【共依存】シリーズ「わたしの共依存」③同僚

私は今でこそ必要最低限の仕事だけできたら後は明日にして帰ることができるのだが、昔は体力が尽きるまでやってしまうタイプだった。

以前勤めていた会社はブラックで、いくらでも仕事ができた。

私は寝袋を持ち込んで会社に泊まりこんでは、とにかく仕事か飲酒か睡眠か、というような不健全な生活をしていた。

そんななか、同じブラック企業に勤めていた同僚のなかに、毎日定時に帰る人がいた。

私はいつもその人を見ると何故かイライラした。

トラック運転手であるその人(Sさん)は、営業兼現場監督をしている私とは就業体系が違うので、定時で帰るのは当たり前と言えば当たり前だった。

それを差し引いても、「仕事より家族」と言い切って仕事も満足に終わっていないのに(と私からは見えた)早々に切り上げる背中がなぜか苦々しく見える日々だった。
とにかくSさんのことが面白くなかった。

私は夜となく昼となく働いているのに、評価されない。給料は同じか、私が低い状態だった。

もっとも、それは私がアルコール依存症真っ只中で、定期的に遅刻や体調不良を繰り返していて評価できない人材だったからだが。

結果に貪欲でないSさんに、仕事中心の私はイライラした。

「年上で先輩で俺より給料もらってんだからもっと働けよ、もっと苦しめよ」

「俺のほうがやっているのに俺がキレられて、何でのらりくらりとやっているようなあんなのが許されるんだ」

「俺はこんなに苦しんでいるのに、なんであんなに楽そうなやつが生きていけるんだ。不公平だ」

「ダッサ。何が家族だよ、仕事やらない理由にならねーよ。できない言い訳すんなよ」

そんなことばかり思って、奥歯をギリギリ言わせていた。

 

今なら思う。

これは、私が「苦しい」「つらい」と言えなかっただけ。

Sさんに対する思いとして、彼を鏡にして、「私自身の歪み」が、感情となって表出していただけのこと。

 

昨夜のお前が見てたのは俺じゃない

会わない数年の間にお前の頭の中にこしらえた「俺」

お前の頭ん中の「俺」 お前の頭ん中の物語

その物語こそがお前自身を映してる

今のお前を映しているよ

出典:『バガボンド』第25巻 樹上ニテ想フ より

 

 

 

人はそれぞれ違うのだから、生き方の違いはあっていい。

大切にするものの違いもあるだろうし、限られた人生だから時間の使い方も、違いはあって当然だろう。

最近、自分の判断で仕事に割く時間のウエイトを決めて人生をドライブし始めた。会社の指示だったとしても、筋が通らなければ論理的に反駁して是正を依頼する。

同僚や上司の反感を買うこともある。

「ちあきはオトナじゃない、物分かりが良くない」と下に見られることも多々ある。

それは、まるで前職にいたときの「かつての私」そのものである。

仕事をしたくないのに、しなければならない。

それが本当は嫌だったのに、嫌だと思うことすら自分に許せなかった。

だから私は望んで「人生において仕事に最も傾注することが正しい」という信仰を頼った。

「私は正しいことをしている」という束の間の安心感を得るために。

本当はやりたくないことを我慢してやっているから、やらない人を受け入れられない。

自分の力で変えたくなるし、従わせたくなる。

なぜなら、自分が本当はやりたくないことに気づいてしまうからだ。

気づいてしまったら、もうそれ以上がんばることができなくなってしまうからだ。

それはまずい、と感じているからだ。

なぜか?

頑張れなければ、認められなければ、生きていけないと思い込んでいるから。

その生存を脅かされるのではという恐怖が、不安と怒りになって、私自身に向かっているだけ。

全ては、その人の内なる神とのやりとりなのだ。結局は、自分の問題でしかない。

他の人が影響しているようで、実は自分の中に真実があり、それを否認するときに心は泡立ち、気持ちは揺れる。波が立つ。

ただそれだけのことだった。

 

自分がこれでいいのか。

不安になることも、他人と比べてしまうことも、しかたがない。

そして、それらは全て己の心という水面に映る問題に過ぎないのだから、結局は気にして精神をすり減らしても、しょうがないこと。

今、私を下にみて安心したい現同僚の彼ら。

彼らにも、いつか彼らの本心が見つかるといいな、と祈らずにはいられない。

この歌を泣きながら聴いていた日々の痛みが、今、私に爽やかな優しさをくれる。

 

【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

私は、昔から人生を早く終わりにしたかった。

自分の楽しいことが、いまいち何かよくわからなかった。いつもイライラしていた。

かたや「人生を終わりたくない。楽しいからいきていたい。」そういう妻。

いったい妻と私では何が違うのだろうか?

 

楽しさの追求

妻は基本的に「どうせ生きてるんだから楽しもう」とするタイプだ。

彼女は、親が好きなように生きる姿を見て、好きなように楽しめる方に、他人がどうあろうと行動するしかないことを学んだのかもしれない。

 

彼女の父は、兄と姉と妻の学資保険を全て溶かして起業した挙句失敗し、母はその身勝手な行動に失望して失踪した。

電気のついていない、崩壊した暗い家に一人で帰る小学生時代だったという。

バイトをしなくては学費が払えない中学時代は、遊びたくても遊べなかったそうだ。

 

私は長く疑問だった。

親さえしっかりしていれば、背負う必要がなかった悲しみや苦労を、彼女はなぜ許せるのだろうか?

私は憎い人々を忘れられない。負けた相手をいつか打ち負かして「オレがお前より上だ」と叩きつけない限り夜も安らかに眠れないような人間だ。

なぜ、負けたり理不尽な仕打ちをされたときに、恨みや憎しみに支配されないのか?

 

思い至ったのは、彼女は真の意味で、己の無力さや弱さを知っていて、心から受け容れているからかもしれない、と思った。

 

確かに私が依存症になったときも、そうだった。

私自身、依存症になるなんて夢にも思ってなかった。

でも、これ以上ないくらい完璧に、アルコール依存症になった。

自分では予想もつかないことが起きるし、自分というのは、想像よりするより、あまりにも弱く脆い。私自身、病気を通じて己の無力さを思い知った。

 

妻は私が依存症であるという事実を聞いたとき「ちあきにあるのだから、誰にでもあるものなのかもしれない。」と思ったという。

「私もなっていたらやめられないかもしれない。」

「たとえば骨折しているのに松葉づえを取り上げられたらそれはつらいだろう。それと同じように酒に頼ってきたのに、酒を取り上げられたら苦しいだろう。私なら辞められないかもしれない。」

そう考えたという。

 

誰に、何が起きても、どう期待や予想を裏切っても、不思議じゃない。

 

今の自分には理解できないような果てしなく愚かな行いに見えても、自分ももしかしたら、万が一…いや億が一、同じ立場になったとして、そういう行動をしてしまうかもしれない。

全く同じ立場じゃない限りわからないから、自分もそうなるかもしれない。

 

だから、責めないのか。仕方ないのかもしれない、と思えるのか。

 

たとえば、仮に責めても結果は変わらない。

だから、確かに、理解できない失敗や行為を責めても、結論としては仕方がないのだ。

結局は、自分でしかない。

あらゆる事象は、「自分がより良く生きる材料」として活用するしかない。

つまり、感じてきた痛みは、学ぶ姿勢がある限り人生の「+要素」に昇華できる好ましい事象だと言える。つまり、苦しみも痛みも含めて、何もかもが無駄ではない。

 

