言葉には限界があり、表現にも限界がある。

そのなかで互いに意味を推し量り、理解を確認し、なんとか繋がっているのである。

その蜘蛛の糸のようなか細い繋がり。

それをいくら集めても、心もとなさには変わりがない。

むしろ、糸が切れる毎に、儚い細さを実感するたびに、より寂しく孤独感を募らせていく。

 

この終わりなき孤独の連鎖から抜け出す一つの処方箋。

それが、「違う」を「おもしろい」と捉えることだ。

違うから許せる。

違うから自分が見える。

違うから魅力を感じる。

違うから、愛せる。

 

違いを受け容れるから、自分も他人も違っていいんだ、と思える。

目を覆いたくなるような欠点が、眩く光り輝く美点に変わる。

自分とは違うひとを、受け容れ許すこともできる。

そして、他人を赦せる人は、他人からも許される。

 

財布のひもをがっちり引き締めている人に対しては、 愛想の示しようもない。 手は手でなければ洗えない。 得ようと思ったら、まず与えよ。

引用:高橋健二編訳「ゲーテ格言集」新潮文庫

 

 

結局、求めていた承認や安心感というのは、違うからこそ生まれるものなのだ。

同じでいよう、そうすれば傷つかないで済む、と己の保身のために似ていると思い込める他人に近寄っていって、最終的にはそれまでより深く傷つく。そんな不毛なことはもうやめよう。

違ってもいい、合わなくてもいい。

合わなければお互いに距離を取ればいいだけのことで、お互いはそれぞれありのままであればよい。双方には善悪はなく、正誤もない。

 

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった、私と妻の縁がこのうえない良縁だったのだから、間違いない。

【仕事】まだ「金を稼ぐのが偉い」なんて思ってるの?

午前中。

会社の会議を聞き流し、畑仕事をしてきました。

いやー、畑楽しい。

サラリーマンより絶対こっちのほうがあってるな、と実感しております。

 

会議では驚きの発言がありました。

「社会の役に立ちたいのであれば、NPOや社会福祉法人で自己満足するのがよいのではないでしょうか」

というものでした。

 

私は製薬会社に勤めています。

製薬会社は、営利団体です。

たしかに株式会社であり、売上と利益を追求する組織でしょう。

しかし、医療用医薬品の売り上げというのは、保険で賄われています。

7~9割は、税金です。

ということは、ほぼ公務員と言っても差し支えない。

であるならば、公益のために働くのが当然でしょう。

しかしながら、中枢にいる幹部社員の頭からは、その認識がすっぽりと抜け落ちています。

 

本音は、社員が、社内のポジション争いに勝ちたいだけであり、昇進してもっとお金が欲しいだけ。

経営層は、役員報酬が欲しいだけ。そのためには株主総会で株主を納得させられる結果がないといけない。つまり、上司である株主には逆らえないのです。

 

つまり、全部自分のため。

社会のため、患者さんのため、というのは嘘です。

本当に考えているとしたら、開発した薬を無理に売ろうなどとは絶対にしない。

必要最低限、必要な人のところに届けばそれで十分だからです。

それ以上に売ろうというのは、単なるエゴでしかない。

それを正当化するためにいろいろと建前を並べます。

とても醜い。

 

冒頭にご紹介した発言も、とても理解できない感覚だなと思って聞いていました。

NPOや社会福祉法人が、自己満足?

何様のつもりなんでしょうか。

経済活動だけが正義だと思っているのでしょうか。

そんなことだから、とんちんかんな指示しか出せないのだろうな、と呆れて笑ってしまいました。

確かに社会は資本主義ですし、成果主義・合理主義が世の中を侵食して久しいので、そのように思い込んでしまう浅はかさもわからなくはありません。

でも、さすがに、いい大人が社会を知ったうえで言うことではないかなぁ。

「自己満足」と見下す非営利団体のひとたちのおかげで、社会はなんとか成り立っている部分があります。

国は全く頼りにならず、社会福祉は穴だらけです。

そういう愛をもった有志の存在が無ければ、とてももたない狂った社会であることを、この会社の人たちは知らないのです。

エリートの私たちには関係ない、とでも思いあがってしまったのでしょう。

哀れなことです。

 

そういう人間性を失った経済人が、この世には蔓延っています。

お金を稼ぐことだけが、絶対的な正義だと信じている。

自分たちの信仰を絶対だと思っている。

他の宗教と相容れない過激派組織。ナチスドイツみたいなもんですね。

「承認欲求を満たすために合法的な人殺しをしたいのであれば、営利団体の替えがきく歯車になり下がり、自己満足するのがよいのではないでしょうか」

と彼には返したいところです。

【仕事】上司哀れすぎ問題2022

私の上司が哀れでならない。

典型的な没人格で、毒を撒き散らしている。

しかしその自覚はない。

私はどうにかしてやる義理もないし、何かしてやることもできないので、遠くから眺めているわけだが、どうも鬱陶しいことには、私にちょっかいをかけたがる。

 

彼は、とにかく他人を管理下に置きたいし、コントロールしたい、と思っている。

そして、上司だから部下を完璧に行動管理すべきだし、そのために部下は「報連相」を徹底すべきだと思っている。

なるほど、それは彼にとって「正しい」らしい。

 

しかし私から見れば、それは「彼の中の正しさ」であって、私にとってはそうではない。

部下であろうと管理しコントロールすることはできない。

他人をコントロールすることは人間にはできないから。

できないことをしようとするからストレスが発生する。彼が私を管理できないからではない、そもそもできないことを彼がやろうとするから、お互い無駄なストレスを抱えることになる。

報連相であっても、大してやる必要を感じない。やる価値がないことはしなくてよい。

この上司の場合、損得でしか物事を捉えられない。

だから私が活動したことについて有益なアドバイスはまず見込めない。

さらに、損得であれやこれやと意味のないタスクを増やす傾向がある。

つまり連絡自体がリスクとなる。

そのため、連絡は自然と最小限になる。

 

さらにまずいことには、無理にコミュニケーションを取ろうと彼方からしつこくメールや電話をしてくる。

ウザいから別れようかなと思われている残念な彼氏が、特に何か行動を改めるでもなくしつこくLINEを送るみたいなもの。

本来なら着拒案件だ。

まだ気を遣って着拒しないだけありがたいと思ってもらいたい。

 

こんなにバッサリと見限ったのにも、背景がある。

私は、最初はちゃんと話を聞き、話をしていた。

彼の価値観を理解してできる限り譲歩しようと思ったし、私の価値観にも最低限配慮できる人だと、当時はまだ信頼していた。

話してみて、ああ、これはダメだ、と悟った。

まるで人の話を聞いていない。

耳を通過してはいるが、配慮する気が毛頭ない。

私は、以下のことをあらかじめアサーティブに伝えていた。

・管理されたり監視されたりすると、極端にパフォーマンスが落ちるので、できる限り信頼して任せてほしいこと

・必要なことは期日までに相談するので、あれはどうなったコレはどうなったと過干渉しないでほしいこと

・基本的に他人と話すことは私にとってかなりのエネルギーを使うので、会議やミーティングは最小限にしてほしいこと

 

全無視である。

彼は、自分のやり方を1ミリも変える気がなかった。

自分のほうが偉いと心の底では思っているから。

従うのが当たり前だと思っているから。

部下の発言やお願いなど、軽視しているのである。

だから、自分が逆に軽視されるとも知らずに。

 

彼からすると、なぜ私が思うように従わないのか、とても腹立たしく、理解できないと思っているだろう。

それは、残念だけど、彼には一生わからないと思う。

 

自分が他人にしたことは、報いとして己に返る。

私は私を軽視する人を重視しない。

聞く気がない人間に話すほど暇じゃない。

私のことを考えていない人の指示には従わない。

私は、私の心からの命令にのみ従う。その権利は誰にも奪えない。

被雇用者だろうと、部下だろうと、できないものはできない。

不服なら給与を下げればよく、要らないなら解雇すればよい。

私は私が働けるように働く。

私の働き方をうまく活かせるように考えるのは会社の仕事。

私は今の会社が合わないなら他で働くだけだし、なんなら独立して事業をする予定なので、特に社内の評価にはこだわっていない。というか、どうでもいい。好きにつければよい。

私の価値がわからないようなら、そこまでの会社だということ。

 

