【仕事】仕事で他人にマウントを取るの、もうやめました。

今日、私が今まで担当していた仕事を引き継いだ同僚Aさんから電話があったんですよね。

 

Aさん「B(私が担当していた取引先)って、訪問してました?」

私「あー、手紙を出したり訪問したりはしていましたが、ついぞ会えませんでしたね。」

Aさん「あー(笑)私、運がよかったのか、アポイントもらえたんですよ」

私「おおおおー!!マジですか!!よかったですねー!!(*^-^*)」

Aさん「・・・」

私「すごいですねー!!私は会えなかったから何もお伝え出来ることがなくて申し訳ないですが、アポイントぜひがんばってくださいね!」

Aさん「ええ、まあ、・・・はい」

 

「?…なんか歯切れ悪いな」と思いながら電話を切りました。

なんか私が一緒に喜んでいることが意に反しているというか、若干不服そうだったような…なんなんだろう…この違和感。

 

後で考えてみて「ああそうか」と分かり少し寂しくなりました。

彼は、私と一緒に喜びたかったのではなかったのです。

彼は、「ちあきが今までできなかったことをできた俺はすごい」と私に思ってほしくてマウントを取ろうと考えた。

不安に揺れるろうそくの灯のような自尊心を少しでも守りたかったのでしょう。

私は、私の力には限界があること、他人には私にない可能性があることを知っています。いや、理解しようとしています。

だから、当然私には出来ることと出来ないことがあり、私が出来ないことを彼が出来たとして何の不思議もない。

そして、それは喜ばしいことなのです。

得意先に良い影響がもたらされればいいわけだから、私に出来ないことをかれがやってくれたなら、それは私にとって嬉しい報告でしかない。

彼は、私が悔しがり、彼を「すごい」と仰ぎ見ることを期待したのだろうけど、あるがままであれば、私に対してはただそれだけで「尊重されるという目的」はすでに達成されている。わざわざマウントを取る意味はないのです。

 

・権力がほしい

・お金がほしい

・ほめてほしい

・居場所がほしい

 

そういう切なる願いで、一生懸命仕事で認めてもらおうとする事も、また人の営みなんですよね。

最近は「私にもそういうときがあったんだもんな」と、そういうマウント合戦を仕掛ける人を、一歩引いて温かい目で眺めていられるようになってきました。

私をみくびり「俺の方が優秀だ」という気持ちをチらつかせずにはいられないのです。

自分だけで何かを成し遂げることなどほとんどない。

それなのに、他人にやってもらったことの有難みに気付けずにいるのです。

それは、己のなかの不安と焦りを見ないようにしているからです。

それは、かつての私そのものです。

 

「相手に勝ってやろう」

「己の力を、強さを、存在を誇示したい」

「俺を見ろ」と。

そんなことのために剣は、武はあるのかね?

我々が命と見立てた剣は、そんな小さなものかね?

 

出典:『バガボンド』第7巻

 

誰かより上か下か。

そんなことは、どうでもいいことです。

 

私が目指している状態=真理に近い状態 に近づけるかどうか。

それだけが重要なことです。

 

真理に近い状態とは、もともとのありのままの姿に戻ること。

それでいいと思えるようになること。

これこそが、最も重要で難しいこと。

この世のすべて事象は、私の肉体や精神すらもその到達のための道具です。

そう捉えると、道具に良し悪しなど無く、較べることなどできない。

だから、他人と比較する必要が全くないことに気づけるのです。

 

「体を使えと……もらったこの体を使って知れと……何を? その前のもともとの俺をーー体がそういうものだとしたら 俺だけじゃなくてこの世のもんすべてが それを知るためにあって いやものだけじゃなくて人も 出会う人も 父も母も すべてそのために出会うのなら……ほんとは誰も恨まなくていいーーそういうことなのか……?」

出典:『バガボンド』第32巻

 

「誰かを恨まず、誰かのせいにもせず、あるがままを生きる」

 

どうやれば売上が上がるか、そのためにやればいい事は何か、は限られていて、もう大体分かりました。

だけど、それよりも大事な事があります。

だから、私は残りの限られた人生をそっちに割きたい。

たとえば、家族と過ごす時間とか、売上に直接インパクトはなくても、自分が世の中にとっていいと思う活動とか。

 

それは、私が全身全霊で私であることの裡に在るということ。

それが最も自然で、最も価値があり、最も生産性が高いのです。

今のど真ん中にいるために、己であることを徹底する。

それが、最も良いことだと悟りました。

 

だから、会社の人たちと話が合わなくて今まで悩んできましたが、唐突に「もう合わなくていいんだ」と思えるようになりました。

忙しなく己の立ち位置を気にして戦々恐々とする同僚たち。

彼らにマウントを取ろうとされても取り合わず「焦らずとも大丈夫ですよ」というくらいで、心を揺らすことなく終えることができるようになった自分に、確かな手ごたえを感じます。

 

彼らもまた、彼らが好きなようにやればいいのです。

その過程で、大事なことに気づける人は気付くだろうし、気づかない人は気づかないのだから。その人にとっての最適なタイミングが、きっとくる。

それは私には変えられないし、関わる必要もないことです。

「がんばって。お互い、いいことあるといいね。」と思っています。

それしかもうかける言葉がない。

 

親が子供の独り立ちを見守る気持ちは、こんな感じなのかもしれません。

己が己を見失わない限り、与えられるすべてのことは、必要なことにたどり着くために用意されたものです。

だから、もう自然に任せていい。いや、むしろ任せるしかないのです。

コントロールすることなどできない。

やりたいようにやってみて、その結果を受け容れる。

私たちがやれることは、ただただ、それだけなのです。

【依存症】私が今の考え方にたどり着くまでの軌跡

私は昔、酒をやめられない自分をいつも責めてきました。

「自分がダメだから、自分が努力不足だから、やめられないんだ」と思っていました。

毎日が来るのが嫌で嫌で逃げたくてたまらないけど、努めてそれを感じないように、湧き上がる感情を否定する努力をしていました。

「つらい現実から逃げちゃダメだ」とハウトゥー本を読み漁ったり、『行動でしか人生は変わらない』とか『やるかやらないかだ』みたいな体育会系の偉人の格言みたいなのを繰り返し毎朝唱えたりしました。必死になって、すでにカラカラに枯渇しているやる気を絞り出そうとしていたのです。

その努力は涙ぐましいものがあります。しかし思えば方向性がハチャメチャでした。

 

がんばってがんばって、でもいつも虚しくて悲しいのです。

「何でダメなのか、何でこんななのか」

「他の人はちゃんとしているのに、うまくやっているのに」

「ああ、自分が不良品だからいけないんだ。『良品』にならなくては」

今の自分を否定して「別の自分」に成ろうとしていました。

他の人々のように社会を生きられる「自分より優れた自分」に。

この思考はAC由来で、親との関わりから刷り込まれた信仰なんですが、当時は知る由もありませんでした。両親はもうそばにはいないのに、繰り返し繰り返し事あるごとに、私は「自分はダメなんだ、だからうまくいかないんだ」と自分に刷り込んでいたように思います。

