【AC】見返りを求める

「見返りを求める」

現代社会においてだいたいの人間関係はそんな感じだよな、と思うことがあります。

何でもギブアンドテイク。

だから、人と接するとイガイガ・イライラするんだなと思います。

心が荒むっていうかね。

 

「やってあげたのに」とか

「してもらったのに」とか

他人がやることは他人の自由だし

自分がしたことは自分の選択だし

別に何かを返す義務などない。

だけど、求めたり求められたりする。

そして「その程度の関係だったのか」とガッカリする。

 

なんで人は、他人に期待し、自分に報いることを求めるのか。

それは自分のなかの「当たり前」を押しつけているから。

他人の行動や態度が、自分の「当たり前」からズレることに対して、怒りや不安を感じる。

つまり勝手にルールを設定して勝手にキレている。

そういうことなんだよな、と思います。

が、ついつい忘れます。

 

「自分が正しい」と無意識に思い込んでいるから、自分の勝手な「当たり前」をこの世の摂理のように思い違いをしている。

だから他人にイラつき、他人に自分の当たり前をさせようとする。

それは、傲慢なことです。

相手の尊厳と権利を侵害し、境界線を踏み越えている。

だから傷つけ、傷つく。

 

「したことに見返りを求めるなら、それはあなたが本心からしたいことではない」

ということを、私自身忘れないようにしたい。誰かのせいにして、自分で選択し決定することから逃げているのだと、常に自覚していたい。

また、他人が私にその人の当たり前を押しつけてきても、私は落ち着いて毅然とした態度で要望をお断りし、その人を許したいと思う。

だって私も「もっと感謝してくれたっていいじゃん」とか思うことあるし、親に「もっとこうしてくれてたらよかったのに」って思うことあるし。

それも私。

私だってそうじゃん、と。

だから他人は私のように、愛嬌がある憎めないもののようにも感じる。

やったことに返してくれたら嬉しいって思うし、どうしても期待するし、なんでやってくんないのさ?!ってムカつくときもあるし、そんな素直な気持ちすべてをひっくるめて自分。

親が機能不全家庭でやってきたことに傷ついた私がいるのも、哀しい気持ちや苦しい気持ちに苛まれているのも、本心。

それらを「正しくない」とかレッテルを貼って、無かったことにしようとか、しちゃいけない。全部ちゃんと自分なんだから。全部大事なこと。

いずれ蓋をしたそれらの本心は、形を変えて必ず顔を出す。もっと歪んだ醜さを纏って。

人はそんなに強くない。だから、間違ったり傷つけたりするのも、お互い様。

そんなもんなんだから、他人だってそういうときもあるよな、と思う。

だから、自分を受け入れるためにも、他人の弱さと過ちを赦す、そして手放す。

それが「優しさ」なんかな、と思います。

そんなことを最近思ってます。

【発達障害】話し方がムカつくと言われる話

私の話し方はムカつくらしい。

妻からそう言われることがある。あの妻に言われるくらいだ。相当ムカつくんだろう。

思い出してみたら、私が話していると、なぜかムキになってくってかかられることがある。

 

私としては、できるだけわかりやすく論理的に、単純明快になるように話しているつもりなのだが、それが癪に障るらしい。

正直、それだったらもうどうしようもない。黙るよりほかに手段はない。

 

思えばいつも、コミュニケーションは難解で面倒な行為だった。

「雑談」というのも習得するのに時間がかかった。

どうでもいいことを話す、というのは、私にとってとても難しかった。

何とか他人の「雑談」に聞き耳を立てたりしながら分析と検証を繰り返し、編み出したのが「相手が関心がありそうなトピックスをいくつか頭に入れておいて、その話題を振る」だった。

相手のことを全く知らない場合は、季節のこと、食べ物のこと、なんでもいいから共通点が見出せそうなトピックを選んで、相手に質問する。そして答えてきた解答について、同じような見解や趣味趣向がある場合は、同意する。「私はあなたと似た者同士で、敵ではないですよ」と警戒心を解くのが目的の「雑談」。

「雑談」はとても疲れる。

楽しくなんかない。

どこに地雷があるかわからないベトナムの荒野を裸足で一歩一歩踏みしめるような作業だ。

相手がどう思っているかなんて、その時々で変わるし、趣味趣向だって年代を経ると変化したりする。

そんなあやふやなことをいくら話し合っても、身になることは何もない。

 

「相談」なのか、「ただ聞いてほしいだけの愚痴」なのかも、判別するのが難しかった。

「相談」だと勘違いしてアドバイスなんてしようものなら、逆鱗に触れる。

「ただ聞いてほしいだけの愚痴」なのかと思って相槌だけ適当にしていたら、聞いていないと怒られる。

「相談」だったとしても、まずは相手の気持ちを受け止める工程を挟み、共感してから、隣に寄り添うように自分の意見を言わなくてはならないのだ、とわかったのは、つい最近のことだ。

こういうことを国語の授業でやるべきだと思う。古文や漢文をやってる場合じゃない。こういう大事なことを義務教育で教えといてくれよ。えらい苦労したよ。

 

この「相談なのか愚痴なのか問題」は、私も逆の立場で不愉快になったことがある。

妻に仕事の愚痴を言っていたら「あなたって○○だからそうなるんじゃない?」と言われて、落ち込んだことがある。

つまり、俺が悪いってことね、と思うと、もう話す気も失せる。

聞き飽きているから終わらせたい、というニーズが妻にはあったのかもしれない。「私だって家事育児で疲れているし、そんなつまんない話聞く元気がない」というメッセージだったんだな、と後になって理解した。

もう仕事の話なんてしないようにしよう。

話して思い出してもいいことなんてないし、他人はどうにもならないし、ウザがられるくらいなら話すほうがストレスだ。

記憶の闇に葬り去るしかない。

 

会話して元気になる、という人の気が知れない。

疲れるだけではないだろうか。

私はとても疲れる。人に会うだけでもうヘトヘトだ。わざわざ疲れているときに会おうなんて、狂気の沙汰だ。

話すのが好き、という人をとても真似できないな、と思う。

私にとっては、話すというのはリスクだし、聞くというのはストレスだ。

 

私の話し方。

ブラック企業時代、上司に「日本語の話し方がなってねぇから、お前話し方講座にでも行ってこいよw」とバカにされて、真面目に受け取って自腹で学びに行った。

思い起こせば、あいつは私より話し方が下手だったと思う。身の程をわきまえず偉そうにのたまいやがって。いつか不幸になってほしい。

私は社会人になり、会話の構成に関する書籍を読み、分かりやすいプレゼン方法のHOWTO本を読み、要点をまとめてわかりやすく伝えられるように頑張ってきた。

しかし、肝心の何かが欠落している。

だから私が話すと、他人はムカつくのだろう。

その肝心の何かとは、概念化することができない共感覚というか、いわゆる『阿吽の呼吸』的なマナーなのかもしれない。

そして、私の「会話という行為に対する認識」に決定的に欠落しているのは「楽しい」という感覚だと思う。

会話が好きな人は、楽しんでいるからスムーズであり、共感覚が働くように、はたから見ていると思うことがある。

繋がることを喜び、楽しむという基本姿勢が、円滑なやり取りを可能にしている。

 

