【AC】お盆に考える「親の愛とは何なのか」問題

お盆である。

実父母とひさびさに三日間過ごしてみて改めて感じたことについて、書いてみる。

 

実母の生い立ち

実母は、AC(アダルトチルドレン)でありACoA(アダルトチルドレン オブ アルコホーリックス)の当事者だが、否認しており回復に繋がっていない。

アルコール依存症の父(私から見た母方の祖父)の壊れた機能不全家庭に育った。

祖父もまたACで、母親の共依存から逃れられないままの人生を生きた。

脈々と引き継がれてきたACの系譜。

その先に私がいる。

 

実母の人生を振り返ってみよう。

実母は祖父から「食うのに困らないのは教師だから、教師になれ」と人生のレールを敷かれた。そして、それに従って生きてきた。

なぜかといえば、祖父は成功者のレールから外れてコンプレックスを抱えており、権威主義と満たされなかった承認欲求に支配されていたからだ。

祖父は、次男でありながら彼の母親に共依存的に頼られて、当時勤めていた総合商社をやめて地元にUターンした。海軍の軍役を終えて、幸運にも総合商社という経済的に裕福な生活が送れる職業に就いた祖父は、おそらく優秀だったのだろう。そしてその自負もあったはずだ。

その経済力を魅力に感じて、そして次男というポジションから介護とは無縁であると期待して、祖母は祖父と結婚した。結婚後突如として表れたUターンするという話は彼女にとって青天の霹靂であり、ひどく狼狽して激しく反対したそうだ。

その反対を押し切って、総合商社を退職したのは、祖父の兄(長男)が「地元に帰ってくるなら仕事を世話してやる」と約束していたからだ。

しかし、その約束は結果的に反故にされた。祖父は兼業農家として貧しい暮らしを強いられることになった。

貧しいばかりか年老いた母親の介護まで祖父母に押し付けられ、祖母は祖父に対する好意を急速に失っていったという。思い描いていた人生設計がものの見事に粉砕されて、祖父に対しては憎しみさえ抱いていたことだろう。その話を娘である実母にするくらいなので、そうとう腹に据えかねていた様子がうかがえる。

祖父は、自分の選択ミスにより針の筵と化した家庭の居心地の悪さと自分のACとしての生きづらさを紛らわすために、アルコールに依存することになる。

いつもREDウイスキーの瓶を枕にして寝ていたというエピソードから、私と同じようなアルコホーリクだったと容易に想像できる。

祖父は、愛した女性は自分そのものではなく自分のステータスや経済力と結婚したのだとわかって、絶望と自暴自棄に埋没した。

口を開けば母親に世の中に対する恨み言ばかり言っていたそうだ。完全なるマルトリートメントである。

実母は、そんな祖父に過干渉され、祖父を憎む祖母の苛立ちを八つ当たり的に日常的に浴びせられた。そしてその地獄のような家庭環境は、実母をしっかり伝統的なACとして育んでいった。

 

実母の現在

そして今も彼女は、ACとしての生きづらさを抱えたままだ。

息子や娘の就職先は有名企業や社会的に地位が高いと認識されている専門職(医師・薬剤師・弁護士・裁判官など)でなくては満足できない。

なぜなら、祖父から刷り込まれた権威主義を今も引きずっているから。

人生を、父親に言われた職業に就くため・母親から小言を言われない「いい子」であり続けるために費やし、自分のインナーチャイルドを窒息死させたまま生きてきたため、自己肯定感が低い。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第一章:インナーチャイルドを知る」

 

そのため、他者からの承認を求め、正しさに固執し、嫌われないために行動する。

しかし、それこそが他人との健全な関係構築を遠ざける。

その証拠に、彼女にはいつも親しい「友人」がいない。損得や共通点で繋がっている他人はいるが、胸の内を打ち明けられるような、心から信頼している他人が一人もいない。

だから常に孤独。その孤独を埋めるために、子どもに共依存する。

祖父の母親がそうであったように、祖父がそうであったように、子どもの人生に過干渉しイネイブリングする。歴史的にその方法しか子どもに対する関わり方を知らないので、不可抗力ともいえるが、子どもである私からすれば、たまったものではない。

実父はそんな実母にかける言葉も提示できる解決策もなく、居づらさや後ろめたさを隠すように、仕事に依存して家庭になかなか帰らなくなる。

マンツーマンで相手をさせられるのは、長男である私だ。

実父の代わりに、実母の愚痴を聞き、実母がかけてほしいであろう言葉をかけ、彼女の孤独を埋めるための「道具」に使われる。

子どもは生活力がないうちは家庭を離れることができない、私は母親から逃げられない。

逃げ場を失った私を人ではなくモノとして使っている自覚が彼女にはない。彼女のなかでは「愛情を注いでいる母親」であり、その愛情の見返りとして、子どもが自分に対して「お母さん大好き」と言うなど「承認欲求を満たしてくれる対価」を差し出すのは当然のことだと勘違いしている。

だから、自分を慕ってくれないとひどく気分を害して不貞腐れた結果「構ってちゃん」になる。「私はこんなに尽くしているのに」と罪悪感を煽って自分がしてほしい行動を引き出そうとする。

これは、ACがよくやりがちな「コントロール」であり、子どもを自分に都合がいいように「道具化」して支配しようとしている状況だ。

なので、私が成人した今も、私がきちんと満足できる優良企業()で働けているかどうかを真っ先に探ってくるし、何かしら世話焼きができる欠点がないかどうか「心配する」というふりをして詮索する。そして欠点らしきポイントを見つけると、舌なめずりをしてあれやこれやとアドバイスという名の過干渉をし始める。

本人としては、本当に本人の未来を案じていて「善き母親として子どもを気にかけている」と思っているのだろう。

本当に子どもを愛していて善き母親であるならば、成人した既婚者の息子に対して余計なことは言わず、ただ信頼して見守るものだ。

相手にはもう責任能力があると信じていて、そのように親として関わってきたという自信があり、対等に尊重している関係性なら、過干渉や詮索行動は起こりえない。

相手が我が子だという関係性を笠に着て、成人した尊厳ある人間との適切な境界線を見失っている。

自分の生きづらさと向き合う工程がゴッソリと抜け落ちて、精神は満たされない子供のまま、大人になり親になってしまったから、自分の人生以外のところ、すなわち息子の人生にいつまでも関わろうとする。

 

回復する私と取り残される実母

私がACを受け容れ回復のために歩み始めたことで、離れようとする私の挑戦に、幾度となく実母は抵抗運動をした。

さめざめと泣いてみたり、怒り狂ってみたり、息子が一生添い遂げようと決心してプロポーズした妻のことを低学歴だ気にくわないなどと侮辱してみたり。

全てが、私の目を覚まさせるには十分すぎるほど、毒親のそれだった。

そして今も、私が幼少期に惨めなACとして貢いできた労働の歴史を、息子から愛されている証明と勘違いして、過去の話を持ち出して反芻しては、息子側の認識の違い・現実と妄想との乖離に心を痛め、あからさまに落ち込んだりしている。

過去の思い出話しかすることがなく、現在の自分・未来の自分に関する話がひとつもないのは、そういう現実逃避の仮想世界にいるから。

今回接してみて、未だにその世界にいるんだな、と実感した。

とても残念だ。しかし私にはどうしようもない。

彼女の問題は、彼女にしか取り組むことができない。

 

親孝行とは、いったいなんだろうか。

私は親になってみて思う。

親孝行とは、すでに完了した過去である。

子どもは我が子として存在してくれただけで、もう十分すぎるほど様々なギフトをくれたと思っている。

自分の人生を、素直に真っすぐに生きてほしい。

私や妻などに関わっていないで、想いのままに生きてほしい。

その邪魔になるくらいなら、早々に退場したい。

私から与えてあげられる、彼ら彼女らが自分らしく生きるために必要なものなら、見返りが無くともいくらでも差し上げる。

代わりに私を愛さなくてもいい、憎んでも構わない。

褒められもせず、苦にもされず、そんな存在であればいい。

もう、親孝行は、生まれた時点ですでに済んでいる。

 

まとめ:親の愛

親の愛とは、そういうものではないだろうか。

フロムは『愛すると言うこと』で「精神的に成熟した人間でなくては、愛することを実践するのは難しい」と説いている。

 

いい子でなくてもいい。

私のことが大嫌いでもいい。

障害があってもいいし、うまく社会に馴染めなくてもいい。

他人と比べて優秀でなくてもいいし、誰かに認められる何者かでなくてもいい。

その子が、その子らしくあってくれさえすれば、それだけでいい。

 

成熟したインナーアダルトを持つ親とは、子どもに対してこんな想いを抱いているものではないだろうか。

 

引用:一般社団法人リカバリング・マインズHP「第二章:インナーアダルトと共に」

 

なぜなら、その子は「自分の延長」ではないから。

所有物や「道具」ではないから。

思い通りになんて、ならなくて元々。

彼ら彼女らの人生は、本人のものだ。

親であろうと、他人である私がコントロールすべきものではない。

 

悪夢のようなACの世代間連鎖を断ち切る。

そのためにはまず、私は私らしく生きることに、全力でなくてはならない。

私は、私として精一杯生きて、しっかり己の宿命を生きたと胸を張って死にたい。

自分の人生の課題を、子どもに背負わせることだけはしたくない。

実母のような「愛を嘯く呪い」ではなく、「どこにでも宿る愛」でありますように。

切れ切れの愛として彼ら彼女らの世界の一部となり、爽やかに忘れ去られますように。

偽らざる愛情とは、そういうものではないだろうか。

 

 

 

【哲学】クズがこの世に蔓延る理由(『ゴルギアス』:プラトン)

 

 

 

弁論術などの「技術」を使って「他人を支配すること」。

それは果たして本当に賢い優れた人間がすることだろうか?

