【メンタル】今を生きる

信じられるものがない、そんなつらい世の中ですね。

哲学者ニーチェはかつて「神は死んだ」という名言を『ツァラトゥストラ』のなかで残しました。

ここでいう「神」とは、「真理」などの絶対的な価値のことです。

絶対的で普遍的な価値など無い、そうニーチェは言っていたんですね。

 

不安と恐れが他人を求める

たしかに、それはそうだと思います。

唯一絶対な存在とか崇拝すべき対象なんてのは、この世には無い。

もしそれがあると信じているとすれば、それは宗教という一つの依存のかたちです。

宗教を生きる拠り所にすることに、私は異を唱えません。

それは、誰もが何かに依存して生きているからで、それが人として自然なことだからです。

 

その価値観を自分のなかでのみ大切にしている分にはいいのですが、他人に押し付けてしまうと、それは話が違ってきます。

他人には、他人の生き方があります。

自分が信じているものを他人にも信じてもらわないといけないと思うのは、不安だからです。

本当に信じていいのかどうか心の底では自信が持てないので、他人も信じているという後ろ盾が欲しいから、仲間に引き込もうとするのでしょう。

ゆるぎない信仰であれば、同じ信仰を他人に強要する必要がないですもんね。

「いいものだから教えてあげたい、私は他人のためを思って勧めているのだ」という人もいるのですが、自分が持っている価値観が絶対だと思っている時点で、見誤っているといえます。

他人には、他人の価値観があります。

違う価値観も「そういう考え方もあるよね」と受け容れられないというのは、狭量な世界観に自分が閉じこもっているからです。

 

科学

科学も、絶対ではありません。

エビデンスがあるからと言って、本当にそうだとは限らない。

「どうやらそうらしい」という確率を計算しているだけで、ひとつの可能性でしかない。

マスクの是非やワクチンの是非を、SNS上でやり取りしているのをみると、とてもやるせない気持ちになります。

私はマスクには意味がないと思うし、ワクチンは打たないほうがいいものだと思います。

反対に、マスクもワクチンも必要だ、と思っている人もいると思います。

結論としては、お互いに好きにすればよろしい。

したい人はすればいいし、したくない人はしなくていい。そもそも任意なのですから。

それを「こっちのほうが正しい」「いやこっちが正解だ」と言ったところで、永遠に平行線です。それぞれに信じている宗教が違う、住んでいる精神世界が違うのだから。それぞれが信じる「正しさ」でマウントを取り合っても、溝は深まるばかり。

ネット上での不毛な争いに熱中して、自分の人生を置き去りにしている人がたくさんいるなぁ、と思います。

 

権威

権威というのも、本当にあてにならないものです。

私はAC(アダルトチルドレン)として、権威を恐れてきました。

 

過去記事【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)

過去記事【AC】「権威ある人を恐れること」を受け容れて見えてきたこと

 

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

 

正しさへの固執。

社会的に認められることへの執着。

その根本には、自分が不適当で、無能であるという思い込みがあります。

自分が抱えている不安と恐れが、他者評価を絶対的価値と勘違いさせます。

他人から見た自分のほうが自分が見ている自分よりも大切で正しい、という思い込みとも言えます。

客観的に、とよく言いますが、客観も主観の一つでしかなくて、結局は誰かの目を通じてしか物事をとらえることはできません。

主観からは逃れることができない。それが、私たちの限界です。

 

社会で認められていれば、立派で偉い人でしょうか。

社会的地位のある全ての人が、徳を備えているでしょうか。

そんなわけないですよね。

むしろ、逆なんじゃないかしら、と思う今日この頃です。

私は、この社会は狂っていると思います。

その狂っている社会に認められているということは、その人は「しっかり狂っていますね」という証明なのではないかしら。

狂っているかどうかはともかく、社会的評価というのは、集団的自意識が主観的に判断する一つの切り口でしかなく、絶対的なものではないと思います。

むしろ、ある集団のなかでエリート意識を持ってしまうことでアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)を獲得する「病巣」としての側面を、社会的評価はもっている。

だからこそ、一定の距離を置く必要があるし執着しないで過ごせるほうがいい。

一周回って、私は今そんな風に感じています。

 

お金

お金も、やっぱりあてにはなりません。

お金は現代の狂気の、中核を構成するアイテムです。

ただの紙であり、ただのデータに、私たちは命がかかっていると信じている。

だから命がけで奪い合います。その魔力に狂ってしまっています。

お金のために、平気で人を騙したり、嘘偽りを話したり。

そうやってお金をたくさん集めたとしても、満たされることはないでしょう。

実体のない概念をいくら集めても、心は荒むばかりだからです。

お金持ちは幸せかといえば、私はそうではないように思います。

すでに充分なのに、蓄えたものを守ることに必死で、少しでも減れば損をしたように思って、憤っていたり満たされず飢えていたりします。

羨ましいかというと、私はどうもそうは思えません。そんな人生は嫌ですね。

お金持ちは奪われる恐怖に苛まれ、貧乏な人は嫉妬と憎しみに苛まれる。

お金を人生の中心に据えると、お金に振り回されて、命を見失います。

いかに金銭欲を自分のど真ん中から遠いところに置いておけるか、それが生きる上で最も気を配るべきことかもしれません。

 

蟻一匹、花一輪

では、何を拠り所にして、私たちは生きていけばいいんだろうか。

そう思い悩みますよね。

 

私は「売り買いできないもの」だと思います。

それは、命であり、愛であり、この世の中のありとあらゆるものすべてが、本来はそうだといえます。

誰かが認めなくても、権威で装飾しなくても、私たち一人ひとりに価値があり、蟻一匹、花一輪にも、同等の価値がある。

この世のあらゆる全ては、美しくて元々。

値段などつけられません。順位もありません。

それぞれが、それぞれの生を、ただただ全うしているだけにすぎません。

価値は、何かに限局する必要がなく、常にそこかしこにある。

だからニーチェは「神は死んだ」と言ったのではないかしら、と思うのです。

 

みんな、そういう世界の在り様を忘れているんじゃないかしら、と思います。

終わりがあるから尊く、弱いから美しく愛らしいのです。

永遠の命、繁栄を求めたり、偽りの強さを纏おうと躍起になるから、「生きることそのもの」からいつしか外れていく。外れて戻ってこれなくては、人生苦しむばかりです。

それもまた、我々の弱さゆえの定めなのかもしれません。

この凍てつく冬の時代にも必ず意味がある。そう思います。

生き抜きましょう。

禍福は糾える縄の如し。

焦らず怯えず、躊躇わず、一日一日を大切にしましょう。

それしか、私たちにできる事などないのですから。

明日はどんな日になるでしょうか。

今日一日、悔いのない一日を生きられましたか?

一切は過ぎていきます。

過去は過去。

我々が今いる場所を見失わないようにしましょう。

【依存症】ゲームを取り上げる親と心を殺された子ども(ゲーム依存)

依存症の問題は、背後にある「生きづらさ」が本質だと思う。

その問題を直視せず、問題行動だけを抑え込もうとしても、失敗するし意味がない。

 

ゲームを取り上げる親の心理

たとえば、ゲーム依存の傾向がある子どもから、無理やりゲームを取り上げようとする親がいるとする。

「やめろ」と言っても効かないので、ルールが守れないので、ゲームを取り上げる。

でも結局はルールを守る必要がなくなった(親の目が届かなくなった)ときに、問題のある使用をしてしまう。背後にある生きづらさが解決していない限り、根本的には変わらない。

私がそうだった。小学校から禁止されて、大学で今までため込んだフラストレーションが爆発して思いっきりのめり込んだ。

ネットやスマホを解約する、等のもその類い。意味がない。一時的にできなくはなるかもしれないが、やる方法はいくらでもある。

お小遣いをためて、あるいは親の財布から金を盗んで中古端末を入手したり、無料Wifiを求めて深夜徘徊をしたり、「ゲームやる?」と声をかける知らない人についていってしまったり。

むしろそういうより子どもを危険な場面に遭遇させかねない行動に繋げる。

 

そういった逆効果を生む可能性があるにもかかわらず、なぜ強権的に子どもの行動をコントロールしようとしてしまうのだろうか。

それは親が抱える、「不安」と「恐れ」が根底にあるように思う。

 

「我が子がまともな社会人になれなかったらどうしよう」

一見、我が子の未来を案じている台詞のように見える。そして、思っている親本人も「子どもの為」だと信じて疑わない。

しかし、裏の裏までよく覗き込んでみると、実際は「自分の為」であることがわかる。

世間の目を気にしている、自分の為に、迷惑な行動をしてほしくない。

我が子がまともな社会人になれないことで、

「親として子育てが間違っていると言われたら」どうしよう。

「ひきこもりや不登校になって、世間から色眼鏡で見られたら」どうしよう。

私の世間的な評価が傷つくではないか、という「どうしよう」。

自分が困るから、自分の体裁のために、やめてほしいと思い、取り上げようとしてはいないだろうか。

子どもをコントロールすることに依存している。自分の自己肯定感を支えるために、子どもに依存し、子どもの人生に過干渉してしまってはいないだろうか。

 

親に過干渉された子供の末路

我が子であったとしてもコントロールすることは本来できないし、本人のことは本人に責任と権限がある。その権限を冒してはいけない。

なぜなら、選択した行動の結果を経験することで、子どもは大人になっていくからだ。

親が転ばぬ先の杖ばかり用意して、その過程をゴッソリ盗んでしまうと、「グライダー型人間」になる。

 

「グライダー型人間」とは、『思考の整理学』において外山先生が定義した、自分で考えられない人間のこと。

親が全部おぜん立てをして、正しさを押し付けて言うことを聞かせて、親が思う正しいレールの上を歩かせたとしよう。

その子は、こう思うだろう。

「自分の意思なんて持っても疲れるだけだ。結局は、親や先生の言いなりにするしかない。ならば、感情など持たないほうがいい。自分の意見も、持たないほうがいい。言われることに従っていさえすれば、叱られもしないし、問題は起こらないんだから。」

自分の感情と意思をもつことを放棄するようになる。

そうなると、自分が好きなもの、自分がやりたいこと、自分がほしいもの、が何なのかわからなくなる。

自分の意思がわからないので、他の人が好きなもの、やりたいこと、ほしいものが、自分が欲しいものなのだと思って追いかける。でも、手に入れても、満たされない。本当に望んでいるものではないからだ。でも自分ではもう望んでいるものがわからない。

いくら頑張って何かを手に入れても、どれだけ他人より相対的に恵まれていると言われても、心は一向に満たされないので、日に日にストレスが溜まる。

そして、ネット上で気に入らない人を正論で殴ったり、誰かを虐めたりして、憂さを晴らすようになる。進学校ほど陰湿ないじめが横行する理由は、こういうストレスが強い子どもたちの「生きづらさ」のはけ口として、特定の誰かが生贄になることでなんとか日々を生き抜いているからではないだろうか。

私をいじめてきた「いじめっ子」たちも、そういう目に見えない苦しみを背負っていたのかもしれない。そう思うとやるせない。虐められるほうは、たまったものではない。

 

はたして、親の正しさによる圧政は、本当に子供のためになっているだろうか?という話。

「まともな社会人」とはなんだろう?