「自分はダメだ」「だからうまくいかない」

人は、気づかないうちにそう自己洗脳していると、無意識に「うまくいくと困る」と思って可能性を自ら潰していきます。

「ほらやっぱりうまくいかなかった」という一貫性を保とうとします。

そうやって、自分の信仰を証明するできるように生きてきたのでした。

誰のせいでもありません。

律儀に「自分はダメだ」と思い続けてきたのは、他ならぬ私でした。

ダメな自分を維持しようとしていたのは、他ならぬ私自身でした。

 

酒でその自己矛盾をごまかすことを覚えて5年。

いよいよ「もう消えたい…もうたくさんだ、やってられるかこんなこと!」とどん詰まりにたどり着きます。

何もかも嫌で、何もかも憎むことにすら疲れ、考えるのは「死ぬ苦しみとどちらが苦しいだろうか…」そればかりになります。

そう、真剣に命と苦しみを天秤にかけ出したのは、社会人になって2年目でした。

消えたいが、消えるのもそう簡単じゃないぞ…

しかし生きていてもただただしんどい。どうすればいい…?

拮抗状態で苦しむこと5年。(不思議なことに5年スパンですね。)

「会社を解雇されるかもしれない」という状況に追い込まれ、社会的な死、その後に来る肉体的な死を、リアルに想像するようになります。

「死ぬんだな」と思ったとき、人界万里のどん詰まりで感じたのは、不思議にも「よかった、やっと楽になれる」ではなくて、「まだ終わりたくない」でした。

 

「わたしはまだやり切れていない」

「わたしはまだやり残したことがある」

「まだ、死ねない」

「このまま終われねぇ」

「どうせ死ぬなら、それをやってから死にたい」

出典:『はじめの一歩』森川ジョージ

 

 

そうは思ったけど、当時感じていた「ガラクタのような自分」とまたいちから生きていくのは、とても覚悟が要りました。

「サハラ砂漠に行って、砂粒の色を一粒一粒、確かめろ」

と言われているような、気の遠くなる不可能なことのように思いました。

だけど、生きるにはやるしかない。「この私」で私として生きていくより他はない。

そうであるならば「もう何でもいいから教えてもらったことを素直に一つひとつやるしかない」と心から思いました。

この地獄を知ってもなお、まだ生きている人がいる。

その人たちがどうやったのか、知りたい。そして真似したい。生きるためにはそれしかない。

自分のやり方ではまったくもって無理だった、もうやっていけない、それをつくづく思い知らされた10年でした。

 

自助グループやステップは、そういう私にとってすら、当初は胡散臭くうつりました。

「そんなことやって何になる?」

「お前らとは違う」

「私にもそんな効果が本当にあるのか?」

でも、自分は自助グループやステップ以上に成功したエビデンスはありません。

むしろ何もかもダメだったから、ここにたどり着いている。それを認めて、とにかくやってみました。

結局、絶望して白旗を振ってからも、あれやこれやと脱線しては戻りを繰り返しました。

理解するのに、また5年間かかりました。笑

 

そうして、ようやく今があるなぁ、と思います。

この15年があったから、今があるとも思います。どんな苦しい瞬間も、無駄じゃなかった。

全ては必要だから、その時々に私の目の前に用意されていたのだと、今は感じます。

当時はとてもじゃないけどそんな風には考えられませんでした。無理で当たり前だと思います。

こういう回復への道程で経験してきたことを率直に正直に他人に伝えるっていうことが、12番目なんじゃないかなぁと、最近思います。

つまり、12番目はなにもそんな大仰に啓発などをしなくてもよく、素直に話すだけで、実はとてもシンプルなんじゃないかと思うのです。

 

私はそういう風にこのブログを活用していきたいな、と思います。

過去の記事で書いていることは、時として目を覆いたくなるような恥ずかしい認知の歪みにまみれています。

しかし、それも私。ぜーんぶひっくるめて私。

ぜーんぶひっくるめてのお前なんだ

いいんだ それで

 

出典:『バガボンド』井上雄彦

 

【AC】仕事の承認欲求に基づく「嫉妬・不安・焦り」を手放せて楽になった話

最近、私の仕事に対する依存や執着と、酒に対する態度はとても似ていたんだな、と思っている。そのことについて書いてみる。

 

「酒を飲みたいから飲んでるんだ」「俺は酒が好きなんだ」と思っていた。

でも、違った。目的は別にあった。

私は現実が見たくなくて、見るのがもう辛いから、飲んでた。嫌いな自分をこれ以上知覚したくない、と言ってもいいかもしれない。麻痺させるために、これ以上考えないために、酒を使っただけで、飲むことが目的じゃなかった。

本当に解決したいのは、生きづらさだった。

生きづらさをどうにかしたくて、対症療法として酒を使っていたのだった。

 

それを仕事に置き換えてみると、実に似通っている。

「私は結果を出したいんだ」「成功するのが好きなんだ」と思ってきた。

結果を出すためなら何を犠牲にするのも正義だと思ってきた。

でも本来の目的は?と振り返ってみる。

「生存していていいという安心感のため」だったのではないだろうか。

稼げなきゃ生きている価値がない。稼いでいなきゃ結婚できない。長男として生まれた務めを果たせない。一族を滅ぼす「人でなし」になってしまう。つまり、人として社会に許容してもらえなくなる。

そういう「人として生きる権利を脅かされる」という恐怖と不安を見て見ぬ振りをするために、私は仕事で結果を出さなくてはならないと思い込んできた。それが本当の目的だった。

実際、そんなことはない。稼げるか稼げないかは、基本的人権には何の関わりもない。

全部「こうでなくてはならない」と私が勝手に決めただけ。

本当はそんなルールはなかったのに、ルールだと思って必死にやってきただけ。

酒も、仕事も、世の中から無くならない。仕事は今も、生きていくために付き合っていかなくてはならない。

食事や睡眠と同じように、私はこれらの執着してきたものたちを完全に私の世界から切り離すことはできない。

うまく付き合おうとした、もといコントロールしようとしてきた。

しかし、コントロールすることなど無理だった。

どう頑張っても振り回されてきた事実が、ここにある。

徹底的に酒を避けて生きる。そうやってライフスタイルを変えてやってきたアルコール依存症だけど、仕事…特に承認欲求については、より高度で光明が見えずにいた。

自分の根本が何なのか見定めたい。そう思ってずっと考えてきた。

 

「本当に価値がある」と思うことをやってきたはず、今もやっているはず。それなのに、周りが気になって躊躇したり、本当に良かったのか自信がなかったりすることが、よくある。

それは結局自分をよく見せるためにやっているからだ。

目的を誤っている。

善行を行うことに他人の許可も承認もいらない。

ただやれば、私の心は満たされるものだ、ということ。

 

自分が本当に望んでいるものは何か。目指しているものは何か。

 

自分のゴール、善を行いたいという目的を見失って、心の芯ではなく周囲にばかり目を向けているから、不安や焦りを感じる。

私は、私が今やれるだけの善行を行い、改良できる限りの改良をしていれば、それで何も恥じることはない。

一日一日を全力で感じ、全力で楽しみ、今ココの繰り返しを過ごしている。

それ以上の状態はなく、何の欠落もない。何の負い目もない。

 

