【共依存】世間というのは、君じゃないか

最近、特に世の中が好きではない。

不倫を叩いたり、飲酒運転を叩いたり、違法薬物所持を叩いたり。

『世間』とは、何様なのだろう。

 

堀木は、いよいよ得意そうに、

「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」

世渡りの才能。……自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。

自分に、世渡りの才能!

しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧狡猾の処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

~中略~

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。

人間の複数でしょうか。

どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ!

などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

「冷汗《ひやあせ》、冷汗」

と言って笑っただけでした。

出典:『人間失格』太宰治 P43

 

 

「世間というのは、君じゃないか」

これはあまりにも有名な多くの人が知っているセリフだが、今、私が最も言いたいのはこのことだ。

この14文字に集約されている。

この大庭葉蔵の、表には出てこないが深く水底に揺蕩うような人間に対する恐れ・怒り・憎しみ・嘲り・淋しさは、よくわかる。

そういうものと一緒に連れ添ってきた人生だったように思う。

そしてそれは、この世で生きている限り、非常に逃れ難いものでもある。

 

例えば、ワイドショー。

素人のコメンテーターに何の根拠もないことをベラベラとしゃべらせ、街の人の声と言いながらカンペを出してしゃべらせた音声を集めて、あなたが泣いても謝っても病んだ状態から回復しようとしても「世間が許さない」と言う。

例えば、警察庁。

「サギ集団に一度加担すれば、あなたの人生はもう終わり。」と脅して、あなたが生きていることを「世間が許さない」と言う。

 

世間というのは、そういう「お前たち」だろう。

お前たちが許したくないだけだろう。

そしてちゃんと当事者のことを知らないくせに、訳知り顔で語るお前たちが好き勝手に石を投げるから、独りで寂しく苦しんで死んでいく命が後を絶たない。

もういいや、こんなごみ溜めのような場所なんじゃ、生きてたって仕方ないや。

そう思うのも無理はないと思う。

 

レオ・レオニの『スイミー 小さなかしこいさかなのはなし』は、小さな魚が集まって力を合わせることで、大きな魚の脅威に対抗するという素晴らしいストーリーだ。

 

 

だが、私は小さい頃、この絵本を読むたびに恐ろしさを感じてきた。

私はよく、虐められて独りだった。

大勢の人間が徒党を組んで、独りを虐めることで平和を保つことは、子供社会でもよくあることだった。

そんな私にとって「追い払われたほうの大きな魚」の気持ちのほうがしっくりきた。

小さい細々としたものが、大きなうねりとなって脅威に膨れ上がる。

そういう集団の持つ圧力や恐怖を目の当たりにしてきて、私はどうしても気持ちよくこの話を聞けなかった。

 

仲間を持てない私は生きていてはいけないのか?

独りぼっちの私は生きていてはいけないのか?

なんで群れるほうが偉いんだ。なんで群れるほうが正しいんだ。

人と仲良くしなくっちゃいけないのか?

人と仲良くなれない私は、生きていちゃダメなのか?

 

そう思った。

そんな話をお母さんに聞いてほしかったが、それどころではなかった。

私の母は。

 

私の母。

 

私の母は、こんな風だった。

いつも「ちあきのためだから」と言っていた。

あれもしてあげた

これもしてあげた

お母さんはお母さんの人生を犠牲にして尽くした

だからお母さんを愛して当然よね

だからお母さんを一番大事にして当然よね

お母さんを幸せにして当然よね

なのになんでそうしてくれないの?

 

これは通訳すると

「あんなに欲しがっている(ように母親からは見えた)ものを私が与えてあげたのに、なんで感謝しないの?なんで私の思い通りにならないの?」

と言っていることに、数十年経って気づいた。

他人に対して受動的に立ち回り、譲れない部分で自分が返してほしいと思ってきた期待を裏切られそうになったり、コントロールしたい将来像の方向性に反した動きをしたり思いを語ったりすると、母は態度が豹変して、私を責め・悲しみで攻撃した。

母のような人の胸の内は、これだ。

「いいよいいよ、やってあげるよ」と相手に譲っているようで、実はこっそり自分の「望み」を無理やり貸付けようとする。

善意という貸付金を相手にわからないように勝手に上乗せして、やがて限度額がくると我慢の限界に達して、ものすごい剣幕で「贖罪としての善意」の返済を迫る。

まるで闇金融のようだ。

 

望みどおりにならなさそうだと感じ取ると、悔い改めろと私に詰め寄り、思い通りの方向に他人をシフトさせよう、思い通りにコントロールしようとあの手この手で奮戦する。

それにより、子供の私は最終的に謝らざるを得なくなり、意思を曲げて従ったりする。

母親は子供(私)に対する影響力を確認できる。

幸せの青い鳥は、まだかごの中で飼い殺しにできる、と胸を撫で下ろす。

子供に尽くすフリをしていれば、直視するのが不安な自分のすっからかんの人生を見ないで済む。精神安定剤になる。

 

私は、母親の、あんたの精神安定剤じゃない。

幸せの青い鳥でもない。

私は、いっこの人間だ。

私にだって意思があるし、眩い輝きを放つ願いも夢も、あったはずなんだ。

それを「あなたのため」という言葉で飾り立てて、本当の私を、イキイキと笑う本来の私を、やんわりと真綿で徐々に絞め殺していったのは、あなただ。

よくも私を殺したな。

あんなに健気で純粋に好意を持っていた私を、よくも殺したな。

おかげで私のインナーチャイルドは、いくら話しかけても、もう息をしていない。

 

全部、自分のためじゃないか。

自分を安心させるため。

自分が楽をするため。

自分が責められる側に回らないため。

だから、子供に形の上では決めさせて、子供に譲って与えたふりをして結果を盗む。

 

それは、優しさじゃない。

卑怯さであり残酷さだ。

 

自分の人生に、気持ちに、行動の結果に、全面的に責任を取ることを恐れるが故に、子供の人生をマリオネットのように操って遊んでいる。そのほうが楽だから。

自分の保身しか考えない残酷な心だ。

私は、人形じゃない。

 

 

お母さん、あなたの行動の責任は、あなたにしか取れないんです。

お母さん、私は肩代わりしようと一生懸命になって、でももうそんな役割はしたくないんです。

私はお母さんが好きだったけど、お母さんは私が好きなんじゃなくて、「お母さんに都合のいい私」が好きだったんだね。

私は、それがいつも悲しくて、葉蔵のように道化を演じる子供になっていったんだよ。

 

いつまで私を縛るつもりだ。

もう30年以上経った。いつまで人形遊びをしているつもりだ。

あなたは、しっかりあなたを生きてください。

 

そう思う。

 

随分と話がそれた気がする。

が、そう主題は変わっていないような気もする。

 

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

 

結局のところ、人間関係と言うのは、徹頭徹尾これなのだ。

近いようでいてものすごく遠い。

一番近いはずの母が、最も遠いところで私を見ていなかったように。

生みの親がそんなふうなのだ。誰ができるのだろう?と思うことは不自然だろうか。

あるのかないのかもわからない、人と人とのつながりという「幻想」を信仰できるかどうか。

確かなのは、己の愛のかたちであり、己がどう感じたか、どう選び取るかだけだと思う。

 

確かにある、私が他人に抱く愛。

それを他人が抱いているかは、検証しようがない。

心は可視化できないし、確かめようがない。

 

私が思う他人が、世の中を歩いているのだ。

世間とは、わたしでもある。

私が信じるように、世界は見えていて、すなわち世界を変えるには、私が信じるしかない。

 

中村光先生の『荒川アンダー ザ ブリッジ』の主人公「市ノ宮行(リクルート)」とものすごく他人の恩についての考え方が似ている。

 

命の恩人っていうのはつまり

これから先

俺がケーキを食ってうまいと感じてもこの女のおかげ

カンパニーを継いで社長イスに座ってもこの女のおかげ

俺のこれからの人生全部この女のおかげ

重い!!重いぞ命の恩人ー!!!

市ノ宮行(リクルート)

 

 

恩とは、借りだと、ずっと考えてきた。

そう思うのは、最近分かったのだが、『私が善意の貸し付けをしているから』だ。

恩を、好意を、貸し付けしている。つまり、母親と同じことをやっている。

ああ・・・

だから母親のそういうコントロールを思い出すと、頭を掻きむしりたくなるほどイライラするのだ。それは、他ならぬ自分の恥部であり、暗部だからだ。

 

他人の善意を受けるとき、借りを作るように感じるのは、そういうことか。

全部、自分。

自分が貧しく乏しく、そんなだから、世界もそう見えるのだ。

私が世界を寂しくくだらなくしている。

 

「世間というのは、君じゃないか」

 

そうさ、私だ。

この、みすぼらしい私の精神の姿だよ。

世間というのは、鏡だったのだ。

一生懸命やってきて、少しはましになったと思った。

それはどうやら、思い過ごしで買いかぶりだったようだ。

 

もう何もかも燃えつきてしまえばいい、と思うところは、酒を飲んでいたころと何一つ変わらないんだから。

世界の見え方はいまだ変わらない。

【キャンプ△】休暇村瀬戸内東予シーサイドキャンプ場(愛媛県)に行った話

夏と言えば、海。

海と言えば、キャンプ。

というわけで、今回は海キャンプです。

 

余談:追加してよかった新しいギア

①タープ

6000円くらい。追加で買うにしてもあんまり悩まない。

この価格に十分見合ったメリットを提供してくれるギアです。

(セットになっててすでに持ってるならいらないけど)

海でBBQするなら、テント貼らなくてもタープ貼れば、雨が降っても大丈夫だし、日よけには充分。今までテントわざわざ立ててたんですけど、これ買ってから超楽になりました。

夏は日差しが本当に強いので、日陰をちゃんとつくることが重要だと、この夏は学びましたね( ^ω^)・・・真っ黒になりましたからね・・・。

 

あとコレ!

