【発達障害】発達障害にとってテレワークは快適だという話

ADHD併存のASDである私にとって、このコロナウイルスにともなう在宅勤務推奨はとても喜ばしいことです。

なぜなら、今までの定型発達者に合わせた働き方は、とても窮屈かつストレスフルで、理解しがたかったから。

今日はその日ごろの鬱憤を愚痴りたいと思います。

 

発達障害の私が会社で働くうえでクッソ嫌だったことBEST5

まずは、今まで何が嫌だったのか、まとめてみたいと思います。

 

①無駄に集まる会議・研修

ずっと何の生産性もない話を密閉された部屋で行います。

酸素が薄いです。人臭いです。密です。

次第に気持ち悪くなります。

しかもずっと座ってないといけない。私は長い間座っていると、体をゆすったり貧乏ゆすりしたり、指をトントンしたくなります。激しくイライラします。でもそれをすると「落ち着きがない」と怒られます。知るか。

どこの国の拷問だったか忘れましたが、背が伸ばせない狭い檻に、長座前屈姿勢のまま縛り上げてずっと放置する拷問があります。

背が伸ばせないので、圧迫感に恐怖感をつのらせます。次第に腰椎が軋み、対象者は悲鳴を上げます。死ぬほどでもないがずっと苦しく痛い状態で放置されるというむごい拷問ですが、まさに会議はそんなイメージです。

 

②フリーアドレスのオフィスで内勤(事務処理)

私は、人が背後を通るだけで落ち着きません。立ち止まられたら絶対振り返ります。

しかもアホみたいに大きな声でしゃべっている社員や、くちゃくちゃ何か食べている社員や、キーボードをたたく音、何かを落とした音、扉をとじる音など、オフィスって騒音がすさまじいです。

こんなやかましい環境で集中するなんて、どだい無理な話です。

それだけでも無理なのに、中身のない話を話しかけてきます。マジで勘弁してほしい。

話しかけられると作業が止まります。ASDは一つのことに過集中はできますが、マルチタスクはすこぶる苦手なので、毎回どうでもいい話で中断させられて、ものすごくイライラします。

しかも、いつ話しかけてくるか、わからない。お化け屋敷で素数を数えているようなものです。びっくりしたら1からやり直し、みたいな感じで、心が折れます。

ふつうに神経が衰弱します。その徒労感といったら、まさに賽の河原みたいな感じです。

それを活発なコミュニケーションのために、固定のデスクをつくらず、フリーアドレスにするなんて狂気の沙汰です。

背後を取られないように毎回律儀にすみっこぐらししているのに、その安全地帯をどうでもいいパリピ社員が奪っていたりしたら、私の内勤はもう実質不可能になります。だからそういうときは帰ります。

 

③即対応しないといけない電話・メール

文明の発展を私ほど恨んでいる人はそうそういないでしょう。

携帯電話やネット技術が発達してしまったことにより、いつでもどこでも社畜に変身できるようになってしまった、この現代社会は軽く地獄です。

「さあ頑張ったしちょっと落ち着こうかな」と思ったら、見計らったように話したくない人から電話かかってきます。あれ何なんでしょうかね?見てるのかな…?と思うくらいドンピシャのタイミングで着ます。

今は外回りが忙しいからそれだけに集中したいってときに限って、「今日中」とか「ASAP(as soon as possible(可及的速やかに)の略)」とか書いてあるメールがきます。追い込むように上司から「返事まだ?」みたいな催促の電話がきます。

「今それどころじゃないっちゅーねん、見てわからんのか?!…あ、見てないからわからんか。」みたいな、振り上げたこぶしをどこに振り下ろしたらいいのかわからない、あのやり場のない感情…。ひとりになって泣きたくなります。

しかもそういう「急いでくれ」という要件に限って急がなくて良かったり、本部の事情でもう一回やらないといけなくなったり、それなら邪魔しないでほしかったよね、っていうことばっかりなので、ものすっごく心が清らかな時にしか、電話は取らないようにしています。

 

④ミーティングや社内企画のスケジュール調整

絶望的に都合が合いません。

いやがらせかと思うくらい、違う日時を指定してくる上司たち。「ほんならもうやめましょっか」って言いたくなります。イライラします。

ていうか、そんな大したことしてないくせになんでそんなに無駄に会議でスケジュール埋めてんだよ。それだけ話して時間使ってたらもっと建設的な話でるだろ。何を話してるんだ毎日。

そもそも、集まること自体に意味がないのです。

今回はっきりしたのは、この発達したネット社会において固定した場所に集まる必要などなく、その制約条件さえなければある程度の人数は仮想空間に集まれるわけで、ミーティングをどうしてもしたいなら、希望者だけでネットでやれば事足りるということです。

それなのに、やたらひとっところに集まりたがる社員が多いこと多いこと。さびしんぼかよ。免疫細胞や血小板の凝集作用じゃあるまいし。無駄に密なんだよなぁ。

しかもせっかく決めたのに、直前になって変更したり、「○○の時間にしていい?」とか聞いてくる、あれマジで勘弁してほしいです。

こっちはもう一日のスケジュールをそれを見越して完璧に組んでいるし、もうそうしないと動けないマインドになっているのに、総崩れします。

もう無理…ってなります。

それがあんまりわからないようで、しっかりここぞとばかりに予定変更して心を折りにくるので、もはや感心しています。

(そういう日はもう何もできないので寝てます。)

 

 

⑤通勤ラッシュ

これは田舎に来たので少し緩和されましたが、都市部で働いていたころはもうこれだけで「はい。今日も一日お疲れさまでした」って感じでしたね。

電車、混む混む。埼京線で足が浮くとか言われて「んなバカなw」って思ってましたけど、浮きました、85kgの私が。

すごいエネルギーです。発電に使えばそれで電車が動くんじゃないかと思うくらい無駄にすごい。ほんとすごい。

ただでさえ人に会いたくないのに、至近距離に知らないおっさんの顔があって吐息がかかる狭い箱に1時間はゆられないといけないこのきつさたるや、筆舌に尽くしがたいです。阿鼻叫喚です。

女性が目の前にいようもんなら、痴漢と疑われないように両手を挙げて予防策を取らないといけません。中年のおじさんと密着しなきゃいけないのは女性だっていやだよな、と思いながら、これしかないんだよな、と諦めて濁った瞳で虚空を眺め両手バンザイを続けるしかありません。飛び立ちそうです。

車もイライラします。今は社用車で通勤していますが、割り込むわ、ウインカーださねーわ、急ブレーキするわ、俺をイラつかせるために運転してくれてるんですか?ってくらい1日20回はイラつかせてきます。しかも朝・夕に集中してやってくるんですよね。

みんな急いでるんだろうし、行きたくもないところに行くので気持ちもささくれ立ってるんだと思います。

 

 

集まる必要性がないなら、時間や場所は各々好きにすればいい

さて、発達障害関係なくただの愚痴になってきた感が否めませんが、こんな感じでイライラする一番の原因は、「朝定時に出社しなくてはいけない」だったり「会議で集合しなくてはならない」という、場所や時間を限定する働き方に起因していると思うんですよ。

今回コロナウイルスでリモートワーク・在宅勤務が推奨されてはっきりしたのは、

「なんだ、集まらなくてもいいんじゃん」

ってことです。

集まらなくても、まわるんですよやっぱ。

うちの会社なんて月に2回1日中会議してましたけど、それがそもそも必要ないけど、少なくとも集まる必要だけは確実になかったってことです。

おかげで、この縛りがなくなるだけで、クッソ嫌だったことの①②④⑤は解消されました。

めっちゃ快適です。うれしー!!もうずっとこのままでいてほしい!!