人は誰しも欠陥だらけ

悪いところなど、見つけようと思えばいくらでも見つかる。

正直自分も他人も、悪いところなら挙げればキリがない。

いいところを見つけて学ぶほうが、よっぽど実りがある。

建設的だし、自分にとっても他人にとってもハッピーな方向性。

だから、間違い探しにエネルギーを使わない。

どうせ使うなら、受け容れて学び、楽しむ方にエネルギーを使う。

この「楽しむことに全力全開」というのが、私が妻を見ていて尊敬するところだ。

 

今のところ、何一ついいところが見当たらなければ、そっと距離を取ればいいだけのこと。

また時期が来たら見つかるかもしれない。

今はまだ私にはわからないだけかもしれない。

今は相手に余裕がなくて、本来ある良さがマスクされているのかもしれない。

自分のことが他人にはなかなか理解してもらえないように、私も他人を簡単に見切れるほど優れているわけでもないし、眼が効くわけではないのだから。

そういう、息の長い向き合い方をしていきたい。

簡単にカテゴライズしない。ジャッジしない。諦めて切り捨てない。

それは、自分が反対の立場ならそうしてほしいし、他人がそうあるほうが幸せだからだ。

 

『いいとこあるかもしれない』で終わらせておけるのは、他人は他人と割り切っているからである。

つまり、自他の境界線(バウンダリー)が完全に区切れていることに他ならない。

自分を脅かす脅威に思えて、早く理解したことにして自分のなかの落ち着けどころを決めてしまおうと不安に焦りたくない。

その人の必ずあるであろう良いところが、私にとって面白いか面白くないか、を感じとろうとする感性と関わる姿勢を大事にしたい。

不安や恐れがあるのは、今までパワーゲームでコントロールされたり条件付きの愛情を受けてきたりしたせいで、ランキングが存在価値に直結すると思っているから。

存在価値を脅かされることはとても怖い。

社会的な死、精神的な死を意味するから。

怖くて当たり前。怖いのはあなたのせいじゃない。あなたが弱いのではない。

怖さを隠さなくていい。それは弱さじゃなく、原因と結果の産物であり、昔必要だった愛すべきライフスキルである。

そして、今もう役目を終えて、手放していいスキルでもある。

新しく、相手を見るときには、マネできるいいところを探そうと思う。

人との出会いや関わりは、その面白みを見つけられる楽しいことだと位置づけていきたい。

そうすれば、私は人との関わりを、唯一安寧に近い一人の時間を邪魔する煩わしいイベントとして忌避しなくてよくなる。

世界がもっと生きやすくなる。

そうなってくれれば、もはや嗜癖に頼る必要がなくなる。

自分の世界の見方を変える。これが、依存症者にとって、ACにとってのパラダイムシフトなのだと思う。

【AC】絶対に他人に負けたくない私が「負けるが勝ち」を理解した話

・負けた悔しさを切り離せず悩みから抜けられない人

・勝負になると、すぐ勝ち負けに拘ってしまう人

いませんか?

私は、そういうタイプです。

 

12ステッププログラムを学び、平安の祈りを読むたびにいつも思います。

「変えられるものと変えられないものを理解している人」

それは、12ステップを極めし者であり、最も楽しい生き方なのではないか、と。

しかしこれがなかなか難しい。

他人との関わりに心を乱さない落ち着きと賢さは、どのように身につければよいのでしょうか?

私にとって永い間テーマで在り続けたこの問いに、ひとつの解を見出しました。

 

「妻の場合は、どうなんだろう?」と思って聞いてみた。

妻は勝負事が好きです。そして負けず嫌いです。

私にはこの感覚がわかりませんでした。

なんで勝たなきゃ楽しくないのに、負けることが嫌いなのに、勝負が好きなのだろう?

私は勝てる勝負しかしません。なぜなら負けるのが嫌いだから。

勝つから楽しいんであって、負けるなんて屈辱の極み、苦痛でしかない、と思ってきました。

 

妻は、負けるのは悔しいが、『負けるが勝ち(価値)』なんだという考え方だと言いました。

なぜなら、負けるということは、より優れている要素を取り込むチャンスだからだ、というのです。

今の自分が精一杯やったのに負けてしまうような実力のある相手なら、何か自分よりすぐれたポイントがあり、得るものがあるはず。

そのような存在がいることは、自分より優れた秘訣を学べるチャンス。

確かにそこにある改善点が顕在化する瞬間であり、負けることはありがたいことなのだ、と思えるそうです。

流川楓かよ( ^ω^)・・・

出典:『スラムダンク』第29巻より

 

前の自分より少しでも良くなれるというのは、希望そのものです。

「結局、自分だから」と口癖のように妻は言います。

自分より上がいる、それを見ることができる。

その時点で、吸収すればするほど、自分が「今より良くなる」ことは確実です。

他人は変えられないけど、自分なら変えられる。だから、勝負の本質は、実は勝ち負けじゃない。

自分が良くなれるなら、負けは「負け」じゃないということです。

『試合に負けて、勝負に勝つ』

死力を尽くしたうえで「負ける」ということは、さらに上を目指せるという証明でもある。

だから負けを認められるし、強くなれる。

相手との勝ち負けの刹那的な結果に目を曇らせないことが肝要です。それが重要なんじゃない。

自分を改良することに貪欲な在り方「諦めない」ということこそが、真の意味で負けないためには重要です。

勝者であり強者である、とは、こういうことなのではないでしょうか。

 

妻がこの考えに至った背景とは?

妻は末っ子です。上に兄・姉がいます。

基本的に、常に負けまくってきたと言います。

「どうぜ勝てないなら、負けを楽しむしかない。」

そう思った彼女が幼いころから編み出した考え方が、上記のような「負ける」ことへの可能性とワクワクを見出す思考方法に繋がっています。

他者との比較よりも、自己成長に主眼を置いた価値観を体得したのです。

負けたくなくても負ける。それも、何度も負ける。

自分の価値が損なわれる恐れのない、ある意味「負けてもアイデンティティを失わない」競争関係を早くから与えられ、たくさん経験して慣れている。

それが末っ子の強さの秘訣のひとつであると、私は感じました。

 

尊敬する人は?と問われれば、私はマザーテレサや宮本武蔵を挙げます。

皆さんは誰を挙げますか?

 

妻は、「自分より少しでも一つでも優れたものを持つ人は、みな師であり、尊敬の対象だ」と言いました。

正直、その発想はありませんでした。

基本的にほとんどすべての人に「すげーな」と思うそうです。

相手を尊敬している。

だから接する相手も心を開く。

だからいつも気の置けない仲間に囲まれる。

そういうことか、と思いました。

 

私は、すぐに至らない点を見つけて、相手を下に見る、器の小さいところがあります。

それはなぜか?