もう、今ここに、全部あるのだ。

これほど気づいてありがたい事実はなかった。

 

出典:『バガボンド』第37巻 より

 

 

何もかも今ココには揃っている。未来を憂いたり過去を悔いたりしなくていい。

今ココに、何もかもが用意されていて、私は用意された完璧な一瞬一瞬を味わうだけで100%だ。100点満点だ。

 

『バガボンド』のこのシーンが、大地に五月雨が染み込むように、私の渇いた心へすっと落ちてきた。

 

出典:『バガボンド』第29巻 より

 

 

作中、沢庵和尚と宮本武蔵が共にたどり着いたのは、

「天と繋がっている限りにおいて、人は自由で無限だ」という境地だった。

 

 

私が他人に認められないのも、ただそれだけでしかない。

今は、それがただ、今であるだけだ。

私は、誰にどう思われようとも、私にとって最良のものを、人生で積み重ねていく。

それは変わりない。私の良心が、魂が、私のなかの天が、そうであり続ける。

社会的に「結果」と呼ばれる事象として結実するかしないかはわからない。

しかし、それは問題ではない。

私の根本に宿る「善良なる魂」「善行を行う心」すなわち「天=ハイヤーパワー」を信じて進んでいる限り、全ては社会的に結実するかしないかを超えて、在るべくして常にあり続ける。

そうした自分を超えた大きな力により、いずれ万物があるべき姿に導かれるのなら。

私のように小さな存在が、あくせくとコントロールしようとしなくていい。

天にお任せしておけばよいのだ。

迷ったなら、何かをコントロールしようとするのではなく、魂に尋ねればいい。

そして、やると決めたことをただ迷わずやればいい。

 

なんだ、すげ〜簡単なことだったんだな!と思って、最近は生きていることがシンプルで、実にラクなのである。

 

出典:『スティール・ボール・ラン』第21巻 より

 

 

見縊られるのもそう。

バカにされるのもそう。

他人がどう反応し、私をどう見るか。

そんなことは、本当に『私には何にも関係がなかった』。

些末なことだった。

 

全ては、内なる神とのやり取り。

すなわち、ハイヤーパワーとのやり取り。

他の誰かとの間のことであったことは、一度もなかったし、これからもない。

 

 

‘Give the world the best you have’ – Mother Theresa

People are often unreasonable, illogical, and self-centered

;Forgive them anyway.

If you are kind, People may Accuse you of Selfish, Ulterior motives

;Be kind anyway.

If you are successful,you will win some false friends and some true enemies

;Succeed anyway.

If you are honest and frank, people may cheat you

;Be Honest and Frank anyway.

What you spend years building, someone could destroy overnight

;Build anyway.

If you find serenity and happiness, they may be jealous

;Be happy anyway.

The good you do today, people will often forget tomorrow

;Do good anyway.

Give the world the best you have,and it may never be enough

;Give the world the best you’ve got anyway.

You see, in the final analysis,it is between you and God

;It was never between you and them anyway.

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ2

1、私は、◯◯することへの執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを理解した。

あなたの力には限界があり、到底何もかも思い通りにはできません。がんばってもがんばっても、他人はおろか、自分さえも思い通りにはできないのです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P209より引用

 

 

 

2つの問題

「私は、人に認められること=承認欲求への執着は、他人の評価を気にしすぎるところから始まり、自分の意志の力を信じすぎたことでひどくなったことを理解した。」

 

問題は2つ。

①他人の評価を気にし過ぎたこと。

②自分の意志の力を信じすぎたこと。

 

①について考えてみよう。

なぜ気にし過ぎたのか?

そのままではダメだと思った。

どうダメなのか?

受け容れてもらえない、生きていけないからダメだと思った。

それはなぜか?

元もとの自分は取るに足らない存在だから。

ほんとうに?

「評価されなければ愛されない」「評価されなくてはココにいてはいけない」という強迫観念から、努力を重ねてきたという事実。

私そのものの価値を認めてくれる親。親に愛されていると信じたいと思った。

愛されているのは、よくできるときの自分だった。

私は愛されているはずなのだから、つじつまを合わせるために、私は親から見てよくできる人間でなくてはいけない。そう思い込んだ。

今、期待通りにできないのは、私の頑張りが足りないからだ。

だって私は愛されるはずだから、よくできるはずだから。

そうやって努力してきた。

 

意志の力

その行動は、私を②の「自分の意志の力の信仰」に導いた。

自分の意志の力で何とか出来る、と信じてきた。

それがそもそもの間違いだったと認めるときが来た。

私の意志の力は万能ではなかった。

他人より優れるということは、意志の力でコントロールできるようなものではなかった。

何とかできると思うから、極端に自責したり、極端に己を恥じたりする。

どうにもならないことを何とか出来るはずと思っているから、いつまでも自分の努力が足りないことになる。

雪だるま式に大きくなる強迫観念。

他人が認められているとき、発狂しそうなほどの黒い嫉妬と醜い憎しみに駆られる。

自分を痛めつけるような努力に身を投じる。そして疲弊する。

そして私は酒を頼ったのだと思う。

 

意志の力は、わりと強いほうだと思う。

結構粘り強いし、簡単には諦めない。悪く言えば一生根に持つほど執念深いタイプ。

だから今まで何とかなってしまったのだろう。

そしてますます信仰を深めたのだ。

やればできるはず。だから今できないのは自分の怠慢だ、と。

 

しかしこの世にはすごいひとはいっぱいいるし、負けることなど日常茶飯事なのだ。

それをいちいちあれやこれや比較していたら、勝ち続けることなど不可能だ。

そんなに他人はしょぼくない。それぞれに良さがあるし、磨いてきた技術がある。経験してきたことも違う。

それなのに、意志の力さえあれば勝てると思うこと自体が、不自然だった。

それを認めるときが来た。

 

私は何がしたいのだろう。

自分そのものとして社会に認められたい、と思ってきた。

なぜなら私は、社会に馴染めなかったから。

幼少期。のびのびとそのままでいた時期に仲間外れにされて哀しかった。

受け容れてほしい。

そう思ってきた自分がいる。

それを、承認欲求というかたちで今まで満たそうとしてきたのではないかしら。

人に認められて、すごいね!ありがとう!と言われて、私はここにいていいと思いたい。確かめたい。

でもひとりでは特別なものは何も生み出せない。

ここにいてはいけないことになる。それは嫌だ。

だから、他人にこびへつらった。他人に望まれることをして、褒めてもらおうとした。

卑屈な笑顔の下にある私の本性はそれだ。

コントロール。

 

失敗に終わったことを認める

不安と強迫観念に気づかぬために、他人の評価をコントロールしようとした。

意志の力を信じてますます努力した。

 

でも、その生き方は幸せではなかった。

結果、今、破綻している。

一流企業に転職しようと、国家資格を取ろうと、依存症から回復しようと、いつも他人と比べてしまう。他人の目に怯えた自分がいる。

結局、己の手では何も創造することができない。個として価値を生み出せない自分を、嫌いになりそうになる。

この生き方は、どこまでいっても渇いている。

いつまでも満たされない。

つかの間の賞賛で喉を潤しても、もっと高くもっと多くと、依存していく。永遠に欲しがる。

そして、何もかもが認められるためだけの道具になり、人生がつまらなくなる。

今、まさに。だからつまらないのだ。何をしても。他人に褒められないと意味がないと思っているから。

 

人に認められても、つまらない人生を生きたいか?

