【雑談】日本という植民地に生まれて

私は青かった。

「先進国で民主主義国家の日本に生まれてなんて幸せなんだ」

今までそんなふうに思っていられた私の頭は確かに幸せなお花畑だったな、と自嘲せずにはいられない。

 

愛知県知事選挙。たった今、現職の大村秀章知事が当選を確実にした。

ありえない。

スパイクたんぱく質そのものに毒性があることが科学的に明らかになり、そんなスパイクたんぱく質を体内で大量生産するmRNA遺伝子製剤を「打って打って打ちまくるしかない」と喧伝した人物が再当選を果たす、この国の選挙とは何なのか。

この国の民主主義は機能していない。選挙で民意は反映されない。ただのガス抜きイベントである。

そもそもこの日本という国は、近代国家にすらなりきれないまま、体裁だけを整えて国家のふりをしてきた、植民地でしかない。先進国などではないのは言わずもがな。唯一の同盟国はアメリカだけで、それはつまりアメリカの属国ということだ。正確に言えば、欧米諸国の、である。戦後からずーっと、この国は彼らに植民地支配されていたといえる。

昨今の新型ウイルス感染症に関してこの国でやられてきたことと海外の動向をみていて、私のようにようやく気付いた人も多いのではないだろうか。

 

まったく意味のない感染対策を強行する行政府。それに唯々諾々と従う国民。

報じられている情報の真偽を調べようとせず、テレビだけを漫然と眺めている。

海外ではすでに訴訟が起きていたり、推奨されなくなったりしていることを全く知らずに「ルールだから」「国が決めたから」と思考停止。

そりゃ滅びるよなと思う。義務教育により物言わぬ家畜としてしっかり調教してきた成果が顕著に表れている。

かつて、社会学者の宮台真司氏が「日本人の劣等性」について論ずるのを、正直忌々しい気持ちで聞いていた感覚があった。

「日本人を馬鹿にするな、私たちはそんなふうに劣等種族と馬鹿にされる存在じゃない」という反骨精神というか、抵抗感があった。

しかし、今となっては彼の主張に同意せざるを得ない。

現実がそうだからもう反論の余地がない。

かといって私は欧米諸国が優越性をもっているとは思っていない。しかし、厳然たる事実として、日本の民衆のこの有様はとてもじゃないけど優れた先進的な国家とは言い難い。

 

今、世界は第三次世界大戦の最中にある。

しかしそう思っている人が、この国にどれほどいるのだろうか。

ウクライナの凄惨な状況は、ロシアのせいだと思っているのだろうか。そして、遠いところのまったく関係ない出来事だと思っているのだろうか。そう遠くない未来の日本だとは、想像しないのだろうか。

日本は同じような災禍にみまわれると予想している。

経済制裁の名のもとにロシアのエネルギー資源を断ち自らの首を絞めて滅びゆく欧米諸国の、一時しのぎの悪あがきのために。彼らはもはや軍需産業で経済を支えるしかないから、武器を消費するために今度は中国にケンカを売るだろう。この極東の植民地が戦火に飲まれるのは目に見えている。

だからこその「マイナンバー制度」であり「緊急事態条項」であり、回転ずしチェーン店の炎上騒ぎである。

超監視社会の実現、全体主義の徹底により、人的資本としてしっかり金儲けに役立てられるよう、原住民はよく躾けて管理しておかなくてはならないからだ。

この国はそう遠くない未来に国家として成り立たなくなる。つまり滅びる。

 

超過死亡がとんでもないことになっている。

しかしマスメディアではそんなことは報じない。広告主の不利益になるようなことは言わない。というか言えない。

 

一時期、依存症の偏見を是正したいとメディアに集団訴訟をすることで、偏向報道に声を上げるべきではないか、と考えていたことがあった。なんて青臭い発想だろう!穴があったら入りたい。とても恥ずかしい。世の中のことを何も知らなかった。

既存のメディアはどれも基本的に「報道機関」ではない。広告塔だ。そんな高貴な役割を期待してはいけなかった。私はまずそれを理解すべきだった。

そんな、ただの広告媒体にいちいち目くじらを立てなくてもよかった。わかる人にはわかる。マスメディアを鵜吞みにして信じるような思考能力の低い人たちに、本質的なことを理解する能力は期待できない。わからないなら勘違いさせておけばいいだけの話で、そんなくだらない人々に誤解されていても痛くもかゆくもない。

だから裁判で訴える必要すら、元からなかったのだ。どうせ損得で世迷言を垂れ流しているだけの紙屑なのだから。信じるバカは放っておけばよかった、それだけの話だ。

子供に「お前は○○だ」と突っかかられて、本気で腹を立てる人はいないだろう。何も知らないのだから仕方がない、と本気で受け取らない。

大人に「お前は○○だ」と突っかかられて頭にくるのは、その言い分が真っ当であるはずだという信頼があるからだ。つまり、言われていることを事実と認めているから、腹が立つ。

メディアという広告塔が広告として報じている内容を事実だと思う己の誤認から、メディアに人権侵害をされたと感じてしまうだけで、出鱈目をいっている子供だとわかっていれば、本気で受け取らないし、腹も立たない。

世の中のことをある程度見えている人には、わかってもらえているのだから、それだけでよい。元来、それ以上は望むべくもない。

 

超過死亡の話に戻ろう。

この国では今、あの東日本大震災があった時期よりも大量の人間が、死んでいる。これからさらに増えるだろう。原因は言わずもがな。数年前から国民がこぞって注射したmRNA遺伝子製剤に他ならない。ウイルスによる感染症が原因ではない。説明がつかない。

そういう現状を踏まえても、物理的にこの国は人口減少が進み、機能不全に陥ると考えている。

そうした状況に危機感をもち、京都大学名誉教授の福島雅憲先生や大阪市立大学名誉教授の井上正康先生らが、厚労省に対して訴えを起こしている。

まだこの国を見限っていない、本当に心が清い人々だな、と思う。

損得ではなく良心に基づいて行動できる人というのが本当の賢者だが、福島先生や井上先生がまさにそれである。

こういう大人でありたいなと思う。

 

陰謀論者だと馬鹿にする人もいるだろう。

勝手に馬鹿にすればよい。

この国が言っていることより、陰謀論と揶揄される類の考察のほうがはるかに信ぴょう性がある。

陰謀論とレッテルを貼られて嘲笑を浴びてきた人々の言うとおりに、ディストピアに向かってこの世界は転がり落ちているではないか。

つまり、陰謀論とはもはや誉め言葉である。隠したいことが明るみにならないための印象操作として貼られるレッテル。

 

私は最近、世界が裏返ったような感覚をもつことがある。

私が今まで教えられ信じていた常識や世間や社会情勢というのは、基本的にまるっと虚構でしかなかったと思う。

当時尊敬し畏怖した大人たちは、無自覚かつ静かにこの社会を腐らせていたにすぎず、この地獄を残しただけだったのではないか、と失望したりする。

社会に適合できない自分がダメなんだと思っていたけれど、こんな腐った社会に適合できるほうがどうかしていて、私はまともな感性を失わなかったから、うつになったり依存症になったりしたんじゃないかと思う。

日本という植民地に生まれて、私はこの気づきを得た。逆境を経験して突き抜けることができた。

そういう点では、この国に生まれてよかったと思う。この地獄のような環境に感謝するとすれば、そこだろう。

【依存症】私は己の高慢さと無知から他人を遠ざけ勝手に孤独になった

私には反省すべき点がたくさんある。

特に人間関係の構築はとても不得手で、他人とのかかわりをストレスに感じることが多い。

それはなぜなのか。

なぜなら、私が高慢で狭量だからである。

 

