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【AC】STEP10に到達すると12ステップ・プログラムはライフワークになる

「自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。」

 

STEP8と9をすすめてきて、謝らなければならないひとについて思い悩むことが少なくなってきた。

罪と過ちを認めること、その謝罪について真摯に考え形にすることによって、可視化されて切り離して眺めることができるようになってくる。

楽になってくると同時に、他のことに目がいきやすくなる。

自分自身の心の動きよりも他人の行動が気になったり、自分には変えられないものに心を囚われたり。

最近の私は少し驕っているように思う。

 

ステップ1〜9を振り返ってみよう。

  1. 私たちはアディクションの影響に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
  2. 自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
  3. 私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
  4. 恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。
  5. 神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。
  6. こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。
  7. 私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。
  8. 私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
  9. その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。

引用;https://aca-japan.org/i/12steps.html

 

今までやってきたことを一度やっていればいいということではなかったのだ。

12ステップという新しい捉え方で世界を見て生きていくことを進めていこうとしているからこそ、私たちは繰り返し繰り返し棚卸しを繰り返して自分の考え方や生き方の癖を点検して、行動に移して行かなくてはならない。

理解したからすぐ生き方が変わるわけではない。

自転車を一度では乗りこなすことができないように。

何度も何度も転んでは起き上がり、トレーニングしなくてはならないものだったのだ。

私は今までステップを踏んできて、一度一巡すればいいと思っていた。それは大きな間違いだった。

 

STEP5と9;実践の重要性

棚卸しを実際に第三者に聞いてもらう5と9が特に重要だと感じる。

直接話せないこともあるかもしれないが、これこそOJTというか、自分の内的な変化を他の誰かに対して表出するという意味でとても重要なステップだと思う。

すなわち12ステップの実践である。

実際の自分の行動に反映して、反応の変化を実感する。

その経験により認知が補正されていき、STEP6・7で手放そうとしている性格の欠点(変えていきたい自分のとらえ方や考え方)を具体的に手放していくことが可能になっていく。

一度やったからといって回復するわけではないとは、結構衝撃だが、これには思い当たる節がある。

私は実際に行動を変えて、自分がいかに思い込みや被害妄想の中で生きていたかを実感してきたからだ。

 

謝罪に勇気を出して取り組んでみた。

自分の心が傷ついた時には相手に謝罪を求めてみた。

理解されないかもしれない自分の特性についてアサーティブに説明する努力をしてみた。

自分からは話しにくかったアルコール依存症や発達障害をオープンにする勇気を持ってみた。

 

全部、今までにはできなかったことで、12ステップに取り組んでから変えたこと。

それにより新しい結果を獲得した。理解してもらえないと思っていたことが受け入れられたり、謝罪を受け入れられたり。

逆に、信じて伝えて拒絶され、傷つくこともあった。

しかしそれらの実践と検証があって、12ステップで語られていることの真の意味や本質を、実感を伴って改めて捉え直すことができるようになった。

ステップを始めた頃よりも、内容を深く理解することにつながったと思う。

 

まとめ;12ステップがライフワークになるという生き方

慣れてくると、わかった気になる。

自分は回復していると思い込む。

もう大丈夫だと甘く見る。

そうして私は何度もスリップしてきた。

私は簡単に自分の無力さを忘れる。

コントロールできると思い込んで、巻き込み巻き込まれて失敗し、ふと気づくとまた蟻地獄のそこに堕ちている。

 

これで何度目だよ…と呆れて脱力する感覚。

自分にほとほと愛想が尽きる、あのイライラ感。

 

それらは今も変わらず、私のすぐそばにあるのだ。

いつも、いつでも、何度でも。棚卸しに向き合う。

それが唯一、苦々しい感覚をもたらす驕りを遠ざけて、謙虚に誠実に生きることを思い出させてくれる。

 

私はまだまだスタートラインに立ったばかりなのだと感じる。

そして、それはどれほどステップをやってきた人であっても変わらない。

皆、同じライフワークを愛する仲間なのだと思う。

12ステップが趣味だなんて、とても素敵ではないか。

【仕事】製薬会社の限界について考える

私は製薬会社で働いているのだが、どうにもこれはもうやばいな…と思っている。

先日会議に出てストレスがたまったので、割といろいろぶっちゃけてみようと思う。

 

自社の医薬品をいかにたくさん売るか?しか考えていない

大義名分としては「患者さんを第一に」とか言っているけれど、結局は売れればいいのである。

そういう下心をもっている人が多い。だからこそ人を見るプロである医師にも見抜かれていて、あまり信用されていないのがMR(製薬会社の営業みたいなもの)という職業である。

海外ではMRといえば医薬品のプロとして重宝され医師と並ぶほど社会的地位も高いのだが、この日本においては「医者のご機嫌取りをする金魚の糞」みたいな感じである。そして結局そういう前時代的な在り方が良しとされ、医療スタッフのみなさんからは「弁当屋さん」などと侮蔑の意味を込めて呼ばれてきた仕事だ。

なぜ弁当屋?と思うかもしれないが、製薬会社は勉強会のときなどに医師や看護師さんたちにいい気持ちで説明を聞いてもらおうと、せっせと弁当を運んでくるからだ。むしろ先生方からすれば「弁当をタダで食べたいからしつこいMRのために勉強会をやらせてやっている」という感じだ。

 

MRとはそもそも、営業というよりは、医薬情報を扱う担当者である。

MRの仕事は医療機関を訪問することにより、自社の医療用医薬品を中心とした医薬情報(医薬品およびその関連情報)を医療関係者(医師、歯科医師、薬剤師、看護師など)に提供し、医薬品の適正な使用と普及を図ること、使用された医薬品の有効性情報(効き目や効果的な使い方)や安全性情報(副作用など)を医療の現場から収集して報告すること、そして医療現場から得られた情報を正しい形で医療関係者にフィードバック(伝達)することなどを主な業務としています。

引用:公益社団法人MR認定センターHP

医薬品を適切に使ってもらうために、使い方や有効性・安全性などを伝達する人で、医療現場で副作用が起こった場合はその対応方法をすばやく伝達し、会社に報告して医薬品のリスクについて情報収集することを主としている。

売ることが目的とはどこにも書いていない。

だから、そもそも、優秀なMRでありたいのならば、きちんとそうした医療機関のニーズに対応できさえすれば、自社の医薬品が売れる必要はないのである。ボーナスが下がり、昇進できないだけで。

しかし、会社はせっかく開発したんだから高い薬価でたくさん売りたいし、それを元手に開発を進めて新しい薬を生み出さないと生きていけない。なぜなら薬を創っても、特許が切れたらやっすいジェネリック医薬品にとってかわられるからだ。常にいい薬を生み出し続けなくては生きていけない。

だから、会社はできるだけ売れるようにマーケティング部門や製品教育部門を動かす。

マーケティング部門は、できるだけたくさんの患者さんに投与してもらえるような患者さん像をイメージして、そのような患者さんに投与すると効果があると信じてもらえるようなデータを収集する。

そのような自社に都合がいいデータをうまく紹介できるようにMRを洗脳するべく、製品教育部門が社内研修を頑張る。それはしばしば偏っていて少々強引である。

洗脳されて「自社製品はこういう患者さんに投与されるべきなんだ」と信じ込んだMRが会社に教えられたとおりに先生に伝えに行く。

医師は内心『ああ、こいつは会社に洗脳されているんだな…でも会社からこれを言ってこいって言われてんだろうな…可哀想だからちょっとだけ聞いてやるか』という憐みの気持ちで話を聞き、あまりにもしつこいので「わかった、使ってみるよ」とMRが上司に報告するために言ってほしいであろう言葉をしぶしぶ伝えて早く帰ってもらおうとする。