この主題について書いた『ゴルギアス』に、今の社会の絶望が凝縮されている。

現代と同じく、古代ギリシャでも、人間は「コントロール欲求」と「権威主義」と「能力主義」に精神を支配されていたといえる。

人間って、本当に同じようなところでぐるぐると悩んでは彷徨っているんだな、と思う。

 

結局、弁論術にしろビジネススキルにしろ、私利私欲のための「技術」には、何の価値もない。

「自分が正しいと相手に信じ込ませよう」とか「相手を思い通りに操ろう」というのは、古代ギリシャの弁論家が駆使した弁論術の真の目的だが、これはまさに現代社会において「成功者」と世間的に評価されている人々が執着している思考と同じである。

一見すると「他人をコントロールする能力」というのは魔法のようで、得をする優秀な人間や勝ち組になる賢い人間であるための必要条件のように見える。

実際、現代社会のなかには、そのような魔法を使えるようになりたい、どんな手を使ってでも成功することが正義だ、と心の中で思っている人は多い。

そう思うので、自分を「成功者」として認識してもらえるように着飾る。

自分を大きく見せようとして権威を笠に着たり、結果にこだわり他人と比較して能力的に優れていると主張したりする。

しかし、お金や権力や名誉さえ一時的に手に入ってしまえば、何でも望み通りだと心から思えるだろうか、幸福になれるだろうか。

「いつか自分が大したことないとバレるのではないか」

「不正を暴かれるのではないか」

「認識をコントロールできなくなり、低く見られてバカにされるのではないか」

「成功者」を演じることで得た何かは、そんな不安と恐れを抱えることとセットではないだろうか。

抱えた不安や恐れをかき消すために、さらに欲望を満たそうとする。

そうすると、さらに不安と恐れを抱えることになる。

「欲望」と「業」の無限増殖を引き起こし、そのサイクルから逃れられなくなる。

「業」とは、罪と悪のこと。

「業」をたくさん背負うような人生は、罪と悪に塗れて生きる人生。

重すぎる罪と悪を背負って追いかけるほど、お金や権力や名誉は、人々にとって本当に生きるために必要だろうか。

 

一時的に他人よりも得することができた「成功者」がいたとして、損得で世界を考え自分の欲望を満たすことしか考えずに限りある一生を生き、その事実を認識していながら意に介さず死ぬなら、私はその人生を「虚しい人生」だと思う。

少なくとも、賢くもなければ、優れているわけでもないんじゃないかな、と思う。

なぜなら、社会的な評価(地位・名誉)や社会的な価値(お金)に翻弄されている時点で、その人は他人の価値観に支配されているからだ。

支配しているつもりで、支配されている。

「自分という人間は、他人が存在しなければ、他人が評価してくれなければ、自分の存在を確立できない、自分の不安をぬぐうこともできない。私はそういう軸のない人間です。」

そう証明しているに過ぎない。

自分そのものに向き合うことができなかったから逃げただけ。

死ぬまで他人の目ばかり気にして、自分と向き合うことから逃げ続けただけの人生。

その事実が内心恐ろしくて情けなくて、目を背けるために他人を「使う」という発想しかできなかった、哀れで可哀想な人だと思う。

同情はするが、尊敬とは程遠い。

 

本当に賢く優れている人というのは、自分そのものに向き合い、謙虚にあるがままを受け容れられる器の大きさを持っていると、私は思う。

最も恐ろしい人生の課題から逃げないで生きることこそ、最も難しいと思う。

その課題を生涯考え続けた人、たとえば哲学者などは、真の尊敬に値する。

 

現代においては、社会的に迫害されたり差別されたりして苦しんだ経験がある人ほど、そうした哲学的な真理に到達していることがある。

そういう賢者は、人々にわかりやすい煌びやかさや華やかさを持たない代わりに、穏やかで謙虚で、優しい。

損得で物事を考える人間からはバカにされていて、一見損をしているように見えるが、はるかに高い視座で世界をとらえていて、そんな世俗的な損得は意に介していない。

マウントを取るようなことをしないので、リラックスした状態でその人と関わることができる。

成功や失敗で他人をジャッジしたりしないので、その人には素直に想いを打ち明けることができる。

 

現代は、損得マシーンであふれている。

人間らしい生を生きることを、否定されて育つからだと思う。

 

私は、教師の先生方をはじめ教育現場に関わる人々は、本当に心から頑張っていると思う。

子どもたちが社会に適応できるように、社会で生きていくのに困らないように、必死で自分の時間を捧げていると思う。

その人たちを否定する気持ちは全くない。

 

個人の問題ではなく、社会システムの問題だと思う。

社会は、資本主義と権威主義に基づいて構成されている。

合理性と効率化という新しい神の信仰に基づいて行動するうちに、人としての本質を忘れ去った、空っぽの社会。

その空虚な社会に適応するという教育は、子どもから「善く生きる意思」を剥ぎ取ってしまう。

純粋な生命として生まれた子どもたちは、教育という拷問を受けて「今だけ金だけ自分だけ」の損得マシーンになる。

資本主義と権威主義の洗脳という拷問を何とも思わないような感受性の低い個体が、いわゆる「成功者」の才能を持っているといえる。

つまり、既存の価値観の型にはめられ雁字搦めにされても苦しさを感じず、他人の命令をただ遂行する学校生活に疑問を持たず、「成功者」という正解の裏にある罪と悪に呵責する良心を失うことができた個体である。

そういうのを、人々は一般的に「クズ」とよぶ。

クズこそ成功できるのが、この社会で、クズになるように教え込むのが、現代社会の教育ということだ。

だから、世の中がクズだらけになるのは当たり前だし、トップがクズのなかでも選りすぐりのクズなのだから、まともな世界にならないのが道理である。

古代ギリシャの時代から「本当にそれでいいの?」と疑問を呈してきた先人たちの取り組みもむなしく、今まさに世は大海賊時代…じゃなくて「クズの全盛期」を迎えている。

 

私はそのお仲間にはなりたくないので、これからも哲学から「善く生きる」という美しい信仰のほうを学んで、実践していきたいと思う。

【哲学】「しあはせの手紙」に立ち返る(この世界の片隅に)

しあはせの手紙(『この世界の片隅に』著:こうの史代)

突然失礼致します
此れは不幸の手紙ではありません。
だつてほら眞冬と云ふのに
なまあたたかい風が吹いてゐる
時折海の匂ひも運んで来る
道では何かの破片がきらきら笑ふ
貴方の背を撫づる太陽のてのひら
貴方を抱く海苔の宵闇
留まつては飛び去る正義
どこにでも宿る愛
そして
いつでも用意さるる貴方の居場所
ごめんなさい
いま此れを讀んだ貴方は死にます
すずめのおしゃべりを聞きそびれ
たんぽぽの綿毛を浴びそびれ
雲間の陽だまりに入りそびれ
隣に眠る人の夢の中すら知りそびれ
家の前の道すら
すべては踏みそびれ乍ら(ながら)
ものすごい速さで
次々に記憶となってゆく
きらめく日々を
貴方はどうする事も出来ないで
少しづつ
少しづつ
小さくなり
だんだんに動かなくなり
歯は欠け
目はうすく
耳は遠く
なのに
其れをしあはせだと
微笑まれ乍ら(ながら)
皆がそう云フのだから
さうなのかも知れない
或ひは單にヒト事だからかも知れないな
貴方など この世界の
ほんの切れっ端に
すぎないのだから
しかも
その貴方すら
懐かしい切れ切れの誰かや何かの
寄せ集めにすぎないのだから
どこにでも宿る愛
変はりゆくこの世界の
あちこちに宿る
切れ切れの私の愛
今わたしに出来るのはこのくらゐだ
もうこんな時に爪を立てて
誰かの背中も掻いてやれないが
時々はかうして
思ひ出してお呉れ
草々
引用:『この世界の片隅に』下巻

一欠けら

貴方など この世界の
ほんの切れっ端に
すぎないのだから
しかも
その貴方すら
懐かしい切れ切れの誰かや何かの
寄せ集めにすぎないのだから
この一節の心をいつも忘れる。
私という存在は、この世界の片隅のほんの一部で、豆粒のようなもの。いやそれよりも小さい小さい、一欠けら。
しかも、オリジナルでありながら、誰かや何かの寄せ集めにすぎない。
そんな一欠けらたちが、どちらが偉いとか、どちらが優れているとか、あるいは劣っているとか、正しいとか間違っているとか、喧々囂々と言い争って、瞬きをするほどの短い一生を終えていく。
それが、この世の中である。
一欠けらであることを忘れ、あるいは受け入れられずにいると、小さい自分の世界のなかで苦しんで苦しんで、不安と恐れにさらに弱弱しく小さくなって終わっていく。
一欠けらであるということは、どんな存在もなくてはならず、一欠けらの我々が世界を覆っている全部でもある。
だから、居場所は探し求めなくとも、今ここにある。
『いつでも用意さるる貴方の居場所』。自分がそう認識できずとも、居場所は常にある。
自分の心が受け付けないだけ。
あなたは、ここにいて良い。
何かを成さずとも、何かの役に立たずとも。

どこにでも宿る愛

変はりゆくこの世界の
あちこちに宿る
切れ切れの私の愛
今わたしに出来るのはこのくらゐだ
やれることは、特にない。
自分が思っているほど、私に力はない。
愛は宿る。
真剣に生きていれば、いや。そんな条件などなく、私が生きた今日、その端々に。
私だけでは完結しない。切れ端のほんの一部のような愛。
しかし、それが最も尊く、最も気高く、輝く私の命の証。

