投稿者「ちあき」のアーカイブ

【AC】憎しみの裏には自分自身の苦しみがある

さて、唐突だが、私は京都がどうも苦手である。

「よろしいなぁ」が「いいですねー(^^)」ではなく「そんな話はどうでもいい」という意味だったり、「おおきに」が「ありがとう」ではなく「お断りです」という意味だったり。

そういう言葉の裏を読ませ、真っすぐに表現せず嫌味に意図をにじませるやり方が気に食わない。

 

同族嫌悪

しかし、この憎しみは同族嫌悪だった、ということに最近気づいた。

こういう京都的な態度は、憎き母親に似ていて、他ならぬ自分に似ているから嫌なんだな、と思い至った。

自分の嫌な部分を見せられているから、イライラするのだ。

つまり自分の性質を受け容れられていないので、代替的に嫌悪していたということなのだろう。

私は、遠回しに言って、相手に気づいてもらおう、相手に自分のこの不愉快な気分の責任を押し付けよう、とする卑しい気持ちを持っている。また、一人で勝手に諦め、相手に真偽を確認する勇気を持てない弱さから、すれ違いを起こす。

認めたくなかったが、私はこのような姑息なところがある。

それは、他人の発言や、相手の回答をそのまま受け取れないからだ。

なぜ受け取れなくなったのだろう?

両親は、私の質問や要望に対して、そのまま返してくれなかった。

サンタクロースについて、バレるまで私に嘘をついていた両親。些細なことだが、結構私は両親に対して信頼を失った。こいつらは平気で私を騙すんだな、と思ってショックだった。

また、私が何かを要求すると、決まって両親は「なんでそんなこと言うの?」と言ってすごく悲しそうにした。私はなぜなのかを説明する語彙力を当時持ち合わせておらず、口籠った。両親はそうして私の要求を封殺するやり口をよく使った。

私はしばしば納得できないまま閉口せざるを得なかった。なぜダメなのか?なぜ要求は却下されたのか?がわからないままなんとなく「まずいことを言ったのだ」ということで引っ込めざるを得ない『空気』で圧殺された。

私は家庭においていつも言葉の裏の真意を深読みする必要があった。これはとても疲れることだった。家庭がそうだったから、他人は言わずもがな。人と深い関係を築けないまま、ただいたずらに年月が過ぎた。こうして、言葉をそのまま受け取らない癖がついて、30を越えた今でも同じように歪んだままだ。

 

裏表のない会話が安心感を育てる

・言いにくいことも真っ直ぐ伝えてくれる
・わからないときは確認してくれる
・素直に気持ちを語ってくれる

そういう安心感というのは、とても大事だと実感する。

私の両親が構成する核家族、つまり実家では、夫婦間の会話でさえ、はたから見ていて本心がどこにあるのかわからないやり取りがデフォルトだった。なぜ相手を傷つけたのかわからなかったり、その時は言われないで後から本音を知ったり。私にとっては、会話は恐怖であり、安心感がまるでなかったと思う。

地雷だらけの戦場を踏み歩くようなのが、家庭の会話であり、私にとっての会話だった。

コレは今も気心が知れていない相手とのコミュニケーションの場合は変わっていない。だから私にとって新しく人に会うことは、とてつもないストレスだ。新しい地雷だらけのフロアを開拓するようなイメージだ。

いつも暗号を読み解くように、言葉の裏を読み、真意を推し量り、正解か間違いか確認できないまま、ずっと生きてきてしまった。

私のコミュニケーションは、醜く歪み捻じ曲がっている。私は獲得してしまったこの性質を、醜くともそのまままずは受け容れ、これからの生き方や接し方を考えていく必要があると思う。

子どもが素直に生きている姿を見ていて、しみじみと哀しく思う。

生まれた時には、私もちゃんと真っ直ぐ意思表示していたはずだ、ということがよくわかる。

嬉しいときは笑い、悲しいときは泣き、欲しいものを欲しいと言い、嫌なものは嫌と伝え、いつも全力で素直に生きていたはずだ。私もそうだったはずなのにな、と思わずにはいられない。

なぜそのままの私を生かしてくれなかったのだろう。

インナーチャイルドを窒息させた両親を恨むなという方が無理な話である。

境界線(バウンダリー)

さて、ACではない人は、前述した私とは違って、会話において安心感を育みながら成長しているはずである。(実に忌々しい。)

たとえば私は、「他人が何も言わないこと」に対してもあれこれ勘ぐってしまうのだが、
「ACではない健全な人」が何も言わないということは、本当に何も感じていないか、話す必要がないと積極的に判断しているということである。

私はその人の決断にヤキモキする必要はない。

それなのに、相手がなぜ話さないのか?とありもしない裏の理由が気になり、何時間もウダウダ悩んでしまったりする。これはとても不毛で疲れる。

私のなかで、自分と他人の境界線(バウンダリー)が不明瞭だから、こういうことになる。相手を把握してコントロール下に置かないと不安だから、気になっているのだ。

私は自他の境界線をしっかり引き直して、切り離して良いことを判別して理解し、行動を変容させていきたいと思っている。

他人が素直に話すか話さないかは、相手にしかどうすることもできない。

相手の発言を、私はどうすることもできない。

素直に気持ちを確認し、気持ちに寄り添い、その内容について自身の素直な気持ちを話す以外に、私ができることはない。

それを忘れないでいたい。

そして、それでよいと心から納得し安心したい。

それで良いという安心を与えてくれなかった家族が憎い。しかし、これはもうどうしようもない。過去は過去。受け容れる他ない。

重要なのは、「このように歪んだのは私だけのせいではない」「当時は私にはどうしようもないことだった」ということを理解しておくことである。

最もコミュニケーションを気軽に学べる場所であるはずの「家庭」というモデルケース。この基盤が歪んでいたので、私の認知がしっかり歪んだ。これはもう疑う余地がない。とんでもない呪いだと思う。私はこの呪いで自分自身を縛り、他人との関わりを一人で勝手に諦め、誰にも助けを求められないから、エチルアルコールに耽溺したんだな、と思う。

それをただ受け止める。

まとめ:憎しみをみつめ、裏にある自分を見つめる

憎しみの裏には自分自身の苦しみがある。

そういう視点で憎しみを見つめ直してみると、案外おもしろい。

私は愛媛も苦手で、夏目漱石の『坊つちやん』に描かれているような、愛媛の(一部の)人々の野蛮さや他人を気にかけられない粗野な性質に触れて、毎日いつもイライラしてきた。

これは、自分がそのように素直に生きられなかった恨みである。自分のことを第一に考えて生きてはこられなかったのに、好き勝手している人々の姿を見ると、なりたかった姿とは思わないけれど、そういう「可能性の自由」を奪われた憎しみが反映されて心がざわつく。自分のなかにある憎しみを見ているんだろうな、と最近思うようになった。

ギャンブルを憎んだり、酒を憎んだりするのも、やはり自分のなかにある何か不満や恨みがあるからなのだと思う。対象物を憎んでいるように思えてその実、自分のなかにある願望や悲哀が「他人という鏡」に映っているだけなのかもしれない。

私は、そういう自分のなかの、暗い怨み辛みをしっかり目を凝らして見つめ直していきたい。

その結果、それらから手を離して、もっと自由に生きていきたい。それこそが回復なんじゃないかなと思う。

身に着けてきた恨み辛み憎しみも、私の大切な一部だ。憎しみを愛で、身に着けてきたスタンスの悪い面ばかりでなく、良い面も客観的に評価して尊重していきたいと思う。

生き方のスタイルは、自分という媒体の使い方であり、自分次第なのだ。

私たちは、自分自身を媒体としてきちんと尊重していなかったり、大切に扱っていなかったりする。

私たちは「お互いに尊重する」というアサーティブネスに基づいた健全な関係を持ち直していく練習が必要なのだ。

そのためにはまず、歪んでいる使い方や思考のきっかけに気づくために、真摯に棚卸しをして己を見つめ直していくことが大切だ。

この「境界線(バウンダリー)」における認知の歪みに関して、まだまだ棚卸しが足りないと感じた。今後、特にこのテーマで棚卸ししていきたい。

【依存症】成果はコントロールできないという話

『人事を尽くして天命に聴(まか)す』という言葉がある。

 

自分の全力をかけて努力をしたら、その後は静かに天命に任せるということで、事の成否は人知を越えたところにあるのだから、どんな結果になろうとも悔いはないという心境のたとえだ。 南宋初期の中国の儒学者である胡寅の『読史管見』が成り立ちである。

私は、この言葉をずっと勘違いしてきた。

人事を尽くして天命に「任せる」。『成功するためには完璧に準備する(人事を尽くす)ことが大事だ』という意味だと思っていた。

その考えの根底には、「成功したい」「結果をコントロールしたい」という願いがあると気づいた。

 

仕事の成果はコントロールできるものなのか?