妻を見ているとよくそう思う。

妻は「私は知らないことばかりだから」と口癖のように言う。

「知らない」ということを知っている。哲学の父ソクラテスの無知の知である。

教えてくれること、その主体である他人という存在に素直に感謝できる。それは実はとても難しいことだと私は思う。

そして他人を簡単にジャッジしない。

「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼らない。

「この人には私が知らない面がたくさんある」と思いながら、他人の在り方をそのまま受け容れたうえで接する。

だから他人は否定されていると感じないで快く接することができる。ジャッジされる緊張感で在り方を偽る必要がない。だから、一緒にいて居心地が良いと感じる。

友人が多い人というのは、こういうフラットな在り方が自然に行える人なんじゃないかと思う。そして、出会った人を「友か友でないか」と線引きしないので、ほとんどが「友人」という定義に合致する。だから必然的に「友人」と認識する人数は多くなる。そう思われている相手もそう認識する。友人関係というのは相互認識で、明確な定義などないため、「友人と思っているかどうか」という認識がすべて。

 

私はどうかと言えば、残念なことに真逆をいっている。

「友人が少ない」という認識は、自分が他人のことを拒否しているからだ。友人だと思っていないなら、その数は少なくなるのも当たり前。

なぜ他人のことを拒否するかと言えば「わかったつもり」になって自ら遠ざけるから。

「あの人は○○だから○○」と簡単にレッテルを貼る。そして関係を継続する価値がないと判断する。そして関係を断つ。浅い関係でそれなりに対応する。相手もそれを感じて、距離を取る。だから周りに誰もいなくなる。

なぜ他人を早期に判断するのかといえば、自分がその人のことをまだほんの一部しか知らない、ということを認識していないから。

もっと言えば、自分が知っていることなどほんの一部であることを、心から認めていないから。

私は他人よりもよく物事をよく見聞きし分かり「正しい判断ができる」と思いあがっているからだ。

実に乏しい人間である。

 

私のように高慢で不遜な人は、他人にどれだけ助けられて今があるのかを忘れている。

顔も見たことがない、声も聞いたことがない、この世に生きるいろいろな人がいて、私は今の生活を送れている。

確かに悪意にさらされて傷ついた経験は今でも心にずっしりと残っている。

しかしながら、そんな人々もまた誰かの大事な人であり、何か世界に影響を与えていたと考えると、巡り巡って私を支えていた可能性がある。

悪意をもって私に接した背景には、彼らなりの苦しみと生きづらさがあり、表出した一部を私が体験しただけかもしれない。

簡単に、表出した一部だけを切り取って、その人そのものを語ることはできない。

過去の悪事を切り取って、その人の人生をすべて否定することはできないように。

そう考えると、たまたまその瞬間においては「私」と「その人」は良い関係ではなかった、というだけである。それを一般化して「他人なんてくだらない」と断ずるのは短絡的だ。論理的に飛躍しすぎている。

なぜ短絡的にレッテルを貼ろうとするかというと、これ以上傷つくのを恐れているからだ。同じような経験をして痛みを感じるのを恐れて、カテゴライズし予測可能性を見出したくなる。予測可能性があれば、投資可能性があり、自分の行動で結果をコントロールできると思い込める。実際には世界のほとんどの事象において、コントロールすることなどできないのに。

恐れによる認知の歪みはこうして起こる。

 

人と人の関係というのは、すべてがオーダーメイドなのである。

あるカテゴリ、あるレッテルをもとに語り始めた途端、その人そのものから遠ざかっていく。

そしてほんの一部だけかじって、終わりにする。

それはとてももったいないし、第一つまらない。

私の人生がつまらなかったのは、私がつまらなくしていたから、という事実を認めなければならない。

妻は友人に囲まれ私よりはるかに楽しそうに生きている。ように私には見える。

実際楽しいからまだ死にたくない、と言っている。

私はと言えば、死にたいと思っていることが人生の時間の大部分を占めてきた。終了させてもらえるなら今すぐにでも終了させてほしい、そう願いながら生きていた。

この違いである。

「アディクション(依存)の反対は、コネクション(繋がり)」という依存症の世界では有名な言葉があるが、まさにその通りである。

人との繋がりを自分からつまらなくした、あるいは過去の経験によってつまらないと思うことで自分を守った結果、それ以外のものに依存しなくては、立っていられなかった。命を継続することが困難だった。

それが、依存症になる人が抱えている、生き方の根本的な機能不全のひとつだと思う。

 

では、この場合、生き方の機能不全をどう対処していけばよいのだろうか。

「変えられるもの」は他人ではなく自分の在り方なので、恐れに向き合い、恐れを受け容れ、傲慢と偏見を一度捨てて、他人との関わりに挑戦することが大事だ。

挑戦できるようになるまで、恐れについて徹底的に棚卸をする。安心安全な場所(自助グループ)にアウトプットして、供養する。自己憐憫に陶酔する時期もあるだろうが、飽きるまで徹底的に吐き出す。

もう言っているのが馬鹿らしくなるくらい話しつくすと「まぁいつまでも言ってても仕方ないし、これからどうしようか」と思えてくる。そう思えるまでの時間は人それぞれだが、それは短いからよいとか長いからダメとか、そういうものではない。それはジャッジだ。その人には、それだけの時間が必要だった、ただそれだけ。

そこからはじめて、ひとは前に進める。そして、前に進むことができるのは、自分で進みたいと思った時だけだ。

ニーバーの祈りにある「変えられるものは変えていく勇気」が己の心に降りてくる瞬間。

その瞬間から世界の色が変わっていくのだろう。他人という脅威が恩恵に感じる世界へ足を踏み入れるのだろう。

このような認知の転換は、奇跡であり、どんな経済価値にも代えがたい、宝である。

損得やコスパを超えた人間として生きる面白みがここにある。

だから、何度でも生き直せるし、ひとは輝く。

【仕事】私が製薬会社を離れようと決心した理由

結局、私がやっていたのは「要らないものをつくって売る」という詐欺に加担することだったんだな、と思う。

 

私は製薬業界に転職してきたとき、希望に満ち溢れていた。

世の中の困っている人々の役に立つ大事な仕事だと思って入社した。

国のチェックが入る試験を3回もして世の中に出てくるのだから、ましてや人の命に係わるものなんだから、いい加減なものや有害なものは創らないだろう、と思った。

ましてや国内トップクラスの会社なら、他の小さい会社では多少そんなことがあっても、いろんな意味でちゃんとしているだろうと思った。

科学を信じていた。

事実を客観的に確認するためにエビデンスがあり、それを根拠に間違いの少ない誠実に仕事ができると思った。

 

でも、ふたを開けてみれば、全部でたらめだった。

科学は宗教だった。

「確からしさ」を分析するためだったはずの科学は、「それっぽさ」で他人を納得させるために、金で舗装されているものが、科学の正体だった。

統計の解析方法、試験の条件設定次第で、いくらでも都合よく統計学的に有意な差を示すことが可能だと知った。どんなデータも、なんの保障にもなりはしない。方法としてすでに腐敗していた。

主要評価項目で満足いく結果がでなければ、副次評価項目やサブ解析でなんとかほしい結果をひねり出す。それをもとに「いい薬です」と言ってこいと会社からは命令された。

そもそも現代の医療がインチキだった。

西洋医学から出発するあらゆる治療法は、人間本来の在り方から逸脱させる人工化合物を投与することで、別の病気を生むだけだった。

良くするどころか、悪くするだけ。

mRNA遺伝子製剤だけではない。PPIもARBも、スタチンも抗がん剤も、SSRIもSNRIも。もう何もかも信用できない。

製薬会社は所詮、売り上げを上げて利益を生むことしか、考えていない。

新薬をつくり高値で売りさばき、病んだ人が多ければ「市場性がある」と喜んで要らない薬を大量に処方するように、医師や薬剤師に提案する。

 

本来、薬は飲まなくていいなら飲まないほうがいい。

自然界に存在しない、余計なものを身体に入れないほうがいいに決まっている。

であるならば、ビジネスとしては拡大するより縮小したほうが望ましいのだ、人々の健康にとって。成長産業になるということは、それだけ社会が病んでいる、ということだ。

つまり、病む人が大量に発生するような社会に問題があり、私たちが本当にアプローチすべきは、マクロでは「その社会をどう適切な在り方に導くか」、ミクロでは「病んだ社会とどう距離を取るか」ということに他ならない。