私はその問いにNoと答える人間だと思う。

本来、楽しむために産まれてきたのに。なぜ他人に認められる、なんて不毛なコントロールできないことのために生きなくてはいけないのか。

そんな徒労をもう終わりにする時が、今ようやく来た。

そのために私は、今までのやり方が失敗だったと潔く認める必要がある、ということだ。

 

①小さい頃から感じてきた寂しさを埋めるために、他人の評価を気にし過ぎたことがきっかけだった。

②今まで自分の意志の力を信じ過ぎ努力してきたことが、私の人生を不健康にしてきた。

ということを。

 

私は何かを生み出せなくても、胸を張って生きていていい。

私はたとえ他人に認められていなくても、無価値ではない。

他人に評価されない考えだとしても、私が感じて考えたことや生み出したものには価値がある。

 

承認欲求に振り回されてきた人生。

その生き方をやめたい。

私が今までやってきた生き方が、より苦しみを生み出していたことを理解した。

 

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」③同僚

私は今でこそ必要最低限の仕事だけできたら後は明日にして帰ることができるのだが、昔は体力が尽きるまでやってしまうタイプだった。

以前勤めていた会社はブラックで、いくらでも仕事ができた。

私は寝袋を持ち込んで会社に泊まりこんでは、とにかく仕事か飲酒か睡眠か、というような不健全な生活をしていた。

そんななか、同じブラック企業に勤めていた同僚のなかに、毎日定時に帰る人がいた。

私はいつもその人を見ると何故かイライラした。

トラック運転手であるその人(Sさん)は、営業兼現場監督をしている私とは就業体系が違うので、定時で帰るのは当たり前と言えば当たり前だった。

それを差し引いても、「仕事より家族」と言い切って仕事も満足に終わっていないのに(と私からは見えた)早々に切り上げる背中がなぜか苦々しく見える日々だった。
とにかくSさんのことが面白くなかった。

私は夜となく昼となく働いているのに、評価されない。給料は同じか、私が低い状態だった。

もっとも、それは私がアルコール依存症真っ只中で、定期的に遅刻や体調不良を繰り返していて評価できない人材だったからだが。

結果に貪欲でないSさんに、仕事中心の私はイライラした。

「年上で先輩で俺より給料もらってんだからもっと働けよ、もっと苦しめよ」

「俺のほうがやっているのに俺がキレられて、何でのらりくらりとやっているようなあんなのが許されるんだ」

「俺はこんなに苦しんでいるのに、なんであんなに楽そうなやつが生きていけるんだ。不公平だ」

「ダッサ。何が家族だよ、仕事やらない理由にならねーよ。できない言い訳すんなよ」

そんなことばかり思って、奥歯をギリギリ言わせていた。

 

今なら思う。

これは、私が「苦しい」「つらい」と言えなかっただけ。

Sさんに対する思いとして、彼を鏡にして、「私自身の歪み」が、感情となって表出していただけのこと。

 

昨夜のお前が見てたのは俺じゃない

会わない数年の間にお前の頭の中にこしらえた「俺」

お前の頭ん中の「俺」 お前の頭ん中の物語

その物語こそがお前自身を映してる

今のお前を映しているよ

出典:『バガボンド』第25巻 樹上ニテ想フ より

 

 

 

人はそれぞれ違うのだから、生き方の違いはあっていい。

大切にするものの違いもあるだろうし、限られた人生だから時間の使い方も、違いはあって当然だろう。

最近、自分の判断で仕事に割く時間のウエイトを決めて人生をドライブし始めた。会社の指示だったとしても、筋が通らなければ論理的に反駁して是正を依頼する。

同僚や上司の反感を買うこともある。

「ちあきはオトナじゃない、物分かりが良くない」と下に見られることも多々ある。

それは、まるで前職にいたときの「かつての私」そのものである。

仕事をしたくないのに、しなければならない。

それが本当は嫌だったのに、嫌だと思うことすら自分に許せなかった。

だから私は望んで「人生において仕事に最も傾注することが正しい」という信仰を頼った。

「私は正しいことをしている」という束の間の安心感を得るために。

本当はやりたくないことを我慢してやっているから、やらない人を受け入れられない。

自分の力で変えたくなるし、従わせたくなる。

なぜなら、自分が本当はやりたくないことに気づいてしまうからだ。

気づいてしまったら、もうそれ以上がんばることができなくなってしまうからだ。

それはまずい、と感じているからだ。

なぜか?

頑張れなければ、認められなければ、生きていけないと思い込んでいるから。

その生存を脅かされるのではという恐怖が、不安と怒りになって、私自身に向かっているだけ。

全ては、その人の内なる神とのやりとりなのだ。結局は、自分の問題でしかない。

他の人が影響しているようで、実は自分の中に真実があり、それを否認するときに心は泡立ち、気持ちは揺れる。波が立つ。

ただそれだけのことだった。

 

自分がこれでいいのか。

不安になることも、他人と比べてしまうことも、しかたがない。

そして、それらは全て己の心という水面に映る問題に過ぎないのだから、結局は気にして精神をすり減らしても、しょうがないこと。

今、私を下にみて安心したい現同僚の彼ら。

彼らにも、いつか彼らの本心が見つかるといいな、と祈らずにはいられない。

この歌を泣きながら聴いていた日々の痛みが、今、私に爽やかな優しさをくれる。

 

【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

私は、昔から人生を早く終わりにしたかった。

自分の楽しいことが、いまいち何かよくわからなかった。いつもイライラしていた。

かたや「人生を終わりたくない。楽しいからいきていたい。」そういう妻。

いったい妻と私では何が違うのだろうか?

 

楽しさの追求

妻は基本的に「どうせ生きてるんだから楽しもう」とするタイプだ。

彼女は、親が好きなように生きる姿を見て、好きなように楽しめる方に、他人がどうあろうと行動するしかないことを学んだのかもしれない。

 

彼女の父は、兄と姉と妻の学資保険を全て溶かして起業した挙句失敗し、母はその身勝手な行動に失望して失踪した。

電気のついていない、崩壊した暗い家に一人で帰る小学生時代だったという。

バイトをしなくては学費が払えない中学時代は、遊びたくても遊べなかったそうだ。

 

私は長く疑問だった。

親さえしっかりしていれば、背負う必要がなかった悲しみや苦労を、彼女はなぜ許せるのだろうか?

私は憎い人々を忘れられない。負けた相手をいつか打ち負かして「オレがお前より上だ」と叩きつけない限り夜も安らかに眠れないような人間だ。

なぜ、負けたり理不尽な仕打ちをされたときに、恨みや憎しみに支配されないのか?