 

②ウォータータンク

1000円くらいで買えるんですけど、これは絶対買っといたほうがいい。

しかも20Lを買っといたほうがいい。10Lはすぐなくなる。

何がいいって、貴重な水が水道感覚で使える。

海水に浸かった体を流す、食器を洗う、水を飲む、お湯を沸かす、何かにつけて水を使うんですよね、海辺のキャンプって。

これを持ってれば、コックをひねれば水が出るので、いちいち炊事場に行かなくてもサイト内でなんとかできることはできる。足りなくなったら継ぎ足しに行けばいいし。

この夏我が家では大活躍しました。

 

③リビングテーブル

これがないとね、食べる場所がないんですよね。

肉が結構どんどん焼けても、置く場所もないし食べる場所もないと、慌てます。

落ち着いて楽しみたいですよね。

これがあれば結構3~4人なら、調理したり食べたりするのにちょうどいい大きさです。

このコールマンのタイプは折りたたむとカバン式になるので、持ち運びしやすいしコンパクト。買ってよかったギアです。

 

今回のキャンプ地の概要

休暇村瀬戸内東予シーサイドキャンプ場

公式HP:https://www.qkamura.or.jp/toyo/camp/

1泊(1張り):諸々トータル=5,190円

持ち込みサイト(AC電源なし)が一般的です。

入浴料・管理費を合わせると+2000円くらいとられます。

(例:大人2人・子供(幼児)1名の場合=入浴料500円×2 + 管理費520円×2 = 2,000円弱)

正直高いです。

 

でもスペースは広々!

充分いろいろなものを広げられます。

 

AC電源ありは2サイトしかなく、サイトの指定もできません。

予約の際に直接問い合わせるしかありません。

常設テントはしっかりしていて、手ぶらでキャンプしに来るカップルなども見かけました。

テントが無くてもやってみたい人たちにはいいキャンプ地かも。

 

温泉:あり。入浴料 500円(子供300円) 午後6時~午後8時(短すぎる!!)

道後・鈍川と並び“伊予の三湯”と称される「本谷温泉」から引き湯した
「ひうちなだ温泉」に入浴できます。

ここねぇ、いいお湯なんだけど、やってる時間が短すぎんだよね。

キャンプ地から離れた結構な坂の上にあるから歩いては無理で、シャトルバスが出てるんだけど、混みます。

絶対自分の車で上がったほうがいい。けど、上の駐車場に停める場所がないこともある。

つまり、じゃあどうするか、というと↓

①どうしても入りたいって人でないなら、やめておくほうが無難。夏は管理棟にあるコインシャワーで充分です。

②どうしても行きたいなら、ちょっと時間ギリギリ早めに、1台の車でメンバーみんなで一気に行きましょう。

そうすれば、確実に入れます。

アメニティーは充実してます。結構小さい(1歳ちょっと)のお子さんがいても、ベビーシートなども完備されているので、大丈夫です。

 

犬:OK

犬がいるよ、と事前に予約しておくときに伝えておきましょう。

端っこのサイトを案内してくれます。そのほうが人が通らないので、吠えたり騒いだりしないし安全。私も人が嫌いだから、近くが囲まれていなくて安心。(それは個人的な問題では( ^ω^)・・・)

 

遊べる場所:海

歩いて20秒くらいのところに、このような海が広がっています!!!

ヒュー!!!!!

澄み切ったきれいな海を使い放題!!

しかもみんながいく海水浴場から少し離れていて、キャンプしている人くらいしか泳いでいないので、超快適です。

ご覧の通り私たちしかいないくらい。(逆に海水浴場っぽくない)

釣りをしたり、今流行りのサップをしたりしているひとがいます。

のんびりとした時が流れていました。

ここは結構、泊ってよかったなと思ったポイントですね。

 

気難し屋のちあきがぶっちゃける!良いところ・悪いところ

良いところ

・海が近い!ちょー綺麗!

・サイト区画が広くてしっかりしているので安心

・車の乗り入れができて、搬入出が楽

・コインシャワーがある

・トイレが結構至る所にある

・炊事場には洗剤とスポンジが完備されている

・燃えるごみと燃えないゴミに分ければゴミを全部捨てて帰れる

・焚火OK!(直火は禁止)

・犬OK!

 

悪いところ

・温泉が閉まるの早すぎ問題

いくらなんでも、20時早すぎ。もう少し長くしてくれたら、私としてはかなり総合点高いんだけどなぁ…。シャトルバスも3本か4本くらいで、落ち着いて入れない。正直ココがかなりの減点ポイント。

・利用費が高い

大してきちんと入れない温泉付きで、5,000円かぁ…。次は温泉はないな。

それにしても1,000円プラスで、4,000円はかかるので、やっぱり全体的にお高め。

・トイレが和式しかない

地味に嫌だったのがこれ。子どもにトイレさせるのが難しいし、女性は洋式がいいという人もいるので、トイレ自体が何個もあるのはいいんだけど、洋式トイレも整備してくれていたらよかったなぁ。

・地面が固くペグを打つのに苦労した

私が止まったサイトだけなのかもしれないけど、かなり頑丈な地層でした。半分以上は入っていかないので、困り果てました。なんとか立ったけど、犬のリードを固定しておく杭も入らないし、もう最終的には設置されていたガードレール的なものにリードを括りつける結果になりました。ちゃんとしたハンマーとスチールペグ持って行ったほうがいいです。

 

まとめ:海がとにかく綺麗だったから好き

見てくださいよ…この日の出。

これマジでもっと写真を勉強して、次行くときは夕焼けと朝焼けをめっちゃ綺麗に撮りたいです。

下手過ぎて伝わらねー。。

この100倍綺麗だったんだよー…!!!!!(泣)

カメラを勉強したいって心から思いましたね。

今回薪を忘れてしまって、管理棟で買えばいいや、と思ってすっかり忘れ、こっそり楽しみにしていた焚火があんまりできませんでした。

浜辺にあった流木がカッサカサに乾いていたので、手刀や脚力で割って適当にやったけどこんなに燃えました。

なんかを己の筋力を使って破壊して木っ端みじんにして、火をつけて燃やすのって快感ですよね。なんかとても悦びを感じました。(妻にはドン引かれました。)

 

とにかく景色がきれいで、海がもっと大好きになるキャンプでした。

現場からは以上です、ハイ。

【メンタル】「お前が悪い」と誰かを指差す人が抱える感情

自分の悲しみや憎しみを見ないようにするために、どうにもならない(ように感じる)世界に対して「正しさ」で復讐する人は、世の中にたくさんいる。

芸能人の失敗が報道されるたびに、ネット上やマスメディアのコメンテーターには声高に当事者を罵って叩きまくる人が湧いて跡を絶たない。

この現象は、まさにその最たるものの一つ。

 

自分の悲しみや憎しみは、いったい何か?

それは変えられるものなのか、変えられないものなのか?

自分はどうやって、辛かった経験や気持ちを抱えて、行動を変容させるのか?

そういうど真ん中の課題に向き合うことは、誰しもつらい。私もつらい。そして、よく目を背ける。

人間は元来みな弱い。

だから、人間なら当たり前でもある。

 

辛い苦しい見たくないものを見ずに、自分が楽で安心して眺めていられるものを見て、誤魔化そうとする。

そのとき安心しながら、眺めるものとは?