自然に生まれて、不安や恐れや欲望に振り回されることなく、「今ココ」の生の喜びを享受して、自然に死ぬ。土から生まれ、土に還る。

その生命のサイクルを無理にひき伸ばそうとしたり、経済的な尺度で人の存在価値を評価する歪んだ社会に不自然に適応させようすることは、その人らしさを蔑ろにしている。生命の倫理に反する。

しかし、そんなことは製薬会社にいる人間の多くが全く考えない。考えが及ばない。

彼らの頭の中にあるのは「自分の給料をもっと増やそう」とか「もっといいポジションに就くために組織で認められよう」という私利私欲。その割合はおそらく90%以上だ。だいたい自分のことしか考えていない。自分が売った薬で他人が苦しもうが、知ったコトではない。自分と自分の身内が金銭的に豊かであればそれでいい。それが彼らの本音だ。

社会のことや他人のことを自分事としてとらえて、真面目に働くとバカをみる。

 

希望は、ほどなくして絶望に変わった。

勤務して10年。ここで私がしたいことは、もはや何もないと悟った。

結局は、彼らの思考や行動は、すべて金だ。

金が儲かるかどうかが全て。自分たちが得をするかどうかが全て。

口では「患者さんファースト」だの「人々の健康のために」だのとのたまっているが、中身は腐りきっていた。

金を儲けるためではない、というのなら、本当に必要最小限の患者さんに必要最低限の処方をしてもらうべきだ。

薬価は限りなく低く設定し、治療費で医療保険制度を圧迫しないように、他の必要な社会保障に財源が回せるようにするだろう。

売上や計画達成率などでMRやチームにランキングをつける必要もない。

売上が小さくなるほどその地域は薬を必要としていない=病んでいない、ということだ。

計画を設定されてその達成率でボーナスが変わるなら、MRは無理をして売ってくる。そういう倫理に反する行動を誘発しかねないシステムを導入しないはずだ。

あくまでも副作用の報告を収集したり、使い方がわからない医師からの求めに応じて必要な薬剤特性を伝達すればよく、それで充分職務を全うしている。その労働に見合う対価を支払えばいいだけだ。

つまり、本来必要なくなることが最善であるサービスでありビジネス。それが製薬業界だ。

それなのに事業規模を拡大し、取締役が億を超える役員報酬を得ている。

MRの目の前にニンジンをぶら下げて、不必要に処方されるよう暗に促す。

それでつくるのがmRNAのような毒なんだから、目も当てられない。

 

本当にこの世界に神様がいるなら、こんな悪行にはいずれ天罰が下るだろう。

そうでないなら、神などいないということだろう。

これだけ私利私欲に塗れ、人を不幸にし、命すら奪って私腹を肥やす業界が潰れないなら、文字通り神も仏もない。

おそらくMRをはじめ国内の従業員はこれから大量解雇がはじまるだろう。特に国内は。

もうすでに医療関係者からハエか蚊のような扱いを受けている。しつこく売り込みにくるスーツ野郎として通常診療の邪魔者扱いされて久しい。価値を感じられていない。当然だ。

AIやデジタルの導入が加速している。しかもMRに目標を課して自分の墓を自分で掘らせている。製薬会社は株主配当と役員報酬の確保のために必ず人減らしをする。人間より機械のほうが管理しやすく、ランニングコストもかからない。まずは手始めにこの春、事務員から首を切られていくだろう。

金のことしか考えていない製薬会社だ、必ずそうする。絶対にそうなる。この流れは変わらない。

このプランデミックで多くの人が「医療は詐欺である」と気づいたと思うが、そうなれば医療は信頼されなくなるだろう。少なくとも地頭の賢い人々は利用しなくなる。

ということは、医療業界が衰退していく。それにともなって、紐づいた製薬業界も衰退していく。

西洋医学という宗教を信じる信者たちは、これからも今まで通りありがたがって毒を買い毒を飲み苦しみながら死んでいくだろうが。

つまり、もう産業としても会社としてもオワコン確定なうえに、このコロナ騒動に関わってしまっている時点で、世界が正常な方向に向かうとすれば、戦犯扱いされる惨めな末路は避けられない。

正常な方向に世界が向かわないとしても、私はこれ以上悪事に加担するのは耐えられない。良心の呵責がすさまじくてとてもじゃないけど仕事にならない。

 

今から製薬会社に行こうなどと思うひとはいないだろうが、絶対に行かないほうがいい。

待っているのは、暗い未来だけだ。自分の経歴に泥を塗るだけだ。マジでやめておいたほうがいい。

今はまだかろうじて羽振りがいいこの業界だが、気づいている人はそんなにいないのかもしれない。少し先までは見えていたとしても、背景にある資本主義経済社会システムが諸悪の根源であること、哲学を失った虚しい営みであることには思い至らないだろう。

思い至っていれば、私のように思い悩み、病んでいるはずだから。

 

 

【依存症】妻が子どもを連れて実家に帰った話

やっぱ、家族って大事だなって思った年末年始でした。

いやー。

なんだかんだ言って、みんながいないとダメね。

 

年末、妻が子どもたちを連れて義実家に帰りました。

先に行って、私は後から合流するってことにしたんですよ。

私は妻には申し訳ないんだけど、やっぱ居心地が良くないんですよね、義実家。

ずっといると、なんかストレス溜まっちゃって、だんだんイライラしてくるんです。

なんとなく居場所がなくて、かと言って周囲に気晴らしに行けるような場所もなく、だんだん追い詰められていくんですよね。

私たちの子どもだから私たちが面倒みるのは当たり前なんですけど、率先してみてくれるわけでもないから、育児の負担はあんまり変わらないし、台所自由に使えるわけじゃないから、好きな時に好きなように料理できるでもなく。

妻は料理が上手で、出してくれるものはなんでもありがたく美味しく食べられるんですけど、義母の料理はなんか雑というか、はっきり言っちゃえば不味いので、食の面でも気持ちが沈んでいきます。

しかも出し方がわけわからん。後から「コレがある」「アレもあった」と小出しにしてくる感じで、お腹が空いてたなら食べたかったものが後から出てきたりすると「なんやねん」ってなります。

家が全体的に埃っぽいし散らかってて、なんか安らげない…かといって掃除すればいいレベルの散らかり具合ではない…なんか、荒んだ気持ちになるんです。

人様の家だから、文句いうのもなんだし、泊まらせていただいてるのにアレなんですけど。

しかもあの人たち、断酒してる私にお構いなしに酒飲みまくるんだよなぁ…。缶も乱雑にテーブルの上に置いとくし、なんなら酒買ってきてくれって頼んだりしてくるんですよ。なんか、そういう無神経なところがまた神経を逆撫でしてくるわけです。

そんなわけでいつもイライラし始める私を見かねて「ちあきだけ滞在期間が短くなるような帰省の仕方」を妻が提案してくれたという経緯があります。

正直スマンと思ってる。

妻的には「イライラして近くにいられるくらいなら、ひとりでゆっくりしといてほしい」という気持ちだそうで、ありがたく提案に乗りました。

 

さて、新幹線で妻と子どもを見送って、ひとり犬たちだけが待つ自宅に帰宅しておどろきました。

静かすぎる…。

犬たちも不安そうにこちらを見つめてきます。

「いつも情緒がアレなコイツだけ帰ってきた…やべぇ…やべぇよ…」という目をしています。

スマンて。いつもアレなのだけでスマンて。

 