立派な「思考停止のグライダー型人間」に仕立て上げることだろうか。

おそらく、親のほとんどがそんなことを我が子に望んではいないと思う。

自分の頭で考え自分で決めた、自分なりの人生を堂々と歩んでいってほしい。

そう思っているのではないだろうか。

それが「まともな社会人」ではないだろうか。

そうなるための行動だろうか。ゲームを無理やり取り上げる、ということは。

 

受験を控えているのに、受験勉強をしない我が子をみて、自分が不安なだけ。

自分の不安を取り除きたいだけ。

だから「ゲームばっかりしていないで勉強しなさい」という。

私たち親の世代までは、勉強して良い大学にいて良い就職先に新卒入社する、というのが人生においての成功モデルだったかもしれない。

そのレールに乗せないといけない、という親に育てられてきた世代だ。

しかし、自分の人生を振り返ってみてほしい。今の現状を見てほしい。

それは本当に成功モデルだっただろうか。

 

今や終身雇用制度は崩壊した。

良い会社に入っても、安泰ではない。

良い大学に行っても、就職先がない。

受験勉強という「暗記ゲーム」だけに特化して強制的にやらされた結果、グライダー型人間として心と感性は死に、体だけ立派に成長していく。

面白味のかけらもない無個性な大人になって、指示待ち・ゴマすり・忖度で自分を偽りながら生き抜こうとするが、自分で考え自分で行動を選択する訓練をしてこなかったので、苦境に立たされてまごつく。

 

これが、誰もが望む成功モデルといえるだろうか。

本当に、大人たちが提唱してきた「まともな社会人になる」ためのメソッドは、現実に役に立つものだっただろうか。

私はそうではないと思う。

 

親ができることは見守ることだけ

その子の人生は、その子のものだ。

親のおもちゃではない。親が変えられるものでもない。

失敗も成功も、その子が味わう権利と義務がある。

 

この子がゲームにそこまで入れ込むのは、なぜだろうか。

この子が好きなゲームの世界とは、どんなものだろうか。

その世界の何が好きで、何が現実より魅力的なのだろうか。

この子は、何を求めているのだろうか。

 

それを知らないで、その子にとって正しい道など、誰が主張できるだろうか。

正しい道など無い。

正しいことなど、この世にはないからだ。

その人にとっては正しい、というだけ。

それは親も同じ。親である我々が正しいと思い込んでいることと、その子にとっての正しいことは違うかもしれない。

それを同一化して強制的に同じにしようとするのは、ある種人権侵害であり、虐待だと私は思う。

 

我々親にできることは、その子の声を聞き、その子の価値観を認め、そっと背中を支えることだけ。

きっと自分の足で歩いていけると信頼して、後ろから見守ることだけ。

そもそも、我が子であろうと別個の独立した他人。

他人をコントロールすることはできない。「変えられないもの」だ。

きっと自分の失敗から何かを学び、人生に活かして生きていく力を持っている。自分の命を分け与えた存在なら、きっとそれができる。

そう信じられないとしたら、病んでいるのは親のほう。

自分を信じられないから、我が子も信じられない。

自分の生きる力を信じられないから、同じように我が子の生きる力を信じてあげられない。

その「不信の呪い」を引き継がないことが、最良の子育てだといえるのではないだろうか。

【メンタル】「自分には価値がない」と嘆いている人へ(ひきこもり・不登校・貧困)

資本主義の世の中では、身の回りにある全てのものは商品になっている。

資本主義社会は本当に良い社会か?

カール・マルクスは『資本論』において、商品は「使用価値」と「交換価値」によって成立するといいました。

そして、スライムが集まってキングスライムになるように、商品が寄せ集まって富が形成されている、として、商品の価値は労働の量だとする「労働価値説」を提唱しました。

交換に便利なものとして、貨幣が生まれました。

商品に付加価値をつけて売ることで利益(剰余価値)を生みます。

価値をどんどん増殖させていくと、資本がどんどん膨らんでいき、資本家が生まれます。

マルクスは「資本家」を「人格化された資本」=お金が人の形を取ったものと定義しました。つまりお金さえ稼ぐことができれば使用価値なんてどうでもいい人たち。とにかくカネのため。

とにかく稼げればなんでもいい資本家は「労働力」を商品化しました。

労働力を仕入れる行為は「雇用」であり、資本家(企業)にとって就職活動・転職活動は、この「労働力」の仕入れです。そして、研修や社員教育で付加価値をつけて、利益を生むために「商品」である私たちを働かせて、仕入れ以上の価値を生ませます。そしてさらに「労働力」を仕入れて得られる利益を増やそうとします。

「労働力」を仮想通貨の運用に例えましょう。

仮想通貨を仕入れて、仕入れより仮想通貨の価値が上がれば儲けが出て、余剰資金が生まれますよね。その余剰資金で、さらに仮想通貨を買う。そうすると、価値が上がり続ける限り、このサイクルで余剰資金はどんどん増えます。

これを人間でやっている、というのが、営利企業です。

つまり、営利企業に雇われているサラリーマンは「労働力」という商品として資本家(企業)に買われているので、私たちの労働力は私たちから切り離されています。

だからサラリーマンはイエスマンが出世するし、結果を出すことと同時に従順であることが求められるのです。「労働力」という商品としての価値を評価されているのが、人事評価です。

人事評価はその人そのものの価値とは関係ありません。その人の一部分「労働力」を商品として切り取ったときの、商品としての評価です。だから、収入が上がろうと人としての価値が上がるわけではありません。

法律的には雇用契約は対等ですが、実質イーブンではありません。

給料とは、再生産費です。

つまり、雇われている我々は「再生産費」分だけ働けばいいのですが、それ以上に働かせれば、資本家(企業)にとっては働かせた分だけ利益になります。

だから、やりがいや目標を示して、勝手に設定して、「再生産費」分より余分に頑張らせようとするんですね。

そしてチームを組ませるのは、協業させることで生産性が上がるからです。

あくまでも、労働力としての運用を最適化しているのであって、社員が快適に働けるとか、充実した人生を送れるとか、そんなことには企業は一切興味がない、というのが本音です。

私たち労働者にもメリットがないわけではなく、企業で働くことで「経験」という付加価値を得ているので、悪い側面ばかりではありません。

しかし基本的に人間は「モノ」として扱われています。それが企業であり、資本家であり、資本主義の世界です。それは人を惨めな気持ちにさせます。

その、人をモノのように扱う資本主義が蔓延し、世界中に広げようと際限なく膨張したのが、今のグローバリズムです。

富める人はさらに富み、際限ない欲望で人間性を失い、人々の健康を害してでも富を拡大しようとする世界。

貧しいものはより貧しくなり、最終的に過労死や自殺をするか、無敵の人になり殺戮事件起こすほど追い詰められる世界。

資本主義社会である以上、この世界観・貧富の格差はどんどん広がります。

共産主義国家は計画経済を導入してしまったのでソ連は崩壊したけど、マルクスの社会主義は、資本主義が限界まで行きついた先にあるものと考えられていました。

つまり資本主義が限界を迎えているまさに今、ようやく条件がそろったといえるでしょう。

 

経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、このような資本主義の限界に問題提起した本です。

 

 

このままさらに格差が拡大するとどうなるでしょうか。

さらなる地獄と化すのではないか、と思います。

 

r(資本収益率=資本家の不労所得の割合)>g(経済成長率=労働による価値創造の割合)

 

このrとgが逆転するのは、戦争により既存の資本が破壊され価値が暴落したとき。そのあとは資本を再形成する必要があるため、労働力の価値が相対的に高まるからです。

そういう異常な状態以外は、この資本主義社会はr>gであるといえます。

そしてその状態が加速すると、世襲資本主義社会になるといいます。

世襲資本主義社会とは、相続による経済格差が努力やチャンスでは裏返らない無理ゲー社会のことです。

つまり、貧乏人は頑張っても報われない世界です。生まれた家が資本家であれば勝ち続けられる、何もしなくてもお金が増える、生まれが全てを決める不平等な世界です。

実際、そうなりましたよね。

シェルバーン伯爵家に連なるロックフェラー・ロスチャイルド。財閥が世界経済を動かし、政治を含めた社会全体を実質的に支配しています。

世界の富の大部分を上位1%の金持ちが占有し、残りの99%の貧乏人は奴隷のような生活で、体を壊すような商品を食べさせられ、マスメディアの洗脳で考える力を弱らせられ、毒に等しい注射で人体実験に使われています。

日本も例外ではなく、政治は政教分離を謳いながらも完全に癒着しており、その政治をハンドリングしている宗教団体は、世界的な財閥の下部組織です。

冒頭に人は「労働力」というモノとして扱われているといいましたが、最終的に人は「奴隷」と等しい扱いをされているといえます。存在そのものをモノとして扱われているということです。

 

「自分たちさえよければいい」社会で人は愛に飢えていく

歴史を振り返ると、戦争が起こると、戦争中の税金は圧倒的に高くなり、個人の財産は凍結されます。

それによって、とくに高所得者からお金を搾り取ることができます。

ウクライナで戦争が起こり、これから台湾・日本で戦争が起こると思いますが、これは軍需産業を握っている1%の財閥が、さらに中途半端な高所得者から金を吸い上げるためです。

実際、軍需産業の株価はどんどん上がっていますよね。

総本山はアメリカでもなくイギリスでも中国でもありません。

財閥とは、地縁主義ではないからです。

「契約の民」と呼ばれるユダヤの血縁です。

血縁により繋がっているので、国はただの枠組みです。商売の道具です。貨幣は価値変換のためのおもちゃです。

だから最近は新しく「仮想通貨というおもちゃ」を使って儲けを生もうと画策しています。

通貨をつくる側・ルールを決める側が、儲かるようにできています。ルールを作る側ではない一般の投資家が損をするのはそのためです。

STEPNなどのM2E(Move to Earn)で大損した人がたくさんいますよね。それは、もともとそういうメカニズムになっている、ということです。多少庶民に利益が渡るケースが生まれてしまうのも、ユダヤにとっては想定済みの必要経費。いずれ回収しようと考えています。

 

ユダヤ人は歴史的に「美味しいものを心ゆくまで食べること」を人生の第一に掲げています。

そのための金銭であり資本なわけです。つまりお金を手段として割り切っている。

思考は、教育で子どもの頃から徹底される能力主義・実力主義に基づいています。迫害されてきた防衛本能から、他民族に対する警戒心が強い。その警戒心から納得するまで他者を調べ尽くす知的好奇心をもちます。

一言でよければ「自分たちさえよければいい」

世界経済を動かしている人たちがその原理で動いているので、現代社会がそうなるのは、考えてみると当たり前ですよね。

 

 

ここまで読んでみて、どうでしょうか。

お金や資本主義に「愛」という要素が全くないことに気づきますよね。

モノとして扱われる世界で愛を感じられるはずがありません。

「自分たちさえよければいい」という民族の思想が蔓延している状態で、他人に無償の愛を注ぐ人が現れるはずがありません。

でも「愛」がなくては人は生きていけません。

その、生きていくために最も重要なエッセンスが欠落している。

それが資本主義社会であり、現代社会です。

だから、みんな精神を病んでいくのだと思います。

精神疾患も依存症もACも差別も、何もかもの本質はここにあります。

私が最近、精神疾患も依存症もACも個人の課題ではなく、社会そのものの課題だと考えているのは、そういう背景です。

 

お金から距離を取ること、資本主義であるこの社会から距離を取ること。

この「離脱」こそが、これから人間らしく生きていくために必要なことになってきたなぁ、と実感しています。

これからは、できるだけそれらの要素を削ぎ落していく「離脱」の生き方を実践していきたいと思っています。

まさにそれを人生を賭して体現したのが、マハトマ・ガンディーだと思っています。本当にすごい人です。

彼は「欲望を削減する」ということを説いています。

経済社会そのものは否定しないけれども、人は本来必要なものを必要な分だけ得ればそれでよく、欲望を最小化することによって真に幸福な人生が送れると考えました。

ユダヤ民族の人生観とは、真逆ですよね。

私はガンディーの教えにこそ人としての「生の実感」、人としての本質があると考えています。真に感じるべき感覚は生死と欲望を越えた「存在の絶対感」だと思います。

お金を集めても、仕事を頑張っても、いくら物質的に豊かになっても、幸せではありませんでしたよね。それを経験的に証明するためにユダヤに連なる資本主義全盛時代を人類は経験する必要があったのではないかと思っています。

もう、お金や社会に踊らされるのは、やめましょう。

目の前にある花や木や草や、触れ合える世界が全てです。自分自身を含めた現実世界を愛で、好意を伝えること・肯定することに、全力で集中しましょう。

貨幣が創り出す仮想の世界に生き、命を消耗するのは、もう終わりにしましょう。

バーチャルの世界に幸せはありません。ネットは使うモノです。大切な自己を道具に没入させてはいけません。

最も価値あるものすべては、もうすでに全員の、現実の肉体と精神にある。他に求めなくてもいいし、客観的に証明する必要もない。あると思えばある。ないと思うからない。

これ以上、安心のために「形ある何か」を求めるのはやめにしましょう。それらは全て虚構であり虚空です。

楽しいと思えること、美しいと思えるもの、それを感じる時間と感性を大切にしましょう。

生きることは、それだけで100点満点だといえるでしょう。そのほかはオマケです。

 

そう考えると、とても気楽になりませんか?