 

思い至ったのは、彼女は真の意味で、己の無力さや弱さを知っていて、心から受け容れているからかもしれない、と思った。

 

確かに私が依存症になったときも、そうだった。

私自身、依存症になるなんて夢にも思ってなかった。

でも、これ以上ないくらい完璧に、アルコール依存症になった。

自分では予想もつかないことが起きるし、自分というのは、想像よりするより、あまりにも弱く脆い。私自身、病気を通じて己の無力さを思い知った。

 

妻は私が依存症であるという事実を聞いたとき「ちあきにあるのだから、誰にでもあるものなのかもしれない。」と思ったという。

「私もなっていたらやめられないかもしれない。」

「たとえば骨折しているのに松葉づえを取り上げられたらそれはつらいだろう。それと同じように酒に頼ってきたのに、酒を取り上げられたら苦しいだろう。私なら辞められないかもしれない。」

そう考えたという。

 

誰に、何が起きても、どう期待や予想を裏切っても、不思議じゃない。

 

今の自分には理解できないような果てしなく愚かな行いに見えても、自分ももしかしたら、万が一…いや億が一、同じ立場になったとして、そういう行動をしてしまうかもしれない。

全く同じ立場じゃない限りわからないから、自分もそうなるかもしれない。

 

だから、責めないのか。仕方ないのかもしれない、と思えるのか。

 

たとえば、仮に責めても結果は変わらない。

だから、確かに、理解できない失敗や行為を責めても、結論としては仕方がないのだ。

結局は、自分でしかない。

あらゆる事象は、「自分がより良く生きる材料」として活用するしかない。

つまり、感じてきた痛みは、学ぶ姿勢がある限り人生の「+要素」に昇華できる好ましい事象だと言える。つまり、苦しみも痛みも含めて、何もかもが無駄ではない。

 

人は誰しも欠陥だらけ

悪いところなど、見つけようと思えばいくらでも見つかる。

正直自分も他人も、悪いところなら挙げればキリがない。

いいところを見つけて学ぶほうが、よっぽど実りがある。

建設的だし、自分にとっても他人にとってもハッピーな方向性。

だから、間違い探しにエネルギーを使わない。

どうせ使うなら、受け容れて学び、楽しむ方にエネルギーを使う。

この「楽しむことに全力全開」というのが、私が妻を見ていて尊敬するところだ。

 

今のところ、何一ついいところが見当たらなければ、そっと距離を取ればいいだけのこと。

また時期が来たら見つかるかもしれない。

今はまだ私にはわからないだけかもしれない。

今は相手に余裕がなくて、本来ある良さがマスクされているのかもしれない。

自分のことが他人にはなかなか理解してもらえないように、私も他人を簡単に見切れるほど優れているわけでもないし、眼が効くわけではないのだから。

そういう、息の長い向き合い方をしていきたい。

簡単にカテゴライズしない。ジャッジしない。諦めて切り捨てない。

それは、自分が反対の立場ならそうしてほしいし、他人がそうあるほうが幸せだからだ。

 

『いいとこあるかもしれない』で終わらせておけるのは、他人は他人と割り切っているからである。

つまり、自他の境界線(バウンダリー)が完全に区切れていることに他ならない。

自分を脅かす脅威に思えて、早く理解したことにして自分のなかの落ち着けどころを決めてしまおうと不安に焦りたくない。

その人の必ずあるであろう良いところが、私にとって面白いか面白くないか、を感じとろうとする感性と関わる姿勢を大事にしたい。

不安や恐れがあるのは、今までパワーゲームでコントロールされたり条件付きの愛情を受けてきたりしたせいで、ランキングが存在価値に直結すると思っているから。

存在価値を脅かされることはとても怖い。

社会的な死、精神的な死を意味するから。

怖くて当たり前。怖いのはあなたのせいじゃない。あなたが弱いのではない。

怖さを隠さなくていい。それは弱さじゃなく、原因と結果の産物であり、昔必要だった愛すべきライフスキルである。

そして、今もう役目を終えて、手放していいスキルでもある。

新しく、相手を見るときには、マネできるいいところを探そうと思う。

人との出会いや関わりは、その面白みを見つけられる楽しいことだと位置づけていきたい。

そうすれば、私は人との関わりを、唯一安寧に近い一人の時間を邪魔する煩わしいイベントとして忌避しなくてよくなる。

世界がもっと生きやすくなる。

そうなってくれれば、もはや嗜癖に頼る必要がなくなる。

自分の世界の見方を変える。これが、依存症者にとって、ACにとってのパラダイムシフトなのだと思う。

【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

・負けた悔しさを切り離せず悩みから抜けられない人

・勝負になると、すぐ勝ち負けに拘ってしまう人

いませんか?

私は、そういうタイプです。

 

12ステッププログラムを学び、平安の祈りを読むたびにいつも思います。

「変えられるものと変えられないものを理解している人」

それは、12ステップを極めし者であり、最も楽しい生き方なのではないか、と。

しかしこれがなかなか難しい。

他人との関わりに心を乱さない落ち着きと賢さは、どのように身につければよいのでしょうか?

私にとって永い間テーマで在り続けたこの問いに、ひとつの解を見出しました。

 

「妻の場合は、どうなんだろう?」と思って聞いてみた。

妻は勝負事が好きです。そして負けず嫌いです。

私にはこの感覚がわかりませんでした。

なんで勝たなきゃ楽しくないのに、負けることが嫌いなのに、勝負が好きなのだろう?

私は勝てる勝負しかしません。なぜなら負けるのが嫌いだから。

勝つから楽しいんであって、負けるなんて屈辱の極み、苦痛でしかない、と思ってきました。

 

妻は、負けるのは悔しいが、『負けるが勝ち(価値)』なんだという考え方だと言いました。

なぜなら、負けるということは、より優れている要素を取り込むチャンスだからだ、というのです。

今の自分が精一杯やったのに負けてしまうような実力のある相手なら、何か自分よりすぐれたポイントがあり、得るものがあるはず。

そのような存在がいることは、自分より優れた秘訣を学べるチャンス。

確かにそこにある改善点が顕在化する瞬間であり、負けることはありがたいことなのだ、と思えるそうです。

流川楓かよ( ^ω^)・・・

出典:『スラムダンク』第29巻より

 

前の自分より少しでも良くなれるというのは、希望そのものです。

「結局、自分だから」と口癖のように妻は言います。

自分より上がいる、それを見ることができる。

その時点で、吸収すればするほど、自分が「今より良くなる」ことは確実です。

他人は変えられないけど、自分なら変えられる。だから、勝負の本質は、実は勝ち負けじゃない。

自分が良くなれるなら、負けは「負け」じゃないということです。

『試合に負けて、勝負に勝つ』

死力を尽くしたうえで「負ける」ということは、さらに上を目指せるという証明でもある。

だから負けを認められるし、強くなれる。

相手との勝ち負けの刹那的な結果に目を曇らせないことが肝要です。それが重要なんじゃない。

自分を改良することに貪欲な在り方「諦めない」ということこそが、真の意味で負けないためには重要です。

勝者であり強者である、とは、こういうことなのではないでしょうか。

 

妻がこの考えに至った背景とは?