「他人の人生」である。

他人の人生には、何の責任もない。

生きていようが、死んでいようが、みな実は自分以外のものの生き死にには基本的には興味がない。

自分と同一視できて、まるで我がことのように感じられるから興味がわくわけで、どこの誰とも知らない人が何か失敗をしたとして、本来ならあまり関心はわかない。

自分の人生から目を背けるために他人の人生を見ているときは違う。

自分の中の「何だからわからない不満や焦り」を誤魔化すことができる、美味しいおやつのように見える。「常識」や「法律」を振りかざして、観客席から嬉々として石を投げる。

他人が、自分が投げた石にダメージを受け、凋落し後悔し痛がり、泣きながら謝る姿をみて溜飲を下げる。

 

コントロールしたい。

自分が考える正義で、誰かを打ちのめしたい。

後悔させたい。謝らせたい。苦しませたい。

自分には力がある、自分は正しい、自分は悪くない。

自分が少し、惨めでなくなる。

自分が何者かになれた気がする。

自分が少しマシになったように思える。

ほら。自分ばっかり。自分しかいない。

他人を踏みつける限り、自分がその上にいられると。下がいるということは、自分がそれと相対して上にいると思えるから。

他人がどうこうではない。

実は自分が楽になりたいだけ。

 

人である限り、生きづらい人生であればあるほど、このような外道に道を踏み外しがちだ。

かくいう私もだ。自分が精神的に調子が良くないときほど、他人のツイートが癪に触ることがある。曲解してつい攻撃的なリプを叩き込んでしまったりして、いつも後悔する。

我ながら、未熟にも程がある。

しかし、それが包み隠さず今の私そのままだ。

 

「お前が悪い」

そう責めるのは実に甘美だ。

まるで、苦しい胸の内を忘れ楽になれる、麻薬のようなものだ。

「私は悪くない」と逆説的に自己肯定ができる。だから、つかの間安心できる。

正義と悪の構図で、常に正義であり続けることは、マウントをけしかける張本人にとってメリットがあるのだ。けしかけられた側は堪ったもんではないが。

だから皆、勝てる土俵で「正義のヒーロー」になりたがる。

犯罪は、明らかに罪を犯した人が悪い。

悲しんできた人がいるから罪になっているわけで、それを責める立場に立てれば、正義の座に居座り続けることができる。

まさに常勝。この上なく美味しい試合である。

 

正義の座。

その椅子は、さぞや座り心地がいいだろう。

しかしよく見てみると、正義でボコボコに殴られた者の無残な返り血や肉片が、そこら中にベットリとこびりついているのだ。

そんな呪われた椅子に座る者に明るい未来などあるわけもなく、座って胡座をかいているうちに、自分自身の精神はどんどん貧弱になっていく。椅子自体はどんどん下に堕ちていくのに、座っている人は気がつかない。

椅子から立ち上がることもできなくなるころに、こんなことをして浪費するべき時間はなかったことに気づく。時すでに遅し。時間は巻き戻らない。

自分の人生は、自分の足でしか這い上がれない。

上がりたいなら、他人を落とすことに躍起になるのではなく、座り心地が良くても椅子から立ち上がり、一歩一歩踏みしめなくては。

 

私はとても悲しい。

その人たちは、まず自分のことを見たくないのだ。そして、「見たくない」と思っていることそのものも、見たくないから、二重の否認のなかにある。

今が実は一番苦しいんだと思う。

他人を叩いてほくそ笑むその裏で、苦しみにのたうちまわっている真心が見える。

かつては誰かに石を投げつけられたかもしれない。

うまく登れないことを責められ、急かされ、悲しい思いをしてきたのかもしれない。

あなたも、そういう経験があるのではないだろうか?

 

私は信じたい。

そんな人たちにも気づきや出会いが与えられ、いづれは自分のなかの真実にたどり着き、他人の人生を出汁にしなくても、自分自身を楽しく潑剌と生きていけることを。

人は間違える。

完璧ではない。

だから法律というルールが創られた。

失敗から成功が生まれ、少しずつ少しずつ改善されて今があり、今もまた完全ではない。

今、間違える人を責めて、何になる?

逆の立場で、あなたは何を感じるだろうか?

当事者だとしたら、あなたならどうしてほしいだろうか?

私が悪かった、と思うことは、わたしには数え切れないくらいあり、その罪も償い切れないくらいある。

可能な限り謝ってきた。受け容れてくれることもある。理解してもらえないことも、拒絶されることもある。

その罪も引き連れて、それでも一歩を踏み出す勇気が、ヒトの美しさだと思う。

痛みを知っているぶん、ヒトは強く優しくなれる。

私は、そうでありたいな、そうであったらいいな、と思う。

【キャンプ△】山出(やまいだし)憩いの里温泉キャンプ場(愛媛県)に行った話

なぜこのブログのアドレスが「yuru-camp-life.com」なのかといえば、本来はキャンプに行った体験をまとめるブログにしようと思っていたからです。

他のキャンパーが訪れるとき参考にしやすいように、行ったキャンプの情報をまとめようまとめようと思いつつ、全然キャンプもしないまま、12ステップの棚卸ばかりをしている間に、開設から早1年半( ^ω^)・・・。

スピリチュアルなサイトになってしまいつつある感が否めないこの不可思議なサイトも、ようやく2本目()のキャンプ記事を掲載するに至ることを考えると感慨深いなぁ。

 

余談:キャンプを始めるにあたってそろえたギア

【キャンプ△】スノーピークおち仁淀川(高知県)に行った話 で2019年3月に初めて野遊びを体験した私は、すっかりその清々しい体験に魅了された。

もう、これはやるしかない。

と思ったものの、調べたらキャンプ道具がクッソ高い。

 

①テント

テントとか3~4人用だと3万はする。いいものだとセットで5万!!

ちょっと簡単には買えないので、少しずつ貯めていたら、いつのまにか季節が巡り巡って、夏である。

やっとはじめてのテントを購入した。

私はコレしたんだけど、あとでタープを買ったので、正直こっちにしといたほうがいいと思う。これから買う人は参考にしてほしい。

設営自体はすっごくしやすいし、さすがスノーピーク。テントは良いものを買ったほうが設営も楽だし破損しても保証がしっかりしているし、安心。

 

②焚火BBQセット

私はこれにした。軽くて丈夫でしっかりしてて、安い!(5000円)

お金さえあればさ、そりゃこっちが良かったけどさ…。

32000円て!アホか!こんなんテント価格やんけ!!

 

妻が運ぶかもしれないことを考えると、これは結構重量が重いから、それだけが難点。

でもそれ以外は、おち仁淀川で使ってみて最高に使い心地は良かったのでお勧め。

 

とりあえずこれさえあれば、炭火焼きができる!

そして泊まれる!

あとは何とかなる!!(なってくれ頼む)

ということで行ってきました。

 

今回のキャンプ地の概要

山出(やまいだし)憩いの里温泉キャンプ場

公式HP:https://www.town.ainan.ehime.jp/kanko/sightseeing/shukuhaku/ikoinosato-onsen.html

1泊(1張り):フリーサイト昼800円、夜500円=合計1300円(安い!!)

温泉:あり。入浴料440円 午前10時~午後9時(札止め午後8時30分)

少し閉まるのが早いのが難点だけど、結構きれいであったまります。

私たちは今回利用しませんでしたが、ワンちゃん専用の露天風呂まであります。

 

犬:OK(しかもドッグランあり!)

ドッグランは登録が必要です。受付に行って、申請しましょう。

(ネットで事前申請等はしなくてOK)

こんな会員証がもらえます。作っておくと次回から便利。

Processed with MOLDIV

テントの近くにリードをつけておけば、一緒に泊まったりサイト内で一緒に過ごすことも可能です。ただ、犬OKの場所は限られており、下記の通りなので他のキャンパーさんの迷惑にならないよう、充分に気を付けましょう。

遊べる場所:川(めっちゃ綺麗!!)

夏は最高だと思います。流れは速すぎず遅すぎず。沢蟹がいたりします。水は冷たくて超気持ちいいです。スイカとか冷やしたい水温。

結構乗り物に乗って遊んでいるファミリーもいました。空気を入れるタイプのイカダなどで川下りもしていました。

※子供たちを川で遊ばせる場合は、水難事故には充分に注意し、お子さんから目を離さないようにしましょう。また、飲酒しての川遊びは危険です。絶対にやめてください。

 

気難し屋のちあきがぶっちゃける!良いところ・悪いところ

良いところ

・温泉に入れる!

・川遊びを楽しめる!

・ドッグランがあるし犬と泊まれる!

・夏でも虫が比較的少なめ

・比較的安い(テント代・入浴料合わせて、家族3人+2匹で3,000円くらい)

・近くにホームセンターやスーパーがあるので、買い忘れても安心

 

悪いところ

・予約ができない。

テントを張る場所は早い者勝ち。運しだいなのに山奥なのでそれが次回は不安。結構夜中(深夜1時過ぎ)まで飲み、かたずけを始めるような迷惑キャンパーが隣だったので、ものすごくイライラして死にそうでした。

※キャンパーのマナーとして、夜20時以降は静かにしましょう。焚火を囲んで話すにしてもコソコソ声にしましょう。また、車のエンジンをかけたり、ドアを開け閉めしたりしない。あれ結構音が響いてやかましいです。そして、片付けは陽が落ちてからヘッドライトをつけてごそごそ夜中にやったりしない。明るいうちか、翌朝(早くても7時以降)にやりましょう。

・テント設営できるサイト区画がちょっと狭い。

もう少しゆとりがあれば、他のテントと距離が取れるからもっと快適なのになぁ。まあこればっかりは仕方ないけど。もう5組くればいっぱいだからね、結構手狭。

・薪や木炭などキャンプに必要なものをキャンプ場で買うことができない。キャンプ場にはマジでなんも売ってない。

・花火ができない。

夏は少しつまらない。ルール無視してやってる人もいましたが、あれはダメだよねぇ。やっぱちゃんと現地のルールは守らないといけません。使わせていただいているんだから。

 

