【共依存】組織における最適化と個としての最適化の違い

会社こそ、おおかたの日本の男たちにとっての母なのです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P93より引用

 

私は長らくサラリーマンである。

長く組織の人間として働いてきて痛感するのは、冒頭の斎藤学先生の言葉がまさにその通りだということだ。「自己犠牲」を美徳とする日本人の心根にびっしりとこびりついて離れない「共依存」という寄生虫。

この寄生虫は、心根に宿り、自我を喰らって成長する。

そして、自我を喰いつくされ空っぽになった宿主のなかにどっかりと胡坐をかく。

そういう恐ろしさと気持ちの悪さを、私は組織で働いていると感じることがある。

 

組織としての最適化

整理しよう。

組織で働くうえで歯車であり続けるために最も必要なものは、何か?

それは「忠誠心」である。

私心を滅して公に奉ずる、滅私奉公の精神で命令を遵守し、指示したことを的確にこなすことが「いい歯車」として重宝されるために重要なことだ。

そのためには、私心は邪魔でしかない。

メンバーは「組織の目的」を達成するために、個の目的よりも組織の目的を優先する事を良しとされる文化に徐々に染まっていく。

やがて、大きな生命体としての組織の一細胞として、個としての自己実現を果たすことなく、老朽化して排泄される。

 

個体として戦えないからこそ、私たちは組織をつくって共通の強大な敵に対抗してきた。

戦争で私たち日本人が「忠誠心」という狂気を発揮し世界を震撼させたことは、記憶に新しい。日本は、その類い稀な組織力・同調圧力で戦争を戦ってきた。

『神風特別攻撃隊』が特に象徴していると思う。

海外から「狂信的な自爆戦術」と恐れられた、通称『kamikaze』。

エチルアルコール(酒)を一発キメてさせてから、片道分の燃料しか積まれていない戦闘機に乗せ、「御国の為」に敵の戦艦に突っ込ませる。それをあくまでも自発的に促し、やり遂げた兵士の死を美談として語り、国のために死んだ勇敢な愛国者だと褒め称えて、他の者にも「国のために死ぬことが良いこと」だという圧力をかけていく。

そうやって組織の為ならば自分の命すら捧げる、という狂った献身を奨励した。

 

その狂気の正体は何なのだろうか。

 

自分の考えなど持たないことが推奨されているのですから「個人の責任」という感覚は育ちようがありません。お母さんの言うとおりにやってきた子供と同じに、会社のいうとおりに生きていく、会社という「家族」にとっての「よい子」ができあがります。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P94より引用

 

 

 

自分なりの良心や正義より、「世の中はそういうもの」と悟ったふうに「個人の責任」を見て見ぬふりをして、誰かの言うとおりに生きていくことを、家庭でも会社でも奨励されるのが、日本の社会的道徳観だ。

そして、狂気の正体は、まさにこの社会的道徳観である。

会社に勤めている「自分は成功者だ」と信じて疑わない多くの人が、気づいていない。

自分たちが、組織として最適な行動を選ぶように飼いならされて、限界まで「個性」という筋肉をそぎ落とされている。その結果、彼らは自分ではまだわかっていないが、もう自分の足で立てないほどに筋力を失っている。

だから、組織に見限られるのが怖いし、そうなっては生きていけないから、より組織に貢献する「良い子」であろうと努力する。「良い歯車」だと判断されるための条件は、会社にとっての「良い子」であることだから。

そうして努力すればするほど、どんどん足はやせ衰えていく。

 

個としての最適化

そのように、組織の規律や世間や常識などの「自分の本心以外の何か」に隷属することが美徳とされる共同体での在り方とは対極に位置するのが、個としての最適化である。

個としての幸せの実現には、自分の感情や欲望に素直であることが前提条件だ。

「自分はどうありたいのかを最優先する」

「嫌なことを嫌という」

「ほしいものを欲しいという」

そしてそれらは流れる水のように流動的で、コントロールできないし、とらえどころがない。

そういう在り方そのままを受け容れて、社会・他人との境界線で押し合いへし合いしながら生きていく。

己の良心と正義に則り、己が信じる最良の実現に向かってうねりながら熱を迸らせる道のりこそ、手づかみ感のある幸せの具体的なかたちなのだ。

 

組織としての最適化とは、まるで逆なのである。

組織からすると、水のように流動的でコントロールできないのは困る。手足が勝手に動いては、求める体全体のバランスが保てないし、目的が達成できないからだ。

つまり、組織は、個が幸せを求めて動いてもらっては困るのである。

 

だから、「共依存」させることにより、支配してコントロール下に置こうとする。

男たちにとっての母、というのはそういう意味合いだ。

言うとおりにやっていれば、褒めてくれて、大事にしてくれて、責任から守ってくれる。

組織や共同体を優先することを、素晴らしいことだ、私たちは間違っていないんだ、と盲目的に信じて疑わないように、繰り返し繰り返し刷り込まれてきたのである。

例えば学校で。

例えば家庭で。

今まで歩んできた社会生活そのものが、組織の人間として最適の部品になることを奨励していて、共依存になるための英才教育だったと考えられる。

だからなんとなく皆が、この美しいと教えられてきたこの社会に対して、一種の気持ち悪さがぬぐえないのである。

 

勤め人が病んでいく理由

この「組織における最適化」と「個としての最適化」が拮抗しているので、私たちは悩み苦しんでいるのではないだろうか。

社会に否応なく育てさせられた共依存的な性質から、組織に奉じ、家族に奉じ、それで間違いないはずと最適化をすればするほど、個としての幸せは失われていく。

自分ではなく皆を優先させられるようになった自分は「大人になった」「成長した」と考えているし、皆そういって褒めてくれるけれども、その実自分の足で立っているとは言い難いということがなんとなくわかっているから、常に不安がつきまとう。

違和感に気づいて「個としての最適化」を進めようとしても、今度は社会そのもの「世間」が邪魔をする。

「いい大人になって聞き分けのないことを言うな」

「家族がいるのに何を勝手なことを」

「まともに育っていたらそんなことをするなんてありえない」

と口々に罵る。

共依存真っ只中の社会の構成員たちは、独りだけ抜け駆けして個の最適化にまい進する裏切り者をみると、許せないからだ。

お気づきの通り、「世間」というものの声は、共依存のそれだ。

一言でいえば「私は我慢してるのに、お前だけ我慢しないのは許せない」だ。

組織としての最適化を「大人の義務」「大人とはこういうもの」という倫理観や道徳観で正当化してきた自分が間違っている、本当は「個の最適化」が望みだったのだ、と知ってしまったら、頼りない自分のやせ細った足に向き合わなくてはいけないから、必死にそれを見ないために、真実に気づいた他人やきっかけをつかんだ他人を攻撃する。

そうやって、足の引っ張り合いをして、なんとかこの共同体を維持しなくてはならないという苦しみに対する怨嗟の声が「世間の声」だ。

 

では、私たちはどう生きるべきか?

そんなこと言ったって、国や家族や組織が崩壊すれば困るではないか。

結局、生きていけないではないか。

そう思うひともいるだろう。

 

それも確かに真実で、私たちは弱いからこそ共同体を創り、自然の脅威や命を狙う者たちから身を護ってきた。

社会の構成員としてのアイデンティティをなかったことにはできないし、一部保有していなくては、私たちが完全なる個として命を繋いでいくのは難しいかもしれない。

 

結局最も重要なのは、「あなたはどう生きたいか?」ということだ。

共依存しているのが居心地がいいし、子供が苦しもうがパートナーが苦しもうが、私はここから苦しい思いをしてまで動きたくない、というのであれば、それがあなたの生きたい姿のはずだ。

でも、本当にそうだろうか?

今まで本当に居心地がよかっただろうか?

毎日苦しかったのではないだろうか?

 

それを変えることは、自分にしかできない。

自分の感情や欲望は、自分しか知らないんだから。

あなたのことは、あなたしか知らない。

【恋物語】最終回の貝木さんマジカッコイイ

私にあなたの何がわかるのか?と問われれば、私はこの貝木泥舟の言葉を返したい。

色々調べた。だが、そうだ。何も知らない。

重要なことは、何も知らない。

お前のことは、お前しか知らないんだから。

だからお前のことは、お前しか大切にできないんだぜ。

そしてお前の夢も、お前にしか叶えられない。

 

組織としての最適化には、様々な理論がある。なぜならそれが「正論」だからだ。だからHowtoは世の中にいくらでも転がっている。

誰もが知っている。どうすればいいのか、何が正解なのか。それ自体は、実はとても簡単なことだ。

しかし、個としての最適化を求めることは、自分にしかできないし、答えは自分のなかにしかない。攻略方法もないし、王道もない。誰かに聞いても、その内容を自分の脳みそで考えなくては、答えには繋がらない。

 

どちらかだけの最適化だけを考えるのではなく、バランスなのだと思う。

組織に属していないと生きていけないなら、ある程度のラインを定めて従順な振りをしておいて、組織を利用するくらいの気持ちでいればいい。

相手は利用しようと思って私たちに関わっているのだから、逆に使って悪いことはない。

私は、優先すべきは、本来「個としての最適化」だと思う。

個人として人生の目的達成のために、ある程度社会を利用して、自己実現していく。

それこそが、イライラしたり誰かのせいにしたり言い訳したりしないで、堂々と人生を謳歌するための秘訣であるように思う。

【メンタル】映画『孤狼の血』に学ぶ、人生の生々しい輝きについて

 

私は元来、あんまりヤクザ映画が好きではない。

不良がなんかケンカするだけの映画も好きではない。

でも、この映画はとても好きだと思ってしまった。

その証拠に、2日で3回観た。Amazonプライムで。

 

 

物語の舞台は、昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島。所轄署に配属となった日岡秀一(松坂桃李)は、暴力団との癒着を噂される刑事・大上章吾(役所広司)とともに、金融会社社員失踪事件の捜査を担当する。常軌を逸した大上の捜査に戸惑う日岡。失踪事件を発端に、対立する暴力団組同士の抗争が激化し…

(C)2018「孤狼の血」製作委員会

監督:白石和彌

主演:役所広司松坂桃李真木よう子

出典:Amazon.jp『孤狼の血』より

 

 

「呉原というダーティな街に舞い降りた天使だと思って、私は演じました。」

と語るのは、主役の大上章吾を演じた役所広司である。

真ん中の滅茶苦茶厳ついおっさんが天使?と思うかもしれないが、見終わった後、なかなかどうして、天使に見えてしまうから不思議である。

 