私にとっての「繋がる」は、見えない鎖で拘束されるようだと感じることが多い。

他人の欲、他人の思惑、他人の都合。

そういうものがべっとりと纏わりついた、忌まわしい呪いの鎖。

それでお互いの身体をぐるぐる巻きにされるみたいで、不快極まりない。

仕事では特にそうで、損得しか考えていないクズ野郎たちの欲と都合に振り回されるので、あまり他人と関わって仕事したくない。

しかし、人間は社会的な生物なので、その鎖の拘束がなくては、生きていくのは難しい。

自分だけで生きていければ平和でストレスフリーだが、そうはいかないので、生きていくために呪いとストレスを背負う。

生きるって、しんどいなって思う。

私の話し方がムカつくって、俺からしたら全員の話し方がムカつく。話そのものがムカつくよ。それでも我慢してんだから、そっちだって我慢しろよ、と言いたい。

こっちだって関わりは最小限にしたいよ。

できるだけしゃべりたくもないし、そうそう他人に伝えたいことも無くなってきた感すらある。

だって、他人は結局好きなように生きるんだもん。俺がいようが居まいが。

俺だってそうだし。他人がなんて言ってようが、自分が思うように生きるし、そういう風にしか生きられない。

寂しさや焦りがあったのは「陽キャであるべき」というべき論に囚われていたからだ。

陽キャだろうが陰キャだろうが、自分らしく生きていればそれで100点満点だと知った今、他人はさらにどうでもいい存在になった。

そんなどうでもいい存在に、とやかく言われたくない。話し方が気にくわないなら、話を振ってくるな。俺も話さないから。

なんかもう、人口1/10くらいになって、たまにしか人間に出会わない世の中になればいいのに、と思う。

多すぎるよ、有象無象が。嫌でも視界に入ってくるし、有難みが感じられない。

しかも口を開けば似たようなことしか言わなくて、内容がつまんないんだよな。

それで楽しめなんて無理がある。内容をもう少し煮詰めてから雑談に興じてほしい。

まあ、他人の問題なので、私がどう思おうが他人にしか変えられない。

 

別に私は悪くないのに、とかくこの世は生きづらい。

疲れたなぁ。

 

【仕事】完全ワイヤレスイヤホン おすすめ 3選!選び方 徹底解説(ビジネスVer)

在宅ワークやオンラインミーティングが日常になった今、わずらわしいコードから解放されて自宅での仕事時間を快適に集中して過ごせる完全ワイヤレスイヤホンが人気です。

しかし、いざ調べてみるとAirpodsPro高っけー!!ってなりません?

他に良いのないのかな?と思って調べてみるも、価格幅が広いうえに種類が多く、違いがわからなくて悩んでいませんか?

できれば使用目的に最適なイヤホンを選びたいですよね。

そこで今回は特に「ビジネスシーンで完全ワイヤレスイヤホンを使いたい人」が知っておきたい3つのポイント

①音質

②ノイズキャンセリング機能

③マイク性能

を詳しく解説しながら、本当にオススメの完全ワイヤレスイヤホンを紹介していきます。

完全ワイヤレスイヤホンの選び方

高音質のいい完全ワイヤレスイヤホンを選ぶ

イヤホンには「ドライバーユニット」(以下、ドライバー)というパーツが内蔵されています。音声信号を音に変換する振動板・コイル・マグネットなどで構成されています。振動板の口径が大きいほど低音再生で力を発揮する反面、振動の大きい高音域に弱くなります。また、口径が大きくなればなるほど音域にブレが発生して応答性が下がります。

ドライバーユニットの違いが、得意な音質を分けます。

「ダイナミック型」と「BA型(バランスドアーマチュア型)」があります。二つのタイプを兼ね備えた「ハイブリッド型」を合わせて3種類です。

2つのタイプをそれぞれ見ていきましょう。

重低音にこだわる楽曲重視なら「ダイナミック型」

重低音とは、20Hz〜100Hz付近の低い帯域の音域のことです。低音は360度に広がる性質を持っています。そのため、低音再生にはヘッドホンや耳栓型(カナル型)のように外に音が漏れないよう気密性が高いデバイスが適しています。そのヘッドホンの一般的な駆動方法として「ダイナミック型」があります。

ロックやヒップホップ、ダンスミュージックなどの楽曲を迫力たっぷりの音質で楽しみたいドンシャリ派なら、このダイナミック型が適しています。

中〜高音域がクリアなバランス派は「BA型(バランスドアーマチュア型)」

中〜高音域とは、500Hz〜20kHzの音域のことです。高音になるほど、音は真っ直ぐに耳に届く性質を持っており、人間が聞き取りやすい音域は300〜3000Hzと、中音域に近い音域です。

BA型は主に耳栓型(カナル型)に使用される方式で、小型化が容易なことから補聴器に採用されています。クリアで明瞭な音が特徴です。

 

必然的に小型化する必要がある完全ワイヤレスイヤホンは、BA型か、小型化したダイナミック型を採用しています。

最新のモデルはいずれもオンラインミーティングや通話などビジネスシーンでの使用に十分耐えうる音質性能を兼ね備えています。音楽鑑賞の音質にも特にこだわるなら、ダイナミック型をお勧めします。

 

参考:ハイレゾ音源好きはコーデックで選ぶ

ハイレゾ音源とは「解像度の高い音源」のことで、まるで目の前にいるかのような臨場感が楽しめる音源として親しまれています。

コーデックとは、音声を圧縮する方式のことです。

一般的にイヤホンの仕様には「SBC」というコーデックが採用されています。SBCより高音質なコーデックが「AAC」で、AirPodsProにはSBCとAACが採用されています。

さらに高音質再生に対応できるコーデックとして「aptX HD」「LDAC」があります。

職業柄ハイレゾ音源に対応しなくてはならない人や、より高音質な音声出力を望む人は「aptX HD」「LDAC」を採用しているイヤホンを選びましょう。

※スマホやプレイヤーが「aptX HD」「LDAC」に対応していないとスマホやプレイヤーのコーデックで再生されるので、注意しましょう。

 

ノイズキャンセリング機能で選ぶ

在宅ワーク中の家族の話し声や通勤電車内の環境音をシャットアウトし、集中したいことに集中する。そのためにはノイズキャンセリング機能が欠かせませんよね。

ノイズキャンセリングには2種類の方法があります。

パッシブ・ノイズキャンセリング(PNC)

イヤホンの形状や材質の工夫によって物理的に雑音を遮断する(簡単に言えば、耳栓をして聞こえなくする)方法で、高音域のノイズ低減が得意です。特殊な技術や処理を必要としないため、比較的安価に導入できるのが特徴です。