「たいしたことがない相手だ」と思わなければ、自信のない私は不安に押し潰されそうになるからです。

だから、いつも独りなんです。

それを突き付けられた気がしました。全部、自分の在り方が招いたことだったのだと。

 

自分にないものを持っている人は、脅威ではなく宝なのだと思います。

よりよく生きるための、より高い場所にいくための。

だから皆が味方で、皆のおかげだと感謝できて、今があるのは皆のおかげと、本気で謙遜する心を持ち、あらゆる全てに感謝できる。だから、世界が素晴らしいと思える。

そうなればもはや、世の中は敵だらけの嫌な場所ではなくなる。

私はと言えば、この世は阿鼻叫喚の世界だと思って今まで生きてきましたから、この発想は目からうろこどころではありませんでした。

 

まとめ:「感謝」というのは、義務でも自己欺瞞でもアピールでもなく、自然に湧き上がるものだった

私は、「全ての人に感謝」とか、全く意味がわからん、と思ってきました。

私は、親が感謝してほしそうにしていろいろな要らないものを押し付けてくる環境で「感謝しなきゃいけない」という圧力に不満が言えない時期を長く過ごしてきました。

感謝してしまったら、不満や自分の意見を持つことを許してもらえない、わかってもらえない、受け取ってもらえない、という恐れをもって生きてきました。

つまり、私にとって今まで「感謝」というのは自分以外の誰かのオーダーに対する無条件降伏に似ていて、今までのつらい経験からくる反射からすると「忌避すべき感情」として認識されていました。

 

感謝している人は、本気で感謝しているんだな、と思うと、不思議な感覚です。

「ありがとうありがとうばっか言って頭わいてんのか?」と白い目でみてきた私でしたが、彼らは本気で思っていたのか。「感謝してる私は上等な人間」っていうアピールじゃなかったんだな、と思うと、自分の認知の歪みはとんでもないな、と思います。

特に勝負において「人生を楽しむ」「幸せに過ごす」その方法とは、

①自分の改良を主眼に置いて、相手に負けることを逆に楽しむこと。

②一つでも優れた点があれば相手を尊敬し認め、学べる機会と相手の存在に感謝すること。

その2つでできているのだと、私は発見しました。

【AC】STEP12:「この世に無駄なことは一つもない」に納得した話

Having had a spiritual awakening as the result of these steps, we tried to carry this message to others who still suffer, and to practice these principles in all our affairs.

これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージを他の人たちに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。

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最近、私はどこに向かっていけばいいのだろうか?と悩むことが多くなっていた。

他人には他人の価値観がある。

届かなくて当たり前で、届くかどうかコントロールしようとしてはいけない。

「他人のためにという起点ではダメだ、だから自分のためであることを忘れないように、物事に取り組まないと」

そう思えば思うほど、それは本当に私が向かいたい方向なのか?と首を傾げることが増えた。

 

自分のためばかりでは、利己主義である。

己のことばかりで生きている人生は虚しい。

己の欲を満たすためだけに、他人を蹴落としたり陥れたり、他人を警戒したり、そんなことは疲れるからしたくない。

そこまでして満たしたいほど、私の欲は深くはない。

 

かといって、「他人のために」というばかりでは、ただの共依存である。

共依存的な関わりは、双方病んでいく。

他人の為と言いながら自分の為であり、他人の為にただただ浪費され搾取される存在として自己犠牲を厭わないのは、美しいように見えて、自分を供物にして愛してほしいだけの、自分を卑下する生き方だ。自分に対しても、他人に対しても、失礼である。

 

つまり、どちらのためでも、よくない。

どちらかが正しいのではない。極に振っては、よくない。

中庸、バランスが大切である、という考えに行きついた。

自分以外の誰かに、自分と同じ程度の愛を運ぶことが、さらに自分と世界を美しくする法則なんじゃないかと思う。

第一に自分のためであり、他人のためになると己が信じ抜ける行動をすること。

それが最も虚無から遠い行い、生き様の具体的な姿ではないだろうか。

 

私は、虚無がすこぶる嫌いだ。

身体的には虐待らしい虐待もなく、雨風を凌げる家があり、飢えることもなく、教育を受けさせてもらえた私は、「恵まれている」と評価されることがほとんどで、ややもすると「温室育ち」などと揶揄されてきた。

しかし実際に生きてきた当人としては、生きている実感もないまま社会的正義に説き伏せられて言われたことをこなすばかりで、幸せかと問われれば、幸せとは言い難かった。

 

何をしても、どこにいても、誰といても、虚しい。

喜びや高揚感は何も感じない。

感じるのは不安と焦燥と怒り。

ちゃんとやらなくては。

上手にしなくては。

早くやらなくては。

人より優れた結果を出さなくては。

馬鹿にされないよう賢く立ち回らなくては。

何故こんなに大変なんだ、何故大変なのにつまらないんだ?

早く終わってしまえ、こんな徒労の日々…。

 

そんな思いで充満してすこぶる不愉快なわりに、芯には何もない世界。

果たして、そこで命を保証されていて、人は幸せだろうか?

他人から「幸せじゃん」「良い御両親だね」「恵まれてる」と言われるたび、絶望した。

これが幸せ?これが幸せとやらの上限なのか?

それならば、さながらこの世は地獄だ。これよりもっと下があるのか…。いや、むしろここから下しかないのか。

最悪だ。生きていくことというのは、何と辛い作業なのだろう。

みんな、何のためにこんな虚しい世界で生きるんだ?

何がしたくて、みんなこんな地獄を耐えて生きていきたいと思えるのだろう?

もしかしてそれだけの何かがあるのに俺がまだ知らないだけ?

とにかく理解しがたかった。

いま振り返れば、彼らは私の当時の生活水準だけを自分のそれと比較して話をしていたから、ズレていたのだと思う。

外から見た幸せと、その人の幸せは、必ずしも一致しない。

貧しくとも幸せが詰まった家庭があれば、豪華絢爛でも幸せが空っぽの家庭もある。

 

結果を出して優れた人物として人に認められる、ということは嬉しい。

しかし、この承認欲求というのは、インスタントな娯楽で目的ではない。人生においては副次的なお楽しみ要素である。

人生の価値は自分でしか測れない。

結局、承認欲求を満たすための行動というのは、他人の物差しで評価してもらって、己の価値を別の角度から確認するという作業に過ぎない。

他人の価値観の物差しでいくら幸せだと証明してもらおうとも、自分の価値観の物差しでなくては、本当のところは測れない。

自分の物差しを信じていないから、他人の物差しのほうが正確に測れるような気がしているけれど、それは自分の物差し(価値観)を蔑ろにしていることに他ならない。

最も正確な物差しは、主人公が私であるこの物語においては、私の物差しである。

完璧主義、成果主義、評価主義、承認欲求の囚われから抜け切れていないとその副次的なお楽しみ要素を人生の本質ととらえてしまい、目的を見誤る。

そして、振り返ってみると、自分にはコントロールできないもの(他人の価値観)をコントロールしようとして、徒労に終わっただけだったと気づく。最も見るべきものを見ずに右往左往して結局この場から少しも動いていなかったことに、人生が終わる間際に悟る。

そうして、結果的に人生が虚しいものに終わる。

 

では、何を道しるべにすべきなのだろうか?