この映画は、安いバイオレンスやアウトローへのナルシシズムに酔った作品とは違う。

冒頭からしっかりグロいので、近年の映画では類をみないそういった残虐で派手な描写に目が行きがちかもしれないが、そういった表現手法はあくまで脇役だと感じた。

本筋は、白石和彌監督が語った以下のコメントに凝縮されている。

(今は)生きづらい世の中になってきている。決して暴力がいいって言いたいわけじゃなくて、この頃の昭和の男たちの生き様は、自分の意志で動いて、必要なことは必要と言い、嫌なことははっきりNOと言う、私たちが忘れかけている人間の生き様そのものだ。

これから社会に出ていく若者たちは、誰の背中を見て働いていったらいいのだろう?ということをすごく感じる。社会全体のエネルギーがなくなっている一つの原因だと思う。

そういう意味で、大上の背中を、ちゃんと見届けてほしい。

 

自分の欲望に素直に生き、意志を持ち貫くことの人間臭い、生の輝き。

一生懸命人が生きる姿の、逞しさと力強さ。

大上の背中の大きさや厚みとは、そういうものでできている。

「じゃあ聞くがの、正義たぁ、なんじゃ?」

「落ちんようにするにゃあ、歩き続けるしかなぁ。のう、広大。わしゃもう綱の上に乗ってしもうとるんじゃ。ほんなら落ちんように、落ちて死なんように、前に進むしか、ないじゃなぁの。」 大上章吾

真に重要だと「自分が信じること」を実現するために、覚悟を決めること。

恐れるべき相手を正しく恐れ、自分の脳味噌で考え、汗だくで生きることそのものの、武骨な魅力を、大上の背中は教えてくれていると思う。

 

私たちは、自分の欲望を忘れて久しい。

社会も家庭も会社も、共依存的な関わりにあふれている。

誰もが役割を押し付けられて、その役割のステレオタイプを演じている。

「他人に馬鹿にされたくない」「認められなければならない」という不安や義務感で、自分の価値を高めることに毎日が消費されていく。みなマーケットで負けないように一生懸命だが、本当にやりたいことではない。

市場において「よい商品」であろうと努力し続けることが徒労に感じるのは、実はそれはあなたが本当に「やりたいこと」ではないからだ。

本当はやりたくないことで毎日がいっぱいになって、本当は何をしたかったのか、どう生きたかったのか、わからなくなっているのである。

欲望があるとも叫べず、叫ぼうにも何が願いなのかもわからず、私たちは途方に暮れている。

 

大上と出会ったばかりの日岡のように、ルールや規則を守ってさえれば絵に描いたようなわかりやすく薄っぺらな正義が守ってくれる、と信じたい。実現不可能な夢物語を信じていたい。

自分のなかに目指すべき何かがないとき、誰もがそうだ。

我々はそんな青く純粋で生真面目な日岡の目線で、大上の背中を追いかける。

物語が進むにつれて、今まで自分が信じたいと思い描いてきた善悪の構図に疑念を抱くようになる。

小綺麗な勧善懲悪など、実はこの世には存在しないのではないか。

血で血を洗うような生々しい魂のせめぎ合い。それが生きていくことの本質だとすれば、その泥沼のような血溜まりを、自分で航路を定めて漕ぎ進めてゆくほかない。

そんなグロテスクな現実を見ることは、誰もが怖い。足がすくむ。

組織という檻の中で犬として大人しく飼われていれば見なくて済むものが、この世にはたくさんある。

そして、それが良しとされてきた。賢いことだと言われてきた。だから疑いを持てない。

誰かに飼い殺しにされ、それにすら目を瞑って、うろんな生涯を過ごしていれば、無惨に死ぬことはないのかもしれない。

でも。…そうやって大事なことから、自分の本心から眼をそらすことに、みな実は嫌気がさしているのではないだろうか。

誰かのために生きることを躾けられて、飼い慣らされた犬のように、日々無様に鳴いている、いや嘆いているのだ。

 

だから皆、どことなくイライラしているのではないか。

 

メディアを見れば、他人の人生のしくじりを血眼になって探しては、叩き溜飲を下げようと必死なひとばかりだ。

何もかも、自分の人生の空虚さ、生きている実感のなさを、『怒り』という嗜癖で、目を背けたい、本心を見て見ない振りをしたいからなのではなかったろうか。

 

俺は強くなったはずだった

強くなろうと思って 懸命に砂をかけていたのか

罪を 弱さを 覆い隠す為に完全無欠の強さを求めたのか

俺はここから一歩も動いちゃいなかった

俺自身も覆い隠し 誰に何も与えもせず 孤独

出典:『バガボンド』第8巻 砂遊び より引用 宝蔵院胤舜のセリフ

 

強さという『結果』や『正しさ』を追い求め、宮本武蔵との命のやり取りを経て、やっと自分の過去の過ちと弱さに向き合うことができたときの、胤舜のセリフが蘇る。

必死で砂をかけてきたのは、私たちも同じではなかろうか。

逞しく「己の生涯」を往き切ることに死力を尽くさないで、私たちは何に力を尽くせるというのだろうか。

 

他の何したところで、退屈で不安で、どこか苛立つだけだったろう?

実は、それはもう、みんなすでにわかっていることだろう?

 

本来我々は狼であり、孤独であろうとも狼として生きることが最も人間性に溢れた生き方なのだ。

単純な白黒ではない、グレーで泥臭いこの世をいかに生きるべきか、否、どう生きたいか、だ。多くの人がずっと先延ばしにしてきたであろう、この力強い問いを、大上の背中は私たちに突きつける。

 

狼として生き切る勇気を持ちたいと思う。

大上の背中の魅力は、綱渡りでも前に進む勇気を携えた頼もしさだ。

私が、こうありたい、と願う姿を別の形で体現している。

自分を生きていくこと、人に愛情を持つことに、正直な生き様だ。

 

その背中をずっと追いかけてきた日岡がタバコに火をつけるラストシーンに、私は勇気をもらった。

大上のライターが、自分の人生を生きる、覚悟の火を灯す。

 

人間はなぁ、一回こっきりしか生きられんのよ?

【依存症】巧く生きるより、たいじなこと

蝉が鳴いている。頭の芯にじんわりと滲むような、力強い声で。

夏がきた。

 

「今ココを集中して生きる」

というのは、簡単なようでいて、実に難しい。

いつも混じりっ気なく今のど真ん中でいられることが理想だけど、考えている時点で既に感じたその瞬間からは遠ざかりはじめている。文字にしたときには、もうかなり遅れている。

シャボン玉の表面の模様が極彩色に輝いて常に一定ではないように、私たちの心理や在り方は一瞬たりとも同じではない。

「人としてどうあるか」ということの究明は、結果的には自分の内面との語り合いに帰ってくるのだが、外に対して意識が開かれていなければ、今ここ自体を感じきることができないから、帰ってくるためには、逆説的に外界に開かれた精神でもって世の中と境界線を持たなくてはならない。夏がきたのに冷房が効いた部屋で耳を塞いでいては、夏の暑さや蝉の命の力強さをちゃんと感じることはできないように。

 

私はほんとうに『巧く生きる』ということの不得手さに関しては一級品なんだよな、と自覚している。

今まではその不器用さを恥じてきた。

狡く巧く生きる人をたくさん見てきて「私はなぜあんな風にできないのだろう」と自分以外の誰かと私を比べては、妬ましく思ってきた。

しかし最近になって、「巧く生きる必要」があるのかといえば、そうではないと感じるようになった。

私が巧く生きることに嫉妬したのは、とにかく生きるのが苦しかったからだ。

こんなにしんどいことをもうこれ以上やりたくない。もしかしてみんなもっと楽をしているんじゃないか。ズルい。そう考えていた。

そうやっかんで眺める隣の芝生は、実に青々としていて、私はその思いからどうしても目を背けられず、捨てたくても捨てられないでいた。

しかし、必ずしも巧く生きていることは、本質的に良いわけでは無いのでないかしら、と考えるようになる。

私は間違っていると言われたとしても、自分で味わって飲み下す実感を得ないでは、何かを諦めることはできない。

それが大事であればあるほど、だ。

だから、巧く生きていけないということは、私が触れる存在に対して深い愛情を持っているという証明でもあるような気がする。

傷はたくさんできるだろう。

でも、実りある人生は、巧く行きた人生よりずっと魅力的じゃないだろうか。

巧くソツなく、私は酷暑の夏も涼しい顔をして生きていきたいのだと勘違いしていたけど、本当に生きたい人生はそうじゃないんじゃないだろうか。

そう気づかせてくれるのは、いつも『同じように、真剣に人生に向き合って生きている人』である。

誤魔化したり言い訳をしたり嘘をついたり、そんなことはいくらでもできるのに、それをしないで、見たくない現実に向き合い、傷を負う覚悟で前を見ることをやめない人を、私は美しいと思う。

 

誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていけば楽でしょう。しかしもし誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。闘うということはそういうことだ。

出所:『リーガル・ハイ2』古美門研介のセリフから引用

 

そういう尊敬すべき人に出会い、対話ができるからこそ、私は私自身を尊敬することができる。

独りではできなかったことだ。

「独りで生きているような気になって偉そうに」と言われてきた。

そういう類の発言に対して、常に反発してきた。

「何が仲間だ、どうせ裏切るくせに恩着せがましいんだよ。」

「何がみんなのおかげで生きている、だよ。歯が浮くようなきれいごと言いやがって。きっしょ。」

「お前に何がわかんだよ?同じような孤独のなかで生きてきたんか?奴隷のような人生を我慢して生きてきたことあんのか?お前は俺より苦労してんのか?そっちこそ、俺を分かった気になって偉そうなこと言ってじゃねーよ」

と返してきた。

今振り返ると、結局その指摘は、痛いところをついていたように思う。

私は独りで生きている気でいた。独りよがりだった。

それは、切り捨てられる痛みが怖くて、私はひとを心から遠ざけたから。

つまり、積極的に周囲の人々を遠ざけ孤独になろうとしたのは、私だった。

私が、孤独であろうと選択したから、私はあたりまえに独りになっていった。それなのに、「みんな俺を見捨ててひとりにするくせに…」と恨み言を言っていたように思う。

本当はさびしかった。分かり合えないことの痛みを恐れ、疲れ果てて、身を固くして怯えていたのだと思う。

 

変わるべきは、私のほうだった。

変えられるものは、私の行動だけだったのだから。

「私が変われば世界が変わる?んなわけねーだろ、ラリってんのか?」と思っていたけど(随分と不遜で恥ずかしい限りだが)、本当に私の行動を変える事だけが、私が知覚する世界の在り方を変える唯一の方法だったんだな、と思う。

 