ひさびさに飲酒欲求がきたのも、びっくり。

「今日くらい羽を伸ばしてもいいんじゃないか」という気持ちがまだ湧いてくるんだなぁ、と思うと、改めて私は病気なんだなぁって感じました。

変に我慢するとヤバいと思ったので、ノンアルコールビールを買って飲みました。

あんま美味しくない…こんなのいらないな…となって、気持ちがスッと落ち着きました。

開業の準備とか、たまった仕事の雑務とか、子どもたちいないからやりまくれる!と思ってたのに、全然なんのやる気も起きないんですよね。

あー…静かだな…寂しいな……って気持ちで、youtube観てもアマプラで観たかった映画観ても、なんも楽しくない。

ひとりで断酒してる人すげぇよ。よくこんな時間を耐えてるなと思う。

改めて、家族のおかげで断酒続いてるんだなって実感しました。マジでいつもありがとうございます。

自分でヘルシーな料理作って食べてたんですけど、ひとりで食べるの侘しすぎ。

もう、何しててもつまんない。

ブログも書きたい事のネタメモしてたのに、全く筆がのらない。

そんな感じだったから、とりあえず毎日LINEで妻や子どもたちとビデオ通話してましたね。笑

んで、なんかものの数日で会いたくなって、早めに義実家にきちゃいました。

会えないくらいなら、多少義実家が不快でも行くしかない、って感じでした。

家族のありがたみがよく身に染みた年末年始でした。

【仕事】西洋医学の始まりと終わり

西洋医学の成り立ち

「西洋医学の父」といえばヒポクラテス。

I swear by Apollo the Physician, and Aesculapius, and Health, and All-heal, and all the gods
and goddesses, that, according to my ability and judgment, I will keep this oath and this
stipulation-to reckon him who taught me this art equally dear to me as my parents, to
share my substance with him, and relieve his necessities if required; to look upon his
offspring in the same footing as my own brothers, and to teach them this art, if they shall
wish to learn it, without fee or stipulation; and that by precept, lecture, and every other
mode of instruction, I will impart a knowledge of the art to my own sons, and those of my
teachers, and to disciples bound by a stipulation and oath according to the law of medicine,
but to none others. I will follow that system of regiment which, according to my ability and
judgment, I consider for the benefit of my patients, and abstain from whatever is
deleterious and mischievous. I will give no deadly medicine to anyone if asked, nor suggest
any such counsel ; and in like manner I will not give to a woman a pessary to produce
abortion. With purity and with holiness I will pass my life and practice my art. I will not cut
persons laboring under the stone, but will leave this to be done by men who arepractitioners of this work. Into whatever houses I enter, I will go into them for the benefitof the sick, and will abstain from every voluntary act of mischief and corruption of females or males, of freemen and slaves. Whatever, in connection with my professional practice,
or not in connection with it, I see or hear, in the life of men, which ought not to be spoken of abroad, I will not divulge, as reckoning that all such should be kept secret. While I continue to keep this oath unviolated, may it be granted to me to enjoy life and the practice of the art, respected by all men, in all times ! But should I trespass and violatethis oath, may the reverse be my lot!

『医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う、私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。
この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。
その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。
そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている
弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
○私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
○頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。
○純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
○結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
○いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。
○医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
○この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運
命を賜りたい。

引用:ヒポクラテスの誓い

 

この誓いを読むに、おそらく西洋医学の本当に初期の出発点では、医学は良心と倫理によって成り立っていたのだと思う。

しかし問題はその後の後継者たちだ。

フランスの哲学者で医者のジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーは1747年に刊行した『人間機械論』において、人間の魂は脳の物質的組織の一部であり、その動力によって動かされる機械であると定義した。

古代ギリシャのエピクロスの流れを汲んでいる。彼は万物は人間の身体はもちろん、魂をも含めて、いっさい、原子とその運動に由来すると考えた。

私は個人的にエピクロスの「隠れて生きよ」という言葉に代表されるような、俗世間の動乱に惑わされず、心理的にそこから離れて暮らすことにより、心の平静(アタラクシア)を得て、快適な生を送ろう、という生き方が好きだ。

しかしながら、人間の身体も魂も物理現象でしかない、と考えたのはいささか極端すぎると思う。死の恐怖や不安を解体するためにそう結論付けたのかもしれないが、この思想は危うい。

時は移ろい、19世紀ドイツ。

エピクロス、ラ・メトリ―の思想を汲んで医師、病理学者、先史学者、生物学者、政治家のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウが「病理学の法王」として当時の医学会に君臨し始めたあたりから、医学は完全に道を間違えた。

何ともおぞましい彼の言葉を引用しよう。

「人間の体は機械であり物であり自分で治す生命力はあるはずもない。病気を治すのは医学であり医者であり医薬だ」

「医療はすべて政治であり、政治とは大規模な医療にほかならない」

医療は政治であるという言葉通り、彼はある人物を迫害し追い出す。

その人物とは、センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプである。

19世紀中ごろには産褥熱の発生数が多く、産婦の死亡率も高かった。特にウィーン総合病院では、一般的な助産師による出産と比べ死亡率が3倍も高くなっていた。ここに勤務していたセンメルヴェイスは、産褥熱の発生数を調査し、1847年、産科医が次亜塩素酸カルシウムで手を消毒することで劇的に産婦の死亡率を下げることが出来ることを発見し、”Die Aetiologie, der Begriff und die Prophylaxis des Kindbettfiebers”(産褥熱の病理、概要と予防法)と題した本にまとめて出版した。

センメルヴェイスは手洗い法が死亡率を1%未満にまで下げられる科学的な証拠を数多く示したが、この方法は、医師が死亡原因だったという都合の悪い真実が明るみに出てしまうと、医師が批判にさらされることになるので、当時の医学界に受け入れられなかった。むしろ彼に怒りを示したり嘲笑したりする医師さえいた。

その初期の反対者の一人だったのが、フィルヒョウだった。彼は科学的事実ではなく、政治的利益をとった。患者の命ではなく、医師の社会的立場を守ったのである。

当時最大の病理学者であるフィルヒョーの反対は影響力が大きく、センメルヴェイスがウィーンからハンガリーへ去る原因の一つを作ったと思われる。1865年、センメルヴェイスは神経衰弱に陥り、精神科病棟に入れられ、その後学説が認められないまま若くしてこの世を去る。

当時からすでに、医学はサイエンスではなく、政治としての機能を色濃くしていたと言わざるを得ない。

 

医療への絶望

現代の全ての医師がこんな体たらくだとは思っていない。

本当に命を救いたいと志して医師になった先生をたくさん知っているし、尊敬している。

全否定する気持ちがない一方で、西洋医学を信頼することは難しいとも思っている。

なぜなら、それは大きな枠組みとして、私たちのためのモノではなく、政治のためのモノに成り下がっているのが前提だからだ。

前述のとおり、近代から現代にかけて、医学は大いに道を間違えた。ヒポクラテスの誓いを蔑ろにする、傲慢な理論に発展してしまったと思う。

こういう視点であらためて現代を眺めてみると、この惨状は当然のように思えてくる。

 

政治的意図を達成するための創薬をする製薬会社。

創られたものが毒にしろ薬にしろ、権威に従属し特に考えず、損得で患者に投与する医療従事者。

被害が出ても不都合な結果を隠ぺいし、犯罪を合法化する政府機関。

現代のメガファーマのマッチポンプ、特にワクチン詐欺は、起こるべくして起こったといえる。「医療を用いた大量殺戮」という犯罪のエッセンスは、もうすでに19世紀から育てられていたということだ。

 

私は、医療を信じたかった。でももう無理だ。

製薬会社は、まるで行政機関のようだ。

自分の頭で考えられない、没人格化した人間がひしめき合っている。権威を盾する。その代わりに忖度を繰り返す。そうやってもう腐敗しきっている。

そんな組織のなかでイノベーションが起こるはずもなく、自分が多少損をしてでも問題を告発するような『賢くない』選択をする人格者は存在しえない。なぜなら、マネジメント層が組織の規律を乱す厄介者・異分子として排除するからだ。

つまり、もう製薬会社はダメだ。泥船である。いずれ沈む。改善も改心も期待できない。終わっている。

そんな製薬会社とねっとり癒着している医療も、もう信頼されるのは難しいと思う。

学のない私でも気づくくらいだから、もう末期的だ。

いや、投資可能性で考えれば、商品としての医療はまだ健在で、これからも詐欺ビジネスとして存続するかもしれない。が、もはや本来の清く美しい倫理的な本来の医学は、機能は果たせないと思う。時間をかけて哲学が歪み過ぎている。