仕事は契約である。

ビジネスは、一定の成果を出すことを期待して契約を結ぶ。契約に沿って成果に応じた報酬をやり取りする。

だから、成果は一定の責任であり、ビジネスマンならコントロールするべきものだと思うのが自然だ。

そう思い込んできた。ある程度、努力と成果は相関しているように見えがちで、私も長くそう信じてきた。特に、社会的に表面上は上手く渡り歩けてしまった人ほど、それを信じて疑わないのではないだろうか。

この世の多くの人が、その勘違いにハマっている。つまり、仕事の成果は努力次第であり、コントロール可能なものだと思っていると思う。

 

しかし、成果は、実はコントロールできない「変えられないもの」なのだ、と最近感じるのである。

「成果」というものは、『人事を尽くして天命に聴す』という言葉の真の意味の通りに、「人智を超えた理に従って動いている」のではないだろうか、と考えるようになってきた。

 

私自身コントロールできているというのは傲りだったな、と感じることがある。

たとえば、私は約30年、「人生はコントロールできるもの」と教えられ、それを信じて生きてきた。実際は全くでたらめで、コントロールなんてまるでできていなかった。

両親が提示する「正しい道」を信じて、スポーツも学業もできるように頑張り、理想の息子・兄として生きようとした。私は私なりに一生懸命だったと思う。

しかし、一定の表面的な結果は出たが、嬉しくなかった。常に空虚だった。束の間の安心を得るために結果を求めた。

コントロールしなくてはならない事ばかり頭にあり、次第にどんどん生きることはただ辛い作業になっていった。

心には常に穴が空いていた感じだった。大切なものがどんどんその穴からこぼれ落ちていった。私を素通りしていって、焦った。

その穴を埋めるためにエチルアルコール(酒)という合法ドラッグに頼った。私は穴からこぼれ落ちるものを見ないようにするために。

結果、どんどん何もなくなり、穴は埋まるどころか拡がった。

私はアルコール依存症になった。

当時、私は酒なしに生きることは困難だった。そう、生きる事すら困難だった。成果や結果などコントロールできようはずもなかった。でも必死にコントロールできると信じてもがいていた。

コントロール不能なものをコントロールしようとして、私はエチルアルコールの使用方法をどんどん間違えていった。

いま振り返ると、土台無理なことだったのだ、と思う。

「自死を選ばず、ちゃんと寿命まで義務を果たして死ぬ」という「正しい人生」を全うするための最低条件。すなわち生きて立っていること。その最低条件すら、エチルアルコールが無くては全く自信がないほどに、私の心は痩せ細った。

体育会系リア充教

全力で自分ができる準備を、できる限りやり切るのみ。

あとは天に預ける、お任せする。

実はそれが100%なのである。

 

しかし、世の中はポジティブ思考を好み、もてはやす傾向にある。

  • 人生は努力すれば必ず報われる。
  • どんな人も頑張れば結果が出る。
  • 私たちは、今を変えられる。

 

こうした妄信は、一言でいえば、質の悪い宗教であると私は思う。

私はその宗教を個人的に、体育会系リア充教と呼んでいる。

もちろん、頑張ることは尊いことだ。

しかしながら、努力したからといっても報われる保証にはならない。

頑張ったからといってご褒美に必ず成果がついてくる、なんてことはない。

結果が出ないのは努力不足だからでは決してないのだと思う。

そういう定めだったというだけ。

それはすでに私たちの手に負えない領域の話なのだと思う。

こう考えると、無力感で絶望し、全部投げやりになりそうになる。

体育会系リア充教は、そんな自分に自己効力感を与えてくれる。偽りの希望を持たせてくれる。だから信者が多い。

自分の力では何事もどうにもならないという真実から目を背け、絶望しないように縋るには、ちょうどいい宗教である。

みんな血眼になってポジティブワードを喚き散らしながら「当たる!当たる!」と「努力」を積んで博打を打ち続けている感じがする。

人生はクソゲー?

私はゲーム依存症には詳しくない。

門外漢だということを自覚しているが、何となく共感するところがある。

私は「ゲームの世界に浸る」のが好きだ。

私の大学時代は荒廃していた。ゲームの発売日と重要な授業のレポート日が重なり、ゲームしていてすっぽかし留年しかけたことがある。酒を飲みながらゲームの世界に浸るのが好きで、大学の授業は後半ほぼサボっていた。

なんでそんなにゲームの世界が好きか?

それは、ゲームの世界はきちんとしているからだ。一定のルールが必ずある。

経験も無駄にならない。経験値として蓄積される。数値化されて努力が形になる。

失敗したら何度でもやり直しができる。

弱くても、失敗しても誰にも責められない。

 

人生は、ゲームで言えばクソゲーだ。

『ノーゲーム・ノーライフ』というライトノベルで語られている、以下のような世界観に共感するところが大きい。

ルールも目的も不明瞭な中
70億ものプレイヤーが好き勝手に手盤を動かし
勝ちすぎても負けすぎてもペナルティ
パスする権利もなく、しゃべりすぎたら疎まれる
パラメータもなくジャンルすら不明

こんなもの、ただの、クソゲー

 

全くその通りだと思う。特にこの日本は。

不条理でゴールも分からず、生まれたいとも思っていないのに強制参加させられた「現実」というゲーム。

それより、ちゃんと理路整然としていて、やればやるほど成果が出る「仮想現実」のゲームの世界のほうが、楽しいに決まっている。

ある程度コントロールできるからだ。

コントロールできると希望が持ちやすい。ダメでもまた立ち上がる元気が湧いてくる。

私にとっての現実は、そんなイメージではなかった。

失敗したらやり直しがきかないと半ば脅されながら言われたことを必死にやってきて、失敗したら責められ落胆され、失敗できないと縮こまっては「そんなふうではいけない」と逆に叱られ。

生きててこれっぽっちも楽しくなんかない、という気持ちだった。

こんなクソゲー今すぐやめられるのならやめたいと思っていた。

だから、現実よりゲームを取る気持ちは、とても分かる気がする。

 

まとめ:とりあえずエンディングまでやってみようか

しかし、私はまだ生きていたいなと思う。

クソゲーだな、と思って嫌々やってきた。

でも、自分がエンディングまでの道筋をコントロールすることなんて一切できないのだ、と知ってから、逆に楽しくなってきたように思う。

気楽になった。

コントロールできないなら、成功や失敗を考えなくていい。今の状態を楽しむことがミッションだからだ。

そして、実は失敗したってよかったのだ。この現実もゲームと同じように「やってみてダメでもまたトライしてみればいい」という世界だった。

それなら、好きなだけ試して、好きなことをやりたいようにやれる。クソゲーではなかった。

このゲームで私がやりたいのは、今までやろうとしてきた、体育会系リア充教の妄信や虚しいパワーゲームではない。

世の中での成功を目指すことは娯楽の一つだと思う。娯楽なんだから、嫉妬に目が眩んだりしたくない。楽しむものだから、娯楽たり得る。社会的な成功を得るミッション。これはおそらくこの世の本筋とは関係のないサイドゲーム的な位置づけのように思う。

だから、安心して楽しめばいい。他人のパワーゲームを見守っていてもいいし、気が向いたら参加するくらいでいい、と思う。

このゲームは最大限楽しんだもの勝ちで、対戦ゲームではないし、そもそも競うものでもないのだ、というふうに感じる。

最大限楽しめるように、プレイしてみたいと思う。

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【AC】謝罪が『裏返る』

格闘漫画『バキ』を読んだことがある人は、列海王さんを思い浮かべたことだろう。

「毒が…裏返るッッ」

なんじゃそりゃ?と全国の読者が思ったであろう、あの名場面は忘れようにも忘れられない。トンデモ理論で最高に笑える『バキ』のなかでも代表的なギャグシーンである。興味がある人はググってみてほしい。

さて、冗談はさておき、謝罪について今日は考えてみた。

 

謝罪したらもう『終わり』?

2つの本を紹介してもらったことがきっかけで、私は謝罪について深く考えるきっかけをいただいたと思っている。

 

私はとにかく謝ることが苦手だ。

今でも、いざ謝るとなると、動悸がするし嫌な汗が背中にジットリとにじむ。

 

私は親に謝ったとき、一度謝っただけでは許してもらえないことのほうが多かった。

執拗に、陰湿に、ネチネチと繰り返し同じようなことを言われて、謝っても謝っても苦しい時間が続いた。謝る意味はないのではないかとも思った。

クラスメイトにも受け取ってもらえなかった。謝罪をしても、一度やってしまった失敗は取り返しがつかないものだと感じた。だから、謝るときは、関係が終わりをつげ、今まで私が相手に対して感じてきた希望や愛情が死ぬとき、というイメージだった。

そう、まさに、謝罪は『終わり』『死』だった。

そういう暗く重い陰がつきまとう行為を、誰が積極的にしたいと思うだろうか。したい人はひとりもいないだろう。

こうして私は、謝罪を恐れ、謝罪をしなくてはならないような失敗を恐れ、完璧を求めるようになったのだと思う。

 

エチルアルコールによって完璧に叩き潰された私

そんな謝罪を恐れる私も、逃れることができない事態となる。

アルコール依存症になった私は、とにかく人でなしになった。

遅刻したり、約束を破ったり、不安定な精神で人々を傷つけたり。酒害はかかわるあらゆる人に害を与え、私は絶対的に悪くて、謝らなくてはならないことを抱えきれないくらい抱えることになる。

 