経済社会に参加できるかどうか、なんて、人間本来の価値には微塵も影響しないのです。

引きこもりだろうが、不登校だろうが、社会不適合者だろうが、障害が有ろうがなかろうが、ただ存在するだけで、存在価値があります。お金に変換しようとするから、無いように錯覚するだけです。

みんながそのことに気づけば、世の中はもっとまともになるんだろうなぁ、と思います。

【依存症】「Move to Earn(M2E)」の闇(仮想通貨・NFT・M2E・ブロックチェーンゲーム)

Move to Earn について

Move to Earn (M2E) とは、文字通り「動いて稼ぐ」というコンセプトの、仮想通貨を用いたビジネスモデルのこと。

Move to Earnのやり方
  1. 仮想通貨取引所で口座を開設します。
  2. 各ゲームのウォレットにトークンのソラナやイーサリアム送金します。
  3. アプリをダウンロードして登録します。
  4. 毎日歩いたり、走ったり、ゲームをプレイして稼ぎます。
  5. 稼いだトークンを換金したり、そのまま保有して増えるのをまったりします。

引用:https://maru7.jp/move-to-earn/

「ブロックチェーンゲーム」に分類されています。

Youtubeで動画検索すると、こんなふうにたくさんのスマホアプリがあって紹介されており、結構流行ってきました。

 

「STEPN」というアプリがパイオニアで、2022年1~2月くらいから流行り始めました。

簡単にいうと、仮想通貨を買って、その仮想通貨で仮想の靴を買って、スマホを持って歩くとポイントが貯まり、そのポイントが仮想通貨に変換できるので、歩くだけでお金が生まれる、という仕組みです。

いかにも怪しいですよね。

でも実際に儲かった人が特に初期にたくさん現れたのです。

それで大変話題になり「俺も俺も」と新規参入者がどんどん増えました。

仮想の靴は最低10万円くらい(2022年8月2日現在)、高い靴は100万円ちかくするものもあります。

10~100万円の先行投資をして、原資回収から収益化を目指して仮想通貨をもらうために毎日毎日歩く、という人が急増したんですね。

最初「Solana」という仮想通貨で成立する「S国」という仮想のフィールドでやり取りして儲かった人が出ましたが、だんだん通貨の単価が下がっていきました。

そこで、次に出てきた「さらに儲かるらしいぞ!」という「BNB」という仮想通貨で成立する「B国」というフィールドがリリースされました。

最初はプラスが出ていた人も大損して、損を取り返したいプレイヤーは次々参入しました。

どんどん上がるBNBの単価。

しかし、100万円以上の追加投資がかかります。

意を決して借金してまで突っ込んで行ってみると、BNBも大暴落。

今、BNBが上がっている最中に参入したプレイヤーは、阿鼻叫喚の地獄絵図です…。

 

M2Eアプリがプレイヤーを依存させる巧妙な仕組み

なぜここまで多くの人をハイリスクな世界に引き込み、アプリにハマらせることができたのでしょうか。

ここにはGAFAMなどのビックテックが開発してきた「依存症ビジネス」のセオリーがあります。

 

ネットスマホゲーム・SNSには「6つの罠」があります。

①人間を操る「目標」という魔法

②予測不能なフィードバック

③段階的に進歩・向上していく感覚がある

④徐々に難易度を増していくタスクがある

⑤解消したいが解消されない緊張感がある

⑥社会的な結びつきがある

ひとつひとつ、みていきましょう。

 

①人間を操る「目標」という魔法

人間は目標を与えられると、無意識にそれを達成しようとしてしまいます。

自分に何も目指すべきものがない人ほど、他人が決めた目標に引っ張られます。

アプリ内で「1日10,000歩達成すると○○」とか「1ヶ月で20万歩達成すると○○」というキャンペーンがあるのはそのためです。

何かインセンティブがある目標を与えることで、意図する行動(STEPNの場合は「歩く」)に誘導します。

 

さらにM2Eには「歩くことは健康に良い」「健康にいいことは素晴らしいこと」という大義名分があります。

非難される行動ではないことが、参入に対する精神的抵抗をなくすとともに、仮想通貨をよく知らなかった人々やゲームに興味がなかった健康志向の人々も、カm…じゃなくてプレイヤーとして市場に引き込むことに成功しました。

なかなか悪魔的で上手いやり方だなと思います。

 

②予測不能なフィードバック

人間は元々狩猟民族です。

狩猟民族は、獲物が取れて食事にありつける日もあれば、何も取れずに飢える日もあります。

だから「獲物が取れた!」という予測不能な出来事に対して、喜びを爆発させ、取れなくても「あの喜びがまた来るはず」と期待することで生きる希望をもち、命を繋いできました。

その習性は今も脈々と引き継がれています。

ギャンブル依存症の場合、当事者は、ギャンブルにつぎ込んでつぎ込んで、借金までして、明らかに損しているし生活が破綻しているのに、数回当たったときの喜びと興奮が忘れられず「明日はくるはず」「いつかまた当たりがきて大金持ちになる」と損切りすることができません。

ドーパミンという快楽を感じる神経伝達物質の神経回路が強烈に当たったときのことを記憶していて、対象行動を取ることをやめられなくなってしまいます。

これをプロセス依存といいます。

まさにこのプロセス依存を引き起こさせるための仕組みとして「ランダムで宝箱が見つけられる」「広告動画を観るとランダムでポイントが入る」「持っているアイテムをお金をかけて配合するとランダムでレアなアイテムになる」といったものをゲームシステムに仕込みます。

また、不定期に「お祭り」をします。

今だけ期間限定で、あのほしかったアイテムが50%OFF!とか、アイテムを強化する要素をプレゼント!とか。

そうすると、人間は本能的に期待を寄せアプリのことが忘れられなくなります。

 

③段階的に進歩・向上していく感覚がある

同じようなことの繰り返しだと人は飽きてしまいます。

自分が頑張った分だけ自分がレベルアップしていくようなシステムだと、行動が報われるので、もっとやろう・もっと頑張ろうという気にさせられます。

「次のレベルになればもっと稼げるようになる」

「もっといいアイテムに進化させよう」

「アイテムをさらに強化しよう」

「課金してさらにアイテムを買おう」

そうすればもっと効率よくポイントが稼げるよ、というふうにシステムを設定します。

STEPNでは実際にレベルアップ制度があります。

段階的にレベルアップすることで、プレイヤー間にはレベルの上下関係が発生します。

人間は群れのなかで序列をつける動物的側面があるので、人より上に立ちたいと願い、下だと不安になるようにできているので、プレイヤーのランキング内で上位に君臨するためにも、頑張ります。

上位であることが自分のアイデンティティとなるので、ゲームをやり続けなくてはならなくなり、抜けられなくなります。

 

④徐々に難易度を増していくタスクがある

運営側はギリギリ達成できるくらいの難易度を提示します。

たとえば、新しいアイテムが1億とかだと、もう一般庶民に手は出せません。難易度が高すぎて敬遠します。

でも100万円くらいなら、借金すれば何とかひねり出せます。ギリギリ達成できるかもしれないところにぶら下げるのが重要で、リスクを背負って飛びつくように煽ります。

「新しいフィールドでは1日で数十万円の利益も夢じゃないよ」

「もう利益を出している人は勇気を出して飛び込んだひとだよ」

「それができない人とできる人が、成功できるかどうかの分岐点」

等と言って、巧みにプライドを刺激します。

 

また、どんどんバージョンアップして、制限を追加したりします。

たとえば、1日に歩ける時間を制限して課金しないと制限が解けないようにしたり、アイテムが消耗して修理が必要な仕様に変更したり、確率が低いがよりレアなアイテムが得られるガチャ機能を追加するなどです。

そうやって最初は無料で単純だったものを、複雑でお金がかかるシステムに改悪していくわけですが、ずっとやっているプレイヤーはどんどん厳しくなるシステムに逆にハマって抜けられなくなる、というわけです。

 

⑤解消したいが解消されない緊張感がある

これは仮想通貨を使ったことがもろに効いてくるんですが、「激しい相場変動という緊張感」が実現している罠です。

前の日には1円だったものが、次の日には数千円になっていたり、逆に暴落したり。

常に安心することができません。

自分が投資した数百万が数百円になるかもしれない…そんな強い緊張感は、仮想通貨を用いた貨幣システムである限り絶対に解消できません。

強い緊張があればあるほど、投資した金額が化けたときの興奮や快感も並大抵ではありません。

毎日が刺激的。そういう異常な精神状態に陥らせることで、四六時中M2Eのことだけをプレイヤーに考えさせることができます。

 

⑥社会的な結びつきがある

知る人ぞ知るM2E。

広いようで狭いその世界は、選民意識を刺激します。

周りが知らない状態でM2Eを始めたプレーヤーは「世界では流行っているけど日本ではまだ限られた人しか知らない最先端のこのゲーム。やっている俺は他人より賢くてスゴイ( *´艸`)」と内心思っています。

そして、同じようにM2Eをやっている人を見つけると、仲間意識を持ちます。

SNSが発達している現代社会ならではですが、そういう仲間をネット上で見つけて繋がることができるので、コミュニティーというか一種のコロニーが出来上がります。

同じように借金してまで参入した人、最近始めた人、儲かった人、大損した人、そんな人たちが入り混じり、WEB上で社会的な繋がりを形成しています。

歩くという行為は孤独です。

稼ごうと焦れば焦るほど、1日1~2万歩という過酷な目標をかかげ、そのつらくて孤独な作業に挫けそうになるのですが、そんなときに心の支えになるのが社会的な繋がりです。

M2Eをやっていて同じ夢を追いかける仲間のコミュニティーがあることで、限界まで頑張る(実際には意図的に頑張らされている)し、現実のM2Eを知らない人との繋がりよりもオンラインという仮想空間での繋がりを重視するようになります。

