【仕事】もう営業やりたくない

私はもう営業職を楽しいと思えなくなってしまった。

ものすごくつまらなくて虚しい。

14年間やってみて、私が本当にありたい姿ではなかったとわかった。

営業というのは、きれいごとをいくら並べようと売上がすべてである。

売上を上げるために、他人に要らぬ過干渉するのが仕事である。

良いものは自然に売れる。自然に売れないということは「どうでもいいもの」だからだ。

「どうでもいいもの」に価値があるかのように見せかけて、金を引き出すのが、営業の存在意義と言っても過言ではない。

自分の目的(給料や社内ポジション)のために他人を思い通りに動かそうというのは、実に浅ましい態度である。

もはや歩くコントロール欲求。コントロールを手放すどころの騒ぎではない。全身全霊でとらわれまくりである。

ある種のゲームとして、この仕事を楽しめる人は実在していて、そういう人種にとってはこのうえなくやりがいのある仕事なんだと思う。

手練手管を尽くして、数字というわかりやすいゴールに向かって試行錯誤し、報酬を勝ち取る。心の底では他人がどうなろうが知ったこっちゃないと思える自己中心性がないと、このゲームに没頭することは難しい。

横並びに比較されてランキング形式で競わされる。承認欲求を満たすために「成果出そうレース」に人生のリソースのほどんどを投下する。ほかのプレイヤー(同僚)の上にいるとか下にいるとかで一喜一憂する。

なるほど、営業職というのは、ゲーム依存・SNS依存を構築する要素がふんだんにちりばめられた、依存性の高いゲームだと言える。

①結果の不確実性(ギャンブル要素)…あたかも再現性のある成功方法がありコントロールできるような錯覚を起こすが、そんな法則はない。そもそも相手ありきのゲームなので、コントロールできない。アウトカムは運次第。ギャンブル要素があると、人はその不確実性にのめりこみやすい心理構造をしている。

②ランキング形式…常に他人と比べられると、ひとは危機感を煽られ、緊張状態に陥る。実際は環境も条件も全く違うので比較に何の意味も価値もないが、人事評価・報奨金というニンジンをぶらさげることで存在価値とリンクしているように錯覚させる。他人より優れていたい、という承認欲求を巧みにくすぐり、ゲームに没頭させる。

③チームプレイ…江戸幕府が強制施行した庶民の隣保組織「五人組」のように、必ずチームで行動させ連帯責任を負わせる。これにより、連帯責任を発生させてゲームにある一定の力を注がざるを得ないような同調圧力を発生させる。特に日本では同調圧力が強力なので、途中でやめにくく、力を抜きずらくする。激務で鬱積したルサンチマンは結果を残せなかった同僚を迫害することで発散させるので、支配層にとっては組織運営もしやすい。行政官僚制の計算可能性を実現するための支配構造。

すべて、GAFAMやオンラインゲームがやっていることと同じ。

「いかに課金してもらうか、いかに長くプレイしてもらうか」を考え抜いて実装した、人類史に基づいた本能に訴えかける彼らのシステムと酷似している。

「いかに会社のために人生の時間的リソースを割かせるか、いかに仕事だけをさせるか」がよく考えられているのが「営業職」であり、社畜化しやすい職種だということ。

今まではそうしたデジタルでの依存性コンテンツが存在しなかった。男たちは、アナログの「仕事という依存性の高いコンテンツ」に没頭してきて、それを社会的に良しとされてきたので、基本的にワーカーホリックだらけである。女性から見て男がガキっぽいのは、ビジネスマンなんて所詮ゲームばっかりしているガキみたいなものだからだ。

そんなのに囲まれていると、頭がおかしくなりそうだ。

自分の人生に向き合わず、ゲームばっかりやっている子供の群れ。しかも、同じようにゲームに熱中しろと口うるさい。好きでもないMMORPGに毎日ディスコードで呼ばれてやりたくもないクエストに参加させられる気持ちを想像してみてほしい。反吐が出るだろう。

なぜ私がこのゲームを楽しめないかというと、短絡的で自己中心的で底が浅いからだ。

他人に勝ってうれしい。

認められてうれしい。

お金がたくさんもらえてうれしい。

この3つの「うれしい」を嬉しがるくらいしかやることがない。

他人のため、社会のため、なんて建前で、誰もそんなことは思っていない。

ただただ自分のためでしかない。

それが私にはつまらなすぎる。

他人に勝ってうれしい?は?なんじゃそりゃ。

他人と自分の価値は比べるべくもなく、それぞれがただそれぞれにあるだけ。エリートたりえたのは運であり、資本主義社会における実力とは虚構。すべては運のうちだ。たまたまいい大学に入れる経済力を持つ親の元に生まれて、たまたま五体満足に生んでもらって、たまたま今の成果っぽいものが与えられているだけ。それを自分の力だと思いあがるのは、精神的に未熟だからだ。

認められてうれしい、というのも、失笑ものである。

価値を他者評価にゆだねた時点で、自分の人生を他人に譲り渡したようなものだ。第三者評価はいかにも客観的で合理的な評価のように思うだろうが、結局は誰かの主観であり、自分の価値を規定するのは自分以外にありえない。つまり、他人がどう思おうが、本人の本質的な存在価値に何の影響も及ぼさない。一ミリも関係ない。だから他人に認められるかどうかは大切なことではない。馬鹿にされることも、差別されることも、他人の認知の問題であって、本人の尊厳を少しも傷つけることはできない。

お金がたくさんもらえてうれしい…

代えのきく使い捨ての歯車に成り下がって、ケツをなめ靴をなめ、その人生を小銭に変えられれば満足なのか。なんとも殊勝な心掛けだ。涙が出る。貨幣は結局それそのものに何の価値もない。金銭的な価値基準にとらわれている限り、本当にあるべき姿は見えてこない。私はお金は最小限でいいので、もっともらおう、たくさんもらおう、他人より多くもらおう、とは思えない。そんなくだらないことのために人生の時間をたくさん使いたくない。

ここまで書いて気付いたのだが、私は営業をもうしたくない、という背景に、お金儲けはもうしたくない、と思っているらしい。

とにかく金と資本主義社会での労働から遠ざかりたい。

生物としての営みに集中したい。

まったく無駄な時間だ。金儲けのための労働時間というのは。

本質的なことは近代化の真逆のベクトルにある。

科学が今まさに信頼性を失いつつある。

これから社会がもっともっとゴミになれば、もっともっと人そのものが輝く。

生命としての輝きであり、知的生命体としては哲学が道しるべとなる。

美しい輝きと、その奇跡に対する愛と感謝。それを全身で味わいながら生きて、死んでいきたいのだ。

そのためには、ごちゃごちゃと邪魔くさいものがこの世には増えすぎた。

金にまつわる欲と罪で雁字搦めになっている。生きづらいったらありゃしない。

もっとシンプルに、生きたいように生きるべきだ。

自分で田畑を耕し、周りにあるものや命に感謝して、自然にあるものを少しだけいただきながら、生きていることそのものに思いをはせる。

私はやはり宮沢賢治のような生活にあこがれる。物質的・経済的な豊かさより、精神的な豊かさが最も重要だと思う。

とにかく仕事はできるだけ最小限にして、資本主義経済社会に頼らない生き方にシフトすべく、鉄の檻の外側でいかに快適に生きていくか模索を続けていきたい。

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