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【AC】Step8「傷つけた人」その③ 『前任地の同僚Yさん』

今回の傷つけた人は、前任地の同僚Yさんという女性です。

私がまだ酒を飲んで狂っていた頃の同僚で、最終的にはお互いに会話もしたくないということでメールでしかやり取りしなくなり、関係は完全に壊滅しました。

私は長らくこの人を、私を迫害した人として恨んできました。しかし、決してそれだけではなかったことに最近気づいたので、棚卸したいと思えるようになりました。

尊敬する人の棚卸しを聞いていて、気づきをいただいたのがきっかけです。

相手の、私に対する接し方は、アサーティブではなかったし私を傷つけるものでした。

しかし、それと同様に私も彼女を傷つけたことをここに認めます。

 

当時の状況

私は、酒害をまき散らしていました。

特に当時2人一組で得意先を担当していたため、私と仕事をしなくてはいけなかったYさんに、迷惑を掛けました。

朝ストゼロがキマりまくった状態で出社(Yさんとの約束に遅刻なうえに飲酒運転)し約束を蔑ろにしたりしました。とにかく時間に遅れることが多く、一切信用されていなかったと思います。そんな人を信用することは難しいことだと思います。反対の立場ならできません。

つまり、私のYさんに対する態度は、非常に不誠実な態度だったことを認めます。

Yさんの夫は、当時いた会社のパワハラ上司とその金魚の糞にいじめられていました。旦那が精神的に抑うつ状態だったことや、Yさんの実母が脳卒中で下半身に麻痺が残るなど個人的に大変なことが重なり、Yさんは余裕がなかった状況でした。

そんな状況を私は知りませんでした。自分のことしか見えていなかったのです。

Yさんが弱っていることを喜ばしいことだと感じました。

家庭内で抱えている問題を人伝に知った後は、「そんなプライベートの事情で仕事に穴をあけたり仕事を蔑ろにするのは、私に対して要求してきた正しさと整合性が取れない」と厳しく非難し追及し、彼女を追い詰めました。

そんな私に対してYさんは「あなたとは他の所員と同じようには接することはできない」と言っていました。私は「それは仕事をするうえで許容できることではない」「必要なことは伝達してもらわなければ困るし、同僚である以上平等に接するべきだ」と訴えを認めず責めました。

今考えれば、無理のないことでした。

私はまさに私がYさんにされて嫌だったことをしていました。私は彼女にやられたことをそのままし返すことで復讐するという嗜癖に耽溺して、執拗に大義名分を盾にして攻撃し続けました。

 

Yさんは、私と同じでした。

自分を世の中に認めてもらいたくて、世の中の物差しに支配されている、実は他人に怯えていて弱い人でした。だから正しさにこだわったし、正しくない行いをする私を攻撃したのだと思います。

私も全く同じでした。

「俺を認めろ」

「俺をバカにするな」

「俺のほうが優れていることを見せつけてやろう」

頭のなかは俺ばっかりで、大切なことは何も見えていませんでした。

自分の存在を誇示するために他人を使い捨てのように扱われて傷ついてきたのに、私は彼女に対して同じことをしました。そのことをとても恥じていて、また後悔しています。

 

鏡に映し出された自分の姿

これに気づけたのは、回復した状態で、また攻撃される立場になるチャンスにめぐりあったからです。

「評価を求める」

「承認を求める」

「他人に怯えて監視する」

「同情でコントロールしようとする」

「見捨てられ不安を感じると他人を責めて問題から目を背ける」

「己の過ちを認められない」

これらは他でもない、エチルアルコールでおかしくなった状態でYさんを執拗に憎んでいた、かつての私自身の姿でした。

これは私の母の姿に重なります。幼いころから、このような姿で私を圧迫してきた母親の弱さ。私は母と同じように境界線を侵害して他人を傷つけてきたのでした。

本当の自分の問題に目を向けていなくて、それゆえによくわかっていなくて、相手が嫌がっているのに自分の気持ちを解消するために謝罪をしました。

口先だけでした。相手に許してほしいという自分のことだけしか考えていませんでした。
そんな自分勝手な謝罪を受け取らない相手を、責める気持ちを持ちました。

私は当時、きちんと謝ることができる状態ではなかったことを認めます。

自分自身の心を守ることに必死で、私は自分の真の問題に気づけていませんでした。それなのに、相手に自分の存在を認めさせようと、境界線を侵害しました。そうしてYさんを傷つけたことについて、本当に申し訳ないと思います。

仕事の実績で助けて自分の罪を清算しようとしたり、卑屈にへりくだり攻撃させないようにコントロールしようとしたりしました。

必死で平気なふりをして虚勢を張りました

しかし内心は、だれも見向きをしてくれなった懲戒解雇検討中の孤独な経験について思い出し、ものすごく怯えていました。

誰にも相談できない状態で、当時は自分を保つためにはそれしかなかったことも事実でした。

しかし、それにより他人を傷つけてきたことも、また動かぬ事実なのでした。

人を傷つけている自分
失敗している自分
弱い自分
情けない自分
自分の過ちに気づけない自分
醜い自分

そんな自分を見たくなくて、受け容れられなかった。

最も必要なのは、そんな自分も自分自身の一部だと許してあげることだということに、まだ気づいていませんでした。

エチルアルコールををやめて、そろそろ3年になります。今になってようやく、そのことについて認めることができそうです。

長く依存物質をやめて、己の罪と行いや自分を許すことについて深く考え続け、それを聞いてくれる仲間に巡り合わなければ、今もまだ認めることはできず、憎んだままだったことでしょう。

まだあまり会いたくないし、直接会ってこのことを伝えることはかなりハードルが高い。なぜなら、私は相手に受け取られないことをまだ恐れているし、攻撃された記憶は今なお痛みを伴っているからです。

Yさんに伝えた場合受け取ってもらえないこともあるだろうし、追撃されることもあるだろうと思います。その可能性のほうが高いと思います。

それを含めて謝罪することに至るには、本当に時間を要することで、日々棚卸ししていくなかで、自己肯定感を高めていなければ実現不可能なんだなと実感します。

ただ、希望だと思える事には、私は、もし今回気づきを与えてくれた人が、真摯に謝ってくれたなら、それを受け取ると思います。

つまり、心から相手のことを考えた謝罪は、受け取る準備ができた人には、しっかり受け取ってもらえるものだと思います。ということは、受け取るか受け取らないかは、相手の課題であって、私にはどうすることもできないことなのだと思うのです。

それは相手の準備の問題だから。

かつての私がきちんと謝罪することができなかったように。人を傷つけ憎んだことの根本は、自分自身の課題であったのに気づいたように。

相手にとってベストな気づくべきタイミングが、来るときには必ず来るのだと思います。

自分が受け取る準備ができることで、私はそれが己の問題ではないこと、私にできる事は、自分の意志で真摯に受け容れ、謝罪すべきを謝り、他人の謝罪に誠実に耳を傾ける事だけなんだなとわかりました。

だから私は、勇気をもって、かつて人を傷つけた自分自身の弱さを許そうと思います。それと同時に、傷つけられたことについて、納得したいと思います。

当時、私には、謝罪する準備ができていませんでした。それにより、相手の心をひどく傷つけることをしました。

とても、反省しています。

同じことをしないために、私は棚卸をし続けて、己の生き方を点検し続けていきたいと思います。

【依存症】アルコール依存症者にとって「オンライン飲み会」はリスクでしかない

メディアで最も早く「オンライン飲み会」の危険性について言及してくれた記事は、私が知る限りではこのKarma氏のnoteの記事である。

瑞々しい情景描写に続けて綴られる美しい文章は、専門知識を持たない読者に配慮され計算された文脈で構成されており、読んだものの脳裏に冒頭の描写のようなしなやかさと美しさを感じさせる。

ぜひ、一読してほしい記事である。

というか、もはやここに全部書いてあるので、もう私が蛇足を付け加えることもはばかられるくらいである。

とにかく読んでほしい。そしてヒマだったら戻ってきて私の文章も読んでほしい。

 

さて、この記事が指摘している「オンライン飲み会」に対する懸念を、少し他人事のように考えていたことを、私は反省しなくてはならない。

なぜなら、私自身もこの「オンライン飲み会」によって、断酒を脅かされかねない経験をしたからだ。

 