彼は、会社の評価を恐れているし、正しさを恐れている。

だからそれを意に解さない私をみると心がざわつき、余計に言うことを聞かせたくなる。

自分の価値観が否定されたように感じ、世界が崩れるような不安を感じるからだ。

そうやって「こいつが間違っている」「こいつが馬鹿でダメなんだ」と思って過干渉している。

躍起になって穴を探そうとする。

 

 

無駄なことをしているなぁ…と呆れる。暇で羨ましい。私は彼との無益な関わりを削減し、もっと楽しいことにリソースを使いたいから、申し訳ないけど適当にあしらっている。

早くあきらめて自分の人生に目を向けられるといいな、と陰ながら応援しつつ。

私も好きなように思っているから、彼も私を好きなように思えばいい。

私の価値は、この上司がどう思おうが、会社の社内評価がどうなろうが、1ミリも揺らぎはしない。だからどうでもいい。

彼は「なぜこんな冷え切った関係になってしまったのか」と内省できる謙虚さが足りないなぁ…と思う。

でも私にはどうしようもない。彼が気づき改めない限り変化は見込めない。

自分には至らないところなどなく正しいと勘違いしているから、その可能性に思い至らない。

残念なことだ。

実に哀れな人生だな、と同情を禁じ得ない。

でも私には関係ないから、気にすることもなく、ただ一切は過ぎていくのである。

諸行無常。諸法無我。

お互いにそれぞれ、善く生きることに集中しよう。

生きる世界が違ったね、という話。

 

【哲学】豊かさとは何か

「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ

 

この世は、物質的にはかつてないほど豊かになった。

街にもネットにも商品が溢れている。

SNSもyoutubeも、観ているだけでweb広告がひっきりなしに眼前に提示される。

「物質的な豊かさが人生の幸せなんだ」そういうふうに語りかけてくる。

しかし、私たちは本当に幸せだろうか?

若くして自殺する人は、この国では少なくない。

就職して結婚して子供を授かり、お金が足りないとあくせくしながら、義務に追われるように生きている。

やりたくもない仕事や家事に追われ、気づいたら1日が終わっている。

いつか自由になったらやろう。ボロボロになるまで我慢して働いて、気づいたときにはやりたいことができないくらい老いていて、時間も体力もない。

そもそも、やりたいことが何だったのかさえ、自分にもわからなくなっている。

こんな人生は、本当に幸せだろうか。

あなたは子供の頃から、そんなふうに生きていきたいと、心から願っていただろうか。

 

元々は、もっと自由に、やりたいことが山のように浮かんで、夜寝るのは惜しく朝が来るのが楽しみだったはず。

それが、物に埋もれ、義務に埋もれ、金に囚われ、世間体に囚われ、いつのまにか雁字搦めになり身動きが取れなくなってはいないだろうか。

その束縛が解けないまま、時間が矢のように過ぎていく。

そんなふうには、未来を描いていなかった人がほとんどではないだろうか。

 

欲望を削減する

ガンディーが弟子たちに示した戒律に「不盗」がある。

「不盗」とは、盗まない、ということ。

窃盗や万引きだけを言っているのではない。

必要量以上のものを受け取ることは、盗みだという。

「あの人の〇〇が羨ましい・妬ましい」と他人の何かを欲しがることを、人間の精神を貶める、最も陰惨な盗みだという。

欲しがるのは、今あるものに目を向けず、他人の何かを思い焦がれて欲望にうつつを抜かす。それはあなたの心を、あなた自身が盗んでいるということになる。

お金や物だけでなく、時間・エネルギー・機会もまた、奪ってはならない。

そもそも、この世のあらゆるものは一次的に預かっているもの。身体ですら、借り物であるといえる。

誰のものでもない物や金を不必要な分まで余計に蓄えるというのは、足るを知らないということであり、満たされない心が同時に蓄えられる。

つまり、借り物の物と金とセットで、その人は不安と恐れを溜め込む。

失う不安、奪われる恐れ。

だから、物質的・金銭的な豊かさは、不安と恐れが豊かなのであって、幸せとは対極にある在り方だ。

 

まとめ

無限の欲を駆り立てる現代社会。

金という幻想に左右される人間。

全て、今を生きていない。

欲と幻を追いかける虚構の世界のことわり。それを人々は「常識」とか「普通」と言って信仰する。

でもその宗教では、誰も幸せになれない。なれなかった。今どん詰まりにたどり着きつつある合理主義・資本主義・勝利主義社会が、それを証明したといえる。

 

幸せとは、あなたの心のなかにしかない。

誰かに与えられるものでもないし、一定の条件を満たさなければ見つからないものでもない。

ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。

あなたの心が答えを知っている。おそらく、ずっと叫んでいるはずだ。あなたが耳を傾けていないだけ。

物や金の先に、幸せは無い。

あったと思っても、それは酒を飲み過ぎた夜にふと目にチラつく幻覚のようなものだ。

 

一切合切何もかも制約がないとしたら。

あなたがやりたいことは、なんだろう?

あなたの心が喜ぶ行いは、なんだろう?

 

ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。

 

【社会福祉士】スーパービジョン

相談援助における記録の意義と具体的な記述方法について、実地研修するなかで学ぶことができた。

特に居宅支援事業所と在宅支援事業所でケアマネージャーや社会福祉士がどのように記録を行っているか、実際に見せていただいた。実に詳細にクライエントの経歴・趣味趣向・職業遍歴・家族構成・病歴・服薬状況・食事と排泄の状況(口腔含む)・認知機能・ADLと実に様々な個人情報が記録されている。特に記録の方法として専門的なのは、ジェノグラムである。一目で家族構成が分かり、誰がキーパーソンかも一目でわかるため、非常に実用的であると感じた。

特別養護老人ホームなどでは、看護師と介護士がそれぞれに医療側と介護側のその日の利用者の情報を記録し、日勤と夜勤の交代時や朝礼などのミーティングを通じて「申し送り」という呼称で情報共有をしている。生活の変化や、褥瘡や転倒などの事故を防ぐために細やかな状況まで記録する。それがターミナルに入り看取りが終わった段階で「サービスに改善する余地はなかったか」という視点で再度すべて振り返りが行われるのである。

ITも積極的に導入されており、情報共有のために専用のソフトがPCにインストールされていて、やり取りされたクライエントのアセスメント票の情報や担当者会議により決定したケアプランの内容などはすぐさまデータ化してセキュリティに守られたデータベースに記録される。それにより、安全に管理できクライエントに関わる人がいつでも最新の情報にアクセスできるようになっている。今日的課題として、ITで共有される個人情報の保護、という問題がある。近年のネット犯罪は高度化しており、セキュリティソフトや対策を導入してもすべてのハッカーの攻撃を防ぎきるのは不可能とされている。そんななか、アセスメント票のように財産にかかわる情報まで記載されている情報が漏洩してしまうと、犯罪に発展しかねない。今後さらにITの面で医療レベルにまで介護の業界も情報リテラシーを高めていくわけだが、その際にはネットセキュリティについてもさらなる強化と教育が必要な時代になってきた。

デイサービスやショートステイ、特別養護老人ホームなどでは、看護師がバイタルチェックをしており、脈・血圧・酸素濃度・呼吸回数・体温を毎日測定する。酸素濃度はSPO2という機器で指先から簡単に測定することが可能になっている。高齢者においては、自身の体調の変化に鈍感になっており、本人に認知症があれば季節感なども自覚がなくなってしまうので、体調管理や水分補給には気を配らなくてはならない。そのために、バイタルを定期的に測定し変化があればすぐ医療につなぐことができる、というのは、介護において欠かせないとても重要な記録であると感じた。

スーパービジョンの目的、機能、あり方についても言及してくださった実習先の社会福祉士の先輩方には感謝してもしきれない。

誰もが最初から同じように相談援助ができ理想的なコミュニケーションをとることができるわけではない。それぞれに経験したクライエントの数だけ実体験のケーススタディが存在している。そんな経験値の乖離をできるだけ早期に埋める目的でスーパービジョンは実施される。