世の中を、できるだけ感じるままに感じること。

それを自分の内的な世界観に限りなく忠実に反映しようと努力すること。

それが「誠実に世界と向き合う」ということの具体的な行動。

外界との境界線で生じる化学反応から、自分の境界線を知り、自分を形づくっている輪郭を感じる。

その試行錯誤の繰り返しによって、「私」が創りあげられているのだ。

だから、私は独りでは成り立たず、世界がそこにあり、尊敬すべき仲間と交流できるチャンスをもらっているから、「私が在ることができる」のだということだ。

私が在るために必要不可欠なものが、私には『変えられないもの』であるということは、恐怖だったし受け入れ難かった。生きていけないかもしれない、というリスクの大きさに足がすくむ思いだった。それは『変えられないもの』をコントロールしようとしているからだった。

「気に入られなければならない」

「尊敬されなければならない」

「恐れられなければならない」

「力を示さなければならない」

そういう「我執」を育ててきたのだ。

でも、そもそも。世界は私がいてもいなくてもそうで元々である。

私が否定しようと何しようと、厳然たる事実として、そういうふうに脈々と命を繋いて世界ができているのだから、もうどうしようもないことだ。「己を超えた大きな力」が、世界を動かしている。

それに、そのどうしようもない力のおかげで私は『変えられるもの』=「自分の行動」を変え続けることができるし、変えられるものを変えていく勇気を与えられている。

だから、委ねるべきをゆだねて、諦めずに前を向いて生きていくことができる。

 

今朝早く、犬の散歩をしていると、道端に一匹の蝉を見つけた。

道路のど真ん中で幼虫から成虫になろうと、ゆっくりと着実に羽を伸ばそうとしていた。

「何故よりにもよって道路で…」と一瞬憐れんで、「あ、これだ」と思って恥じた。

また分かったような気になっているなと思った。

この蝉は、私のようだと思った。

木で羽化すればよいものを、道路のど真ん中でやり始めてしまうし、効率よく羽化して優雅に飛び立つなんてできないで、地面で頑張っている姿は、不器用な私のようだと思う。

どんな未来が待っているかは、わからない。

私がこんなに巧く生きられないことが、他の不器用な仲間たちの力になる日が来れば、夢のようだな、と思う。

そういう嬉しい気持ちは、夏らしく爽やかで、とても好きだ。

【共依存】コントロールを手放せない私たち

最近困っていることがある。

会社や仕事に対して、違和感がぬぐえなくなってきた。

それが何なのか、書きながら考察してみたい。

 

コントロールが当たり前の資本主義経済社会の狂気

アサーティブコミュニケーションや12ステップ・プログラムを学んでいる。

これらの根幹は、自分と同じように相手を尊重するという考え方で構築されている。

相手をコントロールしようとせず、相手が自己決定した方向性や決断を尊重して委ねる。

私は最もこのような姿勢で他人から接してほしいし、私自身他人と接していきたいと思うようになった。

 

そしてそれは、今この資本主義社会で企業が展開するマーケティング戦略とは、ベクトルがまったく正反対のアプローチだ、ということに気づいてきた。

 

企業が経済的に成長するためには、マーケティング戦略は重要なファクターである。資本主義的な考え方としては文句なしの正義である。

「何を誰にどう売れば、最も多く売ることができるのか?」

これはとても重要な考え方で、私は今まで売上を最大化できるはずのこの法則を理解して自由自在に操れることが、この世界で絶対的に正しいことだと思ってきた。

しかし「お金を稼ぐ」という点において重要なことであるだけで、『生きる上で最も重要なこと』ではなかった、ということに気づいた。

そして、他人に介在する時点で、「変えられないもの」であり、コントロールが不可能なものをコントロールしようとする根本的に矛盾した考え方だということがわかってしまった。

 

本人の意思決定を不自然に捻じ曲げることを目的とした行動戦略、それがマーケティング戦略なのだ。つまりここからして、土台無理なことをしようとしているのである。

そもそも、相手の欲求を誘導してそこまで要らないものを買わせようとすることは、イネイブリングに他ならない。そして、顧客だけでなく社員をイネイブリングして、コントロールしようとするのが企業の鉄板だ。

例えば社員教育だ。与える情報を制限し、繰り返し特定のメッセージを刷り込んで洗脳し、会社にとって最も都合がいい動きをしてくれるようにコントロールしようとして行われるのが社員教育だ。

国が行う義務教育と全く同じ考え方である。何も考えず先生が言うことを聞く奴隷を量産するための教育。哀しいかな、それがこの日本で行われる教育のスタンダードになっている。教育者である私の父と母が、それはもう立派なイネイブラーだったことからも確定的に明らかである。(笑)

 

我々は、そういう「コントロール」を目的とした接し方に、幼少期からどっぷり漬かって生きている。もはや社会が人々をイネイブリングするうねりを創っている。

恐ろしいのは、多くの人がそのことに無自覚であるということだ。

自分ですべて選択したような気持ちで生きている。しかし、その実様々なものにコントロールされて、行動を捻じ曲げられて、考え方や思想すら、誰かに操作されている。

我々は見えないところからあらゆるひとにイネイブリングされコントロールされて育ってきた。だから自分も他人を「コントロールできる」と信じられる。信じてしまう。

だから「コントロールすること」に違和感を抱けないのだ。

みんな、こんな気持ちを抱えてはいないだろうか。

何となく満足できなかったり、自分でやったはずなのに、どこか喜びも悲しみも乏しくて、行動から確かな実感が何も得られない。

 

世の中は何となく不幸で、満たされない人であふれかえっている。それは、コントロールを手放せていないからだ。

自分の認知の歪みの根本に気づけないまま、見て見ぬふりをするために何か他のものや他の人に過干渉して、コントロールし返すことで留飲を下げようとしているのだ。

コントロールに対する認知の歪みの悪循環。

これこそが、この世界の「狂気」の正体である。

 

否認を認めてコントロールの連鎖から抜け出すこと

この狂気の連鎖から抜け出し、自分の人生を生きるためには、どうするべきなのだろうか。

それは、ひとつだけだ。

「コントロールを手放す」ことである。

 

・仕事で結果を出さなくてはいけない

・社会的に認められなくてはならない

・うまく部下をコントロールしなくてはならない

・子供を一人前に育てなくてはならない

・子供が一流の人間になれるように育てなければならない

 

これらの「~でなければならない」は、資本主義経済的には必要だと教えられ、実際にすこしは必要なのかもしれない。

しかし本当は、根本的には必要ない。実はこれらは『やらなくてもよいこと』に該当するのだ。

 

そんなわけないだろう?生きていかなくてはいけないし、お金を稼がなくては食べていけないんだから?!家族だって養わなくてはならないんだ!!だから私は我慢してがんばらなきゃいけないんだ!!

 

そういう声が聞こえてくるが、はたしてそれは本当にそうだろうか。

確かにこの資本主義経済社会では、社会生活を営むために貨幣が必要である。

特に、子どもを進学させたり食べさせたり、何より自分が食っていくためには、一定程度のお金が必要だ。

自分の限界以上にやりたくもない仕事に就いて働いて「我慢して頑張らなきゃいけない」なら、逆に考えてみるとしよう。

 

それらは、そもそも『やりたくなかったこと』ではないのか?

 

「いや、そうではない。」と答えるだろう。

それはそうだ。配偶者とは家族になりたくてなったし、子供と暮らしたくて生むことを決めたのではなかったか。そうして、「やりたいと思って自分で決めたこと」をやっているはずだ。

 

それが「我慢してがんばらなきゃいけない」ものになったのはなぜだろう?

やりたいことでないならば、遅くはない。やめてしまってもいい。

自分で決めたことが間違っていた、本当はやりたいことではなかった、と認めてもいい。

だってそうなんだから。

倫理的に許されない?許されなくても、現にそう思っているから、「我慢してがんばらなきゃいけない」と思っているのは、あきらかだ。

世間的に許されない?世間に許されなければ、人は生きていてはいけないのだろうか?そんなことはない。世間は別に命の補償をしてくれるわけではない。脅威ではあるが、許しを請う相手ではない。

 

実は、結婚や子育てすら、『本当は私はしたくて始めたわけではなかったのかもしれない』という本音を見るのが怖いのではないかしら。

「世間体を気にしているから」

「親が結婚しろと言ってうるさいから」

「子供ができてしまったから」

そういうもっともらしい建前で、「本当は私は○○したくなかった」という本音を覆い隠して、楽な方向に逃げてきたのではないかしら。

自分の本音を見ないで済む、深い傷を負う覚悟が必要ない方向に、逃げてきたのではなかったろうか。

 

そんな卑怯で臆病な自分の本当の姿を見るのは、誰でも怖い。

当たり前のことだ。

 

 

まとめ:すなおに生きること

生きていたい。そして願わくば幸せになりたい。

 

ただそれだけだったはずだ。

本当は、それだけだったはず。

それをいろいろな「最もらしい理由」の鎧を身にまとって自分の傷つきやすい心を守ろうとするうちに、重ね過ぎた鎧の重量でもう歩けなくなったのだ。

 

別に今ある全てを偽りだから投げ出してしまえ、と言っているわけではない。

・自分を犠牲にしてまで誰かのために何かをしなくてもいい

・自分のことをもっと大事にしてもいい

・誰に対してであっても、嫌なことは嫌だと言ってもいい

・つらくてどうしようもないときはやめてしまってもいい

・お金が思うように稼げなくてもいい

・子供や配偶者の人生の責任を、他人の私が背負わなくてもいい

こういう「~でもいい」を増やすだけでいい。

「~でなければならない」の鎧をひとつひとつ外して手放せばいい。

 

そして鎧の重さに苦しんでいる人が八つ当たりしてきたときには、それはその人の課題だから、あなたが一緒になって苦しまなくてもいい。

その課題は、その人が解決するものだ。一緒に背負わなくてもいい。

子どもの将来も、配偶者の問題も、本人がきちんと解決する力をもともと持っている。それをわざわざみくびってまで、手出ししなくてもいい。

 

そうしてすっかり素直になった気持ちで、自分の心だけを見つめてみよう。

実は、あなたがやらなければならないことは、実はたったひとつなのだということが、あなたにもわかるはず。

『あなたが心からやりたいと思うこと』。

本当にこれだけなのだということに気づくはず。

 

私が仕事に対してぬぐえない違和感の正体はそれだった。

みんな、素直に話をしていない。素直に話ができない。

誰かが、誰かをコントロールしなければとあくせくして、他人のほうばかりを見ている。

誰も自分自身をちゃんと見ていない。

世の中の多くの人は、そんな状態だ。ことに「仕事」という枠組みで視野が固定されているひとは。他ならぬ私が、いつも今までそうだったように。

会話がすれ違い、議論が常にかみ合わないのは、彼らが「コントロールすること」「~でなければならない」にとらわれて自分のなかの事実に到達できていないので、彼ら自身ですら本心でどう思っているか、わからないからだ。

本人がわからないのに私がわかるはずもないし、本人が見つめ直さない限り、永久に満たされるはずもない。

私は自分が信じたように仕事をして、その結果を受け止めて、生きていくためにお金を一定程度稼ぐことと、人生を誠実に正直に生きることとを、区別して日々を過ごしていきたい。

【依存症】なぜ現代人は同僚にイネイブリングしがちなのか?