まとめ:楽しかったけど、次回はシーズンオフに来たい

娘は楽しそうにしてくれていたし、川は気持ちよかったし、楽しかったです。

やっぱりキャンプで食べる肉は最高に美味かった。なんでただ炭火で焼いただけなのに、普通の肉があんなにうまくなるんだろう。すっごい不思議。

ただ、隣のアホどもが本当にうるさかったマジで。

犬を解き放って餌にしてやろうかお前ら?と思うくらい、うるさかった。

ごそごそと夜中12時くらいに車をバンバン開け閉めして片付けしだすなんてなー…

クソ野郎どもがライトを頭につけてテント近くをガチャガチャ往復するから、そのたびに犬が吠えまくるし、その声でせっかく寝た子供が起きるし、もー地獄でした。

暑くて寝苦しいし、うるさいし、気が狂いそうでした。

夏は慣れてないキャンパー(お前もだろうが…)が迷惑な行動をするので、今度は秋冬にリベンジしたいです。

現場からは以上です。ハイ。

【AC】承認欲求のベクトルを「自分」に合わせよう

私はこうしてブログを書いているわけだが、趣味の領域を出ていない。

素人の戯言で、プロとしてお金をもらって文章を書いている人には遠く及ばない。

父が執筆者として、書道を通じた表現者として、成功している。膨大な量の書を読み、凄まじい回数の研鑽を経て、今の技術を獲得しているところを見ると、まあ単純にトライしている回数も知識もまだまだなのだ。

悔しいがそういうことを自覚する。

そのために文法や表現の本を読んで地道に学んでいるのだが、たまに虚しくなり、こんなことをしていても誰にも顧みられることなく、だれかにいい影響を与えるでもなく、ネットの片隅に埋もれるだけなのかな、と思ったりする。

仕事でもなんでも、他人に力を認めてほしい、正当に評価してほしい、せめて認識してほしい、と思うことがある。

 

世の中で持て囃されることの心許なさ

実力、というのは、厳然たる事実としてあると思う。

長く競争の場に身を置いてきて、やはりそうだと思う。

サービスや創作物で表現したパフォーマンスを、一部の側面で評価して横一列に並べてどうのこうのいうのは、人間の趣味というか、結構みんなやりたがる。

しかし、実力を評価する側がちゃんと見れているか、といえば、それは必ずしもそうではないと思う。

大企業の人事であっても、優秀な人を見抜けない人もいる。
例えば私の先輩はすごく担当している施設でもエリアでも頼られ求められている尊敬すべき人だが、会社ではリストラ対象の槍玉に挙げられて悲しそうにしている。
見る人の成熟度によって、人を評価するというのは見え方が違ってしまって、いくら母体が大きいからといって、信頼できるものではないんだな、と思う。
権威があるから、組織が大きいから、経歴が立派だから。
そうした後ろ盾が必ずしも信頼できるとは限らない。
時代が追いついていないこともある。
詩人で言えばエミリー・ディキンソンだし、音楽家ではシューベルト、画家のアメデオ・モディリアーニなど、死後に評価される芸術家はたくさんいる。
良いものを作っていたとしても、それが世の中で良いとされるまでにはタイムラグがあったりする。
ミシュランもそうである。
ミシュランの二つ星や一つ星のお店にはお目にかかることがあり、たまにお邪魔するのだが、実は客の足元を見るような店だったり、接客はそこまで一流ではなかったりする。
客として行って、本当に良い店とは限らない。
審査員にとってよかったというだけで、それ以上でもそれ以下でもないのである。
つまり、本質的な価値というのは、人それぞれに基準があり、そのどれも正しい。その人の中ではそれが全てだ。
比較的多数の人が選ぶ傾向にあるものを世間的に価値がある、としているだけで、それが本当に普遍的な価値があるとはいえず、普遍的な価値を持つものなど、この世のどこにも無い。

じゃあ何に価値があるの?

結論から言えば、自分にとって本物で、価値があると信じられるものであればよい。
それ以外の大事な基準などないのかもしれない、と思う。
そりゃあ目に触れる人が多いに越したことはないし、金はたくさん入るし、インスタントに動かせる人の人数は増えるだろう。
気分はいいだろうし、何者かになれた気もするだろう。
それを求めること自体は、活力になるのであれば悪いことでは無いと思う。
認められていてもいなくても。
見てくれる人はきちんと出会うし気付く、ということは確かだなと生きてきて思う。
それを曲げて他人をどうこうしよう、ってのはもうイネイブリングだし、そうして一時的に操作できたとしても、いずれ離れていってしまうだろう。自然な状態を捻じ曲げているから。
できる範囲で真摯にやってさえいれば、それが最高のパフォーマンスであり、自分自身が「精一杯やったかどうか」と自分に問うたとき自信を持って頷けるのであれば、もう100点満点だと思う。
その辺りのことについて、『ばらかもん』というアニメ是非見てほしい。
とても丁寧に描かれていて、自分の個性や承認欲求、謝罪にどう向き合うかを、美しい五島列島とそれ以上に美しい人間関係のエピソードが紡ぎ出している。

内向的な承認欲求と外向的な承認欲求

人に認められよう、俺を見ろ、今に見返してやる、という外交的な承認欲求をカンフル剤にするのは、行動を促す激烈な効果がある。
すげー頑張れる。
でもいつか疲れ果てる。
元気の前借りのように私は感じている。
おそらくノルアドレナリンの分泌による一時的なもので、依存物質で言えばカフェインみたいなもんだろう。
何か思いついたりやっているときに、体の中心が光るように暖かくなって、思わず笑みがこぼれるような、そんな瞬間はないだろうか。
自分の興味やワクワクで改良していく気持ち。
こうやってみたらどうなるんだろう?
これをこうしてみたらもっと良くなるかも!
そういう内向的な承認欲求(自己実現の欲求)を持っている状態、すなわち己の興味に忠実に、誠実に、何かに夢中になっているとき。
本来はこれだったはずなのだ。やりたいと思った根源は。
元々の動機はこれだったはずなのに、外向的な承認欲求に引っ張られて走り続けた結果、遠回りをしている。
私はこんなものを目指していたんだっけ?と途方にくれることになる。
なぜ遠回りをしたかと言えば、私自身の欲や驕りがまとわりついて、本来の夢中になっていた内向的な承認欲求のベクトルとは違う方向に舵を切っているからだ。そのことにずっと気づかなかったからだ。
認められるために。
褒められるために。
それは本当に私がしたかったことだろうか。
そんなしょうもない動機を突き抜けた、素晴らしさに私たちはすでに出会っている。
みんな、実はやりたいことをもっている。
すでに何をすれば一番自分の中で満足いくのか知っている。
そして、その輝きを追いかけている人は気づく。
その内面の輝きを追い求めている人は気づく。
つまり、気づく人は気づく。
導かれるように出会うのだ。
コントロールしようとしなくても。
私はもっとそういうことを思い出しながら、「自分がしたいことをする」という最大の娯楽をもっと楽しんで生きていきたい。

【メンタル】私がもう死にたかったときの話

自殺予防週間(9月10日~16日)が今日で終わる。

死にたい・消えたい。

そう思っていたとき、私はどうだったかな、と当時に思いをはせる。

 

私はまだ酒を飲んでいたころ、とにかく酒を飲んでいた。

長く生きている気もなく、かといって今すぐ死ぬ気もなく、ゾンビのように酩酊したまま現世をふらふらとしていた。

酒を飲まなくては、現実は直視するには辛過ぎた。

もうやめにしたい。勘弁してほしい。

そう思うけど、自殺するのも憚(はばか)られるのだ。

 

親に言ったら悲しむから。

先生に言っても解決しないどころかむしろ悪化するから。

大人に言ったって無駄だから。

消えたいなんて言ったら友達に引かれるから。

そんなふうに周りのことを気にしている。

そんな余裕など1mmもないのに。

「生きていても、死んだとしても、迷惑なやつだな」と思っていた。

私の自尊感情は地に落ちていた。ぺらっぺらだった。

 

しかたない、生きているのだから、死ねないのだから、

元気な振りをしなくてはいけない。

幸せな振りをしなくてはいけない。

「私は問題ないよ!」って言う笑顔をしておかないと厄介ごとに巻き込まれる。

だけど裏では泣き叫んでいる。

 

そういうときに、

「いいことあるから」「人生まだまだだから」

とか言われたとしても、聞く耳を持てない。

「私じゃないお前に、いったい何がわかる?」

と思う。私ならそう思う。そう思っていた。

 

「どうせ俺の気持ちなど誰にも分からない」

酒を飲んでいるだらしない人間、一人前でない人間だと思われるだけだと、固く閉じる。

 

そういう黒い重いモヤモヤを誰にも話せないのは辛い。

それこそ、いっそ消えたい、もう終わりにしたい、と思うくらい、辛い。

そりゃ死にたくもなるよ、と思う。

だから、「もう終わりにしたい」というひとがいたとして、どっちを選んだとしても、私は何も言うまい、と思う。終わりにしたい気持ちもわかるから。

 

だからTwitterにはそういう叫びがあふれるんじゃないだろうか。

Twitterでなら、誰かわからない状態でなら、言えるから、みんな「死にたい」「消えたい」という思いがあふれて、つい呟くのではないだろうかと思う。

誰にも言えない苦しい気持ちを、もうどこかに吐き出さないと生きていられないから。

 

そういう意味で私たちは「死にたい」という言葉を口にするのだと思う。

 