機能としては情報や対処方法の共有・指導と合わせてそれを超えた仕事を通じての生きる上での悩みや課題と向き合うための支援という側面がある。なかには合わない利用者やクライエントとも関係構築を行わなくてはならないなかで、いかに傾聴し、質問し、ニーズを引き出し自覚を促すのか、そのコミュニケーション方法は一朝一夕には習得しえないノウハウであり、継続的なサポートによって体得しえる援助技術である。それらの技術の伝承は、スーパービジョンにより時間をかけて実施されるべきである。また、仕事を通じて倫理的葛藤や仕事に対する姿勢について悩み苦しむ時間が人を育て仕事をより良くする。そのような悩みを抱えた成長するチャンスを逃さず、機会に変えていくことが、スーパービジョンを受けた人の人生をも豊かにする。

つまり、スーパービジョンの在り方とは、その人にただ単に必要事項を伝達し管理監督する、という単純な指導責任者ではなく、担当する新人の人生の充実を視野に入れたある意味での相談援助の一環としてとらえ、長期的視野をもって寄り添っていくということである。それを実現するためには指導する側の成長もなくてはならない要素であり、非常に難しいことだが、もしそのような在り方を実現できたなら、指導を受けた新人だけでなく、指導する先輩にとっても大きな財産になるだろう。

【共依存】呪いを愛と騙る

引用:『呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校』

人工甘味料と共依存

私は、この五条悟のセリフに違和感がある。

呪いなのは、愛ではなく、偽愛。

つまり共依存ではないだろうか。

彼は、共依存を愛と混同しているように思う。

 

 

人工甘味料は「つくりもの」であり偽物である。

人工甘味料には、サッカリン、アスパルテーム、ネオテーム、スクラロース、アセスルファムKなどがある。

カロリーゼロやシュガーレスを謳っているほとんどの商品には、これらの人工甘味料が使われている。

砂糖(蔗糖)の350倍(200~700倍)があると言われるこれらの物質を、一般的に人々はあまり気にせずこれらの物質を日常的に摂取している。

実は、砂糖のほうがまだマシなほど、人体には有害な物質である。

知らず知らずのうちに「ホルモンに作用する」「味覚を鈍化させる」「依存性がある」「腸内細菌への影響」「うつ病のリスク上昇」「腎機能低下」「脳卒中・心筋梗塞のリスク上昇」など様々な悪影響を受けている。

罪悪感に悩まされず甘いものを食べたい。

その欲望を狙って、金儲けのために製品化された毒物。

売るほうは金が欲しい。買うほうは言い訳が欲しい。

言い訳を金と交換している。無意識に自分自身を犠牲にして。

そこに愛はない。自愛も他愛もない。

 

共依存はまさに、この取引関係によく似ている。

「他者承認」が通貨。「安心」という自分への言い訳。

 

 

本当は、自分も他人も愛していない。大切にはしていない。

他人を道具に使っている。

偽りの「安心」を得るために「他者承認」を引き出す、あるいは与える。

そうして、しんどい人生から目を逸らし、見て見ぬふりをする。

人工的なその場しのぎ。

 

偽りの安心は、不安と恐れに苛まれる人にとって、甘美で刺激が強い。

「もっとほしい」「まだ足りない」・・・際限なく求める。

 

他人に気に入られるために自分を押し殺す。

他人から望む反応を引き出そうとコントロールしようとする。

自分のことを蔑ろにして、他人のことばかり考える。

 

基本的に人工甘味料のように本来は毒なので、摂れば摂るほど病んでいく。

気づけば、より多くの大切なものを手放している。

他人ばかりで占められた心。その芯には何もない。

スカスカのままの自分に、いずれは途方に暮れることになる。

他人も自分も承認していないので、通貨は底をつき、ついには尽くしていたはずの他人すら忌避して離れていく。

なにも無くなる。

 

共依存という偽愛は呪いになる

呪いのように自他を縛る鎖になるのが、共依存。

「あなたのためを思って」という前置きから始まる精神の束縛。

愛を騙り、呪いをかける。

 

たとえば親子。

「あなたのためを思って」と親は子に言う。

○○をしなさい。○○を頑張りなさい。○○になりなさい。

転ばぬ先の杖を両脇に抱えて、口うるさく指示する。

人生は、本人が決めて、本人が行動の責任を経験する権利がある。

その権利を取り上げて、自分の所有物のように扱う。

モノとして扱われた子供は、嫌だという気持ちを殺す。

私は愛されていると信じたい。この苦しい過干渉が愛だと信じたい。

だから、親になったとき、あんなに嫌だったはずなのに、我が子に繰り返す。

世代間連鎖が巡り巡る。呪い以外の何物でもない。

 

たとえばカップル。

「あの人は私が居ないとだめだから」と男の世話を焼く女。

相手が立ち直ろうとすると、ダメなところを必死に探す。

相手がダメでなくては「ダメな人間を支える私」という存在理由を失うから。

相手が自分より下でなくてはならない。ダメでなくてはならない。

だからいつまでも変わらない。

「あの人はいつまでも、どれだけ言っても変わらない」

心の底では変わらないことを望んでいるんだから当然のこと。

自分が相手をダメなままでいるように縛り付けている。呪っている。

相手は相手で「よくならなくていい」という甘さに溺れ依存している。

用意された「ダメなひと」という飼育スペースのなかにいれば、尊厳を失う代わりに、わかりやすい痛みを感じなくて済む。

しかし偽りの甘さで心の渇きは癒えない。閉塞感は静かに精神を押しつぶしていく。

いつか殺し続けてきた本当の思いは、鬱積し腐敗して恨みとなり爆発する。

ぶつけられて狼狽し「私はこんなにあなたに尽くしてきたのになんで」「あなたのためを思ってやってきたのにひどい」と嘆く。

全ては、身から出た錆。

 

まとめ:あなたの中の最良のものを

共依存は一見すると、愛と見紛う。

愛とは、そんなに粘着質ではない。取引関係ではない。見返りを求めない。

ベクトルは、双方向というより循環であり、潜在的である。

損得とは切り離された、爽やかな贈り物のようなものだ。

受け取るか受け取らないかは、相手に委ねる。

あなたのなかの最良のものを、ただ手渡すだけ。

 

『あなたの中の最良のものを』

人は不合理、非論理、利己的です

気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

気にすることなく、善を行いなさい

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう

気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう

気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう

気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう

気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう

気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい

たとえそれが十分でなくても

気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。

 

マザー・テレサ

 

実は、愛の対象は「他人」という特定の相手ではない。

「全てあなたと内なる神との間のこと」というのは、そういうこと。

内なる神とは、人によっては「良心」であり、自分のなかにある、自分より大きな「流れ」を意味している。

諸行無常。

全ては移ろい、川の流れのよう。

その流れに身を任せる、水の一滴に過ぎない。

私たち一人一人は。

自分・他人と区別するのは自分の心。

水の一滴同士で「あっちが優れている」「こっちが正しい」とマウントを取り合い喧々囂々としているのが、世の中。

本来はもともとひとつ。

水を型にはめることができないように、大河のすべてを意のままにコントロールすることなどできないように、私たちには変えられないもののほうが多い。

他人だけでなく私たち自身もまた、本来コントロールできるものではない、ということ。

 

川の水が、太陽に光り輝くように、そのなかに命を育むように、愛とは、すでにそこにある。

どこにでも宿る美しい輝き。

だから、他人という水滴が、自分の行いを認めるか認めないかなど、気にする必要もない。

川全体に届くか届かないかも、気にするようなことではない。

今この瞬間に、最良だと信じられることをする。

他人に非難されようと、世間に認められなかろうと、自分が最良だと思うものを、無理のない範囲でただただこの世界に与え続ける。

それだけでよい。それしかできない。

それが愛である。

 

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【メンタル】「他人」の目に縛られる人が抱える心の闇

阿波踊りを非難する人がいる。

新型コロナの感染拡大がどうのと言っている。

 

その背景は2通りある。

ひとつは、損得。

もうカラクリがバレてすでに一部の人には飽きられているものの、感染症に怯えて政府が推奨する感染対策を続けてもらわないと困る人間が、さらなる利益拡大のため、頑張って煽っている。ご苦労様。

こっちは正直どうでもいい。

 

もうひとつは、病。

こちらについて、今日はまとめていきたい。

 

「他人の幸せは自分の不幸」という洗脳

日本は戦争に負け、植民地となった。

多くの人は独立国家だと思っているが、実際は違う。

欧米諸国の言いなりで、彼らの利益のために飼われている。

近代化の名のもとに戦後教育が布かれた。洗脳するために。

西洋が先進的で正しく東洋は未熟で発展途上だと刷り込み、上書きしていった。

その結果、見事に思考停止の愚民国家に仕上がった。

彼らにとっては、いい仕事をしたというところか。

日本人を、アメリカ・ヨーロッパに憧れ猿真似をする立派なイエローモンキーに変容させたのだから。

 

