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【メンタル】何かとざわつく今、大切にしたい『而今』という言葉

 

 

 

 

『而今』という禅語は、命の真実は『今』にしかないことを説いた言葉です。

私たちは『今』この瞬間にしか生きることはできません。

昨日の自分はすでに死んでいるのと同じ。

明日生きているという保証もないのです。

であるからこそ、『今』という時期を大切に生きることが大事なのです。

出典:『おだやかに、シンプルに生きる』枡野俊明 著

「マインドフルネス」という言葉は、ビジネスパーソンの間で一時期流行り、ご存知の方も多いと思います。

「マインドフルネス」こそ、『今』に集中している状態を示していて、反対の状態を「マインドワンダリング」というそうです。

「マインドワンダリング(Mind Wandering)」とは、心が、「今この瞬間」に起こっていることに注意を向けないで、目の前の課題とは全く関係のないことを考えて、さまよう状態のことです。

 

私は、滅法、マインドワンダリングしやすいです。

 

つい、明日のアレをやらなきゃいけないから今はこれをしなきゃ、とか、昨日のあの言葉は○○じゃなくて△△って言えばよかったな、とか、心がワンダリングしまくります。

考えてもまだ来ていないか、もう過ぎ去っているか、どちらかだというのに。

特に風呂場とか、何気なく散歩しているときなんかに、思い出してしまうから質が悪いんですよね。リラックスしようと思っているときに、頭のなかにポツリポツリとそうした雑念がわいてくるのです。

 

特に今は、新型コロナウイルスの感染がひろがり、みなさんの心も私と同じように、不安や恐怖でいっぱいでしょう。

将来がどうなるのか全く見えないことについて、不安になることは当然だと思います。それによって苛立ち、いつもは言わないような言葉を大切な人にかけてしまうこともあるでしょう。それらの行いを悔いて、夜寝られないようなこともあるでしょう。

私も同じように、何となくざわざわしたような、怒りと不安にもみくちゃにされたような心でなんとか懸命に毎日を生きている、といった具合です。

 

そんなときに、SNSのタイムラインが政府への非難や世の中に対する怒りと悲しみに満ちていると、見るだけで疲れてしまいますよね。

私は疲れてしまいます。正直、結構キーワードミュートにしています。

 

だって、いくら考えても、いくら悲しんでも、いくら怒っても、仕方がないからです。

わたしたち一般市民には、最低限の衛生上の管理を守る、そのくらいしか、できることはないのですから。

政府の対応がいくらまずくても、困っている人のために自分がアクション出来る範囲で提言することしかできません。決定的にコントロールすることなど、残念ながら不可能なことです。何もかも汲んでうまくやってくれる政府であれば、私たちは日ごろもっと幸せに生きていたことでしょう。今それが変わるかどうかは、きわめて可能性が低いことです。

現状を変えていく努力はもちろん継続的にするべきことだと思います。

でも、コントロールはできないということを理解していてやるのと、変わらないことへ苛立ち精神を摩耗するのとでは、大きな違いがあるんじゃないかな、と思います。

 

いつ収束するか?なんて、新型コロナたんにしかわかりません。どのくらい繁殖したいかウイルスは答えられませんから、やはり世界でどうなるかは、もう神のみぞ知るといったところでしょう。

誰も答えを持っていない問いをいくら投げかけても、虚しくなるだけです。

 

会社でも同じですね。

すごくみんな不安そうにしているくせに、無理に前向きにアピールしようとしたりして、正直どんどん迷走しています。

人の小さな間違いを見つけてはやり玉にあげたり、皆ストレスが溜まっています。

自分の仕事が失われるのではないか?このまま何もしなければとんでもないことになるんじゃないか?と怯えている人ほど、他人に対して攻撃的になり、不安定になっていきます。

 

その不安や恐怖は、持っていて恥ずかしいものではない、ということを私は言いたい。

 

未来がわからないことは怖いです。

「これから生きていけないかもしれない」って思うことを怖いと思わない人は、生きていたくないか、もう人生がどうでもいいか、のどちらかだと思います。

つまり、一生懸命生きようとしているから、不安になる、ということについて、あなたの真摯な生きる姿勢が逆説的に証明されたようなものだと思います。

私も、まだ死にたくないし、貧困にも陥りたくないし、幸せに生きていきたいです。

それが、シンプルな願いであるということです。

私たちはその「生きたい」というシンプルな願いをかなえるために、今を生きることがもっとも「やりたいこと」であると思います。

そのためには、今何をすべきなのか?というところに、立ち返ってみましょう。

 

そのときに見えてくる答えが、『而今』という言葉なんじゃないかな、と思います。

私たちは『今』この瞬間にしか生きることはできません。

昨日の自分はすでに死んでいるのと同じ。

明日生きているという保証もないのです。

であるからこそ、『今』という時期を大切に生きることが大事なのです。

再度引用して読んでみます。

結局、新型コロナウイルスがどうなろうと、未来には予測不可能なことが次々と起こるのです。地震も起こるし、火災も起こるし、殺人も起こることがあります。それらはすべて、私たちがコントロールできるものではありません。「変えられないもの」です。

 

自分が世界に影響できる範囲は、ほんのわずか、これっぽっちしかない、ということを改めて認識すると、それら「変えられないもの」について思い煩うことの無意味さが実感としてわいてくるのではないでしょうか。

突然、明日コロナではなく交通事故で死ぬかもしれない。

昨日の私自身の行いをリセットすることはできない。

ならば、今。確実に変えられる、楽しめるのは、今、ということになります。

 

今、あなたは何をしたいですか?

 

こんな自粛のときに、できることなんてないよ!

そのやりたいことをできないようにさせられてんだよ!

やりたいことやってる場合じゃないよ、生活が最優先だよ!

 

様々な声が聞こえてきそうです。

そうですよね。うん。やりたいことを取り上げられ、生活のことだけで頭がいっぱいになるほど追い詰められていますよね。つらい状況です。

だからこそ、今できるやりたいことを探してみませんか?

家にいるなら、今まで目を向けていなかった家事の大変さを味わい、やってくれているパートナーに感謝することもできるし、子供と過ごす時間が取れなかった人は、子供の笑顔を見ることができます。

どうせ仕事ができないなら、遠くまで散歩に出てみるのもいいでしょう。今まで通ったことのない道を通ってみるのもいいでしょう。

未来に仕事があるかないか。そんなことは、未来の自分に任せましょう。

大丈夫、ここまで生きてきたあなたなら、きっとたくましく生きていける。何かを失っても、きっと別の何かを得て、喜びに顔をほころばせる日が来るでしょう。

なぜなら、今までも、この日本という国は、とても冷たい、つらいことが多い国だったからです。私は発達障害者・依存症者というマイノリティーとして生きてきて、この国がどれほど不寛容で、偏見に満ちていて、弱い民族の国であるかを身をもって味わってきたつもりです。

 

日本の自殺率は世界で6位です。↓

OECD (2020), Suicide rates (indicator). doi: 10.1787/a82f3459-en (Accessed on 07 April 2020) 

 

そのような過酷な国で今まで自殺せずに生きてきたんです。すごいんです。

 

それに、辛くて当然なんです。だから、弱音を吐いてもいいし、もうやってらんねーわ!って思ったっていい。

未来なんてわからないんだから、今できる楽しめることを探して、全力で今を楽しむしかない。

そのためには、私はお酒を飲まずに自分が正常な状態で世界を感じたい。もう、エチルアルコールで脳がラリった状態で死んだように生きるのは「やりたいこと」ではないから。

風の匂いや、空の色や、知識欲を満たしてくれる書籍や、愛すべき仲間との語らいに、時間を使いたい。

それが私を真に豊かにしてくれるものだからです。

 

そういうふうに、今を過ごしていけたらいいな。と思います。

 

