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【仕事】複業型ワークスタイルの確立を目指そう!

今日は私が目指している「副業」ではなく「複業」型ワークスタイルを実現したい背景について、自分の方向性を確かめる意味でもまとめてみたいと思います。

これからの時代は「多動力」

堀江貴文氏の著書はだいたい読みました。

そのなかでも「ゼロ」は堀江貴文氏のメディアでのイメージとご本人とのギャップに驚くし、「多動力」の考え方は、私にとって方向性を示してくれた良著でした。

ぜひ読んでみていただきたいのですが、私が述べたい「多動力」についての説明が東洋経済Onlineさんに掲載されていたので、抜粋します。

 

この「多動力」。かつては、マイナスでしかなかったかもしれない。

「多動力」を仕事に生かす場面は少なく、おかしな人だと思われていたはずである。しかし、これからの時代は「多動力」こそが最も必要な能力だ。

ここでは、その理由を説明する。

IoT(Internet of Things =モノのインターネット)という言葉を最近ニュースでもよく耳にすると思う。これは、ありとあらゆる「モノ」がインターネットにつながっていくことを意味する。

調査会社ガートナーによると、2014年時点でネットにつながっているデバイスの数は38億個。その数が2020年には200億個を超えると予想されている。つまり、テレビなどの家電はもちろん、自動車も、家も、ありとあらゆる「モノ」がインターネットにつながるということだ。

すべての産業が「水平分業型モデル」となり、結果“タテの壁”が溶けていく。

たとえば、テレビとインターネットがつながると、テレビはスマホアプリの1つになり、電話やフェイスブックと同じレイヤーで競争することになる。フジテレビのライバルは日本テレビではなく、恋人からのLINEになるのだ。

また自動車がインターネットにつながり、自動運転が進めば、もはや自動車の形である必要はなくて、ただの移動するイスになるかもしれない。そのとき、自動車業界もインテリア業界もタテの壁はなくなる。あらゆる産業のタテの壁が溶けていけば、今までの経験や肩書きは通用しなくなる。

この、かつてない時代に求められるのは、各業界を軽やかに越えていく「越境者」だ。そして、「越境者」に最も必要な能力が、次から次に自分が好きなことをハシゴしまくる「多動力」なのだ。

出典:東洋経済Online_堀江貴文氏「多動力こそが最も重要な能力だ」

 

 

情報を持っていること自体はそんなに重要ではなくなる時代が来ます。

単なる情報戦ではインターネットやAIのほうに軍配が上がります。膨大なデータを蓄積でき、かつ計算も速く、そのうえ正確だからです。

対コンピュータだけでなく、人や企業の間のビジネスの戦力図も大きく変わります。コンテンツとしてWEBやITが使えるということは、かつては専門的とされていた情報は拡散され共有され、共通のリソースとして持てるようになるため、事業規模が違っても、経験年数が違っても、簡単に「情報」という形ではお金をかけなくても手に入るようになってきました。

だから、その道一筋で情報や知識を持っていることは、あまり経済的な価値や強みではなくなるというのです。

では、どんな人が自身の価値を高めていくのか?

それは、業界と業界の垣根を超える者、越境者だと考えられています。

様々な業界のケーススタディを積み、業界の垣根を越えて活躍することで、異なる価値観を融合できる=新しいモノやサービスやコンテンツを生み出せる=AIやコンピュータにはできない自分オリジナルの仕事を創ることができる、というわけです。

 

もはや「会社に尽くしていれば養ってくれる」はあり得ない

しばしば会社の中堅社員や上司と話していて辟易するのが、この奴隷根性あふれる以下のセリフです。

「嫌なことでも我慢していれば、会社が守ってくれる」

はあ?そんなわけないでしょ。

私たちが勤めている会社はそりゃ業界TOP3に入る会社ですが、リストラはそこかしこで始まっていますし、いずれ業界全体の流れとして社員は減らされることに間違いありません。

私は一度会社から目を付けられて会社を追われそうになった経験がありますが、そのときの会社の対応はえげつないです。

「なんとかしてこの社員をやめさせる材料はないか」と会社で総力を挙げて必死で叩いて埃を出させようとします。会社は人間をやめさせようと思ったらとことん冷たくなれるし、平気でパワハラもします。

嫌なことを我慢していても、会社が首を切りたくなったらあっさり切り捨てます。

それが会社です。

だから、会社がいつまた私を追い出そうとしても

「どうか切らないでください…生活できなくなってしまいます…」と靴を舐めるようなことはしないでいいようになっていなくてはいけません。

そんな状況を回避するためには何をすべきか?

それは『収入源を分散し複数確保する』ことです。

 

会社に支配されない働き方を実現するためには、複数の収入減を確保しておき、1本の収入パイプが潰れても他のパイプで収入が得られる状況にしておくことが重要です。

私の場合、働きながら専門学校に行き、社会福祉士を取得しました。

多くの国内の会社は副業禁止を謳っていますが、実は、法律的な観点からいえば、たとえ会社の就業規則において副業が禁じられていたとしても、法的な拘束力はもちません

現行の憲法および、その付属法(民法や商法など)においては、特に会社員の副業を禁ずる旨の条文は定められていないのです。むしろ、会社側が就業規則をはじめとして組織内の規定によってスタッフの副業を全面的に禁ずることが、法律上許されないという見方が大勢となっています。

これは企業のスタッフといえど一個人であることに変わりはなく、企業とは雇用契約によって決められた時間に労務を提供することになっているわけですから、それ以外の時間は一人ひとりが自らの意思で自由に使えるのが当たり前だからです。

多くの企業にとって、副業を禁止している根拠は就業規則によるものですが、スタッフのプライベートタイムにまで介入し、その時間の活動に制限を設けることは法律上許されないというのが法律的観点からの見方です。

また、労働基準法などの労働関連法規にも、特に副業に関する規定はありません。個人が同時に複数の企業と雇用契約を結ぶことや、会社員として働きながら個人事業主としてビジネスをすることに対する規制は、本来は存在しないということです。

ただし、本業に明らかに悪影響を及ぼす場合や企業の信頼を失墜させかねない場合は、懲戒を受ける可能性があります。

引用:https://boxil.jp/mag/a3874/#3874-7

 

つまり、「有給休暇」というプライベートな時間に、何をしようと私の自由であり、副業を制限する法的拘束力はないわけですから、私が専門学校で得た知識をもとに個人的に活動する分には、何の制約もないといっていいでしょう。

私はこのような背景から、うまく有給休暇などの法定休暇をとりつつ、資格を活用してフリーランスとして仕事を持ちたいと考えています。

 

もう一つは、このブログ運営です。

自力で初めて、このクローズドな趣味の延長ともいえるブログをゼロから自分で調べて立ち上げたことは、私にとって大きな自信になりました。

自身が書いた記事で構成されたブログがGoogleアドセンスの審査を通過して、Webサイトの収益化には成功しました。まだ微々たるものではありますが、コツコツとお金を生むことができています。定期的なブログ更新を今後も継続していけば、月数万のプラスには近いうちになっていくでしょう。

このように、現在3本の収入源を確保しよう!ということで、動いており成果が上がってきています。

これが、私が実現したい複業型ワークスタイルです。

 

元々の出発点は、会社への反骨精神から

私は悔しかったんですよね。

会社から意味のない指示や命令をもらって、それに対して反論した時に上司に言われました。

「誰に飯食わしてもらっとんねん、って話やから、結局」

札束で顔を叩かれたような屈辱的な気持ちになりましたね。

確かに、私は会社から給料をもらう形で組織に雇用されている、被雇用者だ。

でも、金を払っているんだからつべこべ言ってないで言うこと聞け、3回まわってワンと言え、みたいなこと言われて言い返せない立場は嫌だな、と思いました。

こんど言われたときには、

「へー、別に私は別にかまいませんけど、ちゃんとした退職金を積んでくれるんなら、やめてやってもいいですよ?」

と返してやろうと思います。

そのためにも、日々精進して、絶対にフリーランスとして仕事ができるようにスキルアップしていきます。そしてゆくゆくは、フリーランスのほうを主軸にして、独立してやろう!と野望を持っています。

やろうと思えばできないことはない、そう思って、調子が出ないときは休みつつ、頑張っていきたいな、と思います。

【仕事】社内評価を気にすることが無意味である理由

今のご時世、懐は氷河期を迎えているんじゃないかというくらい冷え込んでいます。

だからこそできるだけいい評価をもらいたい。

だから人事評価の時期は特にストレスを感じますよね。

「成果を出しているのに思うように評価してもらえなくてつらい…」

「評価面談時にいつも書類を準備するけど、正直しんどい…どんなに頑張って作ったところで結局上司の主観じゃないか」

こんな声が聞こえてきそうです。(特に私の心から…笑)

