恨みこそ、私が生きる原動力だと思って生きてきた。
私に、死なずにもう少し生きようと思わせてくれたのが、恨みだった。
「馬鹿にされたまま、コケにされたまま、このままじゃ終われねぇ」
「絶対に何十年かかっても復讐してやる」
「味わった苦しみを何十倍にもして絶対に返してやる」
そう思えば、ふつふつと腹の奥底から、赤く黒いマグマのようにエネルギーがどろりと湧いてきた。もう枯渇し機能を失ったかと思われた手足を再び動かしてくれた。
私が当時生きるために、恨みや憎しみはなくてはならないものだった。
嗜癖としての「恨み」。
身体も精神も、臥薪嘗胆を信念に鍛え上げていった。
恨みや憎しみを、何度も何度も思い返しては、奥歯を噛み締めて眠った。
まるで味のなくなったガムを何度も口に入れて咀嚼するように、しつこくしつこく思い出し、私はいつしか、恨みを嗜癖に使うようになっていた。
恨みを抱いていれば生きていくことができる。
この絶望的につまらない世界を生きるために必要なエネルギーがもらえる。
自分の他の向き合うべき問題を見なくても済む。
自分が正しくて相手が悪いという構図に、安心することができるから。
そうやって、安易な手段に頼っている状態を、嗜癖に使っているという。
「怒り」「憎しみ」といった負の感情に耽溺することによって、他のことを見ないようにしてきた。私はそうして生きてきた。そうでなくては生きられなかった。とくに小さい頃はそうだった。
その人生を通じた生存戦略の成功は、強烈に、痛烈に、私に刻み込まれている。
成功体験を繰り返すべく、私は今も、「恨み」を最も使いやすいエネルギー源にしていたのだと思う。
しかし残念なことに、嗜癖としての恨みは、人生をいい方向には向かわせてくれない。
なぜなら、人生は理不尽の連続だからだ。
人生は常に不平等で、恨もうとすればキリがないほどだ。
自分に落ち度がなくても損をするし、傷つくし、納得がいかないことがたくさん起こる。
そのひとつひとつに恨みを抱き、憎しみに身を焦がしていては、とても身が持たない。
理不尽さに巻き込まれて、恨みや憎しみに浸ってばかりいると、自分で自分の人生を台無しにしてしまう。
出来事についてはたしかに、犯人・加害者の選択で起こされたものだが、その後どう考えどうとらえ、どう行動するかは、自分自身が決めることができる。
相手のせいでこうなった、と考えるのは、自分の大切な人生の決定権を、人任せにしていることに他ならない。
もし今、人生が台無しになり続けているとしたら、他ならぬ自分自身が、自ら「人生を台無しにし続けること」を「選択している」のである。
そうはいったって、許せるものか。
あんなにひどい目に遭わされたのだ、あんなに私を傷つけたのだ。
誰が許してなどやるものか。絶対に報いを受けさせたい。許せない。殺してやる。
そう思うのも無理はない。私だって、もし妻や子供を殺した犯人がいたら、迷いなく殺すだろうし、それで何年ぶち込まれようと知ったコトか、と思う。
しかし、ふと客観的に考えてみると、少し違った見方もできる。
私がもし憎しみに狂い復讐心に駆られて犯人を殺したとしよう。
そうすると、そのあと何十年かは刑務所に服役することになる。犯人が複数だった場合は無期懲役か、最悪死刑である。
そのことで、生き延びていたとしても、とても長い時間を刑務所で過ごすことになる。刑期を終えても不当に就職しにくくなったり、謂れのない罵声を浴びせられたりするかもしれない。
そうなったとき、私はおそらくほぼ100%、毎日殺した犯人のことを繰り返し思い出すことになる。
私が、恨みや憎しみにより行動を選択したことにより、私は犯人という存在に一生縛られたまま生きていくことになる。
何の罪もない子供や女性を殺すような「とるに足らない存在」のその人を、いつも何度も思い出すことになるのである。
それは、本当に私が選択したい生き方なのだろうか?