居場所がそのコミュニティーになると、ますますそこから抜けられなくなります。

コミュニティーを離れた結果、待っているのは、現実には存在しない概念に振り回されて単に歩きまくり足腰を痛めかけている、疲れ果てた孤独な自分のリアルだからです。

 

まとめ

「歩くだけで年収数百万儲けられる」

そんな美味しい話は、残念ながらありません。

一時的に儲けが出たとしても、ずっと続く営みではありません。

仮想の世界の仮想のお金で、仮想のアイテムを買って、仮想の空間の顔も分からない人との繋がりに居場所を求める。

それは、空虚な現実逃避です。

「自分の将来がどうなるかわからない」

「今の仕事をやめて楽して稼ぎたい」

そんな不満や不安を忘れるために、それらしいサービスにハマってしまう人に、私はとても共感します。

仕事はクソつまんないし、ウクライナで戦争してて日本も滅びそうだし、何の意味もないワクチンやマスクをするのが当たり前の狂った世論が主流だし、そりゃあもう嫌になっちゃうでしょうよ、生きていくのが。

 

わかる。わかるよ。

 

だからハマってしまう人というのは、ダメでもアホでもないし、悪くないと思います。

巧みに本能的な部分を煽って依存させるようなコンテンツをつくっている側が悪いに決まってます。

 

本当に大切なものは、実際に自分の身体で触れられる、この現実世界にあります。

一時の欲望や快楽で、本来大切にすべきものを見失わないようにしましょう。

 

しかし、一度味わった「稼げる」という感覚は脳に強烈に記憶されているので、新しいM2Eがローンチされるというニュースを聞けば気になり「またあのときのように稼げるんじゃないか」「今度こそ出資者リストが豪華だし大丈夫なんじゃないか」「今度こそ初期から参入して先行者利益を狙えるんじゃないか」と思ってしまうことでしょう。

それが依存です。そして、依存だということを当事者は否認するでしょう。

今後、この分野の依存症に苦しむ人は増えてくると確信しています。

借金問題・横領着服・訴訟・経済苦による自殺、などで表面化してくることでしょう。

【子育て】褒められると喜ぶ子・褒められると緊張する子

褒められると喜ぶ子もいれば、褒められると緊張する子もいる。

いったい、この2つのタイプは何が違うのだろうか。

 

褒められると喜ぶ子の心理

言葉をそのまま受け取る子。裏を勘繰らない。

「自分は認められた」と感じて、パワーがみなぎる。

褒めてもらうことを心から喜び、欲する。

他人の賞賛が自己肯定感を下支えしてくれる。

そしてそれは「私ならできる」という自信に変わり、挑戦する原動力になる。

もし数回失敗しても、今まで褒められた経験をもとに、自分の挑戦はいずれ成功につながるという再現性を信じる。

信じて何度も挑戦するので、結果的に成果がでる確率が高まる。

そして「やはり私ならできる」という自分という存在への信頼を強固にしていく。

自分自身への信頼が確固たるものであれば、自分がやったことを他人が褒めてくれなくても、「今はまだ認めてもらえないだけ」と、自分の方向性を信じることができる。

自分の意思で物事を決め、光が見えない暗いトンネルのなかも前に進むことができる。

折れない、くじけない。そんな未来を切り開く。

 

褒められると緊張する子の心理

言葉の裏を読む子。言葉の裏にある「相手の期待」のほうに意識が行ってしまう子。

私はまさにこっちだった。

褒められると「もうこれと同じことで失敗できない」と思った。

なぜなら「できる」という状態を褒められているので「できない」状態にはもう戻れないから。

「できない」状態の自分は認めてもらえない。

できるから肯定してもらえるということは、できない場合は否定されるということだ。

なので、褒められると緊張する。

だから、できるだけ褒められたくなかった。認めてほしいけれど、褒められると逃げ場がなくなるから。

だから、褒められると異常なほど謙遜する。

でも、心のなかでは認めてほしいので、自分以外の他人が褒められていると嫉妬する。

心がザワザワして、他人の成功を目の当たりにすると焦りや不安を感じる。

そのため、客観的にみると謙遜するわりにはプライドが高く見える。

他人の成功は、何かしら理由をつけてケチをつけがち。

成功しなければ認めてもらえない、というプレッシャーのなか、自分にできそうなことにしか挑戦できなくなる。失敗を過度に恐れる。

褒められることを選ぶが、それが自分のやりたいことではないことも多い。

しかし、自分の希望なんかより、他人の期待に応えて結果を出すことが、褒められるためには必要なので、自分の気持ちを無視して物事を決定してしまう。

最終的に、本当はやりたいことではないことを一生懸命やり、ヘトヘトになって他人に認められるために生きる。

そして、認められればられるほど、プレッシャーは大きくなっていく。

大きくなり過ぎたプレッシャーに押しつぶされると、二度と立ち上がれないほど深く傷つく。

自己効力感がない毎日で、やれどもやれども自分の心は満たされない。

結果として、潰れることが多くなる。

 

結果ではなく行動を褒める

この2つのタイプの何が違うかというと、実は褒める人の「褒め方」が違う。

喜ぶ子の親は、行動を褒める。

緊張する子の親は、結果を褒める。

 

子どもというのは、まだまだ人生を歩み始めたばかり。

圧倒的に失敗することのほうが多い。

むしろ成功することより失敗することが大切で、失敗により重要なことを学んでいく。

 

何かに挑戦しているとき、子ども自身はとても不安で、ドキドキしている。

同時に「どうなるんだろう」「できるかな」とワクワクもしている。

 

その過程を経験しようとアクションを取れたことこそ、その子にとって最も重要なことで、ぶっちゃけ結果はどうでもいい。後からついてくるから。

そのことを知っている親は、まず挑戦したことを褒める。

「よくがんばってやってみたね」

「あなたが挑戦したことを誇らしく思うわ」

そう褒められると、行動したことそのものを全肯定されることになるので、結果がどうであれ、子どもは自分の行いを恥じる必要がない。

失敗して悔しかったり悲しかったりして泣いたとしても、行動したことそのものに恐怖することはない。

なぜなら親は、また褒めてくれる。行動を起こした自分を。

だから、またやってみよう、と思う。

 

反対に、結果を褒めると、「結果を出した自分」を褒められていると認識する。

前者の褒め方に比べて部分的である。

「行動→成功」となってはじめて親に褒めてもらえると思う。

そして、親は「成功している自分」を期待しているのであって、失敗している姿を望まれてはいないことを読み取る。

親にとって望まれない子どもになる。

それほど怖いものはない。それほど深い絶望はない。

だから、失敗を恐怖するようになる。存在の否定と同じだから。

成功している姿しか見せられない。だから失敗は隠すようになる。

失敗こそ、最も重要なのに。

親という、心の安全基地、ありのままの自分を認めてくれる唯一の居場所が、なくなる。

そうなると、もうその子はどこにいても休憩することができなくなる。

そして、褒められることを誰よりも求めているのに、褒められるほど苦しくなる負のループに迷い込んでしまうというわけだ。

 

最後に

私は子どもから大人になり、親になってみて、このことはとても大切だと思う。

私は褒められると緊張する子だった。

人生はとても苦しかった。成功してもホッとするだけで、満足感や喜びはなかった。

褒められたいと思って、親が望むことを選択し、ひたすら頑張って得られたのは、他人の期待にそって生きる人生に対する絶望だった。

その子がやりたいことが、最もすべきことだ。

親が「これをやったほうがいいんじゃないか」「あれが向いているんじゃないか」と先回りして提示しないほうがいい。

子どもはその期待を敏感に感じ取って、それを選んでしまうだろう。

でもその先にあるのは絶望である。

期待するなというのは難しいかもしれない。いや、無理だろう。

それだけ可能性は輝いてみえるし、我が子だからこそできるんじゃないかと思うのは当然だ。

しかし、その裏には、親自身が自分に絶望してしまったことの闇がある。

自分ができなかったこと、やって正解だったと思いたいこと、それを子供に背負わせてはいないだろうか。自分の人生のやり直しを子供にさせようとしてはいないだろうか。

我が子と言えど他人である。別の人格を持ち、意思を持つ、権利と尊厳のあるひとりの人間。親と子は本来対等だ。

その対等さを忘れ、自分の所有物のように思い違いをしてはいないだろうか。

幼い我が子の判断はまだ未熟で、自分たちの判断のほうが正しいと、驕ってはいないだろうか。

私が持っている正しさへの認識とは、私の思い込みであって、我が子にとってそれは押し付けられたら迷惑でしかない。

彼には彼なりの、彼女には彼女なりの価値観があり、それは幼かろうが年寄りだろうが、関係なく尊重すべきものなのだ。

それを忘れている親は、この国にはとても多いのではないかしら、と思う。

そんな親も、私と同じように褒められると緊張するようなつらい子どもで、その子どもがそのまま年齢を重ねているからかもしれない。

誰も悪くはない。

でも、自分が味わった辛さを我が子に背負わせないために、同じ呪いをかけないように、親が子どもを卒業することが、必要なんだと思う。

【社会福祉士】「今だけ金だけ自分だけ」の狂った現代社会

私は学校で「社会は正しい」と教えられてきた。

親からも「自立した社会人になりなさい」と教えられてきた。

みんなそうではないだろうか。

でも、それが本当に正しいかというと、どうもそうではないんじゃないか、と思う。

 

この社会が求める人物像は「考えない歯車」

この社会というのは、資本主義社会だ。

経済的な成長を、正義と考えている。

むしろ、それしか考えていないとも言える。

企業は、金が儲かるなら、顧客がどうなろうが、基本的には心の底ではどうでもいいと思っている。

健康を害するような商品を売ったり、必要のない人にまでサービスを押し売りしたりする。

だから人は仕事にストレスを感じるんだと思う。

やりたくもないことを、金のためにやっている。だから心が傷つく。

心をなくしてしまったほうが、効率よく精力的に働ける。

そして、雇う側としてもそういう心を失った歯車のほうが扱いやすいので、そういう人間を重用する。

組織の目的や命令に文句を言わず従い、金儲けのために必要な行動を何とかかんとか達成し、それでいて良心の呵責なんて感じない、そんな使える歯車だ。

それは、文字通り歯車で会って人間ではない。

人間をやめた没人格の部品。それがこの社会では最も優秀とされている。

狂っている。

 

教育の問題点

私はよく義務教育と受験社会を批判するが、先生たちは本当に真剣に、子どもたちのことを考えて頑張っているんだと思う。そして、楽しい授業をする先生もいるんだと思う。

しかし、文科省がつくったマニュアルのみに従って授業をしていて、封建的な価値観で凝り固まっていて、授業が本当につまらない先生もいる。

私の人生では、そういう先生が90%を占めていた。進学校だったせいもあるだろう。

受験とは、ただの暗記ゲームでしかない。

頭に詰め込んだ情報を制限時間内にいかにアウトプットするか、というゲームであり、賢さとは関係のない遊びだ。

その遊びで、行ける大学が決まり、就職先の幅が決まる。

その遊びが得意かどうかで生徒の価値を判断する先生がいて、大学がある。

これはこの社会の事実。

子どもは遊ぶのが仕事で、勉強は遊びのひとつだ。

しかし、学校では、遊ぶことを禁じる一方で、受験勉強という暗記ゲームをやれと子どもたちに命令する。

その命令に背くと不良であり、従順に言われたことをやると優等生である。

そう扱われる。

これは、学校がもつ「歯車をつくるための政府直轄洗脳機関」としての性格を、もろに表している。

都合のいい奴隷の才能がある生徒、というのが、優等生であって、それが社会的に正しいと教えているのが学校で、そんな奴隷のような歯車が欲しいのが資本主義社会。

実によくできている。

 