今日は従来型の人事評価がいかに無意味で気にする必要がないか?を考えます。

 

Adobe社が実施した調査「Performance Reviews Get a Failing Grade(パフォーマンスレビューに不合格判定)」

#アドビ 調査、従業員の #人事評価 のやり方が時代遅れになっていることを示唆

上記のサイトにおいてAdobe社が以下のように報告しています。

アメリカで1,500人の会社員を対象に実施した調査「Performance Reviews Get a Failing Grade(パフォーマンスレビューに不合格判定)」によると、人事評価の多くは時代遅れで、多くの時間を費やなくてはならないストレスフルなものと認識されています。

調査では、従来型の人事評価が、従業員やマネージャーから、いかに非生産的で無意味だと思われているかを明らかにしています。

調査対象となった従業員の88%は、ランク付けや数値の評価をともなう文書によるレビューなど、体系的な従来型の人事評価を定期的に受けなければならないと答えています。そして、こうしたレビューが同僚間の競争を激化させ、人間関係上のストレスを増やしており、感情的なやりとりや退職にも繋がると回答しています。

 

従来型の人事評価は、特にマネージャーにとって時間の無駄

  • 従業員とマネージャーの多くが、人事評価の準備は時間の無駄であると考えている。(従業員:72%、マネージャー:88%)
  • マネージャーは人事評価の準備に、従業員1人あたり平均17時間を費やしている。
  • 従業員とマネージャーの3分の2近くが、人事評価は時代遅れと考えている。(従業員:64%、マネージャー:62%)
  • 従業員の半数以上が、人事評価は仕事に対する影響力はない(59%)または、不必要である(58%)と考えている。

 

 

 

従来型の人事評価とAdobeの評価制度「check-in」の違い

Adobe社は、従来型の年次の人事評価早くから廃止した企業の一つであり、2012年には独自の評価制度となる「チェックイン(Check-in)」を導入しました。

この新しい制度では、従業員とマネージャーが常に対話を行い、その中で明確な目標を決め、何度もフィードバックし合いながら、キャリアアップについて話し合います。

従来型の年次の人事評価を廃止する前は、数値による評価、ランク付け、評価を文書化して提出する厳格な手続きを行っていましたが、「チェックイン」導入後、以前のプロセスで必要だったマネージャーの所要時間を最初の1年間で8万時間(フルタイム従業員40人分)削減しました。

従業員数が増加した現在、マネージャーが人事評価にかける時間を年10万時間以上削減していると推定しています。また、従業員に関しては、意欲、定着率が高まり、自らパフォーマンス管理ができるようになりました。

 

つまり、アメリカにおいて約70~80%の人が「年1回の人事評価は時間の無駄」と考えており、約60%の人が「仕事に対する影響はないか不必要だ」と考えているのです。

これは、日本においても同様ではないでしょうか。

 

そもそも、社内評価はあてにならない

一人の人間(マネージャー)によりその人の仕事内容を評価するのは、極めて難しい仕事だ、ということが大前提にあります。

人事評価によるランク付けや数値による評価は、同僚間の競争や感情的なやりとりを生み、ストレスの原因となると言われています。

従業員の半分以上が、人事評価によって同僚との競争が生まれた(57%)、直属の上司が気に入った部下をひいきする(61%)と答えている。

 

私は零細のベンチャー企業で新卒時代を過ごし、国内大手・東証一部上場企業の異業種に転職して、事業規模と事業領域の異なる二つの会社を経験しましたが、いずれも人事評価については平等とはいいがたいと感じました。

上記の調査の「ひいきすると客観的に感じている人が60%以上いる」という状況は、現在の日本における従来型人事評価制度にも当てはまると思われます。

とくに「忖度」を重んじる日本企業において「上司の俺に忠実に従う使い勝手のいい部下」を評価する短絡的思考の上司がアメリカよりも多くの割合存在すると推定され、適切にその機能を果たせていない可能性すらあります。

 

尊敬する先輩が降格された話

ここでひとつ、いかに人事制度にみる目がないかを示す事例を紹介します。

先輩のNさんは面倒見もよく、担当エリア全体を見る視座の高さもあり、尊敬すべき先輩の一人です。

しかし、このNさんは降格されました。

理由は「職責に見合ったパフォーマンスを発揮していない」「先輩社員として後輩に手本となる活動ができていない」でした。

両方とも上司(エリアマネージャー)の「見る目の無さ」からくる誤解であることに、私以外は気づくこともなく、また上司に意見することもなかったのです。

まず、「職責に見合ったパフォーマンスを発揮していない」ですが、これは上司が職責に合わせた仕事を差配していないからです。つまり、上司の過失です。パフォーマンスを発揮できるように適切な人員配置をするのが、マネージャーの役割ですが、その能力不足を部下に押しつけて責任逃れする典型的無能パターンの上司が陥りやすい思考です。

次に、「先輩社員として後輩に手本となる活動ができていない」ですが、できています。会社の『手本となる活動』の認識に問題があることと、手本となっている場面を上司が診ていないだけ、という2点で説明がつきます。

会社が求める『手本となる活動』は、「何でもいいから新製品を売ってくること」というユーザー目線ではない会社本位のものなので、「顧客満足度を一番に考えてエリアに貢献する活動をし、その延長線上に売上最大化を見込む」という尊敬すべきNさんの視点は会社の方針にそぐわず、理解できない人が多いという悲しい状況です。

そうした意味で少なくとも私には、社会貢献のあるべき姿を示しているという意味で、この上ない手本になっているし、それを上司が視野狭窄に陥っているため知らないだけなのです。

このように、上司は必ずしも社員を評価できるほど有能ではありません。

それは上司も人間なので仕方のないことですし、人としての成熟度にも違いがあって当然です。

なぜそのような不適格な人間がマネージャー層に昇格してしまったか、といえば、前述の通り、「『上司の俺に忠実に従う使い勝手のいい部下』を評価する短絡的思考の上司」がマネージャーの器がないゴマすりしか巧くない人物を、無理やり引き上げてしまったからです。

つまり、人事評価すべき人間が評価する能力に乏しいため、社内評価には全くと言っていいほど信憑性とその意義が失われてしまったのです。

 

だから、あなたは上司の評価など気にする必要はない

見る目がない人の評価を気にしてビクビクする必要はありません。

逆に、そのような器の小さい人間の顔色をうかがってユーザーを蔑ろにしてはいけません。

私たちはユーザーを通じて社会に貢献するために、仕事をしているのです。社内の権力争いやマウントの取り合いなどにかまけて優秀な貴方の心が顧客から心が離れてしまっては、それこそ社会的損失です。

上司の顔色をうかがっていても自分の為にも会社の為にも、社会の為にもなりません。

だから、気にするのはもうやめましょう。

それにどのみちそんな無能が昇進するような会社は、これから社員も金も離れていきますから、これから自分が別の会社で活躍するためにもスキルを磨いて社会貢献度を高めておきましょう。

そうして能力を伸ばしていれば、ちゃんとあなたのことを評価してくれる会社と巡り合うこともあるでしょう。

社員に諦められる将来性のない会社のために、あなたの貴重な時間をつかうことはありません。

気を楽にして、建設的な働き方をしていきましょう!