アクティブ・ノイズキャンセリング(ANC)

デジタル処理によって雑音を打ち消す方法です。雑音と反対の形の音波を生み出すことで、音を相殺する、という処理をするのですが、リアルタイムに正確に音波を生み出すためには高度なデジタル設計技術が必要です。そのため、この技術を搭載しているイヤホンは価格が高い傾向があります。「AirPods Pro」に搭載されているのはこの技術です。

ノイズ低減は低音域〜中音域が得意で、周りにいる人の話し声や生活音を遮断するのに適しています。

在宅ワーク中の雑音を気にせず仕事に集中したいなら、ANCが搭載されているかどうかは要チェックです。

 

マイクの性能で選ぶ

相手との通話をスムーズに行うために、マイクの性能は重要なポイントですよね。

ここでは、筆者が出力された音声を聴き比べて、実際に音声をクリアに届けていると感じたモデルに搭載されている、3つの機能をご紹介します。

 

デュアルビームフォーミング機能

マイクを2箇所に設けて音の差異を感知し、発言者の音声以外を拾わないようにする仕組みです。「AirPods Pro」に搭載されているのはこの技術です。他には、Beats Studio Buds などのモデルにも搭載されています。

 

ノイズリダクション機能

Anker社のマイクの機能のひとつです。両側合計6つのマイク全てにノイズリダクション機能が搭載されています。同社は、マイクの数とこの機能が組み合わせることによりデバイスのマイク性能を向上させています。ZoomやTeamsで会議中通話する際の音声に違いを実感することでしょう。

同じような機能に、「cVcノイズキャンセリング機能」があります。

クアルコム社のソフトウエア技術で、cVc(Clear Voice Capture)という略称の通り、入力された音声を識別しそれ以外の雑音をソフトで分離することで、通話相手にノイズを伝えないようにする技術です。

cVcノイズキャンセリング機能は最新の完全ワイヤレスイヤホンには標準装備されており、こちらの音声をきれいに伝えられるよう設計されています。

骨伝導テクノロジー

Jabra社の独自技術の一つです。強風などによる風切り音を検知すると音声入力を自動で切り替え、顎の振動から伝達される音声を捉えることで風切り音を除去します。

仕事柄外回りをする方で、屋外にいるシチュエーションで通話しないといけないケースがある人にはオススメの技術です。

 

このように、マイク性能には各社独自の工夫を凝らしています。

音声入力に強いモデルを探したい場合は「こだわりの独自技術を搭載しているか」をチェックしましょう。

その他・便利機能で選ぶ

他にも、ユーザーのさまざまなニーズに応える便利機能をいくつか紹介します。

スポーツシーンでの使用も考えるなら防水防滴機能をチェック

「IP(International Protection)コード」をご存知ですか?

2003年に国際電気標準会議(IEC)によって定められた、電気製品の防水・防塵性能を表す規格です。

「IP45」などと表記されます。この場合、この製品は「防塵性能=4、防滴性能=5」という意味です。つまり、防滴性能はIPコードの後半の数字をチェックします。0〜8まで全9等級で評価されます。

ランニングで使用するなど汗に濡れても大丈夫なレベルであれば、4(IPX4)以上が必要です。

ハードなアウトドアシーンでの使用を考える場合は、7(IPX7)以上をお勧めします。

 

長時間に及ぶ通話や会議が多いなら再生時間で選ぶ

マネジメント・管理職・事務職のビジネスマンの方は社内ミーティングが仕事の大半を占めます。ひとつの会議が終わればすぐまた次の会議、と長時間使用になることが多いでしょう。

そんな忙しい「電池切れにならないかどうか」が気になりますよね。

その場合は、「連続再生時間」をチェックしましょう。完全ワイヤレスイヤホンは内蔵されているバッテリーが小型のため、平均3〜4時間が一般的です。しかし近年では10時間を超える連続再生時間を誇るモデルも登場しています。

長時間使用を考えている方は「連続再生時間」が長いモデルを選びましょう。

完全ワイヤレスイヤホン おすすめ 3選

ここまで、ビジネスシーンで使用する完全ワイヤレスイヤホンを選ぶ際にチェックすべきポイントをまとめてきました。

ここからは、紹介した重要ポイントを踏まえ、Air pods Pro を含めたおすすめモデル3選を紹介します。

 

 

モデル名:Anker Sound core Liberty Air2 Pro
メーカー:Anker
希望小売価格:12,980円

 

【製品詳細】
イヤホン重量:(片耳)約5.0g
ケース重量:約62.0g
連続再生時間:最大6時間(ケース併用時最大21時間)※ノイズキャンセリングモードの場合
防水性能:IPX4
Bluetoothコーデック:SBC / AAC / LDAC(※ファームウェアのアップデートが必要です)
Bluetoothバージョン:5.0
Bluetooth対応プロファイル:A2DP, AVRCP, HFP, HSP
ノイズキャンセリング(ANC有無):○
マイク性能:ノイズリダクション機能

特徴:マイク性能・防水性能・高音質に対応しているにも関わらず、1万円台で入手できるコスパ最強モデル。独自技術「ウルトラノイズキャンセリング」により環境に合わせたノイズキャンセリングのモード選択が可能。

 

モデル名:Jabra Elite 7 Pro
メーカー:Jabra
希望小売価格:24,800円

 

【製品詳細】
イヤホン重量:(片耳)5.4g
ケース重量:44.0g
連続再生時間:最大8時間(ケース併用時最大30時間)※ANCオンの場合
防水性能:IP57
Bluetoothコーデック:SBC / AAC
Bluetoothバージョン:5.2
Bluetooth対応プロファイル:A2DP, AVRCP, HFP, HSP.SPP
ノイズキャンセリング(ANC有無):○
マイク性能:骨伝導テクノロジー

特徴:補聴器の老舗メーカーで、リモート通話・WEB会議に特化したスピーカーフォンでも高いマイク性能・通話品質を誇るJabra社の最新モデル。調整可能な ANC とヒアスルー機能により、自分の周囲の音をどの程度聞くか、または聞かないかを完璧にコントロールできる。防水レベルの高さも魅力。

 

モデル名:Air Pods Pro(第2世代)
メーカー:Apple
希望小売価格:39,800円

【製品詳細】
イヤホン重量:(片耳)5.3g
ケース重量:50.8g
連続再生時間:最大6時間(ケース併用時最大30時間)
防水性能:IPX4
Bluetoothコーデック:SBC / AAC
Bluetoothバージョン:5.3
Bluetooth対応プロファイル:A2DP, AVRCP, HFP, HSP
ノイズキャンセリング(ANC有無):○
マイク性能:デュアルビームホーミング機能

特徴:根強い人気があるApple社の完全ワイヤレスイヤホン。高性能の通話音質とマイク性能に加え、防滴性能もある隙のない完成度を誇る。

完全ワイヤレスイヤホンまとめ

本記事のポイントをまとめます。

 