私の感覚では、死にたいよりも、消えたい、だった。

死ぬのはコストがかかるし、迷惑がかかる。

自殺する方法を調べていて、電車に飛び込んだとき電車を止めると何百万もお金がかかると知って落胆した。

これ以上迷惑をかけたくなくて死ぬのに、なんでこれまでで一番迷惑がかかるんだよ…。

いや、一時的なもののほうがまだいいのか?生きてるだけで社会的には負債みたいなもんなんだし…などと考えながらネットサーフィンしていたものである。

 

何より、楽に死ねる方法があまりない。

銃が手に入れば一発だけど、免許を取らないと猟銃を所持できないし、猟銃を使って死んでは猟師の人たちに後々迷惑がかかるかもしれない。

練炭自殺はどうだろう。一酸化炭素中毒か…室内で気絶できるなら楽そうだけど、事故物件扱いになって大家さんが困るし、車は当時持ってなかったから、レンタカーだとレンタカー屋に迷惑かかるしなぁ。

首を吊るしかないか、しかし、頚椎がしっかり折れなかったら、地獄の苦しみを味わう。それにどちらにしても糞尿たれて死んでるところを、山の保有者と警察が処理しないといけない。それもとんでもない迷惑だ。申し訳ない。

生きていても、死んでも、申し訳ない。

そういう闇を這いずりながら、「消えたいなぁ」と思っていたのが、今までの人生の大半だった。

酒を飲んでいるときだけ、その闇から這い出て、別の自分になれた気がした。

暗くつらい何の面白みもない人生を一瞬忘れることができた。

その一瞬でよかった。その一瞬がほしかった。

休んではいけないほど罪深い人間だと思っていても、とにかく休みたかった。

私は毎日ブラックアウトするまで飲んで気絶していたのだが、毎回もうこのまま目覚めなかったらいいなと思いながら酒を飲んでいた。

つまり、毎日自殺未遂をしていたようなものだった。

 

しかしアルコールではそうそう簡単には死ねなかった。

そして飲めば飲むほど事態は悪化していって、苦しさは指数関数的に大きくなる一方だった。

そして私は自分のなかで社会的な死に直面して、本当に首を吊ろうと思う出来事があった。

お酒の問題が理由で会社を懲戒解雇されそうになったのだ。

「君はもういらない」「頼むからやめてくれ」

罵詈雑言を浴びせられ、いよいよ終わりだと思った。

もうこのままダラダラと死んだふりのような人生を続けていても仕方がない。死のう。

 

そう思って「死にたい」ではなく「今までありがとう」を感謝している人に告げていった。

これで終わりにしよう。ちゃんと挨拶してから実行しよう。

そうして自分の真実を話し、感謝を告げることによって、私はちゃんとした自分で人と話せた。

そしたら、ちゃんと理解してくれる人がいることに、その時気づいた。

 

妻(当時は彼女)が、

「仕事なんてそんなの、どうにでもなるよ!あんた一生懸命頑張ってんの、私見てたから。大丈夫だから。アンタなら大丈夫。」

そう言われた。

 

そう言われて、救われた。

「そんな風に信じてくれるひとがいるんなら、もう一回、死んだと思って頑張ってみるか」

そう思った。

 

そのときに、「本当にもうダメだ、終わった、死のう」そう思っていると思っていたけど、私は実は心の底では「まだあきらめたくない、生きていたい」と思っていたことに気づいた。

諦めたくない、生きていたいという本心に従って生きるなら、酒をやめて向き合うしかない。この見たくもないゴミ屋敷のような己の心から目を逸らさずに、ひとつひとつやるしかない。

もう、やるしかない。

私は死ねなかったのだから。気づいてしまったのだから。生きたいって、思ってるんだったら、覚悟を決めるしかない。

結局、死ぬにしても、生きるにしても、私はどっちかを選ぶしかない。

それはどちらも楽な道ではない。

どっかの誰かが引っ張ってくれるようなものでもない。

自分で乗り越えるしかないのだ。全部自分で決めるしかない。選ぶしかない。

そんなら、どうしたいんだ俺は?

どっちにいきたいんだ?

それを真剣に考えた結果、今はまだ生きている。

明日はどうなるかわからない。

酒をまた飲み始めて、中島らもさんのように階段でこけてあっけなくぽっくり逝くかもしれない。

これからも、死にたいと思うことは、結構あるのではないかと思う。

ありふれているから軽いというわけじゃない。

そういう相対的なことが言いたいんじゃない。

各々の人生のなかでどん底に落ち「もういっそふっと消えてなくなりたい」と願うことは、みんなにとって、すぐ隣にあるような身近な感覚なんじゃないか?ということを、私は言いたい。

死はタブーではない。親愛なる隣人である。

私の人生は、少なくともそうだったように思う。

 

私の上っ面や社会的地位や想像のなかの私しか見ていない人もいれば、私の本当を見てくれた人がいたように、あなたにも、あなたにわからずともちゃんと見てくれているひとが、きっと、いる。

こんな私にいたんだから、あなたにも、必ず居る。

もしまだ見渡してもいないとしたら、それは、これから出会うからだ。

恋人でなくても、かけがえのない仲間だとあなたを大事に思っている人が、きっといる。

きっと出会う。

 

それに、そんなひとがいなかったとしても、確実にずっとあなたをみてきた人がいる。

それは「あなた自身」である。

 

あなたの価値は、あなたが生きている限りなくならない。

それは、あなたがとんでもない奇跡の過程でこの世に生を受けて「生きて実態を持っている」というだけで、実は人間というのは、世界に対してとてつもない影響力を持っているからだ。

 

貴方が生まれてから今日まで。

今まで感じてきたことは、何の価値もなかったのか。

今実現できない諸々以外の持っているものは、どうでもいいくだらないものなのか。

この世にいる人間の誰も、あなたは好きじゃなかったのか。

あなたの人生には、本当に嫌なことしかなかったのか。

あなたの人生は、今まで生きた分で、たったそれだけだったのか。

 

それは、まだ解が出ていない問題である。

なぜなら、続ける限り、まだ未知数で誰にも予想できないからである。

そして、最も重要なことは、今まであなたが一生懸命最善を尽くしてきたことは、まぎれもない事実だということである。

それは、それだけでとてつもなく価値あることではないだろうか。

私には、これ以上ないほど価値がある誇らしいことだと思う。

しかもこんな苦しい人生を今までやめずに生き延びてきたのだ。

それ自体が、とてもすごいことだと思う。

 

あなたは、そういう意味で、誇れるものをもうすでに一つ持っているということだ。

私は、そんなあなたのこれからをもっと見てみたい。

私は、私のこれからをもっと見てみたい。

だから、一緒に明日も朝日が拝めたら、それは幸せなことだな、と思う。

【AC】恨みこそ生きる原動力だった私が、恨みを手放したい理由

恨みこそ、私が生きる原動力だと思って生きてきた。

私に、死なずにもう少し生きようと思わせてくれたのが、恨みだった。

「馬鹿にされたまま、コケにされたまま、このままじゃ終われねぇ」

「絶対に何十年かかっても復讐してやる」

「味わった苦しみを何十倍にもして絶対に返してやる」

そう思えば、ふつふつと腹の奥底から、赤く黒いマグマのようにエネルギーがどろりと湧いてきた。もう枯渇し機能を失ったかと思われた手足を再び動かしてくれた。

私が当時生きるために、恨みや憎しみはなくてはならないものだった。

 

嗜癖としての「恨み」。

身体も精神も、臥薪嘗胆を信念に鍛え上げていった。

恨みや憎しみを、何度も何度も思い返しては、奥歯を噛み締めて眠った。

まるで味のなくなったガムを何度も口に入れて咀嚼するように、しつこくしつこく思い出し、私はいつしか、恨みを嗜癖に使うようになっていた。

恨みを抱いていれば生きていくことができる。

この絶望的につまらない世界を生きるために必要なエネルギーがもらえる。

自分の他の向き合うべき問題を見なくても済む。

自分が正しくて相手が悪いという構図に、安心することができるから。

そうやって、安易な手段に頼っている状態を、嗜癖に使っているという。

「怒り」「憎しみ」といった負の感情に耽溺することによって、他のことを見ないようにしてきた。私はそうして生きてきた。そうでなくては生きられなかった。とくに小さい頃はそうだった。

その人生を通じた生存戦略の成功は、強烈に、痛烈に、私に刻み込まれている。

成功体験を繰り返すべく、私は今も、「恨み」を最も使いやすいエネルギー源にしていたのだと思う。

 

しかし残念なことに、嗜癖としての恨みは、人生をいい方向には向かわせてくれない。

なぜなら、人生は理不尽の連続だからだ。

人生は常に不平等で、恨もうとすればキリがないほどだ。

自分に落ち度がなくても損をするし、傷つくし、納得がいかないことがたくさん起こる。

そのひとつひとつに恨みを抱き、憎しみに身を焦がしていては、とても身が持たない。

理不尽さに巻き込まれて、恨みや憎しみに浸ってばかりいると、自分で自分の人生を台無しにしてしまう。

出来事についてはたしかに、犯人・加害者の選択で起こされたものだが、その後どう考えどうとらえ、どう行動するかは、自分自身が決めることができる。

相手のせいでこうなった、と考えるのは、自分の大切な人生の決定権を、人任せにしていることに他ならない。

もし今、人生が台無しになり続けているとしたら、他ならぬ自分自身が、自ら「人生を台無しにし続けること」を「選択している」のである。

 