だって聞いてるふりして適当に聞き流すことだってきるんです。周囲に監視の目が無くて、後ろをだれぞが通ったりしなくて、静かで落ち着ける環境ならば。

つまんなかったらゲームしてればいいし、本読むのもいいし。特にワンウェイで垂れ流されていて聞いてくれと言われているような一方的な配信の場合、結局一生懸命聞いても大したことはしゃべっていません。

話すべきことだけを短時間でオンラインで話し、各々好きに時間を使える…これ以上に素晴らしい事があろうか。いや、無い。(漢文の反語形なつかしい)

 

ASDの特性からなぜ快適なのか考える

ASD(自閉症スペクトラム)という発達障害は、一般的に以下のようであると言われています。

  • 騒がしい場所が苦手
    聴覚の過敏さから、騒がしい環境が苦手です。音の刺激が強く不安定になりそうな場合は静かな場所に移動したり、耳栓やイヤホンをつけるなどの対策がとれるとよいでしょう。
  • 情報受信が特異的
    曖昧な情報を理解することに苦手さがあります。情報伝達の際には、以下を意識しましょう
    ▶文字やイラストを使う
    ▶×抽象的 〇具体的
    ▶「走らない⇒歩く」など肯定的に
    ▶端的に段階的に
  • 感想を表現することが苦手
    “正解”のない感想を表現することに苦手さがあります。焦らずに「つまりxxということ?」と問いかけながら言葉を引き出すなど、本人の思いや考えを言葉にするためのサポートができるとよいでしょう。
  • 突然の予定変更が苦手
    先の見通しが立たないことに不安感を覚えることがあります。急な変更は避け事前に情報を伝えられるようにしたり、どうしても変更が必要な場合は意図や理由を伝えましょう。
  • 失敗への恐怖心が強い
    失敗することへの恐怖心が強く完璧主義になることがあります。段階的に耐性がつけられるよう「惜しかったね」と婉曲的に伝えるなどの工夫が必要です。”失敗しても大丈夫”という経験を積んでいきましょう。

出所:【図表でわかる!】ASD(自閉症スペクトラム・アスペルガー)の特徴 | ASDって何?どんな困りごとがあるの?

これらは定型発達者の目線でかかれているのか、若干「定型より苦手なことが多い」みたいな書き方ですが、わたしたちからすればこんな不条理な、しかも変えられることなのに、理由もなく変えないで耐えようとする定型発達者とは、やはり感覚が違うとしか言いようがありません。

しかし、私が先ほど列挙したクッソ嫌なことと見事に合致しています。

つまり「苦手な人もいるんだし、ただ選べるようにすればいいだけなんでは?」と思います。

 

まとめ:このままテレワークが定着してほしい

会議は自由参加にして、参加したい人で話し合えばいいし、話し合うにしてもリモートで参加できるようにすれば、参加できる人は増えるでしょう。

それじゃあ参加してくれなくなる?

そりゃあ、意味ないって思われてるからです。それに誰もしたくないから集まらない、したくないことなら、しなければならない理由を明確にするべきです。

ああ、どうしてもしなくちゃいけないんだな、ってわかる合理的な理由があれば、みな参加するでしょうし。

理由もない、意味もない、やりたいひともいない。

そんなこと、やめちゃえばいいのに、ということをいつも思います。

でも、いうとみんなそれを言っちゃおしまいよ…みたいな顔します。意味が分かりません。

このコロナウイルスのパンデミックが、人が集まるリスク・ストレス・環境に対する感じ方の多様性について、みなが深く考える良いきっかけになったらいいな、と思います。

【仕事】会社の指示に従うことがつらいひとへ

会社に勤めている人にとって、共通の悩みなんじゃないでしょうか。

「今日中にあれをやれ」

「早くこれをみろ」

「なぜまだできてないんだ」

朝令暮改のくだらない指示が雨あられと降ってきます。その処理に右往左往していると、疲労感だけがずっしり肩にのしかかってきますよね。

そんなひとにぜひ読んでほしいなと思って書きます。なぜなら、私がそうだったから。

 

実は、会社の指示は真剣にやらなくてもいい

そんなわけないやん、と思うでしょう。

でも、私自身試してみたんですけど、事実でした。

提出物、リモート会議、営業ノルマ、KPI(Key Performance Indicatorの略で、日本語に訳すと「重要業績評価指標」という意味)。

これらを一か月間、形だけやっているふりをして、一つも真剣にやらないことにしました。

全部内心で無視してみたんですよね。そうしてみたら、誰もそれに気づきませんでした。

そして、驚くべきことに結果(売上や伸長率)も変わりませんでした。

それでいて、無駄が省かれて、私の心はとても落ち着いていて、穏やかでした。

当然、上司や他の従っている人は、私が指示に従うようにコントロールできなくてイライラしたり説得したりしようしているようでした。

しかし、結果が変わらないので、次第に黙りました。

 

 

意味がないのに「従わないといけない」と思い込んでいる理由とは?

結果が変わらないとしたら、私たちはなぜやらないといけないと思うのか?

なぜ、イライラし焦り、やりたくないと愚痴りながらもやろうとするのか?

 

それは、「もし従わずにうまくいかなかったとき、会社に言い訳ができない」からです。

 

会社の指示に従っている限り、うまくいかなくても「会社の指示が間違っていたからだ」という言い訳ができます。評価者から責められたときの私たちの心の安全を守ってくれます。

実は私たちは、「従いたくない」と言いながら、メリットがあるからあえて能動的に選択しています。従えば責任を負わずに済む。だから私たちは嫌々やるべきだ、それが仕事なんだ、と思って我慢しています。

そう、実はやりたくないのに我慢しています。それでもやる理由は、デメリットを上回る「責任転嫁」のメリットがあるから。

 

見定めないといけないのは、「本当にメリットがあるのか?」ということです。

会社は結局、結果が悪ければ守ってくれません。

失敗をすれば切り捨てるし、結果が出ない場合は契約更新してくれません。

結局は、なんだかんだ言っておきながら、私たちのことを深く考えてくれてなどいないのです。

替えがきく労働力。それが日本という国の、企業という組織の、労働者に対する扱いです。

つまり、どれだけ尽くして会社のために何かをしたとしても、報われる可能性はそこまで高くない。非常に効率が悪い。「慈善事業」に近い。ただの善意のボランティアです。

 

会社に使われるな、こちらが使ってやれ

私たちは、会社のほうが、労働力が必要だから、提供してあげているのです。

雇ってもらっているのではありません。

雇われてあげているのです。

雇用関係というのは対等です。契約に基づき労働に見合った賃金を支払う、というフェアトレードです。

 

だから、相手が望む最低レベルをきちんとこなしていれば、とやかく言われる筋合いはない、ということです。

 

逆に、会社を使いましょう。

会社はツールです。個人ベースではできないことを、組織の力を借りて実現することができる。それを可能にするために、私たちは能動的に会社に所属している、と考えましょう。

会社に尽くすことが生き方を磨く、みたいな稲盛和夫さんの時代の考え方は、正直もう不可能だと思っています。不平不満を漏らさず「自分は素晴らしい会社に勤めているのだ、素晴らしい仕事をしているのだ」と自己洗脳するには、あまりに報われない不義理が行われているのが現実です。稲盛和夫さんの時代のような終身雇用制度はもはや崩壊し、上が下を育てるような愛情は希薄になっています。

この時代、わたしたちには「この会社を選ばない選択肢だってある」と気持ちの上では組織と自分を切り離すことが重要です。今あるツールとして会社をこちらが使って、スキルアップすればいい。その結果、自分が実現したいワークスタイルが確立できればいいのだと思います。

 

まとめ:私たちは縛られず、好きにしていい

そう考えると、会社に従う価値は、どこまであるのでしょうか。

私は、会社に何度も改善提案をしてきました。

方針や指示に矛盾が有ったり、効率が悪かったり、意味がないことには、エネルギーを最大限に割いて真摯に提案してきました。

しかし、会社は「それはわかるけど、もうすでに決まってしまったから動かしたくない」ということで、何も汲んではくれませんでした。

私はここで底打ちしたといいますか、会社の方向性はもう私には影響できないものなんだな、と悟りました。「もっとこうしてほしい」という願望を持つことを諦め、コントロールを手放した境地に至りました。

そうすると、「もう好きなだけ、好きなようにやったらいいんじゃないかな」と思って聞き流すことができるようになってきました。

やりたいんだったらやったらいいと思います。結局やってもやらなくても同じなら、やって上司に評価されようと、やらなくて評価されなかろうと、私の本質的な価値は変わらないのです。ならやらなくていい。

お互い、好きなようにやったらいいんだなって感じます。

「給料分の、会社が株主に提出しなければならない『やってる雰囲気』は整えるよう協力してあげるから、まぁ好きにがんばってみて」と思って、会社の向かう方向を俯瞰して眺めることにしました。

納得してないことを無理にやらなくて良いって、分かりました。

もういちいち全部真面目に取らなくても良いんだなって思って、気が楽になりました。

 