普通の飲み会より断りづらい「オンライン飲み会」

私は会社員である。

多くの会社がそうであるように、現在オンラインでミーティングを行っている。

そしてよくメンバーから、会議の予定のインビテーションがメールで投げられてくる。

そのなかで、とても厄介だったのが、オンライン飲み会付きのミーティングのインビテーションである。

ミーティングが終わったら、そのまま回線を切らずに、彼らは飲み始めるのである。

私はこれがとても厄介で、久々に飲酒欲求がわいた。

つまり、スリップしそうになった。

 

まず、家にいるのが確定的に明らかなので、「断る理由を考えるのが困難」だということである。

外食する予定も外出する予定も、新型コロナウイルスの影響で自粛であり、できないことは周知の事実である。

家庭のことで、という言い訳が唯一のよりどころだが、毎回断るのはさすがに気が咎める、というひとは多いだろう。断ることも大変なストレスなのである。

 

私はアルコール依存症であると、会社に公言している。

今年の1月から、取引先にも公言している。

そして「酒のある席は基本的に参加することはない、誘わないでくれ」と公言している。

なので、そのことがあってから、「飲み会」自体に接することが激減した。

いつもの飲み会なら、会議が終わった後会場を移動する。私は、会議は会議室で参加して、飲み会でみんなが飲み屋に移動するのをしり目に帰宅する。

今までは実に気分爽快であった。

「会議」と「飲み会」は明確に境界線がひかれていた。

それが、私の断酒を支え、ストレスを軽減してくれていたのだ。

 

しかし、オンラインミーティング+オンライン飲み会で、一続きになっていると、疎外感が半端ではない。

 

「私がいなくなった後どんな話するのかな」

「みんな楽しく飲むんだろうなぁ」

「もしかして私の悪口を言うんじゃないだろうか」

 

そういう悪い想像が頭をかすめて、正直会議どころではない。

私はもう絶対に何を言われようと、どれだけ不利になろうと、酒だけは飲みたくない、という一念で「じゃ、私はアル中なんで消えます、おつでしたー」とブチっとWEBの接続を切ったが、こういうことがしにくいのが本来だろう。

なんとなくなあなあで残ってしまったら最悪である。

日ごろ我慢している酒をおいしそうに飲む同僚のライブ映像を延々何時間も自宅で見せつけられる拷問のスタートである。

 

アルコール依存症の患者に対する配慮を

「私はもう酒の席なんて断れる」と天狗になっていた節がある。

今まで見ない努力をしてきただけで、脳の報酬系の回路の異常は今もしっかり脳に焼き付いている。それを浅はかにも「コントロールできている」と見誤り軽視していたことを私は反省した。

ここで依存症者でない方に向けて、オンライン飲み会をするうえで配慮できたらしてほしいことを書いてみようと思う。

①会議のインビテーションは、別々に案内する

わかる。面倒くさいって言うんだろう?でも、やってくれさい。

「会議」と「懇親会」は別のイベントである。分けてインビテーションを送るだけで、「断りづらい」ということでズルズルと残ってしまい、断酒していたのに飲んでしまった、なんてことを防げる。飲まないためには「元から参加しない」。これが一番良い。

考えてみてほしい。

ひとりだけ砂漠で水も飲んでいないのに、このあと水を飲む人たちとハードなトレーニングをして、そのあと美味しそうに水を飲む人たちの映像を見せられたらどうだろう?

どんなに我慢強い人でも、水を飲みたくなるし、水を飲むなって言われたって、飲むだろう?意志がどうとかそういう次元ではない状況なのである。

そういう酷なことをしているのだという自覚を持ってほしい。

 

②開始と終わりの「時刻」を明確に決める

本物の飲み会でもそうだが、ダラダラと長い。

しかも家で、すぐ隣にベッドがあり、日ごろさみしさを抱えていれば、あと少しあと少しと延長したい気持ちは痛いほどわかる。

しかし、それにより酒量は確実に増えていく。

私は毎朝犬の散歩をしていて気づいてしまったのだ。新型コロナウイルスで在宅勤務が推奨され始めてから、空き缶のゴミが増えていることに。

このことにとても恐ろしさを感じている。

しかも特にストロングゼロ(アルコール度数9%の酎ハイ)の空き缶が多い。

長々と酒を飲み、家で飲む習慣ができ、いずれは私のように昼から飲みながら仕事をするようになる。そうなると、もう依存症まで待ったなしである。つまり、あなたも他人事ではない、ということだ。

 

③「飲まなきゃやってられない」はなぜか見つめよう

そんなこと言ったって、飲まなきゃこのストレスをどうやりくりすればいいんだよ?

おっしゃるとおりである。私はそう思って飲み続け依存症になったので、気持ちは痛いほどわかる。

それは、なぜなのだろうか?

私の場合は、生きづらさから目を背けたことだった。

自分が抱えている苦しみや不安や恐れや悩みに向き合わず、逃げるために「酒」という名で販売されているエチルアルコールという薬物に頼った。

酒は飲み物ではなく、最も厄介で体を蝕む薬物である。合法だが、良いものではない。これは科学的に間違いない。

そのような薬物を頼ろうとした、その背後にあるものに目を向けてほしい。私みたいになる前に。

もしあなたが「やってられねぇよ」という気持ちで酒をあおっているのだとしたら、そういう気持ちをもっている仲間はちゃんといる。そして、その薬物に頼らなくても、生きていける回復の道がある。孤独でつらく、助けを求めづらかったと思うが、それこそ今はオンラインで気軽に仲間に繋がることができる。

 

まとめ:オンライン飲み会ではなく、オンライン自助がおすすめ

結局、オンラインを求める満たされない気持ち、それは「さびしさ」である。

人と人との繋がり、ひとりじゃないということ、不安感や孤独感を紛らわせたいから、人は集まりたいし、話を聞いてほしいし、話を聞きたいのだ。

そういうことなら、いい場所がある。オンライン自助グループである。

実際足を運ぶのがためらわれた人も、恐ろしそうだから敬遠していたという人も、今ならボタン一つで、酒を買い込まなくても参加できる。

もし興味があったら、気軽にアクセスしてみてほしい。

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【ジェンダー】『英雄色を好む』という男らしさの固定概念について

ぽつりぽつりと思い出した男性ジェンダーロールについて、棚卸しさせてください。

私はあまり『肉食系』と言われる男性とソリがあいません。

しかし、男性社会においては、未だに『雄として有能であること』を誇示する傾向にあります。会社や趣味の集まりなど、リーダーシップを取ろうとしたがる人がいわゆるそうした『肉食系』にカテゴライズされるリア充的なキャラクターが多いなぁと思って、いつも遠巻きに眺めています。

転職したとき、7人しかいなかった同期は「自分たちは優秀だ」と思っている節があり、90%以上がそのようなキャラクターの人でした。たしかに転職試験の倍率は高く難関で受かった人が少なかったから、自負が芽生えるのも無理はないのですが、研修中の寮での共同生活は苦痛でした。

同期たちは、毎週末クラブに出かけてナンパしたり「何回やった」だの、「セフレがいる」だの、そういう雄自慢を酒の肴に飲むことが多い人たちでした。

私は本当はそういう話題が全く楽しくなく、むしろ嫌いだったのに「世の中はそういうもので、それが優れた人間のやることなら、真似しなくては」と、乗っかっていきました。

そんな自分を惨めに感じます。

同期は好きだったんですよね、そういうプレイボーイであると自負できる生活が。エロさえあれば男は喜ぶと思っていて、色を好むことこそハイランクな趣味だとさえ考えていたように見えました。価値観の相違が半端ではない。

私は当時まだ酒を飲んでいましたから、酒を飲むなら気を遣ったりしながらではなく、静かに部屋で酒の薬理作用だけに集中して、それこそしこたまただただ飲みたかったのです。すでにその飲み方がアディクトですよね。