そうはいったって、許せるものか。

あんなにひどい目に遭わされたのだ、あんなに私を傷つけたのだ。

誰が許してなどやるものか。絶対に報いを受けさせたい。許せない。殺してやる。

 

そう思うのも無理はない。私だって、もし妻や子供を殺した犯人がいたら、迷いなく殺すだろうし、それで何年ぶち込まれようと知ったコトか、と思う。

 

しかし、ふと客観的に考えてみると、少し違った見方もできる。

私がもし憎しみに狂い復讐心に駆られて犯人を殺したとしよう。

そうすると、そのあと何十年かは刑務所に服役することになる。犯人が複数だった場合は無期懲役か、最悪死刑である。

そのことで、生き延びていたとしても、とても長い時間を刑務所で過ごすことになる。刑期を終えても不当に就職しにくくなったり、謂れのない罵声を浴びせられたりするかもしれない。

そうなったとき、私はおそらくほぼ100%、毎日殺した犯人のことを繰り返し思い出すことになる。

私が、恨みや憎しみにより行動を選択したことにより、私は犯人という存在に一生縛られたまま生きていくことになる。

何の罪もない子供や女性を殺すような「とるに足らない存在」のその人を、いつも何度も思い出すことになるのである。

それは、本当に私が選択したい生き方なのだろうか?

 

私にとって大切なのは妻と子供であり、犯人ではない。

犯人が息をしているのが許せない、この世に存在しているのが許せない、だから一刻も早く亡き者にしなくては、というのはとても共感できる。そのためなら、何もかも無くなって構わないともまで思うかもしれない。

しかし、刑事事件の罪を裁くことは、私が人生を賭してやらなくとも警察と検察が仕事でやってくれることだ。司法国家なのだから、犯人の処分は専門家に任せて私は大切なものだけを思い出し慈しみ、自分をくだらないものに縛らせずに今を生きていくことも、選べる。

失ったひとやものは、もう二度と返ってこない。

それは残念ながら、人の身では何をどうやっても変わらない。

犯人を責めても、もう犯人にも償いようがない。

その人が更生するかどうかも、コントロールすることもできない。

数奇な運命でつらい形で交わりはしたものの、おそらくもう人生に登場しない、自分にとって最も大切でない人を、その後のまだまだ輝く可能性がある、そうであれと願ってくれた人たちがいた、「大切な私の人生」に関わらせてよいものだろうか。

そう考えると、やはり私刑というか、報復というのは、恨みへの囚われであり、結果的には虚しい人生を送るきっかけになってしまうんじゃないかなと思う。

 

いじめられた「恨み」を振り返る。

同じように、私を小さい頃にいじめてきた人間。

彼らの名前を私は今もフルネームで覚えていて、顔を見ればすぐにわかるし、出会ったのなら必ず合法的な形でネチネチと復讐をするつもりでいた。

しかし、恨みや憎しみについて12ステップ・プログラムを基に学んでいくにつれて、私は「彼ら」からのコントロールから逃れられていないのではないか、と思うようになった。

この期に及んでまだ、30年も前の事象に影響されているという事実。

それは「彼ら」の行動の結果を大事に大事に引き継いでいるようなものだ。

おそらくその辺で鼻くそでもほじって生きているであろう、もはやどうでもいいその他大勢に成り下がった彼らの意志を後生大事に引き継いで、私は生きていきたいだろうか?

否だ。

生きていても死んでいてもどうでもいい人たちに、何が哀しくてコントロールされなくてはならんのだ。そんなのは嫌だ。

 

彼らは私をいじめたことなど覚えていないだろう。

覚えていても、「ああ、いたな」くらいだろう。

もし謝る気があったとしても「じゃあ腕一本置いていけ」というような私の憎しみには到底向き合えるはずもなく、代償の大きさに尻尾を巻いて逃げていくだろう。

つまり、彼らは変わらない。変えられないのだ、私には。

 

彼らの罪は、彼らが考えればいい。

子どもができたとき。大切な子供が、知人がいじめられたとき。

そういうときに、思い出せばいい。

どれだけ自分がひどいことをしたのか。どれだけ他人を傷つけたのか。

それを知らしめる役目は、彼ら自身にある。

それすらわからない人種なら、尚更今後関わることもない人種なのである。

 

恨みを手放す、ということは容易ではない。

私はそれをこそ活力にしてきて、希望や夢や友情などは、正直反吐が出ると思っている。

基本陰湿でアウトローな我が精神は、そう簡単にはホーリーにはならない。

でも「恨み」を『もっていてもしかたないもの』だとは、思うようになった。

私たちの身の上に過去に何が起こったとしても、そのことに今の自分をコントロールさせるべきではないのである。

 

ありがとう、そしてさようなら、「恨み」。

私はおかげで楽しい思い出がほとんどないまま成長してきた。

生きるために、つらーい、くるしーい、さびしーい、にくーい、そんなことばかりを思い浮かべて生きてきたから、楽しい・ワクワクする、という感情はほとんど覚えがない。

もっと美しいものやワクワクすることが、目の前には広がっていたはずなのに。

私はそういうものに見向きもせず、醜くてドロドロした黒いものばかりを目に焼き付けて二度と来ない時間を過ごしてしまった。

実にもったいない。

本当にもったいない。

そのときにしか感じることができない喜びや驚きを、素通りして、私は何をしていただろうか。

私は、これからは、もっとそういう美しいものをいっぱい見て生きていきたい。

せっかく産まれたのだ。与えられた時間を楽しまなくては損だ。

そのためには、恨みや憎しみは、荷物になるだけだ。

もう役割を終えて、私を充分生かしてくれた。

今まで本当にありがとう、恨みや憎しみ。

君たちから卒業して、私は自分が見たいものを見ることに集中して、人生を過ごしていきたいと思う。

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ1

1、私は、◯◯することへのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。

これは、〈認知のステップ〉で、一種の「敗北宣言」です。とにかく自分は「困っている」。いろいろやってはみたがどうにもならず、もうお手上げ状態である…と認めることから、このステップは始まります。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P208より引用

 

 

 

人に認められること=承認欲求

「私は、人に認められること=承認欲求へのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。」

私は、人に絶対に負けたくないし、認められたい、評価されたいと強く思う傾向がある。

そのため、攻撃的な態度をとったり、人との関係に軋轢を生んで孤立したりする。

今までそうした自分の問題で、人を遠ざけてきたように思う。

私の問題だった。人が冷たいわけでも、私を阻害しているわけでもなく、私が人を遠ざけたのだと思う。

そして、私はそのことで苦労してきた。寂しさを感じてきた。恨みや憎しみを己の中に育ててきた。

生き方が、歪んでいると思う。

 

たしかに私はASDとして当初社会から受け入れてもらえなかったことは事実だと思う。

虐められ孤立させられたことで人への不信感が膨張していったことは、確かに外的要因だ。これは当時「変えられないもの」だったと思う。

だからこそ今、この腐りきった社会に少しでもいい影響を与えていきたいというモチベーションになっているというのもある。

しかしながら、今フラットに存在を否定されることなく対話できる人々に囲まれて、はたしてそのまま恨みや憎しみを引きずる必要があるだろうか。

今、このライフスキルは必要ではない。

昔のように疑心暗鬼になって、意味もなく言葉の裏を読んだり、悪意を勘ぐったりしなくてよいのに、私が、そうして生き方のスタイルを変えていないから、私の周囲の見え方も変わらない。

私の問題だというのは、そういうことだ。

 

なぜ認められたいのか?

認められたい、負けたくない。

その根本はなんなのか?

おそらく由来は、機能不全家庭での経験にある。

私は結果を出さないと認めてもらえない、愛してもらえないという不安とともに幼少期を過ごしたように思う。

スポーツで、学業で、周囲の子よりも優れていることが、親を喜ばせ悲しませないための唯一の方法のように感じていた。

親を悲しませないために、私は行動を選び、考え方を選び、人生を選んでしまった。

その生き方はまるで操り人形のようで、生きている実感がまるでなかった。誰かの他の人生を生きているようで、成功しても嬉しくなかった。ただただ失敗だけが恐ろしかった。

その苦しさは今も私の中に大きな爪痕を残している。

比較されることは、生きるか死ぬかのゼロサムゲームのように感じる。

だから、例えば対戦ゲームなどは全然楽しめない。

負けることは許されない。負けている状況はあってはならない。だから、簡単に対戦相手に勝てないなら、対戦相手をゲームに参加できなくしよう、排除しなければという焦燥感にかられる。たとえばPCを攻撃してサインインできなくしたり、直接暴力を加えて別の形で報復したりしようと考える。

抱えきれない怒りでコントローラーは壊すし、感情を全く制御できなくなる。

そのことを、私はとても恐れている。

承認欲求を見て見ぬ振りをしてみようとしたこともある。

私はそんなものは欲しいと思っていない、と一生懸命自己洗脳しようと試みたり、大した価値がないという証拠を集めようとしたり、さまざまなそうした抵抗は、大きすぎる感情の揺らぎの中に飲み込まれて、ことごとく失敗してきた。

見ないようにしようとすればするほど、それは大きく重くなって背後から追いかけてくるのだった。

「いろいろやってはみたがどうにもならず、もうお手上げ状態である」とあるが、まさにその通りである。

結局私は、人に褒められたいし、認められたいし、人より優れていたいのだ。

それはまぎれもない本当の気持ちで、それに蓋をせずに認め、その欲求に振り回されて問題が起きていて、それを自分ではどうすることもできなかったことを認めるべきだ。

それこそがスタートなのだと思う。

勝っていること。

認めてもらっていること。

そういう他者評価でしか、自分の存在価値を自認できていない。

なぜか?