あってるとか、間違ってるとか、やってみるまでわからないんですよね。

自分で思い描いたことは、やってみるまでわかりません。

私がやりたいやり方は本当はやってみたら効率が悪かったり間違ってるかもしれません。会社のやりたい方向性が結果的に成功するのかもしれません。

つまり、会社の方針も、個人の方針も、現時点では良いも悪いもない。

結果が出ないから悪いわけでもないし、結果が出たから正しいわけでもない。

結局、最も重要なことは「今ココの自分が、納得してやれることかどうか」だけなんですよね。

結果がまだわからないなら、確か道しるべはそれだけです。

だから、誤魔化さずにやりたいことを、あなたが決めてやるだけでいいのです。

そう、あなたが決めていい。やるかやらないかは。

それぞれ、会社も私たちも、やるときめたことをやればいいだけ、実はシンプルだった、ということです。

 

ちなみに、他の社員がイライラしたり不安になったり、上司が言うことをきかせたいっていうのは、実は相手のなかの課題であって、私の課題じゃないんですよね。

他人は鏡にすぎません。人は他人を鏡に見立てています。

うつった自分に対して、抱えているイライラをぶつけたり、怒鳴ったりしてるわけです。

だから、本質的には自分が言われてるわけじゃない、と思うと気が楽になります。

私たちは、私たちそれぞれの声だけに従えばいい。

シンプルに生きましょう。

【発達障害】ASD(自閉症スペクトラム)としての生きづらさ

発達障害の私の特性は、人を傷つけやすい。

 

①中断させられること

たとえば私は、一つのことに集中しているときに煩わされるのが、ものすごくストレスだ。

ブログを書いているとき。

仕事をしているとき。

食事をしているとき。

寝ているとき。

何かをするためにマインドセットした後に、それを中断しなくてはいけないとき、神経がブチブチと音を立てて断裂するような感じがする。

精神が千切れる音がする。

また集中し直そうとしたときには、完全に気が削がれていて、思い描いていたことが霧散している。

そんなことが繰り返されると、もう何もしたくなくなる。したいと思っていたこと、したいという感情自体が、煙のように消えてしまう。

他人と接する可能性があるときは、いつ何時でも自分がやっていることより他人のタスクを優先できるようスタンバイしておかなくてはならない。

つまり、100%集中などできはしない。

100%集中して作り上げたものでなくては、不満は必ず残る。やり切っていないからだ。全力を尽くしたと言えないものを、私は私自身が好きになれない。

せっかく気持ちを多少込めたとしても、それを見るたびに「邪魔さえされなければ」という我執が首をもたげる。そんな不快なものは、いっそ存在しないほうがいい、とゴミ箱行きになる。

私の文章も、考えていることも、取るに足らないチラ裏にでも書いておけよという内容かもしれない。実際そんなレベルのものだ。それの多少の良し悪しに拘って何になる、という思いもあるにはある。

しかし、私が今まで綴ってきたものは、そのときそのときの全力のひと振りであり、だからこそ読み返したときに気づきがあるのも事実だ。

だからのめり込んでしまって、周りが見えなくなる。

 

②予定変更

たとえば、予定変更があると、動揺するしイライラするし、パニック状態になりやすい。

あらかじめ考えていた予定や効率や心構えを、一度全部ぶち壊しにされる。本当に挫けそうになる。

「なんだそのくらい、さっさと気持ちを切り替えればいいじゃないか」と言われるけれど、みんなどうやってやっているのか、本当に不思議でならない。

感覚的には、数日かけて進めたゲームのセーブを全部消されたくらいのインパクトがある。それを「そのくらい」と捉えてさっさと切り替えて過ごすなんて、私は何回輪廻転生してもできる気がしない。

もはや悟りを開き何にも動じない心に至るしか道はないと思っている。

予定が変わってしまったら、とにかく深呼吸して、落ち着く。呼吸に意識を集中させる。

でないと、気づいたらパニックになっていて呼吸をしていないことがあるからだ。呼吸がうまくできずに、ノルアドレナリンが放出されてどんどん気持ちが不安定になっていくから、最初が肝心。

 

生きていかなくてはならない

こんな調子で、恐る恐る生きている。

この世で、社会的な生き物として、つまり人として暮らしていくためには、常に他人がすぐそばにある環境に適応しなければならない。

予定変更など日常茶飯事だ。そうなってもパニックになったり、人や物に当たってはならない。

 

それだけのことだと思われる、それらのことが、とてつもなく難しくて辛くなる。

その場に応じたTPOをわきまえ、自分のタスクは確実にこなしつつ、他人にも気を配り、社会全体の最適化を目指さなければならない。

なぜなら、それができない場合、一番近くにいる誰かを蔑ろにしたり、邪魔されるストレスをぶつけたりして、傷つけてしまうからだ。

 

私は人を傷つけたくない。

でも、生きている限り傷つける。

ASDとしての生きづらさはここにある。

生きているだけで、ストレスなのだ、この世は。

私が人を傷つけずにいるためには、究極で言えば、私がいなくなることだと思う。

ゼロになればマイナスは生まれない。何をかけてもゼロだ。存在がない、ということはある意味で「影響を及ぼさない」という価値がある。

自分が自分らしく生きてあまり社会的に難だと思われない人には分からないだろう。不協和音を奏でることしかできない亜種として生きる人の気持ちは、亜種にしかわからない。

精いっぱいやってきたつもりだが、さらなる改善を見込むためには、自身の心情と思考プロセスの説明を簡潔に分かりやすく伝える技術が不可欠だ。

だからこそのアサーティブネスなのだが、今はなんだかすごく疲れた。

【仕事】働きながら専門学校に行きたい人が押さえるべき4つのポイント

このたび、私は2年間かけて社会福祉士という国家資格に挑みました。

働きながら国家資格(社会福祉士)を取るってどんな感じなの?

特に何を押さえればいいの?

という疑問にこたえようと、まとめてみました。

 

「社会福祉士」とは?

社会福祉士は、いわゆる「ソーシャルワーカー」と呼ばれる社会福祉専門職の国家資格です。

身体的・精神的・経済的なハンディキャップのある人から相談を受け、日常生活がスムーズに営めるように支援を行ったり、困っていることを解決できるように支えたりすることが主な仕事となります。

また、他分野の専門職などと連携して包括的に支援を進めたり、社会資源などを開発したりする役割も求められます。地域を基盤として、さまざまな場所で活躍しています。

1987年の「社会福祉士及び介護福祉士法」制定と同時に誕生し、少子高齢社会がすすみ、さまざまな福祉的課題が注目される現在、社会福祉士への期待はますます高まってきています。

 

※国家資格には「名称独占」と「業務独占」の2種類の資格がありますが、社会福祉士の資格は「名称独占」です。資格を持っている人だけが「社会福祉士」と名乗れますが、業務に関しては資格を持っていない人も行うことが可能です。医師や看護師などの資格は「業務独占」となります。

 

仕事の内容は?

社会福祉士の仕事の範囲や対象は多岐にわたります。

お年寄りや身体・知的障害者、ひとり親家庭などの相談にのり、それぞれの状況に応じた支援を行います。また、行政や医療機関など各関連施設をつなぐ役割も担います。

社会福祉士資格取得者が働く職場としては社会福祉施設等が多く、その他社会福祉協議会、医療機関、行政機関、独立型社会福祉士事務所等が代表的なものです。

 

資格を取るまでの道のりは?