わざわざ知らない女性に緊張しながら声をかけるのは嫌だったし、別にそんなに不特定多数の女性と関係を持ちたいわけでもなかったのです。

むしろ、当時はそういうフシダラな在り方を軽蔑し毛嫌いしてすらいました。

それでも、私は間違っているから、と気持ちや素直な感覚に蓋をして、盲目的に「社会で評価されているから」と同調し同化しようとしました。

そのようは卑屈な試みを拒否できなかった、自己肯定感の低さに吐き気がします。

厄介なことに、男性は少なからず、男性同士の集まりにおいてそういうノリの悪さを嫌い、馬鹿にします。

「ナンパの一つもできねーへたれ」

「男としての魅力や自信がないダサいやつ」

そう思われたくなくて、無理をしてそちら側の仮面を被っている人を見てきました。そのうちの1人だったからよくわかります。

むしろダサいのは愛する人をシンプルに大切にしない人だと今ならわかります。

何人と性交渉しようが、RPGのレベル上げじゃないんだから、人間的な価値がモリモリ上がるわけでもないのに、やはり性別が男性である以上「そうでなくてはならぬ」「そうあるべき性別」という固定概念がわたしの中にあったと思います。

私はその自身の中にある認知の歪みをちゃんと自分のものさしで考えて、拒否する勇気を持ちたかったです。とても恥ずかしいです。

わたしの認知の歪みにより傷つけた女性がいたはずで、私が「自分の気持ちをちゃんと見なかったこと」「自分の感じ方を大切にしなかったこと」が、その問題の根元にあります。

女性が傷ついた話を見るたびに、そのエピソードに対して何故かザワザワしました。

女性に対して過剰防衛的になったり、男性に対して不自然に攻撃的になったりしてきました。

私は男性として自分が誤った認識を持っていた時期があったことや、私がやってしまったことを、正しさで隠したかったのです。

私はそういう、あまりにも弱い、人間だったと認めます。

そういう弱さを覆い隠そうとするのをやめたいな、と思います。

今こそ、弱さや罪を覆い隠すために、強さや正しさを得ようとする心を、手放す勇気を。

【仕事】働き方はやりたいようにデザインをしよう

コロナウイルスの感染拡大にもとなって、なかなか外回りはできないので、営業としては決算月が終わるのを指をくわえて待っているしかありませんでした。初めての経験。

さて、私は4月から「もう会社の指示に従うのは(表向き)一切やめていこう」という決意のもと、自由に時間を使うようにしてみました。

 

4月からのワクワク裏☆計画

4月からも私は今までと同じエリアを担当して、やる仕事も特に変わりません。

しばらく担当して要領も分かってきましたし、ここらあたりでもう好きにさせてもらおうかな、と思っています。

4月から、裏☆計画に従って行動します。

具体的には下記のとおりです。

 

■会社の仕事は形だけ整える!

・取引先には月に1回程度顔を出すくらいで十分なので、無理に頑張らない(報告はうるさく言われたら報告だけテキトーに入力)

・会社がKPIとして設定した行動指標は、とりあえずやった形を整える

 

■やりたいことだけに時間を割く!

ゴール:依存症・発達障害・精神疾患のエキスパートになる。ソーシャルワークの一環として医療上の課題を解決するために役立つ(そのための製品利用やメーカー企画を立案し実施する)

①社会調査すべきこと
・各種自助グループに参加し現場に精通する。
・今ある自治体や非営利団体などのサポートや社会資源の情報収集、訪問する。
・それぞれの困りごとにおいて具体的にはどんなサポートが必要か?をリサーチする。
・精神疾患・発達障害・依存症の当事者の社会復帰のための治療や社会資源、公的支援をわかりやすくまとめる。

②現時点でできること(コロナ収束後)
・精神疾患・発達障害の啓発勉強会(社会福祉士として、医療従事者として)を実施する。
・精神科医、心療内科医と面会し、医療従事者のニーズや治療実態をヒアリングする。
・このエリアでは未だ無いACA(ACの自助グループ)を立ち上げて運営する。

③今後やりたいこと
・当事者たちは何に困り、どうなりたいのか、具体的には何がどうなればよいのか?をクリアにして、その課題をシェアできるイベントを企画する。(医療と社会資源を繋ぐ手助け)

・ASK依存症予防教育アドバイザーを受講・合格し、依存症について専門的見地に基づいた啓発勉強会を定期的に実施する。(自治体・保健所・精神保健福祉センター・地域包括支援センター・医療機関・一般市民など)

 

好きなことをしないと心が死ぬ

ワクワクすることは大事です。

このまま会社に飼い殺しにされて、やりたくもないことを毎日していたら、うつが悪化してしまうでしょう。

ACのための12のステップを進めるにしたがって、今の世の中がいかに狭量な価値観で構成されていて、それを正しいと信じている人たちの思い込みにより動いているか、ということを、肌身に感じます。

そしてそれは、会社においてもやはり同じことのように思われます。

「営業でいい成績を出しているほうが偉い」「会社の言うことを忠実にやっているからすごい」というのは、「いい子にしてママに褒められたい」「かけっこで一等賞だからすごい」と同じくらいの感覚で今勤めている会社の価値観が構成されていて、そのような勝ち負けの世界でしか生きてこなかったひとの寄せ集めが会社だということです。

限られた水槽(価値観の枠)のなかで、飼われている金魚のような感じです。

水槽から出ることすら想像できず、水槽のなかが全てだと思い込んだまま、えさを食べてフンをして死んでいくのも人生ですが、私はやはりそれは辛いなぁと思います。

それで幸せだと思える人が、常識的な人、という存在の姿なんだと思います。

私は非常識なのでしょう。それでは幸せだと思えません。

自分で自由に泳ぎたい。いろいろなところを泳ぎたい。泳ぐ場所は自分で決めたい。

だから、今あるルールはそれとしてうまく掻い潜りながら、水槽のなか以外でも泳げるように努力をしたり、いずれは川や海に出るべく、自らを鍛えていくことが、やはりワクワクする生きがいなのです。

だって、なんか変だな、と思うことありませんか?

嫌なのに、嫌なことずっとして、それを誤魔化しながら人生終わるなんて、嫌じゃない?

私は嫌なことは嫌だと認識して、これからは良い意味で自分勝手にやらせてもらおうと思います。

【仕事】新型コロナウイルスで浮き彫りになった日本人の「仕事依存症」

新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、多くの会社では在宅勤務を推奨されているにも関わらず、出社することをやめられない、経済を最優先して状況を冷静にみられない、そんなひとがいますよね。

なんとなく、気持ちわかります。

なぜなのか?

少し考えてみました。

 

仕事に依存しているのではないか?

仕事依存症チェックプログラム というものがあります。

ちなみにこのチェックプログラムを監修しているかすみがうらクリニックの副院長、猪野亜朗先生は、アルコール依存症治療の最前線を歩かれる医師のお一人で、アディクションについてはスペシャリストであらせられます。

以下の質問にYES,NOで答えてください。

  1. 部下や同僚に任せた仕事でも,自分が全て目を通さないと気がすまない
  2. いつも仕事の期限に追われている
  3. 家に仕事を持って帰ることが多い
  4. 休日でも仕事のことを考える
  5. 休暇中も職場のことが気になって,職場に顔を出したくなる
  6. 大事な予定が入っていても,残業を断れない
  7. 同僚がみんな帰っても,残業を続けることがある
  8. 有給休暇をほとんど消化していない
  9. 仕事中に邪魔が入ると非常にイライラする
  10. 仕事の相手が時間に遅れると非常にイライラする
  11. 昼食をとりながら仕事をすることが多い
  12. 電話が鳴ると真っ先にとろうとする
  13. 会議などのテンポがのろいと非常にイライラする
  14. 職場では仕事以外の話をほとんどしない
  15. 職場の花や壁の飾りなどに興味がない
  16. 同僚の服装やおしゃれにはほとんど興味がない
  17. 仕事中はいつも早足で歩く
  18. 時計を持っていないと落ち着かない
  19. 通勤中はたいてい仕事のことを考えている
  20. 仕事中はほとんど息抜きをしない
  21. 仕事中にいれてもらったお茶を飲み忘れて,気がつくと冷めていることが多い
  22. 今取り組んでいる仕事が終わる前に次の仕事を考えている
  23. 自分にほんの少しの失敗があっても,一日中気になる
  24. 職場を離れた同僚や部下とのつき合いでも,必ず仕事の話になる
  25. 同僚や部下が自分の思い通りに動かないと,かんしゃくを起こす
  26. 同僚や部下のミスでも,自分が責任を感じる
  27. 仕事を引き受けるかと聞かれると,「やりたいか」ではなく「やるべきか」と考える
  28. 仕事で同僚に後れをとっていると考えると,いてもたってもいられない
  29. 他のスタッフは仕事の手を抜いていると思う
  30. 仕事はプロセスよりも結果が問題だと思う

現代の日本人は、仕事に没頭し仕事の中にしか自分の存在価値を見つけられないという不健康な状態になりがちです。

「会社のため」「家族のため」という大義名分のもと,自分自身を追いこんでいませんか?