ある依存症者に、親切で気前がいい友人がいるとします。

 

飲み代が足りなければ貸してあげたり、一緒に飲んでおごってあげます。

酔いつぶれると介抱したり、タクシーで家まで送ってあげます。

「どうしてそんなに飲むんだ」と心配し、酒の席で悩みを聞いてあげます。

 

この友人は、イネイブラーです。

お金を与え、一緒に飲み、飲む理由に理解を示し、面倒を見てあげることで、依存症者が飲むことを可能にしているのです。

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P1より引用

 

私は、この光景に見覚えがある。

というか、社会に出てからというもの、この光景にしか遭遇したことがないほどだ。

酒癖の悪い同僚、ついつい飲み過ぎてしまうダメな後輩。

よく観察していると、そんな人に群がっている上記の引用のような「イネイブラー」を簡単に見つけることができるだろう。

彼らは、最初に親切で気前のいい友人のように近づいておきながら、問題が手に負えないことが明るみになると、途端に手のひらを返したように冷たくなる。

「せっかく俺が目をかけてやったのに」とか「甘やかしてたらつけあがりやがって」などと体のいい口上を並べながら、自分はいかにも被害者だと言わんばかりに周囲にアピールする。

私は数えきれないほど、こういう目に遭ってきた。

この日本社会は、そういう事例で満ち満ちている。

 

私の周りのイネイブラー

会社に勤めているあなたの周りでも起こっているのではないだろうか。

私の経験から共通しているのは、どれだけ優しく聞こえる言葉をかけてくれていたとしても、私が酒を飲む限り、最終的にはみんな離れたがり敵になる、ということだ。

どれだけ当時の私にとって耳障りのいい言葉をかけていて、理解しているふうだったとしても、それは今振り返れば優しさではなかった。

彼らの本心を代弁するならば「私が飲んでバカをやっている姿を酒の肴に楽しみたいから」一緒にいるのだった。

まるでピエロだ。

飲み屋で悩みを聞いてくれる先輩や同僚。

「この人たちならわかってくれる」と飲み方も距離感も勘違いした私。

「もう酒はこりごりだから飲まないようにしようと思う」と話すと、「ちょっとくらいなら飲み過ぎることもあるよ」「俺も若い頃はいろいろ失敗したもんだ」などと引き留めてくれる。実に心優しい仲間たちに思えた。

そんな彼らと何度も酒を飲んでは、ひどい失敗を繰り返した。

彼らは、酒を飲んで狂っている私の姿を「おもしろい」と見続ける観客ではあり続けたいものの、当事者として面倒ごとに巻き込まれたいわけではない。

だから、私がなにかマズいことをしでかして、面倒ごとが巻き込まれそうになると途端に『突き放す』。「私は関係ない、お前が勝手に飲んだんだ、飲むなとあれほど言ったのに」とさも自分は止めたというふうなことを言って、白い目で私を見る。会社の組織内では厳罰を食らわせて、「何度注意してもダメなあいつに、俺が一発凹ませてやった」などと周りに吹聴して誤魔化す。

それが、いつものパターン。

これらの出来事のどこに優しいと感じられるポイントがあったのか、今振り返ると全くわからない。

ただただ、私はとにかく、当時さびしかった。生きることがとてもつらかった。生きることをつらくなくしてくれる酒がなくては、とても働けなかった。とても、生きてはいられなかった。

酒を飲むことを肯定してほしかった。私には必要不可欠なものだと思っていたから。だから、都合よく、私はそれらを口先でも肯定してくれる人たちを「いいひとたち」だと思ったのだろう。

 

もちろん、酒を飲んだのは、私だ。

私は、私の行動に責任がある。

これは明白だ。

そして、それを誤魔化す気もない。

私は、彼らの言葉に寄りかかり、言い訳にして飲んだだけだ。

本当は彼らと心を通わせかったわけではなかった。エチルアルコールが飲めれば何でもよかった。どんなことも理由にして飲んだ。そういう病気だ。

しかし、酒をやめたいという言葉をもらした私に「イネイブリング」をするということもまた、知らなかったでは済まされない、重大な責任があることも確かだ。

 

最も重要なことは、イネイブラーである人は、間違っている人・性格が悪い人、というわけでは決してない、ということだ。

私は、彼らの人格を否定するようなことは全くしたくないし、するつもりもない。

私も彼らも、当時はそれぞれに一生懸命に考え、互いに生を遂行していただけだ。

その実、誰にも罪など無い。飲んでしまった人も、飲むことを可能にしてしまった人も。

おそらく出発点は誰もが、愛情や抱えている寂しさなのだ。

全ては、「依存症」という私の、そして彼らの病気の症状でしかなく、「依存症という病気に対してどう対応していくか」ということについて学ばなくてはならない。それが、本当に相手を愛するということに繋がる。

 

「イネイブリング」とは?

中学英語で「be able to」で「~できる」と習ったのが、実に懐かしい。

 

enableとは、<誰か>が<何か>するのを可能に(able)する、という言葉だ。

つまり「イネイブリング」とは、誰かに何かを可能にすること、ということになる。

アルコール依存症においては、以下のように定義されている。

○イネイブリング(enabling)

=「アルコール依存症者が飲み続けるのを可能にする(周囲の人の)行為」

○イネイブラー(enabler)

=「アルコール依存症者が飲み続けるのを可能にする(周囲の)人」

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P1より引用

 

おそらく、本心では、こんなことだれもしたくない。

飲み続けることを可能にしようなんて思っていない。

『だらしない夫じゃなくて依存症でした』(著者: 三森みさの第6話を読むと、よくわかる。

以下、数コマを抜粋して紹介したい。

 

イネイブリングしている本人も苦しい。

こんなことするつもりじゃない、という気持ちに何度もなる。

でもやめられない。

これは、「共依存」という状態だ。

アルコール依存症と付き合うなかで、別の依存状態に陥ってしまっている。

『相手をコントロールする』ことに目を奪われて、自分の人生を生きることができなくなる。そういう病的な状態である。

 

○イネイブラーにならないためには

◎自分が楽になる方法を考えよう

◎相手の責任まで背負い込むことはない。

◎いやいや酒を与えるのはやめよう。

◎自分の気持ちをすなおに表現しよう。

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P9より引用

 

「相手のためだから」という隠れ蓑を脱ぎ捨てて、自分の人生を第一に考えよう。

周りの人がイネイブリングをやめる目的は2つで、「疲れ切った貴方が楽になるため」であり、その次にくるのが「依存症者が回復するチャンスをつくるため」だ。

 

「失敗できない」競争社会の生きづらさ

なぜ、会社の同僚の酒の問題について「世話焼き」をしたり、「コントロール」しようとしたりしてしまうのだろうか。

私はここに、日本における競争社会で「負けられない」「失敗できない」というプレッシャーに押しつぶされそうな、かつての私を見る。

私のように、自分の人生に向き合うことを恐れ、人は他人の人生に逃避する。

 

ボクシング漫画の名作『はじめの一歩』の44巻に登場するヒールである、ブライアン・ホーク。

即、命のやり取りになるニューヨークのスラム街でストリートファイトに明け暮れ、その類い稀な才能だけで、WBC世界J・ミドル級チャンピオンになった男。

その来歴のとおり「負けられない」世界のおきてで生きてきた彼の言葉は、日本で働くあらゆるひとに染み込んでいる、ある事実を示している。

 

何があろうと どんな手使おうと 最後の最後立ってるヤツがーーーー

強えんだよっ!!

 

いいよ やらなきゃいけないコトはわかってるよ

オレが今まで何をしても何を言っても それが通った 誰もが黙った

何故だ!? 負けたコトがないからさ! チャンピオンだからさ!!

負ければオレの言うコトなんざ 誰一人 耳を傾けやしねぇ

みんながソッポ向いちまう

嫌だ・・・・嫌だ 嫌だ 嫌だ!!

出典:『はじめの一歩』(44巻) (講談社コミックス)より引用 

 

この日本社会は、失敗することに対して不寛容である。

他人に負け競争から脱落することは、死を意味するとみんなが『思い込み』、上記のブライアン・ホークのように内心恐怖におびえながら暮らしている。

だから、失敗した人をみると、舌なめずりをする。

「こいつは自分より下だ」と思える人物の登場は、相対的に自分の評価を上げることができる格好の材料だ。『美味しい相手』だ。

アルコールで失敗するような「負け犬」は、上手におだてて飲ませておいて、その人のぐちゃぐちゃになっていく人生を見ている間だけは「オレはこいつよりはマシだ」とホッとすることができる。パワーゲームの勝者の立ち位置でいられる。そうでなくては安心できないから、イネイブリングして飲むことを可能にする必要がある。だってその人が立ち直ってしまったら、下にみる人がいなくなってしまうから。

ダメな他人の人生にあれこれ口出ししている限りにおいては、自分が勝ち負けで比較される人生の苦しさを少しだけ忘れることができる。そう錯覚している。

あるいは、ダメなひとを形上は『救う』役割を買って出ている。なぜかといえば、そうすれば自分のダメな部分が許される気がするから。自分の至らなさ・失敗・敗北感。似たものをもつもっとダメなやつを見つけてきて、そいつを許してやれば、自分の醜さもなかったことにすることができる。そんなような気になっているのではないか。そういう偽りの安らぎを得るために、他人の問題を『なかったことにする』ことに一生懸命になっている。

 

そうやって目を逸らし続けているのだ。

誰もかれもが、そうやって自分にみて見ぬふりをして生きている。

だからいつまでもイネイブリングをやめられない。

苦しみはいつまでも根本的に解決されずにとどまり続ける。

 