信じる。自分の想いや願いが繋がることを。

今このとき、私が生きているうちに理解されなくとも、私が真剣に考えて良かれと思い、相手を尊重した上で差し出した愛は、いつか誰かに届くことを信じる。

この「信じる」ことこそが、結局最も私という世界で確かなことなのだ。

いつか誰かに届くなら、いくら現世で拒絶されていようと必ず届くわけで、やればやるだけ私は満たされていく。

経験した悲しみや苦しみの記憶は、繰り返さぬように同じように苦しんでいる他人に話し伝えることで、喜びや優しさに反転する。

負けた分だけ、苦しんだ分だけ、大切な人に届けられるギフトが増える。それは自分にとってのギフトにもなる。なんと素晴らしいことだろうか。私が虚しさと戦いながら這いずるように過ごした日々は、無駄ではなかったということになる。

だから「この世には無駄など一つもない」という言葉があるのだ。

喜びだけでなく、悲しみや苦しみや憎しみすら、ひとつひとつが愛すべき繋がりであり、己が血肉となって今がある。それは素直に謙虚に届けたい人に開示する限り、宝物として輝く。

 

まず第一に、自分の価値観を信じ、己の尊厳と己の信念を、最も大切なものと位置付けること。

その前提の元に、常に相手も私と同じ尊い存在として認識し、違いを尊重し在り方を考慮し続けること。

自分の目を覆いたくなるような悲しみや弱さや惨めな経験を受け容れて伝えることにより、他人に安心と勇気を届けたいと願い、行動し続けること。

 

これこそが、私が在りたい姿だったのだ、とわかった。

ここにきて、私はひとつ答えを得た。

 

これがステップ12の意味なのかな、と思う。

12ステッププログラムのステップ12を踏むということは、よくネットにあふれている回復者(自称)のように、教える立場に立つことで他の当事者に対してマウントを取ることではない。己の回復度合いをひけらかして承認欲求を満たすことでもない。

そんなつまらないことのために、12ステッププログラムがあるはずがない。

常に己の生活に12ステッププログラムの考え方を内包して、当事者であり続け、当事者としての自分を素直に謙虚に見つめ続ける土台がある人が、自分が今まで得てきた経験知という果実を仲間に惜しみなく与え、己の目を覆いたくなるような経験を率直に吐露することで自分も仲間も与えられ、救われるさまをステップ12は描いているのだと思う。

【共依存】共依存症者にとって12ステップを学び続ける理由とは

いろいろとステージが変わってきたんだな、と思う。

今までは、他人に嫌われたり離れられたりするのがとにかく怖くて嫌だから、予防的に自分を制限して振る舞ってきた。それゆえに、ストレスを抱えていたと思う。

できるだけ争いが起きないように立ち回り、もし争いが起こってもなかったように振る舞い、偽りの仲良しを装ってきたのが、私の「人付き合い」という作業だった。

しかし、12ステップやアサーティブを通して「自分は自分でいい」「感じたことは良いも悪いもなく大事なもの」「他人のそれもまた大事で且つ変えられないもの」・・・そういうことを学んできた。

 

振り返ると、わたしの実父母は、「家族」という共同体において、その対極にある在り方を採用していた。

私の実家、つまり共依存的な機能不全家庭では「和を乱すこと」は常に良くないことだった。

私が結婚することになって、久しぶりに実家を訪ねたとき、今後は妻がくっついてくるから、家族4人で水入らずなのは最後だ、と思い詰めて出迎えられた。無理に楽しく明るく過ごそうとする緊張感に満ちた母や妹が、とても奇妙だったことを覚えている。

些細なことで言い争いになり、ふたりともが泣き出して「最後の日くらい楽しく過ごしたかったのに!台無しだ!!」と互いを罵り合い、泣き崩れる姿を見て、心底ドン引きした。

この家族は、気持ち悪い。

そう思った。

 

人間関係のベースが共依存的だと、他人が離れていくこと、他人に見限られたと感じることは、とてつもなく怖い。

なぜなら、共依存症者は「他者との繋がり」をアイデンティティに癒着させてしまっているから。人から離れられることに対して、今ある人格を無理やり千切られるような印象を持つ。そのようなイメージを持っている人からすれば、他人との繋がりは脅威であり、恐怖を伴って当然だろう。

だから、必死にコントロールしようとする。

だが、相手があることなので、そもそもコントロールできないし、コントロールしている状態だとしたら、その状態は不自然なのだ。

そして、コントロールできないものに目を奪われて今を、自分を見失い、こちらがコントロールするつもりが、いつの間にかコントロールされている。

 

結論としては、合う人とは合うし、合わない人とは合わない。そんなもんだと思う。

考え方や価値観は人それぞれで、どちらが良いも悪いもない。正しいわけでも間違っているわけでもない。自分とは違うもの、よくわからないものを、それはそれとして心を乱すことなく視界に置いておくことができる。それが最も安定した状態だ。

つまり、できる限りのことをしたら、それ以上の状況は見込めない。諦めではなく、執着を手放す。それが精神的自立の理想像だと思う。

そうした在り方が自然にできる人が、稀にいる。

自分の気持ちを大切にできて、同じように他人のあり方を尊重し、恐れや怒りに目を眩まさせれることなく、ただ在るようにある。それが一番自分も相手も安心できる。ありのままでいられる。最も不安定なようで最も安定している。私はそうでありたい。

 

嫌われても好かれても、私は私。

誰と一緒にいるのか、誰と離れたのか、誰に認められたか、誰に認められてないか。

これらは、私そのものには一切関係がない。それぞれ在りたいようにあればいい。

皆がそうなら、私たちはみな幸せなのだが、誰しも未来や過去を思う。想像すると不安だから、よくわからないものをわからないままにするのが恐ろしくて、レッテルを貼る。あるいは比べて下に位置づけたりする。

そうして分かったような気になる。安心したがる。

しかし、そうすることによりそのものをそのまま見ることができないでいるために、かえって現実とのギャップを感じて理解に苦しむことになる。

 

 

引用:『バガボンド』第7巻より

 

 

「我が剣は天地とひとつ」というのは、「『剣』とは一つの共通言語」だという意味なのだろう。

己の力や存在価値を証明するために、他人に振りまわすような小さいものではなく、この世の理を知り、他の宇宙(他人)と繋がるためのひとつのツールだという意味だと思う。だから、最終的には刀すら要らなくなるのか。

アサーティブや12ステップも似たようなもので、共通言語としてのツールであり、それを世界と繋がるための媒体として、己のなかに内包・同化することが、真に回復した姿なんだと思う。

すなわち、真の回復状態とは、息をするように、心臓が鼓動を打つように、自然に自分の中にある12ステップやアサーティブという「生き方のツール」に立ち返り、常に世界と向き合うことができる状態。私は以前に比べれば、その状態に近づきつつあるのだと思う。だから、基本的にそこまで他人に対して心を執着させることがなくなってきたんだと思う。

 

「小次郎 俺たちは 抱き締めるかわりに斬るんだな」

引用:『バガボンド』第20巻より

 

人間との関わりや摩擦はそれで、真剣に立ち合えば立ち合うほど、お互いを切るような痛みや血は避けられない。武士の立ち合いとなるといわゆる順縁ではなく逆縁のパターンだが、しかし共通言語を持った者同士の真剣で素直な関わりであり、その瞬間に最も繋がることができる。

プラスでもマイナスでも、真っすぐでなくては真に人と繋がることはできないのだと思う。そしてその繋がりに固執するのではなく、コントロールせずに流れのままに揺蕩うことができるかどうか、それが強さなのだ。

私たちはお互いに、本性は抜身の刀である。不用意に扱えば人を傷つける者同士だ。

『刀は刀であることをやめることはできない。』けれど、傷つけあうことを望むわけでは無い。

 

「道を極めたなら、刀は抜くまでもないもの。そう師に教わったよ。いかに鞘から抜かずにおくか。そのために我々は死にもの狂いで剣を振っとるのだ。(柳生石舟斎)」

引用:『バガボンド』第27巻より

 

 

我々が12ステップやアサーティブをやり続け、学び続けるのも、これが理由だと思う。

極めたなら、刀を抜かなくてもよくなる。それでいて、自然に在ることができる。

いかにありのままでありながら、自分を、他人を、無為に傷つけずに繋がることができるか。

そういう挑戦を諦めないために、わたしはこれからも学び続けていきたいと思う。

【依存症】他人との関わりについて

最近、人との関わりに興味が持てなくなっている。

酒は止まっているけど、人と人との関わりについてはまだまだわからないことだらけだ。

私は、元からそんなに他人に興味がなかったのに、必死に興味を持とう、関わろうとしてきたように思う。

酒が止まり、本来の状態に近づいているからなのかもしれない。

 