社会福祉士の資格を得るためには、「社会福祉士国家試験」に合格しなければなりません。

国家試験を受けるまでにはさまざまな道のりがありますが、大きくは大学等で指定科目を履修する、短大等で指定科目を履修して実務1~2年を経験する、養成施設を経る、指定施設で実務を5年以上経験するという4つのルートに分けられます。

※受験資格の詳細は、公益財団法人社会福祉振興・試験センターを参照ください。

 

つまり、現在働いている人で全く福祉にかかわりがなかった人で、4年制大学を卒業している人は、社会福祉士一般養成施設(実習込みの福祉系専門学校)に1年以上行けば国家試験を受ける権利を得ることができる、ということです。

 

社会福祉士国家試験について

国家試験は、年1回2月初旬に行われます。

筆記試験のみで、5つの選択肢から原則、正しいもの(適切なもの)を選ぶ形式です。

だいたい毎年4万人くらいが受験して、1万人くらいが合格(合格率25~30%)の試験です。

 

■第31回(2018年度)受験データ(厚生労働省発表)

受験者数/41,639名(43,937名)
合格者数/12,456名(13,288名)
合格率/29.9%(30.2%)
*( )内は前年データ。

 

参考:社会福祉士とは?(中央法規)

 

働きながら通える通信制専門学校

1年8ヶ月、私は専門学校生となり、無事卒業しました。

肝心な学費は、トータル 36~40万円前後でした。(教科書・実習費用込み)

「スクーリング」という学校へ実際に行き、講義を受ける日が11日間あります。いずれも、土日や大型連休に合わせて、仕事に支障があまりないようにスケジューリングされています。

「レポート」の提出が通学の証明となります。2か月に1回4通、40回ほど、約2000字のレポートを提出しました。これは仕事をしながら、空いた時間を見つけて書きます。テキストを読み、設問に対応する小論文を作成するようなイメージです。これで、100点満点中60点以上を毎回とれば、無事卒業となります。

「相談援助実習」が、働いている人には一番厄介です。

入学時に実務経験が1年未満の方(2020年3月31日時点で実務経験が1年以上ない方)は「相談援助実習」の履修が必要です。社会福祉の現場で実習を行い、相談援助に関する専門知識や専門援助技術、関連知識を学びます。

実習は、学校が指定する施設において、180時間以上(23日間)実施します。

時期は、スクーリング「相談援助実習指導(実習前)」受講後、だいたい1月~8月となります。

参考:日本福祉教育専門学校HP 四国中央医療福祉総合学院HP

 

押さえるべきポイント1:あらかじめ上司に了解を取る

事前に許可を取らなくてはならないのは、「相談援助実習」の実習期間、休みをいただくことです。

180時間以上(23日間)というと、ほぼ1ヶ月まるまる職場を離れることになります。なぜなら、実習は可能な限り連続して経験しなくてはいけないからです。

なので、どうしても出席しなくてはいけない会議以外はすべて有給休暇や代休を繋げて休ませてもらうことに、上司に了解をもらわなくてはなりません。

有給休暇は労働者の義務なので、本来であれば自由に取る権利があります。なので、上司が「困る」と言ったとしても、権利を行使して強行することは可能です。

しかし、現実的には一応了解をとるのが一般常識とされているので、事前に相談しておきましょう。あとあと「聞いていなかった!」などと騒がれて実習中に連絡されても迷惑ですし。

ちなみに、私は事前に直属の上司とその上長とその上にも了解を取り入学手続きをしたにもかかわらず、夏が来て休むことを改めて確認したとき「聞いてない!」と言われ、呆れ返りました。聞いていないわけないだろ、アホか。

 

押さえるべきポイント2:あえて仕事を詰めこみ過ぎない

実は、レポートが結構大変です。

学校によっては、手書きを強要されたりします。(コピペ防止のため)

私の通っていた学校も途中まで手書きでした。私は課題をため込む典型的なサボりタイプなので、2か月ごとに2000字×4通=8000字のレポートを一晩で書いたりする羽目になり、泣きそうになりながら腱鞘炎一歩手前の手を引きずり、なんとか卒業した感があります。

真面目な皆さんにおかれましては、こんなことはないかもしれませんが、日ごろの仕事を詰め込み過ぎると、こんなことになってしまうかもしれません。

私は仕事で手を抜くことが当時、とても下手っぴだったので、全力でやって夜は泥のように眠り、土日は疲れて何もできない、ということになっていました。

なので、学校に通いだしたら、少し仕事のスケジュールは楽をするようなイメージでスケジューリングして、レポートを書く時間を少し開けるくらいの余裕があったほうが、いいなと思います。

土日にやろうと思っても、結構やれません。家庭の用事が入ったり、スクーリングが入ったり、結構時間ないです。平日にやれるように、調整したほうが無難です。

 

押さえるべきポイント3:試験対策は3ヶ月前からはじめると楽

せっかく2年近く学校に通っても、国家試験に合格できなくては当初目的としていた「社会福祉士」は取れません。

なので、国家試験の試験勉強はしっかりやる時間を必ず確保しましょう。

19科目あり、そのどれかで0点科目があると無条件で落ちます。

合計で60%が合格ラインとされていますが、その年の難易度により合格ラインは上下します。

だいたい100点以上取れていれば確実ですが、そうすると67%、約70%点数を取れなくてはなりません。この点数は過去問を見ていただいたら分かると思うのですが、結構勉強しないと取れません。

少なくとも3ヶ月は真面目に勉強する時間を設けたほうが無難です。

私の参考にならない試験対策レポートを、以前ブログにあげたので、もしよかったらご覧ください。勉強方法だけは参考になるかもしれません。

【社会福祉士】私はこうして5日間で合格率30%の国家試験に合格した(2020年最新版)

 

押さえるべきポイント4:学費サポートを活用する

失敗したのがこれです。
「専門実践教育訓練給付金」というのがあります。

「学費クッソ高いやん…」と思った方。ちゃんと卒業したら、お金50%戻ってきます。

教育訓練経費(学費)の50%に相当する額(最大40万円)が支給されます。さらに、資格取得をし、かつ修了した日の翌日から1年以内に一般被保険者として雇用された場合、教育訓練経費(学費)の20%(上限16万円)が追加で支給されます。

私はこれの申請時期をうっかり逃してしまいました。妻にめっちゃ怒られました。学費が40万円だったら、20万円返ってくるからです。

これはマジで本当に後悔しているので、専門学校の人によく話を聞き、ハローワークで現職の勤務状況と照らし合わせて支給対象になるか確認に行きましょう。ハローワークで所定の手続きが必要だからです。

※制度に関する詳細は最寄のハローワークへお問い合わせください。

 

まとめ:仕事をしながら資格取得するのは楽しい

「仕事をしながら学校なんて通えるかな」

「私はそんな余裕ないから」

と思って、興味がある資格取得を諦めかけている、そこのあなた。

やる前から諦めてしまったら、もったいないですよ。

あなたなら、できます。大丈夫。

 

資格取得のために通学する学校では、同じように働きながら資格取得を目指す仲間に会えます。本当にみんないろいろな仕事をしていて、異なる人生経験を積んでいます。全く知らなかった世界が開けます。それだけでも、学費を出して知らない世界に飛び込む価値があります。
トライすることに意味があります。応援しています。

【AC】Step8「傷つけた人」その④『高校からの同級生Sさん』

step8.傷つけた人の棚卸しです。

 

Sさんとの関係

Sさんは、高校時代からクラスメイトでした。

小さい頃からピアノを習っていたそうでショパンやラフマニノフやリストが弾ける子でした。学校の成績は良く、顔も良かったので、リア充寄りのキャラクターでした。

私みたいな根暗は本来なら縁遠いタイプの人でしたが、高校時代はテニスで県内ベスト4で「スポーツができる人」と一目置かれていたことと、共通の特徴として、教師に非常に反抗的な性質を持っていたことから、よくつるんでいました。

彼との関係が一変したのは、大学受験からです。

私はある程度の私立大学に合格し、彼は上を狙って全て落ちました。

彼は正直、学力の面では自分の方が上だという優越感を、私に対して抱いていたようにみえました。私より偏差値の低い大学に行くのは、プライドが許さなかったのか、留年して大阪にある河合塾の予備校に通い始めました。

私が大学で狂ったようにエチルアルコールを摂取し始めたのと同じように、彼もまた酒を飲み、あまり真剣でない予備校仲間に唆されて、夜遊びが中心の生活を送るようになりました。

当然学力の向上は見込めず、彼は現役のときに合格できた実力よりも偏差値の低い大学に、行かざるを得なくなりました。

それから彼は私に対してコンプレックスを抱くようになりました。会っても私より優れているところ、つまり容姿や女性ウケの良さを自慢するようになりました。

かつて教師という共通の敵を持っていたころの関係の心地よさは消え失せ、徐々に居心地の悪い間柄になっていきました。

そして、私が4年の大学生活を終えて最初の会社に就職するころ、彼は統合失調症を発症しました。

 