 

【AC】Step8「傷つけた人」その①『中学校の担任教師 M先生』

謝らなくてはならない、謝りたい人がいます。

その人は、私が中学校のときの担任教師、M先生です。

 

当時の状況

Mさんは、女性で、離婚していました。

子どもはふたりいました。確か、息子さんだったと思います。働きながら、子供二人を育てていました。

私は、その頃、心が荒れ狂っていました。

出会う人全てが嫌いでした。

家電量販店・コンビニ・スーパー・百貨店などで万引きを繰り返しては、中古屋に売ったり自分で使ったりしていました。

世の中をバカにして、大人は特にバカにしていました。

自分の問題に気づかず、あらゆる人を憎み、『権威ある人を恐れ』ていたので執拗に攻撃していました。

 

教師を憎むことと、反抗挑戦性障害

私にとって権威の象徴であった教師を特に攻撃しました。

私の両親が教師だったこと、正しさの象徴だったこと、このふたつで、天敵として認定するには十分でした。

反抗挑戦性障害(英: Oppositional defiant disorder ; ODD)というものがありますが、その状態におそらく近い状態でした。ADHDに併発しやすい障害で、反抗期とは少し異なります。

もちろん、これは言い訳にはならないことで、障害と名前がついていますが、自分の弁明ではなく、こういう状態だった、という説明のために名称を出しました。私がADHD合併のASDでもあり、関連が浅くないので、というだけです。私の行いは、ODDによらず、謝罪したいことであり、謝罪すべきことであると認識しています。

 

反抗挑戦性障害はどんな病気?
反抗挑戦性障害は、9歳前後~思春期前後にみられ周囲に対し挑戦的、挑発的でかつ反抗的な態度や行動を当然の様ににしてしまうものです。ADHDいわゆる注意欠陥多動性障害を持つ4割の子供が発祥するとされています。治療はADHDと合併症で出たものならば親子関係の修復(ペアレントトレーニング)や育児支援、ADHDへの薬物治療がほどこさせます。

反抗挑戦性障害の症状
反抗挑戦性障害の症状は、文字通り反抗的で挑発的な態度を取ることが主となります。例えば目上の人に対して必要以上に挑発的で、規則に対して必要以上に反抗したりします。口論や、意地悪などが多く感情をコントロールすることが苦手で、明らかに度が過ぎる行動を行います。主に9才から思春期に見られ、年齢と主に自然と落ち着くのが一般的です。

反抗挑戦性障害の原因
反抗挑戦性障害とは、精神状態が普通の状態ではなく、何事に対しても反抗的な態度をとってしまうことが特徴です。原因としては様々な精神疾患が考えられます。精神疾患が起因の場合もありますが、何か特定のショッキングな事件や事故が起こったあとにもこの障害は起こり易くなります。反抗的であるだけでなく挑戦的なところも特徴で、すべてのことに対して反してくることが問題です。

出所:https://www.hospita.jp/disease/2277/

 

具体的に何をしていたかと言えば、学校の備品やイベントで先生がたが作ったものをこっそり破壊しておいたり、授業をボイコットして全く違うこと(ゲームや授業妨害)をしたり、授業内容を予習して先生が間違ったことを言ったら指摘して訂正したりしていました。

基本的に先生という存在がすることをすべてを否定し、バカにして、周囲にも煽動していました。

担任は管理者責任を問われるので、M先生は、口うるさく私を注意しましたが、私は何も聞かず、むしろ逆のことをしました。うっとおしいと感じ、攻撃を激しくするばかりでした。三者面談では、私たち親子を睨みつけて「こんなに憎たらしい子は見たことがない」と言っていました。とにかく、教師と生徒としての関係は最悪でした。

ここまでのことについても、先生の職務を妨害し、QOLを著しく下げる態度をとったことに対して、本当に申し訳ないと思います。

当時の私にとってはしかたないことだったかもしれないけれど、それは、M先生を傷つけていいということではなかったから。

私は私の課題に向き合わずに、苦しさや悔しさを他人であるM先生をはじめ多くの大人たちに、当時押し付けました。それは、不当なことでした。

彼らは子どもを育て教え導くことに夢を持ち、教師になったはずです。私たちのことを考えていろいろなことをやっていてくれたかもしれないのに、その気持ちを踏みにじったことを、私は恥じて、とても後悔しています。

そのような失礼な態度を本当に心から謝りたい。まことに申し訳なかった、と思います。

 

最も謝らなくてはならないこと

それ以上に謝らなければならないことがひとつ、あります。

これを話すのは怖いですが、やはりこれこそ最も謝りたいことなのだと思います。

私はいつだったか、弁当を忘れたことがありました。M先生は、すごく嬉しそうな顔をして「分けてあげようか」とニヤニヤしながら提案してきました(というように私には見えました)。
しかし、今思えば、それは弱いところを見つけたので歩み寄るチャンスだと思ったのかもしれないし、優しさからくる笑みだったのかもしれません。

私は、放課後、教室の黒板に次のように書きました。

「先生のお子さんはお父さんがいなくてさびしいでしょうね」

あくる日の朝、黒板を見た担任のM先生は、しばらく言葉を失っていました。その後怒りで顔を真っ赤にして、泣きながら「これを書いた人は誰ですか?名乗り出なさい」と言いました。

1時間近く、誰なのか聞きましたが、私は手を挙げず、ダメージを与えられたことを密かに喜んでいるだけでした。

その後、先生は、心を病んで転勤していき、今はどうなさっているのか、分かりません。

M先生、もう謝っても償えることではありませんが、本当にごめんなさい。

なんてひどいことをしてしまったのだろう、と今でも後悔しています。

子どもができて、初めて分かりました。こんなことを言われたら、私はなんとしても犯人を突き止めて殺しているかもしれません。私は「相手が最もダメージを与えられることをして復讐しよう、心を折ってやろう」という残酷な発想で、言ってはならないことを言いました。こんなことは、どんな人にも言う権利など無いし、言うべきではなかったことでした。

そしてその発端となった復讐心も、逆恨みであり、もしかしたら優しさかもしれなかったのに、わたしが受け取る器がなかったことでした。M先生に何の落ち度もなかったことでした。受け取り方を誤ったのは私の過失であり、私の課題でした。それらを見つめることから逃げて、八つ当たりをしました。

「権威ある人を恐れること」の課題に向き合い、私は不当に先生という存在に対して敵愾心を抱いてきたことを認めます。

そして、その怒りや憎しみをぶつけて、私に対して与えようとしてくれていた人々を深く傷つけ裏切ってきました。それは、誠実に生きている人を苦しめ、哀しみを無用に与えるものでした。本当に申し訳ありませんでした。

先生のお子さんに対して、私は何も意見する権利はありませんでしたし、会ったこともないその子たちを「さびしい」と言ったことは、許されざる侮辱でした。

今、大切な仲間がお子さんをふたり立派に育てている姿を見ています。

「私は、このように懸命に誠実に愛をもって生きている人に、嗤いながら石を投げたのか」と自らの行いを深く後悔しました。自分がしたことの罪の重さに震えています。

そして、石を投げた後に隠れて、気持ちを真っすぐぶつけることもしなかった卑怯者です。隠れたのは、非がありいけないことだと分かっていたからです。私のこのときの行いは、先生と他の生徒たちとの信頼関係をも傷つけ、先生が遠くに行かざるを得ない状況をつくり、先生を孤独にしました。それを意図した冷酷さで先生を深く傷つけたことを、心から謝りたいです。

M先生とそのご子息に対して失礼なことを書き、卑怯にも当事者として逃げ隠れし、そのことにより先生の気持ちを傷つけたことを、深くお詫びいたします。本当に、ごめんなさい。

 

まとめ:これからどう改善するか?