揺蕩う柳のように

無理をしない。

飾らない。

心に逆らわない。

 

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

引用:宮沢賢治『雨ニモマケズ』より一部抜粋

 

日照りのときは涙を流すこともある。

冷夏にはオロオロするばかりで何もできないことだろう。

何かや誰かのために一生懸命やっても報われないことのほうが多い。

役に立たないと馬鹿にされるだろう。苦にもされないで、静かに一生を終えるだろう。

 

それでこそ、自然な生を全うするということではないだろうか。

 

効率だとか、合理性だとか、生産性だとか。

そんな損得に気持ちを雁字搦めにしては、貴重な時間をただ見送るようなもの。

そんなことで、私は本当に生きているといえるだろうか。

そういう風に生きていたから、酒に依存し、権威に恐怖し、心の弱さを覆い隠すために強さを求め、まともでいられなかったのではないかしら。

 

「なんだか、不安でたまらないの。生き神だった頃は陽が暮れて、衰え始めて眠りにつくとき、いつも、とても満たされた気持ちで目を閉じられたのに、いまは恐ろしいの。目が覚めても、ただ昨日までの現実の続きが待ってる。目の前に広がるあてどない膨大な時間に足が竦む」
「一日一日、一刻一刻が息をのむほど新しくて、何かを考えようとしても、追いつかないくらい、いつも、心の中が一杯だったの。」
「今日も陽が昇り、また沈む。朝咲く花が首から落ちる。
 今日も陽が沈み、また昇る。あたり一面花が咲く。
 けれど、昨日とは別の花。
 されど、今日も綺麗な花。」
引用:テレビアニメ『蟲師』 第6話「露を吸う群」
私は、まだ時間がたくさん残されている、と思い込んでいる。
しかし、いつ終わるか誰も知らない。それは誰にもわからない。
一日、この一瞬は、見ようと思えば、息をのむほど常に新しく美しい。
過去に囚われ、未来に怯えて、ありもしない頭の中の世界を生きるのはやめよう。
その世界にいる限り、不安は常に膨らんでいく。膨大なありもしない時間への恐怖で足がすくむ。
切れ切れの愛が、いつも誰かと繋がっている。それだけで十分だ。

【社会福祉士】ひらがな が よめるようになった みんなへ

こんにちは。

いまは なつやすみ かな?

きょうは いまは まだ こどものみんなに あやまりたいことがあるから ちょっとよんでみてほしい。

 

きみは なにになりたい?

やりたいことは あるかな?

はやくおとなになりたい とおもっているかもしれないね。

それとも もしかしたら ずっとこどもでいたい とおもっているかもしれない。

 

おとなはよく

「おとなのいうことをききなさい」

「ちゃんとるーるをまもりなさい」

ってきみたちに いうよね。

 

おとなのひとは じつは そんなによくわかっていないで そんなことをきみたちにいっていることがおおい。

だから きみたちは そんなふうにえらそうにいわれたら いらいらするときも よくあるとおもう。

 

その かんかくを どうか わすれないでほしい。

 

わたしは きみたちに あやまりたい。

こんな つまらないよのなかにして ごめん。

じぶんのことしかかんがえない だめなおとなばかりで ごめん。

 

えらそうにしている おおくの おとなは だいたい なにも かんがえてない。

じぶんが ほめられたい おかねがほしい なかまはずれにされたくない そんなことしか かんがえてない。

だから なにかを いわれても しんじなくていいよ。

なにかをさせよう としても したがわなくてもいい。

こんなふうに ならなきゃいけない と おもわなくてもいい。

きみが なりたい と おもうものが いちばん ならなきゃいけないもの。

それを だめ というひとは ざんねんだけど きみを ちゃんと たいせつにしていない。

だから そんなおとなから できれば はなれたほうがいい。

 

「なんでなんだろう」

と かんじたことを 「まあいっか」で すませないようにしよう。

おとなにいわれたら きいてみよう。

なっとくできるまで きいてみよう。

きいてみて そのひとが ちゃんと きみが なっとくできるこたえを こたえられないことは しなくてもいい。

そのひとは じぶんが おこられるのが こわいから きみに ほかのひとと おなじことを させようとしているだけ。

きみのため じゃない。

じぶんのため だよ。

 

このくにの おとな は じつは ちゃんと おおきくなれなかったんだ。

だれかに いわれたことを そのまま なにもかんがえないで したがっているうちに からだだけ おおきくなった。

そして なんでも しっているつもり になっちゃった。

ほんとうは しらない ということが こわいから しっているつもり になっているだけ。

ばれないように きみたちに えらそうにしている。

 

このくには どんどん たいへんなことになる とおもう。

そんな たいへんなこと を きみたちに のこして しんでいく。

ほんとうに ごめんなさい。

そうならないように がんばっている おとなたちも いる。

わたしは そんな おとな のひとり だけど ざんねんだけど さけられない とおもっています。

 

わたしが きみたちに いいたいことは、

おとな だから しんじられる とは おもわないでほしい ということ。

おとな だから ただしい とは おもわないでほしい ということ。

 

おとな のなかには きみたちを ころそう とさえ おもっている ひとがいる。

じぶんたちが おかねがほしい ほめられたい なかまはずれにされたくない から、きみたちに しなくていいことを しろ と めいれいすることがある。

 

だから わたしたちを しんじないでほしい。

きみたちが しんじることを しんじてほしい。

きみたちが わくわくすること たのしいこと やりたいとおもうこと を やってほしい。

 

ここまで よんでくれて どうもありがとう。

きみたちが うまれてきてよかった とおもうような よのなかになるように がんばるね。

【メンタル】今を生きる

信じられるものがない、そんなつらい世の中ですね。

哲学者ニーチェはかつて「神は死んだ」という名言を『ツァラトゥストラ』のなかで残しました。

ここでいう「神」とは、「真理」などの絶対的な価値のことです。

絶対的で普遍的な価値など無い、そうニーチェは言っていたんですね。

 

不安と恐れが他人を求める

たしかに、それはそうだと思います。

唯一絶対な存在とか崇拝すべき対象なんてのは、この世には無い。

もしそれがあると信じているとすれば、それは宗教という一つの依存のかたちです。

宗教を生きる拠り所にすることに、私は異を唱えません。

それは、誰もが何かに依存して生きているからで、それが人として自然なことだからです。

 

その価値観を自分のなかでのみ大切にしている分にはいいのですが、他人に押し付けてしまうと、それは話が違ってきます。

他人には、他人の生き方があります。

自分が信じているものを他人にも信じてもらわないといけないと思うのは、不安だからです。

本当に信じていいのかどうか心の底では自信が持てないので、他人も信じているという後ろ盾が欲しいから、仲間に引き込もうとするのでしょう。

ゆるぎない信仰であれば、同じ信仰を他人に強要する必要がないですもんね。

「いいものだから教えてあげたい、私は他人のためを思って勧めているのだ」という人もいるのですが、自分が持っている価値観が絶対だと思っている時点で、見誤っているといえます。

他人には、他人の価値観があります。

違う価値観も「そういう考え方もあるよね」と受け容れられないというのは、狭量な世界観に自分が閉じこもっているからです。

 

科学

科学も、絶対ではありません。

エビデンスがあるからと言って、本当にそうだとは限らない。

「どうやらそうらしい」という確率を計算しているだけで、ひとつの可能性でしかない。

マスクの是非やワクチンの是非を、SNS上でやり取りしているのをみると、とてもやるせない気持ちになります。

私はマスクには意味がないと思うし、ワクチンは打たないほうがいいものだと思います。

反対に、マスクもワクチンも必要だ、と思っている人もいると思います。

結論としては、お互いに好きにすればよろしい。

したい人はすればいいし、したくない人はしなくていい。そもそも任意なのですから。

それを「こっちのほうが正しい」「いやこっちが正解だ」と言ったところで、永遠に平行線です。それぞれに信じている宗教が違う、住んでいる精神世界が違うのだから。それぞれが信じる「正しさ」でマウントを取り合っても、溝は深まるばかり。

ネット上での不毛な争いに熱中して、自分の人生を置き去りにしている人がたくさんいるなぁ、と思います。

 

権威

権威というのも、本当にあてにならないものです。

私はAC(アダルトチルドレン)として、権威を恐れてきました。

 

過去記事【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)

過去記事【AC】「権威ある人を恐れること」を受け容れて見えてきたこと

 

●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる

 

正しさへの固執。

社会的に認められることへの執着。

その根本には、自分が不適当で、無能であるという思い込みがあります。

自分が抱えている不安と恐れが、他者評価を絶対的価値と勘違いさせます。

他人から見た自分のほうが自分が見ている自分よりも大切で正しい、という思い込みとも言えます。

客観的に、とよく言いますが、客観も主観の一つでしかなくて、結局は誰かの目を通じてしか物事をとらえることはできません。

主観からは逃れることができない。それが、私たちの限界です。

 

社会で認められていれば、立派で偉い人でしょうか。

社会的地位のある全ての人が、徳を備えているでしょうか。

そんなわけないですよね。

むしろ、逆なんじゃないかしら、と思う今日この頃です。

私は、この社会は狂っていると思います。

その狂っている社会に認められているということは、その人は「しっかり狂っていますね」という証明なのではないかしら。

狂っているかどうかはともかく、社会的評価というのは、集団的自意識が主観的に判断する一つの切り口でしかなく、絶対的なものではないと思います。

むしろ、ある集団のなかでエリート意識を持ってしまうことでアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)を獲得する「病巣」としての側面を、社会的評価はもっている。

だからこそ、一定の距離を置く必要があるし執着しないで過ごせるほうがいい。

一周回って、私は今そんな風に感じています。

 