自分の自尊心を保つために彼を利用した

私の反省は、ここから深いものになります。

なぜなら、私は彼を自分の自尊心を保つために利用したからです。

私は就職はしたものの、ブラックすぎるベンチャー企業の実態に「失敗した」という忸怩たる思いを抱えていました。

酒に逃げたのと同様に、私を安心させてくれる「下」を探していました。

それがSさんでした。

彼が連絡してきて、「今中学生と付き合っている」とか「オタサーに入って一番モテている」というような自慢話をしました。大して興味もないくせに彼の話を聞いたのは、自らの欲求を満たすためでした。

すなわち、彼を下にみて「こいつは俺より何もない」と確認し、安心したがったのです。「まだ女の話なんかして、バカじゃないのか、それしか話すことがないのか」と馬鹿にして腹の中では嗤っていました。

とてつもなく醜い心でした。

「彼がさびしいだろうから」などと優しさを取り繕った吐き気を催す建前に隠して、こんなにも利己的な本心を持っていると認めたくなかったので、私は無意識に目を背け続け、努めて認識しないようにしました。

私は彼が、自分が働けていないことを気にすると容易に想像できていたのにあえて「仕事がいかに大変か」「どれだけやりがいがあるか」というような話をしました。

彼が目をピクピクさせながら聞くのを見て日頃の溜飲を下げました。

 

対人依存が決定的になった借金

彼の統合失調症は悪化しました。

あるとき、「治療費が払えなくなった」「金を貸してくれ」と彼から言われました。

それは甘美な申し出でした。

頼られる、養う、そういう扶養側の立場にいることで、もはや朧げだった存在意義を繋ぎ止めるのに、彼を利用できるからです。

渋るふりをして、私は内心いそいそと、30万を用意したのでした。

完全な対人関係依存だったといま振り返ると、思います。

金を貸した側という正しさを振りかざして、自分が彼を利用したくせに、なかなか返ってこないばかりかさらに上乗せで借金を申し出てきた彼を罵倒しました。

人を正しさで攻撃することは、気持ちの良いことでした。

彼を責めている私は正しい、彼が間違っているのだから、相対的に私が正しい、なぜなら是正する側なのだから、という考え。

下を捕まえて叩きのめすことで自分の自尊心を回復させようという下卑た意図がありました。

彼の病気を理解しようとせず、「働こう、返そうと思えば返せるはずだ、それがないのは、返す気がないからだ」と言いました。

「絶交だ、そんなようだとこれからも友人をなくすよ」と言いました。

自分が精神疾患に罹り、それがどれほど酷い言葉かよく分かりました。働きたくても働けない、そんな状態だったかもしれないのに。そんなとき、こんな言葉をかけられたら、私はとても辛い気持ちだったでしょう。

 

謝罪のことば

彼がどうしているかは、今はわかりません。

Sさん、私は自分のために、あなたを下に居させて利用しようとし傷つけたことを、心から謝ります。

本当に申し訳ありませんでした。

金を返す返さない、そんな問題より先に、私はあなたを傷つけ、追い詰めるような接し方をしました。自分のことしか考えていませんでした。

あなたにも尊敬するべき個性があり、目に見える物差しで推し量ることなどできない尊厳があったのに、それを当時わからずに貶めました。

私なら許さないでしょう。

そういうことをしたと、ここに改めて認めて、謝罪させてください。

本当にごめんなさい。

【仕事】利己主義の集まりはチームではなくグループ

こんな自己中心的な考えばかりの人間が集まって何のメリットがあるのだろう、と今の組織で仕事をしていて、うんざりした気持ちになることはありませんか?
どんな組織が「チーム」なのでしょうか?

「チーム」とは?

チームteam)は、共通の目的、達成すべき目標、そのためのやり方を共有し、連帯責任を果たせる補完的なスキルを備えた少人数の集合体を理想とすることがある。
実際には、チームといっても目的、目標、やり方は指導者から与えられただけで、変更権がなく共有できていないことがある。
つまり、目的や目標が「同じもの」であり、そのためにやり方を創意工夫して、当事者意識をもって取り組む少人数の集合体である、ということですね。
同じ方向を向いて進んでいける仲間が「チーム」になります。

方向性が一致していない集団は「グループ」

では、私が働いている組織のように、方向性が一致していない集団は、どう表現したらよいのでしょうか?
そのような集団は、「グループ」であるといえます。
ただ集まっただけ。寄せ集められた烏合の衆。目的や統一された意識のない、当事者意識もない、人の群れです。
目的が同じでなくては、方向性やゴールはそれぞれ異なってしまいます。また、価値判断も異なり、最も重要視するべきコトにズレが生じます。
ましてや、利己的な人間が集まっても不協和音しか生まれません。
個人の営業成績の見栄えの良さを優先したり、表彰されるような功績をあげたいと他人の手柄を横取りしたり、そういう「自分さえよければいい」という人が集まったとしても、それはただの足し算であって、むしろ足を引っ張り合い、引き算にすらなりえるのです。

チームには、個人の利益の最大化から離れられる魅力的なビジョンが重要

とはいえ、自分の身はかわいいもので、それぞれ家族もありますので、個人の利益は大事です。
しかし、チームで集まる意味は、存在を掛け算することで、ひとりではできなかったことを成し遂げることにあります。
それは、自分一人では実現できなかった理想を実現できるという、夢のあるビジョンです。それが、個人の利益から、集団の利益の最大化へと行動をシフトさせます。
つまり、個人の利益追求よりも魅力的な「集団の利益」と感じられる、魅力的なビジョンが共有されていることが、「チーム」の前提条件だということです。
たとえば、「世界一お客様が感動してくれるレストランにしよう」とか、「ひとりでも多くの発達障害の当事者が、自分らしくイキイキと生きていける社会を創ろう」とか。
レストランがミシュランで三ツ星をとって、予約の取れないレストランになり、商売繁盛するのは、そのビジョンを実現するにあたって副次的に生まれたことであって、感動してくれるレストランを目指すから、人々が評価するほどの味やサービスになっていくのです。
もともと、ミシュランで三ツ星をとることや、商売が繁盛することを目的にしていたら、経費をケチったり、ミシュランの審査員っぽいひとにだけ過剰なサービスをしたりと、損得勘定が働きます。目先の利益にとらわれて動いている限り、お客様を感動させるようなサービスは生まれないし、結局目標は達成できないでしょう。
なぜなら、個人が目指すゴールが、それぞれに「このぐらいでいいだろう」という損得勘定により設定されるからです。
利益が出るなら多少質が悪くてもいいだろうとか、評価してくれる人にだけ評価されればいいだろうとか、あまり味に詳しくない客にはこのぐらいにしておけば騙せるだろうとか、そういう浅はかな気持ちが生まれます。これは、私利私欲をなげうってでも成し遂げたい夢のようなビジョンでなくては、人は往々にして、個人の利益(効率)の最大化を最終的な着地にしてしまうからです。