12ステップ・プログラムを教えてくれる仲間に出会い、いかに人を傷つけたかを知りました。

私は今後このような過ちを犯さないように、これからも真摯に自らの課題に向き合っていきます。

過ちを犯すことがあったとき、傷つけた相手に対し、真摯に逃げ隠れせず誠実に、謝罪することを誓います。

また、過ちを犯した仲間がいたとしても、存在を否定せず、行動について共に考え、自分と相手の気持ちを受け止め、これからも真摯に考え続けることを誓います。

【依存症】焦らず一つひとつ『知る』ということ

回復したい。

そう思えば思うほど、焦る。

 

やらなければ、と思ってやるのはちょっと違う。

やりたい、と思ってやるとき、本当にやって変化が訪れる。

そう、変化は起こすものではなかった。訪れるものである。

自分を変えたい。

そう思うことは素晴らしいことで、勇気あるチャレンジだ。称えられるべき姿勢だ。

しかし、割と意図的に変えようと画策したことは、得てしてなかなかうまくいかない。

うまくいったように見えて、うわべを撫でていただけだったということは、よくある。

やはり、天から授かるように、変化は私たちがお呼びもしない何かに導かれて『訪れる』。

 

本当に、「理解する」というのは難しいな、と常々思う。

ただ情報を知ったとしても、理解しているとは言い難い。

行動しなければ、本当の意味で頭のイメージと体感イメージが一致しているかどうかは、わからない。

行動できることは限られているから、真偽を確かめられる事象は、必然的にほんの一握りのことだ。

しかも、同じ行動であったとしても、人によって感じ方や作法は様々で捉えどころがない。

王道だと思っていたことが、実は道のひとつであるということを、道半ばで知ると、人は固執し、己の価値観を変えたくないと抵抗するものだ。

なぜなら、「わからない」「違うかもしれない」ということは、不安や恐怖を感じさせるからだ。自分の足元が揺らぐようなことは、誰も信じたくない。

しかし、私たちは、様々なことを、本当の意味では知らないまま、生きていかなくてはならない。

知識として頭に入ったことを「理解した」つもりになってしまうことはよくある。

私はよくあるし、今もそうだと思う。

 

私は絶望的に様々なことを『知らない』。

未知の領域について、私は知っている範囲で想像することしかできない。

実際にやってみたとして、掴んだものがfakeである可能性はゼロにはできない。

しかし、やらずには、やはり何もわからないままだから、私は知りたい思うことを実際にやる以外にない。

 

私は未熟なのだろうか。

私は至らない人間だろうか。

私は能力が低いのだろうか。

 

そうではない、と思う。

というのも、自画自賛したかったわけではない。私はもちろん、まるでなっていない、てんでダメな状態だ。

私が言いたいのは「みんな、そうなんだ」ということだ。

 

立派そうに見える人も、社会で成功している肩書が立派な人も、知ったような澄まし顔をしている人も、素晴らしい技術を持つ人も、みな、『まるでなってないてんでダメな状態』なのには、変わりがない。

結局は皆知ったかぶりをして生きている。様々なことを『知らない』のが現状なのだから、多少の差はどんぐりの背比べのような違いなのである。

 

だから大事なのは、『知らない』ということを知っていて、常に忘れずにいるかどうか。

大事な違いは、この姿勢くらいなのだろう。

ソクラテスの「無知の知」は、まさにこういうことなんだと思う。

 

私はまだ忘れる。

私が『知らない』ということを、忘れる。

 

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【AC】今ここ、しかない。

私は無力だと思う。

あれやこれやと思いあぐねている。

それはコントロールできないものをコントロールしたいと思っているからだ。

 

元来、人には上下などない。

自分の認識が作り出す、まやかしに過ぎない。

私はよく「上からモノを言われているな」とか「お前に何がわかる」とか、正体不明の存在に対して思いやすい。

自己開示することは、相手の自己開示を要求する交換条件ではないのに。

私が洗いざらい見せているのに、何も見えないのが、おそろしく感じるのだ。

 

しかし、それは「見えない」のが恐いのであって、本当はその人は何も考えていないかもしれない。

あるいは本当に私を至らない未熟者と嘲笑っているかもしれない。

 

私は、それに関与しなくていいし、私にはどうしようもない。誰がどう思っていようと、私に対して直接はなんの意味もないということを、繰り返し思い出したい。

 

未熟者と嗤うひとは、私を「自分の経験しか材料がない」という謙遜に至らずに正しいと思って評価している時点で、まだその人のなかに解決すべき課題を抱えているだけのこと。

 

だから、この世に上下などない。

「この人はまだまだだな」という思い込みや、逆に「この人はすごい」と肩書きで恐れたりするのは、自分のなかの何かが他人をそう見せているだけだ。

自分の経験とは違う経験をして、様々な人が生きている。それはもはや、違う宇宙だと例えても過言ではないかもしれない。

だから、違って当たり前だし、上も下もない。

そもそも、比べられない。それを私はよく忘れる。

 

自分がまだ知らないことを知っていたり、よく見聞きしていても、その人の方が優れているわけではない。

また、よく知っている私が優れているわけでもない。

知る機会があったから知っている。それだけだ。

それを、求めている人に出し惜しみせず伝えられる人を今まで理解できなかったが、自分が知らなかったこと、これからも知らないことがたくさんあることを謙虚に受け止めているからだ。

だから、今まで出会ってきた尊敬すべき彼らは、自分が持っているものはごく一部であり、言葉で伝えられることは限られていると知りながら、相手にわかりやすいように骨を折って伝えてくれていたのだ。

なんとありがたい心だったのだろう。

彼らはそれがそのとき自分がやりたいことだったからやったのだろうけれど、そうありたいと思う。

自分の至らなさを知り、よく噛み締めているからこそ、他人に対して惜しまず、自己満足にならずに、伝える努力を自然にすることができる。

それが強い人であり、優しい人だ。そうありたいと思う。

 

私に問題があるから高みに至らないのだ、という思い込みは、幼少期のライフスキルが発動しているだけだと気づこう。

もうどうなとでもするがいい、と、天に預けることにする。

一切合切、自分ですら、ままならないのだ。

いわんや、他人をや、である。

自分の今までもこれからもコントロールできているように勘違いするのは、西遊記で孫悟空が釈迦の掌のうえを世界だと勘違いし、釈迦の指に斉天大聖と書いて得意になっている姿に似ている。

いくら優れた能力を持っていても、どこまでも自分すら、コントロールなどできなくて元々なのだ。

他人は別の宇宙だ。私の宇宙からどう頑張っても、変えられない。時空も空間も違うから。

私たちには、後にも先にも、限りなく『今ここ』しかない。

私にできることは、『今ここ』を楽しみ味わうことだけだ。

真剣に誠実に、向き合うことだけだ。

知りたいことを学び、感じたいことを感じる。

そのためだけに、今がある。

 

 

集中しよう。

それが生きるということだ。

 

【AC】何が正しいことかわからないけれど

『平安の祈り』というものがある。

 