これから、mRNAワクチンのリスクを皮切りに、どんどん後ろ暗いことが明るみになっていくと思う。いや、もうなっているのか。わかる人はわかっている。だから、国はもちろん、医学も信頼を失墜する。おそらく回復不可能なほどに。愚かな人はそのまま信じて、金儲けの道具に使われて苦しんで死ぬ。

とても哀しいし、やるせない。だがしかたない。

 

私はもう今の仕事に価値を見出せない。

それなのに生活費を稼ぐためにこんな汚れた仕事をしなくてはならない。

それがとてもつらい。

今まではモチベーションが多少あったが、もはや一ミリもない。だって、頑張ってやったところでたくさんの人が苦しむだけだから。

組織内の人間とも合わない。みんな自分のポジションと給料のことしか考えていないクズばかりだ。吐き気がする。

苫米地英人先生が「フォートトーク」をつくった気持ちがなんとなくわかる。彼の「自分以外の人たちの利益のために生きてる人としか付き合いたくない」という言葉に、ものすごく共感している。

フォートトークを紹介したところで私には1円も入りはしない。しかし、良いものは良い。おすすめ。

話はそれたが、そんなつらい状態なので、私は医療業界から離れようと思っている。

私はお金のために他人を殺せるほど下品ではない。

そんなのの仲間でいるのはこれ以上良心の呵責に堪えられない。

鈍感な同僚は全くそんな感覚ではない。だから仲良くなる必要もない。

今や問題は、別の道で生きていく準備をどう進めるか、経済と社会から物理的にも心理的にも距離を取ってどう生きていくのか。

私の視線はそちらに向いている。

【雑談】出会いがあれば別れもある

I do my thing and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.

 

上述の「ゲシュタルトの祈り」のように、人と人との繋がりは良くも悪くもコントロールできないものだ。

先日、私のことを知ってくれて、私の記事を読んで、よかったといってくださる人が声をかけてくれて、とてもうれしかった。今日地震きて死んでもいいかも、と思うくらいうれしかった。ありがとうございました。

縁というのは面白いもので、まるで用意されているかのように、そのときに必要な人がお互いに引かれあう。

逆に言えば、人の価値観や生き方はどんどん変化していくので、自然と切れていく縁もある。

かつては気の置けない友人・恋人として深く繋がっていたとしても、お互いの状態が変われば自然と離れ離れになる。

そのときお互いにとって何か意味があって、時を共にする。

 

正直、かつて仲が良かった人と疎遠になり、さらにはあからさまに拒絶されていたりすると、しゅんとする。

自分が悪いワケでもなく、相手が悪いワケでもないので、特に誰かや何かを責める必要はないのだが、「そっかー、残念だな」と思う。

でも、その次の瞬間には、すっかり忘れて楽しく過ごしている。

 

私は最近「嫌うこと・憎むことに執着しなくなった」と気づいた。

おそらく理由は2つある。

ひとつは、ACとして12のステップを踏み、日々棚卸しを続けていることによる変化だと思う。恨みや憎しみは、書き尽くせるだけ書き尽くした。語りつくせるだけ語りつくした。負の感情を自助グループという安心安全の居場所で吐き出しつくしたので、今がある。

一度表に出さないと、手放すことは難しい。それが何であれ。内に秘めて隠している限り、それは火山のなかで轟々とうねる溶岩のように熱を帯びたままだ。

噴火して、自分の身を焦がしてでもある程度まで吐き出して、ようやく沈静化する。

それと同じだと思う。

もうひとつは、他人の価値観と他者の評価にタッチしようとしなくなったことだ。

私はACとして「過剰に発達した責任感」「世話焼き」「見捨てられ不安」「コントロール」「権威ある人を恐れること」「承認を求めようとすること」などの問題を抱えていたし、今も名残があると思っている。(※これらの問題に興味がある人は、過去記事「12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録」シリーズで詳しく解説しているので、お手数をおかけしますがこちらから遡ってご参照ください)

しかし問題を自覚したことによって、かつてのようにACとしての歪んだ衝動によって盲目的に強烈に突き動かされることが少なくなった。

第三者が評価するかしないかに関わらず、あらゆる存在には一定の価値があり、それは薄っぺらい金銭的・実利的な指標で量れるものではないことを理解した。

客観とは主観から構成されている。結局は主観の集合でしかない。そして他人の認識は、他人の問題であり、他人のものだ。完全に正確な客観的評価というモノは存在しない。

私たちは「他人にどう思われるか」をまったく気にしなくていい。「他人のなかの自分像」というのは、他人のとらえ方の問題で自分の問題ではないからだ。

私が他人を自分のフィルターを通してしか認識できないように、相手の認識機能にも限界があることを受け容れること。その受容が落ち着きとなる。

相手を変えよう、というのは傲慢なことだと知る。

相手には相手の価値観があり、他人がどう私を評価するかは他人に権利があり、他人の問題でもある。そしてたとえば「他人の家の庭の雑草が手入れされているかどうか」が私にはあまり関係ないように、たいした問題ではない。

同時に、他人の評価や価値観は違う宇宙の事象であり、アンタッチャブルなのである。

 

去る者は追わず来る者は拒まず。

お互い、好きなように人生楽しく生きればいいんじゃない?

 

そんなふうに思っている。

憎しみを抱いて執拗に攻撃するような状態は、特定の人物に異常な好意を寄せる状態と似ている。どちらもどこか心を病んでいるだけなので、そんな態度を向けられて「少し嫌だな」と思ったら堂々と距離を取るのがよい。

権利を侵害したり、境界線を侵害したり(暴力や支配など)する人には、毅然とNOを突き付けて、堂々と距離を取るのがよい。

相手を変えようとしてはいけない。

相手を変えることはできない。

変われるのは、相手が変わりたいと思ったときだけ。そして「変わる」というのは、相手自身にしかできない仕事だ。私たちの仕事ではない、相手に任せよう。

私たちにできる事はせいぜい、素直に落ち着いて意思を伝え、必要とあらば距離を取ることくらいのことだ。だから、実はとてもシンプルなのだ。

その結果、出会いがあれば別れもある。

嘆くようなことではなく、受け容れることであり、自然で必要な変化でもある。

無理して繋ぎとめておこうとするほうが不自然で、いずれそういう縁は腐れ縁となり、己を縛る腐り(鎖)となる。

あなたはあなたのままで、正々堂々と生きているのが一番良い。

そうやって生きていれば、ちゃんと必要なものが、必要な分だけ、あなたのもとに用意される。

【発達障害】あんまりイライラしなくなった話

今までわけもなくイライラしていることがあった。

どうしようもない些細なことで、機嫌が悪くなることがあった。

最近はそれがない。なぜなのか。

おそらく3つの要因がある。

 

発達障害を受け入れたから

私は成人するまで発達障害(ASD・ADHD)と診断されずに人生を生きてきた。

生きづらさはたくさんあった。でもそれは「甘え」だと言われて叱責された。

・時間通りに目的地につけない

・忘れ物をする

・興味のないことに集中できない

・他人とのコミュニケーションをどうしてよいかわからない

・素直に本音を言ってしまって嫌われる

・好きなことを丸一日ぶっ通しでやってしまい怒られる

・過集中状態で話しかけられても気づかず怒られる、無視したと勘違いされる

こんなことが日常茶飯事だったので、クラスメートからいじめられ、家でも怒られ、本当に死にたかった。

「普通」であれと言われた。

必死に矯正した。

他人を観察し、反応を模倣し、とにかく周りから異質だと思われないための努力を積み重ねた。

他人から好感を持たれる所作、他人に攻撃されないためのキャラクターづくり、そんなことばかりしていた私の青春時代。

幼少期から青年期にかけて、私は私を偽るために、人生のほとんどのリソースを割いてきた。

それによって今、社会生活を何とか営めるまでに己を訓練でき、合わせようと思えば合わせられるようになった。

無駄ではなかった。

でも必要なかった。

私は、私を偽って外的脅威から身を守る生存戦略を確立する裏で、巨大なストレスを抱えるようになった。

私の生き方そのものが「私は私らしく生きていてはいけない」という呪いになった。

それは外的脅威よりも己を蝕んだ。自己否定は自信を奪う。より周囲に迎合するようになっていく。悪循環だった。

 

唯一の正解は、私が私らしく生きることだった。

他人の評価や好き嫌いは、実は全く関係なかった。彼らの問題にすぎず、私が気にすることではなかった。

そんなことのために貴重な10~20代を費やす必要はなかったのだ、と今ならわかる。

しかし、わかるために私の無駄な努力は必要だった。無駄ではない無駄だった。

 

そうやって、過去の自分が必死にやってきたこともひっくるめて、「自分が思うとおりに素直に生きていいんだ」と他ならぬ私が私にOKを出せてから、他人にイライラしなくなった。

なぜか?