まとめ:マネージャーの仕事とは、まさにそれ

今回私は何を言いたいかというと、やはり結局マネジメント層に対する愚痴という、ものすごく俗物な主張なのでした。
そういうビジョンを掲げて「チーム」を引っ張るマネージャーは、そういう魅力的なフラッグを掲げなくてはいけないんだよな、ということです。
それは、組織のなかで全国No.1になろう!とか、全国で表彰されよう!とか、そんな安いフラッグではダメなのです。
そんなの、ただの横並びの比較じゃん。しかも、条件同じじゃないから、アンフェアです。全然面白くない。つまんない。
我々が働いているのは、なぜなのか?
どんな人に役に立ちたくて、私たちは毎日朝から晩まで駆けずり回るのか?
それは、社会の役に立つからです。
存在意義があるからですよ。
それによって、何よりも自分が生きている価値が認められるからです。
働く元々の意味は、お金をもらいたいからじゃない。
そんなことなら、テキトーに老人でも騙して金を巻き上げればいい。
お金を稼げばいいなら、合法か違法かくらいの違いで、そんなに変わりませんよ。
無知な人を騙してお金を動かす。それは詐欺師と一緒です。
詐欺師ではない、仕事人として、プロとして社会でお金をいただく意義は何なのか?
誇りに対して支払われる対価を受け取る。そういうイキイキとしたチームは、
・自分たちが成し遂げたい夢
・それは独りではできないほど大きい
それを常に忘れず、だからこそ仲間の存在に感謝していて、お互いに夢の実現という共通のゴールに向かって常に進化していけるのだと思います。
そういう矜持が足りないと、やはり虚しさを感じます。
そういう仕事人としての深みがちゃんとある人が好きです。
自分のことや目先のことだけのマネージャーは、一緒にやっているとイライラするし、発言にイラっとするんです。
メンバーも「グループ」であって、全然楽しくない。個人のボーナスや営業成績の見栄えしか考えていない。
そもそも、今の会社にはそういう人しかいなさすぎて、くそつまらんな、と思うことがあります。
特に、ある程度の偏差値の大学や大企業にストレートで入ってしまった、とてもかわいそうな価値観のひとたちが多いのです。
彼らは、人生がいかに多様性で失敗があるからこそおもしろい、その奥深さを知らない。この新自由主義において、学歴社会において、たまたま勝者になれたから、自分がすべて正しいと思って他人を見下しています。浅い経験が全てだと思っている。
このようなルールからあぶれた者たちは自分より劣悪な人間であると根本的に思い上がりをしているのです。いつ何時、自分たちが社会的弱者と呼ばれるそう見下していた人たちのように苦労するか、分からないのに。
そのような乏しい、幅のない人生をこれからも送っていくのでしょう。可哀想なことです。
これから社会は多様化に向けて動いていきます。それなのに、既定の価値観にとらわれて、様々な生き方を学ぶ気持ちもなく、おそらく中年以降は自分がいかに優れていたか、という誰も聞いてくれない自慢話をして嫌われていき、「周りはバカばっかりだ」と言いながら死んでいくのです。
マネージャーがゴミみたいなビジョンしか掲げられないと、このように下まで腐っていきます。
今まさに、大企業病に侵されたエリート(笑)が集まっているのが、今の日本の優良企業という泥船の正体です。
それを創ったのは、今ふんぞり返っている上司たちです。つまらない、表面的な価値だけにとらわれ、右往左往してきた人々。
言っても分からない人には、エネルギーを割くのはもうやめました。価値観の相違というやつで、私とは違う世界で生きている人たちだと考えるようになりました。
人生を40~50年近くもその価値観で生きてきた人に、その価値観の幅を広げてくれといっても、土台無理な話です。
私は、今の社会や常識になんか、認められなくていいや、と思っています。
こんな壊れた社会に認められている人は、いずれ滅びる気がします。だから、逆に認められて褒められて天狗になっている人は、やばいような気もします。
自分が実現したい未来に向かってがんばりましょう。そして、同志を見つけたら、そのときには「チーム」になり、夢を成し遂げましょう。

【AC】Step8「傷つけた人」その③ 『前任地の同僚Yさん』

今回の傷つけた人は、前任地の同僚Yさんという女性です。

私がまだ酒を飲んで狂っていた頃の同僚で、最終的にはお互いに会話もしたくないということでメールでしかやり取りしなくなり、関係は完全に壊滅しました。

私は長らくこの人を、私を迫害した人として恨んできました。しかし、決してそれだけではなかったことに最近気づいたので、棚卸したいと思えるようになりました。

尊敬する人の棚卸しを聞いていて、気づきをいただいたのがきっかけです。

相手の、私に対する接し方は、アサーティブではなかったし私を傷つけるものでした。

しかし、それと同様に私も彼女を傷つけたことをここに認めます。

 

当時の状況

私は、酒害をまき散らしていました。

特に当時2人一組で得意先を担当していたため、私と仕事をしなくてはいけなかったYさんに、迷惑を掛けました。

朝ストゼロがキマりまくった状態で出社(Yさんとの約束に遅刻なうえに飲酒運転)し約束を蔑ろにしたりしました。とにかく時間に遅れることが多く、一切信用されていなかったと思います。そんな人を信用することは難しいことだと思います。反対の立場ならできません。

つまり、私のYさんに対する態度は、非常に不誠実な態度だったことを認めます。

Yさんの夫は、当時いた会社のパワハラ上司とその金魚の糞にいじめられていました。旦那が精神的に抑うつ状態だったことや、Yさんの実母が脳卒中で下半身に麻痺が残るなど個人的に大変なことが重なり、Yさんは余裕がなかった状況でした。

そんな状況を私は知りませんでした。自分のことしか見えていなかったのです。

Yさんが弱っていることを喜ばしいことだと感じました。

家庭内で抱えている問題を人伝に知った後は、「そんなプライベートの事情で仕事に穴をあけたり仕事を蔑ろにするのは、私に対して要求してきた正しさと整合性が取れない」と厳しく非難し追及し、彼女を追い詰めました。

そんな私に対してYさんは「あなたとは他の所員と同じようには接することはできない」と言っていました。私は「それは仕事をするうえで許容できることではない」「必要なことは伝達してもらわなければ困るし、同僚である以上平等に接するべきだ」と訴えを認めず責めました。

今考えれば、無理のないことでした。

私はまさに私がYさんにされて嫌だったことをしていました。私は彼女にやられたことをそのままし返すことで復讐するという嗜癖に耽溺して、執拗に大義名分を盾にして攻撃し続けました。

 

Yさんは、私と同じでした。

自分を世の中に認めてもらいたくて、世の中の物差しに支配されている、実は他人に怯えていて弱い人でした。だから正しさにこだわったし、正しくない行いをする私を攻撃したのだと思います。

私も全く同じでした。

「俺を認めろ」

「俺をバカにするな」

「俺のほうが優れていることを見せつけてやろう」

頭のなかは俺ばっかりで、大切なことは何も見えていませんでした。

自分の存在を誇示するために他人を使い捨てのように扱われて傷ついてきたのに、私は彼女に対して同じことをしました。そのことをとても恥じていて、また後悔しています。

 

鏡に映し出された自分の姿

これに気づけたのは、回復した状態で、また攻撃される立場になるチャンスにめぐりあったからです。

「評価を求める」

「承認を求める」

「他人に怯えて監視する」

「同情でコントロールしようとする」

「見捨てられ不安を感じると他人を責めて問題から目を背ける」

「己の過ちを認められない」

これらは他でもない、エチルアルコールでおかしくなった状態でYさんを執拗に憎んでいた、かつての私自身の姿でした。

これは私の母の姿に重なります。幼いころから、このような姿で私を圧迫してきた母親の弱さ。私は母と同じように境界線を侵害して他人を傷つけてきたのでした。

本当の自分の問題に目を向けていなくて、それゆえによくわかっていなくて、相手が嫌がっているのに自分の気持ちを解消するために謝罪をしました。

口先だけでした。相手に許してほしいという自分のことだけしか考えていませんでした。
そんな自分勝手な謝罪を受け取らない相手を、責める気持ちを持ちました。

私は当時、きちんと謝ることができる状態ではなかったことを認めます。

自分自身の心を守ることに必死で、私は自分の真の問題に気づけていませんでした。それなのに、相手に自分の存在を認めさせようと、境界線を侵害しました。そうしてYさんを傷つけたことについて、本当に申し訳ないと思います。

仕事の実績で助けて自分の罪を清算しようとしたり、卑屈にへりくだり攻撃させないようにコントロールしようとしたりしました。

必死で平気なふりをして虚勢を張りました

しかし内心は、だれも見向きをしてくれなった懲戒解雇検討中の孤独な経験について思い出し、ものすごく怯えていました。

誰にも相談できない状態で、当時は自分を保つためにはそれしかなかったことも事実でした。

しかし、それにより他人を傷つけてきたことも、また動かぬ事実なのでした。

人を傷つけている自分
失敗している自分
弱い自分
情けない自分
自分の過ちに気づけない自分
醜い自分

そんな自分を見たくなくて、受け容れられなかった。

最も必要なのは、そんな自分も自分自身の一部だと許してあげることだということに、まだ気づいていませんでした。

エチルアルコールををやめて、そろそろ3年になります。今になってようやく、そのことについて認めることができそうです。

長く依存物質をやめて、己の罪と行いや自分を許すことについて深く考え続け、それを聞いてくれる仲間に巡り合わなければ、今もまだ認めることはできず、憎んだままだったことでしょう。

まだあまり会いたくないし、直接会ってこのことを伝えることはかなりハードルが高い。なぜなら、私は相手に受け取られないことをまだ恐れているし、攻撃された記憶は今なお痛みを伴っているからです。