このチェックプログラムは三重県立高茶屋病院(当時)・猪野亜朗医師によるものです。

手遅れになる前に対策を立てましょう。

 

うわ…、めっちゃ当てはまります。

ていうか全部YESでした。(白目)

皆さんはいかがでしたか?

 

仕事依存症だった人は、どうしたらいいのか?

仕事依存症から回復する方法

  • 仕事中心の生き方を改めることに対して無力であり,日々の生活が空疎なものになってきたことを認める
  • 今までの生き方に無理があったことを認め,この世には富や名誉以上に大事なものがあることを認める
  • 今までの生き方を支えてきた意志の力への信仰をやめ,他人の評価を恐れることなく,あるがままの自分を受け入れる
  • あるがままの自分を発見するために今までの生き方を点検し,両親との関係から始まる人間関係を見直す
  • あるがままの自分とは隔たった自分をなぜ演じてきたかを理解する
  • 虚構の自分の衣装の下に隠れていた本来の自分の存在を実感し,この”もうひとりの自分”と和解しようと思う
  • 今までの生き方の誤りが、本来の自分を見失い、傷つけ、成長の最後の段階を踏み損なったことを理解する
  • 今までの生活の中で抑圧してきた本来の自分をいたわり、その言い分に耳を傾ける
  • 傷つけてしまった自分以外の人々に対して、謙虚に謝罪し、機会があれば、できる範囲でつぐないをする
  • 生き方の点検を続け、新たに気づいた無理な生き方は勇気をもって変える
  • あるがままの自分を実感し、自分の命の自然な流れがどの方向へ向かっているかを理解する

まさに、依存症やアダルトチルドレンの回復のために取り組む「12ステップ・プログラム」そのものですね。

私が仕事に依存しているわけない、と思う人へ

在宅勤務で家にいづらくはありませんか?

これが分水嶺になる気がしています。

 

なぜなら、仕事依存症になることで家庭に弊害が出ている客観的な事実だからです。

認めたくないけど、しわ寄せが来てるんですね。家庭の不和として。

 

新型コロナウイルス騒動で見えてきた日本人の闇

在宅勤務が推奨されて、まず上がったのは既婚女性の悲鳴でした。

「家にいるのに家事育児を手伝わない」

「在宅勤務とか言って暇そうに座ってる」

その後、既婚男性からも悲鳴が上がりました。

「家にいたら仕事にならない」

「仕事中なのに子どもや妻に暇だと思われ何もしていないと咎められる」

 

これは、割と身近に起こっていて、私の会社の人々(特に男性ばかり)は、少なくない人が少し前まで意味もなく会社に来ているのでした。

緊急事態宣言が全国展開されてからは、原則禁止になり、姿は見えなくなりましたが、私を含め、日本のサラリーマンは仕事依存症になるほど追い詰められているのだと思います。

好きで依存症になる人は、いません。あんな辛い病気、なりたくてなる人はいない。

生きづらいから、なるのだと思います。

それは、特に日本人男性のジェンダーロールであり、成果を常に求められる社会で認められなくては生きていけないサバイバルレースを生きてきたからです。

『成果出そうレース』。

生まれた時からこのレースに参加させられ、成果でしか評価されなかったから、自分の生きがいやあるがままの姿を受け入れられなくなり、合理的で効率的な『デキる男』を目指さなくてはならなくなりました。

本当は目指したいものは別にあったのに、忘れ去ってしまったのでしょう。

 

今このタイミングは、自分を見つめ直すチャンスでもあります。

仕事ばかりになって成果でしか満たされない、そんなのつらいですよね。

別の穏やかな幸せが、きっと見つかります。

 

私たちは、今までほんとうによく頑張ってきた。

成果が出ても出なくても、あなたも私も本当は仕事以外の価値を持っているのだと、同じ仕事依存症になって苦しんでいる人の、ありのままの姿を褒め称えたいと思います。

【発達障害】自閉症スペクトラムが取り入れて有効だった3つの対策

発達障害で働くって大変ですよね。

次から次へとわいてくる面倒な仕事。いきなり180度変わる本部の営業方針。

騒がしいオフィスで何度も話しかけられて、今している作業に100%集中できなくても、時間内にタスクを終わらせなくてはならないストレス。

待ち合わせには絶対に遅刻できないプレッシャーを抱えながら日々タスクに追われる毎日。

そんな毎日を少しでも楽に過ごせるようになった3つの有効な対策についてまとめてみました。

 

①メールや電話は自分のタイミングでチェックする

メールと電話がストレスでした。

なぜなら、勝手にかかってくるし、勝手に送られてくるからです。しかも、今日中にお願いしたい、などという急な案件を送ってきたりするから困ります。いつも「何か急に来るのではないか」とメールが来るたびにソワソワします。

これでは、全然今やっている仕事に集中できませんでした。

 

そこで、

メールチェックをする時間は10時~11時の1時間と決めることにしました。

それ以外は、一切見ない。スマホの通知も全部OFFにします。

そうすれば、メールのストレスにさらされるのは、AMの1時間だけで済みます。

緊急の案件なら、電話してきます。

電話も取りたくないときは、取らない。

取らなくても、本当に緊急ならば、SMSを送るなり、留守電を残すなり、相手が伝える方法をとってくれます。

それを午後余裕があるときにチェックすればいいだけ。

 

私は人と話したり、何か文章を読んだり送ったりするとき、とても神経を使うので、すぐ疲れてしまいます。

限られた人と接することができるエネルギーは極力、得意先への訪問など、自分がやろうと決めた行動をとるために割きたいのです。

それが結果的にパフォーマンスを最大化させるからです。

会社が最も求めているのはそれなので、私は堂々とメールも見ないし、電話も取らないことにしています。

 

②1週間に1回、平日に半日好きなことをする時間をつくる

ASD(自閉症スペクトラム)がストレスを解消するには、したいことを心置きなくする必要があります。人とワイワイ話すとか、愚痴を話すとか、おいしいものを食べるとか、そんなことではストレスは効率的に解消されません。

そこで、1週間に1回、平日に半日、自由に使える時間をつくることにしました。

そうしたら、読みたい本を読めずにイライラしたり、ブログを書きたいのに書けずにイライラしたり、人に会わずに一人静かに過ごしたい時間をとれずにイライラしたり、ということが少なくなりました。

 

独りでいる時間は、誰にとっても重要で、とくにASDには必要不可欠です。

子育てをしていると、家は安息の地ではありません。家に帰れば父親という役割と仕事が待っています。そうなると、仕事中平日に、自由に過ごせる時間をつくるのが手っ取り早いのです。

しかしこれは、みなし労働制になっている営業職の特権かもしれません。デスクワークだとあまり自由に、というわけにはいかないので、大変ですね。

 

③意味がないと思うことはやらない(思い切って止める)

会社で仕事をしていると、とてつもなく意味のない飲み会や報告書や会議が往々にして多数存在します。

私は、そういうのをやめてみました。

「やめる、といったって、飲み会は出ないといけないし、報告書は書かないといけないし、会議には出ないといけないんじゃないか?そんなことは通らないよ」

と思うかもしれませんが、これが意外に結構止められます。

全部は無理かもしれませんが、少なくとも飲み会は一切出ないで過ごしていても何の支障もありません。

報告書は、とくに社内で出世するために書くようなろくでもないものに関しては「私は書きません」と言えばそれまででした。法律を根拠として義務化されているお金が絡むもの(「年末調整」や「勤怠管理」や「申請書」など)は必要ですが、あくまでも本当に必要なのは、被雇用者として提出が必須な最低限の書類だけだと思っています。

社内の会議用資料はつくるのをやめました。口頭で紹介します。あるいは今あるものを簡素に用います。要は話したいことが伝わればいいからです。そして話したいことは5秒ぐらいで終わります。時間をかける意味がありません。

会議も、自由参加のものはでません。皆が出ているから、という理由で何となく出てストレスをためるよりも、その時間でリフレッシュしたほうが良い。

必須の会議が月に2回ありますが、それはしかたがないので出ています。出席はしていますが、すでに結論は決まっているので、あえて何か物申したりしないようにしています。この無為な時間を過ごすことが仕事だ、と割り切り、Kindleなどで本を読んだりネットサーフィンしたり自由に過ごしていますが、特に支障はありません。