まとめ:イネイブリングしても、恐れを「なかったこと」にはできない

我々が、共通してなかったことにしたいのは、「恐れ」である。

失敗できない恐れ。

負けられない恐れ。

ダメだと思われたくない。

死にたくない。

そういう「恐れ」は、目を背ければ背けるほど、背後で大きく肥大していく。

黒く重くのしかかるそれは、見ない振りができないほど肥大化して、いずれ自分に返ってくる。

他人をだしにつかって誤魔化している場合ではない。私たちは、向き合わなくてはならない。自分の人生に、自分の真の課題に。

それが大事なことだ。

気づいた今、我々がやるべきは、他人の人生にちょっかいを出すのをやめ、「突き放す」のではなく「手放す」ことに努めることだ、と思う。

 

 

 

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」②妻

私は、妻と出会って付き合おうと考えた当時、共依存的な関わり方をしていたと思う。

 

救えるという思い上がり

妻は、私と出会ったとき、アルバイトをして実家で暮らしていた。

家は全体的に裕福とは言えず、仕事も昼間から日付が変わるまで立ち仕事で、かなり厳しい労働環境だった。

元カレと一緒に九州まで行ったが、モラハラに耐えかねて別れて帰ってきたばかりだった。

 

私は、出会ったとき、妻の率直で屈託のないところに惹かれた。直感的に「この人は嘘をつかない」と思った。「この人ならちゃんと話を聞いてちゃんと返してくれる」と期待した。長い付き合いのなかでそれは紛れもない事実だったと判明したし、今も変わらない。

 

しかし、それだけでなく、私は卑しくも、この人なら『救える』のではないか、と内心舌なめずりをしていた。

一緒にいることで金銭的なメリットが提供できるから、『好きでいてもらえる』と思った。

金銭的に私のほうが稼いでいたから、よりよい生活をさせてあげることができると思った。

仕事をしなくても生活できる環境を与えられれば『感謝してもらえる』と思った。

何かを差し出せるから、交換条件として好いてもらえる、という打算を働かせていた。

 

つまり、好条件だと思った。

私なんかでも、わたしみたいな欠陥品でも、必要としてくれる人だと思った。

 

それはとても失礼な考え方だったと思う。

 

相手をリスペクトして好意を寄せるのではなく、コントロールできそうだからという条件を好きになるというのは、相手からしたら「ふざけんなよ」と憤って当たり前だと思う。

かわいそうだから助けてあげよう?

お互い喜ぶじゃないか、これは良いことだろう?

「おいお前、嘘をつくなよ」と自分の胸ぐらを掴んで吊り上げたい。

「承認を求めようとすること」「見捨てられ不安」由来の満たされなさ。

その満たされなさから「世話焼き」をして自分の問題から目を背けただけだ。

その人そのものの生きる力や人間性を本当の意味で尊重していない、下にみている。

そんな卑しい自分の姿を発見した気がする。

 

 

一緒に暮らすにつれて、自分の未熟さや至らなさのほうが浮き彫りになっていった。

救うはずが、その実救われてばかりだった。

妻は自立した、はるかに自分よりも立派な「大人」だった。

私のほうだったと気づいた。救われたかったのは私のほうだった。

妻はACではないので、自分の価値観を持っていた。そして自分を自分で褒める技術を持っていた。人と比べなくても自分を楽しむスキルがあった。それは私にはないものだった。

私が持っていないものを持っているから、私はこの人に惹かれたんだな、という本心にも気づけた。

同じであるからこそシンパシーを感じて行為を抱くことがあるように、異質であるからこそ尊敬して、眩しく感じることもある。

妻に対して私が感じた感覚はまさしく後者であり、共依存的な思考で近づいたことは否めないが、とても魅力的に感じた理由はそれだけではないということもわかった。

 

私が共依存的に関わったが、共依存ではなかった妻は取り合わなかった。

私の歪んだ関わり方を、妻はしっかり拒否したし、それによって見限ることもしなかった。

だから今、お互いにアサーティブに話そうとしたり、謝罪をしあったりすることができる。

私の歪んだ感じ方や関わり方について正直に話して、それを相手の受け取り方に委ねることができる。

 

相手のニーズを先回りしてコントロールしようとすること

私は、相手の望んでいること、ことに負の感情の揺れ動きに敏感である。

それは、母親がヒステリックで常にご機嫌をうかがって生活していた経験が大いに関係していると思う。

今何で不機嫌になっているのか、何に対して不満を持っているのか、という情報から、自分がどう振舞えば相手が笑顔になるのかを考えて幼少期を過ごしてきた。

私は、そういう幼少期の生きるすべを大人になった今でも適用して、相手のニーズを先読みし『コントロール』しようとしていたのだ。

それがとてもつらい。

なぜかといえば、それは母が用いた手法で、私が最も忌避するものだからだ。

『コントロール』されたほうは、生ける屍に成り下がる。私はそうだった。

失敗しないように、損をしないように、周りとズレないように。

そういう「母親の望む未来」にたどり着けるように、母親は私をコントロールしようとしてきた。

何とも言えない、充実感の無さ。

自分で生きていないからだ。自分を生きていないからだ。

そういう活力を、最も重要な喜びを、己の欲で他人から取り上げるというのは、最も卑劣なことだと思う。

その卑劣な行いを、自分自身がやっていた? にわかには信じがたく、信じたくなく、目を背けたい事実がそこにあった。

 

幼少期に鍛錬してきたからこそ、その妄想にも似た予測は、現実によく当たってしまう。

自分のことより、他人の心の動きばかり追ってきたから、その観察眼には磨きがかかっているように思う。

これは悪いばかりではなく、良い作用もある。

相手のニーズを推し量れて、今の心の動きをつぶさに観察できるという能力が磨かれた結果、営業として今飯を食えているわけで、他人が望んでいることを理解し共感すること自体に罪はない。

罪は、コントロールしようとすること。

コントロールすることにばかり熱中して、自分の心の声を聞かなかった振りをすることだ。インナーチャイルドが声を枯らして叫んでいるのに、知らない振りをすることだ。

 

自分の本当の声に、耳を傾ける

共依存的な関わりをしていると自覚できるようになってきた今、私は、私が「正しい」と思って関わってきた関係を冷静に見直す時期に来ている。

その試みは、正直、私にとって世界の底が抜けるようなインパクトがある。

とても怖い。

しかし、やはり見直さなくてはならない。

気づいてしまったら、徹底的にしなければ。そうしなければ気が済まない。私はそういう風にできている。

苦しみぬくとしても、己のなかの本物と対峙して出した答えでなければ、私自身が納得できない。

少しずつ、ゆっくりでも、確実にやっていこう。無力を受け容れている限り、私にはそれができるはずだ。

【依存症】アフターコロナの世界、自助グループの新しい在り方とは?(リアル自助vsオンライン自助)

新型コロナウイルスにより一変した私たちの日常。厚労省から発出された「新しい生活様式」の実践例が『新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言(5/4 厚生労働省HP)』に記載され、各業界が試行錯誤しながら新しい在り方を実現しようと四苦八苦している。

感染防止の3つの基本として掲げられているのが、①身体的距離の確保、②マスクの着用、③手洗いである。

これからは常に直接的な接触を避けて生活することが求められる。

人と人との繋がりの在り方は少しずつ変わっていくのだろう。

依存症者の回復プログラムとして欠かせない「自助グループ」の在り方も、この社会情勢に対応するべく変化しつつある。

 

「自助グループ」とは?

自助グループとは、同じ問題を抱える人やその人を大切に思う家族らが自主的に集まり、似たような立場や経験を持つの多くの仲間と出会い、交流しつつ、助け合える場所です。グループメンバーと体験談、想い、情報、知識などをわかちあうことで、気づき、癒し、希望や問題解決へのヒントなどを得る人が多くいます。

自助グループの始まりは、1935年の米国でアルコール依存症に悩む人々自らが結成したアルコホーリックス・アノニマス(AA)です。原則的に当事者以外の専門家らの手に運営を委ねない独立したグループであることが特徴です。依存症からの回復を目指す過程で、ありのままの自分が受け入れられる居場所を見つけたい方、回復の道のりで迷ったり、疲れ果てた方、アルコール・薬物・ギャンブルなどを必要としない新しい生き方を、似た境遇の仲間と助け合いながら創り出していきたい方、など多くの方が活用しています。自助グループへの参加は、医療機関での治療と並行して行うことも可能です。

出所:依存症対策全国センターHP「自助グループとは」より引用

 

同じ悩みを持つ人々が主体的に集まり、お互いの経験を共有しあうことで、助け合い回復を目指している。

心の安全が守られる場所として、依存症からの回復のよりどころとなっていて、無くてはならない社会資源である。

私自身、断酒会を経て現在はAA(アルコホーリク・アノニマス)に所属していて、アルコール依存症当事者として自助グループにお世話になっている。

同時にAC(アダルトチルドレン )でもあり、ACA愛媛グループの管理者を担っている。

参加者側・運営側の両側面で自助グループに関わるチャンスをいただいていて、ありがたいことである。

2020年3月にコクラン共同計画により発表された約1万人・35件の研究をメタ解析したデータによれば、AA(アルコホーリクス・アノニマス)は認知行動療法や動機付け強化療法よりも効果があると結論付けられており、その効果は、心理療法を含む他の治療よりも、最大で60%程度効果が高い可能性があるとされている。※1

 

現在、さまざまな悩みに対応した自助グループがある。

アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、買い物・浪費・借金依存、性依存、恋愛依存、感情・情緒の問題、共依存、AC、ゲーム依存、ひきこもり、トラウマ、対人恐怖など、医学的に依存症という疾患として扱われている問題に加えて、様々な生きづらさに対応している。

 

★参考文献

1、『Alcoholics Anonymous and other 12‐step programs for alcohol use disorder(Cochrane Systematic Review – Intervention Version published: 11 March 2020)John F Kelly,Keith Humphreys,Marica Ferri』

2、特定非営利活動法人アスク「自助グループ_一覧」

 

コロナ禍で生まれた「オンライン自助」という新しい在り方

そんな社会的にも医学的にも重要な自助グループだが、コロナ真っ只中では、3密になることから全国で開催が中止されてしまった。

回復のための重要な、自助グループというかけがえのない居場所を奪われた当事者たちは、当時本当に苦しんだ。

未知の脅威にさらされてストレスがかかる当時だったからこそ必要である自助グループを機能させようと生み出されたのが、「オンライン自助グループ」である。

たとえば、コロナになる前から機能していたオンライン自助グループとしては、『三森自助グループの森』がある。※4

コミュニケーションアプリ『LINE』を用いていて、主宰の三森みさ氏(@mimorimisa)を中心として実際の自助グループを経験したことのあるメンバーを監修に招き独自のシステムを構築している。

私自身もリアル自助グループ経験者であることを買われて創設メンバーとして呼んでいただき、発足当初より運営に携わっている。

 

その他のオンライン自助グループについては『とどけるプロジェクト』の一環として、アドボケーターでジャーナリストのKarma氏(@k6rm6_2)がまとめてくれている。