「私だって我慢しているのに」と、自由に楽しく自分の人生を生きている人を妬ましく感じたから。

本当はそれが最もやりたかったことで、でもそんなふうに生きてはいけないと思っていたから。

全部、自分が禁止していただけだった。私も自由に生きてよかった。

そう思ってから、他人の人生に口を出さなくなった。

私は私の人生を一生懸命生きることに集中できるようになった。

 

仕事と距離を置いたから

雇われている人にとって、職場とは、自分らしく生きられない最低の場所だと思う。

私はサラリーマンに向いていない。20年近く勤めてみてやっとわかった。

組織の一員として、没個性的であることは、前段で述べた私の若い頃の生き方にそっくりだ。

周りと違うことをしない、ルールを守って良い子ちゃんでいる、言うことを聞いて褒められるのを期待する。

全部、間違いである。それは人間の人生ではない。奴隷の人生である。

私はそのことに気づいて、組織に肩入れするのを一切やめた。

結局は生活費をねん出するために会社という仕組みを利用しているにすぎない。

あちらも、利益を生み出すために労働力として人間を利用しているにすぎない。

そんな損得勘定に基づいたドライで価値のない関係性に入れ込む必要はないのである。

 

そして、驚くべきことに、多くの企業は社会のことなどまるで考えていない。

自分たちの利益を追求すること。それが会社という組織の目的で、それが資本主義社会では正義。

だから、そんなにまじめにやる必要はない。

誰かのためになる、なんて幻想でしかない。金のためである。

そんなもんなんだ、と理解したので、組織内での評価はどうでもよくなった。所詮は、もっと熱心に奴隷をしてくれるように仕組化された評価制度であり、仕事が評価されたから人間としてレベルアップするわけでもないし、何かを得られるわけでもない。

むしろ、現代社会で認められるというのは、人間として下劣であることの証明だと思っている。

損得しか考えない、心が死んでいる素晴らしい奴隷。そのなかでもトップクラスのクズです。

そう言われていると思って差し支えない。

 

 

薬をやめたから

「学校の成績が良くなり進学ができる」

児童精神を診ている発達障害専門の医師が、これをゴールに掲げていると言ったら、みなさんはどう思うだろうか。

私は、ゴールを間違えている、と思う。

義務教育学校は、国がこしらえた奴隷養成施設である。

そこで成績が良くて、何が回復なのだろうか。

学歴社会に置いていかれないようにするなんて、どうでもいい。

そもそも学歴社会が破綻しているのだから。

このような「専門家」が、訳知り顔で医療行為と称して子供のユニークな個性を殺し、奴隷に貶めているとさえ思う。

 

たしかに学歴は新卒採用時に有利なカードとして使える時代があった。

私が就職活動をしていた時代などは、学歴で足切りがあった。

しかし今の時代、グローバルで考えると、東大を出ようがFラン大学を出ようが、あまり学校の価値に差はない。

エントリーシートに学歴を記載する欄を設けない企業が増えてきた。

学歴より経験。何をしてきたか、何を感じたか、が重要になっている。

「学校の成績が良く難関大学に合格できた」

これは、先生の言うことを聞くことで内申点を稼ぎ、親の言うことを聞くことで自分で考えず準備されたレールに乗り、嫌だと思うことをやれと言われたから一生懸命やった、という意味である。

つまり「私は己を殺して命令を遂行できる、優秀な奴隷です」と自己アピールしている。

そんな歯車はもうこの世に腐るほどいる。そしてそのような鉄の檻から出られない没人格化した人間が、社会をダメにしている。

だから、発達障害にかかわるうえで本来重視すべきは、その子の「好き」を奪わないこと、義務教育という型にはめないこと、その子らしさを受け容れてどう生きていくか一緒に考えること、だ。

そう考えると、特性をあえて打ち消すようデザインされた医療用医薬品を投与すべきではない。

二次障害としての気分障害や不安障害は、一時的に介入する必要があるかもしれないが、それも早期に減薬・断薬して、本来の自分で生きていくことを大切にすべきだと思う。

本人ではなく社会が変わらなくてはいけないが、そうそうこの腐った社会は変わることはないので、ある程度の落としどころをつけつつ、その人らしい人生を応援する。

医療用医薬品はそのためにつかうドーピングであり、それが必要ないほど人生観が確立してくれば、必要ない。

なので、私は抗うつ剤もやめ、ADHD治療薬もやめた。

それで今一番調子がいい。薬を飲んでいた時は、イライラしていた。

 

私がイライラしなくなった背景は、こんな感じ。

【AC】生きてるだけでえらい

「生きてるだけでえらい」

こう言われて、あなたはどう思うだろうか。

そんなわけないじゃないか、と思うだろうか。

私もそう思って生きてきた。

 

なんだか馬鹿にされたように感じることもあった。

「お前は生きているくらいで能力の100%なんだから、身の程をわきまえろ」みたいなニュアンスでとらえるくらい、私の心は歪んでいた。

というより疲れていた。自分の状況をを他の人のそれと比べて責めていた。

 

「生きる」というのは、基本的に苦しい。

つらくてくじけそうになることが多い。

他人はうっとおしいし、仕事はつまらないし、世の中に流通するありとあらゆる商品やサービスが毒である。

やりたいことを考える前に、やらなければならないことが雪崩のように押し寄せて、身動きが取れなくなる。

「やりたいことをすればいい」なんて言われても、それすら埋もれて見えなくなっている。感じようにも感じられない。わからない。

世の中でもてはやされているのは「ポジティブ思考」で、「生きていたくない、生きるのがつらい」なんて言ってはいけないような風潮だ。

なんとなく禁じられているように感じて、抱えた暗い気持ちを誰にも話せないまま、外側はポジティブであるかのように振舞う。そうやって、少しずつ心が狂っていく。

とても共感できる感覚だ。私はそういうふうに世界が見えていた。

 

「みんな頑張っているのだから」

「私より苦しい人も貧しい人も大勢いて、それなのに今日を生きているのだから」

そうやって、居もしない他人と比べて自分を叱咤激励していた。

私は私の限界以上に頑張っていたと思う。

だから無理が祟った。アルコール依存症になり、うつ病にもなり、睡眠障害にもなった。

みんなって誰だ?

私より大変だから、私の苦しみは軽いのか?