①音質

ドライバーユニットには「ダイナミック型」と「BA型(バランスドアーマチュア型)」「ハイブリッド型」がある。

完全ワイヤレスイヤホンの場合、オンラインミーティングや通話などビジネスシーンでの使用を考えるなら、そこまでこだわる必要はない。

楽曲の音質にもこだわるなら「ダイナミック型」が最適。さらに高音質再生に対応できるコーデック「aptX HD」「LDAC」搭載のモデルを選ぼう。

 

②ノイズキャンセリング機能

ノイズキャンセリング機能は「PNC」と「ANC」の2種類がある。

在宅ワーク中の雑音を気にせず仕事に集中したいなら「ANC」が搭載されているかどうかで選ぼう。

 

③マイク性能

マイク性能には各社独自の工夫を凝らしている。

音声入力に強いモデルを探したい場合は「こだわりの独自技術を搭載しているか」をチェックしよう。

 

④その他・便利機能

汗に濡れる可能性がある人(ランニングやウォーキングでも使用する人)は、「IPコード」が4(IPX4)以上のモデルを選ぼう。

立て続けにあるオンライン社内会議などで長時間使用する方は「連続再生時間」が長いモデルを選ぼう。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

働くあなたに最適な完全ワイヤレスイヤホンは見つかりましたか?

【仕事】営業職を目指すひとに伝えておきたい真実

【AC】「営業」は一種の「イネイブリング」かもしれないという話

この話を書いてから、2年が経つ。

いよいよ確信している。

営業という在り方は不健全だということを。

 

営業の傲慢

営業は、売り上げのために自分と他人を騙すこと。

結局はその一言に尽きる。

真面目に頑張っている人は、そんなことはない、騙していない、というかもしれない。

他人に必要だと真摯に勧めているのだと、憤るかもしれない。

しかし、残念ながら、営利目的である以上、自分の利益のためという存在理由から逃れることはできない。

本当に他人のためなら、人は見返りを求めない。

つまり与えた施しの交換条件として金銭を要求しない。

しかし、営業はそんなことはできない。

なぜなら、何かを売ってお金をもらうのが仕事だから。

ボランティアやNPOじゃないんだよ何やってんの馬鹿なの?と言われるのが関の山だ。

 

つまり、雇い主が売りたいだけ売ってくるために、それによって給料をもらうために、必要でないものを必要だと思い込ませて買わせる。それが営業という職種。

営業職のひとには夢も希望もない話でごめん。

でもこれが真実なんだ。

顧客は必要だから買ったんだ、というかもしれない。

しかし、私たちが働きかけなければ、顧客は今まで通りの方法で何とか問題を解決していたのではないだろうか。

あるいは、解決できていない問題は、本当に解決すべき問題だろうか。

本当に解決すべきで、顧客が解決したいと強く願っているなら、私たちが紹介しなくても、私たちに「ちょっとそれ興味あるんだけど」と声をかけてくるだろう。

私たち営業がわざわざ声をかける必要などない。おそらくあっちからアクションがある。

問題の存在を知らないから、解決方法を調べる方法を知らないから、私たち営業が必要なんだというかもしれない。

しかし、問題を問題として認識していないということは、顧客にとって重要な問題ではない、ということに他ならない。つまり解決しなくてもよいと本人が思っていること。だから、解決したいかどうかは、顧客本人が決めればよいのであって、私たちが注意喚起したり不安を煽って気づかせてあげよう、などと過干渉しなくても、解決したいと自発的に思う日が来る。本当に解決すべき問題なら。

解決方法を調べる方法を知らない、というのは、その人の問題。

本当に解決したいと願っているなら、人は自然と調べたり人に聞いたり、何らかのアクションを起こす。解決したいと心の底では思っていないから、調べないだけ。

全部、顧客側の問題なので、営業がわざわざしゃしゃり出る理由にはならない。

 

そもそも、売れないものを売る、というのが営業の腕の見せ所だというのが、詐欺のそれである。

要らないものをいかに必要だと誤認させるか。売れないということは、それが要らないものだからだ。要るものは勝手に売れる。

いかなる論法においても、これを正当化することはできない。

しかし、それを認識してしまうと心が挫けてしまうので、営業は自分をも騙す。

「これは知られていないだけで本当は世の中のためになるんだ」情報化社会にあって、そんなことはありえない。

「いまいち必要のないこれを売ることによって、必要なものを開発する資金にするから、意味がある」開発する資金には残念ながら充てられない。大部分が株主と取締役の収入になる。

結局は、自分の収入の安定性、今の生活を失うのが怖いだけ。

やっていることを正当化するのは、根っこの恐れと不安をみないで済むようにするため。

「自分の安心のために、他人を犠牲にしている。」

この真実からは一歩も外に出られない。それが営業職の宿命。

 

 

他人をコントロールできるという思い込み

営業は、自分も他人も欺いて「相手のためを思って」と言いながら詐欺を働いていることが、今までの話でお判りいただけただろう。

そして営業戦略は、近代の病、人間の傲慢を見事に体現している。

他人の行動をコントロールすることができる。

この信仰を基に営業理論は端を発している。

行動心理学を応用してみたり、マーケティング戦略をこねくり回してみたり。

やっているのは、どう騙すか、騙しやすいのはどのターゲットか、を検討しているだけ。

 

他人をコントロールすることは、できない。

いや、しようとすべきではない。

なぜなら、自分が病むから。

 

今月の目標数字に届かない、どうしても製品の良さを分かってくれない。

そうやって月末に悩んでいる営業マンに言いたい。

そんなくだらないことで頭を悩ませなくてもいい、と。

土台できない話をできると思うから、ややこしくなる。

会社が勝手に設定した目標の売上なんて、架空の妄想なので、実現できなくて当たり前。

製品の良さを分かってくれないんじゃなくて、良いと相手が思わないだけ。欲しがらないのは当たり前。

全部、あなたの能力不足でもないし、あなたのせいでもない。

できないことをやろうとしている。だからできない。それだけの話だ。

できないのにできると信じている、この世のほとんどの人が病にかかっているのである。

コントロールできないものをコントロールできると思い込み、勝手に悲しんで、勝手に悩んで、勝手に自殺する。

なんてくだらないんだ。

できないことをしようとしなくていい。

それだけなのに。

 

平安の祈り

 

 

合理主義・結果主義・功利主義に汚れてしまった現代人が失ったもの。

それは「自分に変えられないものを 受け容れる落ち着き」「変えられるものは 変えてゆく勇気」「ニつのものを見分ける賢さ」である。

必要な人に、必要な分だけ届けばよく、本来見返りなど求めなくともよい。

モノやカネはできるだけ心から遠ざけて執着しないのがよく、必要最低限の量と種類があればよい。

売上目標や社内評価など他人が決めたゴールに惑わされず、自分の内なる魂に目を向け耳を澄まして、それが指し示すベクトルに従う。

そうしなくては、本当に在りたい自分は見えてこない。苦しみは永遠に続く。

そして不思議なことに、そういう邪気をゴッソリ脱ぎ捨てて自然に対等に接する人間にこそ、縁も恵みも集まるようにできている。

 

営業職はこの悟りの境地に至るにはいい修行だが、確実に精神を病む。

野心を胸にこの職種を選ぼうとしている人がいるとしたら。

悪いことは言わない。やめておけ。

 

 

■関連リンク

 

 

【依存症】自己肯定感ってなんだろう

私には、できないことや持ってないものがたくさんある。

何かの能力で私よりも優れている人はごまんといる。

それでも、私は私でいい、生きていていい、そう思うようになった。

それは、なぜなんだろう?