自分で自分を認められていないから。自己肯定感が低いから。「自分が認める自分」を信じていないからだ。

自分の価値観やこれでよいという人生の指針を本当に信じることができれば、それをこそ人生の柱に据えて、堂々と生きていくことができるのである。

そのためには、自己効力感を持ってさまざまなチャレンジをして、成功も失敗も味わう経験を積み重ねることで、自分は乗り越えていくことができるという真実を体得していく必要がある。

それを幼少期に過干渉な両親から取り上げられて、健全な自我を育めなかったことが、この自信のなさの根源である。

しかし、今、親から離れて自立して生きている。それだけで私は私を褒めてあげてもいいのに、それを褒められずに自分にも他人にも厳しくあたり、完璧を求めて責め立てている。それは不健康なやり方を必要がないのにまだ続けているということだ。

過去は変えられない。未来はわからない。

しかし、今なら影響を及ぼすことができる。今の生き方なら自分で選ぶことができる。

 

 

まとめ;「もう自分には手に負えない」と認める

アルコール依存症でもそうだったが、「私は酒に対して無力であり、自分にはどうにもできないこと」を認めることから、問題に取り組む前提が整う。

無力であると認めることは、コントロールできないと認めることであり、認めがたいものである。

なぜなら、風に舞う枯れ葉のように、とても弱い立場にたつことを許すことになるように感じるからだろう。

でも、私は承認欲求に悩まされ、それに全く太刀打ちできなかったことを認めざるを得ない。

本気でこのコントロールを手放すには、まずこの立ち位置に立たなくてはならない。

続けてステップを踏んで己から逃げずに見つめ直していきたい。

 

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ:Prologue

他人をコントロールし、自分をコントロールし、自分の運命をコントロールしようと努力しつづけた人間は、必ずその限界にぶちあたります。

(中略)

嗜癖者は、「意志の力」を信じています。自分の困った事態を、自分の力でなんとか治せると思っています。けれども、意志の力を信仰すればするほど、自分でコントロールできない部分が多くなっていき、自分の中から自分への反乱が始まります。川の流れを、あちこちせきとめて、思い通りにコントロールしようとしても、ひと雨降ったら氾濫してしまうようなものです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P201〜203より引用

 

 

パワーゲームを生きてきた私たち

パワーゲームとは、支配する・支配されるというコントロールの関係性のことだ。

私たちは無意識のうちに、親子関係に始まり人間関係のパワーゲームに否応なく巻き込まれてきた。

人間関係のパワーゲームは、お互いのコントロール合戦である。

他人の思い通りにしなかれば生きていけないと感じ、他人のいうまま・されるままになるとき、人間は自分の無力さを感じ、自尊心を失います。

そうはなりたくないので、逆に相手を支配し、自分の思うままにコントロールしようとします。誰かをコントロールできている間は、自分の無力を感じずにすむからです。親の思うままにコントロールされていた無力な自分を忘れることができ、自分が他人をコントロールできるほどに力をつけたと感じることができるからです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P125より引用

 

つまり、自分の無力さをみたくない、そんな怖いことは認めたくないので、他人や自分をコントロールしたいのだ。

どうせなら、コントロールされるよりコントロールする側に回ろうとする。

この上下関係のコントロール合戦に参戦している限り、どちら側に属していても苦しいままだ。

なぜなら、冒頭にあるように、他人はおろか自分すらコントロールできないのが、この世の理だからだ。

意志の力=理性を崇拝する『理性教』の信者として懸命にコントロールできるようにあれやこれやと試行錯誤をしてきただろう。私たちはその試行錯誤について飽き飽きするほど繰り返しやってきたはずだ。

それを突き詰めれば突き詰めるほど、極めようとした人ほど悟る。そんなことは土台無理な話だったのだ、という真実に気づける。そして気づいて、愕然とする。

 

子供の世界に不法侵入する親

私を育てた両親や、周囲にいた大人たちは、その真実にたどり着けずにいた人たちだった。

自分や他人をコントロールできる、という信仰にすがり、ついぞその邪教を捨てられなかった悲しい人たちだったとも言える。

子供は親に見捨てられては生きていけないので、簡単に支配できる。

そして、「あなたのため」という都合のいい言葉で自分の世間体を守りながら子供の人生をコントロールすることができる。

親には、それができる。そして、それは親が最もしてはならないことだ。

子供の人生は、親の生き直しのためにあるのではない。

その子の人生は、その子が思い描いた人生を描き出すためにある、その子専用のキャンバスだ。

それなのに、親は、あれやこれやと転ばぬ先の杖を無理やり持たせる。「今の時代英語はしておかないと後悔するから」「ある程度の学歴がないと将来苦労するから」「間違った道にいかないようにしっかり躾けないと」などと、自分の価値観を押し付けて、勝手に他人のキャンバスに色を塗り始めてしまう。

そういう横からの妨害を受けて、子供は人生観を歪ませていく。

「こうでなければならない」「お母さんのいうとおりにしなくてはならない」で何も自分では描き出すことができずに、親が勝手にペインティングしていく様子を眺めるほかない。

なぜか?

そうでないと愛してもらえないと思うからだ。

本当はいやだけれど、そうすることが愛だと信じたい。私のためにやってくれているはずだ、なぜなら私は両親に愛されているはずなのだから、と必死に思おうとする。

親は「ほら、あなたのためにやってあげたのよ」「こんなに綺麗な絵になって幸せでしょ」という。

子供は、それが愛情だと信じたいから、感謝しなくてはならないと思い、引きつった作り笑いで必死に「ありがとう、お母さん」という。

そんなのが、昨今の母と子の麗しき地獄絵図であり、いわゆる「幸せな一般家庭」で行われている精神的虐待である。

 

眼を醒すべき親のひとりとして

親が、寂しいからだ。

自分が必要とされたい。自分を絶対的に必要とする存在が欲しかったから、子供をコントロールして自分が安心するために都合よく利用したのだ。

「あなたのためだから」という建前を盾にして、子供の人生を勝手に無茶苦茶にした。

それは、親が、親自身の人生を責任を持って生きていないからだ。

 

 

いい加減、私たちは降りなくてはならない。このパワーゲームという無限螺旋を。

この不毛なマウント合戦をやっている限り、負の世代連鎖は止まらないのだから。

 

ここまでの話を読んで、以下のような感想を持った人はいないだろうか。

「でもそれが親の役目でしょ?」「それが親の愛情というものだ」「子供は判断がつかないんだから親が導いてあげるのが当然でしょ」

 

これこそが、まさしく『否認』している人の反応である。

何を否認しているかというと、自分がしていることが「自分のためである」という本人にとっては認めがたい、耳が痛い真実を、否認している。

あなたがしたいからしている。

それは、子供のためではない。あなたのためだ。あなたの寂しさを埋めるためだ。あなたの人生の寂しさを埋めるために、子供を利用しているのと同じなのだ。

親が親として最もするべきことは、2つだ。

「子供にとって掛け値無しに存在を肯定してくれる安全基地であること」と「自分自身をハッピーにすること」つまり、自分自身のセルフケアを行い、人生を謳歌していることだ。

人生の先輩として、この世で生きていくことは素晴らしい楽しいことなんだと、背中で語ることは、最も手本となる大人の姿だ。

「私はあなたが残す結果がどんな結果だろうと、どんなに失敗しようと、あなたがあなたである限り愛しているわ」

こういってくれる安全基地があるからこそ、人は冒険ができる。親元を巣立って外の世界に飛び込むことができる。子供がいつまでも家や家族から離れられず巣立っていかないのは、その子にとって家庭が安全基地ではないからだ。

 

「私はあなたを尊敬しているしいつも愛している。でも、私は私の人生を楽しむことで、手一杯なの。あなたはあなたが生きたい人生を自分で選んで楽しんで頂戴」

そういう、親が精一杯誠実に人生を生きている姿を見て、子供は自分の人生を選び取っていく。

なりたい自分を、親に褒められるかどうか、社会的に褒められるかどうか、などというものと関係なく決めて責任を持つことができる。

 