お金

お金も、やっぱりあてにはなりません。

お金は現代の狂気の、中核を構成するアイテムです。

ただの紙であり、ただのデータに、私たちは命がかかっていると信じている。

だから命がけで奪い合います。その魔力に狂ってしまっています。

お金のために、平気で人を騙したり、嘘偽りを話したり。

そうやってお金をたくさん集めたとしても、満たされることはないでしょう。

実体のない概念をいくら集めても、心は荒むばかりだからです。

お金持ちは幸せかといえば、私はそうではないように思います。

すでに充分なのに、蓄えたものを守ることに必死で、少しでも減れば損をしたように思って、憤っていたり満たされず飢えていたりします。

羨ましいかというと、私はどうもそうは思えません。そんな人生は嫌ですね。

お金持ちは奪われる恐怖に苛まれ、貧乏な人は嫉妬と憎しみに苛まれる。

お金を人生の中心に据えると、お金に振り回されて、命を見失います。

いかに金銭欲を自分のど真ん中から遠いところに置いておけるか、それが生きる上で最も気を配るべきことかもしれません。

 

蟻一匹、花一輪

では、何を拠り所にして、私たちは生きていけばいいんだろうか。

そう思い悩みますよね。

 

私は「売り買いできないもの」だと思います。

それは、命であり、愛であり、この世の中のありとあらゆるものすべてが、本来はそうだといえます。

誰かが認めなくても、権威で装飾しなくても、私たち一人ひとりに価値があり、蟻一匹、花一輪にも、同等の価値がある。

この世のあらゆる全ては、美しくて元々。

値段などつけられません。順位もありません。

それぞれが、それぞれの生を、ただただ全うしているだけにすぎません。

価値は、何かに限局する必要がなく、常にそこかしこにある。

だからニーチェは「神は死んだ」と言ったのではないかしら、と思うのです。

 

みんな、そういう世界の在り様を忘れているんじゃないかしら、と思います。

終わりがあるから尊く、弱いから美しく愛らしいのです。

永遠の命、繁栄を求めたり、偽りの強さを纏おうと躍起になるから、「生きることそのもの」からいつしか外れていく。外れて戻ってこれなくては、人生苦しむばかりです。

それもまた、我々の弱さゆえの定めなのかもしれません。

この凍てつく冬の時代にも必ず意味がある。そう思います。

生き抜きましょう。

禍福は糾える縄の如し。

焦らず怯えず、躊躇わず、一日一日を大切にしましょう。

それしか、私たちにできる事などないのですから。

明日はどんな日になるでしょうか。

今日一日、悔いのない一日を生きられましたか?

一切は過ぎていきます。

過去は過去。

我々が今いる場所を見失わないようにしましょう。

【依存症】ゲームを取り上げる親と心を殺された子ども(ゲーム依存)

依存症の問題は、背後にある「生きづらさ」が本質だと思う。

その問題を直視せず、問題行動だけを抑え込もうとしても、失敗するし意味がない。

 

ゲームを取り上げる親の心理

たとえば、ゲーム依存の傾向がある子どもから、無理やりゲームを取り上げようとする親がいるとする。

「やめろ」と言っても効かないので、ルールが守れないので、ゲームを取り上げる。

でも結局はルールを守る必要がなくなった(親の目が届かなくなった)ときに、問題のある使用をしてしまう。背後にある生きづらさが解決していない限り、根本的には変わらない。

私がそうだった。小学校から禁止されて、大学で今までため込んだフラストレーションが爆発して思いっきりのめり込んだ。

ネットやスマホを解約する、等のもその類い。意味がない。一時的にできなくはなるかもしれないが、やる方法はいくらでもある。

お小遣いをためて、あるいは親の財布から金を盗んで中古端末を入手したり、無料Wifiを求めて深夜徘徊をしたり、「ゲームやる?」と声をかける知らない人についていってしまったり。

むしろそういうより子どもを危険な場面に遭遇させかねない行動に繋げる。

 

そういった逆効果を生む可能性があるにもかかわらず、なぜ強権的に子どもの行動をコントロールしようとしてしまうのだろうか。

それは親が抱える、「不安」と「恐れ」が根底にあるように思う。

 

「我が子がまともな社会人になれなかったらどうしよう」

一見、我が子の未来を案じている台詞のように見える。そして、思っている親本人も「子どもの為」だと信じて疑わない。

しかし、裏の裏までよく覗き込んでみると、実際は「自分の為」であることがわかる。

世間の目を気にしている、自分の為に、迷惑な行動をしてほしくない。

我が子がまともな社会人になれないことで、

「親として子育てが間違っていると言われたら」どうしよう。

「ひきこもりや不登校になって、世間から色眼鏡で見られたら」どうしよう。

私の世間的な評価が傷つくではないか、という「どうしよう」。

自分が困るから、自分の体裁のために、やめてほしいと思い、取り上げようとしてはいないだろうか。

子どもをコントロールすることに依存している。自分の自己肯定感を支えるために、子どもに依存し、子どもの人生に過干渉してしまってはいないだろうか。

 

親に過干渉された子供の末路

我が子であったとしてもコントロールすることは本来できないし、本人のことは本人に責任と権限がある。その権限を冒してはいけない。

なぜなら、選択した行動の結果を経験することで、子どもは大人になっていくからだ。

親が転ばぬ先の杖ばかり用意して、その過程をゴッソリ盗んでしまうと、「グライダー型人間」になる。

 

「グライダー型人間」とは、『思考の整理学』において外山先生が定義した、自分で考えられない人間のこと。

親が全部おぜん立てをして、正しさを押し付けて言うことを聞かせて、親が思う正しいレールの上を歩かせたとしよう。

その子は、こう思うだろう。

「自分の意思なんて持っても疲れるだけだ。結局は、親や先生の言いなりにするしかない。ならば、感情など持たないほうがいい。自分の意見も、持たないほうがいい。言われることに従っていさえすれば、叱られもしないし、問題は起こらないんだから。」

自分の感情と意思をもつことを放棄するようになる。

そうなると、自分が好きなもの、自分がやりたいこと、自分がほしいもの、が何なのかわからなくなる。

自分の意思がわからないので、他の人が好きなもの、やりたいこと、ほしいものが、自分が欲しいものなのだと思って追いかける。でも、手に入れても、満たされない。本当に望んでいるものではないからだ。でも自分ではもう望んでいるものがわからない。

いくら頑張って何かを手に入れても、どれだけ他人より相対的に恵まれていると言われても、心は一向に満たされないので、日に日にストレスが溜まる。

そして、ネット上で気に入らない人を正論で殴ったり、誰かを虐めたりして、憂さを晴らすようになる。進学校ほど陰湿ないじめが横行する理由は、こういうストレスが強い子どもたちの「生きづらさ」のはけ口として、特定の誰かが生贄になることでなんとか日々を生き抜いているからではないだろうか。

私をいじめてきた「いじめっ子」たちも、そういう目に見えない苦しみを背負っていたのかもしれない。そう思うとやるせない。虐められるほうは、たまったものではない。

 

はたして、親の正しさによる圧政は、本当に子供のためになっているだろうか?という話。

「まともな社会人」とはなんだろう?

立派な「思考停止のグライダー型人間」に仕立て上げることだろうか。

おそらく、親のほとんどがそんなことを我が子に望んではいないと思う。

自分の頭で考え自分で決めた、自分なりの人生を堂々と歩んでいってほしい。

そう思っているのではないだろうか。

それが「まともな社会人」ではないだろうか。

そうなるための行動だろうか。ゲームを無理やり取り上げる、ということは。

 

受験を控えているのに、受験勉強をしない我が子をみて、自分が不安なだけ。

自分の不安を取り除きたいだけ。

だから「ゲームばっかりしていないで勉強しなさい」という。

私たち親の世代までは、勉強して良い大学にいて良い就職先に新卒入社する、というのが人生においての成功モデルだったかもしれない。

そのレールに乗せないといけない、という親に育てられてきた世代だ。

しかし、自分の人生を振り返ってみてほしい。今の現状を見てほしい。

それは本当に成功モデルだっただろうか。

 

今や終身雇用制度は崩壊した。

良い会社に入っても、安泰ではない。

良い大学に行っても、就職先がない。

受験勉強という「暗記ゲーム」だけに特化して強制的にやらされた結果、グライダー型人間として心と感性は死に、体だけ立派に成長していく。

面白味のかけらもない無個性な大人になって、指示待ち・ゴマすり・忖度で自分を偽りながら生き抜こうとするが、自分で考え自分で行動を選択する訓練をしてこなかったので、苦境に立たされてまごつく。

 

これが、誰もが望む成功モデルといえるだろうか。

本当に、大人たちが提唱してきた「まともな社会人になる」ためのメソッドは、現実に役に立つものだっただろうか。

私はそうではないと思う。

 

親ができることは見守ることだけ

その子の人生は、その子のものだ。

親のおもちゃではない。親が変えられるものでもない。

失敗も成功も、その子が味わう権利と義務がある。

 

この子がゲームにそこまで入れ込むのは、なぜだろうか。

この子が好きなゲームの世界とは、どんなものだろうか。

その世界の何が好きで、何が現実より魅力的なのだろうか。

この子は、何を求めているのだろうか。

 

それを知らないで、その子にとって正しい道など、誰が主張できるだろうか。

正しい道など無い。

正しいことなど、この世にはないからだ。

その人にとっては正しい、というだけ。

それは親も同じ。親である我々が正しいと思い込んでいることと、その子にとっての正しいことは違うかもしれない。

それを同一化して強制的に同じにしようとするのは、ある種人権侵害であり、虐待だと私は思う。

 

我々親にできることは、その子の声を聞き、その子の価値観を認め、そっと背中を支えることだけ。

きっと自分の足で歩いていけると信頼して、後ろから見守ることだけ。

そもそも、我が子であろうと別個の独立した他人。

他人をコントロールすることはできない。「変えられないもの」だ。

きっと自分の失敗から何かを学び、人生に活かして生きていく力を持っている。自分の命を分け与えた存在なら、きっとそれができる。

そう信じられないとしたら、病んでいるのは親のほう。

自分を信じられないから、我が子も信じられない。

自分の生きる力を信じられないから、同じように我が子の生きる力を信じてあげられない。

その「不信の呪い」を引き継がないことが、最良の子育てだといえるのではないだろうか。

【メンタル】「自分には価値がない」と嘆いている人へ(ひきこもり・不登校・貧困)

資本主義の世の中では、身の回りにある全てのものは商品になっている。

資本主義社会は本当に良い社会か?