【AC】アサーティブであることは、強さであり優しさであるという話

ACの12ステップ・プログラムと切っても切り離せないのが、『アサーティブ』であることだと思う。

自分の気持ちを率直に伝えたり、自分の考えをきちんと伝えることは難しい、しんどい、と感じることはありませんか。また言いすぎてしまった、もっとはっきりものが言えたらいいのに、上手に断れるようになりたい、攻撃的な言い方をやめたい、自信をもって人と接することができるようになりたい…。
でも、どうやったらそんなふうにコミュニケーションすることができるのでしょうか。その道しるべとなってくれるのが「アサーティブ」です。

 

アサーティブネス(Assertiveness)の訳語は、「自己主張すること」。でも、アサーティブであることは、自分の意見を押し通すことではありません。自分の気持ちや意見を、相手の気持ちも尊重しながら、誠実に、率直に、そして対等に表現することを意味します。

 

しかし、長年身についた言い方の癖や態度はなかなか変えられません。それには練習が必要です。自分のコミュニケーションパターンに気づき、それをアサーティブなものに変えていく学びと練習が、アサーティブ・トレーニングなのです。

引用:アサーティブジャパンHP「はじめに」より

 

私には、自分の要望がもし受け容れられなかったらとても傷つくから、なんとか言わずに相手をコントロールしようとする悪癖がある。

それは私の母親がやっていたことを無意識に模倣しているのだ。ずっとそのやり方でコントロールされてきたから、気が付いたら同じことをしている。それでさんざん苦しんできたのにもかかわらず、である。

自分が悪くならないように、言葉には出さず、疲れた様子やイライラした様子を見せてやるように仕向ける、という卑怯なやり方。そのやり方を私はよくしがちであることを認める。

この悪い習慣を手放し、アサーティブな自分であること。そのためにも、12ステッププログラムに真摯に取り組み続けること。

それによって、私の生きづらさは改善されていくのだと、信じている。

ちゃんとした「謝罪」の難しさ

相手に対して素直に謝れることが増えてきた。

まだまだ難しいが、悪いと感じたことを、言葉にして、心から謝ることを今、頑張っている。

 

なんとなく、気兼ねしている人が、みなさんにもいるのではないだろうか?

 

なんとなく嫌われているような気がしたり、なんとなく見下されているような気がして警戒したり。そういうときは、自分のなかに『何か認めたくないもの』があるときなのかもしれない。

私は、ある人を傷つけるようなことを言ってしまった。そのことに、今まで気づいていなかった。

しかし、最近傷ついた経験から、同じようなことをして傷つけたのではないか、という罪悪感を無意識に持っていたのだろう。

その人から何か言われるたびに、「私のなかの罪悪感」が心の壁となり、発言に対して警戒したり、気にしたりしていたように思う。

そこで、罪悪感について己の気持ちを突き止め、勇気を出してちゃんと心から謝罪した。

結果として、自分の行いがその人の心の安全を脅かしていないということに気づけた。

すると不思議なことに、それからは、「バカにされているのではないか」という不安感や、その人のことがわからない状況に対するイライラが起こらなくなったのだ。

他人が何も語らない場合、それはその人の自由であり、私がコントロールできるものでも、コントロールしていいものでもない。

たとえばある人が何も話していないにもかかわらず攻撃されているような気がするときは、己の心の中にいる自分が、自分自身を責めているのだと思う。自分がみる他人というのは、限りなく己の心が映し出す幻影であり妄想である。

そういうときは、事実を確認するようにしたい。

特に批判しているないようではないのに、批判されているような気がしたときは、自分の心に聞いてみよう。おのずと、答えが返ってくるはずだ。

 

ちゃんとした「謝罪」と同じくらい私にとって難しいこと

謝罪と同様に、私が他人に言えない難しいことがある。

それは『強く出る人に対してきっぱり断ること』だ。

強く言われると、自分が100%正しくないと断りづらくてたまらない。自分が断る正当性をついつい探し求めてしまう。

仕事で、こんなことがあった。

私はA社で働いている。

協力会社のB社が仲介をしているイベントがあってC社からの依頼を取りまとめしているのだが、B社には日頃からお世話になっているので、C社が定期的に開いている講演会を請け負ってくれないかと言われた。

講演をしてくれる演者の手配と会場費を負担するだけだったので、依頼をA社として受けることにした。だいたい2ヶ月前から動き、1ヶ月前には演者と演者のご略歴(経歴みたいなもん)を調整して、会場を運営するくらいのもので、予算もたいしてかからないし、と軽く受けた。

あくまで、これは対等な取引だ。我々A社としては開催費用を負担してあげてるわけで、B社から見たら依頼を受けてくれたありがたい存在なのだが…。

気に障ることには、やたらB社の担当が横柄なのであった。

「やって当たり前」「早く動け」「俺だってやりたくない」みたいな態度で、感謝の気持ちもない。新型コロナウイルスの影響ででA社の判断で延期が決まったのだが、

「(私は怒られたくないから)それはC社に直接行って詫び入れてくれる?」

と言ってきたのである。

「え?飛び越えて私が代わりに言っていいんですか?」

って思わず聞いてしまった。とりあえずして欲しいとのことなので、丁寧に電話で説明したら、

「そりゃあそうですよね、むしろこちらが目処を立てられず申し訳ない」

と逆に謝ってくれるC社。いいやつだ、C社。

お互い頑張って乗り切りましょう!とC社と爽やかな電話をした後、すぐにB社から電話かかってきた。

「どうやった?」

「どうやったって、何事もなく延期になりました。」

「怒ってなかった?」

「逆に謝られましたよ」

「そっか、ほんなら俺からも連絡しょーわい」

 

「しょーわいっていうか、もう私が連絡したんだからする意味なくないですか?」というのは飲み込んだものの、その後に続けられた「じゃあ、時期がきたらまた頼むわ」には流石に青筋が立った。

「状況が今までとは異なると思いますので、あらためて正式にご依頼いただいたときの状況で、可否を判断させていただきますね」と言うと、

「え、できんゆーこと?できるってゆーたやん。今からできんとか言われたら困るんやけど」と凄まれた。

 

こういう言われ方が、滅法苦手である。

たしかに一回できるって言ったよな…とか思いがちだし、正直頭にきすぎてなのか、母親に正論を言われ続けたせいなのか、心臓がバクバクして頭がクラクラする。

「だから、できるかどうかの判断が、コロナが落ち着いてからになる、ということですよ」

と伝えると、相手は

「わかりました」

と不服そうに電話を切ったのだが。

 

なんか、悔しい。

 

「は?もう二度と受けるか、バーカ!」と本当は言いたい。笑

しかし言えずにビクビクする自分がすごく嫌だと感じる。後に引きずって不機嫌になったり憂鬱になったりしたくないのに、なってしまう。気にしなければいいし、そのときに断ればいいだけなのに、本当に私に非はなかったか、点検してしまう自分がいる。

少しでも落ち度があったら「こっちも悪かったしな」とこちらから卑屈に謝りかねない。明らかに向こうが失礼なことが原因にもかかわらず、である。

12ステップ・プログラムを学び始めて、

「自分の気持ちは、正しくなくても認めていいこと」

「相手と同様に自分にも価値があり、尊重されるべき人間なのだということ」

「自分の気持ちはちゃんと感じて、そのまま素直に、自分の判断でやりたいようにやればいいこと」

そんなようなことを理解し始めている。

単純に私はB社とはもうお付き合いしたくない。そもそも、ビジネスとしても特に利益があるわけじゃないのにお世話になってるから『やってあげよう』とした私の判断は、歪んでいるように思う。

よく考えたら、B社をイネイブリングしてたんじゃないかな、ということに気づいた。

だから「新型コロナが落ち着いて依頼されても、やはり毅然と断ろう。」そう思った。

たぶん以前なら断る罪悪感でズルズルやりたくないことやってたから、これは大きな進歩である。

 

まとめ:なぜ、難しいと感じるのか?そこに理想の答えがある。

なぜ、私は正しくなければ断れないと思っているのだろうか。

謝罪のケースと同様に自分のなかに正しさを探すのは、『認めたくない何か』を見ないようにしているからだと思う。

謝らないことで、どんどん捉え方が自己防衛的に歪んでいって、そのままから遠ざかる。

 

常に真ん中にあるために、非を認めるのは、他ならぬ自分のためでもあるのだな、と思う。

自分の心がフラットなら、人と対峙していても安心できるし、心を揺らすことなくしっかりと受け答えできる。相手も自分も尊重できる。

つまり、毅然と自分の気持ちや要望を伝えることを躊躇わず、傷つけた時には勇気を持って謝り、傷ついた時には勇気をもって伝えることができるということが重要なのである。

このことにより、安心してお互いに自分を出すことができる環境が整う。

接する人が安心できる、真ん中でいられるような人になりたい。

それが、人としての優しさであり強さではないだろうか。

 

 

最も、私がありたい理想像だと認識している。

【依存症】自助グループは、人生の敗者の集まり?