そういう疑問を持つことすらよくないと思い、蓋をした。

蓋をしたその思いを飲み下すために、酒を浴びるように飲んだ。

アルコールで意識を失いたかった。願わくばそのまま消えたかった。

 

あなたも、充分に頑張っていると思う。

他人は他人でしかない。自分と同じではない。

生物学的分類が同じだけで、感じ方も違うし、ポテンシャルも違うし、生きてきた背景も違う。

全然違う存在だ。

そんな違う存在が何かを成しているからと言って、私たちも同じことができるわけではない。

「働くのが当たり前」というのは国がそう決めているだけで、働くなんてできない人も当然いる。

「社会人だから当たり前」というのも、世の中という幻想が求めている虚像であって、社会人である必要はない。実際、年齢を重ねても精神的に幼いひとはいる。結構すました顔をして生活しているけど、ちゃんと人生に向き合っている人はそんなにいない。

何かに依存し、誰かに依存し、見て見ない振りをして、なんとなく生きている人が大半だ。

たまたま経済的に恵まれて、チャンスに恵まれて、五体満足で生まれたから、たまたまそれっぽく暮らしているだけ。

私もその一人だと思う。

何か一つでも欠けて、何か一つでもすれ違っていたら、今この生活はなかったかもしれない。

それくらい今というのは、初冬の湖に張っている薄氷のように危なっかしい。でもそれに気づいてしまうと恐ろしくて前に進めないので、みんなその事実を認識の外に追いやる。そしてなんとか生きている。

 

私は社会に出るまで、大人というのはとても崇高で、あたかも全知全能の存在のように思っていた。

社会的地位のある人というのは、人徳を備えた質の高い人間だと思っていた。

しかし、それは大いなる勘違いだった。

大人はそんなに大したことがなかった。体が大きいだけで、基本的に頭は良くないし、感性も鈍い。

社会的地位がある人などは、それがよりひどくなったようなものだった。人の痛みをあまり感じないので金儲けに特化しやすいだけだったり、他人に褒められたい欲望が強いから汚いことができるだけだったり。

社会で認められる、というのは、あまり名誉ではないことを知った。

「社会で認められる立派な人になれ」という両親や教師の教えは、全くの間違いだった。

こんな狂った社会で認められる人は、立派でもなんでもない。

人をモノのように扱うことができる、幸運な人でなし。それに成れと言われていたのか、と思う。私は絶対になりたくない。

 

この社会は、基本的に狂っている。

働いても働いても生活は苦しいままで、それは一部の権力者が美味しい思いをするために仕組化されているから。

国民の生活をより良くしようなんて思っている施政者などいなくて、私腹を肥やし自分たちのお仲間だけが裕福ならそれでいいと思っている。

そういう真実から目を背けさせるために、酒を売ったり薬を売ったりゲームを売ったりコンテンツを売ったりする。

何かに依存させて目隠しをするついでに、さらに絞り取ろうとしているだけ。

そんな修羅の国、日本。世界もそうか。

 

そんな地獄のようなところで、あなたも私も、よく生きていると思う。

よくぞ生き延びた。今まで。そう思う。

「生きてるだけでえらい」というのはそういう意味だ。

寄ってたかって殺そうとしてくるこの社会で、何とか今日も生きている。

それは、とても難しいことだ。

とくに、自分に素直で真実から目を背けられない、純度が高く上質な人間性を持つ人であればなおさら。

精神を病む人というのは、敏感で繊細だから、この地獄をまともに見てしまうので、疲れ果てるんじゃないかと思う。

この狂った社会で病まないほうが、狂っている。

ちゃんと病んでいる私たちは、正常だと思う。

病んで動けなくなるくらい、本物の人間にとっては、この世はきつい。

 

疲れ果てて仕事ができない時期があってもいい。

学校に行きたくなくなるなんて、正常な反応だ。

活躍している他人と自分を比べて落ち込んでしまう必要はない、彼らは狂っているのだから。

何の役にも立っていないなんて、思わなくてもいい。役に立つ必要はない。いるだけで世界の役に立っている。存在しているというエネルギーは計り知れない。糞をするだけでバクテリアの役には立っている。人間が認識できる「役割」なんてごく一部。それに当てはまらなくても一向にかまわない。

つまり、「義務」など、あるように見えて、何も無い。

抱えている「○○しなくちゃいけない」は、実はしてもしなくてもいい。しなくちゃいけない、と思っているだけ。

唯一「義務」があるとすれば、「全力で味わうこと」だ。

喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、体全部を使って心全部で受け止める。

それだけで、100%よくやっている。

そして、それが「生きる」という行動そのものでもある。

生活していくとか、結果を残すとか、そんなものはオプションに過ぎない。

全力で今を感じる。表現する。伝える。

対面している生命をよく見聞きする。できるだけわかろうとする。

最もこれを徹底して実践しているのが、こどもだ。

子どものように、純粋に今を全力で味わう。原点回帰。

大人になるというのは、この原点を忘れる、と言うことに他ならない。

大人になんてならなくてもいい。つまらない。

つまらないことはしなくていい。

100点満点は既に達成されている。生きてるだけでえらいんだから。

それ以外のことは、追加のオマケである。

【依存症】ありのままの自分

ありのままの自分でいるのは楽じゃない。

そもそも、ありのままの自分がわからなくなっている人のほうが一般的だろう。

この現代社会では。

 

周りに合わせてヘラヘラしながらなんとなく過ごしているほうが、楽だと思っていた。

でも、これも結構楽じゃない。

自分の本当の気持ちを裏切って生きていると、どこかで必ずそのツケは己に返ってくる。

心身の不調をきたしたり、他人に些細なことであたってしまって、関係が悪化したり。

自分への裏切りは、必ず自分に返ってくる。そして苦しくなる。

 

どちらにしても楽じゃないと考えると、自分らしく生きるほうがマシだ。

他人と違っても、損をしても、他人に何かを言われたとしても、自分の本心に従って決めたことなら、結果がどうであれ受け入れられる。納得できる。

 

「これを言わなきゃ嫌われなかったかも」

「態度に出さなければ気を遣わせずに済んだかも」

などと思って他人の顔色をうかがいながらビクビク生きてきたが、いいことはなかった。

そうやって自分の判断や決定を他人軸で考えるとき、結果を他人のせいにしている自分がいた。

「私は本当はこうしたくなかったけど、○○さんがさせてくれないから」と誰かに責任転嫁して、自分で決断することから逃げる癖がつく。

だから、なんだか自分の人生なのに、どこか他人事になり、空虚で飢えやすくなる。

余計なものを買ったり、余計なものを摂取したり、自分を安売りして求められようとしたり、何かでその虚しさを紛らわせようとして、さらに孤独の色が濃くなる。

 

私は小さい頃から「自分そのままで生きていては社会に受け入れられない」という思い込みを続けてきた。

それは親から「周りの子みたいにおとなしく良い子でいなさい」と比較されながら育てられたことや、クラスメートから「お前は変だ」と言われていじめられてきたことに起因している。

うまく擬態して、うまく周りのように空気を読んで、異質だと認識されないように、隠れるように生きる。それが「ちゃんとした社会人」であり、賢い生き方だと思って必死に頑張った。

けれども、得られたのはアルコール依存症という病名だけで、最終的にはにっちもさっちも行かなくなった。

毎日が「消えていなくなってしまいたい」であふれていた。いつも死にたかった。

生きることは苦しいことだった。こんな苦しいこと、80年も継続するのは不可能だと思った。

 

親の接し方はまずかった。親を許す必要はないし、クラスメートにも恵まれなかったと思う。

それはそれで私の中の事実。

しかし、その不運を引きずって生きるか、受け容れて生きるか、は選べる。

もう親の扶養のうちにいるのではないし、クラスメートはもういない。

これからの生き方は、今ここからの自分が決められることだ。

今は、自分で決められる。自分で決めていい。

それを「過去にこうだったから」「親に言われたから」と放棄するのは、ありのままの自分を生きたいという本心を裏切っている。

誰のせいでもなく、自分で自分を裏切っている。誰かのせいにして、怖いから逃げているだけ。

 

私の場合はアルコールが唯一の逃げ道だった。

アルコール依存症になって、まともに出社できなくなり、問題を起こして懲戒解雇になりかけた。

親に電話してそのことを恐る恐る伝えたとき、親は「そんなふうに育てた覚えはない、そんなのは私たちの子供じゃない」と言った。

そのあたりから「自分の人生は自分で決めないとダメなんだ」と悟ったように思う。

 