妻は末っ子です。上に兄・姉がいます。

基本的に、常に負けまくってきたと言います。

「どうぜ勝てないなら、負けを楽しむしかない。」

そう思った彼女が幼いころから編み出した考え方が、上記のような「負ける」ことへの可能性とワクワクを見出す思考方法に繋がっています。

他者との比較よりも、自己成長に主眼を置いた価値観を体得したのです。

負けたくなくても負ける。それも、何度も負ける。

自分の価値が損なわれる恐れのない、ある意味「負けてもアイデンティティを失わない」競争関係を早くから与えられ、たくさん経験して慣れている。

それが末っ子の強さの秘訣のひとつであると、私は感じました。

 

尊敬する人は?と問われれば、私はマザーテレサや宮本武蔵を挙げます。

皆さんは誰を挙げますか?

 

妻は、「自分より少しでも一つでも優れたものを持つ人は、みな師であり、尊敬の対象だ」と言いました。

正直、その発想はありませんでした。

基本的にほとんどすべての人に「すげーな」と思うそうです。

相手を尊敬している。

だから接する相手も心を開く。

だからいつも気の置けない仲間に囲まれる。

そういうことか、と思いました。

 

私は、すぐに至らない点を見つけて、相手を下に見る、器の小さいところがあります。

それはなぜか?

「たいしたことがない相手だ」と思わなければ、自信のない私は不安に押し潰されそうになるからです。

だから、いつも独りなんです。

それを突き付けられた気がしました。全部、自分の在り方が招いたことだったのだと。

 

自分にないものを持っている人は、脅威ではなく宝なのだと思います。

よりよく生きるための、より高い場所にいくための。

だから皆が味方で、皆のおかげだと感謝できて、今があるのは皆のおかげと、本気で謙遜する心を持ち、あらゆる全てに感謝できる。だから、世界が素晴らしいと思える。

そうなればもはや、世の中は敵だらけの嫌な場所ではなくなる。

私はと言えば、この世は阿鼻叫喚の世界だと思って今まで生きてきましたから、この発想は目からうろこどころではありませんでした。

 

まとめ:「感謝」というのは、義務でも自己欺瞞でもアピールでもなく、自然に湧き上がるものだった

私は、「全ての人に感謝」とか、全く意味がわからん、と思ってきました。

私は、親が感謝してほしそうにしていろいろな要らないものを押し付けてくる環境で「感謝しなきゃいけない」という圧力に不満が言えない時期を長く過ごしてきました。

感謝してしまったら、不満や自分の意見を持つことを許してもらえない、わかってもらえない、受け取ってもらえない、という恐れをもって生きてきました。

つまり、私にとって今まで「感謝」というのは自分以外の誰かのオーダーに対する無条件降伏に似ていて、今までのつらい経験からくる反射からすると「忌避すべき感情」として認識されていました。

 

感謝している人は、本気で感謝しているんだな、と思うと、不思議な感覚です。

「ありがとうありがとうばっか言って頭わいてんのか?」と白い目でみてきた私でしたが、彼らは本気で思っていたのか。「感謝してる私は上等な人間」っていうアピールじゃなかったんだな、と思うと、自分の認知の歪みはとんでもないな、と思います。

特に勝負において「人生を楽しむ」「幸せに過ごす」その方法とは、

①自分の改良を主眼に置いて、相手に負けることを逆に楽しむこと。

②一つでも優れた点があれば相手を尊敬し認め、学べる機会と相手の存在に感謝すること。

その2つでできているのだと、私は発見しました。

【AC】STEP12:「この世に無駄なことは一つもない」に納得した話

Having had a spiritual awakening as the result of these steps, we tried to carry this message to others who still suffer, and to practice these principles in all our affairs.

これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージを他の人たちに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。

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最近、私はどこに向かっていけばいいのだろうか?と悩むことが多くなっていた。

他人には他人の価値観がある。

届かなくて当たり前で、届くかどうかコントロールしようとしてはいけない。

「他人のためにという起点ではダメだ、だから自分のためであることを忘れないように、物事に取り組まないと」

そう思えば思うほど、それは本当に私が向かいたい方向なのか?と首を傾げることが増えた。

 

自分のためばかりでは、利己主義である。

己のことばかりで生きている人生は虚しい。

己の欲を満たすためだけに、他人を蹴落としたり陥れたり、他人を警戒したり、そんなことは疲れるからしたくない。

そこまでして満たしたいほど、私の欲は深くはない。

 

かといって、「他人のために」というばかりでは、ただの共依存である。

共依存的な関わりは、双方病んでいく。

他人の為と言いながら自分の為であり、他人の為にただただ浪費され搾取される存在として自己犠牲を厭わないのは、美しいように見えて、自分を供物にして愛してほしいだけの、自分を卑下する生き方だ。自分に対しても、他人に対しても、失礼である。

 

つまり、どちらのためでも、よくない。

どちらかが正しいのではない。極に振っては、よくない。

中庸、バランスが大切である、という考えに行きついた。

自分以外の誰かに、自分と同じ程度の愛を運ぶことが、さらに自分と世界を美しくする法則なんじゃないかと思う。

第一に自分のためであり、他人のためになると己が信じ抜ける行動をすること。

それが最も虚無から遠い行い、生き様の具体的な姿ではないだろうか。

 

私は、虚無がすこぶる嫌いだ。

身体的には虐待らしい虐待もなく、雨風を凌げる家があり、飢えることもなく、教育を受けさせてもらえた私は、「恵まれている」と評価されることがほとんどで、ややもすると「温室育ち」などと揶揄されてきた。

しかし実際に生きてきた当人としては、生きている実感もないまま社会的正義に説き伏せられて言われたことをこなすばかりで、幸せかと問われれば、幸せとは言い難かった。

 

何をしても、どこにいても、誰といても、虚しい。

喜びや高揚感は何も感じない。

感じるのは不安と焦燥と怒り。

ちゃんとやらなくては。

上手にしなくては。

早くやらなくては。

人より優れた結果を出さなくては。

馬鹿にされないよう賢く立ち回らなくては。

何故こんなに大変なんだ、何故大変なのにつまらないんだ?

早く終わってしまえ、こんな徒労の日々…。

 

そんな思いで充満してすこぶる不愉快なわりに、芯には何もない世界。

果たして、そこで命を保証されていて、人は幸せだろうか?

他人から「幸せじゃん」「良い御両親だね」「恵まれてる」と言われるたび、絶望した。

これが幸せ?これが幸せとやらの上限なのか?

それならば、さながらこの世は地獄だ。これよりもっと下があるのか…。いや、むしろここから下しかないのか。

最悪だ。生きていくことというのは、何と辛い作業なのだろう。

みんな、何のためにこんな虚しい世界で生きるんだ?

何がしたくて、みんなこんな地獄を耐えて生きていきたいと思えるのだろう?