Yさんに伝えた場合受け取ってもらえないこともあるだろうし、追撃されることもあるだろうと思います。その可能性のほうが高いと思います。

それを含めて謝罪することに至るには、本当に時間を要することで、日々棚卸ししていくなかで、自己肯定感を高めていなければ実現不可能なんだなと実感します。

ただ、希望だと思える事には、私は、もし今回気づきを与えてくれた人が、真摯に謝ってくれたなら、それを受け取ると思います。

つまり、心から相手のことを考えた謝罪は、受け取る準備ができた人には、しっかり受け取ってもらえるものだと思います。ということは、受け取るか受け取らないかは、相手の課題であって、私にはどうすることもできないことなのだと思うのです。

それは相手の準備の問題だから。

かつての私がきちんと謝罪することができなかったように。人を傷つけ憎んだことの根本は、自分自身の課題であったのに気づいたように。

相手にとってベストな気づくべきタイミングが、来るときには必ず来るのだと思います。

自分が受け取る準備ができることで、私はそれが己の問題ではないこと、私にできる事は、自分の意志で真摯に受け容れ、謝罪すべきを謝り、他人の謝罪に誠実に耳を傾ける事だけなんだなとわかりました。

だから私は、勇気をもって、かつて人を傷つけた自分自身の弱さを許そうと思います。それと同時に、傷つけられたことについて、納得したいと思います。

当時、私には、謝罪する準備ができていませんでした。それにより、相手の心をひどく傷つけることをしました。

とても、反省しています。

同じことをしないために、私は棚卸をし続けて、己の生き方を点検し続けていきたいと思います。

【依存症】アルコール依存症者にとって「オンライン飲み会」はリスクでしかない

メディアで最も早く「オンライン飲み会」の危険性について言及してくれた記事は、私が知る限りではこのKarma氏のnoteの記事である。

瑞々しい情景描写に続けて綴られる美しい文章は、専門知識を持たない読者に配慮され計算された文脈で構成されており、読んだものの脳裏に冒頭の描写のようなしなやかさと美しさを感じさせる。

ぜひ、一読してほしい記事である。

というか、もはやここに全部書いてあるので、もう私が蛇足を付け加えることもはばかられるくらいである。

とにかく読んでほしい。そしてヒマだったら戻ってきて私の文章も読んでほしい。

 

さて、この記事が指摘している「オンライン飲み会」に対する懸念を、少し他人事のように考えていたことを、私は反省しなくてはならない。

なぜなら、私自身もこの「オンライン飲み会」によって、断酒を脅かされかねない経験をしたからだ。

 

普通の飲み会より断りづらい「オンライン飲み会」

私は会社員である。

多くの会社がそうであるように、現在オンラインでミーティングを行っている。

そしてよくメンバーから、会議の予定のインビテーションがメールで投げられてくる。

そのなかで、とても厄介だったのが、オンライン飲み会付きのミーティングのインビテーションである。

ミーティングが終わったら、そのまま回線を切らずに、彼らは飲み始めるのである。

私はこれがとても厄介で、久々に飲酒欲求がわいた。

つまり、スリップしそうになった。

 

まず、家にいるのが確定的に明らかなので、「断る理由を考えるのが困難」だということである。

外食する予定も外出する予定も、新型コロナウイルスの影響で自粛であり、できないことは周知の事実である。

家庭のことで、という言い訳が唯一のよりどころだが、毎回断るのはさすがに気が咎める、というひとは多いだろう。断ることも大変なストレスなのである。

 

私はアルコール依存症であると、会社に公言している。

今年の1月から、取引先にも公言している。

そして「酒のある席は基本的に参加することはない、誘わないでくれ」と公言している。

なので、そのことがあってから、「飲み会」自体に接することが激減した。

いつもの飲み会なら、会議が終わった後会場を移動する。私は、会議は会議室で参加して、飲み会でみんなが飲み屋に移動するのをしり目に帰宅する。

今までは実に気分爽快であった。

「会議」と「飲み会」は明確に境界線がひかれていた。

それが、私の断酒を支え、ストレスを軽減してくれていたのだ。

 

しかし、オンラインミーティング+オンライン飲み会で、一続きになっていると、疎外感が半端ではない。

 

「私がいなくなった後どんな話するのかな」

「みんな楽しく飲むんだろうなぁ」

「もしかして私の悪口を言うんじゃないだろうか」

 

そういう悪い想像が頭をかすめて、正直会議どころではない。

私はもう絶対に何を言われようと、どれだけ不利になろうと、酒だけは飲みたくない、という一念で「じゃ、私はアル中なんで消えます、おつでしたー」とブチっとWEBの接続を切ったが、こういうことがしにくいのが本来だろう。

なんとなくなあなあで残ってしまったら最悪である。

日ごろ我慢している酒をおいしそうに飲む同僚のライブ映像を延々何時間も自宅で見せつけられる拷問のスタートである。

 

アルコール依存症の患者に対する配慮を

「私はもう酒の席なんて断れる」と天狗になっていた節がある。

今まで見ない努力をしてきただけで、脳の報酬系の回路の異常は今もしっかり脳に焼き付いている。それを浅はかにも「コントロールできている」と見誤り軽視していたことを私は反省した。

ここで依存症者でない方に向けて、オンライン飲み会をするうえで配慮できたらしてほしいことを書いてみようと思う。

①会議のインビテーションは、別々に案内する

わかる。面倒くさいって言うんだろう?でも、やってくれさい。

「会議」と「懇親会」は別のイベントである。分けてインビテーションを送るだけで、「断りづらい」ということでズルズルと残ってしまい、断酒していたのに飲んでしまった、なんてことを防げる。飲まないためには「元から参加しない」。これが一番良い。

考えてみてほしい。

ひとりだけ砂漠で水も飲んでいないのに、このあと水を飲む人たちとハードなトレーニングをして、そのあと美味しそうに水を飲む人たちの映像を見せられたらどうだろう?

どんなに我慢強い人でも、水を飲みたくなるし、水を飲むなって言われたって、飲むだろう?意志がどうとかそういう次元ではない状況なのである。

そういう酷なことをしているのだという自覚を持ってほしい。

 

②開始と終わりの「時刻」を明確に決める

本物の飲み会でもそうだが、ダラダラと長い。

しかも家で、すぐ隣にベッドがあり、日ごろさみしさを抱えていれば、あと少しあと少しと延長したい気持ちは痛いほどわかる。

しかし、それにより酒量は確実に増えていく。

私は毎朝犬の散歩をしていて気づいてしまったのだ。新型コロナウイルスで在宅勤務が推奨され始めてから、空き缶のゴミが増えていることに。

このことにとても恐ろしさを感じている。

しかも特にストロングゼロ(アルコール度数9%の酎ハイ)の空き缶が多い。

長々と酒を飲み、家で飲む習慣ができ、いずれは私のように昼から飲みながら仕事をするようになる。そうなると、もう依存症まで待ったなしである。つまり、あなたも他人事ではない、ということだ。

 

③「飲まなきゃやってられない」はなぜか見つめよう

そんなこと言ったって、飲まなきゃこのストレスをどうやりくりすればいいんだよ?

おっしゃるとおりである。私はそう思って飲み続け依存症になったので、気持ちは痛いほどわかる。

それは、なぜなのだろうか?