こんなのが製薬会社の実情である。

新卒で入社する会社を選んでいるなら、製薬会社はやめておいたほうがいいと思う。

社内会議は売り上げで横並びに営業所やMRごとに比較される。なぜうまくいっていないのかをプレゼンさせられたり、うまくいっているように見えるMRが自慢げに、自分がいかに優秀かを、社内にアピールする。他人のオナニーを見せられるのは苦痛以外の何物でもない。

社内教育の時間も、無駄で長い。重箱の隅を楊枝でほじくるような質問を上から目線で製品教育部門の社員からされて嫌な気持ちになる。みんなの前で当てられて、答えられなければ「こんなこともわからないなんて」と高圧的な態度でさらし者にしてバカにしてくる。そういうプライドがエッフェル塔のように高い人たちがひしめいてマウントを取り合っている業界なのだ。

たまに「いやー…もうこれ可能性のレベルで絶対先生に話しても鼻で笑われるだけだよ」っていうデータを紹介してこいということがある。「なぜこのエビデンスレベルの低いデータをもとに処方提案をしなくてはならないのかわからない」と疑問を訴えても、「全社でそういう方針だから…」という謎の答えが返ってくる。だからなんなのだろう?答えになっていない。全く意味が分からない。

 

 

MR不要論はこのような製薬会社の傲慢さに起因する

そもそも、製薬会社が「よりたくさん売りたい」という欲を出すからこういうことになっているのだと思う。

私は正直、会社が提示する製品の価値やその裏付けのデータをあまり信じていない。それよりも、先生方の実臨床での経験や否定的な話をしっかり聞くようにしている。

 

 

学問的なエビデンスレベルのピラミッドはこのようになっていて、最強のデータはメタアナリシスやネットワークメタ解析だ。

その下に前向きのランダム化比較実験・二重盲検比較試験・コホート研究などがある。

学ぶべきは、この順番にどのような科学的根拠があるのか?そのなかで自社の医薬品はどのような位置づけなのか?という事実である。

ガイドラインや標準治療は常に新しいエビデンスにより改訂されていくので、今あるガイドラインが全てではないことは重々考慮すべきことだが、今推奨されている治療と照らし合わせて、自社の新薬を使った治療がどのような期待でどういう患者さんに投与されるかは、先生が決めることだ。

製薬会社が欲張ってたくさんの患者さんに投与されるようにコントロールするものではない。

創ったものをどう活かすかを相談しながら、安全性について教えていただきつつ慎重に一緒に治療のカスタマイズを進めていくべきであって、そのパートナーになるためにはフラットで実直で科学的な態度で臨まなくては信頼されない。

まさにこの、医師の製薬会社に対する不信。不振を招く不誠実な企業姿勢が、MR不要論を招いているように思う。

どの製薬会社も誠実に自社のデータやエビデンスを欲に目を眩まされずに紹介していて、伝えるべきリスクを的確に伝え、有効性・安全性の実臨床情報の収集を主とした活動をMRにお願いしていれば、話を聞いてもらうために弁当を用意する必要もないし、何百万もかけて講演会を企画する必要もない。

そもそも、私が患者なら「MRが頑張っているから」等という理由で処方薬を変える医師なんて主治医に選びたくない。

EBM(Evidence-Based Medicine)=科学的根拠に基づいた治療を真摯に実行している医師に診てほしいし、薬剤選択してほしい。どっかの製薬MRと癒着していて製品を贔屓にするような医師が選ぶ薬は飲みたくない。

だから結局マーケティング部門や製品教育部門がいくら社内を頑張って洗脳しようとも、それは社会的に見れば全く善い行いではないということだ。

良い部分はもちろん知らなくてはならない。いい薬なのに世の中で生かされないのは社会的損失だからだ。しかし、他社の薬のほうが優れている面があるのにそれを見て見ない振りをしたり、まるで遜色ないかのように印象操作しようとするのは間違っている。

そういうことをしない体で会社や社内では議論が行われているが、実態としては今も昔も変わっていない。その証拠に、まだ売上計画達成率でMRを評価している。MRの本分を求めるならば、副作用収集業務のコンスタントな実施報告や市販直後調査の伝達遂行率などが評価されているはずだ。そういう評価は全くない。副作用報告をしたことがないMRが昇進してマネージャーになるくらいだ。もはや終わっている。

 

まとめ:私はとにかく誠実に活動したいだけ

先生方を信頼し、コントロールを手放そうよ、と思う。

医師というのは、あんなにつまらない勉強を机にかじりついてやってまで、人の命に関わろうという高尚な精神の持ち主なのだから、きっとデータを見ればちゃんと理解してくれる。

そりゃあいろんな医者がいる。お金持ちになりたかったから。親が医者だからなりたくなかったけどなった。そんな先生もいて当たり前だろう。

だけど、もともと頭の回転が速いひとたちだ。プライドは多少高いかもしれないし、生育歴的にAC気質で共依存しやすい人もいるけど、誠実に真摯に話せば基本的にはちゃんとわかってくれる人たちである。患者さんの話を熱心に一日中聞いているだけあると思う。

だから、「こういう薬なんですけど、どういう人に効果を期待できそうですか?」「懸念に思われている点はどのような特性ですか?」というふうに、常に学ばせていただく姿勢で、先生の実臨床経験をもとに少しずつ無理のない範囲で役立ててもらうのが最も世の中にとって望ましいやり方だと思う。

だって私たちは患者さんに直接話ができるわけではないのだ。

患者さんと向き合っているのは先生なんだから。

その先生の経験を尊重しないで、何を尊重するというのか。

先生に「こう刷り込んでやろう」「こういう印象を持たせよう」などとコントロール欲求丸出しで接するから、信頼されないし要らないと言われるのだ。

おこがましい。こざかしいよ。

薬剤師と医師どちらが上とか下とかとかそんな小さい話をしているんではなくて、そもそも治療のサポートなんだよね、私たち製薬会社は。

治療って薬物治療だけではないし、むしろ薬物治療ってサポートで、本人が努力するものだ。本人が、治すものだ、病気というものは。治してやろうと思っている医師がいたとしたらそれは少し傲慢な考えだと思う。

みんな傲慢すぎるのです。

私は誠実に、ただ実直に、世の中に最もよいと私が思うことがしたい。

【メンタル】パワーゲームに疲れて苦しいときに読む話

私はよく「相手を暗にコントロールしようとする人」に出会うと、激しい怒りや憎しみを感じる。

残念なことに、仕事ではこうした人によく遭遇する。社内でも、社外でもだ。

ビジネスの世界は、パワーゲームだ。

高学歴・高収入を誇るような、いわゆる「勝ち組」と呼ばれる人がまさに総じてそういう小賢しさを持ち合わせている。徹底的にウマが合わずに苦労したものである。

彼らはパワーゲームで勝ってきたから、パワーゲームが大好きだ。勝てるフィールドに人は虜になる。そして己を見失う。

成功してきた彼らはその人生経験の裏付けも相まって、「自分の人生や他人の行動をコントロールできる」「他人にはなくても自分にはその力がある」「努力すれば自分は成功者になれる」という宗教的思想を信じて疑わない。

それは、その宗教を信じるに足る恩恵に彼らが恵まれてきたからなのだが、そのことに気づけない。全て自分の才覚や努力の賜物だと思って天狗になっている。実におめでたい。が、私も例に漏れず自惚れてきた。