義務教育は、都合よく動く奴隷が頭に入れておくべき予備知識を詰め込む洗脳教育として普及して久しい。

私たちは彼らに都合の良い情報を暗記させられ、ちゃんと覚えたか確認される。

定期考査という名の奴隷テストである。

「どれだけ物覚えがよく従順な奴隷か」を測定するテスト。これで横並びに比較される。

そして、この奴隷テストで偏差値が決まり、将来の平均年収が決まる、と脅される。

奴隷テストで良い点を取らなくては、限られた恩恵にあずかれない。

そうなれば、クラスメイトは仲間や友人ではない。敵である。

他の人間が良い点を取ることは、自分の奴隷としての順位を下げることであり、喜ばしいことではない。

 

こんな経験はないだろうか。

クラスで成績のランキングが発表される。

自分より成績の悪いクラスメイトを心の中で嘲笑いながら、何となく安心する。

自分より成績の良いクラスメイトを心の中で恐れながら、何となく「失敗すればいいのに」と妬む。

でも「友達とは仲良くするもの」と先生から教えられているので、そんなことは感じてはいけないと蓋をする。そして、表面上は仲良しこよしのフリをして、ひとりぼっちにならないように愛想笑いを振りまく。

集団から孤立したら皆のストレスのはけ口になってしまう。「生贄」にされないために、多数派に属そうとする。

自分がクラスのヒエラルキーのなかでどの位置にいるかを、内心怯えながら推し量って行動する。

そして卒業したら、特に何の関係も無くなる。

 

これは、一般的な学生時代の心理状態である。

ここで刷り込まれているのは「他人の幸せは自分の不幸」という前提だ。

ルサンチマンに駆られて奴隷同士でいがみあうように、奴隷同士で真の心の結束を持たせないように、自分の立場をわきまえて自制し権力者に逆らうことなど思いつきすらしないように、躾けるシステムが正常に働いている。

そのシステムにより。奴隷は他の奴隷の幸せを憎み、足を引っぱるようになる。

そうすることが、自分が幸せになるために必要だと、無意識に刷り込まれている。

だから私たちは、他人の不幸を蜜の味だと感じる。

他人の幸せな姿をみると、むかっ腹が立つ。

そういう風に教育されている、というか飼育されているので、それが自然。

 

他人を下げることで相対的に自分を上げたい

失敗した人、間違えた人を、執拗に叩くのも、よく見る光景だ。

なぜそんなにも攻撃的になるのか。

それは、自分が上がるには他人が下がらなくてはいけない、という相対的な価値観に囚われているから。

これも、丁寧に施された奴隷教育により、そう認知の歪みを起こすよう幼少の頃より丁寧に躾けられた成果だ。

 

自分の失敗は隠す、あるいは認めない。

失敗を隠しきれなかった人間に制裁を加え、地に落とす。

エリートほど無謬性の神話に囚われて、謝り方をまるで知らない。

失敗しないように生きてきて、失敗をどう謝罪すればよいかを知らない。

そんなことは学校で習わないから。

それゆえ、謝罪会見などは炎上する。

形ばかりの似非謝罪が書かれた紙を読み上げることしかできないので、謝意が被害者の心に届くことはない。そもそも、謝意そのものがない。自分がこれ以上責められないために、自己保身と自己弁護の言い訳を謝罪っぽく聞こえるように発声しているだけ。

謝罪する人間を叩く側も、受け取る気がない。

謝罪を要求するとき、基本的にその人間を貶めることを目的としている。

だから、言い回しや言葉尻を捕らえて挑発することでさらに失言を引きだそうとする。

社会的制裁を確定させ、対象が明らかな不利益を被る姿を見るまでは、執拗に攻撃する。

奴隷教育で培った「いじめ」のテンプレートに沿って、奴隷同士足を引っ張り合っているのが、ネット炎上の正体。

実に下らない。

 

本来、他人がどう生きようが、自分の人生の価値には影響しない。

その人にはその人の、私には私の与えられた人生があり、それぞれがオーダーメイドなので、比較することは難しい。というかできない。

そもそも比較できないものを比較しても、意味がない。

他人が何か嬉しいことがあってハッピーになったのなら、それは私にとっても良いことだ。

なぜなら、他人に良いことがあれば、その人は機嫌よく生きていられる。私は機嫌よく生きている人間といるほうが、不機嫌な人間といるより好きだ。ストレスがない。

一緒になって喜んでいれば、お互いにストレスなく生きることができる。

ひとつのパイを奪い合っているように錯覚させられているが、実際はそれぞれにパイは配られている。

生まれや運でそのパイの大きさは多少誤差はあるかもしれないが、他人のパイを小さくしても、自分の手元のパイは大きくならない。

それぞれのオーダーメイドのパイ生地に、どんなフルーツを乗せようか、どんな風に食べようか、ご機嫌に話していればよい。

それなのに、必死で他人が大切に抱えているパイを足で蹴落とし土をつけようとする。

自分には本来、何の関わりもないのに。無益なことだ。

そんなことをして他人のパイばかりに注目しているので、自分の手元のパイはいつまでも完成しないし、魅力的なものにならない。

そして目を離しているスキに、別の他人に蹴落とされる。

 

 

他人にも同化を強いるのは無理して我慢しているから

本当は、自由に生きたいと誰もが思っている。

しかし権力者の言うことをしっかり守るように躾けられてきた私たちは、ルールに自ら縛られる。

「法の奴隷」としての性質を合理主義・功利主義の観点から補強されるので、もはやそのルールの檻から抜け出せない。

 

教育もそうだが、島国として培ってきた陰湿な性質もある。

島では、物資も人も限られた環境であり、頻繁に争っては生活ができないので、できるだけ争わないようになる。

争わないようにはするが、人間同士なので不満は溜まる。

不満が溜まっても、生活のために我慢して合わせる。

そうなると、我慢するのが当たり前だと信じなくてはやっていられなくなる。

なので、我慢せずに思ったことを素直に言っている人をみると「自分だって我慢しているのにズルい」と怒りを感じる。

表立っては争えないので、怒りの矛先を向ける場所がなくなる。

 

この場合奴隷がとる対処方法は二つ。外に発散するか、内でわからないように攻撃するか。

 

外に発散するケースの説明として、沖縄がわかりやすい。

沖縄県民は「うちなんちゅ(沖縄の人)」と「やまとんちゅ・ないちゃー(内地人・沖縄の人ではない人)」を明確に区別する。そして心理的に距離をおく。

自分たちの結束を高めるために、外の人間である「ないちゃー」を仮想敵として活用する。その仮想敵に怒りの矛先を集中させることで、内部分裂を避ける。

 

内で分からないように攻撃する方法として、集団から孤立させる、というのがある。

よくない噂を流す、嫌がらせをする、などその集団からはじかれるように手練手管を尽くす。

うまくいって集団から排除できれば儲けもの。

排除できなくても、従順な奴隷同士で手を組んで、チクチク痛めつけて溜飲を下げる。

 

残念ながら、洗脳される前からそういう同調圧力の強さ、陰湿な性格を持った民族が、日本人である。

 

本質的な問題点は、納得して「我慢すること」を選択できていないことにある。

自分の判断が他人から与えられる損得か恐怖で誘導されているので、自己効力感がなく、納得感もない。

それが不満を感じる根源。

みんなで暮らしていくためにある程度の調和が必要であったとしても、アサーティブに話し合ってお互いに納得できる着地点を探すのが、本来の姿だ。

しかしそうした真の民主主義を実践する自我も勇気も持たない奴隷の我々は、こぶしを握り締めながら卑屈に引き下がる。

 

自分の意見を表明するのを恐れる。

他人と違ってはいけない、と周囲を窺う。

主張するに足る「正しさ」という保険を他人から持たせてもらえないと、何も言えない。

真の意味で、自分で何かを決定することができない。

だから生きていても空虚に感じる。他人の言いなりで今までずっと生きているから。

できないことをしている人を見ると、劣等感を感じる。劣等感を認めることもできない。

だから自由で素直な人を余計に攻撃せずにはいられない。

みんなで誰も自由にできなくすることで、各々の不自由を肯定する。

惨めな民族である。

不毛な社会である。

 