受験勉強は学問ではないので、学問の面白さに小中高で触れられることは稀だ。

受験勉強は基本的につまらない単純作業なので、嫌いになっても仕方ない。

受験のためのノウハウを習得するための「授業」なのだが、先生が学問という体で話すと、生徒が混乱する。

学問はもっと面白い。そして自由だ。点数化されたりしない。

受験ゲームのせいで、学問をつまらないと勘違いしてしまい敬遠する人が多くなるのだと思う。

先生も不憫で、学問を話していると、保護者から「そんな意味のないことはいいから受験で勝てるようなことをやれ」などとクレームを言われる。

保護者も奴隷養成機関である義務教育に洗脳されているので、もう手の施しようがない。

先生ひとりが頑張るには限界がある。

ではその上の文科省はどうかといえば、本質をとらえ改善する気もなければ、本質に到達できる頭もないように、私には見受けられる。

もうお手上げだ。

だから先生ひとりひとりを責めることはできない。責める気もない。

システムの問題であり、社会が狂っているので、仕方がないといえば仕方がない。

 

医療・福祉の問題

その奴隷養成課程を立派にこなした歯車候補だけが、医学部や薬学部に行くことができるしくみなので、当然洗脳を色濃く残した人が医療に携わることになる。

誤解のないように言うと、医師や薬剤師の先生方をディスっているわけではない。

尊敬できる先生はたくさんいるし、むしろ受験ゲームが苦手なのに苦労して進学した先生などは、辛苦を知っているだけに優しさと思いやりにあふれていたりもする。

でも、そういうタイプを除くと、基本的には自分たちは一般的な人間より優秀で上質だと思っている。ブランド意識がある。

となると、扱い方として、患者は必然的に身分が下、ということになる。

私たちがクリアできたゲームをクリアできなかった人たちが、お客さんである。

そういう意識があると、指導的・高圧的なスタンスを取ってしまいがちだ。

表立って態度には出さなくても、滲み出てしまう。

「ダメなこの人をなんとかしてやろう」

「間違っているから正してやろう」

という上から目線になる。

そうなってしまうと、もう患者さんのことは見えないし分からない。

机上の空論でしか物事をとらえられなくなって「エビデンスがエビデンスが」と頓珍漢なことをやりかねない。

 

これは福祉の分野でも同じことが言える。

病んでいて、社会になじめない人が支援の対象なので、社会に馴染めていて支援する立場の自分たちを上だと錯覚してしまいがちだ。

「可哀想なこの人たちを助けてやろう」

「社会に馴染めている私たちが、正しいことを教えて社会に戻してやろう」

こんな狂った社会に馴染めている時点で狂っているのは支援者のほうなのだが、心から善意でこんなことを思っている場合がある。

可哀想、と思うことは、侮辱である。

同情や憐れみというのは、相手を下に見ている。

そもそもこの社会に馴染めないほうが正常であり、「今だけ金だけ自分だけ」がスローガンの現代社会に馴染めている時点で何かを失っている。

だから、支援者はむしろ援助対象に学ぶべきことがあるという意識で対等に関わるのがベストだ、といち社会福祉士としては思っている。

他人として失ってはいけないエッセンスを、彼らは持っている。だから病んでいる。

 

親子の問題

家族としての在り方も、崩壊して久しい。

「子どもがゲームばかりしているので、やめさせたい」と相談を受けてよく話を聞いてみると、親のほうに子どもと一緒に遊ぶ余裕がなくて、子どもと一緒に何かをしたことがあまりないケースが散見される。

「家で遊ばせる」という状況のなかに、親の存在がいない。

ひとりで勝手に遊んでいてほしい、自分の時間を奪わないでほしい、そういう印象を受ける。

子どもは当然、一人遊びはつまらない。飽きる。限界がある。

その結果、ひとり遊びとして面白いゲームやYoutubeに行きつくのは当然だ。

なんせ、様々な技術者が腕によりをかけて「どれだけ時間を使ってもらえるか」を考え尽くして完成したコンテンツである。

どれだけ依存させられるか、どれだけ金を巻き上げられるか、そういう意図で没入するように仕組化されているコンテンツに、子どもが抗えるわけがない。

やめさせたいのなら、もっと面白い現実の遊びを提案するしかない。

それは、生身の人間同士の触れ合いだったり交流だったりするが、親は時間を取りたくない。いや、取る余裕がない。

なぜなら、歯車としての役割を演じる「仕事」で、毎日が精いっぱいだから。

生活するために必要なお金のための「仕事」で忙殺された結果、本来最も大切な子供との時間を削っている。

そしてその最も大切なことを犠牲にしている罪悪感を、子どもに押し付ける。

「あなたたちを育てるためにはお金が必要だからしかたない」

「おまえたちのために働いているんだ」

そう言って、子どもや配偶者のせいにして、自分が責任を果たせていない状況を正当化する。

 

余裕がないのは、しかたがない。この国は貧困国だから。

年収の中央値は276万円。

共働きしなければ、一般庶民は生活できない。

そして就職先の営利組織というのは、金のために奴隷のように社員を働かせる資本主義の権化なので、できるだけ時間とエネルギーを搾取してくる。

社会の仕組みとして、もうすでに破綻している。

だから家庭もシステムとして崩壊する。当たり前のこと。

 

 

もはや、この社会システムに頼らず営みを構築するしかないように思う。

経済とは切り離した生活基盤をもつしかない。

隣人同士で助け合ったり、物々交換で貨幣を通じずに価値を循環させたり、家庭菜園で自分たちの食糧を確保する。そういうふうにして貨幣経済に由来する交流を最小限に圧縮していくことが、自分たちの時間と自由を取り戻すために必要になっていると思う。

だから仕事なんてそんなに命かけてやらなくていい。

配偶者や子どもと一緒に時間を過ごし、関わる人には感謝と愛を伝え、家庭を中心とした手の届く範囲の世界の平和に力を尽くしたほうがいい。

 

「今だけ金だけ自分だけ」

経済社会の呪いと洗脳。

この歪みに境界線を引こう。望まない強制にNoと言える一歩引いた態度を心がけよう。

医療にしても、福祉にしても、学べば学ぶほどそんなことを思う。

【哲学】自分の死とはなにか

解剖学者の養老孟司先生は、「自分の死」は「論理的に意味がない」と言いました。

 

「死」とは、自分のものではない、ということです。

「死」という概念は、その人の親しい人の死で構成されています。

親の死。子どもの死。恋人の死。友人の死。会って話したことのある人の、直接の死。

知らない他人の死は、どこか遠くで起きている出来事のようで、つまりみんなどうでもいいと思っているんですね。死のうが生きようが知ったこっちゃない。

客観的に、自分の死体というのは知覚することができません。

死んだら、自意識は存在しないから。

つまり、自分の死というのは、想像の産物です。

想像の産物をいくら考えても、仕方がないし意味がない。

それでもなぜ考えてしまうのか。

「終わり」ということへの、恐れと不安があるからです。

つまり、自分の「死」というのは、「恐れと不安」に因数分解されます。

何に対する恐れと不安なのか。

それは、自分の生に価値があったのか、結論を出すことへの恐れと不安です。

「自分は人生において価値を残せないまま終わるのではないか?」という恐れです。あるいは「感じるべき喜び・本来やるべき責務を残したまま終わりを迎えるのではないか?」という不安です。

 

漫画『バガボンド』で、槍の名手である宝蔵院胤舜は、武蔵と闘った末に生と死のはざまをさまよいます。その際、自分の人生を走馬灯のように振り返ります。

そして、己が強さと勘違いしていたものは、弱さを覆い隠すための「偽りの強さ」であり、自分の弱さを隠すことに必死で精いっぱいだったために、自らを孤独にしていたことに気づきます。

 

俺は強くなったはずだった

 

強くなろうと思って

懸命に砂をかけていたのか

 

罪を 弱さを 覆い隠す為に完全無欠の強さを求めたのか

 

俺はここから一歩も動いちゃいなかった

俺自身も覆い隠し 誰に何も与えもせず

 

孤独

 

孤独のまま

もう誰にも手の届かない場所に

 

生きたい

 

引用:『バガボンド』第8巻 砂遊びより

 

死への恐れと不安、未練ともいうべきか。

死に直面してはじめて彼は、深くカギをかけて向き合ってこなかった現実に気づきます。

友がいたこと、愛に包まれていたこと、孤独ではなかったこと、自分の弱さ。

真の「孤独」とは、それらの周りの愛に気づかないまま、己の弱さを直視しないまま、誰とも繋がらないままに生きてしまうことで生まれるのではないでしょうか。

己の弱さを認めて受け容れることができない限り、本当の強さには到達しえない。

本当の強さとは、「自分が弱い」という事実を知り受け容れていることです。

だから、強い人は優しい。

 

武蔵……

優しくなった

強くなっているんだな

強い人は皆優しい

引用:『バガボンド』第25巻 より

 

命が終われば、一切は関係がなくなります。

どれだけ賞賛され財産を蓄えようとも、それはこの世界からの借り物。

我々は受託者であって、所有者にはなりえない。

なぜなら、いつかその人生には、終わりが来るからです。誰にも等しく、借りていたものを手放すときが来るからです。

大好きなあの人も、憎くてたまらないあの人も、認めてくれたあの人も、認めてくれないあの人も、誰もかれもが、いつか必ずこの世界から姿を消します。

死後のどんな名声も悪評も、死んでしまったら、自分自身には何の損得もありません。自分の肉体は既に朽ち、知覚する意識も身体的機能も土に還っているから。

だから、誰かに認められようとか、誰かに気に入られようとか、誰かに復讐してやろうとか、そういう感情も対象も、いずれは何もかもが消えてなくなるということです。

もっと巨万の富を得ようとか、もっと社会的権威を得ようとか、そんな行動には意味がないということです。

そんな意味のないことに費やす時間。とてももったいないと思いませんか。

 

今そこにある現実だけがすべて。

ということは、与えられるべきものはいつでも、全て揃っているといえるでしょう。

終わり(死)というのは、いつも傍にある、ということです。

常に誰の隣にもひっそりと確実に寄り添っていて、当人がそれを身近に感じるか、遠く感じるかの違いでしかない。等しく終わりはある。

それが救いでもあり、恐れと不安の源でもあるんだなぁ、と思います。

 

限られているからこそ、その一瞬一瞬には価値がある。

桜を美しいと思う心があるように、その輝きが有限であるからこそ、人は美しいと感じるのです。

限りがあるからこそ与えられたものを有難いと感じ、生命感があるからこそ、深い歓喜を味わうこともできるのだと思います。

 

今与えられているものに不満がある、というのは、不自然な欲望に目が眩んでいるから。

哲学者エビクロスが分類した欲望には、自然な欲望と無益な欲望の二種類があります。

無益な欲望は、富・名声・権力などです。

自然な欲望には2種類あります。

必須ではないものは、豪華な食事・性愛など。

必須なものは、衣食住・友人・健康など、です。

 

日本の三大随筆『徒然草』で兼好法師も次のように言っています。

人間にとって必要なものは、衣食住に薬。

その四つが満たされていない状態を、貧しいというべきであって、これらが満たされているのなら、その人は充分に豊かな生活をしているといえるだろう。

そして、この四つ以上のことを追求することを、贅沢と考えることだ。

引用:『徒然草』兼好法師

 