神様 私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられないものは変えてゆく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを
今日一日を生き
この一瞬を享受し
苦しみを平和に至る道と受け入れますように
この罪深い世界を私ではなく神様の御業として
あるがままにうけとめられますように
神様の意思にゆだねればすべてをあるべき姿にしてくれると信じられますように
私はこの世を生きて幸せでしょう
神様と共にあることにこの上ない幸せを感じる事ができますように
永遠に
私は、素直にあるがままにあろうとすることを恐れているし、今もそれは、常に勇気が必要である。
なぜなら、そうやって生きてきて、私は多くの人に嫌われたし、親にも苦しそうな顔をされてきたから。
素直にあるがままに、自分の気持ちや考えを話すことは、私の精一杯の信頼の証である。
私は恐る恐るではあるものの、徐々に話すようになったと思う。
ただ言いっぱなし聞きっぱなしで聞いてくれる仲間に出会い、ようやく自分らしくあることができる居場所を見つけ、回復に向けて励んできたつもりである。
他人には理解され難いことを話す前、私は手が震えるし、喉がカラカラに乾いてはりつく。
内容によっては、なんとなく受け入れられていない雰囲気を感じることもある。
それでも、私はそうでしかない。
私はそれでも、『私』を話すしかない。
正しいだけの道を歩もうとして、無理をしてエチルアルコールで脳を壊し身体を壊した。
私は正しさだけでは生きられなかった。
だから、私はあるがままにあるしかないし、棚卸しをし続けて、己の本質をさらけ出し、己の内面を見つめ直し、自己受容していくしかない。
それを貫くとき、主義主張が違う人にはもちろん出会う。
私は、それぞれの主義を貫いて生きたいように生きていく権利が誰にでもあると思っている。
私は、ブログを書きたいように書いている。
誰に宛てるでもなく、頭に浮かんだことを書いている。
私のそのままをかける場所として、とっても貴重で神聖な場所が、このブログである。
私は、私がここに書くことについて、誰にも遠慮したくない。
誰かに配慮したり、気を遣ったりした瞬間に、私の言葉は私そのものから離れていく。それではやる意味がない…書く意味がない。
私を含む誰の心にも届かないモノに成り下がる。それだけはやりたくない。
私は今日何が書きたかったのか、実はよくわからない。
うまくやろうとすると、だいたい凡ミスをする。配慮したつもりがアダになる。
うまくやろうとするから、うまくいかないのだ。
疲れ果てるまで繰り返そう
違う

上手くやろうとするんじゃない百回でも千回でも

初めてのように

何も持たない赤子のように


『バガボンド』 第33巻 内側の音楽 より

毎回、初めてのように繰り返し繰り返し。
その積み重ねのなかに、しっくりくる感覚がある。それが体に染み込むまで繰り返す。
心臓のように、生きることに忠実に素直に、拍動し続けていたい。
たぶん、正しいかどうかではないのだろう。
自分を生きることに真っ直ぐにあろうとするなら、軸はそこではない。

剣に生きると決めたのなら正しいかどうかなどどうだっていい感じるべきは楽しいかどうかだ

『バガボンド 』第32巻 無刀だとかの類 より

感じるべきは、楽しいかどうかだ。
私はそれを、薬物依存でもなく、プロセス依存でもなく、健全でナチュラルな世界で見つけて感じることに、真っ直ぐでありたい。

【AC】信じることの難しさ(コントロールを手放す)

私は、「結果主義」的で「完璧主義」的な傾向があります。

私はなぜそのような傾向をもったのでしょうか?

そこには、コントロールというACの課題が見え隠れしています。

 

負けるのも中途半端も大嫌い

私は硬式テニスをやっていましたが、シングルスが大好きでした。

ダブルスが大嫌いでした。

なぜか?私以外の人間(ペア)がミスをすると、とんでもなくイライラするからです。私に落ち度がないのに、失点するのが、我慢できませんでした。シングルスは楽です。勝っても負けてもすべてが自分のせいだから。

そんな私とペアを組まされた運の悪いプレーヤーはみんなテニスが嫌いになりコートを去りました。

仕事も、チームでやるのがとても嫌いです。

議論が前に進まないとイライラしますし、合理的でない理由で足を引っ張られると、本気で会社からいなくなればいいのにと思ったりします。

私は、真剣勝負だと認識していることになると、絶対勝ちたいし結果を出したいので、自分のミスも他人のミスも許せないのです。

 

任せた自分を責めるから、任せたくない

結果負けてしまったり、結果が理想通りではなかったりした場合、私は自分をひどく責めぬきます。

数十年の人生のなかで、相手を責めたとしても何も変わらないことはようやく理解しました。

だから、なぜこんな未熟な人間に私は大事なことを任せてしまったのか、己の見る目の無さを責めるようになりました。

「自分ならこんなイージーミスはしなかったのに」

「自分ができるキャパシティを持っていれば、任せる必要がなかったのに」

「お前が能なしで仕事量が少ないから、こんな出来損ないに任せる羽目になったのだ」

と。

なんと窮屈でイヤな人間なんでしょう。笑

私はこんな人と仕事でタッグを組みたくない。文字通りミスを許されない環境では、人は委縮します。そしてミスをしやすくなる。まさに、自分で自分を締め上げているようなものです。

これでは、結果や完璧はどんどん遠ざかっていきます。本末転倒です。

結果って、コントロールできるものなのか?

やると決めたことを止めるのも嫌いなんです。

やるならとことん最後までやりたい。

途中で邪魔されるとキレそうになるというかキレます。

とにかく他人の都合で予定や結果を変えたくないのです。

私はASD(自閉症スペクトラム)の傾向から、変更や中断が恐ろしく嫌いです。

 

でもちょっと立ち止まって考えることには、

それだけじゃないんじゃないだろうか?

これは、「私には結果がコントロールできる」という、私の過信からきているんじゃないか?

ということです。

 

確かに今まで私はそれなりにやってきてきて、そこそこ良い結果を出していたのでしょう。

しかし、他人に任せざるをえなかった時点で、今この時にはキャパオーバーだったというのが事実です。

自分だけの予定で世界が動いていない以上、完全に自分のイメージ通りにタイムテーブルを動かすことは不可能に近いのも、事実です。

ひとりではできない、ひとりでは完結しない事柄のほうが、残念ながらこの世の中には多いのです。

 

12ステップ・プログラムをしていて最近思うことには、「私は、実はコントロール出来ないものをコントロールしようとしていたのではないか?」ということです。

実は、「誰にも結果はコントロールできない」のだとしたら、どうでしょう。

できるのは、最高の準備の努力。自分ができる範囲内の慎ましやかなことだけ。

当初は80%は自分の能力が招く結果で、20%ほどが運の要素なんじゃないかと考えていた私ですが、20%ではなく、実は80%以上が、コントロールできないことなんじゃないか、と思うようになってきました。

本当は割合が逆なんじゃないか、ということです。

そう考えると、なんだか初めて手放せる気がするのです。

 

そもそも、何もどうにもならない

なんだ、どうにもならないじゃないか!

だって、20%しか関与できないんです。結果はすべて私のあずかり知らないところで決まると言っても過言ではない。

そう、生き死にと同じように。

結果は、世の中ではさも個人の力量であるかのように讃えられ持て囃されているけれども、実は80%の様々なものに助けられて実現しているのではないか、と思うのです。

この時代にこの国に生まれたこと。

発達障害を持ったこと。

アルコホーリクになったこと。

苦い経験をさせやがった憎い人たち。

簡単には一位になれなかったこと。

人を愛すること。人に裏切られること。

 

全部に感謝、なんで綺麗事は言いません。

だって、今でも殺したいほど憎い人たちがいます。

許されるのなら同じ苦しみを味わわせてから惨殺したいし、全員を許す必要などないと思っています。

許すかどうかは、わたしたち各々、当事者にのみ主導権があります。誰に何を言われようとも、それは変わらない。それだけわかっていれば、私たちは安心して気持ちを見つめ直し、処理することができるのです。

 

まとめ:良い意味で、潔くあきらめよう。そして信じよう。

もはや、私たちに出来ることは、生まれた時点で限られていて、与えられた20%を精一杯「楽しむ」ことこそ、全力でやるべきことなのだと思うのです。

 

結果を出すことではなかったのだ、私たちがやるべきことは。

結果を出すことではなかったのだ、私たちがやりたいことは。

 

大好きな漫画の『バガボンド』。

この沢庵和尚の言葉が好きです。

 

「お前の生きる道はこれまでも、これから先も天によって完璧に決まっていて、それが故に完全に自由だ。根っこのところを天に預けている限りは…。」(『バガボンド』第29巻より)

ようやく、この言葉の意味がわかった気がします。腹落ちしたという感じがします。

 

ハイヤー・パワーを信じるということ。

己の無力さを認めるということ。

 

私たちは完全にあらゆることをコントロールできないが、だからこそそれを受け入れさえすれば、本質的にありようは完全に自由で、だから楽しむことが最も重要なのです。

 

では何を信じるのか?