なぜか、学生の頃から高杉晋作にあこがれてきた。

「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなしものは心なりけり」

高杉晋作が詠んだとされる(下の句は幕末の女流歌人である野村望東尼が詠んだとされているが)この歌は、実に味わい深い。

上の句のみが取り沙汰され「このつまらない世の中を俺が面白くしてやるぜ!」といった意味で誤解されてることが多く、本来の意味は「心のありようで世界は面白くもなるしつまらなくもなる」という意味だ。

事実は厳然とそこにあり、事象はあるがままでしかなく、それをとらえる心にこそ、喜びや悲しみや幸せや不幸せがあり、心で思ったことや感じたことが世界を創っている、というのである。まさに前回書いた、阿頼耶識である。

 

鬼のように強かった奇兵隊の組織構造

そんな歌を残した高杉晋作が組織した、「奇兵隊」という戦闘部隊がある。正確には、「長州藩奇兵隊」と呼ばれる。

長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。

奇兵隊などの諸隊は文久3年(1863年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。

出所:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A

奇兵隊は志願制であり、武士だけでなく農民・漁師・猟師・力士など、身分を問わず徴用した。そうした半数が武士以外のごちゃまぜの部隊だったと言われている。

長州藩には100以上の部隊があったにもかかわらず、奇兵隊が有名だったのは、その「強さ」が桁違いだったからだ。

奇兵隊は西洋式の散兵戦術を用いることが最も特徴で、これは西洋との戦争で敗れた敗因をもとに構築されている。

今まで戦国時代における日本の戦い方は、密集して陣形を組み、後方から指揮官が指揮する戦術をとっていたが、一ヶ所に密集している兵は鉄砲や大砲のいい的であり、攻撃を受けると一気に不利になるという欠点があった。

なぜそんなに密集させて目の届く範囲で指揮していたか?それは、兵士を信用しておらず、指揮官は兵の逃亡を防止する役割も兼ねていたからである。

兵を信じず、管理しようとするがゆえに密集し、それが弱点になっていた。動きは遅く、刻一刻と状況が変わる戦況に対応できず、不信の差配は、あたら貴重な兵を無為に失う結果を招いたのである。

 

そんなわけで西洋の軍隊にコテンパンにされた下関での反省を糧に、高杉晋作が組織した奇兵隊は、一味違う運営方法になった。

兵をひとりひとり信用したうえで、指揮官の指示が無くとも、独りで判断して戦えるように鍛え上げたのである。

基本的には装備を軽くして機動性を高め、走り回って散開できるよう、50kmを8時間で走るなど厳しい訓練を積んだ。

また、戦術を理解し司令官が倒れても別の人間が命令書を書けるよう、勉学を必須とした。

奨励した者は出身がどうであれ本隊に組み入れられる「出世制度」を導入しており、怠けていれば武士出身であろうとも昇格できなかった。

 

ホラクラシーとヒエラルキーと自助グループ

こうした自律型の組織構造を現代では「ホラクラシー」と呼ぶ。

ホラクラシーとは、上司・部下の関係性や肩書きのない、組織構造のことです。ホラクラシーの下では、社員全員が対等な立場となり、個人やチーム単位で意思決定を行うことができます。従来のトップダウン式の組織体制とは異なり、効率的な組織マネジメントが可能です。

引用:ホラクラシーとは?メリットやデメリット・よく見られる誤解も解説(手放す経営ラボラトリー)

ホラクラシーでは、マネジメントするのは人ではない。

仕事や役割をマネジメントするのである。

統治方法もルール(法律)であり、権力分配ではない。

日本においては、ヒエラルキー型の組織構造が一般的である。ヒエラルキーという単語は聞きなれている人も多いと思う。

例えば会社。社長や課長など、役職にあるものが決定権を持ち、トップダウン型のマネジメントをしている組織のほうが、想像しやすいだろう。

 

このヒエラルキーと対照的なホラクラシーによる組織運営は、まさに自助グループの運営方法に酷似している。

特に緊急事態宣言が発令されて集会ができず自助グループはオンライン化が急速に進みつつある。

その先駆けである『三森自助グループの森(@mimori333mori』(主宰:三森みさ

@mimorimisa)では、まさにこうした「ホラクラシー」のノウハウがフル活用されたフラットな組織運営がなされている。

 

「目的に向かって、組織の全メンバーがそれぞれ自己決定を行う自律的組織」であり、常に人も組織も進化していく。

なぜなら、自助グループの運営に携わる人々もまたピアカウンセラー的で、いわゆる同列の仲間であり、先輩後輩や上下関係などは存在しないのである。

各々が自身の回復に熱心に取り組み、利用者目線で(つまり当事者目線で)より良いグループの在り方について実践と検証を繰り返していく、自立型の組織である。

なればこそ、創始者や主宰者がいなくなってしまったのしても、組織は永続的に新たな英知を取り入れつつ、時代に応じた進化を経て存在し続けられるのである。

 

まとめ:自助グループは未来への希望

会社勤めをしていると、ヒエラルキー組織からの脱却を切に願わずにはいられない。本当に、自助グループの爪の垢を煎じて飲んでほしい。

「兵(構成メンバー・社員など)を信頼する」という基本的な、ただそれだけのことなのである。

それは、とても難しいことなのだ、と実感する。

リスクを抱えることを恐れて、管理にはしると、活動はどんどん委縮していく。事なかれ主義になり、人は育たず、責任を押し付け合う、この世の人の醜さをまざまざと見せつけられることになる。会社の現状が、まさにそれである。

自助グループは、それぞれが問題を抱えているいっこの人間であると自覚している。だからこそ、他人の弱さや至らなさを含めて、仲間として認め、信じることができる。自分だって完ぺきではないからだ。それを、心から認めて知っているから、完璧でなくても許せるし、損得勘定など無く助け合える。それこそ、理想の組織ではないだろうか。

謙虚でひたむきな未完成の人間の集まりが、最も高い完成度と可能性を備えた組織を創り、その運営を可能にしていく。

人生の敗者の集まり?

とんでもない。未来への輝ける可能性こそが、自助グループである。

人生に勝ち組負け組などとレッテルを貼って一喜一憂している、遅れた人たちにとやかく言われる筋合いなどない、素晴らしい組織だと私は思っている。

この世には、分かりやすい幸せと、分かりにくい幸せがある。

「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなしものは心なりけり」

それぞれに個性があり、成功か失敗かは最後までわからないし、簡単に比べられるものではない。だからこそ人生はおもしろく、心次第でおもしろくもつまらなくもなるのである。

他人と比べて勝った負けたで分かる幸せは実にわかりやすい。そして、いつまでも満たされない儚いものである。

そんなに簡単ではないからこそ、私たち依存症者やマイノリティは、「一般的な人生」よりもたくさんの物を得ることができるのだ。それは、「フツーの人生」なんかより遙かに豊かで幸せな一生ではないだろうか。

 

だから、三森自助グループの森の運営に携われることをとても誇りに思っているし、いつもたくさん学ばせてもらっている。この場を借りて、自助グループに関わる全ての人に深く感謝申し上げる。

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【依存症】祈りとは信じることだという話

どん底を経験して、今死なないならとにかく生きるしかない、ということで回復に向かって真剣に生きてきて、今思うこと。

 

死なないで生きてみる

やっぱりアルコール依存症は苦しかった。とても、二度と経験したいものではない。

ただ、苦しんだけど得るものがあったし、この病にかかることで導かれるようになってたんだな、と思うことがある。

途中で強制的に終わらせなければ。死ななければ、物語には続きがある。

人生とは何か。そのことを深く考えさせられる。そういうはっと目が覚めるような感覚を何度も味わった。

生きなきゃ、損だということかもしれない。

まだまだいろいろあるんだろうから。

上映している映画を途中で退席するようなもんだ。

私は、この人生という映画を、もったいないからまだまだ観たい。

 

生きることに真摯であること(内的なハイヤー・パワー)

私は最近になって、自分の力ではどうにもならないことを経験をした。

他人の考え方や生き方をどうにかすることなど、どれだけ近かろうと他人にはできはしない。

自分で気づかなくては、何も伝わらないこともある。言葉で伝わることは限られていて、真実や回復というものは、感じるものなのだと思う。

どんなに願っても、ならないもんはならないんだな、と思う。

自分もそうだった。頑なだったり、必死だったり。自分しか見えていなかった。今もまだまだそうだとも思う。

そんな自分が、今こうやって、何かの巡り合わせで回復に向かっている。

そう考えると、やっぱり、何か大きな見えない力が働いていると感じる。

真摯にやっていれば、諦めずに向き合い続けたら、ゆくゆくは同じところに繋がるものなんだと思う。

その己が持つ『真摯さ』は、己の自我を超越していながら内在している「自分を超えた大きな力」。つまり、『内的なハイヤー・パワー』なんだなぁって思う。

 

大乗仏教にも似た思想があって、『唯識学派』という学派がある。

各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する考え方である。

最も根底に、『阿頼耶識(あらやしき, ālaya-vijñāna)』という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