そもそも、エチルアルコールという薬物に依存して逃避していたことは、仕方のないことだったと言わざるを得ない。当時私が息をするためには、酒が必要な杖だった。己との向き合い方を間違えたために、使い方を間違い、道を誤った。それは、私にはどうしようもない、生育歴という要素もあったので、なるべくしてなったというか、生きるために必要で、私の人生には必要不可欠な洗礼だったように思う。

私自身、自分でも自覚できていなかった自分の苦しさを本当は認めてほしいと思ってきたようだ。

しかし、酒で道を踏み外した私は、人から見れば「だらしない人」で「甘えた人間」であり、ただの罪人でしかない。

私の言葉は何も拾ってもらえない。

アルコール依存症を罹患し、さまざまな人々に危害を加えた人の言葉は、この期に及んでは何を言っても言い訳扱いであった。

「俺だって辛かったんだ」って思ってる気持ちを抱えているけれども、誰にも受け止めてもらえないから、なかったことにしようとしていた。

でも、できなくて、苦しんでいた。

なぜできなかったかというと、圧倒的に自分の罪が重すぎて、自分の気持ちを受け止めてもらうなんて、おこがましいことだと思って封殺したのだ。

自分を理解してもらうことを、気持ちを表現した言葉を否定されてきた経験の積み重ねにより、学習性無力感に陥っていたと言ってもいいだろう。

学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん、Learned helplessness[1])とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である。他の訳語に学習性絶望感[2]獲得された無力感[3]学習性無気力[4]がある。

出所:Wikipedia「学習性無力感」

「どうせ私はもう終わった人間なのだから」

「生かしてもらっているだけでもありがたいのだから」

という卑屈なセリフの裏に、『認めてほしい』『理解してほしい』『話を聞いてほしい』『諦められたくない』という、切実な叫びが隠されてる。

しかし、本人ですら深い深い心の奥底にしまいこんで、見ないようにするのだ。

 

それにより問題が発生する。

私たちは、そうやって気持ちを見ないようにしていると、他人にもその生き苦しさを強要しがちだ。

「なぜ俺が認められないのに、あんなテキトーにやってるやつが認められるんだ」

「私のほうがもっとがんばっているのになぜ」

と、『他人の不完全さ』が許しがたい感情に支配される。

私を否定するお前らが、なぜそんなに不完全なんだ、という怒り。

それは、自分自身の心や思いを他人に受け取ってもらえていない悲しみが、他人に対する怒りという別の形で表出しているのである。

 

こうして、私は謝る準備ができないまま、とにかくひたすら頭を下げなければならない場面にさらされて、卑屈に歪んだ。

1億%こっちが悪いし、ほぼ許してくれない。

「二度と顔見せるなカスが!」とか言われるのデフォである。

だから、当時の謝罪のイメージはもう「なますに切り刻まれる覚悟で焼き土下座」って感じだった。

そうやって私の心は謝罪に叩き潰されていった。

当時の私にとって、謝罪は毒そのものだった。

 

謝罪が裏返る

そんな毒である謝罪が『裏返る』ということを、私はのちに経験する。

 

私は長らく、素直に謝るのは難しい時間が続いた。

まずは受け入れられることが重要だった。

「自分のことを話していいんだ」「あ、俺って辛いと思ってたんだ」

話を聞いてもらえてから、そういう気持ちに気づく。

 

その土台があって初めて、やっと罪そのものにようやく向き合えるのだ。

初めてやったことの取り返しのつかなさがわかる。

謝ることが心底恐ろしいと感じる。謝ったりしたら、それで受け取ってもらえなかったら、もう自分は生きてちゃいけないんじゃないかと思う。

謝罪をする、本当の恐ろしさをまだ知らなかったと言える。

自分のために謝るよりも、相手のことや心情を真剣に考えて謝るほうが、よほど恐ろしいことに気づく。

これがとても重要である。

『自分がこれだけ相手の気持ちに寄り添えるなら、相手だって、自分の気持ちを大事にしてくれる可能性があるかもしれない』

ということに気づくからだ。

同じくらい大事にできるという可逆性に気づくと、他人を大事に考え行動することが、自分をも大事にする行動なのだと気づく。

裏返る。そうなると裏返る。

謝ると救われた気持ちになるのは、利己的な思考を捨てて他人のことを純粋に考えた謝罪を行うことにより、結果的に自分自身の尊厳を重んじることができるからだ。

「自分も大切にしてもらえる」という可能性は、私がそう思い行動できる限り消えないからだ。何よりも知覚しやすい生きる証明になるからだ。

つまり、自分の生き方そのものが、自分が大切にされるべき存在だという、確固たるエビデンスになる。

だから自尊心を取り戻せるし、謝ることが、恐ろしいだけのことじゃなくて、尊いものに変わっていく。

自分のなかで、毒ではなく、清い美しいものに変わっていく。

謝ることって、相手に寄り添えば寄り添うほど、相手も自分も救われる、尊いことなんだな、と今は思う。

教えてくれた尊敬すべき仲間に、心から感謝したいと思う。

 

【AC】「権威ある人を恐れること」を受け容れて見えてきたこと

以前棚卸ししたこちら↓のテーマである「権威ある人を恐れること」について考えていて、ふとむかしのパワハラ上司を思い出しました。

【AC】12step-step4に基づくわたしの棚卸し記録⑪(権威ある人を恐れること)

 

前職の上司「Sさん」

私の前職の上司のSさんは、私にとって『権威ある人』でした。

社会人になりたてホヤホヤで右も左もわからない新人の私から見れば、Sさんは大企業での仕事も経験しているし、当時発足した東京営業所の所長を任されており、ビジネスや社会人の常識という面で「正しさの象徴」のような存在でした。

だから、Sさんに言われることをひとつひとつ真面目に受け取りすぎ、また、評価されないことをとても恐れていたと思います。

 

「こんなに使えないなんて裏口入学なんじゃないの?w 本当にその大学卒業したの?w」

「社会人になったら信号が三色なのも全部自分のせいだと思えよ、言い訳すんなお前。」

「誰もお前になんて興味ないからw 自意識過剰だっつーのw」

「なあ、今、俺がしゃべってんだよ、聞け。しゃべるな。」

「大企業だったらとっくに終わってるよ、お前。」

 

こういう物言いをする人でした。

言い方も伝えていることも、完全にパワハラでありモラハラなのですが、彼はホリエモンがバリバリだったころのIT業界にいたので、業界的に教えられたルールがブラックだったのでしょう。それが当たり前だと思っている節がありました。

こういう接し方をされて私はひどく傷つきました。アルコール依存症はもちろんのこと、うつ病も併発していたと思います。

当時は毎日が死にたいほど暗く重く、食事をしても味がしないし酒量はどんどん増えていきました。

 

彼も人なり我も人なり

彼がしたことは、私に謝罪するべきことです。

なぜなら、私の尊厳や自尊心を深く傷つけたからです。冗談だったとしても、傷つけたことをなかったことにはできません。私にとって、その点において彼を許すことは、彼からの謝罪なしには難しいことです。だから、許す必要はない。

 

それとは別に、「ああ、もう今更怒ってもしかたないことだったのかもな」とも思います。

つまり、『怒りを手放す準備』ができたのだな、と感じます。

 

というのも、彼は当時私と同じくらい、つまり30代でした。(彼は外見が老けていたので、記憶ではもっと年上の印象ですが)当時の彼は、私と同じく、何も知らないただの若造だったのです。

私がいかにいろいろなことを知らないかということを鑑みるに、彼もまた私と同じように、「自分の見てきた世界が全てで、何でも知っている」と考えていたのでしょう。

それでいて、自分が知らないことに恐れを抱いていて、正しさで誰かをマウントして押さえつけることに躍起になってしまったのだろうな、と思います。

まさしく私が陥っていた姿です。

恐れていた彼は、とても大きく強大に見えましたが、実は私と同じくらいの大きさだった、ということです。

 

 

何となく気になって彼の名前を久々に思い出し、Googleで検索してみました。

彼は、いわゆる大企業と呼ばれる会社(売上6000億くらい)で成果を出しながら、ビジネススクールに通ったそうです。

そこで出会った人々と異業種で起業する夢を追いかけてフリーランスになって、私たちがいた中小零細企業に、雇われ所長で来ていました。

ネットでみる限りでは、今はフリーランスの状態から会社を立ち上げて、自分でつくった小さい会社のCEOをしているようです。

 

彼にはビジネスで成功したい!自分のビジネスをやりたい!というベンチャービジネスへの夢がありました。ビジネスを立ち上げて儲けよう!ということが、彼の成し遂げたいことだったのだと思います。

寝食を忘れて仕事に取り組む姿は、そういう熱意から来ていて、だからこそ尊敬できる面があることを、今なら素直に思えます。当時は、こんな奴死ねばいいのに、と思っていました。

 

しかし、私も「そこまで言うなら大企業で仕事してみたい」と思い、こっそり転職活動をして、彼の2倍ぐらい売り上げがある会社に転職しました。

転職が決まったときは気分爽快でした。

「ざまあみろ!お前なんかより大きい会社に移ってやったぞ!どうだコノヤロウ!!」と思いました。

「このしょぼい会社で、しょぼいことでも一生やってろ!」と心のなかでバカにして後ろ足で砂をかけて会社を去りました。

 