様々な外部要因に恵まれていて、コントロールできているかのように錯覚できるだけの幸運の上に、私はあぐらをかいていたと言える。

そんな私のなかの小賢しさ・矮小さを改めてまざまざと見せつけられるような気がして、目を覆いたくなる。

ザワザワするのだ。

そんなかつての私のような、小賢しく信念に乏しいだけの‬輩に、今の私の真心が踏みにじられるのではないかという不安を抱えているから。

わかっていない未熟者にいいように翻弄されて、チャンスを潰され切なる願いが叶えられないのではないか、という恐怖から闘争本能が呼び覚まされ、怒りに目が眩む。ノルアドレナリンの為せる技だ。

 

コントロールと成果

これらの根幹は『コントロール』を手放せていないことだ。

結果をコントロールしたい。

状況をコントロールしたい。

相手をコントロールしたい。

そういうコントロールを手放せずに、過信する人たちと同じ土俵に乗ってしまうと、たちまち恐れや怒りに目が眩む。

 

畏れや怒りに目を眩まされるな

皆ただそれぞれがあるようにあるだけ

逃れられるモノからは知恵ある我々が逃れればいい

引用:『蟲師』3巻「眇の魚(すがめのうお)」より

 

本物には、ちゃんと本物が伝わる。

信頼は、愛に敏感だからだ。

実際、こざかしく立ち回っている他の社員は一見すると優秀で周りより得をしているように見えるが、長期的にみると結果的に私の方が成果が出ている現実が証明している。私はある程度顧客に信頼され、製品が採用され、適切に使われている。

私は本当に相手にとっていいと思うものしか勧めないし、相手の考え方を第一に優先する。決して押し付けたりしない。

あくまで「私はこう考えるんですが、どうでしょうか?」と率直に意見を伺う。

だから相手はおそらくコントロールされる恐怖を感じずに議論ができる。だから納得も否定もしやすい。

私は顧客に良い状態になってほしいと思って仕事をしている。それしか望まないようにしていて、それすら私だけではどうにもならないことを受け入れたいと願っている。

私にとって最も望ましい姿と、顧客にとって最も良い状態がイコールではないこともよく知っているし、それでいいと思っている。

真剣にやっている人は、本質的な情報に必ずやリーチする。それは、およそ人には関与できないほどの巨大な力(ハイヤーパワー)がその人自身にも私にもあるからだ。求めている人には、必ず求めているものが運ばれてくる。そういう風に世の中は出来ている。

つまり、小賢しい誰かの妨害ごときで真心が届かないような顧客には、今ここでは、私のサービスは必要じゃなかった、ということだ。まだ時期が早かったのかもしれない。

それは『変えられないもの』だ。

 

営業ができること

例えば、営業として私が出来ることは「常に、相手にとって望ましいと私が考える最善を準備しておくこと」。

それだけだ。

まさにタフラブの体現が、営業の最も洗練された在り方だと今は思う。

信じて見守り、肩代わりをしたりイネイブリングしたりしない。決して相手をコントロールしようとしない。一番遠回りに見えて、その遠回りこそが最短距離だった。

私ができること、望ましいと思うこと、その手段を、アイメッセージでわかりやすく明確に伝えること。それを伝えたうえで、判断は顧客の判断に任せる。

それは、顧客の在り方そのものを、何より信頼して任せているからだ。

必ずや、ハイヤーパワーに導かれて、彼らが今必要なものを掴み取るのだと、信じるからだ。その結果与えられるものが、私が今、与えられるべきものだ。

 

営業は、優秀であればあるほど、自分が無力であることを忘れがちだ。

「顧客はわかってないから分らせよう」

「こう言えば心理学的にはこう思い動くはず」

「この情報は不利になるから伏せよう」

こんな下心が働くのは、根本的なところで、相手を信じていないからだ。

「私がやり方や言い方を変えれば相手の未来を変えられる」。そう思い違いをしている。コントロールできると思っている。

残念ながら、それは虚しい妄想だった。

そんなことは神にすらできはしないのに、私たちはつい原因と結果を掌の中だけで考えて、自分の手柄のように錯覚してしまいがちだ。

掌ばかり凝視していることに気付いて見上げると、雲の上の、自分にはコントロールできない様々なモノたちのお陰で、今手中にある『成果』が形作られていることに気づく。

そして『成果』はたまたま、今私の手に落ち着いているが、私にはどうしようもない流れに沿って流動的に世の中を巡り巡るのだ、ということに気づく。

雨と川

だから、仕事の成果に一喜一憂することは、天気の変化に一喜一憂するような、そんな笑っちゃうようなことなのかもしれない。

限られた状況のなかで、最大限の自分にできることをする。そうしてできたものは、紛れもなく今の私の100%である。それ以上でもそれ以下でもない。

私は、変えられないものと変えられるものを見分ける賢さがほしい。

私は「もしもっと私が勉強していれば」とか「もしもっと会社がしっかりしていれば」とか、タラレバに囚われて後悔の底なし沼から抜け出せなくなる時が、よくある。

 

状況は変えられないもの。

未来は変えられないもの。

過去も変えられないもの。

「今ここ」のみが、変えられるもの。

そう、今ここだけだ、私が影響を及ぼせるのは。その積み重ねが道筋となる。

雨の一滴一滴が、川になり海にたどり着くように、一滴一滴に力など無いが、私は一滴として今日一日、今この時を全力で生きれば、それでもう100点満点なのだ。

それが私の預かり知らない、山の地形や、河口の形に沿ってゆっくりと流れていき、やがてあるべき姿へと落ち着いていく。

必ずや、そうあると信じること。

つまり。雨の一滴一滴が、自然の摂理を信じて疑わないようなことが、人としてハイヤーパワーを信じることなのかな、と思う。

実際生きてきて、私は会うべき人に逢い、するべき失敗をして、今ここに息をしているのだと思う。

それは、世間の常識とか倫理とか理論とか、そんなちっこいルールなんかよりもドッシリと、この世に根を張っているように感じる。その感覚からすると、一部の常識や理論をちょっとでも信じているなら、ハイヤーパワーこそ信じて当たり前のような気がしてくる。

 

私は一滴として、ただただ一生を、仕事を全うしたい

かなり脇道に逸れたが、私が言いたいことは概ねこういうことだ。

仕事人としての私は、所詮雨粒のひとつ。

たまたま他の雨粒から「周りより大きい」と言われたり、「素晴らしい雨粒だ」と言われたりしたとしても、雨粒は雨粒。一滴の力しかない。私は、それをいつも何度でも忘れてしまうから、出来るだけ忘れたくない。

山があるから流れられる。

川になるから流れられる。

一滴ではできないこと。

海があるから、また雲になる。

一滴に還ることができる。

そのあまりにも偉大な、私にはどうすることもできない力(ハイヤーパワー)を信じて、途方もない道のりはいつか海に開けるのだと、安心して肩の力を抜き、この身を委ねていたい。

個体の違いや優劣に、飽きもせず日々動揺し怒り悲しみ憎み苦しむ。そんな矮小な雨粒だけれども、一滴としてそういう全ての醜さを受け容れられたなら、と思う。

そんな雨の日の午後。

【依存症】なぜアディクトは他人の回復に過干渉してしまうのか?

アディクトは自助グループに繋がって少し経つと、周りをキョロキョロし始めるように思う。私も周囲が気になる時期があり、断酒日数を気にしたり、回復していることをアピールしたりしたくなる時期があったことを思い出す。

私が行っていたグループでは、古参メンバーの数人がやたらと新しく入院してきた人やスリップした人(私)に異常なまでに甲斐甲斐しいことがあった。

その構図に、同じ病の仲間の愛の美しさというより、私はある種の『気味の悪さ』を感じてきた。

この『気味の悪さ』の正体はなんなのだろうか?