私にとって大切なのは妻と子供であり、犯人ではない。
犯人が息をしているのが許せない、この世に存在しているのが許せない、だから一刻も早く亡き者にしなくては、というのはとても共感できる。そのためなら、何もかも無くなって構わないともまで思うかもしれない。
しかし、刑事事件の罪を裁くことは、私が人生を賭してやらなくとも警察と検察が仕事でやってくれることだ。司法国家なのだから、犯人の処分は専門家に任せて私は大切なものだけを思い出し慈しみ、自分をくだらないものに縛らせずに今を生きていくことも、選べる。
失ったひとやものは、もう二度と返ってこない。
それは残念ながら、人の身では何をどうやっても変わらない。
犯人を責めても、もう犯人にも償いようがない。
その人が更生するかどうかも、コントロールすることもできない。
数奇な運命でつらい形で交わりはしたものの、おそらくもう人生に登場しない、自分にとって最も大切でない人を、その後のまだまだ輝く可能性がある、そうであれと願ってくれた人たちがいた、「大切な私の人生」に関わらせてよいものだろうか。
そう考えると、やはり私刑というか、報復というのは、恨みへの囚われであり、結果的には虚しい人生を送るきっかけになってしまうんじゃないかなと思う。
いじめられた「恨み」を振り返る。
同じように、私を小さい頃にいじめてきた人間。
彼らの名前を私は今もフルネームで覚えていて、顔を見ればすぐにわかるし、出会ったのなら必ず合法的な形でネチネチと復讐をするつもりでいた。
しかし、恨みや憎しみについて12ステップ・プログラムを基に学んでいくにつれて、私は「彼ら」からのコントロールから逃れられていないのではないか、と思うようになった。
この期に及んでまだ、30年も前の事象に影響されているという事実。
それは「彼ら」の行動の結果を大事に大事に引き継いでいるようなものだ。
おそらくその辺で鼻くそでもほじって生きているであろう、もはやどうでもいいその他大勢に成り下がった彼らの意志を後生大事に引き継いで、私は生きていきたいだろうか?
否だ。
生きていても死んでいてもどうでもいい人たちに、何が哀しくてコントロールされなくてはならんのだ。そんなのは嫌だ。
彼らは私をいじめたことなど覚えていないだろう。
覚えていても、「ああ、いたな」くらいだろう。
もし謝る気があったとしても「じゃあ腕一本置いていけ」というような私の憎しみには到底向き合えるはずもなく、代償の大きさに尻尾を巻いて逃げていくだろう。
つまり、彼らは変わらない。変えられないのだ、私には。
彼らの罪は、彼らが考えればいい。
子どもができたとき。大切な子供が、知人がいじめられたとき。
そういうときに、思い出せばいい。
どれだけ自分がひどいことをしたのか。どれだけ他人を傷つけたのか。
それを知らしめる役目は、彼ら自身にある。
それすらわからない人種なら、尚更今後関わることもない人種なのである。
恨みを手放す、ということは容易ではない。
私はそれをこそ活力にしてきて、希望や夢や友情などは、正直反吐が出ると思っている。
基本陰湿でアウトローな我が精神は、そう簡単にはホーリーにはならない。
でも「恨み」を『もっていてもしかたないもの』だとは、思うようになった。
私たちの身の上に過去に何が起こったとしても、そのことに今の自分をコントロールさせるべきではないのである。
ありがとう、そしてさようなら、「恨み」。
私はおかげで楽しい思い出がほとんどないまま成長してきた。
生きるために、つらーい、くるしーい、さびしーい、にくーい、そんなことばかりを思い浮かべて生きてきたから、楽しい・ワクワクする、という感情はほとんど覚えがない。
もっと美しいものやワクワクすることが、目の前には広がっていたはずなのに。
私はそういうものに見向きもせず、醜くてドロドロした黒いものばかりを目に焼き付けて二度と来ない時間を過ごしてしまった。
実にもったいない。
本当にもったいない。
そのときにしか感じることができない喜びや驚きを、素通りして、私は何をしていただろうか。
私は、これからは、もっとそういう美しいものをいっぱい見て生きていきたい。
せっかく産まれたのだ。与えられた時間を楽しまなくては損だ。
そのためには、恨みや憎しみは、荷物になるだけだ。
もう役割を終えて、私を充分生かしてくれた。
今まで本当にありがとう、恨みや憎しみ。
君たちから卒業して、私は自分が見たいものを見ることに集中して、人生を過ごしていきたいと思う。