全社方針で出ていることも、基本的には、ちゃんと意味があるな、と思うことしかしないことにしました。

やっているかどうかのチェックは入るので、とりあえずやっていることにして会社には報告しておけばいいのです。それでも全然問題ありませんでした。

結局、会社は実績が上がればいいのですから。

そして私は独自にやりたいことをやり、貢献したいように貢献する、それでWin-Winです。

意味がない会社からの指示を徹底しようと躍起になっている上司の顔色をうかがいながら、内心意味がないよなお思いつつやりたくもないことを必死にやったって、いい結果になるわけないし、何より自分が潰れます。それは最も愚かなことです。自分が何より大事です。

 

まとめ:基本的に向いてないのによくやっていると思う

ASDは会社勤めには向かないな、と毎日思います。

そんな向いてない環境で毎日仕事してるだけでも、充分えらいんですよ、我々は。

意味のないことはできないし、やりたくないことはできない、この性質は、会社という意味のないことでほぼ構成されている組織のなかで働くことに向いていない。

やらなくてもいいことは、やらなくてもいいじゃないですか。

やらなければならない合理的な理由があれば、納得して我々はやるはずです。ある意味、我々を納得させられないなら、それはやらなければならないことではないから、だと言えるでしょう。

自分らしく、働いていきましょう。

【仕事】複業型ワークスタイルの確立を目指そう!

今日は私が目指している「副業」ではなく「複業」型ワークスタイルを実現したい背景について、自分の方向性を確かめる意味でもまとめてみたいと思います。

これからの時代は「多動力」

堀江貴文氏の著書はだいたい読みました。

そのなかでも「ゼロ」は堀江貴文氏のメディアでのイメージとご本人とのギャップに驚くし、「多動力」の考え方は、私にとって方向性を示してくれた良著でした。

ぜひ読んでみていただきたいのですが、私が述べたい「多動力」についての説明が東洋経済Onlineさんに掲載されていたので、抜粋します。

 

この「多動力」。かつては、マイナスでしかなかったかもしれない。

「多動力」を仕事に生かす場面は少なく、おかしな人だと思われていたはずである。しかし、これからの時代は「多動力」こそが最も必要な能力だ。

ここでは、その理由を説明する。

IoT(Internet of Things =モノのインターネット)という言葉を最近ニュースでもよく耳にすると思う。これは、ありとあらゆる「モノ」がインターネットにつながっていくことを意味する。

調査会社ガートナーによると、2014年時点でネットにつながっているデバイスの数は38億個。その数が2020年には200億個を超えると予想されている。つまり、テレビなどの家電はもちろん、自動車も、家も、ありとあらゆる「モノ」がインターネットにつながるということだ。

すべての産業が「水平分業型モデル」となり、結果“タテの壁”が溶けていく。

たとえば、テレビとインターネットがつながると、テレビはスマホアプリの1つになり、電話やフェイスブックと同じレイヤーで競争することになる。フジテレビのライバルは日本テレビではなく、恋人からのLINEになるのだ。

また自動車がインターネットにつながり、自動運転が進めば、もはや自動車の形である必要はなくて、ただの移動するイスになるかもしれない。そのとき、自動車業界もインテリア業界もタテの壁はなくなる。あらゆる産業のタテの壁が溶けていけば、今までの経験や肩書きは通用しなくなる。

この、かつてない時代に求められるのは、各業界を軽やかに越えていく「越境者」だ。そして、「越境者」に最も必要な能力が、次から次に自分が好きなことをハシゴしまくる「多動力」なのだ。

出典:東洋経済Online_堀江貴文氏「多動力こそが最も重要な能力だ」

 

 

情報を持っていること自体はそんなに重要ではなくなる時代が来ます。

単なる情報戦ではインターネットやAIのほうに軍配が上がります。膨大なデータを蓄積でき、かつ計算も速く、そのうえ正確だからです。

対コンピュータだけでなく、人や企業の間のビジネスの戦力図も大きく変わります。コンテンツとしてWEBやITが使えるということは、かつては専門的とされていた情報は拡散され共有され、共通のリソースとして持てるようになるため、事業規模が違っても、経験年数が違っても、簡単に「情報」という形ではお金をかけなくても手に入るようになってきました。

だから、その道一筋で情報や知識を持っていることは、あまり経済的な価値や強みではなくなるというのです。

では、どんな人が自身の価値を高めていくのか?

それは、業界と業界の垣根を超える者、越境者だと考えられています。

様々な業界のケーススタディを積み、業界の垣根を越えて活躍することで、異なる価値観を融合できる=新しいモノやサービスやコンテンツを生み出せる=AIやコンピュータにはできない自分オリジナルの仕事を創ることができる、というわけです。

 

もはや「会社に尽くしていれば養ってくれる」はあり得ない

しばしば会社の中堅社員や上司と話していて辟易するのが、この奴隷根性あふれる以下のセリフです。

「嫌なことでも我慢していれば、会社が守ってくれる」

はあ?そんなわけないでしょ。

私たちが勤めている会社はそりゃ業界TOP3に入る会社ですが、リストラはそこかしこで始まっていますし、いずれ業界全体の流れとして社員は減らされることに間違いありません。

私は一度会社から目を付けられて会社を追われそうになった経験がありますが、そのときの会社の対応はえげつないです。

「なんとかしてこの社員をやめさせる材料はないか」と会社で総力を挙げて必死で叩いて埃を出させようとします。会社は人間をやめさせようと思ったらとことん冷たくなれるし、平気でパワハラもします。

嫌なことを我慢していても、会社が首を切りたくなったらあっさり切り捨てます。

それが会社です。

だから、会社がいつまた私を追い出そうとしても

「どうか切らないでください…生活できなくなってしまいます…」と靴を舐めるようなことはしないでいいようになっていなくてはいけません。

そんな状況を回避するためには何をすべきか?

それは『収入源を分散し複数確保する』ことです。

 

会社に支配されない働き方を実現するためには、複数の収入減を確保しておき、1本の収入パイプが潰れても他のパイプで収入が得られる状況にしておくことが重要です。

私の場合、働きながら専門学校に行き、社会福祉士を取得しました。

多くの国内の会社は副業禁止を謳っていますが、実は、法律的な観点からいえば、たとえ会社の就業規則において副業が禁じられていたとしても、法的な拘束力はもちません

現行の憲法および、その付属法(民法や商法など)においては、特に会社員の副業を禁ずる旨の条文は定められていないのです。むしろ、会社側が就業規則をはじめとして組織内の規定によってスタッフの副業を全面的に禁ずることが、法律上許されないという見方が大勢となっています。

これは企業のスタッフといえど一個人であることに変わりはなく、企業とは雇用契約によって決められた時間に労務を提供することになっているわけですから、それ以外の時間は一人ひとりが自らの意思で自由に使えるのが当たり前だからです。

多くの企業にとって、副業を禁止している根拠は就業規則によるものですが、スタッフのプライベートタイムにまで介入し、その時間の活動に制限を設けることは法律上許されないというのが法律的観点からの見方です。

また、労働基準法などの労働関連法規にも、特に副業に関する規定はありません。個人が同時に複数の企業と雇用契約を結ぶことや、会社員として働きながら個人事業主としてビジネスをすることに対する規制は、本来は存在しないということです。

ただし、本業に明らかに悪影響を及ぼす場合や企業の信頼を失墜させかねない場合は、懲戒を受ける可能性があります。

引用:https://boxil.jp/mag/a3874/#3874-7

 

つまり、「有給休暇」というプライベートな時間に、何をしようと私の自由であり、副業を制限する法的拘束力はないわけですから、私が専門学校で得た知識をもとに個人的に活動する分には、何の制約もないといっていいでしょう。

私はこのような背景から、うまく有給休暇などの法定休暇をとりつつ、資格を活用してフリーランスとして仕事を持ちたいと考えています。

 

もう一つは、このブログ運営です。

自力で初めて、このクローズドな趣味の延長ともいえるブログをゼロから自分で調べて立ち上げたことは、私にとって大きな自信になりました。

自身が書いた記事で構成されたブログがGoogleアドセンスの審査を通過して、Webサイトの収益化には成功しました。まだ微々たるものではありますが、コツコツとお金を生むことができています。定期的なブログ更新を今後も継続していけば、月数万のプラスには近いうちになっていくでしょう。