つまり、己のなかにいる『神』と言ってもいいだろう。それがハイヤー・パワーの一つであると思う。

回復しよう、よくなろう、という誠実な気持ちは、生きることを諦めない限り必ず常に己のそばにあるし、世界そのものであるがゆえに、信じられる。

それを、『神』を信じる、ハイヤー・パワーを信じる、と表現するのだと思う。

 

祈りとは信じること(外的なハイヤー・パワー)

「依存症が回復するかはぶっちゃけ運」

「家族が回復できると祈ることも運」

という言葉を聞いて、最初は少しだけ違和感があったのだが、結局そうなのだと最近はとても肚落ちする。

コントロールすることなどできない。己に誠実に真摯に向かい合うことしかできない。

それでも回復に向かうはず、と信じることこそ、『祈り』なんだと思う。

『祈る』ことは信じることなんだなと思う。

信じようって言えるのは、自分がそうだからだ。今までもそうだし、これからもそうだから、可能性を体現している。

私の場合、あんなにどうしようもなかった奴だったのに、これまで偶然にも生きてこられて、大事な仲間ができるんだから。しかも回復に向かうんだから、あらゆるひとにとって回復の可能性はゼロじゃないと信じられる。

絶対大丈夫とは言えんが、ゼロじゃないなら、終わりじゃない。

 

俺ができることはちっぽけだけど真摯にやってたら、何かが何処かに繋がってることが、往々にしてある。

だから安心して、誠実に自分に向き合い続ければいい。そしたら、川が海に流れていくように、外的な「自分を超えた大きな力」にしたがって、信じるとおりになっていくのだと思う。

その安心感が、『外的なハイヤーパワー』なのだと思う。常に自分とともにある。それは川が川であるために土手があるように、自分と一体になっている世界そのものだから。

つまり、ハイヤー・パワーとは、外在的な安心でもあり、内在するオーダーメイドな神でもあるのだと思う。

 

まとめ:きっと、大丈夫。

いつ、そういう風に信じることができるようになってきたのだろうか、と考えてみる。

アルコール依存症になって、向き合って生きるか、諦めて死ぬかどっちか選べって状況になった。

今日。まだ死にたくないから生きる決意をして、とにかく真剣に、一日、また一日とがんばって今に至る。

そしたらいろいろ、時間がかかったけど、今まで見えなかったものが見えてきて、今こうして生きてることや、回復を実感するときがある。

そんな、パズルのピースがぴったりハマったような偶然に、感謝の気持ちがこみあげてきて、ふふふ、と笑いがこみ上げてくることがないだろうか。

それこそ、どこの誰だか知らないが、天や神に、祈りたくなる。今までのすべてにありがとう、って祈りたくなる。嬉しいときの方が、祈りたくなるのは私だけだろうか。

自分自身の人生を生きる。その覚悟と、実行と、感謝。

その素晴らしさと有難さが、生きている喜びの実感そのものだと思う。

絶対信じられなかったもんな。

酒をやめ始めた時、また笑う日が来るなんて。

毎日毎日我慢して、いずれ死ぬと思っていたのに。

そんなゾンビみたいなのが、2年経てば、わりかし笑うんだから、大丈夫。

 

そう、きっと、みんな大丈夫なのだ。

私が信じられるくらいだ。ハイヤー・パワーは、信じてもいいものだと思う。

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【依存症】自分を超えた大きな力(ハイヤー・パワー)について考える

「ハイヤー・パワー」

この単語を聞くと、何となく胡散臭く感じるのは、わたしだけではないだろう。

「神」という単語にも、私は拒絶反応がある。

回復の道しるべである、12ステップ・プログラムに取り組んでいると、しばしばこの単語に遭遇する。

私たちは、これらの概念をどうとらえて、どう考えていけばいいのだろうか。

 

神様や仏様を信じられない私

私は神様や仏様を信じていない。

そんな高尚なものが意志をもっていて、この世を統括しているとしたら、一発ぶん殴りに行きたい。あまりにも無慈悲で理不尽なことが起こるし、生きることはほぼ苦行であると感じる。

それらが神のお導きとやらだとしたら、ドSにもほどがある。私はMだけど、ご褒美がないSはただのパワハラ野郎だと思う。単純に好きじゃない。

と、いきなり天に唾することを言っても仕方がないし、不遜かもしれないが、私は素直にそう思っている。

したがって神仏は一切信仰してこなかった。これからもそうだと思う。

 

大きな力によって生かされている私たち

でも、自分を超えた大きな力はあるんじゃないかと思う。

 

私たちはひとりでは生きていけない。

独りでできる事は、ものすごく限られている。

生きていくだけでも、様々な人のいろいろな偶然やめぐりあわせによって、今日も偶々何とか生きているのが、実際だと思う。

ちょっとボタンを掛け違えたら、人は簡単に死ぬ。明日が来ることは当たり前ではない。

 

そう考えると、自分が生きていく道筋は、自分を超えた大きな力によってほぼ完璧に決められていて、私たちはその大きな力には、全く逆らうことができない。

果てしなく無力である。

川の水が、川のかたちの通りにしか水が流れられないように、私たちは、人生の流れを自分で決めることができない。

自分が思い描いたように人生設計をして、思い通りに生きているように錯覚しているが、実は、そうではない。

自分ではコントロールできているつもりになっていることがほとんどだが、偶然に偶然が重なり、たまたま今があるにすぎないのである。

 

コントロールできるという驕り

特に、受験や就職で社会的にスムーズに成功してしまった人に多い認知の歪みが、「自分は他人より優秀であり、状況や他人をコントロールできる」という傲慢さである。

勉強できる環境(金銭面・治安面など)があったことや、タイミング、景気、脳の特性など、さまざまな偶然が重なって、今生きている社会において「良い」と評価されている特性にたまたま合致しているに過ぎない。

それが優秀さの絶対的指標にはならない。なぜなら社会というものは常に変化しあいまいで、他人の評価というものはさらに流動的だからだ。確かなものなど、実は何一つない。

収入も学歴も美醜も、何一つ『かけがえのないもの』ではない。かけがえのないものだとしたら、それは時代によっても国によっても価値観は一定であるはずだが、そんなことはない。

すなわち、社会的評価というものは、水物で、それに適応していないからと言って劣等種ではないし、そういう価値観で物事を見ていると、世界が変化したときに対応できない。

 

世界の変化は突然起こる。

栄枯盛衰、驕れる者久しからず。結局ひとはいつか死ぬし、生まれて死ぬタイミングすら「自分を超えた大きな力」により決められていて、自分ではどうすることもできない。

生きている間に、うれしさや悲しみの感情の波が寄せては返す水面のように揺蕩い、そのなかでわずかばかりの金銭が行ったり来たりするだけ。

それが、生きるということを客観的にみるところの真の姿なのではないかと思う。

 

変えられないものを受け容れる限り、生きることは自由

私は、アルコール依存症である。私は発達障害(ASD・ADHD)でもある。

これらは、私にはどうすることもできなかったことで、これからもどうすることもできないだろう。

生まれる家は選べなかったし、生きていくにはエチルアルコールに頼るしかなかったし、発達障害を持たないように生まれることはできなかっただろう。

生まれた時点で、すでに大きな力に定められていたのかもしれない。

しかし、自分を超えた大きな力については、ただ単に無慈悲なわけではなく、何となく決めているとしか思えないくらい、一貫性がないように見えて、己に誠実に向き合うことさえできれば、学びとして活かせるほどの自由度がある気がする。

ようは、与えられた事象をどうとらえるか、という点で、我々は限りなく自由なのである。

川の水と同じである。水は、激しく打つこともできるし、ゆるやかに流れることもできる。流れる道筋は完璧に決められているかもしれないが、柔軟性をもって道を下ることそのものを受け容れる限り、その限りにおいては完全に自由であると思う。

 

そのわずかに見える余地が、生きる上で最も重要であり、ただ流れたくもないのにずっと流されていくのか、流れる道のりを楽しみ、反応し感じ考え、最後に海にたどり着くのとは、同じ川の流れだったとしても、その道中の景色の輝きは全く異なるだろう。

 

 