伝えたいことを伝わる形で届けようとすることは、いつでもだれに対しても、とても重要だ。

その努力は惜しみたくないし、最大限力を注ぎたいと思っているし、そうしてきたつもりだ。

しかし、どう力を尽くしたとしても、相手がいることだから、うまくいくとは限らない。

相手が受け取る準備ができていなければ、私がどう苦心して形を整えたとしても、伝わらないことは多々ある。

結局、人間は誰もが自分を含む世界全体を見たいように見ている。他人はその人にとって都合がいいように映る。私も含めて皆がそうなのは、どうやら経験上確かだなと思っている。

 

何を必死になって、世の中にとって意義のあることをしたい、などと息巻いていたのだろう。

専門領域について詳しくなり、様々な人に正確な知識を伝えたい、なとど躍起になっていたのだろう。

 

お節介もいいところだ。

全部、受け取る相手がいるのだ。

どんな情報も言葉も、受け取る相手次第であり、それらはハイヤーパワーにより導かれているのだから、私が使命感を持ってどうこう影響しようとする話ではない。

そういう傲りは、私が他人に必要とされたい、という欲望だ。必要とされていなければ生きていてはいけないという恐怖の副産物だ。

私たちは皆、役に立つとか立たないとか関係なく生きていていいし、自己実現や承認欲求はプラスアルファであり、その人がそれぞれ満たしたい分だけでいいものだ。つまりサブミッションだ。

 

私は、私が今まで知ってきたことや感じてきたことを通じてしか世界をとらえられていない。その時点で、どれだけ多くのノウハウを詰め込んだとしても、私の見方は限りなく一元的だ。

他人が見ている世界とは、結局のところ同じではない。誰とも、同じものを見ているわけでは無いのだから。

だから、私が言えるのは「私としては、こうだと思う。」ということだけ。正しいとか間違っているなんて、そもそも存在しない。

私はこれからも「私は世の中がこうなったらいいな」と思うことを朴訥に、淡々と、実行しては検証するだけだ。

賛同する人間は賛同し、反対する人間は反対して、各々の好きなようにしたらいい。

私は私のペースで、そのとき在りたいようにあるしか無い。

本当に、それでしかない。

 

他人の世界観を知ることは、自分の世界を広げる可能性を秘めている。

だから、自分の話をして、他人の話を聞く価値は、いつでも誰とでも、あると思う。

他人と接することで、他人という鏡に映る自分の姿や状態を認識することができ、違う宇宙を覗くことで、神経が拡がっていくように自分の宇宙が拡がる。

 

ただ、この作業は、私はすごく疲れる。

もう正直うんざりしてきている。

この作業にワクワクして力をもらう人には、これ以上ない活力なんだと思うけど。

私はそういう造りはしていない感じがする。

むしろデメリットや矛盾が不快な感覚を味わせてくるので、余裕があるときに少しでいい。

年寄りで胃もたれするから脂物はちょっとでいいみたいな感じ。おじいちゃんかよ。

 

人に囲まれて、慕われて好かれて、みたいなことに憧れがあったけど、今はもうなくなった。

あれは私とはまた違う報酬系だったんだな、と今は思う。人は自分と違う他人に憧れるのだから。

 

勝手に下にみたり、崇拝したり。

くっつきすぎたり、離れてみたり。

あと何回、誰かとの似たようなケースの処理に付き合うのだ。いい加減飽き飽きしてくる。

そんな感じだ。

期待しては失望して、それは結局自分の勝手な独り相撲で、お互いに傷ついて終わるパターンを、一生のうちにあと何回やるのだろうか。

これを楽しいと感じられるのはかなりすごいことだと思う。

もう疲れたな、というただの愚痴。

 

【仕事】製薬会社のMRがオワコンと蔑まれるようになった本当の理由

MRとは「Medical Representative」の略で、日本語では「医療情報担当者」つまり製薬会社の現場担当者である。

日本のMRは、海外に比べてその存在を尊重されていない。

海外旅行で出会ったチェコ人やアメリカ人に「何の仕事をしているのか?」と聞かれて「私は日本でMRをしている」というと、握手を求めてくれたりする。

日本以外では握手を求められるほど素晴らしい職業だと認識されているということだ。

日本と海外では、なぜこれほどまでにMRという職業に対する認識に違いがあるのだろうか?

 

売れればなんでもいいという医療従事者としての意識の低さ

海外のMRは接待が違法だ。法律で禁止されている。

だから絶対に個人的な癒着などで処方をお願いしようなどとはしない。

あくまでも、MRとしての技術や能力で医師に貢献するため、深い知識を身に着けて対等にはっきりと医師に対して提案し主張するべきを主張する。

そういう誇り高い働き方をしている。

 

一方、日本のMRはといえば、勝てば官軍負ければ賊軍、と言わんばかりで、とにかく自社の製品が売れさえすればいいと思っている人間が大半を占めている。

ルール内でありとあらゆる手を尽くす。ときにはルールを逸脱してでも倫理観や医療従事者としての規範を放り捨てて売り上げのほうをとる。

そういう下品さが、日本におけるMRの特徴だ。

 

なぜそんなに下品になってしまったかと言えば、どれだけ医療に貢献していようといまいと、結局は売上で評価されるからだ。

そりゃあ、現場感覚も歪むだろう。

副作用情報を一回も聴取したことがないMRがマネージャーに昇進したりするのだから、(真剣に症例に向き合い、医師と薬剤の話をしていたら確率的にはあり得ない)部下はとにかく売上さえあげておけばいいと思って当然だ。

副作用(AE)情報の収集などは、売上に関係のない『余分な仕事』だと本気で思っているMRが今もまだいることに、私は驚きを隠せない。MRにとってAE情報収集は最も重要な仕事のひとつであり、むしろそれさえちゃんとしていれば本邦においてもまだ存在意義があるんじゃないかと思うが、AEの収集や薬剤の適切な処方方法についてフラットな話ができないようでは、本当に居る意味がない。本当に要らない。

患者さんを大事にしようがしまいが、とにかく薬が売れればいい、それが今まで現場を跋扈していた「デキるMR」という痛い生き物である。

 

MRに対する医師の不信

だから医師は、MRが話すことなど信じなくなってしまった。

「結局こいつらは売れさえすればいいのだ。いいことしか言わない。」

「売り上げに影響しそうなマズい情報は、本当に大事な情報だったとしても隠すやつらだ。信用ならない。」

そうやって諦められてしまった。

だから、訪問を断られる。

なぜなら、話す価値がないからだ。

そりゃそうだ。自社に都合のいいことばかり言って、本当に伝えてほしいリスクの部分をちゃんと伝えないような人間に会う時間は、唯々もったいない。私だって断るだろう。

医師はMRに会うよりも、ネットで情報を集めるようになり、何か困ったら製薬会社の問い合わせ窓口に電話するようになった。そのほうが正確だし早いから。

本来MRが充足するはずだったソフト面のサービスを、他で代替せざるを得ない状況をつくってしまったのは、製薬会社自身である。

売上で評価して、数字として表れないMRとしての働きを評価しなかった。そういう人事面での評価を簡略化した怠慢が、信頼の喪失という最悪の形で表出しているに過ぎない。

MRの技量不足ではない。会社のそもそもの体質と経営方針が、問題なのだ。

 