そうなるために、私は私のために、これから『パワーゲームを降りるための10のステップ』を進めていきたいと思う。

興味がある人は、私と一緒にやってみてほしいと思う。

【AC】STEP11:信じるベクトルを変える

以前、「私は無神論者だ」という旨の記事を書いた。(【依存症】神を信じない人のための「ハイヤー・パワー」

しかし正確には、私は『不可知論者』だそうだ。

7月20日に開催されたプログラム・フォー・ユー勉強会も、大変勉強になった。

「神様に対する考え方」の持ち主は、全部で3種類に分類されるという。

1、無神論者…神は存在しないということを信じている人。

2、不可知論者…神はいるとも、いないとも言えない、自分にはどちらも証明することは出来ないという人。

3、信仰者…神は存在していると信じる人。

この分類でいくと、私は2だなと思う。

いるともいないとも言えない、神様が実在しないということは私自身確証をもって論理的に否定できないし、いるというにはあまりにも世の中がまともではないので、皆が言うような神様仏様は信じ難い、という感じだ。

今後は不可知論者として自己表明していこうと思う。

 

理性という神

さて、勉強会のなかで大変興味深かったことが、不可知論者としての私が信じてきた信仰に気づかされた以下の言葉だ。

「私たちは、理性を神に見立てて忠実に信仰してきたのではないだろうか」

この発想は目からうろこだった。

たしかに。たしかにそうだ。

私は自分の「理性」が万能のように思っていなかったか。

理性こそが自分を律し正しい道に導くと信じてきた。あらゆる人から成熟した人間としてそうすべきだと教えられてきた。

しかし、実際はどうだ。

将来設計も、己の日常生活も、酒を飲むということすらも、理性ではどうにもならなかった。理性ですべてをコントロールできる、という夢物語のような信仰はことごとく裏切られてきた。

理性、いわゆる大脳新皮質、特に前頭前野を、まるで「神」のごとく信奉して生きてきたように思う。

つまり、現代人は、不可知論者を自称しながら、その実「理性」という神を崇め奉る信仰者である。『理性教』の信者だ

 

「信じる」という力のベクトル

そう考えると、私たちは「信じる」という力のベクトルに導かれて、今までの人生を歩んできたのではないだろうか。

今まで信じるものは「理性」という神だった。

なんとなく「神様」に拒否反応を示すのは、なんだかよくわからない、いるんだかいないんだかわからない「自分の外側にある得体のしれない神」を信じ込まされるのではないか?という警戒心からくるという。

めっちゃわかる。

信じるのはあなたの勝手だけれど、私に信じることを強要しないでくれ、というのが、まさに私が感じる抵抗感である。

だから、仏教もキリスト教もイスラム教も神道も、なんだか胡散臭いと今も思っている。

だから、12ステップ・プログラムの本に「神」という単語が出てくると、眉をひそめる。

それは、私の警戒心だということか。

 

そのような、外側にいるよくわからん神を信じなくてもいい。

私たちがSTEP11でするべきことは、「信じる」ベクトルを変えることだ。

今まで他人も自分も何も信じてこなかったと豪語してきた私ですら、「理性」という神を信じることに導かれて生きてきた。その事実から、人は信じることをやめられないということがわかった。

やめられない。何かを常に信じている。信じることが、生きることとセットだともいえる。

そう考えると、切っても切り離せないなら、今まで信じてきた神様である「理性」を信じるのではなくて、別のベクトルに「信じる」をシフトする必要がある。

「理性教」の信者としての私はどんな信仰だったかと言えば、

「こんなに欠けていて至らない私が幸福になれるはずがない」

「努力が足りない自分が成功するはずがない」

「自分が間違いを犯すのは理性を働かせていないからだ」

「正しくあらねばならない、強くなければならない、自分で責任を取れる行動をしなくてはならない。だって理性がある大人なのだから」

こんなクソ堅苦しくてしんどい信仰だった。

そして世界はその通りになった。理性で本当の自分を押さえつけようとすればするほど、ストレスはたまり、動きは固くなり、成果が出ず、喜びも幸せも遠ざかり、人々はもっと遠ざかっていった。

そして私の友は長らく酒だけだった。

つまり、もう大失敗なのだ。「理性教」は悪徳宗教だったということが、今までの人生でもうばっちり証明されている。

 

「理性教」よりも確かな「信じる心」

では、何を信じようか?ということになる。

「理性教」はダメだった。他のキリストだの仏陀だのも胡散臭い。

それならば、「内なる神」はどうだろうか?

「内なる神?」そんなもんがいるのか。

よく振り返ってみよう。

「理性教」を信じていたときでさえ、私の内には、私にはコントロールできないほどの大きな力の流れがあったのではないか。

それは、「『理性教』を信じる私の世界観を世界に投影する」ほどの強大な影響力を持ち、私が思い描いているその通りに地獄を実現させてきたではないか。

ダメだと思う自分をどんどんダメにして、今こうして問題に向き合えるチャンスを与えてくれて、出会うべき仲間に声をかける勇気をくれた、いつもそばにあった得体のしれない大きな力。

それが、12ステップ・プログラムがしきりに言う『ハイヤー・パワー』という物の正体なのではないかと思う。

つまり、なんかめっちゃすごいホーリーな何かがこの世にいて天地創造したりしてこの世のすべてをコントロールしてます☆的な胡散臭いパワーではなくって、私が今まで生きてきて、いつも傍らにい続けてくれる力。私たちそれぞれの応援団、小さな内なる味方。正しい道ではなく、いつでも「私が望むように」道を拓き助けてくれようとする力。そんな力が、「ハイヤー・パワー」だと考えてみると、私はとてもしっくりくる。

 

若かりし頃、伊達公子選手を育てたテニスのプロコーチ、田中 信弥プロが合宿に来てくれたとき、こんなことを話してくれた。

「毎晩、君がなりたいプレーヤーの姿を思い描いて、そのようになれると信じて寝るといい。ウインブルドン(イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの4大国際大会の一つ)の決勝で世界ランクNo.1の選手とフルセットで戦って勝つシーンを、鮮明に思い描いてみてほしい。そうすれば、君は本当にそうなろうと勝手に行動するようになる。そして、気が付いたら思った通りになっているんだよ。」

当時高校生でこの話を聞いた当時、私は「このおっさん、とんでもねー嘘つきだな」と思った。

「願うだけで何でも叶うなら、みんなウインブルドン優勝しちゃうじゃん、そんなわけねーじゃん」と思った。

でも、今思えばそういうことを言いたいんじゃないんだな、と理解できる。

「なりたい姿を思い描く」ということは本当に強力な引力をもつ。まさに、「信じる」力の強いベクトルが働くのである。

こうなりたいな、と思って街を歩いていると、理想像に近い人を無意識に目で追っている。何をしているかをよく見る。いつどんな風にどんなことをすれば、この人みたいになれるのか、勝手にアンテナが高くなる。

情報を無意識に脳に集積していった結果、ある日突然「あ、こうしてみればいいのかな」と思いついて、それを即座に実行しだす。

なりたい姿を思い描いたことが、実際に行動を変容させ、自分自身の世界を変えていく。

これは、いつも、いつでも、誰のもとにもある、強力なその人だけの専属サポーターのように、悪い想像も良い想像もその人の願望としてとらえて実現させるために私たちを引っ張ってくれる。

 

『魔法騎士レイアース』をご存じだろうか。

私は大好きである。CLAMPはある意味神だと思う。

主人公たちが飛ばされて冒険する異世界の「セフィーロ」は、意志の力の強さが全てを決める世界で、信じる心が物語を左右する重要なカギになっていく。

「セフィーロ」のように、私たちが生きている世界も信じる心がとてつもなく重要で、自分を、他人を、そして幸せを信じることが、この世においても重要なカギなのではないだろうか、と感じる。

 

 

 

頼れる協力者『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシング

つまり何が言いたいかというと、もう全部任しちゃえばいい、ということだ。

私たちはSTEPを行っていくうちに、コントロールを手放した。自分のことすらも、コントロールできない無力な存在が私たちだ。

だから、未来がなりたいようになるかどうかは、もうこの頼りがいのある専属サポーターの『ハイヤー・パワー』に任せて、私たちは他のことに没頭すればいい。

他のことって?

それは、今ココである。

瞑想や祈りを行なうのは、こうした「願いの実現」を『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシングして、過去を憂うのでもなく、未来に浮足立つのでもなく、今ココのみに集中して一生懸命生きることに100%己の力を注ぐためだ。

なぜなら、私たちが「変えられるもの」は今ココの己の行動だけだからだ。

そのほかは、アウトソーシングした『ハイヤー・パワー』君が全部やってくれると信じる。信じて任せる。信じて手放す。

そうすると、そうするからこそ、未来は願った通りにすべて用意されていて、願った通りの世界にたどり着くようになっている。

なぜなら、今までそうだったから。これからもそうである可能性が高い。

そうでなかったとしても、私にはもうコントロールできないことだから、『ハイヤー・パワー』君を信じて任せる以外にできることは無い。そもそも分不相応なことだったのだ、過去や未来や結果をコントロールすることなど。

 

「われわれの意志といのちの方向を変え、自分で理解している神の配慮に委ねる決心をする」

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 138Pより引用

 

正しくあらねばならないと律し罰するようなのは、私たちがこれから信じる神ではない。

それは、今まで信じてきた「理性」という神そのもの。

かつての信仰を捨て、私は、今までいつもそばにいてくれた協力者である『ハイヤー・パワー』君と人生をよりよく生きるということについてアライアンス契約を結んで、お互いを信頼し合いながら共に歩んでいきたいなと思っている。