まとめ:ハイヤー・パワーは、川が海に続いていると信じるということ

全ての川は、海に続いている。

山のどんな険しいところから細々と始まった川であったとしても、どれだけ濁り澱んでしまい、流れが停滞しそうであったとしても、必ずや、海に繋がっている。

それを信じることに似ていると思う。

私たちの人生は、どこに繋がっているのだろうか。

生まれる、というところから、死ぬ、というところに物理的には確実につながっているわけだが、メンタル面・精神面でも、確実に一定のライフサイクルを辿るはずなのである。

ということは、良いことか悪いことかを抜きにして(その判断は自身のとらえ方によるので)、生きている限り、ある一定のゴールに向かって導かれていくものなのだと思う。

 

私がアルコール依存症になったことも、私が、マイノリティとしての痛みを知り自分を省みるチャンスをいただくために与えられたチャンスだったのではないかと思う。

この病気を患ったからこそ出会えた人がいる。かけがえのない仲間の優しさや強さに触れることができた。生きる喜びも、病気になる前よりも強く感じる。

世界はそういう、素敵なことが起こるようにできている、と信じることが、ハイヤー・パワーを信じる、ということなのではないだろうか。

そう信じてみたい。

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【発達障害】集団でいることは、とてもストレスだという話

私はとにかく、複数人で行動を共にするのが苦手だ。

 

たとえば、レストラン。

自分がA定食を頼んだとしよう。

一緒に来た人が、B定食を頼んだとしよう。

 

私は、A定食のコスパと今食べたいものを総合的に勘案して、ベストの選択としてA定食を選んでいるので、A定食を100%摂取することを前提として行動を組み立てているのである。

しかし、往々にして、一緒に来た人は、「それ一口ちょうだいよ」という。

それにより、私の計画は崩れる。

B定食を食べることを想定しなくてはならない。

そして、A定食のおかずが減ることを想定しなくてはならない。

となると、私はA定食ではなくて、C定食を選んで、相手にあげることを加味したうえで満足が最大化するように選択を変えなくてはならない。

それが、ものすごくストレスなのである。

 

A定食を食べたいなら、A定食を頼めばいいし、B定食を選んだなら、B定食を食べることに徹してくれればいいのだが、なぜか定型発達というか他の人は、他人が頼んだ物を欲しがる。

それなら、たくさん食べられるようトレーニングをして、A定食とB定食を両方食べられるようにすればいいのに、といつも思う。

 

遠足のお菓子についても同様である。

要りもしないお菓子を、バスのなかでまわされて、自分のお菓子を分けるように要求されるのが、本当に嫌いだった。

特に私は友達などいなかったので、なぜ顔見知りの他人に選びに選び抜いたお菓子を与えなくてはいけないのか、はなはだ疑問だった。

限られた予算のなかで、満足度が最大化するように厳選されたお菓子たち。それらは、私が食べるために準備されたものだ。その他の有象無象の胃袋におさめるためにあるのではない。

私は、しぶしぶお気に入りをあげるよりは、どうでもいい食べたくないもので、低予算かつ大量にあるものを、ひとつは選ぶようにして、お菓子を他人に見せないことで、うまく対策を講じてきた。

その「私としてはどうでもいいお菓子」をトレード用の生贄とした。有象無象たちの要求があれば提供し、自分のお菓子を守る。他の私のためのお菓子を見せさえしなければ、「あ、それおいしそう」などと言われて略奪されることが防げる。

その「私としてはどうでもいいお菓子」を買うために予算は削られるが、致し方ない。背に腹は代えられない。

 

同じことを何回も言わないといけなかったり、他人がしゃべり終わるタイミングを見計らって会話に入るのも、とてもストレスだ。

大縄跳びのようだ。

皆がタイミングよく飛んでいくのに、自分はうまく入れない。タイミングが掴めない。タイミングを見計らっている間に会話は終了する。

そういうことが起こりまくる雑談は、全く楽しくない。

ディベートは美しい。ちゃんとターン制になっていて、主張-反論-反証と筋が通っている。実に合理的だ。会話もそのようであってほしいが、そうはいかない。

海外の人が、お互いに話を聞かず同時に喋るシーンは、不快極まりない。

自分の話の方が相手の話より重要だと思っているから、そういう失礼なことをするのだ。はらわたが煮えくりかえる。そんな人とは話す価値がない。

 

集団行動は、だいたいすべてにおいて、そういう厄介さがつきまとうのである。

行き先を決めるにしても、意見を求めなくてはならない。合理的でない意見が出た場合、議論するのに要する時間がもったいない。感情的になり、説得が失敗する場合もある。そもそも、独りで行動するときとは、まったく別の考え方で臨まなくてはならない。

個人の利益の最大化ではなく、集団の利益の最大化を主たる目的にしなくてはならない。

私も驚いたのだが、こと日本において、多くの集団が求めているものは、実は達成すべき目的ではない。その「和」が保たれるかどうかなのである。

 

不可解極まりないと思い、私は提案してきた。

集団が最も利益を享受できる最善の選択ができるよう、忖度せず、空気を読まず、議論を尽くした。

結果、煙たい奴として集団から排除され迫害された。

彼らが求めていたのは、効率と合理性と利益ではなく、誰も傷つかないことなのだった。

であるならば、私のような空気が読めない人は最も毒である。

 

かくして、私は独りが最も快適でストレスが少ない、ということを今までの人生で経験から学んできたのである。

 

大勢の人と一緒にいたい、と願う人の想いが、私には想像しにくい。

想像しただけで蕁麻疹が出そうなほど、ストレスが目に見えていて、恐ろしくすらある。

集団で行動することは、擦り減る。自分の心が磨り減る。

だから、私は独りが好きだ。

 

これは、意地を張っているのではなく、本当にそうなのだと思う。

迫害されるのがつらかったし、違うことで他人に馬鹿にされたり認めてもらえなかったりすることがとてもつらかった。幼少期は漆黒の闇であった。

しかし、他人に認められることも、社会的な地位も、何もかも蜃気楼であり、さして気にしなくてもいいことで、最も重要なことは自分らしく生きる事だったのだ、ということを私は知った。

そうなると、他人の機嫌を取ることもしなくていいし、自分が変わっていて他人と相いれなくても、ある程度社会的に共存できていれば私がどれだけ人間嫌いだろうと大して問題ではない、ということになる。

私の定食の話も、遠足のお菓子の話も、「悪いこと」ではなかった。それは誰も教えてくれなかったことだった。

 

私は、そういうすこし変わったところがある。

でも、それでもいいと思えるようになってから、苛立ちやストレスは少なくなった。

【AC】Step8「傷つけた人」その② 『会社・上司』

会社や上司を「傷つけたこと」について整理します。

 

2015年3月の行動についての謝罪

私は、2015年3月に会社から懲戒解雇をちらつかされたとき、仕事を失い生活が立ち行かなくなることをリアルに想像して恐怖しました。

彼らもそうだったでしょう。

今まで一生懸命真面目に生きていたのに、突然それを知りもしない部下が、自分ならありえないようなことをしでかして、自分の責任問題になろうとしているのですから。とんだとばっちりであり、彼らにも守りたい家族がいますから、激怒するのも無理はないと思います。

結局、所長Sさんは責任を取らされて窓際部署に飛ばされました。

お子さんがいない家庭をもつ人でした。奥様とふたり、さびしいけど全国を所長夫妻として飛び回り人生を謳歌しようという、所長Sさんが奥様のために描いていた夢は潰えました。

支店長Tさんは、所長Sさんに責任を取らせることで、マイナス評価になることを免れ、今ものうのうと本社勤務しています。この人はSさんに押し付けることで、自分に減点が付くことをうまく回避しました。しかし、同じように、私という「とんでもない部下」のおかげで冷や汗をかいたことでしょう。

この二人について、私の行動は、お二人が大切に考えていた社内評価を下げることをしてしまいました。一生懸命やってきたであろう彼らの顔に泥を塗ったことだと思います。

このことについて、私は、心から謝りたいと思います。

私の行動は彼らを傷つけ、人生に悪影響を及ぼしました。大変、申し訳ありませんでした。

 

もっと本質的な、現在にも続いている認知の歪みに関する謝罪

私は大変根に持つ性格なので、このことを1日たりとも忘れませんでした。毎日毎日、毎朝毎晩、夢に見ては思い出して、粛々と仕事をしながら着実に恨みと憎しみを深めていきました。