その後。

大企業に勤めてみて、大きい会社だからって何でも優れているわけではないし、むしろやっていることはほぼ同じなんだな、と気づきました。

依存症になって尊敬する人に出会って、フリーランスで生計を立てることのすごさを知りました。

 

その経験を経て、自分のしたことはすごく失礼で浅くて小さいことだったな、と思います。

彼は彼なりに、フリーランスとして妻子を食べさせていくこと、夢を追いかけることに必死に走っている状態だったのだな、と思いました。

彼は完璧では決してなかったし、人材育成には向いていない刺々しさを持っていて、世の中のことを知っているつもりでその実全く知らなかったのでした。

Sさんは、一皮むいてみれば私と同じ弱く浅い無知な人間だったのだな、と気づくことができました。

 

恐れるべき人などいないということ

そう考えると、「私は誰も恐れなくていいのではないか」と思うのです。

社会人として生きてきて、彼が大事だと言っていた「常識」は、それが天の理というわけでは全くなくて、ビジネスの上で良しとされている、というだけのことでした。

つまり価値観の一つであり、Sさんはそれだけしか価値観を知らなかったから、あんなに断定的にしか物事をとらえられなかった。

当時は、Sさんにとって、それが限界だった。今はどうか知りませんが。

みんな弱さを抱えて生きているのに、強いふりをして他人より上だの下だのと言って、安心したい。Sさんが当時無自覚にもやっていたことは「強くありたい弱い者」のすることです。そして、その意味ではみな平等に弱い存在であると言えます。

私はビジネスにおいて成功したいというよりは、お金がもうからなくったって、本当に世の中のためになることがしたい。

その方向性が違っていたから、かけられる熱量とベクトルが違った。

Sさんと私との違いは、そこでした。そして、どちらも好きなように生きればよかったのです。どちらが正解でも間違いでもない。尊重し合うには、お互いに未熟だったね、と思うのです。

 

彼が今何を考え、どうしているかは知らないし、もう今や関係のないことですが、Sさんとの出会いは、「権威ある人を恐れること」の課題について気づきを与えてくれました。

そのことに、今は感謝したいと思います。

そして、恐れる必要などなかった人なのだという爽やかな薫風と一緒に、怒りを手放してしまおうと思います。

 

この世には、絶対的に正しい人も居なければ、絶対的に正しいこともない。

【発達障害】発達障害にとってテレワークは快適だという話

ADHD併存のASDである私にとって、このコロナウイルスにともなう在宅勤務推奨はとても喜ばしいことです。

なぜなら、今までの定型発達者に合わせた働き方は、とても窮屈かつストレスフルで、理解しがたかったから。

今日はその日ごろの鬱憤を愚痴りたいと思います。

 

発達障害の私が会社で働くうえでクッソ嫌だったことBEST5

まずは、今まで何が嫌だったのか、まとめてみたいと思います。

 

①無駄に集まる会議・研修

ずっと何の生産性もない話を密閉された部屋で行います。

酸素が薄いです。人臭いです。密です。

次第に気持ち悪くなります。

しかもずっと座ってないといけない。私は長い間座っていると、体をゆすったり貧乏ゆすりしたり、指をトントンしたくなります。激しくイライラします。でもそれをすると「落ち着きがない」と怒られます。知るか。

どこの国の拷問だったか忘れましたが、背が伸ばせない狭い檻に、長座前屈姿勢のまま縛り上げてずっと放置する拷問があります。

背が伸ばせないので、圧迫感に恐怖感をつのらせます。次第に腰椎が軋み、対象者は悲鳴を上げます。死ぬほどでもないがずっと苦しく痛い状態で放置されるというむごい拷問ですが、まさに会議はそんなイメージです。

 

②フリーアドレスのオフィスで内勤(事務処理)

私は、人が背後を通るだけで落ち着きません。立ち止まられたら絶対振り返ります。

しかもアホみたいに大きな声でしゃべっている社員や、くちゃくちゃ何か食べている社員や、キーボードをたたく音、何かを落とした音、扉をとじる音など、オフィスって騒音がすさまじいです。

こんなやかましい環境で集中するなんて、どだい無理な話です。

それだけでも無理なのに、中身のない話を話しかけてきます。マジで勘弁してほしい。

話しかけられると作業が止まります。ASDは一つのことに過集中はできますが、マルチタスクはすこぶる苦手なので、毎回どうでもいい話で中断させられて、ものすごくイライラします。

しかも、いつ話しかけてくるか、わからない。お化け屋敷で素数を数えているようなものです。びっくりしたら1からやり直し、みたいな感じで、心が折れます。

ふつうに神経が衰弱します。その徒労感といったら、まさに賽の河原みたいな感じです。

それを活発なコミュニケーションのために、固定のデスクをつくらず、フリーアドレスにするなんて狂気の沙汰です。

背後を取られないように毎回律儀にすみっこぐらししているのに、その安全地帯をどうでもいいパリピ社員が奪っていたりしたら、私の内勤はもう実質不可能になります。だからそういうときは帰ります。

 

③即対応しないといけない電話・メール

文明の発展を私ほど恨んでいる人はそうそういないでしょう。

携帯電話やネット技術が発達してしまったことにより、いつでもどこでも社畜に変身できるようになってしまった、この現代社会は軽く地獄です。

「さあ頑張ったしちょっと落ち着こうかな」と思ったら、見計らったように話したくない人から電話かかってきます。あれ何なんでしょうかね?見てるのかな…?と思うくらいドンピシャのタイミングで着ます。

今は外回りが忙しいからそれだけに集中したいってときに限って、「今日中」とか「ASAP(as soon as possible(可及的速やかに)の略)」とか書いてあるメールがきます。追い込むように上司から「返事まだ?」みたいな催促の電話がきます。

「今それどころじゃないっちゅーねん、見てわからんのか?!…あ、見てないからわからんか。」みたいな、振り上げたこぶしをどこに振り下ろしたらいいのかわからない、あのやり場のない感情…。ひとりになって泣きたくなります。

しかもそういう「急いでくれ」という要件に限って急がなくて良かったり、本部の事情でもう一回やらないといけなくなったり、それなら邪魔しないでほしかったよね、っていうことばっかりなので、ものすっごく心が清らかな時にしか、電話は取らないようにしています。

 

④ミーティングや社内企画のスケジュール調整

絶望的に都合が合いません。

いやがらせかと思うくらい、違う日時を指定してくる上司たち。「ほんならもうやめましょっか」って言いたくなります。イライラします。

ていうか、そんな大したことしてないくせになんでそんなに無駄に会議でスケジュール埋めてんだよ。それだけ話して時間使ってたらもっと建設的な話でるだろ。何を話してるんだ毎日。

そもそも、集まること自体に意味がないのです。

今回はっきりしたのは、この発達したネット社会において固定した場所に集まる必要などなく、その制約条件さえなければある程度の人数は仮想空間に集まれるわけで、ミーティングをどうしてもしたいなら、希望者だけでネットでやれば事足りるということです。

それなのに、やたらひとっところに集まりたがる社員が多いこと多いこと。さびしんぼかよ。免疫細胞や血小板の凝集作用じゃあるまいし。無駄に密なんだよなぁ。

しかもせっかく決めたのに、直前になって変更したり、「○○の時間にしていい?」とか聞いてくる、あれマジで勘弁してほしいです。

こっちはもう一日のスケジュールをそれを見越して完璧に組んでいるし、もうそうしないと動けないマインドになっているのに、総崩れします。

もう無理…ってなります。

それがあんまりわからないようで、しっかりここぞとばかりに予定変更して心を折りにくるので、もはや感心しています。

(そういう日はもう何もできないので寝てます。)

 

 

⑤通勤ラッシュ

これは田舎に来たので少し緩和されましたが、都市部で働いていたころはもうこれだけで「はい。今日も一日お疲れさまでした」って感じでしたね。

電車、混む混む。埼京線で足が浮くとか言われて「んなバカなw」って思ってましたけど、浮きました、85kgの私が。

すごいエネルギーです。発電に使えばそれで電車が動くんじゃないかと思うくらい無駄にすごい。ほんとすごい。

ただでさえ人に会いたくないのに、至近距離に知らないおっさんの顔があって吐息がかかる狭い箱に1時間はゆられないといけないこのきつさたるや、筆舌に尽くしがたいです。阿鼻叫喚です。

女性が目の前にいようもんなら、痴漢と疑われないように両手を挙げて予防策を取らないといけません。中年のおじさんと密着しなきゃいけないのは女性だっていやだよな、と思いながら、これしかないんだよな、と諦めて濁った瞳で虚空を眺め両手バンザイを続けるしかありません。飛び立ちそうです。

車もイライラします。今は社用車で通勤していますが、割り込むわ、ウインカーださねーわ、急ブレーキするわ、俺をイラつかせるために運転してくれてるんですか?ってくらい1日20回はイラつかせてきます。しかも朝・夕に集中してやってくるんですよね。

みんな急いでるんだろうし、行きたくもないところに行くので気持ちもささくれ立ってるんだと思います。

 

 

集まる必要性がないなら、時間や場所は各々好きにすればいい

さて、発達障害関係なくただの愚痴になってきた感が否めませんが、こんな感じでイライラする一番の原因は、「朝定時に出社しなくてはいけない」だったり「会議で集合しなくてはならない」という、場所や時間を限定する働き方に起因していると思うんですよ。

今回コロナウイルスでリモートワーク・在宅勤務が推奨されてはっきりしたのは、

「なんだ、集まらなくてもいいんじゃん」

ってことです。

集まらなくても、まわるんですよやっぱ。

うちの会社なんて月に2回1日中会議してましたけど、それがそもそも必要ないけど、少なくとも集まる必要だけは確実になかったってことです。

おかげで、この縛りがなくなるだけで、クッソ嫌だったことの①②④⑤は解消されました。

めっちゃ快適です。うれしー!!もうずっとこのままでいてほしい!!