まとめ:全ての答えは自分のなかにある

義務教育のせいだ、欧米諸国のせいだ、民族性のせいだ、というつもりはない。

おそらく因果関係としてはそうだろう、という仮説にすぎない。

状況はどうあれ、その人の意思はその人のモノだ。何人たりとも奪うことはできない。

 

奴隷の哲学者エピクテトスはこう言っている。

自由意志は 盗人の手のとどかざる 財宝なり。

 

 

つまり、どれだけ不自由であっても、たとえ手足を拘束されていたとして、意思だけは誰にも奪うことができない、ということ。

五賢帝時代の繁栄を奴隷という立場で見せつけられ続けたばかりか、足を悪くして思うように歩くことすらできなかったエピクテトス。

その彼が言うのだから、説得力がある。

 

たとえ、年端も行かない子があなたを馬鹿にして傷つけようとしてきたとしても、「その指摘は事実ではない」と思うのであれば、真面目に受け取らないし腹も立たない。

馬鹿にされて傷ついた思うのは、相手が言ったことを「その指摘は事実だ」と思うから。

相手が言ったことを自分が「そうかもしれない」と認めていると腹が立つ。

他人がどれだけ口汚く侮辱してきたとしても、それが事実でないなら気にしなくてもいい。腹を立てる必要もない。幼子が言っているデマカセと同じなのだから。

相手が言っていることを気にしなくていいとしたら、どう行動したいだろうか。

その意思だけは、エピクテトス大先生も奪えないとおっしゃっている。

 

その意思は、いったいどこへ行ったのだろうか。

もしやとは思うが、自ら、譲り渡してはいないだろうか。

損をしないために?これ以上痛い目に遭わないように?あるいは、無意識に?

 

己の唯一の所有物を、他人に献上しているから、奴隷なのだ。

人生がいつまでも不安と恐れに支配されるのだ。

 

この世に生と邪があるならばこれは正ぞ。

たとえ死んだとてあの世で父祖にこう言える。

戦って死んだと。家族を守ろうと死んだと。

女房を取り返せ。

子を取り返せ。

国を取り返せ。

己を取り返せ。

 

全ての答えは、自分のなかにある。意思を取り戻すことで、奴隷から人間に戻ることができる。「生きている」と言えるのはそれからだ。生きるというのは、そういうことだ。

【仕事】「善き大人」の見本がいない問題

もうこの国はダメだ。

 

今回の感染症の騒動でようやく私は気づいた。

それまでは、起きたら新聞を2紙(全国紙と地方紙)目を通し、テレビで朝の報道番組を見ながら支度をし、出社するのが「善き大人」の姿だと信じていた。

父もそうだったし、最初の会社の上司もそうだったし、今いる会社もそんな感じだ。

テレビや新聞は正しい情報を報道していると信じていた。

しかしそれは間違いだった。洗脳されるためのルーティーンでしかなかった。

最初の会社の社長は「記事を読むときは『この記事が出たら誰が得をするのか』を考えて読む」と言っていたが、これは今思えばとてもいいアドバイスだった。彼はある程度分かっていたのかも、と思う。

その人は、環境ビジネスをやっていて、大〇研一のビジネススクール出身。

やっているビジネスと経歴を考えると「ビジネスの世界での成功」という己の損得のために世の中の流れを看破しようと勉強した結果、そこまではたどり着いたのだろう。

世の中の動きを先読みして、投資可能性を計算し、利益を最大化するために。

しかし結局はそこまで。アストンマーティンやマセラティに乗りたいだけの、どこにでもいる強欲な経営者止まりだったように思う。

「善き大人」には、ほど遠い。

 

私は最近、テレビや新聞はさっぱり見なくなった。

ネットのニュースも全く関心がなくなった。

どうせ、何もかも誰かが金儲けのために投資してできているコンテンツ。

わざわざ貴重な時間を消費して触れる価値などない。

ここは信頼できるかも、と思っても、結局権威的な何かと繋がっていて、誰かへの忖度が垣間見える。

偽物しかないということがわかった。

 

金儲けは、もう飽きた。

だから困ったことに、仕事にも全く興味がなくなってしまった。

今、私は営業職をやっている。

営業職は、本来、売上推移・新規納入先などを毎日チェックするのが当たり前と教えられてきた。

与えられた計画とどの程度進捗にギャップがあり、どうやってギャップを埋めるかを考え行動計画を策定・適宜修正する。そして必要な行動をいかに早く質高く実行するかを考えるものだと教えられてきた。

今までは結果を求めて意欲的に取り組めたそれらの作業が、とんでもなく、つまらなく感じるんだよ最近。

そもそもこの作業には何の意味があるのか、と深く掘り下げると、底には何もないことに気づいてしまった。

 

仕事は、ゲームと何も変わらない。

ゲーム内で「こうやればうまくいくんじゃないか」と仮説を立てて実行して検証する。得られるのはゴールドだったりルピーだったりギルだったりした。

ゲーム内の通貨を貯めれば、新しい武器や防具が手に入れることができて、強くなれる。戦闘を積み重ねるほど、経験値が手に入り、レベルが上がる。

仕事というゲームでは、通貨が「円」、強さは経済力、レベルは社会的地位、と呼び方が変わるだけ。物語のシナリオがあらかじめ決まっていない、不確実性があるだけ。ギャンブル性が高い。だからハマるんだろうな。

残念ながら、いくら経済力をつけても、人として強くなっているわけではない。社会的地位がランクアップしても、魂のレベルはアップしない。

むしろ劣化していく。

横並びのプレーヤーと、経済的価値という点で比較して「勝ち組」「負け組」などと互いを罵り合いながら、一喜一憂している「大きなお友達」。それが「現代の大人」の姿。

つまり、ガキのまま図体だけデカくなり、どんどん人としてつまらなくなったのが、今の大人たちの平均的な姿だ。

 

高度経済成長期には、「ビジネス」は大流行りのゲームだったのだろう。

物質的な豊かさを求めて、それが手に入れば幸せが手に入ると信じた。

ある程度やればやるほど報われる幸運な時代だったので、どっぷり依存した。

それを国も社会も奨励した。24時間働けますか?と。

そうやって、国を挙げてゲームに狂乱している間に、人として生きるということを忘れてしまった。

「善き大人」になろうと己の哲学を深めることもなく、心のど真ん中を空っぽにしたまま、ゲームの攻略法ばかりあーだこーだ言っていて、ふと気がついたら寿命がきている。

実に空虚だ。

なんとなく空虚な人生を過ごしていることは、本人も本能的に自覚している。

しかし深く考えてしまうと、今まで生きてきた人生の背骨をボキリと折られて足元から瓦解するから、否認して無意識のうちに考えないようにしている。

自分と同じように生きることを他人や子孫にも強要する。自分は間違っていなかったと思い込んだまま死にたいから。

本当に大切なことを置き去りにしたまま「これが正しい人生なんだ」とひたすら逃げてるだけ。

依存症者が、自身の心の中にある不安と恐れを否認して問題行動を続けている状態と同じ。

その世代と国境を超えた依存のツケが今、ここにある。

 

なぜ子供たちがYoutuberやプロEスポーツプレーヤーになりたがるのか?

そりゃ、私たちがしている仕事が、つまんなそうだからだ。

仕事というゲームより、他のゲームのほうがおもしろそうに映るだからだ。

子どもたちはまだ人間らしさを失っていないので、楽しく生きることが本質だと感じていて、純粋に求めている。

私たち大人は、景気が低迷してもう面白くなくなった仕事ゲームを「これは一番大事で価値があるゲームなんだ」と自分が本心から楽しめてもいないのに、「やるのが当然」だと次世代に有無を言わせず押し付けようとする。

当然反発される。

そんなの、つまんなそうで辛そうにしている大人の表情をみれば、一発でわかる。クソゲーだってことがバレバレ。死んだ魚のような目で日々を過ごす大半の大人みたら、絶対地雷だろって思うよね(笑)。こんなふうになりたくないと思うのは、自然な思考。

「真面目に勉強して良い大学に行って良い会社に入って社会で評価される。」

この王道シナリオは、とっくの昔に崩壊している。

なぜ崩壊しているのか?