迷走する哀れなMRたち

信じてもらえないから、より屈折したアプローチに傾倒していくMRたちを何人も見てきた。

会社が信じてもらえないから、自分という人間を信じてもらえるように頑張る。それはすなわち個人的な癒着に他ならない。

そんなMRを取り巻く環境は、コロナ流行以前に比べて、以降は特に厳しい。

「会わなくてもあまり医療に関係ないんだ」ということが、医師にも会社にもわかられてしまったと言ってもいいだろう。

それは製薬会社そのものが、本来あったMRの役割や良さをどんどんこそげ落としてきたからだ。しかし現場のMRたちは、少しずつ会社に洗脳され、じわじわと翼を毟られていたとは、今まで自覚してこなかったので、自力では飛べなくなっていることに今更気づいて青ざめている。

そういう意味では、そもそも医療者として思慮が浅すぎることこそMRの罪だったのだが、いまさら言っても詮無き事。

会社が言うとおりに訪問して、製品をコールしてコールして、売上が上がれば褒めてくれる会社のためにシャカリキになって頑張った。そんな共依存的で忠実な奴隷社員が、今マネージャーとして現場を統括しているのだから、もう目も当てられない。

もう会社に褒めてもらうというくだらない承認欲求のために、一度しかない貴重な人生を犠牲にするべきではない。

早期退職制度が各製薬会社で推奨されはじめて久しいが、ついに先日武田薬品でも開始されたとニュースになっている。「フューチャー・キャリア・プログラム」などと呼称し、「キャリア支援の一環」と称してはいるが、とどのつまりはリストラである。

今までのような会社の奴隷ではなく、地頭で考えて社内評価などという些末な価値観に左右されない医療従事者としての矜持と信念を持った者でなければ、もう務まらない職業になってきた。

そして、それはあるべき姿に戻ろうとしている過渡期の姿でもある。

 

これからあるべきMRの姿

正直、訪問や情報伝達は、2〜3ヵ月に1回でいい。

①取り扱っている製品知識と②製品の対象疾患知識、③対象疾患に関連する併存疾患知識。これを医師とディスカッションできるレベルにすることが前提条件である。

今までのMRは勉強しなさすぎ。せめて上記の3つは会社の教育制度に頼らず、毎日勉強してしかるべきだと思う。

勉強と称して日々受けさせられていた製品の社内教育は、聞き流しておこう。

売るためだけの指導プログラムはもう要らない。そういう社内教育は全部無視していい。会社都合の洗脳プログラムであり、聞くだけ無駄。

また、これは本社マターになるが、マネージャー登用はマネジメントの能力を評価する独自のジョブポスティング制度を設けて、実績にかかわらずマネジメントの能力でポジショニングするのが良い。

そうでないと、またしょうもないマネージャーが量産されてしまう。現場で実績を残せる人と、素晴らしいマネジメントができる人は、イコールではない。そもそも特性が違うし、役割が違う。

マネージャーを昇進と位置付けるからおかしなことになる。「かつて売る技術に長けていた者が売りつけるノウハウを部下に教える役割」と勘違いしているマネージャーが多いようだが、そんな役割はもう要らないし、そもそも売ることが目的ではない仕事でこれ自体おかしい。

マネージャーは、MRに適切な情報活動ができるようサポートするJOBのひとつ。

そうなりたいひとが現場を経験しながらマネジメントを学び、ジョブポスティング制度でテストしてから配置して、現場で適性が確認された者のみを採用しつづければよい。

今後、そうした在り方が正しかったということを、自分の身をもって証明していけたらいいな、と思う。

【AC】Step8「傷つけた人」その⑧『自助グループの仲間』

私は、間接的に目に入るブログという媒体を通じて、直接実直に話すことが難しい怒りや悲しみを、相手に作為的に伝えようとしたことを、謝罪したいです。

 

共依存的なコントロールであり、ACとして自分の感情を過小評価して卑下し、主張する自信がないから、ねじ曲げて表現しました。

いわゆる、嫌味な言い方です。

自らが極力責められないように形を整えて、卑怯なやり方でした。

そのことで、寂しさや悲しさを相手に味わわせたことを、本当に申し訳なかったと感じています。

 

私は当時ブログに思いの丈を書きました。

「私は素直に感じたことを書くためにブログを始めたんだから、これを読んでどう思うかは相手の問題だ。私は悪くない。」と、理論武装の盾に隠れて、安全な場所を確保して、私は暗に他人を非難するような内容を書きました。

 

実際「私のことを責めてたよね?」と当事者から言われた時、私は知らんふりをして「私の記事があなたにそう映るんなら、あなたの中に問題があるんじゃない?」とズルく卑劣な言い方をしました。

たしかに私が何を書くかは自由だけど、ほんとうに私が実直なら、当事者から確認されたときに思っていることをその人に正面から伝えるほうがより良かったし、そうしなかったのは「相手はまだわかってないから、見方を誤っているんだ、だから、正しいことを教えてあげよう」などという思い上がった気持ちが私にあったからでした。

 

そもそも、相手の対応に傷ついたり対等に話すべく話し合いを望んでもちゃんと話してくれなかったので、関係が悪化していったことが始まりではあります。

私はその人に対して、これ以上正直に話すことが怖かったのでした。実直に話しても受け取ってもらえない痛みに耐えかねて、でも胸の内にある悲しみや怒りを抑えることができずに、歪んだ表現方法を取りました。

それは、仕方なかったとはいえ、いいことではありませんでした。

 

私のやり方が相手と対等ではなく、実直さや率直さを欠いていたことは紛れもない事実であり、私はそれを認めて、心から謝りたい。

そして、二度と、ブログをそんなふうに他人を間接的に攻撃するための手段に使ったりせず、一瞬一瞬を、自分に実直に、相手に率直に、対等な心で接するよう、自分の行動を変えていきたいです。

それが、私にとって、私が私を嫌いにならず、自分を最も大切にすることだと思います。

 

お相手にDMで謝罪したいなと思いましたが、私からは送れなくなっていたので、ここに置いておかせてください。

本当にごめんなさい。

私は少しずつでいいので、変わりたい。

【AC】境界線を守り混乱を避けるために必要なこと

最近ネガティブな記事ばかりを書いていた。

どれもこれも、本当の気持ちに気づくために必要な毒で、毒出しをしていたようだ。

 

この本を読んでいて、最近あった哀しかったことも、重要なことに気づくために用意されていたことだったのだと知った。

 

私は何が哀しかったのか?

私は最近、とても哀しかった。

そしてそのことを打ち明けられると私が思える人がいなかった。

なので、ここに置いておこうと思う。

いずれ本人に言える時が来たら、言おうと思う。

 

とても気が合う人がいた。

思考回路も興味関心も似通っていて、というかほぼ重なるほど同じで、そんな人は今までいなかったのでびっくりした。

この人となら分かり合えるのではないかと期待した。普通の知り合いとは一線を画した好意を持った。

相手も好意をもって接してくれていた。とてもうれしかった。

しかし、紆余曲折を経て、最終的にお互いが望む関係性は少し違っていた。

私はそのことを伝え、相手も了承し、新しい関係がスタートしたと思い込んでいた。

しかし、相手にとってはそうではなかった。

相手にとっては、もっと親しい関係性を望んでいたのに私がRefuse(拒否)したことで、とても深く傷ついていて、私と接することにストレスを感じていたことがわかった。