結果ではないなら、私たちは何に達成感や信頼感を持てばいいのか?

 

世の中には、すぐにわかりやすく顕れる幸せと、すぐにはわからない後になって顕われる幸せがあると考えています。

私の人生は、たしかにそのことを証明してきたように思います。

私の親はクソみたいな毒親だし、なりたくて発達障害になったわけではない。アルコール依存症にだってならなくていいならなりたくなかった。

毎日毎日苦しかった。それが事実です。

しかし、私たちはその苦しみの中、今日いま、なんとかここまで生きてきました。

そのなかで、苦しみがあったからわかることが増え、与えられなかったから有り難みに気づいているのではないでしょうか。

すぐにはわからなくても、後になって、今もしわかりやすい結果に結びつかなくとも、いつか、自分の人生の中で光り輝く時がくると信じることができそうです。

真の信頼とは、そのような各々が持つ『幸福への引力』(ハイヤーパワー)を信じ頼ることなのだろうと思います。

 

他人に命運を預けることは、恐ろしいです。

とてつもない痛みを味わう結果になることを恐れてしまうものですが、それは自然なことで、恐れながらもなお、味わうすべてのことが、いつか良い方向につながる、ということを信じることなのだろうと思うのです。

【ジェンダー】男性だけど「配偶者の扶養から抜け出したい」という女性の気持ちがなんとなくわかる話

『夫の扶養から抜け出したい』という漫画があって、結構気になっている。

 

読みたいが、まだ勇気が出ないでいる。男性である私は、結構メンタルがやられそうで。

 

男性はなぜ、扶養家族に対して「こっちは仕事して稼いできているんだから」という物の考え方や発言をしてしまうのだろうか?

その根本には、会社の奴隷として生きている男性の哀しいジェンダーロールが見え隠れしている気がする。

「夫の扶養から抜け出したい」は、「会社の奴隷から抜け出したい」という男性の想いと似ていると思ったので、ちょっとまとめてみる。

 

 

「会社」というファミリー

「お前は給料をどこからもらってんだよっていう話だよ」

これは実際、私が上司(♂)から言われた言葉だ。

会社から金をもらっている分際で、という圧力をかけ言論を封殺するための言葉である。

 

末端の話は重要視しない。聞かない。

社員は仕事をやって当たり前、と思う。

末端の社員を見くびっているのだ。

 

自由がない「会社」というファミリー。

経済的な主導権を握っているからという理由で、横柄な態度をとるという点において、扶養家族にでかい顔をする亭主のそれと非常に似通っている。

社員の副業禁止は、妻の交際範囲の制限に近い。

事前に申請しなきゃ必要経費はもらえないのは、家計に必要なお金を定額しかもらえないのに近い。

 

雇用と結婚は違う

勘違いしてはいけないのが、婚姻関係と雇用関係は根本的に異なるということである。

結婚は雇用契約ではないし商業取引ではない。

つまり、配偶者は召使いではない。

そこは勘違いしてはいけない。

日本国憲法第24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定している。

同等の権利を有する2名が合意のもと形成するのが婚姻関係である。

その意味でやはり、稼いでいる側が稼いでいない側に、会社と社員のような雇用関係に近い要求や価値観を押し付けることは、間違っている。

同等の権利を有する以上、どちらが稼いでいるかは判断材料にならないし、共通の財産である給料はふたりの物である。それを片方がコントロールして権利を不当に侵害するのは、家庭内のパワハラであり、モラハラである。

 

奴隷のような社員生活で男性のメンタリティが歪んでいる可能性

社員もまた、召使いではない。

賃金と引き換えに労働や己の能力を提供する、対等な契約者としての矜持を持っていいはずだが、雇用関係の解消という切り札を相手に握られていると考えているため、会社に対して顔色を窺い、卑屈にへりくだることが一般化している。

 

奴隷と社員の違いは、本に例えると分かりやすい。

Aさん(雇用主)が「好きな本を読む」という目的を達成する場合、2通りの方法がある。

 

奴隷は、本の購入。

一度購入したら、いつ読んでもいいし、破ってお尻を拭くのに使ってもいいし、燃やしてもいい。つまり、持ち主の自由。

つまり、人で言えば、深夜までこき使ってもいいし、目的以外の使い方をしてもいいし、殺してもいい、ということだ。要は、雇用主のおもちゃとなるということ。

 

社員は、本のレンタル。

レンタルの費用を払っている間は「本を読む」ということについて許されているが、期間は決まっているし、目的以外のことに使ったり、意図せずとも傷つけた場合、元通りになるために補償しなくてはならない。

つまり、人で言えば、雇用契約に基づいた適切な労働以外は提供することはなくて当然だし、メンタルもフィジカルも元気100%の状態で持ち主である私たちに、私たち自身を返してもらわないといけない。

 

ここから言えることは、私たちはあくまで私たちのものであり、雇用関係だからと言って魂を売り渡す必要も、人生を損なってまで尽くす必要も全くないのである。

 

それなのに、男性は、会社というファミリーへの献身をやめられない。

もはや、共依存関係にあるからだ。

「私はこれだけ会社に尽くしているんだから」

「家族を蔑ろにしてまで仕事に打ち込んでいるのだから」

仕事人として、プロとして私は評価されるべきだ、という考えなのである。

私は、あくまで仕事はアウトプットで評価されるべきであり、それまでに自分を押し殺して他人を気遣ったというような自己犠牲を勘案すべきではないと思っている。

なぜなら、自己犠牲を払うことを肯定する構造を生み出すからだ。

そしてまさに、これは会社で暗黙の了解としてルール化されており、そのような自己犠牲と献身こそ、組織人としての美徳であり品格だと勘違いしている人間が多い。

組織の駒として自分を殺し、任務を完遂する。そういう生き方を推奨してきた歴史がある。

男性は、このような歪んだ虐げられ方というか、絶対服従を社会から当たり前と思い込まされている。

ゆえに偏った思考パターンと行動パターンを獲得してしまったのかもしれない。

 

「本当はしたくないのに」という本心が家庭でにじみ出る

男性だって、おそらく本心では、奴隷でいたいわけがない。

なのに、それを当たり前だと思っているから、「本当はしたくない」という気持ちになかなか気づけない。

そして鬱屈した思いは、家庭で歪んだ形で妻や子に対してにじみ出るのである。

「こんなに我慢して仕事しているのに」

「家族のために俺はこんなに頑張っているのに」

という気持ちはわからなくはない。

しかし、考えてみてほしい。

たとえば趣味。自分でやりたくて納得してやっていることなら、誰に何をほめられなくとも、損したとしても、目標に向かって邁進している自分を誇れるものだ。

もしそうでないのなら、実はやりたくないことを誰かのせいにしてやっている。病んでいる。

我慢して働くことを選択しているのは誰か。

家族のために頑張ることを選択したのも誰か。

それが「~しなくてはならないから」という義務感でやっているとしたら、一度立ち止まって考えてみるほうがいい。

それは本当はやりたくないことで、やらなくていいことかもしれない。

そこまで我慢して頑張らなくても、共働きで無理せずやっていけるライフスタイルがあるかもしれない。

家族のために最も必要なことは、お金ではなくて、あなたの健康と笑顔と、家族が一緒に過ごせる時間かもしれない。

 

そういう自分の幸せを、何も考えずにステレオタイプな社会的価値にあてはめて生きていると、本当に大事なものは、いつの間にかなくなっている。

そうなっては遅い。

いまこそ、男性は自分のための自分の人生に、真正面から向き合うべきときなのではないだろうか。

【ジェンダー】暴力とパワーゲームに歪む男のジェンダーロール

女性にもあるように、男性にも「ジェンダーロール」があるということを、最近感じるので書いてみる。

ジェンダーロールとは?