カール・マルクスは『資本論』において、商品は「使用価値」と「交換価値」によって成立するといいました。

そして、スライムが集まってキングスライムになるように、商品が寄せ集まって富が形成されている、として、商品の価値は労働の量だとする「労働価値説」を提唱しました。

交換に便利なものとして、貨幣が生まれました。

商品に付加価値をつけて売ることで利益(剰余価値)を生みます。

価値をどんどん増殖させていくと、資本がどんどん膨らんでいき、資本家が生まれます。

マルクスは「資本家」を「人格化された資本」=お金が人の形を取ったものと定義しました。つまりお金さえ稼ぐことができれば使用価値なんてどうでもいい人たち。とにかくカネのため。

とにかく稼げればなんでもいい資本家は「労働力」を商品化しました。

労働力を仕入れる行為は「雇用」であり、資本家(企業)にとって就職活動・転職活動は、この「労働力」の仕入れです。そして、研修や社員教育で付加価値をつけて、利益を生むために「商品」である私たちを働かせて、仕入れ以上の価値を生ませます。そしてさらに「労働力」を仕入れて得られる利益を増やそうとします。

「労働力」を仮想通貨の運用に例えましょう。

仮想通貨を仕入れて、仕入れより仮想通貨の価値が上がれば儲けが出て、余剰資金が生まれますよね。その余剰資金で、さらに仮想通貨を買う。そうすると、価値が上がり続ける限り、このサイクルで余剰資金はどんどん増えます。

これを人間でやっている、というのが、営利企業です。

つまり、営利企業に雇われているサラリーマンは「労働力」という商品として資本家(企業)に買われているので、私たちの労働力は私たちから切り離されています。

だからサラリーマンはイエスマンが出世するし、結果を出すことと同時に従順であることが求められるのです。「労働力」という商品としての価値を評価されているのが、人事評価です。

人事評価はその人そのものの価値とは関係ありません。その人の一部分「労働力」を商品として切り取ったときの、商品としての評価です。だから、収入が上がろうと人としての価値が上がるわけではありません。

法律的には雇用契約は対等ですが、実質イーブンではありません。

給料とは、再生産費です。

つまり、雇われている我々は「再生産費」分だけ働けばいいのですが、それ以上に働かせれば、資本家(企業)にとっては働かせた分だけ利益になります。

だから、やりがいや目標を示して、勝手に設定して、「再生産費」分より余分に頑張らせようとするんですね。

そしてチームを組ませるのは、協業させることで生産性が上がるからです。

あくまでも、労働力としての運用を最適化しているのであって、社員が快適に働けるとか、充実した人生を送れるとか、そんなことには企業は一切興味がない、というのが本音です。

私たち労働者にもメリットがないわけではなく、企業で働くことで「経験」という付加価値を得ているので、悪い側面ばかりではありません。

しかし基本的に人間は「モノ」として扱われています。それが企業であり、資本家であり、資本主義の世界です。それは人を惨めな気持ちにさせます。

その、人をモノのように扱う資本主義が蔓延し、世界中に広げようと際限なく膨張したのが、今のグローバリズムです。

富める人はさらに富み、際限ない欲望で人間性を失い、人々の健康を害してでも富を拡大しようとする世界。

貧しいものはより貧しくなり、最終的に過労死や自殺をするか、無敵の人になり殺戮事件起こすほど追い詰められる世界。

資本主義社会である以上、この世界観・貧富の格差はどんどん広がります。

共産主義国家は計画経済を導入してしまったのでソ連は崩壊したけど、マルクスの社会主義は、資本主義が限界まで行きついた先にあるものと考えられていました。

つまり資本主義が限界を迎えているまさに今、ようやく条件がそろったといえるでしょう。

 

経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、このような資本主義の限界に問題提起した本です。

 

 

このままさらに格差が拡大するとどうなるでしょうか。

さらなる地獄と化すのではないか、と思います。

 

r(資本収益率=資本家の不労所得の割合)>g(経済成長率=労働による価値創造の割合)

 

このrとgが逆転するのは、戦争により既存の資本が破壊され価値が暴落したとき。そのあとは資本を再形成する必要があるため、労働力の価値が相対的に高まるからです。

そういう異常な状態以外は、この資本主義社会はr>gであるといえます。

そしてその状態が加速すると、世襲資本主義社会になるといいます。

世襲資本主義社会とは、相続による経済格差が努力やチャンスでは裏返らない無理ゲー社会のことです。

つまり、貧乏人は頑張っても報われない世界です。生まれた家が資本家であれば勝ち続けられる、何もしなくてもお金が増える、生まれが全てを決める不平等な世界です。

実際、そうなりましたよね。

シェルバーン伯爵家に連なるロックフェラー・ロスチャイルド。財閥が世界経済を動かし、政治を含めた社会全体を実質的に支配しています。

世界の富の大部分を上位1%の金持ちが占有し、残りの99%の貧乏人は奴隷のような生活で、体を壊すような商品を食べさせられ、マスメディアの洗脳で考える力を弱らせられ、毒に等しい注射で人体実験に使われています。

日本も例外ではなく、政治は政教分離を謳いながらも完全に癒着しており、その政治をハンドリングしている宗教団体は、世界的な財閥の下部組織です。

冒頭に人は「労働力」というモノとして扱われているといいましたが、最終的に人は「奴隷」と等しい扱いをされているといえます。存在そのものをモノとして扱われているということです。

 

「自分たちさえよければいい」社会で人は愛に飢えていく

歴史を振り返ると、戦争が起こると、戦争中の税金は圧倒的に高くなり、個人の財産は凍結されます。

それによって、とくに高所得者からお金を搾り取ることができます。

ウクライナで戦争が起こり、これから台湾・日本で戦争が起こると思いますが、これは軍需産業を握っている1%の財閥が、さらに中途半端な高所得者から金を吸い上げるためです。

実際、軍需産業の株価はどんどん上がっていますよね。

総本山はアメリカでもなくイギリスでも中国でもありません。

財閥とは、地縁主義ではないからです。

「契約の民」と呼ばれるユダヤの血縁です。

血縁により繋がっているので、国はただの枠組みです。商売の道具です。貨幣は価値変換のためのおもちゃです。

だから最近は新しく「仮想通貨というおもちゃ」を使って儲けを生もうと画策しています。

通貨をつくる側・ルールを決める側が、儲かるようにできています。ルールを作る側ではない一般の投資家が損をするのはそのためです。

STEPNなどのM2E(Move to Earn)で大損した人がたくさんいますよね。それは、もともとそういうメカニズムになっている、ということです。多少庶民に利益が渡るケースが生まれてしまうのも、ユダヤにとっては想定済みの必要経費。いずれ回収しようと考えています。

 

ユダヤ人は歴史的に「美味しいものを心ゆくまで食べること」を人生の第一に掲げています。

そのための金銭であり資本なわけです。つまりお金を手段として割り切っている。

思考は、教育で子どもの頃から徹底される能力主義・実力主義に基づいています。迫害されてきた防衛本能から、他民族に対する警戒心が強い。その警戒心から納得するまで他者を調べ尽くす知的好奇心をもちます。

一言でよければ「自分たちさえよければいい」

世界経済を動かしている人たちがその原理で動いているので、現代社会がそうなるのは、考えてみると当たり前ですよね。

 

 

ここまで読んでみて、どうでしょうか。

お金や資本主義に「愛」という要素が全くないことに気づきますよね。

モノとして扱われる世界で愛を感じられるはずがありません。

「自分たちさえよければいい」という民族の思想が蔓延している状態で、他人に無償の愛を注ぐ人が現れるはずがありません。

でも「愛」がなくては人は生きていけません。

その、生きていくために最も重要なエッセンスが欠落している。

それが資本主義社会であり、現代社会です。

だから、みんな精神を病んでいくのだと思います。

精神疾患も依存症もACも差別も、何もかもの本質はここにあります。

私が最近、精神疾患も依存症もACも個人の課題ではなく、社会そのものの課題だと考えているのは、そういう背景です。

 

お金から距離を取ること、資本主義であるこの社会から距離を取ること。

この「離脱」こそが、これから人間らしく生きていくために必要なことになってきたなぁ、と実感しています。

これからは、できるだけそれらの要素を削ぎ落していく「離脱」の生き方を実践していきたいと思っています。

まさにそれを人生を賭して体現したのが、マハトマ・ガンディーだと思っています。本当にすごい人です。

彼は「欲望を削減する」ということを説いています。

経済社会そのものは否定しないけれども、人は本来必要なものを必要な分だけ得ればそれでよく、欲望を最小化することによって真に幸福な人生が送れると考えました。

ユダヤ民族の人生観とは、真逆ですよね。

私はガンディーの教えにこそ人としての「生の実感」、人としての本質があると考えています。真に感じるべき感覚は生死と欲望を越えた「存在の絶対感」だと思います。

お金を集めても、仕事を頑張っても、いくら物質的に豊かになっても、幸せではありませんでしたよね。それを経験的に証明するためにユダヤに連なる資本主義全盛時代を人類は経験する必要があったのではないかと思っています。

もう、お金や社会に踊らされるのは、やめましょう。

目の前にある花や木や草や、触れ合える世界が全てです。自分自身を含めた現実世界を愛で、好意を伝えること・肯定することに、全力で集中しましょう。

貨幣が創り出す仮想の世界に生き、命を消耗するのは、もう終わりにしましょう。

バーチャルの世界に幸せはありません。ネットは使うモノです。大切な自己を道具に没入させてはいけません。

最も価値あるものすべては、もうすでに全員の、現実の肉体と精神にある。他に求めなくてもいいし、客観的に証明する必要もない。あると思えばある。ないと思うからない。

これ以上、安心のために「形ある何か」を求めるのはやめにしましょう。それらは全て虚構であり虚空です。

楽しいと思えること、美しいと思えるもの、それを感じる時間と感性を大切にしましょう。

生きることは、それだけで100点満点だといえるでしょう。そのほかはオマケです。

 

そう考えると、とても気楽になりませんか?