 

「自信」とは何か。

評価とは、常に相対的なものだ。

誰かと何かで比べて優劣をつけている。

しかし、他人と比べてもしかたがない。上下をつけて一喜一憂しても、きりがない。

人は平等ではない。

生まれ持った能力や才能、育った環境。前提が何もかも違う。

たとえば科学の世界でも、臨床試験をはじめ科学的な研究において、対照群と介入群のベースラインが同じでなくては、結果は意味を失う。

そう考えると、この世のあらゆる比較や競争は、前提を全く同じにすることができない以上、意味がないと言える。

あらゆる他者との競争は、結局のところ「遊び」でしかない。

勝った負けたとゲーム性を持たせることで、つまらないことを面白がってやろう、というのがそもそものスタート。

偏差値もそうだし、営業成績もそうだし、年収ランキングもそう。数値化できるから横並びに比較しやすいので、ゲームにしやすい、というだけ。

だから他人と比べて「なんて自分はダメなんだ」とか「私は他人より優れているから安心」とか、そんな一喜一憂がいかに意味がないことか、なんとなく想像できるだろう。

誰かと比べて生じる優越感も劣等感も、幻なのである。

つまり、他人と比較して得た「自信」とは、幻だ。

今、自分。

これが真のベースライン。

過去の自分ができなかったことが、できるようになる。

過去の自分が作れなかったものを、作れるようになる。

それが本当に対等で検証する価値のある「成長」という結果である。

しかも、アウトカムの良し悪しはどうでもいい。

私たちはできるようになったかどうかを「自信」の後ろ盾にしなくてもいい。

結論、できなかったことをできるようにならなくてもいいのだ。

できるようになったら自分が嬉しいから、力の限りがんばった。

他人に褒められるためじゃなく、自分の心がそれそのものの顕在化を望むから、形にしようとした。

それはあなたがあなたである証であり、魂に実直に生きた証である。

カタチある何かにならなくてもいい。

満足いく何かでなくてもいい。

自分を偽らず、全力で自分に立ち向かい、人生に果敢に挑んだ。

その行動を起こしただけで、あなたは称賛に値する。

自分を裏切らない。正直に謙虚に認めて向き合う。

これはこの世で最も難しいことで、同時に最も尊いこと。

その行動の積み重ねが、自分と世界を愛することであり、真の「自信」を構築する礎となる。まさに宝だ。

つまり自信とは、「私は私を裏切らない」と、自分へ信頼を寄せることができる、ということに他ならない。

そこに他人は介在しない。比べる必要がない。なぜなら、命題はあくまでも、あなたとあなたの中の良心・魂・信念との、信頼関係でしかないから。

だから、他人と比べなくていい。

そう納得したとき、自分自身も他人も世界も敵ではなく、心強い仲間でしかなかったことに気づく。

私はただ、私らしく生きていけばよかったんだ。

そう思えたとき、爽やかな自己肯定感が宿る。

今は、そんなふうに思っている。

【共依存】違うからおもしろい

私は妻と結婚してよかったなー、と心から思うことがよくある。

今日は入籍記念日。

空は青く澄んで晴れ渡り、鳥の声と虫の音が聞こえる。

秋の訪れを予感させる涼しい風が吹き、まだ夏の余韻を残す暖かい日差しが降り注いでいる。

 

妻と私

私と妻は、全く違うタイプだ。

「なんで結婚したの?」と知人から訝しげに聞かれるほどに。

 

私はASD/ADHDで、人間が基本的に苦手だ。

人の集まりなどは、極力避けたい。近くに人がいるだけで疲れる。

ひとつのことにしか集中できない。マルチタスクができない。

熱中しているときに他人に邪魔されると発狂しそうになる。

しかし、集中すると驚くべき行動力と創造性を発揮すると言われる。

そして愚直で嘘が下手で、論理的な思考が好きだ。

なので、冗談がわからないし言うのが下手だ。

 

妻は、友人にいつも囲まれている。

求められて、よくいろいろな人と交友している。それが楽しいらしい。

抜けているところはあるものの、基本的に同時進行でいろいろなことを片付けていく。

集中する、というのが苦手で、本人は何かに没頭できないことが悩みだという。

しかし、今を最大限に楽しみ機嫌よく過ごすことについてはエキスパートであり、その生き方はとても清々しい。

本人も言っているが、本人の言動の8割は冗談で構成されていて、虚実入り混じるというか、なんとなくニュアンスで伝わればいい、というコミュニケーションスタイルである。

 

私は妻と出会ったとき、なんとなく直感があった。

「このひとなら、ありのままの自分を表現しても否定されないのではないか」

「私に無い世界を見て、私に無い発想で驚かせてくれるのではないか」

その直感は当たった。

私とは全く違う、世界観と背景を持っていて、私には驚きの連続だった。

 

妻も実は同じように感じていたようで「こいつ、変わってんな」と思ったそうだ。

私の印象は「ロボットのようだった」とのちに妻は語る。

いろいろ考えながらしゃべっているので、いつも反応がワンテンポ遅い。

冗談を言うと、毎度真に受けて青ざめる。

それを妻は「おもしろい」と感じたらしく、しつこく交際を申し込んでくる私は特にタイプではなかったが「おもしろそうだから」と交際をOKしてくれたらしい。

当時の私はと言えば「この直感を感じたのはこの人だけだ。この人に交際を申し込んでダメだったら、おそらく今後もダメだろう」と謎の焦燥感を抱えて猛アタックしていた。

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった縁だった。

それが二人の子宝に恵まれて、今最も幸せな人生の時間を過ごしている。少なくとも私は。

人生とは、数奇なものだ。

 

似ているからうまくいく?