この人たちが求めるように、指し示すとおりに、歩んできたつもりだった。

いい学校に行き、いい会社に行き、良い子でいようと無理をし自分を殺して生きて。

その結果、報いていたはずの親から拒絶されるのなら、私が良いと教えられてやってきた何もかもは、実はとことん間違っていたんじゃないかしら。

そう思った。

この人たちは親だけど所詮は他人だ、私の人生の責任を取ってくれるわけじゃない。

あれこれ口は出すし手も出すけど、結局望むカタチにならなかったらポイっと捨てる。

それなら、言うことを聞く必要なんてなかったんじゃないか。

口を出されても手を出されても、その邪魔をはねのけて、したいようにやればよかったんじゃないか。信じるようにやればよかったんじゃないか。

そう思った。

 

どうせ生きるなら、自分で思うように生きよう。

それで選択を間違って途中で死んだとしても、自分で決断して選んだ道なら納得できる。

むしろ、自分で選んで間違うことが重要なんだ。それが血となり肉となる。

いつでも正しく在れるわけではないこと。

いつでも正解が用意されているわけではないこと。

自分にはどうしようもないことのほうが、世の中には多いこと。

そういうことを実感してはじめて、人は本当の意味で他人を尊重し、よく見聞きすることができるようになる。

自分でやって初めて、他人がやっていることにも共感できるし、間違いを許せる。

自分らしく生きることは楽ではないが、楽しい。

他人の言いなりになって、呪縛に縛られたままで生きるより、段違いに楽しい。

どうせ楽ではないのだ。楽しいほうを選ぼう。

楽しむために生まれてきたのだ。生まれた意味などないが、せっかく生まれたのだから楽しむべきだ。人生は仕事ではない。

 

同じように生きてきた、まじめで不器用な「いい子ちゃん」に届くといい。

不良で構わない。不器用ならなお結構。人生はもっと面白くできる。あなたの手で。

【AC】他人を見下さないって難しい

他人を見下さないって難しいな、と思う。

私の「私は正しい」という思い込みは根強い。

なんか反省した。

 

対等でアサーティブなコミュニケーションは簡単じゃないなぁ、と常々感じる。

 

「正しい」「間違い」はなく、ただそれぞれがあるようにあるだけなのに、正しさで白黒つけてしまう自分がいる。

妻はそのバランス感覚がすばらしく、白黒つけずに「そういう考え方なんだね」とある程度聞き流しながら上手に会話をさばいていると感じる。

それが、私にはまだまだできないんだよなぁ。

 

他人が、自分の中では一度検討し解決済みの問題を抱えていたりすると「なんだ、まだそんなところにいるのか」と、見下す気持ちがわいてくる。

他人が、自分と異なる意見を持っていると、自分が正しいという無意識の大前提にのっとり他人の意見は「誤り」であると断定し、なぜそんな間違いをするのかという原因分析的な思考回路でその人の発言を聞いていることがある。

 

自分が正しいかどうかなんてわからないのに、実に傲慢なことだ。

あくまでも「私としてはこう思う」というだけで、正しさなんてどこにもないし、何の保証もありはしない。しかし、私は自分が考えたことがこの世で一番正しいと思う節がある。

 

こんな気持ちを持っていたら、アサーティブなど程遠い。

会話する前から対等ではない。姿勢が対等でないと、相手は話始められない。私の話も相手の心には届かない。

 

変えられないものを受け容れる落ち着き、変えられるものと見極める賢さがまだ甘いんだろうな、と思う。つまり、私の課題だ。

相手はそう思う、私はそう思わない、ただそれだけで、そこに上下はない。

やりたい人はやればよく、やりたくない人はやらなければいい。

たとえば会社や組織なんかでは、組織運営の観点で方向性を統一したがるので、やりたくないからやらない、では軋轢が生じるケースが多い。

その場合は、取り入れるにしろ「ここまではやれる」という範囲で良いし、逆に言えば「ここまでしかできない」ということを率直に伝える必要がある。

要は、自分の判断や決定を捻じ曲げられるのではないか、という恐れを抱いているから、見下して相手という脅威を矮小化したがる。

これは、実際の経験が影響している。

幼少期は親という権威に自分の判断や決定を軽んじられ、敷かれたレールの正当性に反駁できず従わざるを得なかった。それによって、私は多くを失い、大きな怒りを抱えることになった。

成人してからは会社や上司という階級構造に取り込まれ、巧みに会議という場で合意を取り付けられ、やりたくもないことを一生懸命やる羽目になり、苦しんだ。

その苦々しい体験たちが、私に警告を発するんだろう。

「気をつけろ!ぼーっとしているとまた正しさを振りかざしてやり込められるぞ」と。

相手に私の素直な気持ちを騙され変えられてしまう、という恐れと不安。

 

私はとことん、他人の思い通りに動かされるのが大嫌いだ。

私が納得したうえで方向性が同じだから一緒にやろう、ならいいが、納得を置き去りにして力関係や上下関係や労使関係でやれと言われると、絶対にやらない。というかやろうと思ってもやれない。酒の力を借りて頭をラリらせて無理やりやった結果、精神疾患のデパートみたいになったから、もう二度とやらない。

やりたくなくてもやるのが大人、という考え方を耳にしたことがあるが、それは奴隷としての最適化であって、大人でも何でもない、と私は思う。

そうやって自分の気持ちを殺して生きるのが大人なら、大人になんてならないほうが正解だ。

私は、私の意志で、私の納得するように生きたい。

そうでない生き方がどんな末路をたどるか、経験してきたからだ。そのせいで一度死んでいる。もう一度拾った命で第2の人生を歩んでいるのに、なんで同じ死に方せにゃならんのだ。絶対にヤダ。

とにかく人に使われるのは向いてなさすぎる。サラリーマンなんて、自分でもよくやっていると思う。

まぁ、そもそも集団で行動のベクトルを揃えようとするから軋轢が生じるんだけどなぁ。

そもそもが組織化すること自体不自然で、ストレスがかかるもので、人と関わらなければ何かを成し遂げることができないこの世の摂理を呪いたくもなる。

 

しかし、生きとし生けるものすべてが、単独では存在しえず、うまいこと間を取って手と手を取り合って生きていかなくてはならない。それは存在そのものを通じて「異なる意見も自分の意見と同様の重みをもつ現実」を顕在化していると思う。

折り合いをつけて、心がいつも真ん中で、相手も自分もまるっと受け容れて。

どこに偏るでもなく、こだわりすぎるでもなく、でも納得して穏やかにいられる。

そんなふうに自分をポジショニングしていけたらいいな、と願う。

相手は変えられない。相手が私を「コントロールしよう」とすることも変えられない。相手の課題だから私の範疇を超えている。

私にできることは、Noと伝えることと、代替案を提示すること。できることとできないことを率直に丁寧に伝えること。

相手が相手らしく在っていいように、私は私らしくある権利があり、道を違えたとしても誰も悪くはなく、どちらが正しいのでもない。

運よく同じ方向を目指していけるとしたらそれは素晴らしいことだし、そうでなくてもまたしかたのないこと。

この辺りはゲシュタルトの祈りに似ている。

I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.

わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことだ。

「ゲシュタルトの祈り」

 

そのためにも、サラリーマンは良い環境ではないかもしれん。

常に金、金、金。

雇う側は金で圧力をかけて雇われる側に言うことを聞かせようとする。

会社という組織では、アサーティブは無理だと思う。

話す相手がすでに上から来ていてアサーティブとは根本的に程遠いのに、こちらだけアサーティブを貫くには無理がある。アサーティブでいない権利も、私たちはそれぞれが持っている。

私は私ができる時だけ、できる相手だけにアサーティブでいて、他とは距離を取るしかない。

つまり私にとっては、「会社」というコミュニティーにはあまり関わらないのが一番だ。

 

まあ、資本主義社会では、常に金の呪いにつきまとわれるので、この社会そのものに向いていないともいえる。いえるけど、そういってしまうともう死ぬしかなくなるから言わない。

できるだけ影響が少なくなるように、また、お金から距離を取って生活できるように、独立の準備に勤しもうと思う。