このように、現在3本の収入源を確保しよう!ということで、動いており成果が上がってきています。

これが、私が実現したい複業型ワークスタイルです。

 

元々の出発点は、会社への反骨精神から

私は悔しかったんですよね。

会社から意味のない指示や命令をもらって、それに対して反論した時に上司に言われました。

「誰に飯食わしてもらっとんねん、って話やから、結局」

札束で顔を叩かれたような屈辱的な気持ちになりましたね。

確かに、私は会社から給料をもらう形で組織に雇用されている、被雇用者だ。

でも、金を払っているんだからつべこべ言ってないで言うこと聞け、3回まわってワンと言え、みたいなこと言われて言い返せない立場は嫌だな、と思いました。

こんど言われたときには、

「へー、別に私は別にかまいませんけど、ちゃんとした退職金を積んでくれるんなら、やめてやってもいいですよ?」

と返してやろうと思います。

そのためにも、日々精進して、絶対にフリーランスとして仕事ができるようにスキルアップしていきます。そしてゆくゆくは、フリーランスのほうを主軸にして、独立してやろう!と野望を持っています。

やろうと思えばできないことはない、そう思って、調子が出ないときは休みつつ、頑張っていきたいな、と思います。

【仕事】社内評価を気にすることが無意味である理由

今のご時世、懐は氷河期を迎えているんじゃないかというくらい冷え込んでいます。

だからこそできるだけいい評価をもらいたい。

だから人事評価の時期は特にストレスを感じますよね。

「成果を出しているのに思うように評価してもらえなくてつらい…」

「評価面談時にいつも書類を準備するけど、正直しんどい…どんなに頑張って作ったところで結局上司の主観じゃないか」

こんな声が聞こえてきそうです。(特に私の心から…笑)

今日は従来型の人事評価がいかに無意味で気にする必要がないか?を考えます。

 

Adobe社が実施した調査「Performance Reviews Get a Failing Grade(パフォーマンスレビューに不合格判定)」

#アドビ 調査、従業員の #人事評価 のやり方が時代遅れになっていることを示唆

上記のサイトにおいてAdobe社が以下のように報告しています。

アメリカで1,500人の会社員を対象に実施した調査「Performance Reviews Get a Failing Grade(パフォーマンスレビューに不合格判定)」によると、人事評価の多くは時代遅れで、多くの時間を費やなくてはならないストレスフルなものと認識されています。

調査では、従来型の人事評価が、従業員やマネージャーから、いかに非生産的で無意味だと思われているかを明らかにしています。

調査対象となった従業員の88%は、ランク付けや数値の評価をともなう文書によるレビューなど、体系的な従来型の人事評価を定期的に受けなければならないと答えています。そして、こうしたレビューが同僚間の競争を激化させ、人間関係上のストレスを増やしており、感情的なやりとりや退職にも繋がると回答しています。

 

従来型の人事評価は、特にマネージャーにとって時間の無駄

  • 従業員とマネージャーの多くが、人事評価の準備は時間の無駄であると考えている。(従業員:72%、マネージャー:88%)
  • マネージャーは人事評価の準備に、従業員1人あたり平均17時間を費やしている。
  • 従業員とマネージャーの3分の2近くが、人事評価は時代遅れと考えている。(従業員:64%、マネージャー:62%)
  • 従業員の半数以上が、人事評価は仕事に対する影響力はない(59%)または、不必要である(58%)と考えている。

 

 

 

従来型の人事評価とAdobeの評価制度「check-in」の違い

Adobe社は、従来型の年次の人事評価早くから廃止した企業の一つであり、2012年には独自の評価制度となる「チェックイン(Check-in)」を導入しました。

この新しい制度では、従業員とマネージャーが常に対話を行い、その中で明確な目標を決め、何度もフィードバックし合いながら、キャリアアップについて話し合います。

従来型の年次の人事評価を廃止する前は、数値による評価、ランク付け、評価を文書化して提出する厳格な手続きを行っていましたが、「チェックイン」導入後、以前のプロセスで必要だったマネージャーの所要時間を最初の1年間で8万時間(フルタイム従業員40人分)削減しました。

従業員数が増加した現在、マネージャーが人事評価にかける時間を年10万時間以上削減していると推定しています。また、従業員に関しては、意欲、定着率が高まり、自らパフォーマンス管理ができるようになりました。

 

つまり、アメリカにおいて約70~80%の人が「年1回の人事評価は時間の無駄」と考えており、約60%の人が「仕事に対する影響はないか不必要だ」と考えているのです。

これは、日本においても同様ではないでしょうか。

 

そもそも、社内評価はあてにならない

一人の人間(マネージャー)によりその人の仕事内容を評価するのは、極めて難しい仕事だ、ということが大前提にあります。

人事評価によるランク付けや数値による評価は、同僚間の競争や感情的なやりとりを生み、ストレスの原因となると言われています。

従業員の半分以上が、人事評価によって同僚との競争が生まれた(57%)、直属の上司が気に入った部下をひいきする(61%)と答えている。

 

私は零細のベンチャー企業で新卒時代を過ごし、国内大手・東証一部上場企業の異業種に転職して、事業規模と事業領域の異なる二つの会社を経験しましたが、いずれも人事評価については平等とはいいがたいと感じました。

上記の調査の「ひいきすると客観的に感じている人が60%以上いる」という状況は、現在の日本における従来型人事評価制度にも当てはまると思われます。

とくに「忖度」を重んじる日本企業において「上司の俺に忠実に従う使い勝手のいい部下」を評価する短絡的思考の上司がアメリカよりも多くの割合存在すると推定され、適切にその機能を果たせていない可能性すらあります。

 

尊敬する先輩が降格された話

ここでひとつ、いかに人事制度にみる目がないかを示す事例を紹介します。

先輩のNさんは面倒見もよく、担当エリア全体を見る視座の高さもあり、尊敬すべき先輩の一人です。

しかし、このNさんは降格されました。

理由は「職責に見合ったパフォーマンスを発揮していない」「先輩社員として後輩に手本となる活動ができていない」でした。

両方とも上司(エリアマネージャー)の「見る目の無さ」からくる誤解であることに、私以外は気づくこともなく、また上司に意見することもなかったのです。

まず、「職責に見合ったパフォーマンスを発揮していない」ですが、これは上司が職責に合わせた仕事を差配していないからです。つまり、上司の過失です。パフォーマンスを発揮できるように適切な人員配置をするのが、マネージャーの役割ですが、その能力不足を部下に押しつけて責任逃れする典型的無能パターンの上司が陥りやすい思考です。

次に、「先輩社員として後輩に手本となる活動ができていない」ですが、できています。会社の『手本となる活動』の認識に問題があることと、手本となっている場面を上司が診ていないだけ、という2点で説明がつきます。

会社が求める『手本となる活動』は、「何でもいいから新製品を売ってくること」というユーザー目線ではない会社本位のものなので、「顧客満足度を一番に考えてエリアに貢献する活動をし、その延長線上に売上最大化を見込む」という尊敬すべきNさんの視点は会社の方針にそぐわず、理解できない人が多いという悲しい状況です。

そうした意味で少なくとも私には、社会貢献のあるべき姿を示しているという意味で、この上ない手本になっているし、それを上司が視野狭窄に陥っているため知らないだけなのです。

このように、上司は必ずしも社員を評価できるほど有能ではありません。

それは上司も人間なので仕方のないことですし、人としての成熟度にも違いがあって当然です。

なぜそのような不適格な人間がマネージャー層に昇格してしまったか、といえば、前述の通り、「『上司の俺に忠実に従う使い勝手のいい部下』を評価する短絡的思考の上司」がマネージャーの器がないゴマすりしか巧くない人物を、無理やり引き上げてしまったからです。

つまり、人事評価すべき人間が評価する能力に乏しいため、社内評価には全くと言っていいほど信憑性とその意義が失われてしまったのです。

 

だから、あなたは上司の評価など気にする必要はない

見る目がない人の評価を気にしてビクビクする必要はありません。

逆に、そのような器の小さい人間の顔色をうかがってユーザーを蔑ろにしてはいけません。

私たちはユーザーを通じて社会に貢献するために、仕事をしているのです。社内の権力争いやマウントの取り合いなどにかまけて優秀な貴方の心が顧客から心が離れてしまっては、それこそ社会的損失です。

上司の顔色をうかがっていても自分の為にも会社の為にも、社会の為にもなりません。

だから、気にするのはもうやめましょう。

それにどのみちそんな無能が昇進するような会社は、これから社員も金も離れていきますから、これから自分が別の会社で活躍するためにもスキルを磨いて社会貢献度を高めておきましょう。

そうして能力を伸ばしていれば、ちゃんとあなたのことを評価してくれる会社と巡り合うこともあるでしょう。

社員に諦められる将来性のない会社のために、あなたの貴重な時間をつかうことはありません。

気を楽にして、建設的な働き方をしていきましょう!