もしかしてそれだけの何かがあるのに俺がまだ知らないだけ?

とにかく理解しがたかった。

いま振り返れば、彼らは私の当時の生活水準だけを自分のそれと比較して話をしていたから、ズレていたのだと思う。

外から見た幸せと、その人の幸せは、必ずしも一致しない。

貧しくとも幸せが詰まった家庭があれば、豪華絢爛でも幸せが空っぽの家庭もある。

 

結果を出して優れた人物として人に認められる、ということは嬉しい。

しかし、この承認欲求というのは、インスタントな娯楽で目的ではない。人生においては副次的なお楽しみ要素である。

人生の価値は自分でしか測れない。

結局、承認欲求を満たすための行動というのは、他人の物差しで評価してもらって、己の価値を別の角度から確認するという作業に過ぎない。

他人の価値観の物差しでいくら幸せだと証明してもらおうとも、自分の価値観の物差しでなくては、本当のところは測れない。

自分の物差しを信じていないから、他人の物差しのほうが正確に測れるような気がしているけれど、それは自分の物差し(価値観)を蔑ろにしていることに他ならない。

最も正確な物差しは、主人公が私であるこの物語においては、私の物差しである。

完璧主義、成果主義、評価主義、承認欲求の囚われから抜け切れていないとその副次的なお楽しみ要素を人生の本質ととらえてしまい、目的を見誤る。

そして、振り返ってみると、自分にはコントロールできないもの(他人の価値観)をコントロールしようとして、徒労に終わっただけだったと気づく。最も見るべきものを見ずに右往左往して結局この場から少しも動いていなかったことに、人生が終わる間際に悟る。

そうして、結果的に人生が虚しいものに終わる。

 

では、何を道しるべにすべきなのだろうか?

信じる。自分の想いや願いが繋がることを。

今このとき、私が生きているうちに理解されなくとも、私が真剣に考えて良かれと思い、相手を尊重した上で差し出した愛は、いつか誰かに届くことを信じる。

この「信じる」ことこそが、結局最も私という世界で確かなことなのだ。

いつか誰かに届くなら、いくら現世で拒絶されていようと必ず届くわけで、やればやるだけ私は満たされていく。

経験した悲しみや苦しみの記憶は、繰り返さぬように同じように苦しんでいる他人に話し伝えることで、喜びや優しさに反転する。

負けた分だけ、苦しんだ分だけ、大切な人に届けられるギフトが増える。それは自分にとってのギフトにもなる。なんと素晴らしいことだろうか。私が虚しさと戦いながら這いずるように過ごした日々は、無駄ではなかったということになる。

だから「この世には無駄など一つもない」という言葉があるのだ。

喜びだけでなく、悲しみや苦しみや憎しみすら、ひとつひとつが愛すべき繋がりであり、己が血肉となって今がある。それは素直に謙虚に届けたい人に開示する限り、宝物として輝く。

 

まず第一に、自分の価値観を信じ、己の尊厳と己の信念を、最も大切なものと位置付けること。

その前提の元に、常に相手も私と同じ尊い存在として認識し、違いを尊重し在り方を考慮し続けること。

自分の目を覆いたくなるような悲しみや弱さや惨めな経験を受け容れて伝えることにより、他人に安心と勇気を届けたいと願い、行動し続けること。

 

これこそが、私が在りたい姿だったのだ、とわかった。

ここにきて、私はひとつ答えを得た。

 

これがステップ12の意味なのかな、と思う。

12ステッププログラムのステップ12を踏むということは、よくネットにあふれている回復者(自称)のように、教える立場に立つことで他の当事者に対してマウントを取ることではない。己の回復度合いをひけらかして承認欲求を満たすことでもない。

そんなつまらないことのために、12ステッププログラムがあるはずがない。

常に己の生活に12ステッププログラムの考え方を内包して、当事者であり続け、当事者としての自分を素直に謙虚に見つめ続ける土台がある人が、自分が今まで得てきた経験知という果実を仲間に惜しみなく与え、己の目を覆いたくなるような経験を率直に吐露することで自分も仲間も与えられ、救われるさまをステップ12は描いているのだと思う。

【共依存】共依存症者にとって12ステップを学び続ける理由とは

いろいろとステージが変わってきたんだな、と思う。

今までは、他人に嫌われたり離れられたりするのがとにかく怖くて嫌だから、予防的に自分を制限して振る舞ってきた。それゆえに、ストレスを抱えていたと思う。

できるだけ争いが起きないように立ち回り、もし争いが起こってもなかったように振る舞い、偽りの仲良しを装ってきたのが、私の「人付き合い」という作業だった。

しかし、12ステップやアサーティブを通して「自分は自分でいい」「感じたことは良いも悪いもなく大事なもの」「他人のそれもまた大事で且つ変えられないもの」・・・そういうことを学んできた。

 

振り返ると、わたしの実父母は、「家族」という共同体において、その対極にある在り方を採用していた。

私の実家、つまり共依存的な機能不全家庭では「和を乱すこと」は常に良くないことだった。

私が結婚することになって、久しぶりに実家を訪ねたとき、今後は妻がくっついてくるから、家族4人で水入らずなのは最後だ、と思い詰めて出迎えられた。無理に楽しく明るく過ごそうとする緊張感に満ちた母や妹が、とても奇妙だったことを覚えている。

些細なことで言い争いになり、ふたりともが泣き出して「最後の日くらい楽しく過ごしたかったのに!台無しだ!!」と互いを罵り合い、泣き崩れる姿を見て、心底ドン引きした。

この家族は、気持ち悪い。

そう思った。

 

人間関係のベースが共依存的だと、他人が離れていくこと、他人に見限られたと感じることは、とてつもなく怖い。

なぜなら、共依存症者は「他者との繋がり」をアイデンティティに癒着させてしまっているから。人から離れられることに対して、今ある人格を無理やり千切られるような印象を持つ。そのようなイメージを持っている人からすれば、他人との繋がりは脅威であり、恐怖を伴って当然だろう。

だから、必死にコントロールしようとする。

だが、相手があることなので、そもそもコントロールできないし、コントロールしている状態だとしたら、その状態は不自然なのだ。

そして、コントロールできないものに目を奪われて今を、自分を見失い、こちらがコントロールするつもりが、いつの間にかコントロールされている。

 

結論としては、合う人とは合うし、合わない人とは合わない。そんなもんだと思う。

考え方や価値観は人それぞれで、どちらが良いも悪いもない。正しいわけでも間違っているわけでもない。自分とは違うもの、よくわからないものを、それはそれとして心を乱すことなく視界に置いておくことができる。それが最も安定した状態だ。

つまり、できる限りのことをしたら、それ以上の状況は見込めない。諦めではなく、執着を手放す。それが精神的自立の理想像だと思う。

そうした在り方が自然にできる人が、稀にいる。

自分の気持ちを大切にできて、同じように他人のあり方を尊重し、恐れや怒りに目を眩まさせれることなく、ただ在るようにある。それが一番自分も相手も安心できる。ありのままでいられる。最も不安定なようで最も安定している。私はそうでありたい。

 