 

共依存へのスライド

自助グループという名の鳥籠のなかですら、ヒエラルキーを作りたがる人がいる。

一度は社会で失敗し敗退したパワーゲームを、アディクトという同類のなかでゲームのやり直しをしようとするのだ。

それで、せっかく繋がった仲間が疲弊し精神を病んで離れていく。そんな光景はよく見てきた。

自分の自尊心を満たすために仲間を使っている。

それが愛なはずがない。

美しいはずがない。

もちろん、全ての自助グループがそんな阿鼻叫喚の釜茹で地獄と言っているわけではない。

アサーティブで健全なスポンサーシップに基づいて、各々の回復に向かうグループが殆どだろう。

しかし、依存対象がスライドしていることに気づかないで『自分は回復者だ』と自負する人は、一定数存在する。

12ステップ・プログラムを共に進めている人と話していて「依存症者は、依存対象をやめても共依存にスライドする傾向があるのではないか」という言説にいたく共感した。

他人の問題(しかもこちらが勝手に問題視しているだけ)にばかり目が向くときは、大抵、自分自身の回復から目を背けているときであり、自覚するのはとても難しい。

知らず知らずのうちに、アディクションの対象が、物質やプロセスへの依存から共依存にシフトしているのだ。

実は生きづらさの根本はそのままであることに、本人だけが気づいていない。

 

ジャッジとコントロール

では、生きづらさの根本とは何なのだろうか?

「正しさ」の物差しの呪縛にとらわれて、自分自身の無力を真の意味で受け容れられていないことだと思う。

ジャッジしたがるという心理はそういうことだ。

「私が正しいのだから、私の言うことを聞いて当たり前だ。」

「私はステップをこの人より先に始め先に進んでいるはずだから、私の方が回復していて当然だ。」

こんな心の正体を深掘りしていくと、結局『結果』へのこだわりが手放せていないのだとわかる。

自分を他人と比較して優れていることを確認したいのは、安心したいから。正しさを武器に他人の境界線を侵略し、コントロールしようとしているからだ。

それはまだ12ステップ・プログラムにおけるステップ1の「無力を認める」がまだ未達成な状態と言えるのではないだろうか。

私たちはそのように「コントロールできる」と信じて、尽くコントロールできてこなかった事実を受け容れたはずなのに、気づけば形を変えて同じことを繰り返してはいないか。

12ステップ・プログラムのステップ12をやっているからといって、他のアディクトより前に進んでいるわけではない。

自分自身の棚卸しを続け、間違った時は直ちにそれを認めた。』というステップ10にある通り、繰り返し棚卸しを続け、原点に常に立ち返る謙虚さを忘れてはならない。

変えられるものは、自分の行動のみ。

つまり私たちにできることは、この日々の棚卸しと埋め合わせをきちんと行うことだけだ。

そもそもバックグラウンドや生きてきた道筋が異なる以上、回復は比較できないことだし比較する意味もないことだ。

依存症の専門知識やステップの経験を笠に着て、経験が浅い人を見縊るのは、今まで自分がされて嫌だった『ジャッジ』を他人に押し付けている。

ジャッジしてマウントを取りたがるのは、心の奥底にまだ不安や焦りがあるからだ。

「自分の本当の本当を、掴んでいないのではないか?これで本当に回復しているのか?」

そういう不安から目を逸らし見て見ぬ振りをするために、心が他人に目移りしている。

 

自分自身の回復がすべて

回復の度合いを比べたりジャッジしたりするメンバーがいる自助グループが、グループ全体の安寧秩序を維持できているはずがない。

ひとことで言えば、自分自身の回復が主軸ではなくなると、自分のみならず周囲にも悪影響なのだということだ。

何をもってしても自分の回復こそが主題である。それだけが主題である。

自分自身の回復に向き合うために、様々な自助グループがある。

他人の回復の促進(そんなことはできないが)や、メンバーとしてグループの役に立つことが、自助グループに参加する目的になってはならない。

他人に影響を及ぼすことに傾注するのは、もはや『嗜癖』だと自覚しよう。

正しさで他人をぶん殴るそれは、暴力だ。暴力を嗜癖にしてる。それは自分がまだ自分自身に向き合えていないからだと自認しよう。

他人より自分の人生に目を向けよう。

私が思う正しさは『自分の世界』という小さい世界での正しさだ。万国共通じゃない。

ついつい同じように依存に苦しんできた仲間と自分を同一視しがちだし、同じなら理解し合えるはずと思いがちだ。

論理が飛躍してしまっている。

相手をそのまま見て、相手の話をあるがままに聞いていない。

勝手に期待して、裏切られたと感じる。

相手も、自分の生きていく道筋すら、私には変えられないものなのに、共通項に目を奪われて、すぐに自他の境界線が曖昧になる。

私も例に漏れずやっぱり共依存的だなと思う。

 

あとがき

今いる自助グループが肌に合わないと思ったら、他のグループに顔を出してみるのも手だということは、アディクションに悩む仲間には覚えておいてほしい。

変えられないものを受け入れる落ち着きを。 変えられるものを変える勇気を。 その二つを見極める賢さを。 とは、先人達によりよく咀嚼し吟味された言の葉だな、と痛感する。

【AC】私は誰にも愛されていないと感じる心理について

私は、自分のことを差し置いてでも、という献身的な愛にすごく憧れがあり、愛の深さを私に試されて、相手が試練や痛みに歪む顔にドキドキしたりします。

私の親は、私を「愛している」と言っていたし、たしかに愛していたのかもしれない。

けれどそれ以上に、彼らは自分自身の欲や価値観のほうが優っていて、無意識に優先してきたと感じます。

「いい子に育てて親として優れていたい」

「自分の人生の反省を子供でやり直ししたい」

というような欲求を優先して、私そのものを見ていませんでした。

彼らは「愛している」という言葉を隠れ蓑にしてコントロールしようとしました。

 

だから私は、誰かから愛についていくら言葉を尽くして言われても、うまく信用できないのだと思います。

身がちぎれるほどの痛みに耐えて大事にしてくれることに愛を実感するし、そうした献身的な愛に憧れを抱くんだな、と思います。

 

自分を振り返ると、他ならぬ私こそ、自分のことしか考えていなくて、自分のことだけで精一杯の状態だったことに、気づきます。

親と同じだった、相手を見ていなかった。

自分のために他人を使うことばかりに心を砕いてきたのです。

私こそ親と同じように自分しか見えていないから、他人の言葉を信じられなかったのだと思います。

だって、私のことしか見えていない私がいう「愛している」は、親と同じ嘘だから。自分がそうだから、他人のもそうだろう、としか想像できず、偽りだと考えるのです。

 

では、私の心は、100%利己的な私の欲望だけで構成される、卑しい塊なのだろうか?

というと、そうでもなくて、見ず知らずの道に迷って困っている人に小銭をあげたり、大好きな人にただ料理を作り一緒に食べたいと思ったりします。

全てあげるつもりで、自分の愛が受け取られなくても差し出す心を持っています。

 

だから、私が私に対する配慮に最も比重を置いたとしても、誰かを愛していないわけじゃなく、それがむしろ健全な状態なのではないでしょうか。

自分を打ち捨て相手のために身も心も差し出す献身は、愛というより異常で病的な依存状態からくるものなんじゃないか?