【AC】アサーティブであることは、強さであり優しさであるという話

ACの12ステップ・プログラムと切っても切り離せないのが、『アサーティブ』であることだと思う。

自分の気持ちを率直に伝えたり、自分の考えをきちんと伝えることは難しい、しんどい、と感じることはありませんか。また言いすぎてしまった、もっとはっきりものが言えたらいいのに、上手に断れるようになりたい、攻撃的な言い方をやめたい、自信をもって人と接することができるようになりたい…。
でも、どうやったらそんなふうにコミュニケーションすることができるのでしょうか。その道しるべとなってくれるのが「アサーティブ」です。

 

アサーティブネス(Assertiveness)の訳語は、「自己主張すること」。でも、アサーティブであることは、自分の意見を押し通すことではありません。自分の気持ちや意見を、相手の気持ちも尊重しながら、誠実に、率直に、そして対等に表現することを意味します。

 

しかし、長年身についた言い方の癖や態度はなかなか変えられません。それには練習が必要です。自分のコミュニケーションパターンに気づき、それをアサーティブなものに変えていく学びと練習が、アサーティブ・トレーニングなのです。

引用:アサーティブジャパンHP「はじめに」より

 

私には、自分の要望がもし受け容れられなかったらとても傷つくから、なんとか言わずに相手をコントロールしようとする悪癖がある。

それは私の母親がやっていたことを無意識に模倣しているのだ。ずっとそのやり方でコントロールされてきたから、気が付いたら同じことをしている。それでさんざん苦しんできたのにもかかわらず、である。

自分が悪くならないように、言葉には出さず、疲れた様子やイライラした様子を見せてやるように仕向ける、という卑怯なやり方。そのやり方を私はよくしがちであることを認める。

この悪い習慣を手放し、アサーティブな自分であること。そのためにも、12ステッププログラムに真摯に取り組み続けること。

それによって、私の生きづらさは改善されていくのだと、信じている。

ちゃんとした「謝罪」の難しさ

相手に対して素直に謝れることが増えてきた。

まだまだ難しいが、悪いと感じたことを、言葉にして、心から謝ることを今、頑張っている。

 

なんとなく、気兼ねしている人が、みなさんにもいるのではないだろうか?

 

なんとなく嫌われているような気がしたり、なんとなく見下されているような気がして警戒したり。そういうときは、自分のなかに『何か認めたくないもの』があるときなのかもしれない。

私は、ある人を傷つけるようなことを言ってしまった。そのことに、今まで気づいていなかった。

しかし、最近傷ついた経験から、同じようなことをして傷つけたのではないか、という罪悪感を無意識に持っていたのだろう。

その人から何か言われるたびに、「私のなかの罪悪感」が心の壁となり、発言に対して警戒したり、気にしたりしていたように思う。

そこで、罪悪感について己の気持ちを突き止め、勇気を出してちゃんと心から謝罪した。

結果として、自分の行いがその人の心の安全を脅かしていないということに気づけた。

すると不思議なことに、それからは、「バカにされているのではないか」という不安感や、その人のことがわからない状況に対するイライラが起こらなくなったのだ。

他人が何も語らない場合、それはその人の自由であり、私がコントロールできるものでも、コントロールしていいものでもない。

たとえばある人が何も話していないにもかかわらず攻撃されているような気がするときは、己の心の中にいる自分が、自分自身を責めているのだと思う。自分がみる他人というのは、限りなく己の心が映し出す幻影であり妄想である。

そういうときは、事実を確認するようにしたい。

特に批判しているないようではないのに、批判されているような気がしたときは、自分の心に聞いてみよう。おのずと、答えが返ってくるはずだ。

 

ちゃんとした「謝罪」と同じくらい私にとって難しいこと

謝罪と同様に、私が他人に言えない難しいことがある。

それは『強く出る人に対してきっぱり断ること』だ。

強く言われると、自分が100%正しくないと断りづらくてたまらない。自分が断る正当性をついつい探し求めてしまう。

仕事で、こんなことがあった。

私はA社で働いている。

協力会社のB社が仲介をしているイベントがあってC社からの依頼を取りまとめしているのだが、B社には日頃からお世話になっているので、C社が定期的に開いている講演会を請け負ってくれないかと言われた。

講演をしてくれる演者の手配と会場費を負担するだけだったので、依頼をA社として受けることにした。だいたい2ヶ月前から動き、1ヶ月前には演者と演者のご略歴(経歴みたいなもん)を調整して、会場を運営するくらいのもので、予算もたいしてかからないし、と軽く受けた。

あくまで、これは対等な取引だ。我々A社としては開催費用を負担してあげてるわけで、B社から見たら依頼を受けてくれたありがたい存在なのだが…。

気に障ることには、やたらB社の担当が横柄なのであった。

「やって当たり前」「早く動け」「俺だってやりたくない」みたいな態度で、感謝の気持ちもない。新型コロナウイルスの影響ででA社の判断で延期が決まったのだが、

「(私は怒られたくないから)それはC社に直接行って詫び入れてくれる?」

と言ってきたのである。

「え?飛び越えて私が代わりに言っていいんですか?」

って思わず聞いてしまった。とりあえずして欲しいとのことなので、丁寧に電話で説明したら、

「そりゃあそうですよね、むしろこちらが目処を立てられず申し訳ない」

と逆に謝ってくれるC社。いいやつだ、C社。

お互い頑張って乗り切りましょう!とC社と爽やかな電話をした後、すぐにB社から電話かかってきた。

「どうやった?」

「どうやったって、何事もなく延期になりました。」

「怒ってなかった?」

「逆に謝られましたよ」

「そっか、ほんなら俺からも連絡しょーわい」

 

「しょーわいっていうか、もう私が連絡したんだからする意味なくないですか?」というのは飲み込んだものの、その後に続けられた「じゃあ、時期がきたらまた頼むわ」には流石に青筋が立った。

「状況が今までとは異なると思いますので、あらためて正式にご依頼いただいたときの状況で、可否を判断させていただきますね」と言うと、

「え、できんゆーこと?できるってゆーたやん。今からできんとか言われたら困るんやけど」と凄まれた。

 

こういう言われ方が、滅法苦手である。

たしかに一回できるって言ったよな…とか思いがちだし、正直頭にきすぎてなのか、母親に正論を言われ続けたせいなのか、心臓がバクバクして頭がクラクラする。

「だから、できるかどうかの判断が、コロナが落ち着いてからになる、ということですよ」

と伝えると、相手は

「わかりました」

と不服そうに電話を切ったのだが。

 

なんか、悔しい。

 

「は?もう二度と受けるか、バーカ!」と本当は言いたい。笑

しかし言えずにビクビクする自分がすごく嫌だと感じる。後に引きずって不機嫌になったり憂鬱になったりしたくないのに、なってしまう。気にしなければいいし、そのときに断ればいいだけなのに、本当に私に非はなかったか、点検してしまう自分がいる。

少しでも落ち度があったら「こっちも悪かったしな」とこちらから卑屈に謝りかねない。明らかに向こうが失礼なことが原因にもかかわらず、である。

12ステップ・プログラムを学び始めて、

「自分の気持ちは、正しくなくても認めていいこと」

「相手と同様に自分にも価値があり、尊重されるべき人間なのだということ」

「自分の気持ちはちゃんと感じて、そのまま素直に、自分の判断でやりたいようにやればいいこと」

そんなようなことを理解し始めている。

単純に私はB社とはもうお付き合いしたくない。そもそも、ビジネスとしても特に利益があるわけじゃないのにお世話になってるから『やってあげよう』とした私の判断は、歪んでいるように思う。