非営利活動法人アスクの「ASK依存症予防教育アドバイザー」による自主活動『依存症チャットルームA.D.N.G.』などが代表的である。すでにわかりやすくまとめてWEB上で発信されているので、以下の参照リンクをご覧いただきたい。※1,2,3

 

★関連・参考リンク

1、とどけるプロジェクト「依存症等の当事者または家族向け、オンライン自助グループの開催情報」監修:松本俊彦(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所、国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター病院 精神科)、ライター:karma、編集:向井愛

2、とどけるプロジェクト「依存症等の当事者によるオンライン自助グループ運営ガイド」監修:三森みさ(依存症予防教育アドバイザー、三森自助グループの森 主宰)、松本俊彦(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所、国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター病院 精神科)、ライター:karma、編集:向井愛

3、特定非営利活動法人アスク「コロナに負けない!オンラインで自助グループにつなぐ、依存症チャットルームA.D.N.G.開始【ASK依存症予防教育アドバイザーによる自主活動】」

4、MimoriMisa ART Graphics「三森自助グループの森について」三森みさ(依存症予防教育アドバイザー、三森自助グループの森 主宰)

 

リアル自助とオンライン自助のメリット・デメリット

私は両方のタイプの自助グループに携わってみて、それぞれによさがあると感じている。

 

 

一覧にまとめると、上記の図のようになる。文章でまとめると、以下のとおりである。

 

□リアル自助のメリット

・五感を使って分かち合いができる。

・時間と空間を共有することで、集中して分かち合いができる。

・分かち合いのスピードがオンライン自助よりも早い傾向がある。

・運営側の負担が少ない。(体系化され、年功序列など集団心理が働くため収拾がつきやすい)

・ネットの知識がなくても足を運べばだれでも参加できる。

・依存症や抱えている問題についてカテゴリがはっきりしている。

 

■リアル自助のデメリット

・地域・時間が限定されるため、予定が合わないと参加できない。

・移動手段がないメンバーの交通手配が必要。

・会場に行くことへの抵抗感からネットに比べて参加しづらい。

・気楽に転籍・脱退ができない。(よいことでもあるが)

・簡単には、時間や場所を変更できない。

・クロスアディクトの場合、それぞれの自助に行く必要がある。(時間的・空間的制約が増す)

 

◇オンライン自助のメリット

・エリアを限定せず、様々な地域の人と分かち合いができる。

・時間的・地理的に足を運ぶことができない当事者や、子育てなど家庭の事情で参加が難しい当事者が、早期に自助に繋がることができる。

・ネット環境があればだれでも気軽に参加できる。(参加に対する抵抗が少ない。)

・匿名性が高く、人目を気にせず分かち合いができる。(カメラをオフにできる、文字だけで顔が見えないメリット)

・若い世代にアウトリーチすることができる。

・開催時間をフレキシブルに変えられるので、様々な層の人に参加してもらえるように調整できる。

・自助によっては広く問題を取り扱うため、1つのグループに所属していれば様々な悩みを分かち合うことができる。

 

◆オンライン自助のデメリット

・LINEの場合、文字だけだと誤解が生まれやすい。

・LINEの場合、ある程度の文章力が必要。

・顔が見えないため微細な感情が伝わりにくい。

・制約がなく繋がりやすいからこそ時間にルーズになりがち。

・運営側の負担が大きくマンパワーが必要になる。

・運営に際してルール化が必要になる。

・年配の方やネットに詳しくないメンバーが技術的な問題で参加しにくい。

 

 

リアル自助は「参加者の充実感・組織としての安定性」という良さが浮き彫りになった。

オンライン自助は「参加しやすい手軽さ・企画の多様性」が特徴になるだろう。

どちらにも替えられない良さがあり、今後はこの2つをハイブリッド型で活かしていくことが理想的だと思う。どちらが優れているとか、劣っているとか、そういう比較に終始するのは実にもったいない。

せっかく生まれた新しい在り方にダイバーシティ&インクルージョンの精神で親和的に接していく度量の大きさが、特に支援する側には必要ではないかと感じている。

 

まとめ:恐れず、時代に合わせた在り方を歓迎しよう

テレビ業界や紙媒体でのメディアは、日本においては能や歌舞伎と同様に、伝統芸能の領域にシフトしつつあると感じている。

テレビや本に対して「古い」という意味で忌避しているわけでは決してなく、伝統芸能にはそれらしい良さと在り方があるように思う。

今の若い世代は、オンラインで友達とやり取りし、コンテンツをYoutubeで摂取して、異なった価値観をもって大きくなってくる。

今までのように講演会を開いて聴講しに来てもらうより、スマホでオンライン配信している講演のほうが彼らの目に触れやすく、受け容れられやすい時代が、もうすでに来ている。

そうした時代に、依存症について情報発信したり、社会資源としての自助グループによりアクセスしやすい状態を実現したりするためには、やはり「オンライン自助」という在り方を今もこれからもどんどん進化させていくことが重要だと思う。

どちらかである必要はない。私たちアディクトの在り方がそれぞれの「ありのまま」でいいように、自助グループの在り方も「こうあるべき」に縛られて衰退することがないように、支援していきたいと思う。

【依存症】神を信じない人のための「ハイヤー・パワー」

私は神様は信じていない。

無神論者である。

神様がいるなら、もっと世の中は幸せに満ちているだろうと思う。「むかし祈ったって助けてくれなかったじゃんサボんな」というのが本音だ。

しかし、私は12ステッププログラムを進めていくうえでどうしても「神」について考えなくてはならなくなり、ことに「ハイヤー・パワー」については、「はあ??んなもんあるわけねぇだろーが。」という気持ちをどうしても抑えられずにいた。

神がいるとしてこの世を創ったとしたら仕事が甘すぎる。もう少しマシなものにできただろと思う。それはいまでも結構変わらない。

しかし、昨日受けた講義で、ハイヤー・パワーというものの正体に少し近づけた気がする。

本当にこの『プログラム・フォー・ユー勉強会』はわかりやすくて丁寧で、12ステップ・プログラムに取り組んでいるひとにとってとても有意義な講義だ。時間が許すならぜひ参加してみてほしい。

 

回復のベクトルと中心にあるもの

人生はどのようにして構成されているか。

人の構成物質は「酸素65%、炭素18%、水素10%、窒素3%、カルシウム1.5%、リン1%、その他1.5%」だが、それに加えて魂があると考えるのが、霊的な考え方である。

そして、人というものの在り方は、『独りでは生きていけない』という特性がある。

私は長い間独りで生きていると思っていたが、それは大きな勘違いで、社会的な生物である人間はそれぞれ役割分担をして、完璧でないお互いを補いながら、生活を続けることができている。

つまり、『お互い助け合う』ということなくして生きてはいけないので、欲とは別に、人間は『善行を積む』という一定の方向性、つまり『良心』が魂にプログラミングされているのではないか、と考えることができる。

人は、基本的に何かいいことをしよう、という風にできている。性善説である。

魂は、そういう意味では内的資源で、人である限り誰もが持っていると言える。

魂を、アメリカの人々は『創造主である神が与えたのではないか』と考えたのだろう。

そうすると、「内なる神」=「魂」なので、自分を超えた大きな力でありながら、自分のなかにすでにあるものであり、それは自分の力ではなくて、外部から与えられた『変えられないもの』として位置づけることができる。

私は神は信じないけれども、魂はあると信じることができる。

私が確かにこの身体を介して世界と接している本体。それは魂であり、私が好きな唯識思想でも人は意識で世界を創り出しているとしている。

「知覚すること」が、世界を「認識」させる。つまり、魂が世界との境界線を私に見せてくれていて、この目に映っている世界が構成されている。

思想が違えど、このなかにある魂について、ある一定のベクトルで己を導くプログラムが、人生のOS(オペレーティングシステム=システムを動作させるための基盤となるプログラムの総称)に組み込まれているととらえている。異なった宗教でもそのようにとらえるということは、生物的な在り方としてそれが妥当であり確からしいと考えられる。

だから、魂は全ての人の中心に在り、それこそが「回復の力」になるんだと思う。

だから、回復の力という原石は誰にでも確かに内に秘めているはずで、誰にでも回復できる可能性があるという希望でもある。

 

そのままの魂を隠すもの

しかし、厄介なことに、この魂を覆い隠すものがいる。

それが、欲や感情だ。

不安・恐れ・恨み・憎しみ・悲しみ・喜び・驕り。

相手よりうまくやってやろう。出し抜いてやろう。

人より得をしたい。みんなよりも優れていたい。

つまり、他人と比較すること。他人の反応に左右されること。

それに目を奪われだすと、魂の周りに重たくて剥がれにくいものがワサワサと纏わりついてくる。

本来純粋に感じていた、「ああしてみよう」「こうしてみよう」「こうしたらどうなるんだろう」というワクワクや好奇心を殺してしまう。

どんどん本来の感情が見えなくなり、正しさや勝ち負けに覆い隠されて行って、自分が何をしたかったのか、見えなくなる。

そう、魂が、見えなくなるのだ。

だから何をしても「なんか違うような…」という得体のしれないイライラと焦燥感に襲われる。与えられたものにも満足できなくなる。どんどん嫌いな自分になっていく。

 

最後の一節である。

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。

「内なる神」を、「あなたにもともと与えられた魂」と置き換えると、しっくりくるのではないだろうか。

私たちは導かれるように、魂が目指す方向に向かって進んでいる。

その過程で、出来事に意味を持たせるのは私たち自身である。

「気持ちの問題」という言葉があまり好きではないが、これはある種真実で、どうとらえるか、どう受け取るかは、私たちは選択することができる、ということだ。

今ある状況を、あなたはどう感じるだろうか。

哀しいだろうか、うれしいだろうか。

こんなはずじゃなかったと嘆くだろうか。

予定通りだ、俺の実力だ、誰のおかげでもないと吠えるだろうか。

それらは、あなたが真心から感じている限り、魂で感じている限り、すべて正しい。

誰がなんと批判してこようと、正しい。

あなたの世界の感じ方は、あなただけが決めることができるからだ。誰にも否定できない。

感じ方は、自由でいい。そう思えば、自分の感情をジャッジしなくて済む。

「これは感じてはいけない」と蓋をせずに済む。

そういう素直さを取り戻していくと、少しずつ纏わりついていた余計なものを振り落として身軽になっていく。

生まれたばかりのころに感じていたはずのワクワクした気持ち、新鮮な驚きや喜びが蘇ってくる。

そのように、魂を見つけ、磨いてよりちゃんと見つめるために、12ステップ・プログラムという道具がある。

 