そうしていくうちに私は、同じように私の上に立つ社員(本社勤務)や直属の上司に対して、敵愾心を隠さないようになっていきました。

『権威ある人を恐れる』というACとしての生き方の問題を強めていきました。

その人そのものを見ず、権威を敵視することにより、歪んだ受け取り方をしていました。

その頑なで凝り固まった偏屈な態度は、せっかく私に歩み寄ろうとしてくれたり、手を差し伸べようとしてくれた人々を傷つけました。とても後悔し、反省しています。

もうほんとにとんでもなく嫌なやつだっただろうな、と思います。

たとえば社内会議で、問題の本質がまだ見えておらず、上から言われただけの企画を上司が気軽に出してきたとき。「それ見たことか!」というふうに意気揚々と「そもそもこの企画は意味がない」ということを理論立てて部下全員がいるなかで全否定したりしました。上司のメンツは丸潰れで、私は爽快な気分でした。

私は、正義を行っていると勘違いしていました。実は、怒りをぶつけるという嗜癖に耽っていることに気づいていませんでした。

基本的に組織や職位を馬鹿にした態度をとっていたことで、上司が仕事をしにくいように妨害していたと思います。

上司から直接「君は正しいことを考え抜いて話すから皆怖がっているんだと思うよ…」とおそるおそる言われたことがありました。

私は必要以上に気を遣わせていたと思います。それは、大変ストレスだったと思いますし、私がフラットに物事を考え、上司にきちんと人として接することができていれば、関係が歪むことはなかったと思います。

必要以上に恐れ、敵視し、敵意を剥き出しにしたのは、私の未熟さでした。もし至らない点が上司にあったと言えど、私も完璧な人間ではありませんから、そんな失礼な態度をとるべきではありませんでした。

単純に、私には私の価値観が、上司には上司の価値観があり、それは完全に対等で、もし違いがあろうとも『正しさ』で糾弾しようとするのは、2015年3月から2年間、自分がされてとても傷ついたことでした。

私は、自分がされてとてもつらかったことを、彼らにしてきたのでした。それをとても後悔しています。

 

まとめ:反省を活かし、これからをどう改善するか?

私は、蓄積してきた恨みや憎しみを晴らそうと、怒りをぶつけるという嗜癖に耽り、むやみに他人を傷つけてきたことを認め、心から反省します。

これからは、上司や会社の人間にも私が見えていないバックグラウンドがあることを想像します。

私と同じように弱さを抱えて生きている人間なのだということを深く理解したうえで、どんなに違いがあろうとも、それぞれの生き方を尊重し、存在をリスペクトすることを誓います。

あくまでもアサーティブに対話するよう努力します。相手を攻撃するようなコミュニケーションを選択して、私の過去の恨みを当事者ではない人に不当にぶつけるべきではない、と繰り返し自分に言い聞かせながら、落ち着いて話をしていきたいと思います。

私の今までの歪んだ行動により、私に対して恨みをいただいているひともいるでしょう。私の過去の行動の結果は、様々な形で私の身に返ってくるでしょう。

そのときに、また同じ過ちを犯さないよう、違いを恐れず、権威を恐れず、対等性を心から信じること、対等であること、誠実であること、誰も攻撃しないことを守っていけるよう努力します。その大切なことを念頭に置いて、存在に対してではなく、行動に対して、アサーティブに向き合い、言葉を伝えます。

私は、過去を反省し、未来の行動を変えていきたいと思います。

【AC】Step8「傷つけやがった人」その② 『会社・上司』

まずは、会社や上司に「傷つけられたこと」について、整理します。

 

2015年3月のできごと

私は、アルコール依存症を自覚する前、お酒を飲んでは失敗を繰り返していました。医療関係の職場でありながら、職場の人たちには、依存症の知識はありませんでした。やはり、依存症については、当時の私も含め、社会的にはまだまだ浸透していませんよね。

 

そんななか、私は、2015年3月のある日、決定的に会社と上司を困らせることをしました。

泥酔して仕事現場である某一流ホテルに登場した私は、運営していた本部スタッフを激怒させました。とても悪目立ちしていたと言います。

前日に歌舞伎町に飲みに行き、後輩の話によると、飲み屋を2軒、キャバクラに1軒、そのキャバ嬢の子の知り合いのゲイバーに1軒と4軒はしごしたそうですが、最初の2軒まではしっかり覚えているものの、あとはうろ覚えです。

目が覚めたのは、朝方のタクシーのなか。かけていた眼鏡をなくして視界が悪く、時間を確認すると、9時から仕事なのに、8時。

私はふらふらになりながらホテルに一度戻りました。「仕事に行かなくては」その一心で荷物をまとめてヨレヨレのスーツのままシャワーも浴びずにホテルに向かい、会場周辺をふらふらしているところを、本部スタッフに保護されたかたちです。

直接取引先や顧客にご迷惑をおかけすることは幸いにもありませんでしたが、社内の風紀を乱したとして相当問題視され、全社に風紀の乱れに対する注意喚起としてアナウンスされました。

 

私を懲戒解雇すべく動き出す会社と上司

今までも遅刻やミスを繰り返していた私をかねてより迷惑に思っていた当時の直属の上司(所長Sさん)とその上司(支店長Tさん)は、私を組織として抱えることに限界を感じたのでしょう。私に懲戒解雇をちらつかせながら依願退職させよう、と本腰を入れて動き出しました。

数週間、自宅謹慎となりました。出勤が解禁されても、チリ紙を折るという明らかに何の役にも立たないことをやるように命じられました。

そして、これらの言葉を繰り返し繰り返し投げかけられる日々が数ヶ月続きました。

「もう仕事を任せることはできない」

「つまり残っていても仕事はないぞ」

「今お前がやっているのはなんだ?紙を折ることだろ?会社には何も貢献していない」

「これからも貢献するとは思えない」

「もう私たちはお前を必要としていない」

「このままだと懲戒解雇になって、退職金がもらえないぞ」

「お前が会社をやめてくれることが、私たちにできる最後の貢献だ」

結局、私は会社の労働組合が守ってくれて、解雇を免れ、戒告処分となりました。当初リーダーになるべく転職してきた私でしたが、新入社員よりも下の「半人前ですらない」というランクまで職務等級を降格されました。給料はぐんと落ちました。

当然、周囲からは馬鹿にされました。「失敗してもう終わった人間」として、指をさされて嗤われる日々が数年続きました。

その間、私は「死ぬなら全員見返してから死のう」と心に決めていたので、何も言わず、静かに屈辱を反芻しエネルギーにかえながら、臥薪嘗胆を座右の銘にして断酒しながら仕事に励みました。ちゃんと死ぬために生きました。

2年後、私は採用されたときの職務等級まで昇格することができ、周囲の人間より優秀な成績を収めることができるようになりました。

 

私は何に傷ついていたのか?

私は、この経験から、自分の行動に対する責任を問われて、いくら反省しいくら組織に貢献しても、所長Sさんと支店長Tさんに否定され続け、傷つきました。

もちろん私がアルコールを乱用して迷惑をかけたことが事実で、それに対していわゆる自業自得の扱いを受けたと思いますが、行動が改善され、己の罪を見つめ直した人間に対して、一度張ったレッテルをキープし続けて、思い込みから見たくない事実を見ようとしなかったことは、上長として適切な行動ではなかったし、私はそれを理不尽だと思いました。

私のほうが先に信頼を裏切りましたが、それを免罪符にして私の尊厳は踏みにじってもいいものだと言われているように感じました。私はいくら努力しても、しょせん失敗した人間なのだから、二度と日の目を見ることはないのだ、と繰り返し否定されていると感じました。

それは、当時は感じないようにしてきましたが、今思えば、とてもつらいことでした。

また、回復したのちも、アルコール依存症については口外しないように言われました。

アルコール依存症は「恥」であり、会社のイメージを損ねるから、やめてほしい、というのが、会社と上司から言われたことでした。

そんな身の上話に興味はない、みんなそんな話は聞きたくない、と言われました。

私は、人生を否定されたように感じました。

回復して生きていることが罪であるかのように感じました。

 

このことを棚卸するにあたり、とても抵抗がありました。

というのも、断酒会に参加していて、個人的な感想として抱いていたのが、アルコール依存症の当事者は犯罪者というか罪人であり罪人は罪人らしく陽が当たらないところを一生謝りながら生きていくものだ、というような感覚でした。

なので、酒害をまき散らした分際で、酒害を与えられた人に傷つけられた、なんて言うことは、タブーという印象で、許されざることだと思っていたのです。たとえるなら、殺人を犯したのに、私も傷ついていて苦しかったんだ、と法廷で弁明しているような感覚です。

人殺しが何を言っているのか?と言われたら口をつぐんでしまうもので、私も「酒害をまき散らしといて何言ってんの?」って言われたら、「まことにその通りです」としか言えないというのが正直な気持ちでした。