よく考えたら、B社をイネイブリングしてたんじゃないかな、ということに気づいた。

だから「新型コロナが落ち着いて依頼されても、やはり毅然と断ろう。」そう思った。

たぶん以前なら断る罪悪感でズルズルやりたくないことやってたから、これは大きな進歩である。

 

まとめ:なぜ、難しいと感じるのか?そこに理想の答えがある。

なぜ、私は正しくなければ断れないと思っているのだろうか。

謝罪のケースと同様に自分のなかに正しさを探すのは、『認めたくない何か』を見ないようにしているからだと思う。

謝らないことで、どんどん捉え方が自己防衛的に歪んでいって、そのままから遠ざかる。

 

常に真ん中にあるために、非を認めるのは、他ならぬ自分のためでもあるのだな、と思う。

自分の心がフラットなら、人と対峙していても安心できるし、心を揺らすことなくしっかりと受け答えできる。相手も自分も尊重できる。

つまり、毅然と自分の気持ちや要望を伝えることを躊躇わず、傷つけた時には勇気を持って謝り、傷ついた時には勇気をもって伝えることができるということが重要なのである。

このことにより、安心してお互いに自分を出すことができる環境が整う。

接する人が安心できる、真ん中でいられるような人になりたい。

それが、人としての優しさであり強さではないだろうか。

 

 

最も、私がありたい理想像だと認識している。

【依存症】自助グループは、人生の敗者の集まり?

なぜか、学生の頃から高杉晋作にあこがれてきた。

「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなしものは心なりけり」

高杉晋作が詠んだとされる(下の句は幕末の女流歌人である野村望東尼が詠んだとされているが)この歌は、実に味わい深い。

上の句のみが取り沙汰され「このつまらない世の中を俺が面白くしてやるぜ!」といった意味で誤解されてることが多く、本来の意味は「心のありようで世界は面白くもなるしつまらなくもなる」という意味だ。

事実は厳然とそこにあり、事象はあるがままでしかなく、それをとらえる心にこそ、喜びや悲しみや幸せや不幸せがあり、心で思ったことや感じたことが世界を創っている、というのである。まさに前回書いた、阿頼耶識である。

 

鬼のように強かった奇兵隊の組織構造

そんな歌を残した高杉晋作が組織した、「奇兵隊」という戦闘部隊がある。正確には、「長州藩奇兵隊」と呼ばれる。

長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。

奇兵隊などの諸隊は文久3年(1863年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。

出所:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A

奇兵隊は志願制であり、武士だけでなく農民・漁師・猟師・力士など、身分を問わず徴用した。そうした半数が武士以外のごちゃまぜの部隊だったと言われている。

長州藩には100以上の部隊があったにもかかわらず、奇兵隊が有名だったのは、その「強さ」が桁違いだったからだ。

奇兵隊は西洋式の散兵戦術を用いることが最も特徴で、これは西洋との戦争で敗れた敗因をもとに構築されている。

今まで戦国時代における日本の戦い方は、密集して陣形を組み、後方から指揮官が指揮する戦術をとっていたが、一ヶ所に密集している兵は鉄砲や大砲のいい的であり、攻撃を受けると一気に不利になるという欠点があった。

なぜそんなに密集させて目の届く範囲で指揮していたか?それは、兵士を信用しておらず、指揮官は兵の逃亡を防止する役割も兼ねていたからである。

兵を信じず、管理しようとするがゆえに密集し、それが弱点になっていた。動きは遅く、刻一刻と状況が変わる戦況に対応できず、不信の差配は、あたら貴重な兵を無為に失う結果を招いたのである。

 

そんなわけで西洋の軍隊にコテンパンにされた下関での反省を糧に、高杉晋作が組織した奇兵隊は、一味違う運営方法になった。

兵をひとりひとり信用したうえで、指揮官の指示が無くとも、独りで判断して戦えるように鍛え上げたのである。

基本的には装備を軽くして機動性を高め、走り回って散開できるよう、50kmを8時間で走るなど厳しい訓練を積んだ。

また、戦術を理解し司令官が倒れても別の人間が命令書を書けるよう、勉学を必須とした。

奨励した者は出身がどうであれ本隊に組み入れられる「出世制度」を導入しており、怠けていれば武士出身であろうとも昇格できなかった。

 

ホラクラシーとヒエラルキーと自助グループ

こうした自律型の組織構造を現代では「ホラクラシー」と呼ぶ。

ホラクラシーとは、上司・部下の関係性や肩書きのない、組織構造のことです。ホラクラシーの下では、社員全員が対等な立場となり、個人やチーム単位で意思決定を行うことができます。従来のトップダウン式の組織体制とは異なり、効率的な組織マネジメントが可能です。

引用:ホラクラシーとは?メリットやデメリット・よく見られる誤解も解説(手放す経営ラボラトリー)

ホラクラシーでは、マネジメントするのは人ではない。

仕事や役割をマネジメントするのである。

統治方法もルール(法律)であり、権力分配ではない。

日本においては、ヒエラルキー型の組織構造が一般的である。ヒエラルキーという単語は聞きなれている人も多いと思う。

例えば会社。社長や課長など、役職にあるものが決定権を持ち、トップダウン型のマネジメントをしている組織のほうが、想像しやすいだろう。

 

このヒエラルキーと対照的なホラクラシーによる組織運営は、まさに自助グループの運営方法に酷似している。

特に緊急事態宣言が発令されて集会ができず自助グループはオンライン化が急速に進みつつある。

その先駆けである『三森自助グループの森(@mimori333mori』(主宰:三森みさ

@mimorimisa)では、まさにこうした「ホラクラシー」のノウハウがフル活用されたフラットな組織運営がなされている。

 

「目的に向かって、組織の全メンバーがそれぞれ自己決定を行う自律的組織」であり、常に人も組織も進化していく。

なぜなら、自助グループの運営に携わる人々もまたピアカウンセラー的で、いわゆる同列の仲間であり、先輩後輩や上下関係などは存在しないのである。

各々が自身の回復に熱心に取り組み、利用者目線で(つまり当事者目線で)より良いグループの在り方について実践と検証を繰り返していく、自立型の組織である。

なればこそ、創始者や主宰者がいなくなってしまったのしても、組織は永続的に新たな英知を取り入れつつ、時代に応じた進化を経て存在し続けられるのである。

 

まとめ:自助グループは未来への希望

会社勤めをしていると、ヒエラルキー組織からの脱却を切に願わずにはいられない。本当に、自助グループの爪の垢を煎じて飲んでほしい。

「兵(構成メンバー・社員など)を信頼する」という基本的な、ただそれだけのことなのである。

それは、とても難しいことなのだ、と実感する。

リスクを抱えることを恐れて、管理にはしると、活動はどんどん委縮していく。事なかれ主義になり、人は育たず、責任を押し付け合う、この世の人の醜さをまざまざと見せつけられることになる。会社の現状が、まさにそれである。

自助グループは、それぞれが問題を抱えているいっこの人間であると自覚している。だからこそ、他人の弱さや至らなさを含めて、仲間として認め、信じることができる。自分だって完ぺきではないからだ。それを、心から認めて知っているから、完璧でなくても許せるし、損得勘定など無く助け合える。それこそ、理想の組織ではないだろうか。

謙虚でひたむきな未完成の人間の集まりが、最も高い完成度と可能性を備えた組織を創り、その運営を可能にしていく。

人生の敗者の集まり?

とんでもない。未来への輝ける可能性こそが、自助グループである。

人生に勝ち組負け組などとレッテルを貼って一喜一憂している、遅れた人たちにとやかく言われる筋合いなどない、素晴らしい組織だと私は思っている。

この世には、分かりやすい幸せと、分かりにくい幸せがある。

「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなしものは心なりけり」

それぞれに個性があり、成功か失敗かは最後までわからないし、簡単に比べられるものではない。だからこそ人生はおもしろく、心次第でおもしろくもつまらなくもなるのである。

他人と比べて勝った負けたで分かる幸せは実にわかりやすい。そして、いつまでも満たされない儚いものである。

そんなに簡単ではないからこそ、私たち依存症者やマイノリティは、「一般的な人生」よりもたくさんの物を得ることができるのだ。それは、「フツーの人生」なんかより遙かに豊かで幸せな一生ではないだろうか。

 

だから、三森自助グループの森の運営に携われることをとても誇りに思っているし、いつもたくさん学ばせてもらっている。この場を借りて、自助グループに関わる全ての人に深く感謝申し上げる。

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