結局、名誉や欲望に囚われて心静かに過ごす暇もなく死んでいくというのは、とても苦しい不幸なことだということです。

財産や名声を失うことを恐れ、満たされない欲望に不安を感じながら、業火に焼かれるように生きる。そんな苦しみに満ちた人生は、豊かな人生と言えるでしょうか。

「足るを知る者は富む」という言葉がありますが、あるものに感謝できて平穏な心で「今」を生きることができる、それが真に豊かなことだと思うのです。

 

そんなふうに穏やかに強く優しく生きている人は、他人に施すことができます。

見返りを求めず、自分が大切に想うものを差し出すことができます。

それを、愛といいます。

愛を譲りうけると、その人と繋がることができます。愛によって、ひとは他人と繋がります。

そしてその繋がりは、死してなお、生きている人を勇気づけます。

肉体が滅びようとも、今を生きる人のなかに、あたたかな支えとして在り続けることができます。

その支えで生きた人が、また愛をこめて他人に関わると、それは次世代に引き継がれていきます。

「いつまでも生きていたい」という欲望のために、他人を使おうとしたり操作しようとしたりする人がいますが、それは永遠とは最も遠いところにある行いだといえるでしょう。

唯一、私たちが死を越えて残せるとすれば、それは愛しかない。

逆に言えば、大切な人に無償の愛を捧げた人は、死なない。

 

存在しない「自分の死」。

その妄想に目を眩まされることなく、今を生き、愛を行う。

それしか、私たちにできる事はなく、それこそが、死を乗り越える唯一の方法だといえるでしょう。

 

愛するということについては、フロムの技術体系をこちらにまとめています。

【メンタル】失われた「愛する」という技術(エーリッヒ・フロム)

 

 

【メンタル】勝利主義がもたらした「呪い」からの脱出方法

勝てば官軍負ければ賊軍。

この世は不幸な人しか生まない勝利主義社会です。

99%の負け犬と、1%の傲慢な勝者で構成されています。

 

昭和の時代、高度経済成長期にあった時代は、まだ立身出世主義の神話が成立していました。

頑張れば頑張るだけ裕福になれる。努力は必ず報われる。

そういう宗教を信じることができる、幸運な時代。

しかし今は違います。

小泉政権による派遣法改正により、圧倒的に非正規雇用が増えました。

安い労働力として人材を派遣会社からとっかえひっかえできるようになってしまったことで終身雇用は崩壊。「いい会社に一生勤めれば安泰」という神話は過去の遺物となりました。

いつ首を切られてもおかしくない。正社員もそんな不安と緊張にさらされ、大企業にいてもいくら出世しても、将来の道筋は判然としません。

「いくら頑張っても報われないじゃないか」

「こんな希望のない社会で、生きている意味なんてないんじゃないか」

抱える絶望は、人々を「ニヒリズム(自分が何のために生きるのか見失い、絶対的な価値や希望など無いと気づいて絶望すること)」に陥らせます。

 

99%の負け犬は、負けを背負って妬み嫉みに身を焼かれます。

本来その人に与えられたものは決して卑下するものではないとしても、恵まれた他者と比較すると、相対的な価値観に囚われ、あったはずの満足は霧散していきます。

この世には、とてもたくさんの人がいます。

常に自分より優れている人がいるものだし、常に自分より社会的に成功している人がいるものです。

だから、他人と比較するのをやめられない限り、嫉妬の炎に身を焦がす苦しみからは逃れられません。

 

負け犬はもちろんのこと、1%の傲慢な勝者ですら、不幸です。

国内で成功者といえばプロ野球選手の「イチロー」を思い浮かべる人もいるでしょう。

彼は「もう一度生まれ変わったら野球をやりますか?」と聞かれたとき「やりたくない」と言ったといいます。「野球はやめたかった、つまらなかった」と言ったそうです。

なぜか?

勝ち続けなくてはならない「成果出そうゲーム」は、降りたら終わりだからです。勝者で在り続けるためには、降りられないからです。

ずっと競争して、ずっと評価にさらされて、あんなに小さい頃好きだった野球が、嫌いになったといいます。

 

世界に目を向けてみると、古代ギリシャで大帝国を築いたとされる「アレクサンドロス大王」がいますね。

彼は歴史に残る大勝利をおさめた英雄ですが、その功績が自分を神と称するほどの傲慢さをもたらしました。

大酒飲みで、猛烈な癇癪持ちで、他人に関心を持たず自分のことばかりだったといいます。そしてもっともっとと領土を欲し戦いに明け暮れていたところ、あっけなく病に倒れ32歳という若さでこの世を去ります。

人間らしさを極限まで削り取り、何か一つの要素(アレクサンドロス大王の場合は「戦争に勝利する能力」)で秀でたとして、本当の意味で彼は幸せだったのでしょうか。

 

会社員もそうですよね。

入社したら問答無用で出世レースに乗せられます。失敗したら終わり。辞めたり休職したりしてレースを降りたら終わり。

優れた営業成績を出したり、プロジェクトを成功させたり、結果を出せば会社が褒めてくれる。同僚や部下に馬鹿にされずに済む。

私も今までそうでした。そのためのノウハウを詰め込んで、いっぱいいっぱいになりながら働きました。

こうすれば売れる。こうすればできる。

有能な社員としての在り方はわかるし、ある程度できるようになりました。

でも、ある日ふと思うのです。

「これが本当にありたい自分だろうか?」

うではない。だから、つまらないし苦しい。そのことに気づくのです。

そのことに気づくこともできない鈍感な人間だけが、評価主義・功利主義・勝利主義のレースのなかで「偽りの幸せ」に騙されて、平気な顔で生きていられる。

この社会でのエリートや勝ち組というのは、実はそういう滑稽で哀れな人種です。

 

「ホリエモン(堀江貴文)」さんや「ひろゆき」さんはまさにこの人種で、ニーチェのいうところの「末人」ではないかしら、と思うのです。

 

 

「勝てばあとは何でもいい、勝つこと以外に価値はない」。ある種のニヒリズムをこじらせて結果主義の先を誰よりも突き進んだ結果、その人は「今だけ金だけ自分だけ」に堕ちていきます。

彼らをもてはやし崇め奉る人は、現代社会において驚くほど多いですよね。

彼らの裏にあるのは、「勝ち組の側でいたい・負け犬の側になりたくない心理」、つまり恐れと不安と憎悪です。

今まで美辞麗句を並べながら何も変えられなかった親世代を、論理でバッサリ「バカ」だと切り捨てる話口は、親世代に不満を抱えている彼らにとって実に痛快です。しかも経済的に成功した功績があり、数字のうえでの「見た目上勝っている側」だという後ろ盾(信用)がある。

「俺たちが言いたかったことをよくぞ言ってくれた」と拍手喝采して彼らを肯定することで、彼らの側、勝ち組側に「同化」したいのです。

なぜか?

負け犬である自分たちの現実を忘れたいから。

「本当は俺たちはこっち側なんだ、勝っているんだ」と錯覚したいからです。

だから盲目的に崇拝する。自分の心を守るために。

しかし、それって承認欲求の満たされなさからきている痛切な願いなんですよね。

「他人から愛されたい」「なんとしても気に入られたい」

それが満たされない現実が苦しいし辛いし悲しい。

何としてでもよく思われようとして、他人に同化しようとするとき、人は「奴隷」に成り下がります。

 

つまり、生きる意味を見失っているのです。

ホリエモンさんやひろゆきさんを崇拝する彼らも、末人ということになります。

ニーチェはニヒリズムが世界を覆いつくし、末人だらけの世の中になり、人々は生きる意味を見失うだろうと予見していました。その通りになりましたね。

 

自分の行動を、自分以外の誰かに握られ、支配されるということは、

「他人からどう思われるか」

「他人から気に入られるか」

を気にして生きるということです。

「自ら自由な生き方を放棄している」ということと同じ。

自らの意思を放棄して、長いものに巻かれて、自分の満たされない承認欲求を誤魔化している人は、とても多いので、それが当たり前になって久しいと思いませんか。

「いい大学に進学する」

「いい大企業に就職する」

「有名人とお近づきになる」

「インフルエンサーになる」

「上司に卑屈なほど遜りゴマをする」

そんな自由な生き方を放棄した大人たちに失望した子どもたちが、生きることに価値を見出せないのは当たり前です。

子どもたちは、内心そんな大人たちを蔑み憐れんでいるので、だからこそ大人になんてなりたくないし、社会になんて出たくないと思うのでしょう。

男の子の将来の夢の第1位が「Youtuber」で第2位が「Eスポーツプロプレーヤー」になるのも、納得です。

子どもたちがダメになったんじゃない。不真面目で夢見がちなんて、とんでもない。大人たちと大人たちがつくったこの社会に全く魅力がないからですよ。

 

本来、夢にはいろんな形があります。

しかし「夢がかなったイメージ」を想像すると、皆から認められ称賛を浴びているシーンを思い浮かべてしまいがちです。

この社会に生きる多くの人にとって、分かりやすい成功イメージとは「他者が自分の価値を決めているシーン」に固定されてしまっています。

この社会はランキング主義であり、評価主義です。

他人が自分の価値を決めるのが成功なら、裏を返せば「結果が出ていて他人がそれを認めてくれなければダメ=夢はかなわない」という図式だと言うことです。

評価の軸が自分では無くて、他者に委ねられている。

フォロワー数、動画再生数、年収、偏差値。

数字になってわかりやすい評価軸には、実は実体がなく、空虚な蜃気楼にすぎません。

なぜなら、他人の評価とは、うつろいやすい水物で、雰囲気のようで、自分とは切り離された「他人のなかの勝手な思い込み」だからです。

年収が高いからいい仕事をしているとは限らないし、そもそもお金はただの紙です。偏差値が高いから賢いわけでもないのは、コロナ騒動で皆さんもよく知るところでしょう。動画視聴やフォローも気分でクリックたまたましただけです。実際は鼻で笑ってみているだけかもしれないし、動画は1秒くらいしか観ていないかもしれません。

ひとつの切り口としてのデータで在り、本人そのものの価値とは全くリンクしない。本人そのものに関するするものではないから。データが付加価値を自分に付与してくれると信仰しているだけ。

 

私はこの評価主義・ランキング主義という宗教に、まんまと騙されて生きてきました。とても恥ずかしいですが。

大学受験は偏差値だけで大学を選びました。そこで何を学びたいとか、考えもしていませんでした。そのくせ、自分より偏差値の低い大学を出た人間、大学すら言っていないような人間は、自分より下等な生き物だと思っていました。恐ろしいアホですよね。(笑)

最初に入社した中小零細企業から超大企業に憧れて転職したのも、内心自分の社会的価値が上がると思ったからでした。

ふたを開けてみれば、何のことはない、同じような詐欺を大規模に展開しているか、小規模展開しているかの違いしかなかった。

私のやることはほとんど変わらず、自分の価値などもちろん上がることはなかった。

確かに、肩書が変わったことで、婚活市場では「優良物件」とそれなりに競争力を得て、銀行は給与口座をすぐに開設してくれました。

しかし私という人間は良質なものに成ったかと言えばそうではなく、本質は何も変わっていません。むしろさらに病んでアルコール依存症がひどくなっただけでした。(笑)

 

哲学者エピクテトスは、次のような趣旨の言葉を残しています。

自由な人生を望むなら、なぜ他人の評価にとらわれて生きるのか。

それは、ほんとうに自由な生き方と言えるだろうか?