性役割(せいやくわり、gender role)とは、その性別に、社会的に期待されている役割のことである。

例えば、「男だから、めそめそしない」「女だから、おしとやかにする」などの行動規範に従って行動するとき、その人物は性役割を演じているとされる。

この場合、特定の性に本人の好むと好まざるとを問わず、一定の役割を期待すると共に、その役割に応ずる準備や能力、資質、性向がない場合、不要なストレス、劣等感を当事者に持たせ、社会的に自分が不完全であり、不適応であるとの疎外感や差別感を持たせることになってしまう。

これは、女性に賃金労働上の成功のチャンスを与えないばかりか、男性にマッチョイズム(男性至上主義)のシンボルとして適合しない場合、その権威への落第者といった自己評価の低下をもたらすなど、さまざまな議論を投げかけるものでもある。

同時に、ステレオタイプな分類がされているため、性自認を考えるときに、自分を現す用語を並べることでその手助けになることもある。

性役割は、文化によって異なるものもあり、例えば近代日本では買い物は女性の仕事だと考えられていたが、アラブ文化圏や古代ギリシアでは男性の仕事であった。裁縫は女の仕事だと考える文化もあれば、男の仕事であると考える文化も無いわけではない。

(コミュニケーションについては、「コミュニケーション#コミュニケーションの男女差」を参照)

出所:Wikipedia

女性にとって性別が女だというだけで、炊事や洗濯をするのが当たり前だと言われたら違和感があるだろう。

なぜなら、人には得手不得手があるし、性別が役割を規定することは選択の自由を制限することだからだ。

女性だから力が弱いわけでもないし、おしとやかなわけでもないし、誰もがいい香りがするわけでもない。

これと同じことが、男性にも言える。

 

男性の「ジェンダーロール」

少し、この曲を聴いてほしい。

 

 

「強くなければならない」

「ぶつかり全力を尽くさなければならない」

「負けてはならない」

「立ち上がらなければならない」

「泣いていいのは条件付き」

「転んでもいいのは条件付き」

「やられたらやり返さなければならない」

 

これらのことが、「男なら」の枕詞で語られている。

私はこの歌にずいぶん励まされてきたし、はじめの一歩もウルトラマンネクサスもdoaも『英雄』という曲も好きである。それらを批判するつもりは一切ない。

しかし、ここから透けてくるジェンダーロールがある。

「守りたいものを守る」とか「話し合う」ためには、まず上記の条件を満たさなければならないのが、「男」という存在だということだ。

 

力が対等ではくては、暴力で制圧される男社会

女子もそうだったかもしれないが、男子の間では、気に入らないやつを陰で腹パンして外傷が目立たないように暴力を振るうなどは日常茶飯事である。

サンドバッグでいたくないなら、相手をサンドバッグにするしかない。

眼には目を、歯には歯を。なめられたら搾取されるだけだ。やるか、やられるか。強者にしか選択権はない。

 

 

雄の序列は、原始からパワーで決まる。

生まれた時からパワーゲームが世界のルールだ。

砂場で小突かれたら小突き返し、負けて泣いて親のもとに逃げ帰るようなら、「メソメソ泣いてないで一発二発やり返してこい!男だろうが!」と叱られた。

種の繁栄も、太古の昔から戦いのピラミッドの上位にいなければ不可能だった。

お猿さんのときから、群れに強い雄がいなければ、群れを維持できないから、雄は常に上下関係をはっきりさせてリーダーを決めてきた。

弱い雄は群れのなかで価値がないから子孫は残せない。群れのなかで勝ち上がり、群れ同士や外敵との戦いに勝たなければ、生きていけなかった。

 

現代でも展開されるパワーゲーム

婚活市場でもまさにパワーゲームが展開されており、大してその頃から違いはない。

男性は年収や職業で足切りされ、高い参加費を払わないと参加すらできない。

女性には、今のところそれは当てはまらない。年齢という別の足切りがあるが。

暴力は禁止されつつあるが、資本主義社会は結局は血で血を洗う競争社会である。

競争で勝たなくては年収は上位にはならない。

つまり、戦いのフィールドは違えど、他のオスに勝たなくては結婚すらできないのが現実だ。

それなのに『成果出そうレース』から降りろコールされても、降りることなどできない。降りたら無価値になり死を意味するからだ。

「いや、結局降りたら生きてる価値無くなるし、あんたら女性たちは真っ先に見捨てるっしょ…」というのが、ミサンドリーに対する男性たちの声なき叫びだ。

そうやって、力でマウントし合う社会。

強くなければ生き残れない社会。

それが今も脈々と続いている。

 

では暴力に頼るべきなのか?

答えはNOだ。

パワーゲームの世の中だからといって、強者が弱者に暴力を振るうのは仕方ない、とは1ナノミクロンも思っていない。

この文明社会においては、暴力は犯罪であり、法で裁くという『正しく知的な暴力装置』で応戦できる。

ただ、法はまだ喧嘩が下手なので、充分に機能しなかったりするから悩ましい。

私たちは、腕力や膂力に関係なく誰もが安心して対等に話ができる社会をつくるべく、法律という『正しく知的な暴力装置』を、誰もに平等に機能するよう興味関心を持ち、育んでいかなければならない。

ミサンドリーやミソジニーの憎しみに歪んだ主張は、法律を健やかに育むことを妨害していると思う。まるで、息子夫婦の子育てにあれやこれやと偏った経験で過干渉してくる姑のようである。

恨みや私怨によらず、フラットで想像力のあるジェンダーの議論が必要だ。

両方にとって幸せな社会に発展することを願うばかりである。

最後に、もちろん女性同士だって、お互いの歯を折り合うくらいの喧嘩をしたり、刺し殺そうとしたりする修羅場もあるだろうと思う。

「女性だってそういうことがないわけじゃない」という意見に対して、私はYESだと思う。

妻にいびきが煩いからとベッドから蹴り落とされたこともあるし、寝相が悪いからエルボーを落とされたこともあるので、安心してほしい。女性だって腕力があることは身をもって理解している。

ここで話しているのは、男性はみな、そういうバトルロワイヤルに一律に生まれたときからぶち込まれることが、性別としてちょっと特殊なんだな、という話だと理解してもらえれば幸いである。

 

【AC】Step8「傷つけやがった人」その①『幼稚園・小学校のクラスメイト全員』

Step8に従い、私を傷つけやがった人をひとつひとつ、卸していきます。

 

要約:彼らは全員、いじめに加担した。私をバカにして、軽く扱った。私が困っていても見て見ぬふりをして助けなかった。(日和見達も同罪)

 

幼少期の私は変わった子供だった

私は幼稚園から小学校3年生ごろまでいじめられていました。

私は当時はわかりませんでしたが、発達障害(ADHD寄りのASD)なので、空気が読めませんでしたし、集団のなかにいることを嫌いました。

独りでできる遊びが好きで、砂場で山をつくったり、何の木の実かわからない実で色水をつくったり、割り箸をナイフで削って極限まで尖らせたり、空想の世界で物思いにふけったり。そういうことが好きな少年でした。

独りでいる変わった人間は、いつの時代も奇異の目で見られます。一般的な人は、異質な人間のことが恐ろしいので、排除しようとします。あるいは、異質であることを下にみたり、大人に間違っていると言われているので「攻撃してよい存在」と勘違いして攻撃したりします。