経済社会に参加できるかどうか、なんて、人間本来の価値には微塵も影響しないのです。

引きこもりだろうが、不登校だろうが、社会不適合者だろうが、障害が有ろうがなかろうが、ただ存在するだけで、存在価値があります。お金に変換しようとするから、無いように錯覚するだけです。

みんながそのことに気づけば、世の中はもっとまともになるんだろうなぁ、と思います。

【依存症】「Move to Earn(M2E)」の闇(仮想通貨・NFT・M2E・ブロックチェーンゲーム)

Move to Earn について

Move to Earn (M2E) とは、文字通り「動いて稼ぐ」というコンセプトの、仮想通貨を用いたビジネスモデルのこと。

Move to Earnのやり方
  1. 仮想通貨取引所で口座を開設します。
  2. 各ゲームのウォレットにトークンのソラナやイーサリアム送金します。
  3. アプリをダウンロードして登録します。
  4. 毎日歩いたり、走ったり、ゲームをプレイして稼ぎます。
  5. 稼いだトークンを換金したり、そのまま保有して増えるのをまったりします。

引用:https://maru7.jp/move-to-earn/

「ブロックチェーンゲーム」に分類されています。

Youtubeで動画検索すると、こんなふうにたくさんのスマホアプリがあって紹介されており、結構流行ってきました。

 

「STEPN」というアプリがパイオニアで、2022年1~2月くらいから流行り始めました。

簡単にいうと、仮想通貨を買って、その仮想通貨で仮想の靴を買って、スマホを持って歩くとポイントが貯まり、そのポイントが仮想通貨に変換できるので、歩くだけでお金が生まれる、という仕組みです。

いかにも怪しいですよね。

でも実際に儲かった人が特に初期にたくさん現れたのです。

それで大変話題になり「俺も俺も」と新規参入者がどんどん増えました。

仮想の靴は最低10万円くらい(2022年8月2日現在)、高い靴は100万円ちかくするものもあります。

10~100万円の先行投資をして、原資回収から収益化を目指して仮想通貨をもらうために毎日毎日歩く、という人が急増したんですね。

最初「Solana」という仮想通貨で成立する「S国」という仮想のフィールドでやり取りして儲かった人が出ましたが、だんだん通貨の単価が下がっていきました。

そこで、次に出てきた「さらに儲かるらしいぞ!」という「BNB」という仮想通貨で成立する「B国」というフィールドがリリースされました。

最初はプラスが出ていた人も大損して、損を取り返したいプレイヤーは次々参入しました。

どんどん上がるBNBの単価。

しかし、100万円以上の追加投資がかかります。

意を決して借金してまで突っ込んで行ってみると、BNBも大暴落。

今、BNBが上がっている最中に参入したプレイヤーは、阿鼻叫喚の地獄絵図です…。

 

M2Eアプリがプレイヤーを依存させる巧妙な仕組み

なぜここまで多くの人をハイリスクな世界に引き込み、アプリにハマらせることができたのでしょうか。

ここにはGAFAMなどのビックテックが開発してきた「依存症ビジネス」のセオリーがあります。

 

ネットスマホゲーム・SNSには「6つの罠」があります。

①人間を操る「目標」という魔法

②予測不能なフィードバック

③段階的に進歩・向上していく感覚がある

④徐々に難易度を増していくタスクがある

⑤解消したいが解消されない緊張感がある

⑥社会的な結びつきがある

ひとつひとつ、みていきましょう。

 

①人間を操る「目標」という魔法

人間は目標を与えられると、無意識にそれを達成しようとしてしまいます。

自分に何も目指すべきものがない人ほど、他人が決めた目標に引っ張られます。

アプリ内で「1日10,000歩達成すると○○」とか「1ヶ月で20万歩達成すると○○」というキャンペーンがあるのはそのためです。

何かインセンティブがある目標を与えることで、意図する行動(STEPNの場合は「歩く」)に誘導します。

 

さらにM2Eには「歩くことは健康に良い」「健康にいいことは素晴らしいこと」という大義名分があります。

非難される行動ではないことが、参入に対する精神的抵抗をなくすとともに、仮想通貨をよく知らなかった人々やゲームに興味がなかった健康志向の人々も、カm…じゃなくてプレイヤーとして市場に引き込むことに成功しました。

なかなか悪魔的で上手いやり方だなと思います。

 

②予測不能なフィードバック

人間は元々狩猟民族です。

狩猟民族は、獲物が取れて食事にありつける日もあれば、何も取れずに飢える日もあります。

だから「獲物が取れた!」という予測不能な出来事に対して、喜びを爆発させ、取れなくても「あの喜びがまた来るはず」と期待することで生きる希望をもち、命を繋いできました。

その習性は今も脈々と引き継がれています。

ギャンブル依存症の場合、当事者は、ギャンブルにつぎ込んでつぎ込んで、借金までして、明らかに損しているし生活が破綻しているのに、数回当たったときの喜びと興奮が忘れられず「明日はくるはず」「いつかまた当たりがきて大金持ちになる」と損切りすることができません。

ドーパミンという快楽を感じる神経伝達物質の神経回路が強烈に当たったときのことを記憶していて、対象行動を取ることをやめられなくなってしまいます。

これをプロセス依存といいます。

まさにこのプロセス依存を引き起こさせるための仕組みとして「ランダムで宝箱が見つけられる」「広告動画を観るとランダムでポイントが入る」「持っているアイテムをお金をかけて配合するとランダムでレアなアイテムになる」といったものをゲームシステムに仕込みます。

また、不定期に「お祭り」をします。

今だけ期間限定で、あのほしかったアイテムが50%OFF!とか、アイテムを強化する要素をプレゼント!とか。

そうすると、人間は本能的に期待を寄せアプリのことが忘れられなくなります。

 

③段階的に進歩・向上していく感覚がある

同じようなことの繰り返しだと人は飽きてしまいます。

自分が頑張った分だけ自分がレベルアップしていくようなシステムだと、行動が報われるので、もっとやろう・もっと頑張ろうという気にさせられます。

「次のレベルになればもっと稼げるようになる」

「もっといいアイテムに進化させよう」

「アイテムをさらに強化しよう」

「課金してさらにアイテムを買おう」

そうすればもっと効率よくポイントが稼げるよ、というふうにシステムを設定します。

STEPNでは実際にレベルアップ制度があります。

段階的にレベルアップすることで、プレイヤー間にはレベルの上下関係が発生します。

人間は群れのなかで序列をつける動物的側面があるので、人より上に立ちたいと願い、下だと不安になるようにできているので、プレイヤーのランキング内で上位に君臨するためにも、頑張ります。

上位であることが自分のアイデンティティとなるので、ゲームをやり続けなくてはならなくなり、抜けられなくなります。

 

④徐々に難易度を増していくタスクがある

運営側はギリギリ達成できるくらいの難易度を提示します。

たとえば、新しいアイテムが1億とかだと、もう一般庶民に手は出せません。難易度が高すぎて敬遠します。

でも100万円くらいなら、借金すれば何とかひねり出せます。ギリギリ達成できるかもしれないところにぶら下げるのが重要で、リスクを背負って飛びつくように煽ります。

「新しいフィールドでは1日で数十万円の利益も夢じゃないよ」

「もう利益を出している人は勇気を出して飛び込んだひとだよ」

「それができない人とできる人が、成功できるかどうかの分岐点」

等と言って、巧みにプライドを刺激します。

 

また、どんどんバージョンアップして、制限を追加したりします。

たとえば、1日に歩ける時間を制限して課金しないと制限が解けないようにしたり、アイテムが消耗して修理が必要な仕様に変更したり、確率が低いがよりレアなアイテムが得られるガチャ機能を追加するなどです。

そうやって最初は無料で単純だったものを、複雑でお金がかかるシステムに改悪していくわけですが、ずっとやっているプレイヤーはどんどん厳しくなるシステムに逆にハマって抜けられなくなる、というわけです。

 

⑤解消したいが解消されない緊張感がある

これは仮想通貨を使ったことがもろに効いてくるんですが、「激しい相場変動という緊張感」が実現している罠です。

前の日には1円だったものが、次の日には数千円になっていたり、逆に暴落したり。

常に安心することができません。

自分が投資した数百万が数百円になるかもしれない…そんな強い緊張感は、仮想通貨を用いた貨幣システムである限り絶対に解消できません。

強い緊張があればあるほど、投資した金額が化けたときの興奮や快感も並大抵ではありません。

毎日が刺激的。そういう異常な精神状態に陥らせることで、四六時中M2Eのことだけをプレイヤーに考えさせることができます。

 