似ている人を好きになったこともある。

しかし、それは長続きしなかった。

似ている、ということは、同じであることを期待させる。

全く別の人間なのだ、違って当然。なのに、ちょっとでも違うと、裏切られたように感じる。

それはなぜかというと、自分の延長線上に相手を見てしまうから。

寄る辺のない自分と相手を「同化」させることで孤独を埋めようとすると、移植した細胞が拒否反応を起こすように、様々な軋轢を生じさせる。

似ていれば似ているほど、期待は大きくなり、それが叶わないとき強い怒りを感じる。

相手は自分とイコールなのだから、自分の思う通りに動いて当然と思い込む。

とんでもない傲慢だが、勝手にそうとらえてコントロールしたがる。

意に沿わない結論を相手が出したとき、「間違った結論」に至った「原因」があると信じ込み、相手の結論を変えようとする。

相手を尊厳ある別人格の個体として尊重していない。

尊重し合えない関係は、互いに怒りと恐れと不安を生む。どんどん不快になっていく。

なので、片一方が精神的に自立した結果、違和感に気づいて離れようとする。

すると、まだ相手が自分と地続きにいると信じているもう一方は、恐れと不安から激しく抵抗する。自分の半身を無理やり引き剥がされるような恐怖の感覚に陥る。

これが当人たちが「共依存」の状態にある証明でもあり、病んだ関係の末期症状でもある。

嫌いなのに、離れられない。好きなはずなのに、一緒にいるだけで苦しい。

終わりを告げる側が罪人扱いを引き受けて切り離さない限り、この地獄は続く。

告げられたほうは、被害者という免罪符を片手に握りしめて、相手に罵詈雑言を浴びせたり、泣いたり謝ったりして憐れみの情を催すよう働きかけたりする。

そして、それでも結論が変わらないことを悟ると、センメルヴェイス反射よろしく、相手のすべてを否定して拒絶する。

つまり、この場合、似ているからこそ、うまくいかなかったといえる。

似ているからこそ「理解し合える」という幻想を信じてしまった。

だから、その幻想を維持できなくなった瞬間、夢から醒めるように関係も終焉を迎える。

そして、修復不可能なほどに傷んでしまう。

 

人間は誰もが不完全だ。

完璧な人間など、この世に一人もいない。

だから、不安にもなるし、寂しくもなる。

誰かに認めてもらわないと、自分には価値がないのではないか、と不安と焦燥にかられる。

理解し合えるもう一人がいれば、と夢想する。

 

しかし残念ながら、他人と「理解し合える」というのは、不可能だ。

共感することはあっても、他人の感情や世界観をそっくりそのまま実感することはできない。

人間が鳥や虫の気持ちを想像することはできても、実際に彼らになることはできないのと同じように。

理解しているつもりになるだけだし、理解してもらえたつもりになるだけ。

すべては妄想だ。

 

違うからこそ、おもしろく、違うからこそ、知らなかった新しい自分を知ることができる。

それは喜びであり、生きていくうえで必要な刺激だと私は思う。

外界との輪郭を得るからこそ、「自分」という認識が成立している。

違う角度から光を当ててくれる光源が、自分とは違う人である。

だから人間嫌いの私も、哲学書を通じて古代ローマの哲学者などの死者が考えてきた思想に、自分の価値観のカタチをみて、ワクワクする。

 

死者は嘘をつかない。生に固執して偽りを言うことがない。

生きている人は、自分を利するため、生き残るために、息を吐くように嘘を吐く。

それは良い悪いではなく、生きている限り当然のことで、私もそうだ。

だから、そういうものだと思っておくのがよい。

嘘を言うかもしれない他人と、いくら言葉を重ねても、最終的に完全な理解に到達することはできないだろう。

言葉には限界があり、表現にも限界がある。

そのなかで互いに意味を推し量り、理解を確認し、なんとか繋がっているのである。

その蜘蛛の糸のようなか細い繋がり。

それをいくら集めても、心もとなさには変わりがない。

むしろ、糸が切れる毎に、儚い細さを実感するたびに、より寂しく孤独感を募らせていく。

 

この終わりなき孤独の連鎖から抜け出す一つの処方箋。

それが、「違う」を「おもしろい」と捉えることだ。

違うから許せる。

違うから自分が見える。

違うから魅力を感じる。

違うから、愛せる。

 

違いを受け容れるから、自分も他人も違っていいんだ、と思える。

目を覆いたくなるような欠点が、眩く光り輝く美点に変わる。

自分とは違うひとを、受け容れ許すこともできる。

そして、他人を赦せる人は、他人からも許される。

 

財布のひもをがっちり引き締めている人に対しては、 愛想の示しようもない。 手は手でなければ洗えない。 得ようと思ったら、まず与えよ。

引用:高橋健二編訳「ゲーテ格言集」新潮文庫

 

 

結局、求めていた承認や安心感というのは、違うからこそ生まれるものなのだ。

同じでいよう、そうすれば傷つかないで済む、と己の保身のために似ていると思い込める他人に近寄っていって、最終的にはそれまでより深く傷つく。そんな不毛なことはもうやめよう。

違ってもいい、合わなくてもいい。

合わなければお互いに距離を取ればいいだけのことで、お互いはそれぞれありのままであればよい。双方には善悪はなく、正誤もない。

 

おもしろそうだから。

たったそれだけの感覚がきっかけで繋がった、私と妻の縁がこのうえない良縁だったのだから、間違いない。

【仕事】まだ「金を稼ぐのが偉い」なんて思ってるの?

午前中。

会社の会議を聞き流し、畑仕事をしてきました。

いやー、畑楽しい。

サラリーマンより絶対こっちのほうがあってるな、と実感しております。

 

会議では驚きの発言がありました。

「社会の役に立ちたいのであれば、NPOや社会福祉法人で自己満足するのがよいのではないでしょうか」

というものでした。

 

私は製薬会社に勤めています。

製薬会社は、営利団体です。

たしかに株式会社であり、売上と利益を追求する組織でしょう。

しかし、医療用医薬品の売り上げというのは、保険で賄われています。

7~9割は、税金です。

ということは、ほぼ公務員と言っても差し支えない。

であるならば、公益のために働くのが当然でしょう。

しかしながら、中枢にいる幹部社員の頭からは、その認識がすっぽりと抜け落ちています。

 

本音は、社員が、社内のポジション争いに勝ちたいだけであり、昇進してもっとお金が欲しいだけ。

経営層は、役員報酬が欲しいだけ。そのためには株主総会で株主を納得させられる結果がないといけない。つまり、上司である株主には逆らえないのです。

 

つまり、全部自分のため。

社会のため、患者さんのため、というのは嘘です。

本当に考えているとしたら、開発した薬を無理に売ろうなどとは絶対にしない。

必要最低限、必要な人のところに届けばそれで十分だからです。

それ以上に売ろうというのは、単なるエゴでしかない。

それを正当化するためにいろいろと建前を並べます。

とても醜い。

 

冒頭にご紹介した発言も、とても理解できない感覚だなと思って聞いていました。

NPOや社会福祉法人が、自己満足?