例にもれず、私もそのような迫害にあいました。

私には友達はいませんでした。クラスメイトも教師も全員、敵でした。

私をいじって遊ぼうとする。

それを見て見ぬふりをする。

無視して「いない人間」として扱うこともありました。

2人組をつくってください、という先生の言葉は、死の呪文と同じでした。

 

孤立からいじめへ

私は親がそうだったように、「嫌だ」ということは人を傷つける、と思いこんでいたので、嫌だという勇気がありませんでした。

辛くても限界まで我慢しようとしました。それが、いじめっ子を増長させました。

数人で手足を羽交い絞めにされ、和式トイレに顔を押し込められて拷問に近いいじめをされたこともありました。

つまり、こいつは傷つけてもいい存在だ、俺たちとは違うし何をやっても怒らないからいじめてもいい、と軽く見て、彼らは私を軽んじてバカにしたのでした。

私は私らしくいると、集団から理不尽な仕打ちを受けました。

教師などの管理者は正しく介入する能力がありませんでした。

困っている私を見て見ぬふりをしました。

「私が変わっているのが悪い」と言わんばかりの世界に絶望しました。

最終的には全員殺したいと思うほど憎みました。

 

私は何が哀しかったのか

私がそのままでいると誰にも受け入れてもらえないことが、とても悲しかったのだと思います。

なぜ私に冷たくするのだろう。なぜ私はそのままではいけないのだろう。みんなはそれでも許されているのに。

私だけが許されない理由は何なんだろう。私がしたいことを大人がみんな怖い顔をして中断させるのはなぜなんだろう。

そんな、悲しみに満ちた「なぜ」を抱えて独りで泣いているのが、私の幼少期でした。

私はこの頃から、理解されることを諦めました。

生存戦略を定めました。

要求に沿って、望む姿でいれば、少なくとも攻撃はされないことを学び、生き延びるべく模倣して「一般人」に擬態する、わたしなりの生存戦略。

私はこの頃から、自分らしく生きることをやめ、仮面をかぶるようになったと言えるでしょう。

そうすれば、少なくとも攻撃はされないし、異質な人間と認定されてあの冷たい対応を取られる心配もない。

それは元々の出発点は外的脅威からのディフェンスでありながら、主なニーズは求愛だったのだ、と今なら分かります。

結局、いじめっこに報復し鍛えた力を見せつけて暴力で黙らせたのですが、それは本当は望んでいなかったし、理想的な解決ではなかったのでしょう。

結局は己の力で解決するしかない、という思考回路を強化し、実力至上主義が正義であり唯一頼るべき原理原則だとインプットしただけでした。

本当は、傷ついたことを話し、それをきちんときいて謝ってくれたなら、許したいと思っていたかもしれません。

私は、そのような健全なやり取りをしてくれる人間関係に恵まれませんでした。

 

健全な人間関係を経験して手放したい

私は当時、そのままでは愛してもらえないから、愛される形を整えようとしました。

それは、当時私が生きていくためにやらなくてはならないことでした。

そして、今は大人になってから健全な人間関係を経験したことで、必要ないことだと理解しました。

だから、少しずつ手放していきます。

 

この「傷つけやがった人」で気づいたことは、私は

「ありのままの自分の存在を否定され軽視され受け容れてもらえなかったこと」

に傷ついたといえるでしょう。

【ジェンダー】フェミニストを名乗る「隠れミサンドリー」

って書くと炎上しそうだが、我慢できないので書くことにする。

先日、いたく感動した。この漫画を見て。

 

成果出そうレースに参戦し始めた女性たち

この 成果出そうレース は、女性が社会進出するに伴い、女性にも適用され始めているように思う。

例えば、結婚。

家が決める縁談でしかたなく相手を選ぶ余地もなく決められたため、他責にできた今まで。 自由恋愛になり、女性にとって結婚は自らの狩猟能力を問われる実力至上主義の『狩り』と化した。

いかに高性能なATMを捕まえるか、という『成果』で比較されるようになり、数字でわかりやすく存在価値を競うレースに様変わりした。 私たちは簡単に比較できるほど貧相な存在価値ではないし、そもそも異性に好かれるかどうかなど、その人の魅力の一部でしかない。 にも関わらず女性もこのレースから降りようとはしない。

それはなぜか?

幸せというものは不透明で、己の幸せを明確に把握できている人はごく一部であり、大半は分かりやすく比較できるもので手っ取り早く安心したいからだ。これは男性も同じだ。

 

女性は社会から「女として」「母として」というレッテルを貼られた枠のなかでしか生きられないのが嫌になった。そりゃあ嫌になると思う。

だから、社会進出して権利を勝ち取り、結婚だけでなく資本主義経済社会においても『成果出そうレース』に自ら参戦し始める。

成果出そうレースにずっと生まれたころからぶち込まれていた男性と、成人して就職や結婚というイベントに直面して自ら選択して参戦した女性とでは、認知の歪みに大きな隔たりがあったのだが、そのことは今は知る由もない。

『成果出そうレース』は何でもありのバトルロワイヤルだから、当然、出産や育児で離脱しても誰も助けてくれない。敵にとってはまたとないライバルを蹴落とすチャンスだ。

今までの男たちが、家庭を省みたり休みを取ったら同僚に出し抜かれレースで不利になってきたのと同じに、このレースは不平等を補正してはくれない。 男性はそういう血も涙もないモノだ、それで当たり前だと育てられている(歪んでいる)。 女性は参戦してみて、いち早くこの不平等に気付いた。

だから「マタハラだ」とか「セクハラだ」というふうにハラスメントを顕在化できた。 その点で、女性が社会進出してくれたことにより、いかに不健全な競争をしていたかということが炙り出された形だ。

・婚活市場における勝ち組と負け組

・家事育児と仕事の両立の無理解

実はこれらは異性が悪いのではなくて、社会の歪みこそが真の戦犯だ。

 

前職で年収が低かったとき。 婚活パーティーで年収の欄をみてガッカリされ話も聞いてもらえなかった経験がある。

逆に転職して年収が跳ね上がり桁が変わった辺りから、『優良物件』という商品として異性の態度がコロッと変わるのも目の当たりにしてきた。

婚活でパートナーを探せば人間性より先に年収で足切りされるし、結婚してATMとして性能が低ければ、本来安息の地であるはずの家庭でも居場所がない。家事育児に寄与できなかった功罪は、熟年離婚という形で精算される。出がらしの茶葉が捨てられるように、年老いて金が産めなくなった男は棄てられる。男の一生なんてそんなにうらやましいものではない。

この『成果出そうレース』に参戦する人は、男も女も、そういう比較しやすい社会的価値(自分にとって意味があるかどうかわからない曖昧な価値)に振り回されて、満たされない承認欲求を抱えることになる。

実に不幸だ。

男性は漏れなくこの成果出そうレースにぶち込まれるわけで、その生きづらさも少しは汲んであげてもいいのかもしれない、とは思えないだろうか。

もちろん今のバトルロワイヤル方式はルール改定が必要だ。 女性も男性も『生きる喜び』を感じられるように、我々は群れをつくり社会を形成したのだから。

 

男を呪い殺したい「隠れミサンドリー」

女性は本当に長い間、男性によって(正確には社会構造に)苦しめられ、男性を憎んできて、それは今なお、少しも癒されていない。それが、いわゆる「男嫌い」の人々と話していると、よくわかる。

今はちょうど、男女平等こそ是とされる風潮になり、鬱積した怒りと憎しみが女性から噴出している時期なのだろう。

この今のタイミングで、フェミニストを名乗る「男嫌い」に対して、いくら男性の生きづらさを説いたとしても聞く耳は持てない。それは当然の展開なんだなと思う。 「男嫌い」の人たちの鬱憤が晴れてきたら、ようやく話し合うスタートラインにたてる気がするが、それはかなり先のように思える。

真の男女平等を実現したいとして、それは果たして男性を引き摺り下ろし叩き潰し、女性が社会の頂点に君臨する社会構造をつくることなのだろうか?