⑥社会的な結びつきがある

知る人ぞ知るM2E。

広いようで狭いその世界は、選民意識を刺激します。

周りが知らない状態でM2Eを始めたプレーヤーは「世界では流行っているけど日本ではまだ限られた人しか知らない最先端のこのゲーム。やっている俺は他人より賢くてスゴイ( *´艸`)」と内心思っています。

そして、同じようにM2Eをやっている人を見つけると、仲間意識を持ちます。

SNSが発達している現代社会ならではですが、そういう仲間をネット上で見つけて繋がることができるので、コミュニティーというか一種のコロニーが出来上がります。

同じように借金してまで参入した人、最近始めた人、儲かった人、大損した人、そんな人たちが入り混じり、WEB上で社会的な繋がりを形成しています。

歩くという行為は孤独です。

稼ごうと焦れば焦るほど、1日1~2万歩という過酷な目標をかかげ、そのつらくて孤独な作業に挫けそうになるのですが、そんなときに心の支えになるのが社会的な繋がりです。

M2Eをやっていて同じ夢を追いかける仲間のコミュニティーがあることで、限界まで頑張る(実際には意図的に頑張らされている)し、現実のM2Eを知らない人との繋がりよりもオンラインという仮想空間での繋がりを重視するようになります。

居場所がそのコミュニティーになると、ますますそこから抜けられなくなります。

コミュニティーを離れた結果、待っているのは、現実には存在しない概念に振り回されて単に歩きまくり足腰を痛めかけている、疲れ果てた孤独な自分のリアルだからです。

 

まとめ

「歩くだけで年収数百万儲けられる」

そんな美味しい話は、残念ながらありません。

一時的に儲けが出たとしても、ずっと続く営みではありません。

仮想の世界の仮想のお金で、仮想のアイテムを買って、仮想の空間の顔も分からない人との繋がりに居場所を求める。

それは、空虚な現実逃避です。

「自分の将来がどうなるかわからない」

「今の仕事をやめて楽して稼ぎたい」

そんな不満や不安を忘れるために、それらしいサービスにハマってしまう人に、私はとても共感します。

仕事はクソつまんないし、ウクライナで戦争してて日本も滅びそうだし、何の意味もないワクチンやマスクをするのが当たり前の狂った世論が主流だし、そりゃあもう嫌になっちゃうでしょうよ、生きていくのが。

 

わかる。わかるよ。

 

だからハマってしまう人というのは、ダメでもアホでもないし、悪くないと思います。

巧みに本能的な部分を煽って依存させるようなコンテンツをつくっている側が悪いに決まってます。

 

本当に大切なものは、実際に自分の身体で触れられる、この現実世界にあります。

一時の欲望や快楽で、本来大切にすべきものを見失わないようにしましょう。

 

しかし、一度味わった「稼げる」という感覚は脳に強烈に記憶されているので、新しいM2Eがローンチされるというニュースを聞けば気になり「またあのときのように稼げるんじゃないか」「今度こそ出資者リストが豪華だし大丈夫なんじゃないか」「今度こそ初期から参入して先行者利益を狙えるんじゃないか」と思ってしまうことでしょう。

それが依存です。そして、依存だということを当事者は否認するでしょう。

今後、この分野の依存症に苦しむ人は増えてくると確信しています。

借金問題・横領着服・訴訟・経済苦による自殺、などで表面化してくることでしょう。

【子育て】褒められると喜ぶ子・褒められると緊張する子

褒められると喜ぶ子もいれば、褒められると緊張する子もいる。

いったい、この2つのタイプは何が違うのだろうか。

 

褒められると喜ぶ子の心理

言葉をそのまま受け取る子。裏を勘繰らない。

「自分は認められた」と感じて、パワーがみなぎる。

褒めてもらうことを心から喜び、欲する。

他人の賞賛が自己肯定感を下支えしてくれる。

そしてそれは「私ならできる」という自信に変わり、挑戦する原動力になる。

もし数回失敗しても、今まで褒められた経験をもとに、自分の挑戦はいずれ成功につながるという再現性を信じる。

信じて何度も挑戦するので、結果的に成果がでる確率が高まる。

そして「やはり私ならできる」という自分という存在への信頼を強固にしていく。

自分自身への信頼が確固たるものであれば、自分がやったことを他人が褒めてくれなくても、「今はまだ認めてもらえないだけ」と、自分の方向性を信じることができる。

自分の意思で物事を決め、光が見えない暗いトンネルのなかも前に進むことができる。

折れない、くじけない。そんな未来を切り開く。

 

褒められると緊張する子の心理

言葉の裏を読む子。言葉の裏にある「相手の期待」のほうに意識が行ってしまう子。

私はまさにこっちだった。

褒められると「もうこれと同じことで失敗できない」と思った。

なぜなら「できる」という状態を褒められているので「できない」状態にはもう戻れないから。

「できない」状態の自分は認めてもらえない。

できるから肯定してもらえるということは、できない場合は否定されるということだ。

なので、褒められると緊張する。

だから、できるだけ褒められたくなかった。認めてほしいけれど、褒められると逃げ場がなくなるから。

だから、褒められると異常なほど謙遜する。

でも、心のなかでは認めてほしいので、自分以外の他人が褒められていると嫉妬する。

心がザワザワして、他人の成功を目の当たりにすると焦りや不安を感じる。

そのため、客観的にみると謙遜するわりにはプライドが高く見える。

他人の成功は、何かしら理由をつけてケチをつけがち。

成功しなければ認めてもらえない、というプレッシャーのなか、自分にできそうなことにしか挑戦できなくなる。失敗を過度に恐れる。

褒められることを選ぶが、それが自分のやりたいことではないことも多い。

しかし、自分の希望なんかより、他人の期待に応えて結果を出すことが、褒められるためには必要なので、自分の気持ちを無視して物事を決定してしまう。

最終的に、本当はやりたいことではないことを一生懸命やり、ヘトヘトになって他人に認められるために生きる。

そして、認められればられるほど、プレッシャーは大きくなっていく。

大きくなり過ぎたプレッシャーに押しつぶされると、二度と立ち上がれないほど深く傷つく。

自己効力感がない毎日で、やれどもやれども自分の心は満たされない。

結果として、潰れることが多くなる。

 

結果ではなく行動を褒める

この2つのタイプの何が違うかというと、実は褒める人の「褒め方」が違う。

喜ぶ子の親は、行動を褒める。

緊張する子の親は、結果を褒める。

 

子どもというのは、まだまだ人生を歩み始めたばかり。

圧倒的に失敗することのほうが多い。

むしろ成功することより失敗することが大切で、失敗により重要なことを学んでいく。

 

何かに挑戦しているとき、子ども自身はとても不安で、ドキドキしている。

同時に「どうなるんだろう」「できるかな」とワクワクもしている。

 

その過程を経験しようとアクションを取れたことこそ、その子にとって最も重要なことで、ぶっちゃけ結果はどうでもいい。後からついてくるから。

そのことを知っている親は、まず挑戦したことを褒める。

「よくがんばってやってみたね」

「あなたが挑戦したことを誇らしく思うわ」

そう褒められると、行動したことそのものを全肯定されることになるので、結果がどうであれ、子どもは自分の行いを恥じる必要がない。

失敗して悔しかったり悲しかったりして泣いたとしても、行動したことそのものに恐怖することはない。

なぜなら親は、また褒めてくれる。行動を起こした自分を。

だから、またやってみよう、と思う。

 

反対に、結果を褒めると、「結果を出した自分」を褒められていると認識する。

前者の褒め方に比べて部分的である。

「行動→成功」となってはじめて親に褒めてもらえると思う。

そして、親は「成功している自分」を期待しているのであって、失敗している姿を望まれてはいないことを読み取る。

親にとって望まれない子どもになる。

それほど怖いものはない。それほど深い絶望はない。

だから、失敗を恐怖するようになる。存在の否定と同じだから。

成功している姿しか見せられない。だから失敗は隠すようになる。

失敗こそ、最も重要なのに。

親という、心の安全基地、ありのままの自分を認めてくれる唯一の居場所が、なくなる。

そうなると、もうその子はどこにいても休憩することができなくなる。

そして、褒められることを誰よりも求めているのに、褒められるほど苦しくなる負のループに迷い込んでしまうというわけだ。

 

最後に

私は子どもから大人になり、親になってみて、このことはとても大切だと思う。

私は褒められると緊張する子だった。

人生はとても苦しかった。成功してもホッとするだけで、満足感や喜びはなかった。

褒められたいと思って、親が望むことを選択し、ひたすら頑張って得られたのは、他人の期待にそって生きる人生に対する絶望だった。

その子がやりたいことが、最もすべきことだ。

親が「これをやったほうがいいんじゃないか」「あれが向いているんじゃないか」と先回りして提示しないほうがいい。

子どもはその期待を敏感に感じ取って、それを選んでしまうだろう。

でもその先にあるのは絶望である。

期待するなというのは難しいかもしれない。いや、無理だろう。

それだけ可能性は輝いてみえるし、我が子だからこそできるんじゃないかと思うのは当然だ。

しかし、その裏には、親自身が自分に絶望してしまったことの闇がある。

自分ができなかったこと、やって正解だったと思いたいこと、それを子供に背負わせてはいないだろうか。自分の人生のやり直しを子供にさせようとしてはいないだろうか。

我が子と言えど他人である。別の人格を持ち、意思を持つ、権利と尊厳のあるひとりの人間。親と子は本来対等だ。

その対等さを忘れ、自分の所有物のように思い違いをしてはいないだろうか。

幼い我が子の判断はまだ未熟で、自分たちの判断のほうが正しいと、驕ってはいないだろうか。

私が持っている正しさへの認識とは、私の思い込みであって、我が子にとってそれは押し付けられたら迷惑でしかない。

彼には彼なりの、彼女には彼女なりの価値観があり、それは幼かろうが年寄りだろうが、関係なく尊重すべきものなのだ。

それを忘れている親は、この国にはとても多いのではないかしら、と思う。

そんな親も、私と同じように褒められると緊張するようなつらい子どもで、その子どもがそのまま年齢を重ねているからかもしれない。

誰も悪くはない。

でも、自分が味わった辛さを我が子に背負わせないために、同じ呪いをかけないように、親が子どもを卒業することが、必要なんだと思う。

【社会福祉士】「今だけ金だけ自分だけ」の狂った現代社会

私は学校で「社会は正しい」と教えられてきた。

親からも「自立した社会人になりなさい」と教えられてきた。

みんなそうではないだろうか。

でも、それが本当に正しいかというと、どうもそうではないんじゃないか、と思う。

 