だって聞いてるふりして適当に聞き流すことだってきるんです。周囲に監視の目が無くて、後ろをだれぞが通ったりしなくて、静かで落ち着ける環境ならば。

つまんなかったらゲームしてればいいし、本読むのもいいし。特にワンウェイで垂れ流されていて聞いてくれと言われているような一方的な配信の場合、結局一生懸命聞いても大したことはしゃべっていません。

話すべきことだけを短時間でオンラインで話し、各々好きに時間を使える…これ以上に素晴らしい事があろうか。いや、無い。(漢文の反語形なつかしい)

 

ASDの特性からなぜ快適なのか考える

ASD(自閉症スペクトラム)という発達障害は、一般的に以下のようであると言われています。

  • 騒がしい場所が苦手
    聴覚の過敏さから、騒がしい環境が苦手です。音の刺激が強く不安定になりそうな場合は静かな場所に移動したり、耳栓やイヤホンをつけるなどの対策がとれるとよいでしょう。
  • 情報受信が特異的
    曖昧な情報を理解することに苦手さがあります。情報伝達の際には、以下を意識しましょう
    ▶文字やイラストを使う
    ▶×抽象的 〇具体的
    ▶「走らない⇒歩く」など肯定的に
    ▶端的に段階的に
  • 感想を表現することが苦手
    “正解”のない感想を表現することに苦手さがあります。焦らずに「つまりxxということ?」と問いかけながら言葉を引き出すなど、本人の思いや考えを言葉にするためのサポートができるとよいでしょう。
  • 突然の予定変更が苦手
    先の見通しが立たないことに不安感を覚えることがあります。急な変更は避け事前に情報を伝えられるようにしたり、どうしても変更が必要な場合は意図や理由を伝えましょう。
  • 失敗への恐怖心が強い
    失敗することへの恐怖心が強く完璧主義になることがあります。段階的に耐性がつけられるよう「惜しかったね」と婉曲的に伝えるなどの工夫が必要です。”失敗しても大丈夫”という経験を積んでいきましょう。

出所:【図表でわかる!】ASD(自閉症スペクトラム・アスペルガー)の特徴 | ASDって何?どんな困りごとがあるの?

これらは定型発達者の目線でかかれているのか、若干「定型より苦手なことが多い」みたいな書き方ですが、わたしたちからすればこんな不条理な、しかも変えられることなのに、理由もなく変えないで耐えようとする定型発達者とは、やはり感覚が違うとしか言いようがありません。

しかし、私が先ほど列挙したクッソ嫌なことと見事に合致しています。

つまり「苦手な人もいるんだし、ただ選べるようにすればいいだけなんでは?」と思います。

 

まとめ:このままテレワークが定着してほしい

会議は自由参加にして、参加したい人で話し合えばいいし、話し合うにしてもリモートで参加できるようにすれば、参加できる人は増えるでしょう。

それじゃあ参加してくれなくなる?

そりゃあ、意味ないって思われてるからです。それに誰もしたくないから集まらない、したくないことなら、しなければならない理由を明確にするべきです。

ああ、どうしてもしなくちゃいけないんだな、ってわかる合理的な理由があれば、みな参加するでしょうし。

理由もない、意味もない、やりたいひともいない。

そんなこと、やめちゃえばいいのに、ということをいつも思います。

でも、いうとみんなそれを言っちゃおしまいよ…みたいな顔します。意味が分かりません。

このコロナウイルスのパンデミックが、人が集まるリスク・ストレス・環境に対する感じ方の多様性について、みなが深く考える良いきっかけになったらいいな、と思います。

【仕事】会社の指示に従うことがつらいひとへ

会社に勤めている人にとって、共通の悩みなんじゃないでしょうか。

「今日中にあれをやれ」

「早くこれをみろ」

「なぜまだできてないんだ」

朝令暮改のくだらない指示が雨あられと降ってきます。その処理に右往左往していると、疲労感だけがずっしり肩にのしかかってきますよね。

そんなひとにぜひ読んでほしいなと思って書きます。なぜなら、私がそうだったから。

 

実は、会社の指示は真剣にやらなくてもいい

そんなわけないやん、と思うでしょう。

でも、私自身試してみたんですけど、事実でした。

提出物、リモート会議、営業ノルマ、KPI(Key Performance Indicatorの略で、日本語に訳すと「重要業績評価指標」という意味)。

これらを一か月間、形だけやっているふりをして、一つも真剣にやらないことにしました。

全部内心で無視してみたんですよね。そうしてみたら、誰もそれに気づきませんでした。

そして、驚くべきことに結果(売上や伸長率)も変わりませんでした。

それでいて、無駄が省かれて、私の心はとても落ち着いていて、穏やかでした。

当然、上司や他の従っている人は、私が指示に従うようにコントロールできなくてイライラしたり説得したりしようしているようでした。

しかし、結果が変わらないので、次第に黙りました。

 

 

意味がないのに「従わないといけない」と思い込んでいる理由とは?

結果が変わらないとしたら、私たちはなぜやらないといけないと思うのか?

なぜ、イライラし焦り、やりたくないと愚痴りながらもやろうとするのか?

 

それは、「もし従わずにうまくいかなかったとき、会社に言い訳ができない」からです。

 

会社の指示に従っている限り、うまくいかなくても「会社の指示が間違っていたからだ」という言い訳ができます。評価者から責められたときの私たちの心の安全を守ってくれます。

実は私たちは、「従いたくない」と言いながら、メリットがあるからあえて能動的に選択しています。従えば責任を負わずに済む。だから私たちは嫌々やるべきだ、それが仕事なんだ、と思って我慢しています。

そう、実はやりたくないのに我慢しています。それでもやる理由は、デメリットを上回る「責任転嫁」のメリットがあるから。

 

見定めないといけないのは、「本当にメリットがあるのか?」ということです。

会社は結局、結果が悪ければ守ってくれません。

失敗をすれば切り捨てるし、結果が出ない場合は契約更新してくれません。

結局は、なんだかんだ言っておきながら、私たちのことを深く考えてくれてなどいないのです。

替えがきく労働力。それが日本という国の、企業という組織の、労働者に対する扱いです。

つまり、どれだけ尽くして会社のために何かをしたとしても、報われる可能性はそこまで高くない。非常に効率が悪い。「慈善事業」に近い。ただの善意のボランティアです。

 

会社に使われるな、こちらが使ってやれ

私たちは、会社のほうが、労働力が必要だから、提供してあげているのです。

雇ってもらっているのではありません。

雇われてあげているのです。

雇用関係というのは対等です。契約に基づき労働に見合った賃金を支払う、というフェアトレードです。

 

だから、相手が望む最低レベルをきちんとこなしていれば、とやかく言われる筋合いはない、ということです。

 

逆に、会社を使いましょう。

会社はツールです。個人ベースではできないことを、組織の力を借りて実現することができる。それを可能にするために、私たちは能動的に会社に所属している、と考えましょう。

会社に尽くすことが生き方を磨く、みたいな稲盛和夫さんの時代の考え方は、正直もう不可能だと思っています。不平不満を漏らさず「自分は素晴らしい会社に勤めているのだ、素晴らしい仕事をしているのだ」と自己洗脳するには、あまりに報われない不義理が行われているのが現実です。稲盛和夫さんの時代のような終身雇用制度はもはや崩壊し、上が下を育てるような愛情は希薄になっています。

この時代、わたしたちには「この会社を選ばない選択肢だってある」と気持ちの上では組織と自分を切り離すことが重要です。今あるツールとして会社をこちらが使って、スキルアップすればいい。その結果、自分が実現したいワークスタイルが確立できればいいのだと思います。

 

まとめ:私たちは縛られず、好きにしていい

そう考えると、会社に従う価値は、どこまであるのでしょうか。

私は、会社に何度も改善提案をしてきました。

方針や指示に矛盾が有ったり、効率が悪かったり、意味がないことには、エネルギーを最大限に割いて真摯に提案してきました。

しかし、会社は「それはわかるけど、もうすでに決まってしまったから動かしたくない」ということで、何も汲んではくれませんでした。

私はここで底打ちしたといいますか、会社の方向性はもう私には影響できないものなんだな、と悟りました。「もっとこうしてほしい」という願望を持つことを諦め、コントロールを手放した境地に至りました。

そうすると、「もう好きなだけ、好きなようにやったらいいんじゃないかな」と思って聞き流すことができるようになってきました。

やりたいんだったらやったらいいと思います。結局やってもやらなくても同じなら、やって上司に評価されようと、やらなくて評価されなかろうと、私の本質的な価値は変わらないのです。ならやらなくていい。