「男嫌い」がやりたいのはそういうことだと思う。しかしそれは私怨であり復讐であって、男女平等の実現とは程遠い。 自分たちの恨みを晴らすだけ。

戦争の歴史が証明しているように、片方を叩き潰したら、長い歴史をかけて必ず報復されるのは、セオリーだ。 女性は今まさに絶賛報復中で、それは男性の今までの罪のかたち。それは受け止めるべき話だと思う。 しかし、フェミニストは元来、「男嫌い」でも「女嫌い」でもない。

どうやら、この「男嫌い」というのは、「フェミニスト ではなく、「ミサンドリー なんだそうだ。 

私はこのフェミニストを名乗る男嫌いを「隠れミサンドリー」と勝手に呼ぶことにした。

自分たちがしているのは「男尊女卑という巨悪を討つ聖戦だ」と言わんばかりに、男性であればけちょんけちょんにしてもいい、という狂信者たち。

「隠れミサンドリー」は自分たちが弱者であるということを最大の武器にしているし、男性をいくらでも傷つけてもいいという免罪符にしている。自分がされて嫌だった『レッテルを張り追い詰める』という責め苦を味わわせることに人生の喜びを見出した、哀しい復讐者である。

 

人類を減らしていく「隠れミサンドリー」の華麗なる暗躍

確かに私も アルコール依存症 になるまで、弱者の立場を理解していなかった。 スポーツでも学業でもある程度成功していたので、「結果が出せないのを外部要因のせいにするのは甘え」で、敗者の弁は「負け犬の遠吠えだから聞く価値がない」という実に高慢で嫌なヤツだった。

完全に間違っていた。

差別される側になり、疾患に対する無理解に憤慨した。苦しみを理解しない会社や世の中の人が殺したいほど憎かった。 だから「私たちが味わった生き地獄をお前らも味わうがいい」という異性嫌いの憎しみには懐かしさすらある。実に馴染み深い感情だ。ごく自然な憎悪で、私はそれを全く否定しない。

憎み続けて、病と生きづらさに向き合い続けて、ようやく最近「かつて憎んだ人たちも同じような生きづらさに認知を歪ませている被害者であり加害者だった」ということに気づいた。

気づくのに、実に7年の歳月がかかった。 だから、ミサンドリーの人たちの憎悪が簡単に消えないのには、同情の余地が多分にある。

だから、どっちかっていうと私は、男尊女卑を是正して男女平等の社会を実現するいうゴールを向いている。

弱者のつらさを味わったことのある人間なので、むしろフェミニストにとって味方であるはずなんだが、隠れミサンドリーの話は一方通行にも程がある。こうも議論にならず建設的な話ができなくては、辟易させて味方を減らすだけだ。

そうやって、理解ある異性すら攻撃対象にして、擬態しているフェミニスト勢の戦況を悪いほうに悪いほうに傾かせる。司馬懿もびっくりの天才的な見えざる内乱を実現している。

フェミニストを名乗る「隠れミサンドリー」が思い描く理想郷を実現するには、相手方を『根絶やし』にするしかない。

そうしなくては歴史は繰り返す。 結局そういう人は片方だけになったとしても、また別の立ち位置で二極化させていつまでも争いをやめない。つまりがん細胞みたいなものだ。

もうすでに男性たちは辟易としていて、肉食から草食になったり劇的に衰弱している。

全力で衰退の一途をたどっている。もはや絶滅寸前だと思う。隠れミサンドリーの皆さんには嬉しいニュースである。もう一歩で滅ぼせるよ。

そんな荒野で、結婚に対してメリットを感じている男性が、この世にこれからどれだけ残るだろうか。

このまま、女性が男性を目の敵にして「仕事をしていて当たり前」「家事育児をしていて当たり前」「年収は周囲より高くて当たり前」「妻にはいつも優しくて当たり前」「変な性癖があるやつはNG」などと条件を追加し続けていくとする。

もはやそこまで縛られて修行僧のような生活をしながら一人の女性と一緒にいることを選ぶ人のほうが少なくなるだろう。結婚しないで細々と自分が食べられるだけの給料を確保して、趣味にかけられるお金と時間を確保したほうがよほどQOLが高い。

どんどん、結婚は物好きな人がするものになっていくだろう。

女性は仕事をバリバリしたいし、出産や育児でタイムロスしたくないとさんざん言ってきたんだから、それに人生を費やせばいいし、男性は結婚したくないのだから、必然的にカップルは生まれず、ゆえに子供は生まれない。

しかしそれがお互いのニーズが最適化された姿だろう。よもや恨むまい。

そして人類は人口を大きく減らし、衰退していく。それもひとつの選択肢だと思う。

私はそれもいいんじゃないかな、と本気で思っている。生きたいように生きるのが、人生においては大事だし、女性も生きたいように生きるならば、それでかまわないのではないだろうか。

 

まとめ:滅びの道を歩むのが望みではないのなら

しかし、そうではない、というのであれば、少し課題について整理してみたので、聞いてみてほしい。

フェミニストとひとくくりに呼ばれる人たちの中で、フラットに会話できないタイプのフェミニスト、いわゆる「隠れミサンドリー」の良くないところは『自分たちは被害者で、加害者性はない』と盲信していることだ。 無自覚なだけで、男女ともにそれぞれの役割に対して共依存してきた歴史がある。

相手との歪んだ関係に執着することにより、被害者でもあるが加害者でもある依存関係。それが、共依存という関係だ。

残念ながら、両性ともにこういう偏った被害者精神を堅持するタイプが一定数存在する。

それが続く限り、いつまで経っても話し合いは進まない。それらの人たちの騒音が鳴り止まない限り、互いの声は聞こえない。

隠れミサンドリーが、本気でジェンダーロールを破棄して社会をアップデートしたいと願っているとしたら、その実現を自ら阻んでいるのと同じだと思う。

ジェンダーの問題は被害者性と加害者性を等しく持っている。 女性も男性も。 どちらかを加害者にしようとしたり、自分たちだけを被害者にしようとしたりすると、話は歪む。

まずは両方がお互いに自分たちの辛さを受け入れてもらえること。 その上でどうだったら嬉しいのかを一緒に組み立てようとは、考えられないだろうか?

フェミニストを名乗り、男女平等を理想に掲げるならば、男性の生きづらさにも寄り添うマインドセットをして議論に臨み、社会に声を発するべきだと思う。 「隠れミサンドリー」とフェミニストを混同している限り、残念ながら女性も男性も自由にはなれない。

つまり「隠れミサンドリー」を明確に区別し回復を支援することこそ、フェミニストのみなさんに先頭に立っていただき、皆でフェミニズムを大切に育てるために必死になって取り組むべき課題だと思う。

どっちの方が辛いとか、そういう話はもう比較はやめにしたい。つまらない、そういう話は。

わかり合うには、この『成果出そうレース』から男女共に離脱して互いの存在価値を認めることだ。

お互いにお互いの辛さがある。聞くよ。それをお互いに否定せずに吐き出せる、心の安全が確保された空間が、男にも女にも必要なんだと思う。そこで思う存分、恨みは吐き出そう。そして、おいてこよう。

それから、お互いが生きやすくなるように、社会を一緒に変えていこう。

社会こそが歪みであり、真のラスボスだ。女も男もホントはRPGで言えば同じパーティなのに。 同士討ちしたって埒があかない。

そう思うのだけど、これもまた曲がった解釈でとんでもないクソリプをもらうような予感しかしない。

諦め半分で、しかし今の想いを書かずにはいられなかった、3月の寒い夜。