何様のつもりなんでしょうか。

経済活動だけが正義だと思っているのでしょうか。

そんなことだから、とんちんかんな指示しか出せないのだろうな、と呆れて笑ってしまいました。

確かに社会は資本主義ですし、成果主義・合理主義が世の中を侵食して久しいので、そのように思い込んでしまう浅はかさもわからなくはありません。

でも、さすがに、いい大人が社会を知ったうえで言うことではないかなぁ。

「自己満足」と見下す非営利団体のひとたちのおかげで、社会はなんとか成り立っている部分があります。

国は全く頼りにならず、社会福祉は穴だらけです。

そういう愛をもった有志の存在が無ければ、とてももたない狂った社会であることを、この会社の人たちは知らないのです。

エリートの私たちには関係ない、とでも思いあがってしまったのでしょう。

哀れなことです。

 

そういう人間性を失った経済人が、この世には蔓延っています。

お金を稼ぐことだけが、絶対的な正義だと信じている。

自分たちの信仰を絶対だと思っている。

他の宗教と相容れない過激派組織。ナチスドイツみたいなもんですね。

「承認欲求を満たすために合法的な人殺しをしたいのであれば、営利団体の替えがきく歯車になり下がり、自己満足するのがよいのではないでしょうか」

と彼には返したいところです。

【仕事】上司哀れすぎ問題2022

私の上司が哀れでならない。

典型的な没人格で、毒を撒き散らしている。

しかしその自覚はない。

私はどうにかしてやる義理もないし、何かしてやることもできないので、遠くから眺めているわけだが、どうも鬱陶しいことには、私にちょっかいをかけたがる。

 

彼は、とにかく他人を管理下に置きたいし、コントロールしたい、と思っている。

そして、上司だから部下を完璧に行動管理すべきだし、そのために部下は「報連相」を徹底すべきだと思っている。

なるほど、それは彼にとって「正しい」らしい。

 

しかし私から見れば、それは「彼の中の正しさ」であって、私にとってはそうではない。

部下であろうと管理しコントロールすることはできない。

他人をコントロールすることは人間にはできないから。

できないことをしようとするからストレスが発生する。彼が私を管理できないからではない、そもそもできないことを彼がやろうとするから、お互い無駄なストレスを抱えることになる。

報連相であっても、大してやる必要を感じない。やる価値がないことはしなくてよい。

この上司の場合、損得でしか物事を捉えられない。

だから私が活動したことについて有益なアドバイスはまず見込めない。

さらに、損得であれやこれやと意味のないタスクを増やす傾向がある。

つまり連絡自体がリスクとなる。

そのため、連絡は自然と最小限になる。

 

さらにまずいことには、無理にコミュニケーションを取ろうと彼方からしつこくメールや電話をしてくる。

ウザいから別れようかなと思われている残念な彼氏が、特に何か行動を改めるでもなくしつこくLINEを送るみたいなもの。

本来なら着拒案件だ。

まだ気を遣って着拒しないだけありがたいと思ってもらいたい。

 

こんなにバッサリと見限ったのにも、背景がある。

私は、最初はちゃんと話を聞き、話をしていた。

彼の価値観を理解してできる限り譲歩しようと思ったし、私の価値観にも最低限配慮できる人だと、当時はまだ信頼していた。

話してみて、ああ、これはダメだ、と悟った。

まるで人の話を聞いていない。

耳を通過してはいるが、配慮する気が毛頭ない。

私は、以下のことをあらかじめアサーティブに伝えていた。

・管理されたり監視されたりすると、極端にパフォーマンスが落ちるので、できる限り信頼して任せてほしいこと

・必要なことは期日までに相談するので、あれはどうなったコレはどうなったと過干渉しないでほしいこと

・基本的に他人と話すことは私にとってかなりのエネルギーを使うので、会議やミーティングは最小限にしてほしいこと

 

全無視である。

彼は、自分のやり方を1ミリも変える気がなかった。

自分のほうが偉いと心の底では思っているから。

従うのが当たり前だと思っているから。

部下の発言やお願いなど、軽視しているのである。

だから、自分が逆に軽視されるとも知らずに。

 

彼からすると、なぜ私が思うように従わないのか、とても腹立たしく、理解できないと思っているだろう。

それは、残念だけど、彼には一生わからないと思う。

 

自分が他人にしたことは、報いとして己に返る。

私は私を軽視する人を重視しない。

聞く気がない人間に話すほど暇じゃない。

私のことを考えていない人の指示には従わない。

私は、私の心からの命令にのみ従う。その権利は誰にも奪えない。

被雇用者だろうと、部下だろうと、できないものはできない。

不服なら給与を下げればよく、要らないなら解雇すればよい。

私は私が働けるように働く。

私の働き方をうまく活かせるように考えるのは会社の仕事。

私は今の会社が合わないなら他で働くだけだし、なんなら独立して事業をする予定なので、特に社内の評価にはこだわっていない。というか、どうでもいい。好きにつければよい。

私の価値がわからないようなら、そこまでの会社だということ。

 

彼は、会社の評価を恐れているし、正しさを恐れている。

だからそれを意に解さない私をみると心がざわつき、余計に言うことを聞かせたくなる。

自分の価値観が否定されたように感じ、世界が崩れるような不安を感じるからだ。

そうやって「こいつが間違っている」「こいつが馬鹿でダメなんだ」と思って過干渉している。

躍起になって穴を探そうとする。

 

 

無駄なことをしているなぁ…と呆れる。暇で羨ましい。私は彼との無益な関わりを削減し、もっと楽しいことにリソースを使いたいから、申し訳ないけど適当にあしらっている。

早くあきらめて自分の人生に目を向けられるといいな、と陰ながら応援しつつ。

私も好きなように思っているから、彼も私を好きなように思えばいい。

私の価値は、この上司がどう思おうが、会社の社内評価がどうなろうが、1ミリも揺らぎはしない。だからどうでもいい。

彼は「なぜこんな冷え切った関係になってしまったのか」と内省できる謙虚さが足りないなぁ…と思う。

でも私にはどうしようもない。彼が気づき改めない限り変化は見込めない。

自分には至らないところなどなく正しいと勘違いしているから、その可能性に思い至らない。

残念なことだ。

実に哀れな人生だな、と同情を禁じ得ない。

でも私には関係ないから、気にすることもなく、ただ一切は過ぎていくのである。

諸行無常。諸法無我。

お互いにそれぞれ、善く生きることに集中しよう。

生きる世界が違ったね、という話。

 

【哲学】豊かさとは何か

「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ

 

この世は、物質的にはかつてないほど豊かになった。

街にもネットにも商品が溢れている。

SNSもyoutubeも、観ているだけでweb広告がひっきりなしに眼前に提示される。

「物質的な豊かさが人生の幸せなんだ」そういうふうに語りかけてくる。

しかし、私たちは本当に幸せだろうか?