しかし、これで正しさで蓋をしてしまったので、私は私の本当の気持ちを感じることから離れて、長い間会社や上司という存在に対して怒りや憎しみを抱え続ける原因になったと今、振り返って考えています。

 

まとめ:傷ついていたことを認めることが、心からの謝罪につながる

私は、当時やはり傷ついていました。

自分が起こしたことや傷つけた人に対して、その行動を深く反省して謝罪し、償いをしていくということが大前提なのですが、先日のハートネットTVであったように依存症の当事者の傷は確実にあるわけで、依存症当事者だったとしても人としてリスペクトされるのは当然の人権なのだと思います。

その基本的人権の部分を軽視されたことに、傷ついたのだと思います。

正しさを振りかざして印象やイメージで私に対する偏見や差別を行ったことは、彼らの過失で在り、私の責任の範囲を超えたストレスだった、と改めて認識しておきたいと思います。

それを認められて初めて、私は、彼らを傷つけたことに真摯に目を向けることができるのではないか、と思います。

【依存症】イネイブリングをしないこと・境界線を引くこと

『だらしない夫じゃなくて依存症でした』

この本を繰り返し、ふと開いて読むのが日課になっている。

第6話「家族の接し方」について、最近読み返すと、連載当時にはわからなかった感覚が理解できるようになっていることに気づいた。

 

依存症者の家族側のつらさについて考える

「信じてもらえない」

「頼ってもらえない」

家族として、パートナーとして、これがどれほど、しんどいことかわかるだろうか。

家族側の苦しさは、正直あまり実感がなかった。

知らなかったが、最近になって実感することがある。

 

相手の課題と自分の課題を分ける境界線。

これを適切に引くことはとても難しい。自分のなかにあるコントロール欲求との戦いである。

依存症によく使われる言葉で『イネイブリング』というものがあるが、まさしくこれは自他の境界線をもち、自分も相手もリスペクトしようという考え方に基づいている。

出所:『だらしない夫じゃなくて依存症でした』(三森みさ著)第6話より

 

とはいうものの、渦中にあってはとても冷静にはなれないのが、常である。

自分という存在がそばにいて、愛情をもって接しているという自負があるにもかかわらず、自分にはわき目もふらず、アルコールやギャンブルに相手を取られてしまう。(と感じる。)

たかがモノに自分の存在が『負ける』。その悲しさと屈辱感と無力感。

 

親と自分がそうだったな、と思うからかもしれない。

私は両親にどんどんイネイブリングされるにしたがって、生きる力を弱くしていった。イネイブリングに気づいた今、「この人たちには何を言っても無駄だ」と感じている。

本当のことを伝えられない関係の空虚さ。絶望よりも深い諦め。

「イネイブリングされる側」の気持ちを味わっているから、頼れない存在として相手に認識されるのは、とても怖い。その距離の開きを、ひどく寂しく感じるからだ。

そのようなうっすい関係しか築けなかった、と落胆する気持ちは、やはり隠せないだろう。

 

イネイブリングする側の満たされなさは、会社でも味わってきた。

「会社のためにやったのに」という恩着せがましさを抱えて、尽くした結果、何も見返りがないことが多かった。

当然だ。今の会社からしたら、求めていない、ただの煙たいやつだったのだから。笑

当時はその怒りをどこにぶつけていいのかわからない感覚だった。なぜ正当に評価され『賞賛されないのか』に憤っていた。

すでにお分かりのように、会社に関して、私は、『相手が求めているかどうか』よりも、『正しいかどうか』を優先し、『自分を認めさせたい』という自己顕示欲を満たすために、自分勝手で一方通行なアプローチをしていたことを認めざるを得ない。

それはまさしく過干渉でありイネイブリングであり、親が幼い自分に対してやってきたことと全く同じことだった。それに気づいたときは認めたくなかった。

そういう苦い経験がある。

 

相手の課題は相手にしか解決できない

50/50であり、限りなく対等な関係だからこそ、私だけでは完結しない。

どちらかのせいにすることは、おかしな話なのだと思う。

 

そもそも、我々にとって明確な切り分けが難しい課題なのだ、と改めて認識したい。

良い意味でも悪い意味でもお互いに響きあう可変的な関係で、一見すると影響できるかのように見えるが、実は明らかに境界線があって、それぞれに独立しているのである。

①私たちには、各々の世界に明確に境界線がある

②しかし、私たちは相互に影響しあっている

そのことを何となく例えられないかな、と思って、考えてみた。

 

①私たちには、各々の世界に明確に境界線がある

相手の部分は相手にしか解決できない。

相手の行動でしか変化しない課題だから。

このことについて、なつかしい話をしようと思う。

x2+px+q=0

y2+ry+s=0

この数式のXとYはそれぞれ独立している。

なぜなら、全く別の解を持つ、独立した二次方程式だからだ。

人生はこのように、もともと条件が違う人生をそれぞれ生きているので、個別の二次方程式を解いているようなものだ。どちらかの数値が相手の方程式に関与することはしない。コントロールして代入させることはできない。あくまで(たとえば2次方程式なら)それぞれに因数分解して、自分の答えを探すほかない。

なのに、どうだろう。

私たちはこれを一生懸命、連立方程式だと思って相手の式を解こうとしてしまう。無意識にx=yだと思い込む。相手は、私と同じ答えだとは限らないのに。

つまり、相手が私を信じてくれず、相手の問題が解決しないのは、私が矮小で信頼できない存在だから、「私がダメだから」だと思い込んではいないだろうか。

それは正しくない。

相手がまだお互いの答えを見せ合いこする準備ができていないだけ。

 

相手との答えの違いをお互いに見せ合うのが会話であり対話だとしよう。

xの式を解いているのが自分。yの式を解いているのが相手だとして、相手の答えが出なかったり、x=yかどうかわからないのは、まだyの式のほうの因数分解が解けていないからだ。

それは100%、xの数値うんぬんのせいではない。

だから、私は私なりのxの答えを出すことに集中するしかない。

相手も問題(式)にあきらめず向き合ってくれると信じて任せる。答えを見せ合う機会を待つ。

すなわち、『自分ができることを自分のためにする』。できるのは、それしかない。

 

②しかし、私たちは相互に影響しあっている

他の人の因数分解の解き方をみるのが、「自助グループ」ではないかと思う。

何度も数値を当てはめてみてうまくいかないことがあるだろう。

似た形、だけど違う形。それぞれの式ににらめっこしながら試行錯誤する毎日。人生には公式はないし、数式よりよっぽど難解で、答えにたどり着けないことだってあるだろう。

私もまだまだ解きかけで、やっと最近「このぐらいしか進んでなくて恥ずかしいんだけどね…」と言いながら途中まで進んだ式の展開をさらけ出せるようになってきたようなものだ。

その途中までの式の展開を見せ合うことで、互いに共感する。

その嬉しさや喜びが、解き続ける力になる。悩んでもまた諦めずに立ち向かえる。必死に別の数式を解く仲間がとなりにいてくれる。

歯を食いしばって泣きながら机にかじりつく勇姿に、背中を押される。

影響しあっているというのは、式の展開を超えた世界線での、そういう響きあいだと思う。

 

まとめ:いつか通じる真心を信じる

 

自分が一生懸命やっているなら、わかってくれる人にだけわかってもらえたら、それが今の最大値なのだと思う。

もともと、手のなかに無かったもの。それを手のなかにあると勘違いして、私たちはよく悲しんだりぬか喜びしたりする。

寂しさから、自分と同じだと思い込んで境界線をなくしたり、踏み誤って傷つけたりする。それは、だれでもやることであり、やってしまったから終わり、では決してない。ちゃんと真心から伝えれば、いつか伝わる人には、ちゃんと伝わる。

 

最近、肩の力抜いて、相手にとって自分ならやってもらえたらうれしいかもなっていうことだけするようにしている。そうすると、不思議なことに、事態が好転することが多くなってきた。

今、伝えたい人に伝えたいことが届かなくて、哀しい思いをしている人もいるかもしれない。

そんなあなたに伝えたい。

伝わらないのはこっちばっかりの要素じゃないから、そんなに悲しまなくていいということと、伝わるときには伝わるので、時期じゃなかったんだなって長い目でみてたらいいんだよ、ということを。

焦らなくてもいい、ということを。

 

追伸:この本はめっちゃそういうことが分かりやすく書いてあるし、純粋に漫画としておもしろいので、一生に一回は読んだほうがいい。

 

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