このシナリオは、根本的に「やっても意味がない」からだ。

シナリオを追っても幸せを感じられない。他人の目によく映るという「変えられないもの」を変えようとするから、基本的にうまくいかないし、うまくいっても満たされない。

他人のためと口ではきれいごとを言いながら、ビジネスは最終的には自分のためでしかない。本質的には誰かの何かの役に立っているわけでもない。

自分のためにやっているはずが、他人はおろか自分すら幸せになれない。そんなのやる意味がない。

 

そもそも大人は「この社会は素晴らしい」という嘘をついている。

この社会は素晴らしくもなんともない。腐りきっている。

社会的な規範など正しくもなんともない。コントロールのための楔だ。

子どもたちには「嘘をついてはいけません」と教えるのに、嘘しか言わない。まるで説得力がない。

私たちの生き様から、素直で純粋な子どもたちは見抜いている。

だから、言葉を尽くしても信用してもらえない。

なので、圧をかけて従わせようとする。それが「しつけ」。

 

嘘つきばかりで「善き大人」の見本がいない。

子どもたちにとって「この人みたいに生きてみたい」と憧れられる本物がいない。

成功者など、金集めがうまいだけ。尊敬とは程遠い。

金や物では本質的に満たされないことを、私たちを通して子どもたちはすでに気づいている。

でも、寄る辺がない。

道しるべがない暗闇を歩いているようなものだ。

そりゃ、精神を病むし、自殺もするだろう。すべては大人が不甲斐なくてダサいから。年とってもこんなもんかよ、と絶望して人生を降りる。その気持ちはよくわかる。

狂ったシステムになじめない正常な子は、不登校にもなるだろう。

現代社会を「ここは私が居たい世界じゃない」と思えば、オンラインゲームやSNSに逃避するのも当たり前だろう。

学校に通えない子どもたちに問題があるんじゃない。社会が狂っているから、拒否反応が起こっているだけ。私たちが築き上げた虚構の社会に問題がある。

それをこども個人の問題だと思ったり、教育機関の問題だと思ったり、保護者の問題だと思ったりしている。

笑えないほどズレている。

そりゃ生きづらさ抱えるよ。

結局全部金儲けでしかないんだもん。

つまらんよ、そんな社会は。

次世代はもう、株主資本主義社会・資本主義経済社会は、つまらないということに気づいている。

 

ここまで読んで「じゃあ何が面白いんだ?他にどんな意義深いことが、仕事以外にあるんだよ、言ってみろ」と思う大人がいるだろう。

 

お答えしよう。

「自分が心からやりたいとわくわくすること」だ。

 

それが金になるのか、そんなことで生活できるのか、だって?

生きるために金稼ぐのか、金稼ぐために生きるのか、どっちなんだよ。

前者だろうよ。

生きるのが先なの。生きるってことは、自分のしたいことを素直に自由にすることなの。

それが先なの。それが人生なの。仕事なんてのは必要最低限のゴールド稼ぐためのサブクエストなの。

食べるものはつくればいい。買わなくても、金かけなくても、生きていける。家庭菜園でも何でも、やれば何とかなる。タンパク質は豆からも魚からも摂れる。わざわざ畜産やらなくても。

着るものはつくればいい。どんなに着飾ったって、中身がスカスカじゃ意味無いんだから。寒さをしのげれば充分。

住む場所くらいだろう。金がないと手に入らないのは。職人技だから。

本当に必要なのはこの3つだけだ。

三大随筆の『徒然草』で兼好法師はこの3つ以上を望むことを「贅沢」といった。

これ以上の物質的豊かさや地位や名声を私利私欲に任せて求めることは、不幸の種。

来世にキャリーオーバーできないのだから、必要以上のものをいくら集めても意味がない。

この「贅沢」に踊り狂っているのが、今の成功者であり「勝ち組」と言われる者たち。

つまり、可哀想な人たち。

 

可哀想な人たちを「あれが目指すべき姿」って言われても、( ゚Д゚)ハァ?ってなるでしょ。

そういう感覚を無意識に感じてるんだよ、子どもたちは。

最低限のもので満足して心穏やかに過ごせる成熟した存在こそ、本物の「善き大人」。

結局人生の喜びというのは、限りある時間をつかって全力で自分と世界に向き合うことのなかにある。

それ、本当に本気でやってる大人がどれほどいる?

金と欲に翻弄されて、未来の不安に怯えて、そんなふうに生きるのは人生じゃない。本当の意味で人生を生きていない。

だから失望されるんだよ。

「こいつら生きてるふりしてるだけだ」って。

 

学歴のための教育の金は必要ない。あれは教育ではない。学歴はただの奴隷通行証。「私はとっても従順な奴隷です、使ってください」という名札を首から下げているだけ。

この現代に良い仕事などない。どれも詐欺ばかりだ。手が込んでいるか、込んでないかの違いだけ。本来必要のない余剰を、いかに必要っぽく見せるか、いかに欲望を煽るか、やっているのはそれだけ。

第1次産業が最も尊い。

最も尊い仕事の評価(経済的価値)が最も低い社会など、まともな社会ではない。

いずれ潰れる。

そんな終わりが見えている社会なんて、従わなくていいし、順応しなくていい。

 

私たちがやることは、社会に迎合することではない。

私たちがやるべきことは「やりたいこと」それだけだ。

それをやるために、命がある。

それをやるために、衣食住が要る。

それを得るために、最低限の金を稼ぐ。

「やりたいこと」に集中するために、人生を最適化すべきだ。

ということは、できるだけ金に依存しない生き方が最も良い。

要らぬ「贅沢」を極力削ぎ落していく。

答えは自分自身のなかにしかない。本心に向き合う時間こそ最も重要。

貴重な時間を「仕事」というつまらん遊びに費やし、言い訳しながら虚勢を張って尊大にふるまっている大きい子供のいうことなど、誰が聞くだろう。

そういうところなんだよ。

そういうのが見えてないから、見えていないことすら認識できていないから、あきれられる。

言うこと聞かないのは当たり前なの。

聞く価値ないと思われてるんだから、しかたないの。

 

できるだけ経済社会から脱出して生きていきたい。

本当にやりたいことをやって、イキイキと過ごしたい。

本当に世の為人のためになることは、もうビジネスには求めない。

自分の道を進むしかない。

その背中が、希望そのものであり、次の世を創る。

私は兼好法師のような光になりたい。

 

 

【哲学】あした死ぬかもよ?(ひすいこうたろう)

尊敬するマルクス・アウレリウスも『自省録』のなかでこう言っている。

今日まで君は、どんな態度で過ごしてきただろうか。

神々に対しても、両親・兄弟・配偶者そして教師や友人に対しても、誰に対しても、君はひどい扱いをしたり、ひどいことを言わなかっただろうか。

そして、君がこれまで経験してきたこと、耐えてきた困難を思い返してみるのだ。

君の人生の物語は、今ここで、終わった。

世のため、人の為にやれることはもうない。任務は、終了したのだ。

今こそ思い出すがいい。

これまで君が見てきた、美しいものを。

そして、どれだけ多くの苦痛や快楽に負けず、どれだけ多くの名誉に囚われず、どれだけ不親切な者たちに親切な態度を示したかを。

さあ、思い出してみるのだ。

 

 

彼は毎日ナイトルーティーンとして自らを振り返り、記録を続けた。

死すべき存在である自分を常に忘れず、一日一日を人生最後の日のように過ごす。

その生々しい人生の記録の集積が、この『自省録』である。

だからこそ手に取るたびに温かく清々しい気持ちを取り戻せる。

 

君も私も必ず、いつか死ぬ

これだけは失いたくない。

そういうものが、あなたにはいくつあるだろうか。

家族?友人?ペット?家や貯金などの財産?今の仕事のポジション?