実際そういう献身は経験上長続きしなかったし、見返りを求めるようになってしまって、結局破綻してきました。

つまり、私が思い描いて憧れていた献身は愛ではなかったということです。妄想のなかの現実には存在しないものでした。

現実には存在しない陽炎を追いかけて、ありもしないモノを必死に探して「ない、ない、どこにもない!」と思って嘆いていたように思います。

 

末永く健全に他人を愛するためには、まず自分が自分の足でしっかりと立っていなければならない。

そのためには、自分を慈しみ愛でて心も体も健康であるように尊重しなくてはならない。

ということは、何をおいても私は私を一番に大事にしなくてはならないし、それでいいのです。

むしろ、それがいい。

それこそベストなんだと思います。

そう考えると、今まで接してきてくれた人たちの優しさや真心は、理想と比べるとあまりにも小さく感じたけれど、たしかに愛だったように思い返されます。

なぜなら、自分自身が掛け値なく今まで与えてきた好意や愛情と同じだから。

自分が他人に無理なく渡してきた愛情を自覚すると、小さくみえていた他人の同じような愛情を受け取れる。

結局人はみな自分が一番かわいくて、他人を自分以上に大事にすることはないのです。

だけど、そうでなくては本当に他人を愛することもできないのかも、と思ったりします。

 

私は自分自身が大事じゃない時期の方が長かったので、こんな自分より他人の幸せを優先するべきなのではないか、という感覚でした。

自分を蔑ろにすることで私は苦しんでいるという声なき声を上げていたのだろうと思うのですが、自分で自分を粗末に扱った結果、自分の存在価値はゴミ以下だと信じ込むようになりました。

己肯定感の低さが、そんな自分自身の大事さを小さく見せました。

他人がその人自身を私より大切にすることにショックを受けるのはこのためです。

大事な誰かが私よりその人自身を優先するのは、立場を替えると「私が、ゴミ以下だと思っている自分より、その人を大事にしない」ということであり、結論として『私の価値はその人にとってゴミ以下よりもゴミ』と判断されたことになります。そのような思考で絶望を感じていて、誰にも愛されていないと考えるのです。

私が思い描いていた愛は幻で、もっと身近にたくさんあったんじゃないかな、と思います。

当時は見えなかったし、受け取られなかったけど…。

と最近感じるという話でした。

【AC】自分を許せないから他人を許せない:Step8「傷つけた人」その⑦『会社の同僚』

私は新人のとき「仕事」だけが、社会と自分を繋げる唯一の命綱だった。

だから、仕事を命を賭してやるべきものだと考えていたし、他の何を犠牲にしても達成するべきものだと思ってきた。

 

私の狭い世界のなかでの正義

まさに毎日が仕事一辺倒であった。

寝ても覚めても仕事。プライベートはスキルアップのためにある時間でしかなかった。

楽しいことは何もなかった。

夜は酒でラリって現実逃避するだけだった。

そんな毎日を送っていた。決して幸せではなかった。

 

家庭を大事にしている先輩でSさんというひとがいた。

いつも「17:30が定時だから」と仕事もそこそこに帰っていった。

幸せそうに見えるSさんが憎かった。

同時に、私はSさんを見下していた。

「仕事も満足にできないで、何が家族だ?寝言は寝て言えよ。」

大真面目にそう思っていた。

取るに足らない、尊重する価値もない、「できないやつ」として見下していた。

先輩としての敬意を払わないばかりか、人としての価値も低いのでないがしろにしていいと思っていた。

それは、とんでもない思い違いだった、と今深く反省している。

 

当時私は終電で帰るか、帰れなければ寝袋で事務所に泊まった。

二日酔いで体調の悪い体を引きずり、執念でPCにかじりついていた。

眠れないことが増え、毎晩寝酒をあおり、ブラックアウトするまで飲んで気絶した。明けがたトイレで起きたときにワサビをチューブごと口にねじ込んで辛さの刺激で目を覚ましたりした。ほぼ狂っていたと思う。

そんな私にとって、定時に帰ることが、逆に狂気の沙汰だった。

 

私は仕事ができて承認欲求が満たされるから、そういう生活をしていた、というわけではない。むしろ逆だった。

生きていることに対する劣等感に押しつぶされそうだった。

学生から社会人になり、勉強とは違って仕事は自分ではうまくマネジメントできないことに悩んでいた。上司や同僚からはできないことを嗤いながらバカにされ続けた。そんな屈辱の新人時代を過ごしてきて、なかば強迫性障害に近い思考を獲得した。

仕事は完璧にしておかなくてはならないと思い込んでいた。

そうでなければ、コケにされバカにされる。

そうでなければ、必要がないと言われ、居場所がなくなる。

やりたいわけじゃない。やりたいわけがない。仕事なんて本当は大嫌いだ。働かなくてお金が入るなら絶対に働くものか。群れたくもない人間と群れ、言いたくないことを言い。そんな毎日、あんな拷問みたいな毎日を過ごしたいわけがない。

前向きに仕事をしているわけではなかった。否定されジャッジされるからだった。社会的に殺されるのが嫌で、ほんとうに嫌々やっていたのだ。

 

驚くべきことだが、そのことに当時は全く気づいていなかった。

 

なぜか?

「私は我慢している」ということも認識できていなかったからだった。

『相手も我慢するべき』という私の正義を押し付けていたことに気づいていなかった。

不公平だと思っていた。

私は死ぬほど嫌なことを「仕事だから」「結果を出さなければならないから」「そういうものだと言われて馬鹿にされるから」我慢してやっているのに、なんでそれに縛られずに大切なものを大切にして生きていける人がいるのか。憎んでいたし、納得できなかった。

 

自家製の勝手に定めたルール

しかし、それは、本当に我慢しなければならないことだったのだろうか?

 

仕事だったら、絶対にやらなければならない?

結果を出さないと存在を否定される?

完璧にやらなければ馬鹿にされる?

 

そうではない、と今では思う。

仕事をどの程度やるかは、雇用契約の条件を満たしている範囲なら、本当は労働者側で選べる。絶対にやらなくてはならないのでは、奴隷と同じだ。体ごと高値で買い取ってもらわなくては割に合わない。

結果を出さないと組織から評価はされないだろう。が、それを理由に、尊厳ある個人として生きていることを否定したり、今までの人生や努力を否定したりするのは、モラハラやパワハラだ。個人の尊厳を踏みにじる個人や組織、つまり相手に問題がある。

結果は努力と正の相関ではない。だから、結果が出ないのは努力不足とイコールとは限らない。様々な不確定要素が混在するこの世界で、たまたまその人のもとに訪れたものに過ぎない。結果だけで人を評価することそのものが、あいまいで人を測る指標とするにはあまりにも心もとない。つまり、そんな心もとない指標で人の価値は判断されない。だから結果が出せなくても生きていることを否定される筋合いはない。

完璧にやらないとバカにされる、という思い込みも、自分がそう思い込んでいるというだけだ。

他の人にはできなくても「私なら完璧にできる」「私ならコントロールできる」と思い込む傲慢で不遜な自分がそう見せている。できない他人をバカにしたり、できていない自分を責める心が生まれるのは、いつも自分の心の底からだ。

だから、たとえば私が誰かに馬鹿にされても、そのバカにしてきた相手が心に問題を抱えているだけ。コントロールを手放せていない人だから、そう見えているという相手の問題。

だから、これもバカにされたって自分が悪いのではなく、他人の見方が歪んでいるということが事実。

 

ほら、やっぱりそんなことはなかったよね。

 

つまり、私が信じてきた恐怖や焦りや不安は、全部幻だった。

勝手に私自身が、私自身を縛ってきたルール。自家製の勝手に定めたルール。

それに自分をあてはめ、他人をあてはめていたから苦しかったのだ。

これに気づいて、ホッとすると同時に、私は恥ずかしくて死にそうになっている。

 