しかし、それをアサーティブには話してくれなかった。

私から終わりを告げた関係性の一つの形。私が終わらせたことで、私は加害者として相手には映っていた。

つまり、相手にとって関係性が相手の望む領域に至らないのであれば「私と今違う関係性で接することは苦痛を伴うから、連絡するのはやめてほしい」ということだったのだが、その気持ちを素直に伝えてくれるのではなくて。「あくまでも私が関係性を拒絶したから終わってしまった、私のせいで終わってしまった」という状況になるように、遠回しにコントロールされているように感じた。

合意したわけでは無かったのに、私だけこれでよいと思っていたのか。

そのことに気づいて、また相手の接し方の後ろに見え隠れする恨みと本心が垣間見えた気がして、私は今までの自分の行動を悔いた。最も親しく接してきた相手に最後の最後に悪者にされたような気がして、とても哀しかった。

覚悟したこととはいえ、私は世間的に間違っているとされている関係性を選んで相手と交流したことに、常に自分に対して罪悪感を持っていたことは、否めない。

私の罪悪感が、相手が私を責めているように、うつしているのかもしれない。

実際、相手に「本当は私を恨み憎んでいるのではないか?」と問うたとき、相手は明瞭な答えを示すことはしなかったので、攻撃性が0であるとは言い切れない形ではある。

しかし、それは、相手が正面を向いて話をしてくれる状況でしか確かめようもないし、攻撃性があり私を恨み憎んでいるかどうかは、本質的には関係がない。

相手を変えることはできない。

相手ありきなので、関係性もコントロールはできない。

私が関われるのは、私だけだ。私の行動だけだ。

ということは「なぜ、私は哀しかったのか?」ということが重要だ。

 

私の反応の仕方の問題点

「ネッチー」というコミュニケーションタイプがある。

『#ネッチー(作為的)』とは?

攻撃性を隠して相手をコントロールするタイプ

表立ってことを荒立てたりしないでちゃんと仕返しをする。

トゲのある言い方をするだけで悪意の証拠は残さない。それは、ドッカンやオロロと同じように、自分に対する自信のなさから起因する。

だからネッチーは正面切って人と向き合えないし、自分を含め誰のことも信頼できないのだ。

ネッチーは人をうまくごまかす。

まわりの人を巧みに支配したり操ったりして、自分が拒否されたり傷ついたりするのを避ける。

相手を尊重しているように見えて、そこに不満が見え隠れする。

ドッカンとは異なる攻撃性をもっていて、自分の本心を表に出さず、すり替えたりする。

ネッチーの武器は相手の罪悪感を利用することで、相手が気が咎めている所にすばやくつけこみ、自分の望む状況にもっていこうとする。

出典:コミュニケーションパターンより

 

何を隠そう、私はよくネッチーになる。

だから、他人のネッチーに敏感なのだ。

結局一言でいえばそれだけだ。

自分がそうだから哀しいと感じたのだ。

同じだから、相手の同じ部分が気になりイライラするし、敏感に感じ取って傷ついたり哀しく思ったりする。

こうならないための健康なコミュニケーションに、アサーティブコミュニケ―ションという方法がある。

基本は以下の4つ。

1、自分に対して誠実

自分の気持ちをきちんと受けとめ、誤魔化さない。

それを相手に伝えるかどうかは、自分の責任で選択する。

2、相手に対して率直

相手に伝えるなら、率直に、きちんと伝わる形で。

相手を責めたり、怒鳴ったり、弁解したり、遠回しに言ったりしない。

3、お互いに対等

気持ちを伝えたい相手と向き合うときは、対等な立場で。

自分を卑下しない。相手を見下さない。

4、自分の行動に責任を持つ

気持ちを言ったときも、黙っているときも、その結果は自分で引き受ける。

相手の反応や感情に責任を持つ必要はない。自分自身日空いて責任を持てばいい。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P42~43より

 

今回振り返ってみて、私はうん、全部ダメだったな。

自分の「相手を傷つけ恨まれ、アサーティブでない方法で敵意を伝えられて哀しい」という気持ちを受け止めずに希死念慮や世の中の空虚さを語って誤魔化そうとした。

自分の行動に罪悪感があり、「罪を犯しているくせに」と指さされることを恐れて、率直に伝わる形で相手に話す勇気を持てなかった。

自分を卑下し、相手に見下されたり見限られたりしているのではないかという可能性を恐れて先に相手を小さく見積もろうとした。

自分の行動の責任範囲を過剰に広げていた。はじめるときに相手が選んだ行動の選択の責任まで取ろうとしていた。それは相手を尊重していない。相手が選んで今に至っている状況や行動について、その反応や感情の責任を私は負わなくてもよかった。

コミュニケーションは、勝ち負けではない。

お互いに尊重されるその人生の接点を話し合う、対等な話し合いだ。

それをすぐに忘れてしまう。

それは、私が共依存的で境界線があいまいになるときだ。

境界線を守り混乱を避けるために

アダルト・チルドレン(AC)は、しばしば、自他の境界線が混乱している。

それは、機能不全家族のなかで緊張した状況を生き抜くために、不健全な状態でなくては生き残ることができなかったからだ。

その時に学んでしまった自他の境界線の間違った引き方を今も引き摺っているので、私たちは苦しみを抱えやすい。

★境界線の混乱をチェックする

あなたには、次のようなことはありませんか?

当てはまるものが多いほど、境界の混乱が起きています。

□「No」と言うことができない。

□ほしいものや必要なものを要求できない。

□人の意見に合わせる

□自分で決断できない。

□批判されるとひどく落ち込む

□相手を自分の価値観に合わせようとする。

□相手の問題解決に必死。

□相手がだらしないと自分が恥ずかしい。

□相手をすべて自分のものにしたい。

□自分の幸せが相手にかかっている。

□自分よりも人の世話をする。

□自分を傷つける人と関わり続ける。

□人に付け込まれる。

□相手が楽しそうでないと自分が責任を感じる。

□自分だけの時間を持てない。

□苛酷な状況に長い間身を置く。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P24より

 

私は全てに覚えがある。今も、そうだな、と思うことがたくさんある。

境界には3種類あるとされている。

「身体の境界」「感情と意思の境界」「責任の境界」だ。

自分のために、それぞれの境界を守るための原則を、以下にまとめる。

 

〇「身体の境界」を守るための原則

1、疲れたら休む。

2、自分にとって心地よいかどうかを大切にする。

3、あなたの安全やプライバシーを侵したり、あなたを自分のモノのように扱う人には近づかない/距離を取る/関係を切る。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P26より

 

〇「感情と意思の境界」を守るための原則

1、相手の感情と、私の感情は別。私の感情は私だけのもの。

2、相手の感情について、私は責任を負わない。

3、相手の感情を、私はコントロールしようとしない。

4、私の感情を表現するか、しないかは、私が選択する。

5、私の行動は、私が決める。

6、私の行動を他人がどう評価するかは、私の価値には関係ない。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P28より

 

〇「責任の境界」を守るための原則

1、相手の責任と、私の責任とは別。私は自分が乗り出す前に「これは誰が負うべき責任か」を自分に問う。

2、相手に代わって自分が責任を負うことはしない。相手に対する自分の責任を果たす。

3、相手の問題を何とかするのではなく、問題に悩む相手に共感する。

4、相手を困難から救い出すのではなく、相手を力づけ、必要なサポートをする。

5、相手の問題について責めたり指示したりするのではなく、事実に直面させる。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P30より

 

これらを、息をするように、ごく自然に守れるようになりたい。

守ろうと意識しなくてもごく当たり前に則を越えず、踏み誤まりそうになったら気づける自分でいたい。

安全で心地よいを感じながら、自分を大切にし、自分の境界を大切にしたい。

それが、他人の境界を尊重することで在り、真の意味で優しい、ということだと思う。

まずは自分の境界をしっかりはっきりさせよう。

【AC】この世は別に良いところじゃない

残念ながら、我々が今いるこの世は、あまりいいところとは言えない。

 