お互い、好きなようにやったらいいんだなって感じます。

「給料分の、会社が株主に提出しなければならない『やってる雰囲気』は整えるよう協力してあげるから、まぁ好きにがんばってみて」と思って、会社の向かう方向を俯瞰して眺めることにしました。

納得してないことを無理にやらなくて良いって、分かりました。

もういちいち全部真面目に取らなくても良いんだなって思って、気が楽になりました。

 

あってるとか、間違ってるとか、やってみるまでわからないんですよね。

自分で思い描いたことは、やってみるまでわかりません。

私がやりたいやり方は本当はやってみたら効率が悪かったり間違ってるかもしれません。会社のやりたい方向性が結果的に成功するのかもしれません。

つまり、会社の方針も、個人の方針も、現時点では良いも悪いもない。

結果が出ないから悪いわけでもないし、結果が出たから正しいわけでもない。

結局、最も重要なことは「今ココの自分が、納得してやれることかどうか」だけなんですよね。

結果がまだわからないなら、確か道しるべはそれだけです。

だから、誤魔化さずにやりたいことを、あなたが決めてやるだけでいいのです。

そう、あなたが決めていい。やるかやらないかは。

それぞれ、会社も私たちも、やるときめたことをやればいいだけ、実はシンプルだった、ということです。

 

ちなみに、他の社員がイライラしたり不安になったり、上司が言うことをきかせたいっていうのは、実は相手のなかの課題であって、私の課題じゃないんですよね。

他人は鏡にすぎません。人は他人を鏡に見立てています。

うつった自分に対して、抱えているイライラをぶつけたり、怒鳴ったりしてるわけです。

だから、本質的には自分が言われてるわけじゃない、と思うと気が楽になります。

私たちは、私たちそれぞれの声だけに従えばいい。

シンプルに生きましょう。

【発達障害】ASD(自閉症スペクトラム)としての生きづらさ

発達障害の私の特性は、人を傷つけやすい。

 

①中断させられること

たとえば私は、一つのことに集中しているときに煩わされるのが、ものすごくストレスだ。

ブログを書いているとき。

仕事をしているとき。

食事をしているとき。

寝ているとき。

何かをするためにマインドセットした後に、それを中断しなくてはいけないとき、神経がブチブチと音を立てて断裂するような感じがする。

精神が千切れる音がする。

また集中し直そうとしたときには、完全に気が削がれていて、思い描いていたことが霧散している。

そんなことが繰り返されると、もう何もしたくなくなる。したいと思っていたこと、したいという感情自体が、煙のように消えてしまう。

他人と接する可能性があるときは、いつ何時でも自分がやっていることより他人のタスクを優先できるようスタンバイしておかなくてはならない。

つまり、100%集中などできはしない。

100%集中して作り上げたものでなくては、不満は必ず残る。やり切っていないからだ。全力を尽くしたと言えないものを、私は私自身が好きになれない。

せっかく気持ちを多少込めたとしても、それを見るたびに「邪魔さえされなければ」という我執が首をもたげる。そんな不快なものは、いっそ存在しないほうがいい、とゴミ箱行きになる。

私の文章も、考えていることも、取るに足らないチラ裏にでも書いておけよという内容かもしれない。実際そんなレベルのものだ。それの多少の良し悪しに拘って何になる、という思いもあるにはある。

しかし、私が今まで綴ってきたものは、そのときそのときの全力のひと振りであり、だからこそ読み返したときに気づきがあるのも事実だ。

だからのめり込んでしまって、周りが見えなくなる。

 

②予定変更

たとえば、予定変更があると、動揺するしイライラするし、パニック状態になりやすい。

あらかじめ考えていた予定や効率や心構えを、一度全部ぶち壊しにされる。本当に挫けそうになる。

「なんだそのくらい、さっさと気持ちを切り替えればいいじゃないか」と言われるけれど、みんなどうやってやっているのか、本当に不思議でならない。

感覚的には、数日かけて進めたゲームのセーブを全部消されたくらいのインパクトがある。それを「そのくらい」と捉えてさっさと切り替えて過ごすなんて、私は何回輪廻転生してもできる気がしない。

もはや悟りを開き何にも動じない心に至るしか道はないと思っている。

予定が変わってしまったら、とにかく深呼吸して、落ち着く。呼吸に意識を集中させる。

でないと、気づいたらパニックになっていて呼吸をしていないことがあるからだ。呼吸がうまくできずに、ノルアドレナリンが放出されてどんどん気持ちが不安定になっていくから、最初が肝心。

 

生きていかなくてはならない

こんな調子で、恐る恐る生きている。

この世で、社会的な生き物として、つまり人として暮らしていくためには、常に他人がすぐそばにある環境に適応しなければならない。

予定変更など日常茶飯事だ。そうなってもパニックになったり、人や物に当たってはならない。

 

それだけのことだと思われる、それらのことが、とてつもなく難しくて辛くなる。

その場に応じたTPOをわきまえ、自分のタスクは確実にこなしつつ、他人にも気を配り、社会全体の最適化を目指さなければならない。

なぜなら、それができない場合、一番近くにいる誰かを蔑ろにしたり、邪魔されるストレスをぶつけたりして、傷つけてしまうからだ。

 

私は人を傷つけたくない。

でも、生きている限り傷つける。

ASDとしての生きづらさはここにある。

生きているだけで、ストレスなのだ、この世は。

私が人を傷つけずにいるためには、究極で言えば、私がいなくなることだと思う。

ゼロになればマイナスは生まれない。何をかけてもゼロだ。存在がない、ということはある意味で「影響を及ぼさない」という価値がある。

自分が自分らしく生きてあまり社会的に難だと思われない人には分からないだろう。不協和音を奏でることしかできない亜種として生きる人の気持ちは、亜種にしかわからない。

精いっぱいやってきたつもりだが、さらなる改善を見込むためには、自身の心情と思考プロセスの説明を簡潔に分かりやすく伝える技術が不可欠だ。

だからこそのアサーティブネスなのだが、今はなんだかすごく疲れた。

【仕事】働きながら専門学校に行きたい人が押さえるべき4つのポイント

このたび、私は2年間かけて社会福祉士という国家資格に挑みました。

働きながら国家資格(社会福祉士)を取るってどんな感じなの?

特に何を押さえればいいの?

という疑問にこたえようと、まとめてみました。

 

「社会福祉士」とは?

社会福祉士は、いわゆる「ソーシャルワーカー」と呼ばれる社会福祉専門職の国家資格です。

身体的・精神的・経済的なハンディキャップのある人から相談を受け、日常生活がスムーズに営めるように支援を行ったり、困っていることを解決できるように支えたりすることが主な仕事となります。

また、他分野の専門職などと連携して包括的に支援を進めたり、社会資源などを開発したりする役割も求められます。地域を基盤として、さまざまな場所で活躍しています。

1987年の「社会福祉士及び介護福祉士法」制定と同時に誕生し、少子高齢社会がすすみ、さまざまな福祉的課題が注目される現在、社会福祉士への期待はますます高まってきています。

 

※国家資格には「名称独占」と「業務独占」の2種類の資格がありますが、社会福祉士の資格は「名称独占」です。資格を持っている人だけが「社会福祉士」と名乗れますが、業務に関しては資格を持っていない人も行うことが可能です。医師や看護師などの資格は「業務独占」となります。

 

仕事の内容は?

社会福祉士の仕事の範囲や対象は多岐にわたります。

お年寄りや身体・知的障害者、ひとり親家庭などの相談にのり、それぞれの状況に応じた支援を行います。また、行政や医療機関など各関連施設をつなぐ役割も担います。

社会福祉士資格取得者が働く職場としては社会福祉施設等が多く、その他社会福祉協議会、医療機関、行政機関、独立型社会福祉士事務所等が代表的なものです。

 

資格を取るまでの道のりは?

社会福祉士の資格を得るためには、「社会福祉士国家試験」に合格しなければなりません。

国家試験を受けるまでにはさまざまな道のりがありますが、大きくは大学等で指定科目を履修する、短大等で指定科目を履修して実務1~2年を経験する、養成施設を経る、指定施設で実務を5年以上経験するという4つのルートに分けられます。

※受験資格の詳細は、公益財団法人社会福祉振興・試験センターを参照ください。

 

つまり、現在働いている人で全く福祉にかかわりがなかった人で、4年制大学を卒業している人は、社会福祉士一般養成施設(実習込みの福祉系専門学校)に1年以上行けば国家試験を受ける権利を得ることができる、ということです。

 

社会福祉士国家試験について

国家試験は、年1回2月初旬に行われます。

筆記試験のみで、5つの選択肢から原則、正しいもの(適切なもの)を選ぶ形式です。

だいたい毎年4万人くらいが受験して、1万人くらいが合格(合格率25~30%)の試験です。

 

■第31回(2018年度)受験データ(厚生労働省発表)

受験者数/41,639名(43,937名)
合格者数/12,456名(13,288名)
合格率/29.9%(30.2%)
*( )内は前年データ。

 

参考:社会福祉士とは?(中央法規)

 

働きながら通える通信制専門学校

1年8ヶ月、私は専門学校生となり、無事卒業しました。

肝心な学費は、トータル 36~40万円前後でした。(教科書・実習費用込み)