 

残念ながら、私たちはそれらを、いつか必ず全て、失う。

死んだら、今持っている何もかも失う。

そして、それは誰にでも必ず訪れる終焉。

いつその時が来るかは、誰にもわからない。

明日かもしれないし、明後日かもしれないし、もっと先かもしれない。

でも、100%間違いなく、あなたは全てを失う。私も失う。

 

あなたは今日死ぬとして、このまま寝たらもう二度と目覚めないとして、どう思うだろうか。

 

決して誤解してほしくないのは、私はあなたに「だから頑張れ」などというつもりはないということだ。

今日が最後の日だと思って一生懸命やろうとか、そんな安っぽい自己啓発本みたいなことを言うつもりは毛頭ない。

人生最後の日だったとしても、頑張れない日は頑張れないだろうし。

 

「楽しかった、悔いはない」と思うだろうか。

私は人生山あり谷ありでエキサイティングだったので、今日死んだとしても別にかまわない。

結構満足だ。充分楽しかったし苦しかった。

美しいものもたくさん見ることができた。もうすでに、必要なものは与えられるだけ与えられたと思っている。

 

いろいろ失った。

出世の道は、懲戒処分によって失った。

もっと貯められたであろう給料のほとんどは、酒に消えた。

酒を飲んできた結果、アルコール依存症という病名を背負い社会的信頼を失った。

酒の飲み過ぎとタバコの吸い過ぎで、健康な体も失った。

コンクリに頭からダイブして前歯も失ったなぁ。

失ったものは数えきれない。

でも、本当にそれが必要だったかというと、そんなに必要じゃないと失って気づく。

肉体は、生まれた瞬間から失われ始める。そして、いつか必ず土に還る。

だからいずれなくなるものなので、失ったところで遅いか早いかの違いだ。

出世や社会的信頼も、死んだらもう関係ない。

給料や財産も、黄泉の国へは持っていけない。いくら貯め込んでも意味がない。

 

失うことは不幸ではない

不幸とは、失うことではない。

不幸とは、今際の際に「もっと○○しておけばよかった」と後悔することだ。

いくら分かりやすい価値に恵まれていても、死ぬ間際に嘆きながら亡くなるなら、その人の人生は不幸せだろう。

なぜ後悔するのか。

それは、心のままに自由に生きられなかったからだ。

 

あなたを縛る制限は、あなたの心の中にある。

「やりたいけど、やってはいけないことだから」

「今はもっと重要なやらなければならない(と言われている)ことがあるから」

「失敗しないようにしないといけないから」

「嫌われないようにしないといけないから」

「みんなと仲良くしないといけないから」

たくさんの「○○でなければならない」「○○しないといけない」で自分を縛り上げてはいないだろうか。

そうやって自分で自分を雁字搦めにして、思うように生きられなかったとき、人は死ぬときにこうつぶやく。

「そんなこと気にしないで、もっと楽しめばよかった」と。

あれもしたかった、これもしたかった、会ってみたい人にも会えていない、見たい景色も見れていない、本当はしたかったことが走馬灯のように浮かぶ。

そして、絶望のなか、目を閉じる。

そして二度と目覚めない。意識も肉体も、消えてなくなる。

 

どうせ死ぬのだ。

どうせ死ぬなら、好きなように思い切り生きよう。

 

私はお酒で大失態をして、懲戒解雇を検討されたことがある。

誰とも連絡を取るなと会社から厳命を受け、自宅待機を命じられた。

部屋に座り込んで茫然としていると、一日が終わる。そんな毎日を過ごした。

もう、社会的な死は免れない。私は終わった。そう思った。

よろよろとホームセンターに行って自殺用のロープを買い、どの山で首を吊るかをスマホで調べた。

妻に懲戒処分の検討中で、最悪解雇になるかもしれないと告げた。

「仕事なくなったって、また別の仕事探せばいいんだし。あなたが一生懸命に頑張ってたこと、私は知ってる。だからまあ、大丈夫なんじゃない?なんとかなるっしょ。人生なるようにしかならないし。」と笑いながら返された。

そっかぁ。じゃあ一回死んだと思って、生きてみようか。

そう思って今がある。

アルコール依存症の治療に向き合い、アダルトチルドレンの課題に向き合い、発達障害としての自分に向き合い、今がある。

私の死ぬ意志は本物だった。だから、もうどうせ一回死んでるんだし、ダメでもともと。

思いつく限り何もかも試してみて、それでもダメなら、そのときに終わりにすればいい。

何もかもやってみたけどダメでしたってわかってからでも、自殺するのに遅くはない。

そう思い直してふっ切れた結果、今がある。

 

己の声に耳を傾け、全身全霊で生きてみた結果、私が大事だと教えられてきたことは大して大事でもなかったことがわかった。

守らなくてはならない、と教えられてきたルールは、守らなくてもいいことがわかった。

失ったら大変なことになる、と教えられてきたが、失ってもピンピンして生きている。

教えた誰かが悪いのではない。彼らも自分を縛り上げていただけ。

自分を縛っていたのは、自分自身だった。自分自身の恐れと不安だった。

 

あなたは今日が人生最後の日だとして、何を思い、何をするだろうか。

今抱えている悩みは、人生最後の日にも悩むことだろうか。

人生とは、限られている。

偉大な何かから限られた時間を与えられていて、私たちはその「時間」という与えられた無形資産を消費しながら生きている。

あなたが今やっていることは、何もかもすべて、命を懸けてやっていることだ。

そう、命がかかっている。

Twitterをみるのもそう。Youtubeをみるのもそう。仕事の愚痴をいっているのもそう。仮想通貨の相場に一喜一憂するのもそう。子どもと昼寝するのもそう。愛する人に「愛している」と言葉を贈るのもそう。虫を捕まえようと必死に走り回るのもそう。ランニングをするのもそう。食事を食べるのもそう。顔を洗うのもそう。歯磨きをするのもそう。コーヒーを飲みながらテレビを見るのもそう。出世を気にして意味がないと思いながら無駄な仕事をするのもそう。嫌われないように愛想笑いを浮かべるのもそう。

あなたが今やっていること、今日やろうとしていることは、命を懸けてでもやりたいと心から思えることだろうか。

そうじゃないなら、やらなくてもいい。私が保証しよう。失ったってたかがしれている。

 

やりたいと思うなら、やればいい。

やりたいと思えることをやればいい。

あなたはいくら楽しんでもいい。

あなたはいくら失敗してもいい。

あなたはいくら嫌われてもいい。

 

あなたは、幸せになってもいい。

 

さあ、楽しい一日の始まりだ。

人生最後の今日を、はじめよう。

 

 

【AC】お盆は休みではない

きっと皆さんはお盆明け、仕事に戻るとこう言われるだろう。

「お盆休みはゆっくり休めましたか?」

休 め る わ け ね ー だ ろ 。

仕事よりしんどいよお盆は。

 

「お盆休み」という激務

お盆・お盆休みとは、そもそも何なのだろうか。

 

お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。

かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。

期間

お盆休みは江戸時代には既に定着していた連休で、明治以降も1872年(明治5年)までは旧暦7月14日から7月16日まで3連休となっていた。

全国的には以下のいずれかにお盆を行うことが多い。

旧暦7月15日(旧盆)
沖縄・奄美地方など。旧暦によるとお盆の日程は毎年変わり、時には9月にずれ込む[注釈 1]
新暦7月15日(もしくは前後の土日)
東京などの大都市部や東北・北陸地方の一部の都市など農繁期と重ならない地域では新暦7月15日となっている[1]。東京盆と呼ぶこともある[1]
函館[注釈 2]、東北地方の一部[1]、東京下町・横浜中心部・静岡旧市街地、栃木市旧市街地、山形県鶴岡市街地区(鶴岡市鶴岡駅前、白山、赤川堤防西岸、文下田南、外道地区以北)、石川県の一部(金沢市旧市街地、白山市旧美川町地区、かほく市旧高松町高松地区)、佐賀県有田町 など[1][3][4]
新暦8月15日(月遅れ盆)
ほぼ全国的に多くの地域。

由来

仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。

お盆休みの帰省は、故郷を離れて暮らすことが一般化した昭和の後半から全国的に見られるようになったが、悼むべき故人に大戦で亡くなった親類縁者を共に加えて行うことも少なくない。

 

引用:Wikipediaより一部抜粋

 

つまり要約すると、夏に先祖の神霊を慰める儀式の総称がお盆で、そのための期間がお盆休み、ということになる。

家という共同体の恒例行事である儀式をするために、仕事をしないだけだ。

昭和後半以降は核家族化がすすみ、地方の実家を離れて都市部に住む働く世代が、その期間に帰省するという風習が定着したにすぎない。

帰省する側・迎える側が実際にやっていることは「先祖の神霊を慰める儀式」ではないので、本来の宗教的な観点で言えばほぼ意味を失っている。

では、儀式をやめて何をしているか。

親から子への、過干渉とイネイブリングである。

 