(あ、この記事は本当にネガティブの塊みたいな記事なので、調子の悪い人はブラウザバックしてほしい。)

 

良いところだと信じたいと思ってきたし、そう信じているという人たちの話を聞いて「なるほどそうなのかもしれない」と思ってやってきたけれど、今現時点では、やはりそうではないな、と思う。

もう口車に乗せられて無駄に期待しすぎるのは、やめにしなくてはならない。

「楽は苦の種・苦は楽の種」つまり苦しんだ分だけ幸せが来る、最終的には帳尻が合うようになっている、などという言説を聞いたことがある。

私はまだ人生の序盤から中盤に差し掛かったくらいなので、まだ帳尻が合うかどうかは検証しようがない。私は生きるのはせいぜい長くても60くらいまででいいので、50くらいになったころ検証可能になるとは思う。

最終的に帳尻が合うようにできているとしたら、この後かなり巻き返しを期待しないといけないが、どうやら周囲の50くらいの人々を見ていて、とても帳尻が合うようには思えない。

どう考えても、生きるのは大変だ。

「え?何かの罰?呪いか何か?」

と思うくらい、喜びの比率が少ない。ことに人が関わると、その比率は激減する。

深く関われば関わるほど、「私は他人にとっては、いてもいなくても変わらないし、むしろいないほうがいい存在だ」という暗い考えも深まる。

底なし沼が、もがけばもがくほど深く重く暗く広がっていくようなのが、人間関係というやつだ。

 

人と無力

私はそりゃあもう笑ってしまうくらい、人との関わりにおいて、本当に無力だなと思う。

誰の何にも、関わることはできないのだ。

「行動すれば変わる、変わるまで行動しないからだ。まだ知らないだけだ。」そういう声が聞こえてきそうだが、それはたまたまその人のなかではそうだっただけで、私とその人とは、違う宇宙に棲んでいるようなものなのだ。

本当に、違う宇宙だなと思う。

交わっているようで、本当は一点の交わりもなかったのかもしれない、と思う。

妻とも、分かり合えているようで、その実、本当に分かっているかといえば、そうではない部分だってあるし、分かっているつもりに私がなっているだけで、本当は何もわかっていないのだと思う。

他者と自己の間には、絶望的な隔たりがあり、それを近づけようとすればするほど、大きな軋轢が生まれて、それぞれに傷つく。

欲を出して叶いもしないことをやろうとしたばかりに、かえって溝を深めてしまうように、結局は双方の間のいかんともしがたい間隙の深さと遠さを味わうだけのこと。藪蛇だ。

それが「人と人とが関わることに希望はきっとあるさ!✨キュピーン」という気色悪い信仰がもたらす、唯一のありがたいご利益だと思う。

 

それを知ることにより、無力を知ることができる。

「私は、他人との関りに対して無力であり、自分の力だけではどうにもならなかったことを認める」という出発点に立てる。

総じて、誰一人としてある意味ではひとりではないが、ある意味では皆独りである。

愛し合い常に一緒にいるからといって、個体として融合できるわけではないし、誰かに何か欲しいものを可能な限り自分が分け与えたからといって、その人が好いてくれるとも限らなければ、うっとおしがって嫌ってくれるとも限らない。

全く、思い通りにはならない。

そして完璧に徹底的に交わらない。

しかしながら、孤独を抱え『誰かと分かり合えるはず』同じ幻想を抱いている、という意味では、皆が同じだ。そういう意味では、ひとりではない。

 

クソゲーでいいじゃない

奇妙なものだな、と思う。

そんなにみんなの共通の願いなら、神様がいるならかなえてくれてもいいはずなのに、そうとういじわるな神しかいないのか、せっせと信仰して拝んでいる人が少なからずいるにも関わらず、実に塩対応である。

チームプレイを推奨していながら、他のプレーヤーとパーティが組めない。

絶対クリアできない仕様のバグでいつまでも終われない。

文句なしのクソゲー仕様だ。

もし現代でメーカーがリリースしていたら、即発売停止モノだろう。

誰もやりたくないのに、一人残らずやらないといけない。

運動会の行進みたいなもんだ。

 

つまり、なんかこれ凄い素敵な、みんなが想像し期待を寄せる(己の外部に位置する)神など、この世にはいない。

いたらもっと世の中はマシだ。自殺する人が増えたりしない。

 

前向きな姿勢の重要さを説く人に出会うと、なんかちょっとたまに気まぐれで恵まれる不味い炊き出しを、「最高の飯だ…ありがてぇありがてぇ…世の中は奇跡に満ちてるぜ!みんなもそう思わないか!」って一生懸命有難がっているような感じがする。

本当は腹減ってて足りないし、もっとおいしいもん食べたいくせに、強情を張っている。

精一杯楽しんでいるふうでいて、外目とは裏腹に内心は白鳥のバタ足のように必死だ。まるで「映え」ていないと仲間から見限られる…という恐れに突き動かされて、行きたくもない大しておいしくない店の行列に並ぶ若者たちの、必死に作った引き攣り笑顔にジン割と色濃くにじむ、あの疲労感と悲壮感がある。

 

はっきりいって、この世はそんなにいいところではない。

それでもう、いいんじゃないかと思う。

しんどいし、つらいし、誰もわかってくれないし、もうやめたくてもやめられない。

人生をせっせとやめさせようとしてくるひとも、最後まで手を下してはくれない。

中途半端につらくするだけして最終的に「ここからはお客様次第です」と放置プレイかましてくるような、仕事中途半端なSMプレイみたいなのが、この世だ。

 

みんな、よくこんなクソゲーをよく頑張って根気よくプレイしていると思うよ。

だから「生きてるだけで偉い」なんていう言葉があるんだと思うよ。

たまにしかないボーナスステージを心の支えに、人生の出会いガチャをまわし続けて、まわすお金が無くなるまで回す。

賽の河原がいつまでも石積では流行らないから、現世版ではガチャにリニューアルされリリースされたのかもしれない。

 

賢者への道

唯一このクソゲーで関われるのは、自分のことだけだ。

それ以外に無い。本当にない。

自分を生かす。種を生かす。

そのために、やれることをやるだけ。

やってきたことをやるだけ。

 

 

実はこの人生というクソゲーは、他のプレーヤーと何かしようとするとすぐバグるが、己のできること、つまり「変えられるもの」にのみ注力している限りは、とても平和に進んでいくのだと思う。

「変えられないもの」(他人との関わり・偶発的に起こる不幸なイベントなど)を見分けられずに、闇雲にチームプレイに熱を上げたり、他のプレーヤーの行動や思考に振り回されたりするから、辛く苦しいイベントばかりドミノ倒し的に起こり続ける。

「変えられるもの」と「変えられないもの」を見分けられる賢者だけが、粛々とこのゲームを最後まで進めて、衰弱死という赦しを得られるのかもしれない。

私はそのためにいっちょ生きてみようと思う。

見分けられる賢さを身に着けたい。そのうえで、もう一度人生について考えてみたい。

そうしたら、この人生クソゲー説は覆るかもしれない。

覆らなくても、もとより他にすることなど無いのだ。

石積みよりは、ガチャのほうがまだマシだと思うので、もう少し頑張ってみよう。

いや、石積みもいいかもしれんな。川沿いならキャンプできるしな。