まとめ:自分を許せないから他人を許せない

私は、当時私がとっていた、Sさんに対する態度を謝罪したい。

SさんにはSさんの人生観があり、大切にしたいものの順序があり、それは尊重するべきものだった。私のものさしで価値を図ることなど、傲慢で卑しいことだった。

自分がされて嫌だったことを、Sさんに対してやっていた。私はそんな弱い人間だった。

自分の思い込みで定めたルールで勝手に人を裁き、ジャッジして、Sさんを見くびったことは、Sさんの尊厳を傷つける行動に繋がったし、それは他でもない私自身を大切にしない行動だった、と深く反省している。

Sさんが好きなものや大切にしているものを鼻で笑ってバカにする権利は私にはなかった。

そうした態度を取る私に対して「お前偉そうなんだよ、ナメるのもいい加減にしろよ」と彼が怒ったのは、無理もないことだった。

申し訳なかった。すべては私の未熟さゆえの、世界の見方の歪みがあったと思う。

こうした見方ではなく、お互いに大切なものを尊重できる在り方であったなら、もっと快適で幸せな信頼関係が築けたのに、少なくとも私が手を差し伸べなかったことは間違いない。

 

同じことを繰り返したくない。

私は、12ステップ・プログラムに継続して取り組み続けることを通じて、自分の思い込みで定めたルールについてこれからも点検し続けていく。

私の報われなかった気持ちも大切にして、ちゃんと感じたいと思う。

自分の本当の気持ちを真っすぐ受け取らなければ、認知の歪みに気づくことは不可能だからだ。その勇気を持ちたいと思う。

向き合う勇気を持てるかどうかについて、私は無力であることを知っている。

これからも無力であることに変わりなく、私はそれをコントロールしようとせず、天にお任せしたい。しかるべき時に訪れるだろう、世界はそういう風にできている。

そのためしかるべき時を迎えるために必要な努力をすべてする、ということについて、私は誠心誠意取り組みたい。

そういう覚悟をもって、日々向き合い続けていきたい。

他人を許せない気持ちを抱えているときは、自分のルールで他人を縛っていないか点検する必要がある。

【AC】他人の言葉が気になりイライラする人の深層心理

私は結構、他人に言われたことにショックを受ける。

なぜか、いつもマウントを取られているような気持ちになる。

それにイラっとして攻撃的な反応をしてしまうと、相手も戦闘態勢に入ってしまい、最終的に味方であったはずなのに対峙する形になることがある。

 

「正しさ」に囚われていないか?

 

私はそうしたとき、自分の心が不安定であることが多い。

落ち着いて振り返ってみれば、相手は好意的に接してくれていたのに、受け取る私の心がざわついていて歪んで受け取っていることがある。

なぜだろうか?

それは私が「正しくないことをしている」という心の引っ掛かりがあるからだ。

「あなたは正しくない」とその人に責められるのではないか?と思うと、ついつい身を固くしがちだ。攻撃されるのではないか、と身構えてしまうからだ。

 

それは何よりも、私自身が正しさに縛られていることに起因している。

 

今まで、我々ACは正しくないと他人に、親にすら認めてもらえなかったのではないだろうか。

成果が出なくては意味がないと教えられ、素直な気持ちを話せば言い訳と言われて受け取ってもらえなかったのではないだろうか。

あらゆる人からジャッジされることは地獄だ。その地獄を生きてきて、私たちはすっかり親が押し付けてきた、ある意味憎んですらいるライフスキルを獲得してしまったように思う。

そのライフスキルこそが、「正しさでジャッジする」ということである。

 

 

イライラするのは、傷つかないために想像しているから

 

傲慢になっている。偏見を持っている。見ている景色が歪んでいる。

私が疑心暗鬼に陥っているとき、端的に言えばそのような状態だといえるだろう。

 

私は見たいものを見ているのだろうか?

いやいや、他人が攻撃してくることなんて想像したくないし見たくないはずだ、と思っていた。

が、実際は、私は恐れていて、積極的に想像している。

予行演習しなくては心の痛みに耐えられないので、予め最悪を想定しているのだ。

それを私が選んで、望んでいるのである。

 

その想像上の、他でもない自分自身で創り上げた「常に攻撃してくる他人像」との攻防を四六時中想定して理論武装している。頭のなかはいつも絶賛交戦中になる。

いつも頭のなかでは、誰かが私を責めていて、「私は悪くない」「私は間違ってない」と正しさで応戦しなくてはならない精神世界に自ら飛び込んでいっているのだ。

現実には、誰も責めていないし、何も起こっていないのに。

 

傷つかないために自分を守るつもりが、自分が最も自分を傷つけている。

そのことに、私たちは気づかなければならない。

そして、そのライフスキルはACとして苦しい時期を生き抜くには必要であったが、今はすでに必要がなくなり、手放してもいいものなんだ、ということを認識しなくてはならない。

 

まとめ:他人の言葉が気になるときは、事実を確認してみよう

私はこうした疑心暗鬼に陥っている感覚があるときは、落ち着いて事実を確認することが重要だと思う。

・実際に相手に言われた言葉

・実際に相手がした行動

これらをひとつひとつ書き出してみる。

そのまま書き出すことが重要である。「~という意味で言ったのではないか?」などの自分の憶測を一切省いて、事実だけを書きだす。

そしてすべて書き出した後、1日以上置いて、全く関係のない第三者と一緒に客観的に紙に書いてある内容を改めて眺めてみる。

自分が「何に対して」傷ついたのか?を確認する。

私が思い込んでいることなのか、実際に尊厳を傷つける言葉や行動だったのか。

思い込んでいることに起因するなら、何か「自分が正しくないかもしれない」という引っ掛かりをその人に関連して持っていないか点検する。

そうやって認知の歪みを解きほぐしていくと、ふと視界が拓けることがある。

私たちはACとして生きてきて、頼りたかった他人に攻撃されてきたので、その痛みに備えないといけない哀しい状況があった。

その状況について、当時の私たちは悪くなかったと思う。精一杯やっていたと思う。

そうして当時の私たちを自分自身が許してあげて、正しさから解放してあげたい。

それが他人とアサーティブな関係を築くために重要な土台になると感じている。

【依存症】私を許さないでいてくれて、ありがとう。

私の酒害について、今日新たな気づきを得たので、棚卸しします。

「偽りの謝罪をぶつけて、相手から『許し』を強奪しようとしたことも、酒害の一種だったんだな」という気づきを得ました。

 

 

私はまだ断酒していない時期や、やめてすぐ(断酒から6ヵ月に満たない)の時期、自分が罪悪感から楽になるために、許してもらって楽になりたくて、よく偽りの謝罪をしました。

相手が許してくれないことに憤慨して「こんなに謝ってるのに許してくれない相手が悪い」「他にどうしろというんだ」などという気持ちを持ちました。

荒れ狂いました。

本当に、自分のことしか考えていなかったと思います。相手がどんな気持ちだったか、自分が何をしたのか、そういう事実にまだちゃんと想像が及んでいませんでした。

とにかく苦しいから罪悪感を取り払いたくて顔色を窺いながら謝りました。「もうわかったよ」「今回だけだよ」そんな言葉を期待して、引き出そうとしていただけでした。

つまり、あれは謝罪ではありませんでした。

自分が楽になるために相手をコントロールしようとしていました。

償うことができないなら、謝る意味がない、と考えていました。『自分にとって』意味がないからです。許してくれないなら、謝ることは無駄だと思っていたのです。

それは、私が相手のことではなく、自分のことだけを考えていたことの証明です。

 

そして、そういう私の謝罪は、軒並み受け取られませんでした。

私は、今は、それを感謝しています。もし偽りの謝罪で許された気になっていたら、また同じことをして、他人を傷つけて、その埋め合わせをしないまま、また自分のためだけに許しを引き出そうと偽りの謝罪をしたことでしょう。それを繰り返していたことでしょう。