「スクーリング」という学校へ実際に行き、講義を受ける日が11日間あります。いずれも、土日や大型連休に合わせて、仕事に支障があまりないようにスケジューリングされています。

「レポート」の提出が通学の証明となります。2か月に1回4通、40回ほど、約2000字のレポートを提出しました。これは仕事をしながら、空いた時間を見つけて書きます。テキストを読み、設問に対応する小論文を作成するようなイメージです。これで、100点満点中60点以上を毎回とれば、無事卒業となります。

「相談援助実習」が、働いている人には一番厄介です。

入学時に実務経験が1年未満の方(2020年3月31日時点で実務経験が1年以上ない方)は「相談援助実習」の履修が必要です。社会福祉の現場で実習を行い、相談援助に関する専門知識や専門援助技術、関連知識を学びます。

実習は、学校が指定する施設において、180時間以上(23日間)実施します。

時期は、スクーリング「相談援助実習指導(実習前)」受講後、だいたい1月~8月となります。

参考:日本福祉教育専門学校HP 四国中央医療福祉総合学院HP

 

押さえるべきポイント1:あらかじめ上司に了解を取る

事前に許可を取らなくてはならないのは、「相談援助実習」の実習期間、休みをいただくことです。

180時間以上(23日間)というと、ほぼ1ヶ月まるまる職場を離れることになります。なぜなら、実習は可能な限り連続して経験しなくてはいけないからです。

なので、どうしても出席しなくてはいけない会議以外はすべて有給休暇や代休を繋げて休ませてもらうことに、上司に了解をもらわなくてはなりません。

有給休暇は労働者の義務なので、本来であれば自由に取る権利があります。なので、上司が「困る」と言ったとしても、権利を行使して強行することは可能です。

しかし、現実的には一応了解をとるのが一般常識とされているので、事前に相談しておきましょう。あとあと「聞いていなかった!」などと騒がれて実習中に連絡されても迷惑ですし。

ちなみに、私は事前に直属の上司とその上長とその上にも了解を取り入学手続きをしたにもかかわらず、夏が来て休むことを改めて確認したとき「聞いてない!」と言われ、呆れ返りました。聞いていないわけないだろ、アホか。

 

押さえるべきポイント2:あえて仕事を詰めこみ過ぎない

実は、レポートが結構大変です。

学校によっては、手書きを強要されたりします。(コピペ防止のため)

私の通っていた学校も途中まで手書きでした。私は課題をため込む典型的なサボりタイプなので、2か月ごとに2000字×4通=8000字のレポートを一晩で書いたりする羽目になり、泣きそうになりながら腱鞘炎一歩手前の手を引きずり、なんとか卒業した感があります。

真面目な皆さんにおかれましては、こんなことはないかもしれませんが、日ごろの仕事を詰め込み過ぎると、こんなことになってしまうかもしれません。

私は仕事で手を抜くことが当時、とても下手っぴだったので、全力でやって夜は泥のように眠り、土日は疲れて何もできない、ということになっていました。

なので、学校に通いだしたら、少し仕事のスケジュールは楽をするようなイメージでスケジューリングして、レポートを書く時間を少し開けるくらいの余裕があったほうが、いいなと思います。

土日にやろうと思っても、結構やれません。家庭の用事が入ったり、スクーリングが入ったり、結構時間ないです。平日にやれるように、調整したほうが無難です。

 

押さえるべきポイント3:試験対策は3ヶ月前からはじめると楽

せっかく2年近く学校に通っても、国家試験に合格できなくては当初目的としていた「社会福祉士」は取れません。

なので、国家試験の試験勉強はしっかりやる時間を必ず確保しましょう。

19科目あり、そのどれかで0点科目があると無条件で落ちます。

合計で60%が合格ラインとされていますが、その年の難易度により合格ラインは上下します。

だいたい100点以上取れていれば確実ですが、そうすると67%、約70%点数を取れなくてはなりません。この点数は過去問を見ていただいたら分かると思うのですが、結構勉強しないと取れません。

少なくとも3ヶ月は真面目に勉強する時間を設けたほうが無難です。

私の参考にならない試験対策レポートを、以前ブログにあげたので、もしよかったらご覧ください。勉強方法だけは参考になるかもしれません。

【社会福祉士】私はこうして5日間で合格率30%の国家試験に合格した(2020年最新版)

 

押さえるべきポイント4:学費サポートを活用する

失敗したのがこれです。
「専門実践教育訓練給付金」というのがあります。

「学費クッソ高いやん…」と思った方。ちゃんと卒業したら、お金50%戻ってきます。

教育訓練経費(学費)の50%に相当する額(最大40万円)が支給されます。さらに、資格取得をし、かつ修了した日の翌日から1年以内に一般被保険者として雇用された場合、教育訓練経費(学費)の20%(上限16万円)が追加で支給されます。

私はこれの申請時期をうっかり逃してしまいました。妻にめっちゃ怒られました。学費が40万円だったら、20万円返ってくるからです。

これはマジで本当に後悔しているので、専門学校の人によく話を聞き、ハローワークで現職の勤務状況と照らし合わせて支給対象になるか確認に行きましょう。ハローワークで所定の手続きが必要だからです。

※制度に関する詳細は最寄のハローワークへお問い合わせください。

 

まとめ:仕事をしながら資格取得するのは楽しい

「仕事をしながら学校なんて通えるかな」

「私はそんな余裕ないから」

と思って、興味がある資格取得を諦めかけている、そこのあなた。

やる前から諦めてしまったら、もったいないですよ。

あなたなら、できます。大丈夫。

 

資格取得のために通学する学校では、同じように働きながら資格取得を目指す仲間に会えます。本当にみんないろいろな仕事をしていて、異なる人生経験を積んでいます。全く知らなかった世界が開けます。それだけでも、学費を出して知らない世界に飛び込む価値があります。
トライすることに意味があります。応援しています。

【AC】Step8「傷つけた人」その④『高校からの同級生Sさん』

step8.傷つけた人の棚卸しです。

 

Sさんとの関係

Sさんは、高校時代からクラスメイトでした。

小さい頃からピアノを習っていたそうでショパンやラフマニノフやリストが弾ける子でした。学校の成績は良く、顔も良かったので、リア充寄りのキャラクターでした。

私みたいな根暗は本来なら縁遠いタイプの人でしたが、高校時代はテニスで県内ベスト4で「スポーツができる人」と一目置かれていたことと、共通の特徴として、教師に非常に反抗的な性質を持っていたことから、よくつるんでいました。

彼との関係が一変したのは、大学受験からです。

私はある程度の私立大学に合格し、彼は上を狙って全て落ちました。

彼は正直、学力の面では自分の方が上だという優越感を、私に対して抱いていたようにみえました。私より偏差値の低い大学に行くのは、プライドが許さなかったのか、留年して大阪にある河合塾の予備校に通い始めました。

私が大学で狂ったようにエチルアルコールを摂取し始めたのと同じように、彼もまた酒を飲み、あまり真剣でない予備校仲間に唆されて、夜遊びが中心の生活を送るようになりました。

当然学力の向上は見込めず、彼は現役のときに合格できた実力よりも偏差値の低い大学に、行かざるを得なくなりました。

それから彼は私に対してコンプレックスを抱くようになりました。会っても私より優れているところ、つまり容姿や女性ウケの良さを自慢するようになりました。

かつて教師という共通の敵を持っていたころの関係の心地よさは消え失せ、徐々に居心地の悪い間柄になっていきました。

そして、私が4年の大学生活を終えて最初の会社に就職するころ、彼は統合失調症を発症しました。

 

自分の自尊心を保つために彼を利用した

私の反省は、ここから深いものになります。

なぜなら、私は彼を自分の自尊心を保つために利用したからです。

私は就職はしたものの、ブラックすぎるベンチャー企業の実態に「失敗した」という忸怩たる思いを抱えていました。

酒に逃げたのと同様に、私を安心させてくれる「下」を探していました。

それがSさんでした。

彼が連絡してきて、「今中学生と付き合っている」とか「オタサーに入って一番モテている」というような自慢話をしました。大して興味もないくせに彼の話を聞いたのは、自らの欲求を満たすためでした。

すなわち、彼を下にみて「こいつは俺より何もない」と確認し、安心したがったのです。「まだ女の話なんかして、バカじゃないのか、それしか話すことがないのか」と馬鹿にして腹の中では嗤っていました。

とてつもなく醜い心でした。

「彼がさびしいだろうから」などと優しさを取り繕った吐き気を催す建前に隠して、こんなにも利己的な本心を持っていると認めたくなかったので、私は無意識に目を背け続け、努めて認識しないようにしました。

私は彼が、自分が働けていないことを気にすると容易に想像できていたのにあえて「仕事がいかに大変か」「どれだけやりがいがあるか」というような話をしました。

彼が目をピクピクさせながら聞くのを見て日頃の溜飲を下げました。

 