あなた以外の強い何かが、あなたの奥底には宿っている。

神はいないかもしれない。

というか、いないと思う。

でも、私たちは自分が知覚していることが全てだと思い込んでいるけれども、確実に生物として何かに設計されプログラムされている。

それが本能に加えて存在する、魂というOSであり、本能のみで生きる他の動物とちょっと違う、人間が人間たるゆえんではないだろうかと考える。

知的生命体という意味で知能が高いのではなくて、社会的な営みをMUSTとされた宿命があったからこそ、魂のベクトルが人に進化を促したのではないかと個人的には思っている。進化は「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象」ではあるけれど、あり方を変化させるほどに強い力が働いているのである。しかもそれは外的要因ではなく、主に内的エネルギーによるものだとすると、本当に生きているだけで素晴らしいことなんだなと思う。

宗教的には魂をつくるものは神だということで、この考え方とは真っ向から対立する。

キリスト教ではもちろん、イスラム教とも合わない。イスラム教は「進化」がハラーム(禁忌)に触れているとしてポケットモンスターすら許さないから、わたしなんかは尚更許されないだろう。

もし神がいて、魂を創ったとしたら、なかなかやるやん、と感心する。ちょっとは信じてやらんでもないかな、と思う。

【AC】「承認を求めようとすること」にとらわれる

■承認を求めようとすること■

機能不全の育ち方をしたので、わたしたちは承認されなかったり、批評されたりすることを恐れます。子どものとき、わたしたちは親や祖父母や兄弟姉妹や重要な他人から、愛と承認を受け取ることを絶望的に浴していました。わたしたちの大部分にとって、それらが得られたことは滅多になかったので、私たちは今も他人からの保証を求め続けています。しかしながらこの承認の欲求・必要が、自分の生き方や考え方を他人の欲求・必要に合わせるという、私たちのやり方に重大な影響を及ぼしています。私たちは、自分自身をどうやって愛し、承認したらいいか知らないので、自分をよいと感じるために他人からの補償を求めようとします。また他の人たちに自分を好きにさせるように振舞うかもしれません。この「外に焦点を合わせること」は、わたしたちが自分の欲するものや必要とするもの、自分の感情や欲求に気づくことを妨げます。わたしたちは、他人の反応を見てその人たちを楽しませるにはどうしなければならないかを推し量り、彼らの私たちに対する印象を管理しようと試みます。わたしたちはすべての人を楽しませようと努力し、他の人を傷つけたくないので自分自身にとって破壊的な関係にしばしば留まります。

他人からの承認に対する必要・要求があるとき、わたしたちは次のようであるかもしれません:

●人の機嫌を取る
●批評を恐れる
●自尊心を欠く
●自分を無価値に感じる
●自分自身の必要・欲求を無視する
●失敗を恐れる
●集中力を欠くこと
●身体的な不快

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
59Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします

 

●自尊心を欠く

●自分を無価値に感じる

最近、この2つを特に感じる。

ということは、まだこの「承認を求めようとすること」にとらわれていて、結局のところまだ自分の欠点や考え方の歪みを手放せていない。そう内省する。

 

私はとても今虚しい。

今している仕事の意味が薄いことに気づいた。

しかし、独立して同じだけの給料を稼ぎ出すほどのスキルはない。

鍛えてきたのは営業力くらいだ。

創造的な何かをする力はやはり矮小だ。

このブログもそうだ。

誤字脱字が多い。文章の展開がワンパターンで、いいことを言おうとして言葉だけが上滑りしているときもある。実に恥の多いことだ。

一生懸命自分なりに深淵に近づこうとしていながら、それは実は他人から見れば実に浅い考えだったり、見透かされていたりする。

そういうもろもろの拙さが目に付いて、私は、私が持っているものなどすべてくだらないゴミばかりのような気持ちになったりする。

そういう気持ちを乗り越えて、あるいは抱えながら、今創作で生きている人(特にフリーランスをしている人)は、今の自分の世界観を確立して、それを評価され収入を得て生きている。本当にすごいと思う。

自分が創造する世界観にお金を支払ってもらえる。

それはとてつもなく凄いことだ。存在が肯定される。自己肯定感を支える上で非常に効果的なワークスタイルでありながら、自分の魂を外界に触れさせることから、非常にメンタル面でハードだと思う。それに耐え抜いて自分を生きる姿は強く美しいと思う。

 

少なくとも、自分で卑下していいものじゃない。

そうなのだろう。

そういう「恥ずかしさ」に真正面から向き合うことが、「強さ」の一つの形だと思う。

私はまだ弱いんだな、と思う。

自分が何もできていないこととか、影響力がないこととか、生み出すもののクオリティが低いこととか、自分の力の無さを恥ずかしいと思っている。

精一杯やっているなら、恥ずかしいことなど無いはずなのに、進歩しているのだからそれは誇ってよいはずなのに、他と比べて卑下しがちだ。

 

鷲のように飛べたら
蟻が一歩一歩、歩いていることなど見えやしないだろう
でも、歩いているんだ 蟻はあるいているんだ
一歩一歩 喜びをかみしめながらっ
成長しろ、武蔵 それでも俺が勝つ
こいつらの為にも 俺が勝つ!!

『バガボンド』 第21巻 儂と蟻 より引用

 

『バガボンド』の吉岡伝七郎の言葉。

兄の吉岡清十郎や宮本武蔵のような天賦の才を持たず、愚直に真面目にやることしかできない伝七郎に、とても共感を感じる。

とびぬけた何かがあるわけではない。不器用で不格好。

しかし「平凡」という宿命を負っているからこそ苦しみや悲しみに寄り添うことができる。

吉岡道場のみなは、それをこそ愛していて、人の輪が集まる。

 

私に才能がないとは限らない。

才能が開花するかどうかは、明日か、10年先か、50年先か。

その日は、努力し続けない限り訪れない。

才能が有ったとしても、自ら枯らせてしまうのが「諦め」。

 

だから、できることは、できることをひとつひとつ増やしていくしかない。

そもそも才能なんていうものはな
自分で掘り起こしてつくり上げるものなんだよ
俺だって天才なんかじゃない

誰よりも必死に働き
階段を一つ一つ踏みしめてきただけだ
振り向いたら誰もついてきてない

怠けた連中は麓でこう呟く
「あいつは天才だから」

冗談じゃない

ゆとりで育ったのんびり屋どもが本当に嫌いだ

俺より時間も体力も感性もある奴が
何で俺より怠けるんだ

だったらくれよ

無駄遣いするんだったら俺にくれ
もっともっと作りたいものがあるんだ

俺にくれ

『リーガルハイ2』第7話より 宇都宮仁平(伊東四朗)の言葉

とりとめもないけど、私がやるべきことははっきりしている。

それは、自分の創作や活動など「できること」を磨き上げるということだ。

それなくして、何も開花しないし、状況は変わらない。

 

□承認を求めようとすることからの回復□

自分自身の承認と、ハイヤー・パワーの承認に頼り始めるとき、承認を求めること自体はOKなのだということを、わたしたちは理解し始めます。他人を操ることはしないで承認を求めるやり方を身につけます。他の人たちの褒め言葉を受け入れて、その褒め言葉が心からの物であることを信じて、率直に「ありがとう」といえるようになります。わたしたちは自分の欲望に焦点を合わせて、「イエス」と思っているとき「イエス」と、「ノー」と思っているとき「ノー」と言います。

適切でない承認の求め方から回復するにつれて、わたしたちは次のようになっていきます:

○自分の必要を認める
○自分自身がどう感じているかについて本当のことを言う
○自分自身に対して忠実になる
○自分と他人に対する信頼を築く

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『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
60Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)

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他人を操って、よく見られようとして、承認を得ようとしなくていい。

そして、承認を求めること自体は悪いことではない。

このことを私はよく忘れる。

他からの承認に目がくらんで、自分が今やるべきことが見えなくなる。

そして、承認欲求を見ていると苦しいから、見ないように目を瞑る。

そうやって否認している限り、どんどん肥大していくのに。

何度同じことを繰り返すのだろう、と辟易する。

しかし、私は私がACたるゆえんでもあるこの「承認を求めようとすること」を受け容れたいと思う。

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」①仕事

次のような傾向に思いあたったら、あなたの中に共依存の課題があるかもしれません。

犠牲になっていませんか?

誰かとの関係で、自分ばかりが責任やリスクを負ったり、気持ちを押し殺したりしていないでしょうか。

乗り出しすぎていませんか?

相手が決めたり考えるべきことまで、やってあげたり、指示したりしていないでしょうか。
その結果、相手の甘えを招いていないでしょうか。

自分を追い立てていませんか?

困っている人を助けないと悪いという罪悪感、みんなに好かれなければダメだという考え方、完ぺきな自分にならなければという思いこみなどで、自分を過剰に追い立てていないでしょうか。

 

引用:株式会社アスク・ヒューマン・ケアHP>共依存とは>あなたにこんなこと、起きていませんか?

 

私は、仕事において共依存的である。

私は、この3つの傾向にすべて当てはまる。

皆さんにも心当たりがないだろうか?

私は今の仕事に対して情熱を失っている。それは、仕事に対する関わり方が共依存そのものだと気づいてしまったからではないだろうか。

そのことについて深く考えてみたいと思う。

 

そもそも「共依存」とは?

共依存とは、自分自身に焦点があたっていない状態のことです。

たとえば――。

自分の価値を、周囲の基準だけを頼りに判断する。

自分がどうしたいかではなく、周囲の期待に応えることだけに必死。

他の人の問題を解決することに、いつも一生けんめい。

誰かの役に立とうとするのは、もちろんいいことです。周囲の人に認めてほしいとか、好かれたいと思うのも、自然なこと。

けれどその結果として、自分自身がどんどん苦しくなったり、一生けんめいやればやるほど状況が悪化することがあります。

そんなとき、背景に共依存の問題があるかもしれません。

 

引用:株式会社アスク・ヒューマン・ケアHP>共依存とは

 

私はいつも周囲の期待に応えることにばかり一生懸命だったように思う。

いつも満たされない気持ちだったし、どれだけ頑張ってもどれだけ表面的に褒められても渇きが癒えない感覚が常にあった。「自分自身がどんどん苦しくなる」「一生懸命やればやるほど状況が悪化する」書いてある通りの状態だ。

自分自身に焦点が当たっていない。

それはまさにその通りだと思う。

他の人の欲求や意向や願いなどは手に取るようにわかるのに、自分の願いや欲求が全然わからなくてまごつくことが多かった。まるで神経が死んでしまった皮膚のように、つねっても叩いても何も感じない。それなのに、他人の痛みは自分のそれのように受け取り、なんとかしなくては、と躍起になった。

他人を満たすことで、自分が求められることで、初めて息をしている気がした。

生きていていい、と言われている気がしてつかの間の安心を得ることができた。

私にはメリットがあったのだ。

例えば仕事に没頭したのは、そのような共依存性を発揮したいい例だと思う。

 

「営業職」はACにとって天職?