私の場合は、生きづらさから目を背けたことだった。

自分が抱えている苦しみや不安や恐れや悩みに向き合わず、逃げるために「酒」という名で販売されているエチルアルコールという薬物に頼った。

酒は飲み物ではなく、最も厄介で体を蝕む薬物である。合法だが、良いものではない。これは科学的に間違いない。

そのような薬物を頼ろうとした、その背後にあるものに目を向けてほしい。私みたいになる前に。

もしあなたが「やってられねぇよ」という気持ちで酒をあおっているのだとしたら、そういう気持ちをもっている仲間はちゃんといる。そして、その薬物に頼らなくても、生きていける回復の道がある。孤独でつらく、助けを求めづらかったと思うが、それこそ今はオンラインで気軽に仲間に繋がることができる。

 

まとめ:オンライン飲み会ではなく、オンライン自助がおすすめ

結局、オンラインを求める満たされない気持ち、それは「さびしさ」である。

人と人との繋がり、ひとりじゃないということ、不安感や孤独感を紛らわせたいから、人は集まりたいし、話を聞いてほしいし、話を聞きたいのだ。

そういうことなら、いい場所がある。オンライン自助グループである。

実際足を運ぶのがためらわれた人も、恐ろしそうだから敬遠していたという人も、今ならボタン一つで、酒を買い込まなくても参加できる。

もし興味があったら、気軽にアクセスしてみてほしい。

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【ジェンダー】『英雄色を好む』という男らしさの固定概念について

ぽつりぽつりと思い出した男性ジェンダーロールについて、棚卸しさせてください。

私はあまり『肉食系』と言われる男性とソリがあいません。

しかし、男性社会においては、未だに『雄として有能であること』を誇示する傾向にあります。会社や趣味の集まりなど、リーダーシップを取ろうとしたがる人がいわゆるそうした『肉食系』にカテゴライズされるリア充的なキャラクターが多いなぁと思って、いつも遠巻きに眺めています。

転職したとき、7人しかいなかった同期は「自分たちは優秀だ」と思っている節があり、90%以上がそのようなキャラクターの人でした。たしかに転職試験の倍率は高く難関で受かった人が少なかったから、自負が芽生えるのも無理はないのですが、研修中の寮での共同生活は苦痛でした。

同期たちは、毎週末クラブに出かけてナンパしたり「何回やった」だの、「セフレがいる」だの、そういう雄自慢を酒の肴に飲むことが多い人たちでした。

私は本当はそういう話題が全く楽しくなく、むしろ嫌いだったのに「世の中はそういうもので、それが優れた人間のやることなら、真似しなくては」と、乗っかっていきました。

そんな自分を惨めに感じます。

同期は好きだったんですよね、そういうプレイボーイであると自負できる生活が。エロさえあれば男は喜ぶと思っていて、色を好むことこそハイランクな趣味だとさえ考えていたように見えました。価値観の相違が半端ではない。

私は当時まだ酒を飲んでいましたから、酒を飲むなら気を遣ったりしながらではなく、静かに部屋で酒の薬理作用だけに集中して、それこそしこたまただただ飲みたかったのです。すでにその飲み方がアディクトですよね。

わざわざ知らない女性に緊張しながら声をかけるのは嫌だったし、別にそんなに不特定多数の女性と関係を持ちたいわけでもなかったのです。

むしろ、当時はそういうフシダラな在り方を軽蔑し毛嫌いしてすらいました。

それでも、私は間違っているから、と気持ちや素直な感覚に蓋をして、盲目的に「社会で評価されているから」と同調し同化しようとしました。

そのようは卑屈な試みを拒否できなかった、自己肯定感の低さに吐き気がします。

厄介なことに、男性は少なからず、男性同士の集まりにおいてそういうノリの悪さを嫌い、馬鹿にします。

「ナンパの一つもできねーへたれ」

「男としての魅力や自信がないダサいやつ」

そう思われたくなくて、無理をしてそちら側の仮面を被っている人を見てきました。そのうちの1人だったからよくわかります。

むしろダサいのは愛する人をシンプルに大切にしない人だと今ならわかります。

何人と性交渉しようが、RPGのレベル上げじゃないんだから、人間的な価値がモリモリ上がるわけでもないのに、やはり性別が男性である以上「そうでなくてはならぬ」「そうあるべき性別」という固定概念がわたしの中にあったと思います。

私はその自身の中にある認知の歪みをちゃんと自分のものさしで考えて、拒否する勇気を持ちたかったです。とても恥ずかしいです。

わたしの認知の歪みにより傷つけた女性がいたはずで、私が「自分の気持ちをちゃんと見なかったこと」「自分の感じ方を大切にしなかったこと」が、その問題の根元にあります。

女性が傷ついた話を見るたびに、そのエピソードに対して何故かザワザワしました。

女性に対して過剰防衛的になったり、男性に対して不自然に攻撃的になったりしてきました。

私は男性として自分が誤った認識を持っていた時期があったことや、私がやってしまったことを、正しさで隠したかったのです。

私はそういう、あまりにも弱い、人間だったと認めます。

そういう弱さを覆い隠そうとするのをやめたいな、と思います。

今こそ、弱さや罪を覆い隠すために、強さや正しさを得ようとする心を、手放す勇気を。

【仕事】働き方はやりたいようにデザインをしよう

コロナウイルスの感染拡大にもとなって、なかなか外回りはできないので、営業としては決算月が終わるのを指をくわえて待っているしかありませんでした。初めての経験。

さて、私は4月から「もう会社の指示に従うのは(表向き)一切やめていこう」という決意のもと、自由に時間を使うようにしてみました。

 

4月からのワクワク裏☆計画

4月からも私は今までと同じエリアを担当して、やる仕事も特に変わりません。

しばらく担当して要領も分かってきましたし、ここらあたりでもう好きにさせてもらおうかな、と思っています。

4月から、裏☆計画に従って行動します。

具体的には下記のとおりです。

 

■会社の仕事は形だけ整える!

・取引先には月に1回程度顔を出すくらいで十分なので、無理に頑張らない(報告はうるさく言われたら報告だけテキトーに入力)

・会社がKPIとして設定した行動指標は、とりあえずやった形を整える

 

■やりたいことだけに時間を割く!

ゴール:依存症・発達障害・精神疾患のエキスパートになる。ソーシャルワークの一環として医療上の課題を解決するために役立つ(そのための製品利用やメーカー企画を立案し実施する)

①社会調査すべきこと
・各種自助グループに参加し現場に精通する。
・今ある自治体や非営利団体などのサポートや社会資源の情報収集、訪問する。
・それぞれの困りごとにおいて具体的にはどんなサポートが必要か?をリサーチする。
・精神疾患・発達障害・依存症の当事者の社会復帰のための治療や社会資源、公的支援をわかりやすくまとめる。

②現時点でできること(コロナ収束後)
・精神疾患・発達障害の啓発勉強会(社会福祉士として、医療従事者として)を実施する。
・精神科医、心療内科医と面会し、医療従事者のニーズや治療実態をヒアリングする。
・このエリアでは未だ無いACA(ACの自助グループ)を立ち上げて運営する。

③今後やりたいこと
・当事者たちは何に困り、どうなりたいのか、具体的には何がどうなればよいのか?をクリアにして、その課題をシェアできるイベントを企画する。(医療と社会資源を繋ぐ手助け)

・ASK依存症予防教育アドバイザーを受講・合格し、依存症について専門的見地に基づいた啓発勉強会を定期的に実施する。(自治体・保健所・精神保健福祉センター・地域包括支援センター・医療機関・一般市民など)

 

好きなことをしないと心が死ぬ

ワクワクすることは大事です。

このまま会社に飼い殺しにされて、やりたくもないことを毎日していたら、うつが悪化してしまうでしょう。

ACのための12のステップを進めるにしたがって、今の世の中がいかに狭量な価値観で構成されていて、それを正しいと信じている人たちの思い込みにより動いているか、ということを、肌身に感じます。

そしてそれは、会社においてもやはり同じことのように思われます。

「営業でいい成績を出しているほうが偉い」「会社の言うことを忠実にやっているからすごい」というのは、「いい子にしてママに褒められたい」「かけっこで一等賞だからすごい」と同じくらいの感覚で今勤めている会社の価値観が構成されていて、そのような勝ち負けの世界でしか生きてこなかったひとの寄せ集めが会社だということです。

限られた水槽(価値観の枠)のなかで、飼われている金魚のような感じです。

水槽から出ることすら想像できず、水槽のなかが全てだと思い込んだまま、えさを食べてフンをして死んでいくのも人生ですが、私はやはりそれは辛いなぁと思います。

それで幸せだと思える人が、常識的な人、という存在の姿なんだと思います。

私は非常識なのでしょう。それでは幸せだと思えません。

自分で自由に泳ぎたい。いろいろなところを泳ぎたい。泳ぐ場所は自分で決めたい。

だから、今あるルールはそれとしてうまく掻い潜りながら、水槽のなか以外でも泳げるように努力をしたり、いずれは川や海に出るべく、自らを鍛えていくことが、やはりワクワクする生きがいなのです。

だって、なんか変だな、と思うことありませんか?

嫌なのに、嫌なことずっとして、それを誤魔化しながら人生終わるなんて、嫌じゃない?

私は嫌なことは嫌だと認識して、これからは良い意味で自分勝手にやらせてもらおうと思います。