今夏は皆さんに、ちょっと奉仕をしてもらいます

古来の風習を口実に実家という自分の土俵で手ぐすね引いて待っている実父母・義父母。

彼ら彼女らが何を企んでいるか。

若者から自分に対する奉仕を引き出すことだ。

期待する奉仕は、精神的なものの場合もあるし、肉体的なものの場合もある。

 

精神的な奉仕の代表的な例としては「自分たちの存在を肯定してもらう」という奉仕である。

孫たちに「お盆玉を渡す」「何かを買ってやる」「遊びたいだけ遊ばせる」という甘やかしの切り札を切る。

求めているのは、「おじいちゃん、おばあちゃん、大好き」であり「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう」である。

実子とその配偶者にその姿を見せつけて恩を売る。

「本当によくしていただいて。来年もまた帰ってきますね。」と言質を取る。

空っぽでつまらない己の老後の生活に潤いを与えるために。

「自分の人生はこれで本当に良かったのか」という漠然とした不安を一時的に忘却するために。

自己肯定感を求めている。

 

あるいは、未婚の娘や息子に対して「いつ結婚するんだ」「いい相手はいるのか」「結婚して早く孫の顔を見せてほしい」などとプライバシーの侵害をする。

孫の結婚や就職や子育てに口を出すのも、同様にプライバシーの侵害だ。

これによって引き出したい奉仕は、勝利させてもらうことだ。

未熟者というレッテルを張って、自分が勝ち確のマウンティング合戦を子供や孫に仕掛けて勝利を味わう。

この対戦において、自分たちはもう結果を持っているので有利だ。

結婚ができた、妊娠出産ができた、子育てができた、だから今がある。

こうした自分の人生の結果・人生の選択を、善いことで間違っていなかったのだと他人に肯定させたい。

当然、話を振られた未婚の娘や息子は不利な立場を強いられる。

なぜならまだ選択を決定していないので結果を経験していないから。

経験している立場と経験していない立場の、埋めがたいギャップが彼らの勝算だ。

もし「結婚や出産は求めていない」という自分の価値観を主張しても、彼らは必死で言いくるめようとする。

いかに結婚が素晴らしいことか、子供を持つことがいかに素晴らしいことかを、自分に言い聞かせるように延々としつこく悦に浸りながらプレゼンする。

他人の自慢話ほど聞くに堪えないものはない。

ひたすらめんどうくさいので「ハイそうですね頑張ります」と言っておいて、その場を終わらせるのが最も手っ取り早い。

その諦観と絶望からくる表面的な返答を聞いて、彼らは安堵する。

議論に勝った、自分たちの思い通りに説得できた、と思い込む。

そして、結果が伴わない限り、心配しているふりをしながら舌なめずりして同じマウンティングを繰り返す。次の夏も、その次の夏も対戦を仕掛けてくる。

自分の人生の選択について他者からの肯定を得たい。そのために、わが子やわが子の家族を生贄に捧げる。

これが、精神的な奉仕の例。

 

肉体的な奉仕の代表例は、食事の支度や義父・親戚一同の世話係である。

これは、特に女性に集中的しがち。

休みなんてとんでもない。他人のジジババや知らない大きなお友達の分まで働かされるのだから、いつもより仕事が多くなる。休まるわけがない。

黙って出されたものを静々と口にして「おいしいね、ありがとうね」と言っていれば、まだかわいげがある。

たいていはそんな風ではない。

「味付けがおかしい」だの「もっと健康なものを食べさせてあげないと」だのと作業の途中で謎のマウントを取り始める。挙句の果てに息子の嫁の調理の途中で「もう見ていられない」と手を出し始めるような義母の話を聞くことがある。

ただの邪魔である。やばい。

最終的な目的は、息子から「やっぱりお母さんの味が一番だな」というマザコン言葉を言わせることだ。義母が作った品と息子の嫁の品を比較するために、あえて嫁にも作らせたのだ。

醜悪さに怖気が走る。

そんな気持ち悪い出来レースを見せられたら、妻は激怒する。

「いや、そんなら、最初から自分だけで作れよ。お前の料理出したいなら準備しとけよ。こちとら毎日家事育児に追われて疲れ果ててんだから無駄に手伝わすなクソババア。」と思っても無理はない。怒り心頭だろう。当たり前だ。

義母のほうはいい気なもので、自分が今までやってきた家事育児を肯定されるようで気分が高揚し機嫌がよくなる。ますます息子の嫁からすればストレス以外の何物でもない。

息子の嫁は面目丸つぶれの状況をつくられて、ますます義母が嫌いになるだろう。夫のマザコンっぷりに辟易として愛想をつかす。夫婦の人間関係に亀裂を生むだけだ。

「他人の家」の人間関係を荒らして、後々まで続く呪いのような家庭不和を植え付けるだけなのだが、自分が認められることしか頭にないため、想像が及ばないのだろう。

また、自分に育児の責任がないが血の繋がりのある赤ちゃんや幼子と触れ合おうとするのも、幼い彼ら彼女らに身体的な奉仕を強いているといえるだろう。

老いさらばえてカッサカサの肌の自分とは違う瑞々しい肌を撫でまわして、かわいいかわいいと言って孫から生気を吸い取る。その姿はまるで妖怪である。

これが肉体的な奉仕の例。

 

休みではない。奉仕をしに行くということは仕事だ。仕事よりしんどい激務。奉仕という激務だ。

せっかく与えられた休みをつぶし、わざわざ住み慣れた家を離れ、安くない移動費を自己負担し、田舎に住む妖怪たちに己が身を貢物としてお供えするようなものだ。

だから、コロナだろうがそうでなかろうが、帰省したくない人が多いのは当たり前だ。

 

 

まとめ:里帰りではなくお祓いが必要

結構極端に書いたが、おおむね中らずと雖も遠からずといったところではないだろうか。

「ご先祖様あっての自分、だから感謝しろ」

「先祖の墓参りにもいかないでいると、バチが当たるわよ」

なとどいう人がいるが、そんなわけがない。

ご先祖はご先祖なりに人生を生き、そして死んだんただろう。たぶん死後の感謝など求めてはいない。自分が今を生きるためにやったことだ。自分のためだ。

私を生かしてくれているのはご先祖だけの力ではない。この世界のすべてが、私を生かす私の一部だ。だから毎日感謝している。なので、わざわざ夏に交通費をかけてまで特定の一部にだけ感謝を表明する必要はない。

バチなど当たるはずがない。自分の血族を呪うなんて、どうかしている。

そんなことするなら「あんたどうかしてるぜご先祖さんよ」と言いたい。

もしそんなご先祖の霊がいるとしても、私たちがありのままの自分で生きることを望み、温かく見守っているはずである。

「貴重な休みにわざわざ墓になんて来なくていいから、楽しく過ごしなさいな」と思っているはずだ。

私の先祖なのだ、そうに違いない。だから呪われるわけがない。

 

結局、前述のような奉仕を獲得するための、父母側の口実の一つでしかない。

あれやこれやと脅して子供の行動を支配しようとしている。いわゆるイネイブリングのための論法である。

だから無視していい。

実父母、義父母の精神的な問題である。というととは私たちにできることはない。どうか勝手にがんばってほしい。私たちは休みたい。そして限りある今を自由に過ごしたい。

 

ていうかなぁ、なんていうか。

正直に「毎日つまらなくてさびしくてたまらないので、どうかウチに遊びに来てください」と言えばいいのに。

断られるのが恐ろしいから、屁理屈をこねてコントロールしようとするんだよね。

ちゃんと今まで、年少者に対してアサーティブに対等に接していて、対等な関係を築いているならば、愛情は伝わっている。無駄に策を弄さなくても、勝手に会いに来るさ。

求めなければ会いに来ない時点で、お察しなんだよね。

成人した子供たちの貴重な時間を自分の寂しさを埋めるために定期的に奪うなど、厚かましいことだとは思わんかね。

「自分たちのことなんて心配しなくていいし様子なんて見に来なくていいから、好きなように過ごしてほしい」と、なぜ言えない。

本当は愛していないのか。いまだに子供を自分たちの所有物だと思っているからか。

確かにそんな利己的な人間が死んだら、その地で地縛霊になりかねない。

だから墓参りをしないとバチが当たるのかもしれない。

だとすれば、毎年手配しなくてはならないのは、里帰りの交通チケットではなく、悪霊のお祓いであろう。