対人依存が決定的になった借金

彼の統合失調症は悪化しました。

あるとき、「治療費が払えなくなった」「金を貸してくれ」と彼から言われました。

それは甘美な申し出でした。

頼られる、養う、そういう扶養側の立場にいることで、もはや朧げだった存在意義を繋ぎ止めるのに、彼を利用できるからです。

渋るふりをして、私は内心いそいそと、30万を用意したのでした。

完全な対人関係依存だったといま振り返ると、思います。

金を貸した側という正しさを振りかざして、自分が彼を利用したくせに、なかなか返ってこないばかりかさらに上乗せで借金を申し出てきた彼を罵倒しました。

人を正しさで攻撃することは、気持ちの良いことでした。

彼を責めている私は正しい、彼が間違っているのだから、相対的に私が正しい、なぜなら是正する側なのだから、という考え。

下を捕まえて叩きのめすことで自分の自尊心を回復させようという下卑た意図がありました。

彼の病気を理解しようとせず、「働こう、返そうと思えば返せるはずだ、それがないのは、返す気がないからだ」と言いました。

「絶交だ、そんなようだとこれからも友人をなくすよ」と言いました。

自分が精神疾患に罹り、それがどれほど酷い言葉かよく分かりました。働きたくても働けない、そんな状態だったかもしれないのに。そんなとき、こんな言葉をかけられたら、私はとても辛い気持ちだったでしょう。

 

謝罪のことば

彼がどうしているかは、今はわかりません。

Sさん、私は自分のために、あなたを下に居させて利用しようとし傷つけたことを、心から謝ります。

本当に申し訳ありませんでした。

金を返す返さない、そんな問題より先に、私はあなたを傷つけ、追い詰めるような接し方をしました。自分のことしか考えていませんでした。

あなたにも尊敬するべき個性があり、目に見える物差しで推し量ることなどできない尊厳があったのに、それを当時わからずに貶めました。

私なら許さないでしょう。

そういうことをしたと、ここに改めて認めて、謝罪させてください。

本当にごめんなさい。

【仕事】利己主義の集まりはチームではなくグループ

こんな自己中心的な考えばかりの人間が集まって何のメリットがあるのだろう、と今の組織で仕事をしていて、うんざりした気持ちになることはありませんか?
どんな組織が「チーム」なのでしょうか?

「チーム」とは?

チームteam)は、共通の目的、達成すべき目標、そのためのやり方を共有し、連帯責任を果たせる補完的なスキルを備えた少人数の集合体を理想とすることがある。
実際には、チームといっても目的、目標、やり方は指導者から与えられただけで、変更権がなく共有できていないことがある。
つまり、目的や目標が「同じもの」であり、そのためにやり方を創意工夫して、当事者意識をもって取り組む少人数の集合体である、ということですね。
同じ方向を向いて進んでいける仲間が「チーム」になります。

方向性が一致していない集団は「グループ」

では、私が働いている組織のように、方向性が一致していない集団は、どう表現したらよいのでしょうか?
そのような集団は、「グループ」であるといえます。
ただ集まっただけ。寄せ集められた烏合の衆。目的や統一された意識のない、当事者意識もない、人の群れです。
目的が同じでなくては、方向性やゴールはそれぞれ異なってしまいます。また、価値判断も異なり、最も重要視するべきコトにズレが生じます。
ましてや、利己的な人間が集まっても不協和音しか生まれません。
個人の営業成績の見栄えの良さを優先したり、表彰されるような功績をあげたいと他人の手柄を横取りしたり、そういう「自分さえよければいい」という人が集まったとしても、それはただの足し算であって、むしろ足を引っ張り合い、引き算にすらなりえるのです。

チームには、個人の利益の最大化から離れられる魅力的なビジョンが重要

とはいえ、自分の身はかわいいもので、それぞれ家族もありますので、個人の利益は大事です。
しかし、チームで集まる意味は、存在を掛け算することで、ひとりではできなかったことを成し遂げることにあります。
それは、自分一人では実現できなかった理想を実現できるという、夢のあるビジョンです。それが、個人の利益から、集団の利益の最大化へと行動をシフトさせます。
つまり、個人の利益追求よりも魅力的な「集団の利益」と感じられる、魅力的なビジョンが共有されていることが、「チーム」の前提条件だということです。
たとえば、「世界一お客様が感動してくれるレストランにしよう」とか、「ひとりでも多くの発達障害の当事者が、自分らしくイキイキと生きていける社会を創ろう」とか。
レストランがミシュランで三ツ星をとって、予約の取れないレストランになり、商売繁盛するのは、そのビジョンを実現するにあたって副次的に生まれたことであって、感動してくれるレストランを目指すから、人々が評価するほどの味やサービスになっていくのです。
もともと、ミシュランで三ツ星をとることや、商売が繁盛することを目的にしていたら、経費をケチったり、ミシュランの審査員っぽいひとにだけ過剰なサービスをしたりと、損得勘定が働きます。目先の利益にとらわれて動いている限り、お客様を感動させるようなサービスは生まれないし、結局目標は達成できないでしょう。
なぜなら、個人が目指すゴールが、それぞれに「このぐらいでいいだろう」という損得勘定により設定されるからです。
利益が出るなら多少質が悪くてもいいだろうとか、評価してくれる人にだけ評価されればいいだろうとか、あまり味に詳しくない客にはこのぐらいにしておけば騙せるだろうとか、そういう浅はかな気持ちが生まれます。これは、私利私欲をなげうってでも成し遂げたい夢のようなビジョンでなくては、人は往々にして、個人の利益(効率)の最大化を最終的な着地にしてしまうからです。

まとめ:マネージャーの仕事とは、まさにそれ

今回私は何を言いたいかというと、やはり結局マネジメント層に対する愚痴という、ものすごく俗物な主張なのでした。
そういうビジョンを掲げて「チーム」を引っ張るマネージャーは、そういう魅力的なフラッグを掲げなくてはいけないんだよな、ということです。
それは、組織のなかで全国No.1になろう!とか、全国で表彰されよう!とか、そんな安いフラッグではダメなのです。
そんなの、ただの横並びの比較じゃん。しかも、条件同じじゃないから、アンフェアです。全然面白くない。つまんない。
我々が働いているのは、なぜなのか?
どんな人に役に立ちたくて、私たちは毎日朝から晩まで駆けずり回るのか?
それは、社会の役に立つからです。
存在意義があるからですよ。
それによって、何よりも自分が生きている価値が認められるからです。
働く元々の意味は、お金をもらいたいからじゃない。
そんなことなら、テキトーに老人でも騙して金を巻き上げればいい。
お金を稼げばいいなら、合法か違法かくらいの違いで、そんなに変わりませんよ。
無知な人を騙してお金を動かす。それは詐欺師と一緒です。
詐欺師ではない、仕事人として、プロとして社会でお金をいただく意義は何なのか?
誇りに対して支払われる対価を受け取る。そういうイキイキとしたチームは、
・自分たちが成し遂げたい夢
・それは独りではできないほど大きい
それを常に忘れず、だからこそ仲間の存在に感謝していて、お互いに夢の実現という共通のゴールに向かって常に進化していけるのだと思います。
そういう矜持が足りないと、やはり虚しさを感じます。
そういう仕事人としての深みがちゃんとある人が好きです。
自分のことや目先のことだけのマネージャーは、一緒にやっているとイライラするし、発言にイラっとするんです。
メンバーも「グループ」であって、全然楽しくない。個人のボーナスや営業成績の見栄えしか考えていない。
そもそも、今の会社にはそういう人しかいなさすぎて、くそつまらんな、と思うことがあります。
特に、ある程度の偏差値の大学や大企業にストレートで入ってしまった、とてもかわいそうな価値観のひとたちが多いのです。
彼らは、人生がいかに多様性で失敗があるからこそおもしろい、その奥深さを知らない。この新自由主義において、学歴社会において、たまたま勝者になれたから、自分がすべて正しいと思って他人を見下しています。浅い経験が全てだと思っている。
このようなルールからあぶれた者たちは自分より劣悪な人間であると根本的に思い上がりをしているのです。いつ何時、自分たちが社会的弱者と呼ばれるそう見下していた人たちのように苦労するか、分からないのに。
そのような乏しい、幅のない人生をこれからも送っていくのでしょう。可哀想なことです。
これから社会は多様化に向けて動いていきます。それなのに、既定の価値観にとらわれて、様々な生き方を学ぶ気持ちもなく、おそらく中年以降は自分がいかに優れていたか、という誰も聞いてくれない自慢話をして嫌われていき、「周りはバカばっかりだ」と言いながら死んでいくのです。
マネージャーがゴミみたいなビジョンしか掲げられないと、このように下まで腐っていきます。
今まさに、大企業病に侵されたエリート(笑)が集まっているのが、今の日本の優良企業という泥船の正体です。
それを創ったのは、今ふんぞり返っている上司たちです。つまらない、表面的な価値だけにとらわれ、右往左往してきた人々。
言っても分からない人には、エネルギーを割くのはもうやめました。価値観の相違というやつで、私とは違う世界で生きている人たちだと考えるようになりました。
人生を40~50年近くもその価値観で生きてきた人に、その価値観の幅を広げてくれといっても、土台無理な話です。
私は、今の社会や常識になんか、認められなくていいや、と思っています。
こんな壊れた社会に認められている人は、いずれ滅びる気がします。だから、逆に認められて褒められて天狗になっている人は、やばいような気もします。
自分が実現したい未来に向かってがんばりましょう。そして、同志を見つけたら、そのときには「チーム」になり、夢を成し遂げましょう。