この社会が求める人物像は「考えない歯車」

この社会というのは、資本主義社会だ。

経済的な成長を、正義と考えている。

むしろ、それしか考えていないとも言える。

企業は、金が儲かるなら、顧客がどうなろうが、基本的には心の底ではどうでもいいと思っている。

健康を害するような商品を売ったり、必要のない人にまでサービスを押し売りしたりする。

だから人は仕事にストレスを感じるんだと思う。

やりたくもないことを、金のためにやっている。だから心が傷つく。

心をなくしてしまったほうが、効率よく精力的に働ける。

そして、雇う側としてもそういう心を失った歯車のほうが扱いやすいので、そういう人間を重用する。

組織の目的や命令に文句を言わず従い、金儲けのために必要な行動を何とかかんとか達成し、それでいて良心の呵責なんて感じない、そんな使える歯車だ。

それは、文字通り歯車で会って人間ではない。

人間をやめた没人格の部品。それがこの社会では最も優秀とされている。

狂っている。

 

教育の問題点

私はよく義務教育と受験社会を批判するが、先生たちは本当に真剣に、子どもたちのことを考えて頑張っているんだと思う。そして、楽しい授業をする先生もいるんだと思う。

しかし、文科省がつくったマニュアルのみに従って授業をしていて、封建的な価値観で凝り固まっていて、授業が本当につまらない先生もいる。

私の人生では、そういう先生が90%を占めていた。進学校だったせいもあるだろう。

受験とは、ただの暗記ゲームでしかない。

頭に詰め込んだ情報を制限時間内にいかにアウトプットするか、というゲームであり、賢さとは関係のない遊びだ。

その遊びで、行ける大学が決まり、就職先の幅が決まる。

その遊びが得意かどうかで生徒の価値を判断する先生がいて、大学がある。

これはこの社会の事実。

子どもは遊ぶのが仕事で、勉強は遊びのひとつだ。

しかし、学校では、遊ぶことを禁じる一方で、受験勉強という暗記ゲームをやれと子どもたちに命令する。

その命令に背くと不良であり、従順に言われたことをやると優等生である。

そう扱われる。

これは、学校がもつ「歯車をつくるための政府直轄洗脳機関」としての性格を、もろに表している。

都合のいい奴隷の才能がある生徒、というのが、優等生であって、それが社会的に正しいと教えているのが学校で、そんな奴隷のような歯車が欲しいのが資本主義社会。

実によくできている。

 

受験勉強は学問ではないので、学問の面白さに小中高で触れられることは稀だ。

受験勉強は基本的につまらない単純作業なので、嫌いになっても仕方ない。

受験のためのノウハウを習得するための「授業」なのだが、先生が学問という体で話すと、生徒が混乱する。

学問はもっと面白い。そして自由だ。点数化されたりしない。

受験ゲームのせいで、学問をつまらないと勘違いしてしまい敬遠する人が多くなるのだと思う。

先生も不憫で、学問を話していると、保護者から「そんな意味のないことはいいから受験で勝てるようなことをやれ」などとクレームを言われる。

保護者も奴隷養成機関である義務教育に洗脳されているので、もう手の施しようがない。

先生ひとりが頑張るには限界がある。

ではその上の文科省はどうかといえば、本質をとらえ改善する気もなければ、本質に到達できる頭もないように、私には見受けられる。

もうお手上げだ。

だから先生ひとりひとりを責めることはできない。責める気もない。

システムの問題であり、社会が狂っているので、仕方がないといえば仕方がない。

 

医療・福祉の問題

その奴隷養成課程を立派にこなした歯車候補だけが、医学部や薬学部に行くことができるしくみなので、当然洗脳を色濃く残した人が医療に携わることになる。

誤解のないように言うと、医師や薬剤師の先生方をディスっているわけではない。

尊敬できる先生はたくさんいるし、むしろ受験ゲームが苦手なのに苦労して進学した先生などは、辛苦を知っているだけに優しさと思いやりにあふれていたりもする。

でも、そういうタイプを除くと、基本的には自分たちは一般的な人間より優秀で上質だと思っている。ブランド意識がある。

となると、扱い方として、患者は必然的に身分が下、ということになる。

私たちがクリアできたゲームをクリアできなかった人たちが、お客さんである。

そういう意識があると、指導的・高圧的なスタンスを取ってしまいがちだ。

表立って態度には出さなくても、滲み出てしまう。

「ダメなこの人をなんとかしてやろう」

「間違っているから正してやろう」

という上から目線になる。

そうなってしまうと、もう患者さんのことは見えないし分からない。

机上の空論でしか物事をとらえられなくなって「エビデンスがエビデンスが」と頓珍漢なことをやりかねない。

 

これは福祉の分野でも同じことが言える。

病んでいて、社会になじめない人が支援の対象なので、社会に馴染めていて支援する立場の自分たちを上だと錯覚してしまいがちだ。

「可哀想なこの人たちを助けてやろう」

「社会に馴染めている私たちが、正しいことを教えて社会に戻してやろう」

こんな狂った社会に馴染めている時点で狂っているのは支援者のほうなのだが、心から善意でこんなことを思っている場合がある。

可哀想、と思うことは、侮辱である。

同情や憐れみというのは、相手を下に見ている。

そもそもこの社会に馴染めないほうが正常であり、「今だけ金だけ自分だけ」がスローガンの現代社会に馴染めている時点で何かを失っている。

だから、支援者はむしろ援助対象に学ぶべきことがあるという意識で対等に関わるのがベストだ、といち社会福祉士としては思っている。

他人として失ってはいけないエッセンスを、彼らは持っている。だから病んでいる。

 

親子の問題

家族としての在り方も、崩壊して久しい。

「子どもがゲームばかりしているので、やめさせたい」と相談を受けてよく話を聞いてみると、親のほうに子どもと一緒に遊ぶ余裕がなくて、子どもと一緒に何かをしたことがあまりないケースが散見される。

「家で遊ばせる」という状況のなかに、親の存在がいない。

ひとりで勝手に遊んでいてほしい、自分の時間を奪わないでほしい、そういう印象を受ける。

子どもは当然、一人遊びはつまらない。飽きる。限界がある。

その結果、ひとり遊びとして面白いゲームやYoutubeに行きつくのは当然だ。

なんせ、様々な技術者が腕によりをかけて「どれだけ時間を使ってもらえるか」を考え尽くして完成したコンテンツである。

どれだけ依存させられるか、どれだけ金を巻き上げられるか、そういう意図で没入するように仕組化されているコンテンツに、子どもが抗えるわけがない。

やめさせたいのなら、もっと面白い現実の遊びを提案するしかない。

それは、生身の人間同士の触れ合いだったり交流だったりするが、親は時間を取りたくない。いや、取る余裕がない。

なぜなら、歯車としての役割を演じる「仕事」で、毎日が精いっぱいだから。

生活するために必要なお金のための「仕事」で忙殺された結果、本来最も大切な子供との時間を削っている。

そしてその最も大切なことを犠牲にしている罪悪感を、子どもに押し付ける。

「あなたたちを育てるためにはお金が必要だからしかたない」

「おまえたちのために働いているんだ」

そう言って、子どもや配偶者のせいにして、自分が責任を果たせていない状況を正当化する。

 

余裕がないのは、しかたがない。この国は貧困国だから。

年収の中央値は276万円。

共働きしなければ、一般庶民は生活できない。

そして就職先の営利組織というのは、金のために奴隷のように社員を働かせる資本主義の権化なので、できるだけ時間とエネルギーを搾取してくる。

社会の仕組みとして、もうすでに破綻している。

だから家庭もシステムとして崩壊する。当たり前のこと。

 

 

もはや、この社会システムに頼らず営みを構築するしかないように思う。

経済とは切り離した生活基盤をもつしかない。

隣人同士で助け合ったり、物々交換で貨幣を通じずに価値を循環させたり、家庭菜園で自分たちの食糧を確保する。そういうふうにして貨幣経済に由来する交流を最小限に圧縮していくことが、自分たちの時間と自由を取り戻すために必要になっていると思う。

だから仕事なんてそんなに命かけてやらなくていい。

配偶者や子どもと一緒に時間を過ごし、関わる人には感謝と愛を伝え、家庭を中心とした手の届く範囲の世界の平和に力を尽くしたほうがいい。

 

「今だけ金だけ自分だけ」

経済社会の呪いと洗脳。

この歪みに境界線を引こう。望まない強制にNoと言える一歩引いた態度を心がけよう。

医療にしても、福祉にしても、学べば学ぶほどそんなことを思う。