私はずっと営業職をやってきた。

人と会うとぐったりと疲れるのに、なぜ営業職を選んだか?

それは「私にとって人と関わることは避けられないこと」だと悟り、対人関係構築力を鍛えなければ生きていけないという危機感があったからだ。

私はずっと人とうまく接することができなかった。だから、うまく接するためには対人関係のプロである営業職に身を置いて鍛えれば必然的に身に着くだろうと思ったのだ。

最初は大変だった。というか今も大変だ。

発達障害の「ASD(自閉症スペクトラム)」を持っている私から見ると、定型発達者は複雑怪奇だった。謎のテレパシーを送り合ってコミュニケーションをとっているとしか思えなかった。「空気を読む」「察する」そういう非言語的コミュニケーションが全く理解できなかった。だから仲間外れにされてきたのだが。

つまるところ、この非言語的コミュニケーションだ。これをマスターすれば私は「人間」の仲間入りができると踏んでいた。

私から見て、営業スキルは、この非言語的コミュニケーションを法則化している夢のような黄金律に見えた。これだ。これさえマスターすれば二度と哀しい思いや惨めな思いをしなくて済む。意気揚々と飛び込んだ。

飛び込んで、死にかけた。

私はとんでもなく察しが悪かった。

「普通考えればわかるだろ」

「おまえ空気読めよ使えねぇな」

何千回何万回聞いたことだろう。私は絶望的な気持ちになった。とても手に負えないスキルだったのではないか、身の程をわきまえて静かに一人で暮らしていればよかったのではないかと思った。

 

そんななか、光明になったのが、AC(アダルトチルドレン)としての特性だった。

ACとして、人の痛みには敏感に気づくことができた。

自分が嫌われないために常に相手のニーズを満たそうと目を光らせ、観察と検証を繰り返してきたACとしての姿勢は、営業職においてベースになる機能だった。

相手のニーズを正確に理解して、それに合う自社のサービスで顧客の問題を解決する。

最初は全く読めなかった「空気」も、罵倒されながら状況と原因と結果をひとつひとつケーススタディとして積み上げていけば、ある一定の法則が見えてくる。

自分を滅してでも、日夜顧客に尽くすこと。

それが目に見える数字に結実し、周囲からも賞賛され、自分を支える社会的価値になる。

嬉しかった。

やっと生きていると思えた。

絶対的に正しいと思えた。

私は世の中のみんなから生きていていいと言われている気がした。

私はそれが蟻地獄だと知らずに足を踏み入れて、深みにはまっていく。

 

最も大切にするべき自分を置き去りにして

私は社会人2年目あたりから狂ったように仕事のことばかり考えていたと思う。

私生活も何もかも、すべては仕事のスキルを上げるための時間だと思っていた。

休日もPCにかじりつき、朝から晩まで仕事だった。

本当は仕事のことなんて考えたくなかった。ゆっくりしたかった。おそらくうつを患っていた。が、そんなことを気にすることもなく、動かないなら何かで動かせばいいという具合でエチルアルコール(酒)をキメる毎日を過ごした。

そしてアルコール依存症になった。

酒をやめてからも、やはり存在意義は仕事だった。

稼いでいなくては、生きていけない。結婚もできない。だれも見向きもしてくれない。

だから、私は「ちゃんと仕事をしていなければならない」。

顧客のニーズに応えて「ありがとう」と言われよう。

「ありがとう」を積み重ねてお金で返してもらおう。

それで会社は喜ぶ。

そう、私は会社に認めてもらいたかったのだ。

他の誰よりも役に立っていると会社から思われていれば、そこから追い出される心配はないからだ。

アルコール依存症になって、起こした問題が原因で信頼を失い懲戒解雇になりかけて、「お前は要らないから早く辞めてくれ」と言われてから、その執着はさらに強くなったように思う。

 

会社と社員は共依存関係に陥りやすい

会社にとって、社員は駒にすぎない。

新古典派経済学の牙城であるシカゴ学派を代表するアメリカの経済学者、ベッカーは「人的資本理論」を提唱している。

新古典派経済学では、伝統的に『人の能力(限界生産力)は所与のもので企業はそれに見合った賃金で雇用する』と考えられてきたが、人的資本理論は、『人間を機械や工場などと同じ資本ととらえ、教育・訓練(投資)を受けるほど労働生産性は向上し賃金も増大する』と分析する。

私はこの人的資本理論は好きだが、会社はこれを投資すべき人材と口では言いながら、うまく使おうと自社が所有する「資本」としての扱いにのみ傾注しているように思う。

つまり、うまい具合に使うためにある道具。すなわち駒である。

会社は別に社員を家族とも思っていないし、愛しているわけがない。

しかし、社員は会社の理念や在り方を愛して、いわゆる愛社精神をもつ。

そして、その愛を会社への貢献という形で示そうとする。

ここに共依存性が加わると最悪である。

認めてもらおう、褒めてもらおう、という承認欲求に飢えている共依存性を持つ社員は、会社にとって実に美味しい。

それらしいご褒美を小出しにしてさえいれば、多少ひどい扱いをしても離れない。

いくらでも言うことをきく。

限界まで安くこき使える、コスパのいい奴隷。

社員同士を競わせ、情報を操作して洗脳し、会社への忠誠心の厚い奴隷に仕立て上げる。

家庭も省みず、子供の運動会も欠席して、ひたすら会社に尽くす。

妻や子供との関係が崩壊していても「家族のためにやっている」という言い訳で本心を見て見ない振りをする。本当はこんな風に生きたいわけじゃなかった、という本心に触れたら、もう立っていられないからだ。

1980~90年代の働き方はまさにこれだ。「24時間戦えますか」の時代。

そんな否認のプロ、優秀な奴隷であるモーレツサラリーマンは昇進することができた。さらなる奴隷を再生産するために。

その体験を「成功体験」と呼び、あるべき男の姿として語り継いできたところをみると、仕事人間の男性はほぼ会社と共依存していると言っても過言ではないだろう。

 

会社と社員の構造は、大企業であればあるほど、実態はこんなものだとわかってしまった。

共依存でボロボロになり、潰れた社員は捨てられる。使い捨ての資本だから。

ストレスや過労により前線を離れるひとをたくさん見てきた。そうなったとき、会社がどれだけ冷たいかも、身を持って体験してきた。

 

今、なぜその歪な関係に気づけたのだろうか。

それは、私がACのための12ステップ・プログラムに取り組み、ACとしての自覚に目覚めたからだと思う。

誰かの役に立とうとするのは、もちろんいいことです。

周囲の人に認めてほしいとか、好かれたいと思うのも、自然なこと。

前述のとおり。そうだ。

 

誰かの役に立つことは、いいことだ。

認めてほしい、好かれたいと思うことは、自然なことだ。

自分を蔑ろにしない限りにおいては。

 

私はこれに気づいたのだと思う。

目をつぶりやすい。

自分を蔑ろにしていることに。

なぜか?自分には価値がないと思い込んできたからだ。

なぜか?親との関係でそう思い、周囲の人々との関係でそう思い、自分のなかに間違った信念が根付いているからだ。「結果を出さなければ価値がない」と思い込んでいる。

誰もがそうだ。その歪みを見て見ぬふりをして、「私は良いことをしているんだ」「私の願いは自然なことだ」と思いたい。なまじ、誰かのために何かをするのは、いいことだし自然なことだから厄介なのだ。

 

実は、自分の在り方や気持ちを最も優先してもいい。

これは新鮮な驚きだった。

本当は、会社で認められるために私生活を犠牲にしなくていい。

本当は、仕事だからといって、何もかも我慢しなくてもいい。

本当は、働きたくないなら働かなくてもいい。

本当は、社会に必要とされようと不安にならなくてもいい。

 

仕事は、実はMUSTではなかったのだ。

国民の三大義務だというかもしれないが、働けない理由に「働きたくない」は当てはまる。

労働は本当は自分がしたいからするものであり、仕事は、MUSTではなくWANTに当てはまるのだと思う。

つまり、人生においてはオプションなのだ。メインではない。

前提には、『何もしていない自分』にも、存在に対する安心があってもいいのだから。

メインは自分自身。会社や仕事はオプション。

自分がしたいことの一つ。

自分が選んで自己実現する手段の一つ。

逃げてもいい、やめてもいい、自分で選んだのなら。その責任を負う覚悟で踏む出すのなら。

本当の自分の声はどこにあるのか、よく耳を澄ませてみよう。

 

まとめ:私が仕事に対する情熱を失った理由

私は、意味があると自分で思えることがしたい。

徹頭徹尾、それでできている。私はそれでできている。

意味があることなんて、見方によってはこの世にはないのかもしれない。意味は見つけ出すものだから。

お金を他人よりも稼ぐこと、社会的に認められること、会社から表彰され褒められること。

私はこのようなことを「意味がある」と思ってきた。

しかし実際は、意味があまりなかったのだと悟った。

お金は生活に必要な分だけあればいい。

社会的に認められていなくても、私そのものの価値は変わらない。

会社が褒めるのは奴隷を創りたいからで、条件付きのポーズでしかない。

私が本当に求めている存在の肯定は、他ならぬ自分自身にしかできないことだった。

安心をアウトソーシングしようとして、共依存に没頭した。それは一見有効なようで、私にとっては意味がなかったのだと思う。最も大切にするべき自分を粗末に扱って、他人に利用されるだけだったり、感情に振り回されるだけだった。「仕事」に傾注することは、薬になるというよりも毒である、と理解した。

 

ぽっかりと穴が空いたようにさびしい。これが正直な気持ちだ。

今まで慣れ親しんだ共依存相手の「仕事」を手放し、私はすっかり茫然としている。

人の役に立ちたい、という気持ちは本心だったし、それは私が気持ちがいいからやることで、私が病んでまで他人に尽くすことはなかったのだと思うと、まずは私の回復が最も重要なのだということに気づいた。

だから、私はこれから自分に尽くしてみようと思う。

読みたい本を読み、自分のなかの真実に耳を澄ませる。

「私の心からの願い」を生活の根本に据えて、私が本当に役立ちたい人たちの役に立てるよう、自分の足腰をしっかり支えるのだ。

そういうふうに生きていくことが、私が生きたい人生だったのだ、と思う。