嫌われても好かれても、私は私。

誰と一緒にいるのか、誰と離れたのか、誰に認められたか、誰に認められてないか。

これらは、私そのものには一切関係がない。それぞれ在りたいようにあればいい。

皆がそうなら、私たちはみな幸せなのだが、誰しも未来や過去を思う。想像すると不安だから、よくわからないものをわからないままにするのが恐ろしくて、レッテルを貼る。あるいは比べて下に位置づけたりする。

そうして分かったような気になる。安心したがる。

しかし、そうすることによりそのものをそのまま見ることができないでいるために、かえって現実とのギャップを感じて理解に苦しむことになる。

 

 

引用:『バガボンド』第7巻より

 

 

「我が剣は天地とひとつ」というのは、「『剣』とは一つの共通言語」だという意味なのだろう。

己の力や存在価値を証明するために、他人に振りまわすような小さいものではなく、この世の理を知り、他の宇宙(他人)と繋がるためのひとつのツールだという意味だと思う。だから、最終的には刀すら要らなくなるのか。

アサーティブや12ステップも似たようなもので、共通言語としてのツールであり、それを世界と繋がるための媒体として、己のなかに内包・同化することが、真に回復した姿なんだと思う。

すなわち、真の回復状態とは、息をするように、心臓が鼓動を打つように、自然に自分の中にある12ステップやアサーティブという「生き方のツール」に立ち返り、常に世界と向き合うことができる状態。私は以前に比べれば、その状態に近づきつつあるのだと思う。だから、基本的にそこまで他人に対して心を執着させることがなくなってきたんだと思う。

 

「小次郎 俺たちは 抱き締めるかわりに斬るんだな」

引用:『バガボンド』第20巻より

 

人間との関わりや摩擦はそれで、真剣に立ち合えば立ち合うほど、お互いを切るような痛みや血は避けられない。武士の立ち合いとなるといわゆる順縁ではなく逆縁のパターンだが、しかし共通言語を持った者同士の真剣で素直な関わりであり、その瞬間に最も繋がることができる。

プラスでもマイナスでも、真っすぐでなくては真に人と繋がることはできないのだと思う。そしてその繋がりに固執するのではなく、コントロールせずに流れのままに揺蕩うことができるかどうか、それが強さなのだ。

私たちはお互いに、本性は抜身の刀である。不用意に扱えば人を傷つける者同士だ。

『刀は刀であることをやめることはできない。』けれど、傷つけあうことを望むわけでは無い。

 

「道を極めたなら、刀は抜くまでもないもの。そう師に教わったよ。いかに鞘から抜かずにおくか。そのために我々は死にもの狂いで剣を振っとるのだ。(柳生石舟斎)」

引用:『バガボンド』第27巻より

 

 

我々が12ステップやアサーティブをやり続け、学び続けるのも、これが理由だと思う。

極めたなら、刀を抜かなくてもよくなる。それでいて、自然に在ることができる。

いかにありのままでありながら、自分を、他人を、無為に傷つけずに繋がることができるか。

そういう挑戦を諦めないために、わたしはこれからも学び続けていきたいと思う。

【依存症】他人との関わりについて

最近、人との関わりに興味が持てなくなっている。

酒は止まっているけど、人と人との関わりについてはまだまだわからないことだらけだ。

私は、元からそんなに他人に興味がなかったのに、必死に興味を持とう、関わろうとしてきたように思う。

酒が止まり、本来の状態に近づいているからなのかもしれない。

 

伝えたいことを伝わる形で届けようとすることは、いつでもだれに対しても、とても重要だ。

その努力は惜しみたくないし、最大限力を注ぎたいと思っているし、そうしてきたつもりだ。

しかし、どう力を尽くしたとしても、相手がいることだから、うまくいくとは限らない。

相手が受け取る準備ができていなければ、私がどう苦心して形を整えたとしても、伝わらないことは多々ある。

結局、人間は誰もが自分を含む世界全体を見たいように見ている。他人はその人にとって都合がいいように映る。私も含めて皆がそうなのは、どうやら経験上確かだなと思っている。

 

何を必死になって、世の中にとって意義のあることをしたい、などと息巻いていたのだろう。

専門領域について詳しくなり、様々な人に正確な知識を伝えたい、なとど躍起になっていたのだろう。

 

お節介もいいところだ。

全部、受け取る相手がいるのだ。

どんな情報も言葉も、受け取る相手次第であり、それらはハイヤーパワーにより導かれているのだから、私が使命感を持ってどうこう影響しようとする話ではない。

そういう傲りは、私が他人に必要とされたい、という欲望だ。必要とされていなければ生きていてはいけないという恐怖の副産物だ。

私たちは皆、役に立つとか立たないとか関係なく生きていていいし、自己実現や承認欲求はプラスアルファであり、その人がそれぞれ満たしたい分だけでいいものだ。つまりサブミッションだ。

 

私は、私が今まで知ってきたことや感じてきたことを通じてしか世界をとらえられていない。その時点で、どれだけ多くのノウハウを詰め込んだとしても、私の見方は限りなく一元的だ。

他人が見ている世界とは、結局のところ同じではない。誰とも、同じものを見ているわけでは無いのだから。

だから、私が言えるのは「私としては、こうだと思う。」ということだけ。正しいとか間違っているなんて、そもそも存在しない。

私はこれからも「私は世の中がこうなったらいいな」と思うことを朴訥に、淡々と、実行しては検証するだけだ。

賛同する人間は賛同し、反対する人間は反対して、各々の好きなようにしたらいい。

私は私のペースで、そのとき在りたいようにあるしか無い。

本当に、それでしかない。

 

他人の世界観を知ることは、自分の世界を広げる可能性を秘めている。

だから、自分の話をして、他人の話を聞く価値は、いつでも誰とでも、あると思う。

他人と接することで、他人という鏡に映る自分の姿や状態を認識することができ、違う宇宙を覗くことで、神経が拡がっていくように自分の宇宙が拡がる。

 

ただ、この作業は、私はすごく疲れる。

もう正直うんざりしてきている。

この作業にワクワクして力をもらう人には、これ以上ない活力なんだと思うけど。

私はそういう造りはしていない感じがする。

むしろデメリットや矛盾が不快な感覚を味わせてくるので、余裕があるときに少しでいい。

年寄りで胃もたれするから脂物はちょっとでいいみたいな感じ。おじいちゃんかよ。

 

人に囲まれて、慕われて好かれて、みたいなことに憧れがあったけど、今はもうなくなった。

あれは私とはまた違う報酬系だったんだな、と今は思う。人は自分と違う他人に憧れるのだから。

 

勝手に下にみたり、崇拝したり。

くっつきすぎたり、離れてみたり。

あと何回、誰かとの似たようなケースの処理に付き合うのだ。いい加減飽き飽きしてくる。

そんな感じだ。

期待しては失望して、それは結局自分の勝手な独り相撲で、お互いに傷ついて終わるパターンを、一生のうちにあと何回やるのだろうか。

これを楽しいと感じられるのはかなりすごいことだと思う。

もう疲れたな、というただの愚痴。