受け取ってもらえないから、必死で考えたのです。

なぜ許されないのか。

何をしたからなのか。

答えは明白でした。

酒でした。

「酒を飲んでいる限り、誰に何を言っても、話を聞いてもらうことすらできないんだ。酒を飲んでいる自分は、とにかくダメなんだ。それに、酒をただ飲まないだけじゃなく、何が原因で私はこんなに酒に狂ったのかを、真正面から見据えて考え続けなければダメなんだ。」

これに気づくためには、私には許してほしい相手にことごとく拒絶されることが必要でした。

謝罪すら言わせてもらえないことが、必要でした。

今更、もう全てが遅い。許してもらうことなんて期待できない。でも、それでも謝る意味は何なのか?そう考えてはじめて、私が相手に謝罪する意味が見えてきました。

自分の保身や安心のためだけではない、他人の心の傷の埋め合わせのために謝罪をするべきでした。

私は、受け取られずとも、出来ることならしたいと思いました。

なぜなら、これからは自分の気持ちを大事にしたいし、それと同じように他人の気持ちを大事にしたいからです。

 

振り返ってみて、そう思えたのは、周りが率直に飲酒している私を忌み嫌ったからでした。

爪弾きにし、無視するようになって、様々なものを実際にポロポロと手から零れ落ちる『現実』を、真っ直ぐ与えてくれたからでした。

ステップ8をやっていて、やっと今、そういう気持ちです。

 

私は感謝します。

私の飲酒を、酒害を、偽りの謝罪を、拒絶してくださり、ありがとうございました。

あなた方には、許したことにして私に対して貸しを作り、何か不都合なことがあった際に持ち出して「あなたをあのとき許してやったのに」と私を黙らせ、従わせることができました。つまり、恩を着せて私をコントロールする共依存的な選択肢もありました。

そうすれば、私を支配下に置いて、優位に事を進めることができました。その方が、その瞬間は得をするし楽だったかもしれません。

この選択肢は、私の回復はもちろん、あなた方自身の回復にも陰を落とさせる道につながります。だから、その道を選ばないでいてくれてありがとう、と言いたい。

私なんかには言いにくいであろう、拒絶の言葉を与えてくれて、ありがとうございました。私はそのおかげで、現実を知るチャンスを頂きました。

私を許さないでいてくれて、ありがとう。

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【ヘルスケア】無料!2~5分間!ストレス解消!おススメ自宅ワークアウト4選(+おまけ)

在宅勤務やテレワークが長くなり、家にずっといると煮詰まってきてなんだか疲れちゃいます。

お子さんがいる家庭では、今は特に大変ですよね。

・子供の世話をしなくてはならない

・料理も作らないといけないから時間がない

・家のことが忙しくても在宅勤務で仕事もいつも通りこなさなくてはならない

・気晴らししようにも気楽に外出したり、子供を預けたりできない

・ストレスと寝不足でご飯食べるぐらいしか娯楽がない

こんな状況でダイエットなんて無理!って思いますよね。

私も同じで、ウエイトトレーニングはやっていましたが、そればかりやって有酸素運動をおろそかにしていたせいで、80kgから88kgに太ってしまいました。

これはまずい!ということで、様々なトレーニングを試しました。

 

私がたどり着いたのは、YouTubeで無料で動画を観ながら簡単にでき、数分で終わるワークアウトを、できるときに無理なくやるという方法でした

「子供がいて在宅勤務や家事に忙しくても中断せずやり切れる所要時間」で「脂肪燃焼効果があり器具のない家庭でもやりやすい内容」のおススメトレーニングをいくつかご紹介したいと思います。

「あ、今できる!」というすきま時間(子供のお昼寝中・早朝誰も起きていないとき・皆が寝静まった深夜)におすすめだし、「どうしても気持ち的に、今すぐやりたい!」っていうときにも、5分以内なら、家族が何かでわめき散らし騒いでいてもなんとかトレーニングできます。

これなら中断しなくていいし、最後までできるし、ストレスにならないと気づきました。

【地獄の5分】HIITトレーニング(ノーマル)

まずはこれが手っ取り早いです。

飛んだり跳ねたりしないので、騒音が気になるマンションでもできます。

「HIIT」とは「High-Intensity Interval Training(ハイ・インテンシティ・インターバル・トレーニング)」の略。いわゆる高強度インターバルトレーニングを指します。インターバルトレーニングとは、高負荷の運動と低負荷の運動を交互に入れること。それの強度をぐんと高めたものがHIITなのです。

HIITトレーニングは以下のメリットがあり、私はいつもこれを最初にやります。

・短期集中で効果が表れる
・一般的な有酸素運動の数倍とされる脂肪減少効果をもつ
・心肺機能の強化、筋力アップなどにも効果あり

 

【地獄の3分】腹筋ワークアウト

これが一番短いし、お腹周りを引き締めるのに効果的なワークアウトが、いい感じに組み合わさっています。

腹筋と背筋は体を支える重要な筋肉なので、バランスよく体を引き締めるためには押さえておきたいところです。

しかも3分!これならちょっとした時間にできます。

 

【地獄の3分】背筋ワークアウト

腹筋の次は背筋です。

これ結構私はしんどかったです。もともと体も硬いせいか、全然上がりません。背筋の衰えを実感します。背中って意外に鍛えられていなかったんだな、と思い知る3分です。

これのおかげは、4週間たった今、私は腰痛と肩こりが楽になりました。

 

【地獄の2分】本気のスクワット(食欲を抑える)

食事の前にやるといい感じです。

毎食前にやるのはきついかもしれません。足の筋肉は大きいので、鍛えれば効率よく痩せられて、おすすめです。私は子供(10kg)を抱っこしながらやっていますが、子供をあやせてちょうどいいので、パパさんはぜひママさんと一緒にPCやスマホで流しながら一緒にトライしてみてください。

 

そして…

今までの全部やってみたけど、こんなの軽くてトレーニングにならない、全然物足りない!というストイックなひとへの追加メニューがこちら!

【超地獄の3分】HIITトレーニング(ハード)

HIITトレーニングの上級編です。上記に加えてこの3分をやり切れば、かなりの運動量になります。

今まで定期的に運動をしていた人におすすめです。小・中学生で体力があり余ったお子さんがいるなら、一緒に体力の続く限りリピートするサバイバルモードで勝負を持ち掛けて、限界に挑戦してみるのもいいかもしれません。

 

【男性向けの3分】二の腕を強く逞しくする自重トレ

ただ腕立て伏せするだけでは物足りなかったので、このトレーニングをやっています。

ジムでバーベルやケーブルマシンを使って鍛えていたけれど、家には器具が何もない・・・と悲しみに暮れている男性におすすめです。

見た目以上にシンドイです。

 

 

まとめ:数分なら何とかなる

有酸素運動なら30分しないと…とか思うと、すごく気が重いし、そんな時間取れないし、ストレスたまりますよね。

数分のワークアウトを、やれるとき・やりたいときにすぐやる!

これが、最もストレスなく確実にできることだと分かりました。

緊急事態宣言が一部解除になり、これから新しい生活様式での生活がスタンダードになっていったとき、お金をかけずに自らのフィジカルを保てるスキルはますます重要になっていくでしょう。

私も今ある中でできる事を探して、また皆さんにご紹介できるようなものが生まれればいいなと思います。

【AC】Step8「傷つけた人」その⑤『会社の上層部の人々』

step8.傷つけた人の棚卸しです。

 

頭の中の厳しい自分の声

私は自分に厳しい。

強迫性障害の診断が下ったこともある。強迫的に自分を追い詰める性質がある。

たとえば、仕事。

私は何かやるべきことが生まれると、頭のなかでもう1人の自分が私を罵倒し始める。

「さあ早くやれ!まだ終わらないのか?本気でやる気あるなら徹夜でもなんでも仕上げられるだろ?やる気ないだけじゃん、口だけならやめちまえよ」

「お前に能力がないから、時間がかかって、救える人も救えなくなるんだよ。代わって貰えば?役立たず」

などという言葉が頭の中をグルグル回る。

焦り、苛立ち、半ば狂気に駆られるように仕事を終わらせる。

私はとにかく仕事を、早く質が高い状態でやらなければならない、と思い込んでいたし、今もその思考の歪みからパニック状態に陥りやすい。

 

なぜ追い詰められるのか?