若くして自殺する人は、この国では少なくない。

就職して結婚して子供を授かり、お金が足りないとあくせくしながら、義務に追われるように生きている。

やりたくもない仕事や家事に追われ、気づいたら1日が終わっている。

いつか自由になったらやろう。ボロボロになるまで我慢して働いて、気づいたときにはやりたいことができないくらい老いていて、時間も体力もない。

そもそも、やりたいことが何だったのかさえ、自分にもわからなくなっている。

こんな人生は、本当に幸せだろうか。

あなたは子供の頃から、そんなふうに生きていきたいと、心から願っていただろうか。

 

元々は、もっと自由に、やりたいことが山のように浮かんで、夜寝るのは惜しく朝が来るのが楽しみだったはず。

それが、物に埋もれ、義務に埋もれ、金に囚われ、世間体に囚われ、いつのまにか雁字搦めになり身動きが取れなくなってはいないだろうか。

その束縛が解けないまま、時間が矢のように過ぎていく。

そんなふうには、未来を描いていなかった人がほとんどではないだろうか。

 

欲望を削減する

ガンディーが弟子たちに示した戒律に「不盗」がある。

「不盗」とは、盗まない、ということ。

窃盗や万引きだけを言っているのではない。

必要量以上のものを受け取ることは、盗みだという。

「あの人の〇〇が羨ましい・妬ましい」と他人の何かを欲しがることを、人間の精神を貶める、最も陰惨な盗みだという。

欲しがるのは、今あるものに目を向けず、他人の何かを思い焦がれて欲望にうつつを抜かす。それはあなたの心を、あなた自身が盗んでいるということになる。

お金や物だけでなく、時間・エネルギー・機会もまた、奪ってはならない。

そもそも、この世のあらゆるものは一次的に預かっているもの。身体ですら、借り物であるといえる。

誰のものでもない物や金を不必要な分まで余計に蓄えるというのは、足るを知らないということであり、満たされない心が同時に蓄えられる。

つまり、借り物の物と金とセットで、その人は不安と恐れを溜め込む。

失う不安、奪われる恐れ。

だから、物質的・金銭的な豊かさは、不安と恐れが豊かなのであって、幸せとは対極にある在り方だ。

 

まとめ

無限の欲を駆り立てる現代社会。

金という幻想に左右される人間。

全て、今を生きていない。

欲と幻を追いかける虚構の世界のことわり。それを人々は「常識」とか「普通」と言って信仰する。

でもその宗教では、誰も幸せになれない。なれなかった。今どん詰まりにたどり着きつつある合理主義・資本主義・勝利主義社会が、それを証明したといえる。

 

幸せとは、あなたの心のなかにしかない。

誰かに与えられるものでもないし、一定の条件を満たさなければ見つからないものでもない。

ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。

あなたの心が答えを知っている。おそらく、ずっと叫んでいるはずだ。あなたが耳を傾けていないだけ。

物や金の先に、幸せは無い。

あったと思っても、それは酒を飲み過ぎた夜にふと目にチラつく幻覚のようなものだ。

 

一切合切何もかも制約がないとしたら。

あなたがやりたいことは、なんだろう?

あなたの心が喜ぶ行いは、なんだろう?

 

ちゃんと耳をすまして聞いてみよう。

 

【社会福祉士】スーパービジョン

相談援助における記録の意義と具体的な記述方法について、実地研修するなかで学ぶことができた。

特に居宅支援事業所と在宅支援事業所でケアマネージャーや社会福祉士がどのように記録を行っているか、実際に見せていただいた。実に詳細にクライエントの経歴・趣味趣向・職業遍歴・家族構成・病歴・服薬状況・食事と排泄の状況(口腔含む)・認知機能・ADLと実に様々な個人情報が記録されている。特に記録の方法として専門的なのは、ジェノグラムである。一目で家族構成が分かり、誰がキーパーソンかも一目でわかるため、非常に実用的であると感じた。

特別養護老人ホームなどでは、看護師と介護士がそれぞれに医療側と介護側のその日の利用者の情報を記録し、日勤と夜勤の交代時や朝礼などのミーティングを通じて「申し送り」という呼称で情報共有をしている。生活の変化や、褥瘡や転倒などの事故を防ぐために細やかな状況まで記録する。それがターミナルに入り看取りが終わった段階で「サービスに改善する余地はなかったか」という視点で再度すべて振り返りが行われるのである。

ITも積極的に導入されており、情報共有のために専用のソフトがPCにインストールされていて、やり取りされたクライエントのアセスメント票の情報や担当者会議により決定したケアプランの内容などはすぐさまデータ化してセキュリティに守られたデータベースに記録される。それにより、安全に管理できクライエントに関わる人がいつでも最新の情報にアクセスできるようになっている。今日的課題として、ITで共有される個人情報の保護、という問題がある。近年のネット犯罪は高度化しており、セキュリティソフトや対策を導入してもすべてのハッカーの攻撃を防ぎきるのは不可能とされている。そんななか、アセスメント票のように財産にかかわる情報まで記載されている情報が漏洩してしまうと、犯罪に発展しかねない。今後さらにITの面で医療レベルにまで介護の業界も情報リテラシーを高めていくわけだが、その際にはネットセキュリティについてもさらなる強化と教育が必要な時代になってきた。

デイサービスやショートステイ、特別養護老人ホームなどでは、看護師がバイタルチェックをしており、脈・血圧・酸素濃度・呼吸回数・体温を毎日測定する。酸素濃度はSPO2という機器で指先から簡単に測定することが可能になっている。高齢者においては、自身の体調の変化に鈍感になっており、本人に認知症があれば季節感なども自覚がなくなってしまうので、体調管理や水分補給には気を配らなくてはならない。そのために、バイタルを定期的に測定し変化があればすぐ医療につなぐことができる、というのは、介護において欠かせないとても重要な記録であると感じた。

スーパービジョンの目的、機能、あり方についても言及してくださった実習先の社会福祉士の先輩方には感謝してもしきれない。

誰もが最初から同じように相談援助ができ理想的なコミュニケーションをとることができるわけではない。それぞれに経験したクライエントの数だけ実体験のケーススタディが存在している。そんな経験値の乖離をできるだけ早期に埋める目的でスーパービジョンは実施される。

機能としては情報や対処方法の共有・指導と合わせてそれを超えた仕事を通じての生きる上での悩みや課題と向き合うための支援という側面がある。なかには合わない利用者やクライエントとも関係構築を行わなくてはならないなかで、いかに傾聴し、質問し、ニーズを引き出し自覚を促すのか、そのコミュニケーション方法は一朝一夕には習得しえないノウハウであり、継続的なサポートによって体得しえる援助技術である。それらの技術の伝承は、スーパービジョンにより時間をかけて実施されるべきである。また、仕事を通じて倫理的葛藤や仕事に対する姿勢について悩み苦しむ時間が人を育て仕事をより良くする。そのような悩みを抱えた成長するチャンスを逃さず、機会に変えていくことが、スーパービジョンを受けた人の人生をも豊かにする。

つまり、スーパービジョンの在り方とは、その人にただ単に必要事項を伝達し管理監督する、という単純な指導責任者ではなく、担当する新人の人生の充実を視野に入れたある意味での相談援助の一環としてとらえ、長期的視野をもって寄り添っていくということである。それを実現するためには指導する側の成長もなくてはならない要素であり、非常に難しいことだが、もしそのような在り方を実現できたなら、指導を受けた新人だけでなく、指導する先輩にとっても大きな財産になるだろう。