地位や名誉や財力に囚われ、それを基準に生きるとは、何かに囚われる不自由な人生である。

我々次第ではないものを、もっと軽く見なさい。

そんなものは、人生にとって重要なものだと真剣にとらえなくていい。軽んじていい。

自分が変えられる範囲のものに、重きをおきなさい。

 

また、依存症の自助グループでよく唱和される『平安の祈り』ではこんな言葉がつづられています。

神よ、私にお与え下さい。

自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを。

変えられるものは 変えていく勇気を。

そして 二つのものを見分ける賢さを。

原典『ラインホールド・二ーバーの祈り』

 

他人の評価というのは「我々次第ではないもの」であり「変えられないもの」です。

そんなものを人生の軸に据えてはいけないのです。

自分には力の及ばないものとして謙虚に受け容れ、囚われない落ち着きをもつ者こそ、真の賢者といえます。

ずっと、負けないように他人と比較しながら、蹴落とし蹴落とされてボロボロになりながら生きる人生。

それをまた生きたいと思いますか?

また生きたいと思えない人生が、あなたの本当の人生でしょうか?

きっと違いますよね。

 

ニーチェのいう「永遠回帰」とは、この人生が永遠に繰り返されるという仮説です。

永遠に繰り返されるとして、あなたは今、あなたの行動をどう選択するでしょうか。

変えられないものに固執して「自分は幸せなんだ」と自分を騙しながら生きる努力を続けますか?

その無駄な努力を捨てて、自分が変えられる範囲のものに重きをおく。

変えられるものを変えていく勇気を持つ。

それがニヒリズムの克服です。

 

三大幸福論のひとつの著者、バートランド・ラッセルは、次のように言っています。

「私たちの生き方というのは、私たち自身の深い衝動によって生きる道が切り開かれていく。」

 

他の誰かの価値観ではなく、自分の価値観と内なる声にしたがって人生の一つ一つを選択したのなら、その結果がどうであっても、あなたは納得することができるでしょう。そしてあなた自身を誇り、運命を引き受けることができます。

不幸も失敗も、どんなに苦しい瞬間や深い絶望も、自分が選んだものとして向き合い受け容れる勇気をもつことができます。

そうすれば未来にも失敗にも、怯えることなく生きていけるのではないでしょうか。

だって、結果がどうなっても、あなたが決めてあなたが行動したことに価値があり、常にそれだけが最善なのだから。

であるならば、あなたは不幸も失敗も含めて人生そのものを肯定して生きていくことができるのではないですか?それ以上のそれ以下もないのだから。

そんな人生ならば、もう一度繰り返すことになったとしても、それを受け容れることができるのではないでしょうか。

これが本当の「自己肯定」だと、私は考えています。

何かができるとか、誰かより何かで優れているとか、社会に役に立っているとか、そんなことで存在価値を補強する必要なんてないのです。

自分には限界がある。それでも常に最善を尽くす。その行動が目に見える結果に結びつかなくても、大丈夫。きっと経験が糧となり、どこかの何かと繋がっている。だから絶望する必要はなく、落胆する必要もない。

このラッセルがいうところの「いい諦め=希望に根差した諦め」は、実に清々しいと思いませんか。

 

ホモ・ルーデンスは「遊びは文化よりも古い」という言葉を残しています。

「文化」の上位概念として「遊び」がある、というんですね。

競技性がある以上、法律というルールで競う裁判も、弁論を戦わせて真実を求める哲学も、全て遊びであると。

そして「遊び」の本質は、自分の内なる純粋な感覚の発露であり、他人には決して侵害できないし、決められないものです。

だって利害もなく制約もなく、あなたが「面白いから」という晴れやかな感激のための行動なのですから、他人には定義しようがないのです。あなたのなかにしか基準が存在しない。

子どもの頃、今思えばくだらない遊びに没頭した経験はないでしょうか。

朝露が光るだけで、なぜこんなに美しいのかと心を躍らせたことはないでしょうか。

私たちは、そのやり方をすでに知っています。

私たちのなかの子ども(インナーチャイルド)が、すべて経験してきたことです。

 

現代社会は、遊びが失われた世界です。

功利主義・合理主義・経済的な競争社会が遊びの要素を根こそぎ剥ぎ取ってしまった。

金儲けのために、皆真面目になり過ぎたのです。

そのため、遊びの要素を失った「文化」は崩壊が進みつつあります。

資本主義経済社会における「マネーゲーム(商業競争)」は、闘争本能に従うだけの偽りの遊びです。

過度に競争心を煽り消耗しあうだけで、得られるのは晴れやかな感激とはほど遠い、行き過ぎた興奮に狂っています。まるでジャンキーです。

「仕事だから」とマネーゲームいう偽りの遊びに重きをおきすぎていませんか?

そんなことに存在価値や人生を賭けていると、人は疲弊して病んでいくものです。

だから、こんなにもこの国は自殺者が増加し、精神疾患患者が増え、SNSは怨嗟の声にあふれかえっているのではないか、と思うのです。

 

もっと、心のままに遊びましょう。

私心のない興味を、最も大切にしましょう。

この世は不思議なことだらけです。「もっと知りたい」と思う純粋なその興味に素直になりましょう。

人間はいつ死ぬか、わかりません。それは誰だってそう。

望んでか望まずか、偶然にもこの世に生を受けたのですから、やっているだけで楽しいような何かに、全神経を集中させましょう。

変えられないものではなく変えられる範囲のものに、自分を楽しませることに、集中しましょう。

 

そんな風に思う今日この頃。

【哲学】自省録(マルクス・アウレリウス)

哲人皇帝。マルクス・アウレリウス。

私は彼を尊敬している。

古典の最高峰の一つ、『自省録』。

この名著は一度読んでおいて損はない。

 

 一つ一つの行為に際して自らに問うてみよ。

「これは自分といかなる関係があるか。これを後悔するようなことはないだろうか」と。

瞬く間に私は死んでしまい、それまでの間のこともすべて過ぎ去ってしまう。

現在私の為すことが、叡智を持つ、社会的な、神と同じ法律の下にある人間の仕事であるならば、それ以上何を求めようか。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P142

 

私の一生。

それは永い時の流れのごく一部、ごくわずかな一点に過ぎない。

誰もがそうだ。どんな偉い人も、どんな賢い人も、どんな金持ちでもそうだ。

他人に軽んじられるとか、病で死ぬかもしれないとか、豆粒のようなちっぽけな存在が団栗の背比べをやっている。

なんてくだらないんだ。

私は与えられた今を全力で生きる。それ以外に無い。シンプルだ。

今までもそうだった。これからもそうだ。そして肉体がいつか朽ち果てる。

精神はどうだろうか。

精神は、愛によって繋がった者のなかで生き続ける。

それが『叡智を持つ、社会的な、神と同じ法律の下にある人間の仕事であるならば』。

それをいつも点検せよ、とアウレリウスは言っている。

きちんと「それができている」という自信があるならば、他に何を求めようか。

おっしゃるとおりである。

「これは自分といかなる関係があるか。これを後悔するようなことはないだろうか」

自分の私利私欲のために他人を傷つけるものではないか?

私が子々孫々に誇れるようなことだろうか?子供の前で包み隠さず言えるだろうか?

私が関われる範囲だろうか?他人の境界線を越えて侵害するようなことはないだろうか?

そうではないなら、誰に恥じる必要もなく、臆する必要もない。

 

 

自分の内をみよ。内にこそ善の泉があり、この泉は君が絶えず掘り下げさえすれば、絶えず湧き出るであろう。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P134

 

内が濁っていると、目を逸らしたくなって人は外を見る。

そのほうが楽だから。

誰それが不正をしただの、何かに違反しただの、そういう挙げ足を取って正義を振りかざす側に回ろうとする。

そういうとき、私の心は病んでいる。

そういうときこそ、自分の内をみよ。

自分の内にある、良心・インナーチャイルド・善なる魂の声に耳を傾けよ。

その声に素直に応じればいい。

外に向いているうちは、内に眠る善の泉は渇いたままだ。だから満たされない。

何をすべきか見失う。

焦りと恐れと不安にさいなまれる。

だからこそ、苦しい時こそ、内に目を向ける。

自分は何を求めているのか、何を恐れているのか、何が不安なのか。

その奥にある善なる己の言うことを聞き、徹底的に信じること。

アウレリウスの師である、奴隷の哲学者:エピクテトスは「人が何を思い、何を考えるか、この「意思」だけは何人たりとも、たとえ神でも奪えない自由なものだ。(中略)人間にとって「意思」以上に優れたものはないのだ。」と言った。

唯一誰にも侵害されない、尊い「意思」。

それを他人に譲り渡してはいけない。損得で見失ってはいけない。

「気に入られたい」「よく思われたい」

他人にどう思われるかを気にするということは、他人に「意思」を差し出しているのと一緒だ。

心の底から自分の人生を楽しみたいのなら、「意思」を手放してはならない。

「意思」の出発点は、常に自分の内なる善に根を張っていること。

それが、人生を生きるということだ。

 

 

人に善くしてやったとき、それ以上の何を君は望むのか。

君が自己の自然に従って何事かおこなったということで充分ではないのか。

その報酬を求めるのか。

それは目が見えるからといって報いを要求したり、足が歩くからといってこれを要求するのと少しも変りない。

なぜならば、あたかもこれらのものが各々その特別の任務のために創られ、その固有の構成に従ってこれを果たし、そのことによって自己の本分を全うするように、人間も親切をするように生まれついているのであるから、なにか親切なことをしたときや、その他公益のために人と協力した場合には、彼の創られた目的を果たしたのであり、自己の本分を全うしたのである。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P186

 

他人に何かを施す代わりに何かを盗もうとする人で、この世は溢れかえっている。

give-and-take。損得で行動する人たち。

こうした人々が「デキる人」と、もてはやされるこの世は、狂っている。

我々があるべき本来の在り方とは、遠く離れた生き方だ。

我々はひとつであり全部。世界を構成するごく一部であり、世界そのものでもある。

何もかもが、ひとつであり、別々なのだ。

ということは、この世に敵などいない。競争相手もない。

敵とは、受け入れがたい自分自身のことである。

自分に与えられるものが、必要な全てのものだ。すでにすべてはそろっている。

勝ち取るとか、つかみ取るとか、ビジネスの分かりやすいサクセスストーリーやハウツー本ではよく目にするが、それは錯覚に過ぎない。

富も名声も、誰のものでもない。

ある時代の一点において手に入れているようにみえても、全ては世界のものであり、誰のものでもない。

だから、周りにいる人よりたくさんのお金を集めようと執着したり、時の権威に認められようとゴマをすったりすることは、何の意味もない。

手に入るものは、虚構だからだ。

自然界にあるものは、それぞれがそれぞれを全うすることで、成り立っている。

己の良心に従ってすべきことをしていれば、金が無かろうが、誰にも認められなかろうが、それで完璧だ。

なぜなら、人生とは誰かに見返りを求めて生きるものではないからだ。

 

 

君がまわり道しいしい到達しようとねがっていることは、これを自ら自分に拒みさえしなければ、どれでも今すぐに手に入れられるのだよ。

それには全過去を打ち捨て、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向に向ければよいのだ。

敬虔というのは、君が自己に与えられた分を愛するようになるためで、これは自然が君に定めたものであり、また君をこれに定めたのでもある。

また正義というのは、君が自由に、そしてまわりくどいことは抜きに真理を語り、法律に従い、ものの価値相応の行為をなすようになるためだ。

他人の邪悪や意見や言い草や、また君の周りに蓄積している肉の感覚に縛られるな。それはその感覚を覚える部分の知ったことだ。

引用:『自省録』(マルクス・アウレリウス)P229

 