なぜ、そのように強迫的に自分を追い詰めるのだろうか?

誰にも何も急かされていないのに、どうして焦るのか?

それは、私の新人時代を振り返ると少し紐解ける。

私はベンチャー企業に就職した。

当時新人の私は手探りで仕事をしていた。

上司は厳しい人だった。

頭のなかで響いている自分の声の発言は、ほぼそのときに上司から言われたセリフそのままだ。

見積の作りが甘いとクシャクシャにして投げつけられた。報告が要領を得ないときは「何語喋ってんだよ?日本語勉強してきたら?」と半笑いで馬鹿にされた。

仕事がうまくできない。やり方がわからない。自分より学歴が低い、よくわからない中年のおじさんに馬鹿にされる。「偏差値もスポーツも他人より優秀でなくてはならない」と両親によって洗脳されてきた私にとって、社会人になりたての頃は砂を噛むような毎日だった。

こんな自分でいたくない。屈辱で噛んだ唇から血が滲む。しかしこんな自分をなんとかしなくてはならない。

ルールだ。社会人には社会人のルールがある。それを守ればまたちゃんとできるはずだ。

私は社会人としての基本動作を徹底的に上司から学ぶことに専念した。どれだけ馬鹿にされても黙って行動で示し続けた。

ダメな自分から生まれ変わるにはそれしかないと思った。

こうして、私は社会人とはちゃんと仕事のルールに沿って動けない奴はゴミどころか寄生虫であり、いてはいけない人間だと思い込んでいった。

同時に、飲んだ煮え湯を胃に蓄え、内腑にグツグツと燃え滾る憎しみを溜め込んでいった。

歪んだ憎悪に支配される

そんな上司を見返したくて、仕事は即日やれるところまで何があろうとやった。

疲れたとかやる気がないなんて全てできない言い訳と自分の気持ちを切り捨てた。

やれるかどうかじゃない、やるか、やらないかだ。

そうやって、私は自分にどんどん厳しくなった。

やれることを最速でやるので成果がみるみる上がるようになり、当時いたベンチャー企業に見切りをつけて異業種の企業に転職した。

転職した異業種では、今までとはやり方が全然違い、一からやらなくてはならなかった。

しかし、即戦力として期待され入社した私は、分からないというのがすごく怖かった。

また、新人時代みたいにコケにされたくない。

そんな思いをしたくなくて頑張ってきたのに。

そうやって殻にこもり、気がついたら取り返しのつかない失敗をして、アルコール依存症とうつを併発していた。

再び叩きのめされ、地に落ちた。新人以下に降格され、また煮え湯を飲む日々が始まった。這いつくばって耐えた。

再び這い上がってきたとき、「会社」や「上司」や「仕事」に対する憎しみは深く重く私の精神にのしかかり、私を支配していた。

 

正しさに囚われた怒り

「私を2度も精神的に殺したのだ。

お前たちは正しくなければ嘘だ。

なぜなら、正しくないのに私をコケにしたり寄生虫扱いするのは、道理が通らないからだ。

打っていいのは、打たれる覚悟のある奴だけだ。

つまり、お前らは覚悟しているはずだ。私に打たれて死んで、同じ煮え湯を飲むことになっても、それを覚悟の上で私を打ったのだから、よもや恨むまい。

さあ、力の限り復讐してやる。

私をコケにしてきたことを泣いて詫びるがいい。私はミスしない。お前にもミスさせない。今までと同じ煮え湯を浴びるほど飲ませてやる。」

 

こんな気持ちで仕事をしていた。

当然、上層部の理屈に合わない話は全て理論武装して叩き潰しにかかった。

会議で意気揚々と発表しようものなら、質問という名の糾弾で、二の句を告げなくさせようと躍起になった。

上司も上層部も、私が攻撃していない同僚すら、私を警戒する様になっていった。

私が参加する会議はいつも嫌な緊張がはしり、私が口を開くと皆が黙った。

 

私はこんなことがしたかったのだろうか。

今まで正しさを押し付けてきた階層の人たちを正しさで黙らせるのは、何とも言えない快感があった。私は怒りに耽溺していた。怒ることを嗜癖にしていた。

それは、私がなりたかった姿だろうか。

違う。

それは、やられて嫌だったことを、やり返しているだけだ。やられて嫌だったことをやりたいわけじゃない。

だって私はあのとき怒りで覆い隠して見ないようにしていたけれど、本当はすごく悲しかったのだ。

一生懸命やろうとしていることを馬鹿にされて、辛かった。

相手が自分だったら、その気持ちを味わせたいだろうか?

そうではない。私はそんな非道い人間でいたくない。

 

彼らを私だとして罪を振り返る(謝罪の言葉)

私は、自分の悲しみや怒りを抱えきれなくなっていたことを認める。

悲しい、つらい、腹が立つ、と言えなかった環境で、吐き出せなかった思いを溜め込んだ。当事者ではない、新たに出逢った罪のない人たちを、その人そのものを見ずに、上司や会社という立場に反応して、私は自発的に彼らを傷つけることをたくさん言った。

彼らもまた完璧ではなく、精一杯やっている人間のひとりであり、新人だった当時の私のように純粋にやっていたかもしれないのに、うがった見方をして彼らのやることや語る夢を馬鹿にした。

その行為により、どれだけ傷つくか痛いほど分かっていたはずなのに、自分の憎悪を八つ当たりで吐き出す道具のように扱い、尊厳を傷つけた。

私がやったことは、彼らにとって不当な暴力だった。

大変、申し訳なかった。

私がどんな人生を歩んでいたとしても、彼らには関係がないし、彼らを傷つけていい理由にはならない。

私が相手なら、そう思う。自分が傷ついた事実は変わらないから、謝ってほしいと感じる。私が彼らに怒りを与えた事実に私の過去は関係ないから、謝罪するべきだと考えるだろう。

私は渋々ではなく、謙虚に、正直に、そして心から自分の過ちを認める。

私は後悔している。行いを悔いている。

同じ痛みを味わせたいと嗜虐心に駆られて彼らを傷つける振る舞いをしたことを恥じている。

本当に、申し訳なかった。

 

まとめ:繰り返さないために

私は彼らを傷つけた罪を心から認め、再び同じ過ちを繰り返さぬよう、自分自身を点検し続け、自分の認知の歪みに常に素直に向き合い、ライフスキルを得て誠実に生きていきたい。

私は、自分自身の至らなさ・無力さを認め、私を「回復に向かう力」が導いてくれるのに任せよう。

そのためにできること(棚卸しを通じて自分自身に向き合うこと)を、無理なく弛みなく限りなく謙虚に続けていく。

 

全ての源は、私のなかにある。

他人のなかには、もう探さない。

憎しみや悲しみに塗れることに固執せず、手離して、この歌のように、爽やかで鮮やかな生を全うしたい。

 

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう

かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっと歌おう

閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される

はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充(み)たされてゆけ

海の彼方(かなた)には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

「いつも何度でも」──『千と千尋の神隠し』より──

覚和歌子作詞・木村弓作曲