自分を受け容れるということ。

「全過去を打ち捨て、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向に向ければよい」

これほど心強い言葉があるだろうか。

『いくらまわされても針は天極をさす』とは高村光太郎の言葉だが、まさに良心、存在そのものとはそういうものだ。

心が過去という過ぎ去ったことに、いくら振り回されようとも、未来を憂い不安に思う心に、いくら翻弄されようとも、針は天極をさす。現在という天極に集約される。

「己に与えられた分を愛し」「自由に正直に良心に従う」という、天極に向かう。

それを含めた、自分を超えた大きな流れの摂理を受け容れ、素直に生きること。

それが、私が目指す生き方であり、たどり着いた天極である。

 

この『自省録』には、悟ったようなことばかりが書いてあるわけではない。

生々しい苦しみを吐露する、等身大のアウレリウスに会うことができる。

私には常に連絡を取り合うような生きている友は少ないかもしれないが、本を開けばいつでも同志に会える。

だから、私は孤独ではない。いつでも親友がすぐそばにある。それがはるか昔の会ったこともない哲学者だとしても、回り道しいしい到達しようとねがっている限り、同じ世界を生きている。

良心に基づいて生きる限り、そうやって生きてきた今までの人々と繋がる。

真に孤独を癒すのは、この繋がりであり、繋がりを感じるには、自分を偽らないことだ。

そしてこの繋がりは、善行と愛によって綯われている。

何よりも誰よりも、強く美しくつながる。

【発達障害】立ち話も電話も出社も嫌で仕方がないという話(神経発達症)

私は他人と話すと神経が削られる。

これはACを自覚して、回復プログラムに取り組んでからも変わらない。

ADHD・ASDと診断されてインチュニブを飲んでも変わらない。

おそらくは発達傾向として「コミュニケーション」にとても疲れを感じる性質なのだと思う。

 

かたや、他人と話すと元気になる、という人もいる。

本当に不思議だ。

どういう理屈で元気になるんだろう。

同じ発達傾向でも、ADHDの傾向が強い人は、割とこのタイプがいたりする。

 

私はどちらかといえばASD寄りなので、自閉傾向が強い。

昔の言い方でいう「高機能自閉症」というのに該当している。

コミュニケーションは取れるものの、得意ではなく、自分の世界に没頭しているほうが好き。

没頭しているときに何か邪魔が入ると、パニック障害に近いような癇癪を起こす。

小さい頃は、それでよく狂おしいほどの混乱に、ただただ泣き叫んで暴れていた。

そのたびに叱責され周囲に疎まれ、次第にこの状態をそのまま出すと他人に悪く思われると理解するようになる。

身体が成長するにつれて前頭前野が発達し、癇癪が起こっていても、何とか理性を働かせてブレーキをかけることができるようになる。

しかし、それは周囲に悟られないように耐えることであり、癇癪が起こらなくなったわけでは無い。

私の内部では、感情の嵐が吹き荒れていて、いまにも叫びだしたいほどの苦痛を内側に抱えていることに変わりはない。

じっと耐えているから、周りにはわからないだけ。

しかしそれも一日に何回も強いられると、さすがに疲弊してくる。機嫌は悪くなるし、頑健痙攣は起こるし、腹が痛くなる。

 

パッと出会ってしまった他人と立ち話するとか、かかってきた電話に取るとか、相手の都合がよくなるまで待機するとか、おそらく定型発達には些細なことなのだろう。

私にとっては、とてもキツい。

 

とっさに他人と立ち話するのは、基本的に全然楽しくない。話題に面白味があり楽しいときもあるが、どっと疲れる。

予定にない「立ち話」というイベントがはさまれることで、私がやろうとしていたスケジュールにズレが生じる。それがとてもきつい。急いで目的地に向かわないといけなくなったり、立ち話したことで新たに考え事のネタが浮かんでしまったりして、とにかく邪魔された感が強い。

 

かかってきた電話を取るなども、そのように邪魔になる。

何か作業をしているときに限ってかかってくる。

かかってきて不在着信が残る。それが気になる。

その時点で、今やっていた作業への集中力・没頭していた精神は、現実に引き戻されてしまう。せっかく1つの作業を完遂するためだけに研ぎ澄まされてのに、コールひとつで台無しだ。

そしてかけてみれば、大した用事でもなかったりする。はらわたが煮えくり返る。

こちらからかけるときもそうだ。

私は電話をかけるぞ、と思って決意をしてからでないと、話し出せない。

しかし、かけたときに相手が出るとは限らない。

折り返しが来たときには、私はまた決意を新たにし直さなくてはいけない。

電話ひとつでとても振り回される。だから電話は嫌いだ。

 

「1~2分で済むことじゃん」と思うだろう。

「そんなに気を張らなくても自然に話せばいいだけじゃん」と思うだろう。

そうできたら、どんなにいいだろう。

 

私は、一度にひとつのことしかできない。

そして自分が決めた順番にやることしかできない。

自分の順序・自分の作業への集中を乱されると、もう一度一からやり直しになるように感じる。

河原で石積をしていて、やっと半分積み終わったときに、横から蹴っ飛ばされて「あのさぁ」と話しかけられたら、どんな気持ちになるか、想像してみてほしい。きっと多くの人がキレるだろう。

あるいは、川のせせらぎを聞きながらただただ「石を積むこと」に集中したいのに、隣でデカい音楽をかけながらバーベキューし始めたら、イライラするだろう。

自分の時間に横やりを入れられる感覚は、これらに近い。

 

基本的に深い集中に入りきってしまえば、大したことでは引き戻されない。腹が減っても気づかないし、眠気も感じない。全神経を一つのことに集中していて、話しかけられても気づかないほどだ。

しかし入る途中や普段の状態は、ADHDの傾向が前に出ていて、頭のなかでは常に考え事をしている。五感は周りの会話や音や色や光をすべて拾おうとする。

世界は、やかましくてしかたがない。

音が聞こえにくく光の刺激が少ない水のなかが好きだった。だから習い事のなかで水泳は長続きした。今も海が好きだ。人が少ないビーチによく浮かびに行く。まるで水死体のようにずっと波に揺られてぷかぷか浮かぶのが好きだ。

ライブやクラブは大嫌いだ。まず音が五月蠅すぎる。光も不快。人が多すぎる。人の熱気で湿度が高く肌がべたつく。声を張らないと何も会話できなくて喉が疲れる。一つもいいことがない。

他人がいる空間にずっといなくてはならない、というのがもうダメだ。

オフィスに寄りたくない。他人に会うから。

会って話をしなくても、同じ空間に他人がいるのが嫌だ。気になって集中しにくい。

だから、どうしても大量にコピーしないといけない日や、提出物を出しに行かなくてはいけない日以外は寄らないし、寄ったとしても深夜か早朝の人がいないときに行きたい。

そうしたいのに、社用車の使用制限がかかって、出発前に上司にFacetimeで顔を突き合わせて連絡を取らなくてはならなくなった。

まるで地獄のような制度だ。

それだけで朝からもう疲れる。

朝晩にテレビ電話をしなくてはならない。それがどれほど苦痛なことか、定型発達にはわからないのだろう。

事務的に「今日も一日よろしく」「はい」で終われば1秒でよいのだが、「今日はどこ行くんですか?」だの「今日の○○クリニックどうでした?」だの聞いてくる。本当に止めてほしい。

業務連絡が必要なことなら、こちらから簡潔に話す。いちいち聞き出そうとしないでほしい。話さないということは、話す必要がないということだと、理解してほしい。ほっといてほしい。

同じような連絡を複数の人がやり取りするのも理解できない。

ひとつの内容の連絡は、1回でいい。

なぜ複数人から同じ内容を聞かせられないといけないのか、意味が分からない。

「ああ、それ〇〇さんから聞いたよ」と言われたときの私の脱力感たるや。

「ならわざわざ電話する必要なかったじゃん」とすごく気力を無駄にした気持ちになる。

 

おそらく、仕事においてこういう非効率的なコミュニケーションができる人は、仕事をしている自分が好きだったり、「仕事」という世界に浸っていたい・漬かっていたいんだろうと思う。

それはある種の逃避であり、依存でもある。

今の上司はまさにそうで、「ミスなし、モレなし、ダブりあり」がモットーらしい。

だからとにかく話したがるし、話させたがる。

本当に合わない。

MBAを取得しているんだから、ロジカルシンキングでいうところのMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)でいいじゃないか。なんで最も重要なダブりをありにするのか。

このモットーが無駄な仕事時間を生み、皆を疲弊させている。それをわかってない。仕事だけが好きな人なら、もっと浸っていられるからいいだろう。

しかし私は仕事なんて大嫌いだから、できるだけ脳のキャパを割きたくない。

割きたくないのに、無意味なことでメモリの使用率を圧迫するから、プレーヤー個人としての処理速度が落ちるし、アウトカムの質が落ちる。

つまり、仕事の遂行においても、マネージャーの存在は邪魔でしかない。

 

仕事というのは、人生のほんのごく一部だ。

そして、この世の仕事のほとんどは詐欺のようなものだ。

価値が低いものに価値らしきものを付与して騙しだまし高く売る。その差で儲ける。

詐欺に該当しないのは、自分たちが食べるものを必要な分だけ自分たちで作ることや、子どもを守り育てることや、人々の辛さや苦しみに寄り添い居場所をつくることだ。

つまり、自給自足のための家庭菜園・保育士や保護司・特定の居場所を運営する非営利団体などである。

お金は、全てが汚れている。

汚れをいくら集めても清くなることはない。

そればかりか、嫉妬や憎悪などの呪いを孕んだ呪物に近いので、それをたくさん手元においておけばおくだけ、人間が腐り、本当の幸せから遠ざかる。

だから、仕事など、生きていくために最低限でよい。

稲盛和夫や本田宗一郎を尊敬するビジネスパーソンは多いが、あれは「仕事」がバブル経済の崩壊前で「やればやるだけ承認欲求を満たすことができ努力が報われるゲーム」だったがゆえの理論であり、今の時代にはそぐわない。

仕事というゲームを「居場所」に見立てて、精神的な拠り所とした男性社会の宗教的幻想。

その背後には、仕事にかまける父親からネグレクトされ続けた母子が生むアダルトチルドレンという呪いを産んでいる。世代を超えて苦しめる呪いを産んでおいて、勝手に仕事を美化されてはたまらない。

仕事はただの労働だ。生きるために金が必要な社会だから金をつくるための作業だ。それ以上でもそれ以下でもない。それより重要なことは人生において星の数ほどある。

 

しかし、それが理解できる人は、金で殺し合いをしているこの新自由主義・資本主義社会では、珍しい。

「金は命よりも重い」。みんなカイジの世界で生きている。話が通じるはずもない。

命より重いわけなかろうが。紙幣は紙きれだし、硬貨は金属の板だよ。皆が洗脳されて価値があると思い込んでいるだけ。

 

話が随分とわき道にそれてしまったけど、結局、仕事なんぞにいつまでも漬かって現実から逃避したいとっつあん坊やには付き合いきれない、ということだ。

勝手にやっといてくれ。そして余計な意味のないことで私の貴重な時間を奪わないでくれ。

そんなことを本当に言うと相手が顔を真っ赤にして怒り狂うことは、今までの経験で心得ている。だから口には出さないのだけれど。

妻には「勤め人は向かないからやめたほうがいい」と言われる。

本当にそう思う。

人間が向いていない、ともいえる。

社会不適合者というのは、こういう人をいうのだ。やれやれ。