投稿者「ちあき」のアーカイブ

【AC】恨みこそ生きる原動力だった私が、恨みを手放したい理由

恨みこそ、私が生きる原動力だと思って生きてきた。

私に、死なずにもう少し生きようと思わせてくれたのが、恨みだった。

「馬鹿にされたまま、コケにされたまま、このままじゃ終われねぇ」

「絶対に何十年かかっても復讐してやる」

「味わった苦しみを何十倍にもして絶対に返してやる」

そう思えば、ふつふつと腹の奥底から、赤く黒いマグマのようにエネルギーがどろりと湧いてきた。もう枯渇し機能を失ったかと思われた手足を再び動かしてくれた。

私が当時生きるために、恨みや憎しみはなくてはならないものだった。

 

嗜癖としての「恨み」。

身体も精神も、臥薪嘗胆を信念に鍛え上げていった。

恨みや憎しみを、何度も何度も思い返しては、奥歯を噛み締めて眠った。

まるで味のなくなったガムを何度も口に入れて咀嚼するように、しつこくしつこく思い出し、私はいつしか、恨みを嗜癖に使うようになっていた。

恨みを抱いていれば生きていくことができる。

この絶望的につまらない世界を生きるために必要なエネルギーがもらえる。

自分の他の向き合うべき問題を見なくても済む。

自分が正しくて相手が悪いという構図に、安心することができるから。

そうやって、安易な手段に頼っている状態を、嗜癖に使っているという。

「怒り」「憎しみ」といった負の感情に耽溺することによって、他のことを見ないようにしてきた。私はそうして生きてきた。そうでなくては生きられなかった。とくに小さい頃はそうだった。

その人生を通じた生存戦略の成功は、強烈に、痛烈に、私に刻み込まれている。

成功体験を繰り返すべく、私は今も、「恨み」を最も使いやすいエネルギー源にしていたのだと思う。

 

しかし残念なことに、嗜癖としての恨みは、人生をいい方向には向かわせてくれない。

なぜなら、人生は理不尽の連続だからだ。

人生は常に不平等で、恨もうとすればキリがないほどだ。

自分に落ち度がなくても損をするし、傷つくし、納得がいかないことがたくさん起こる。

そのひとつひとつに恨みを抱き、憎しみに身を焦がしていては、とても身が持たない。

理不尽さに巻き込まれて、恨みや憎しみに浸ってばかりいると、自分で自分の人生を台無しにしてしまう。

出来事についてはたしかに、犯人・加害者の選択で起こされたものだが、その後どう考えどうとらえ、どう行動するかは、自分自身が決めることができる。

相手のせいでこうなった、と考えるのは、自分の大切な人生の決定権を、人任せにしていることに他ならない。

もし今、人生が台無しになり続けているとしたら、他ならぬ自分自身が、自ら「人生を台無しにし続けること」を「選択している」のである。

 

そうはいったって、許せるものか。

あんなにひどい目に遭わされたのだ、あんなに私を傷つけたのだ。

誰が許してなどやるものか。絶対に報いを受けさせたい。許せない。殺してやる。

 

そう思うのも無理はない。私だって、もし妻や子供を殺した犯人がいたら、迷いなく殺すだろうし、それで何年ぶち込まれようと知ったコトか、と思う。

 

しかし、ふと客観的に考えてみると、少し違った見方もできる。

私がもし憎しみに狂い復讐心に駆られて犯人を殺したとしよう。

そうすると、そのあと何十年かは刑務所に服役することになる。犯人が複数だった場合は無期懲役か、最悪死刑である。

そのことで、生き延びていたとしても、とても長い時間を刑務所で過ごすことになる。刑期を終えても不当に就職しにくくなったり、謂れのない罵声を浴びせられたりするかもしれない。

そうなったとき、私はおそらくほぼ100%、毎日殺した犯人のことを繰り返し思い出すことになる。

私が、恨みや憎しみにより行動を選択したことにより、私は犯人という存在に一生縛られたまま生きていくことになる。

何の罪もない子供や女性を殺すような「とるに足らない存在」のその人を、いつも何度も思い出すことになるのである。

それは、本当に私が選択したい生き方なのだろうか?

 

私にとって大切なのは妻と子供であり、犯人ではない。

犯人が息をしているのが許せない、この世に存在しているのが許せない、だから一刻も早く亡き者にしなくては、というのはとても共感できる。そのためなら、何もかも無くなって構わないともまで思うかもしれない。

しかし、刑事事件の罪を裁くことは、私が人生を賭してやらなくとも警察と検察が仕事でやってくれることだ。司法国家なのだから、犯人の処分は専門家に任せて私は大切なものだけを思い出し慈しみ、自分をくだらないものに縛らせずに今を生きていくことも、選べる。

失ったひとやものは、もう二度と返ってこない。

それは残念ながら、人の身では何をどうやっても変わらない。

犯人を責めても、もう犯人にも償いようがない。

その人が更生するかどうかも、コントロールすることもできない。

数奇な運命でつらい形で交わりはしたものの、おそらくもう人生に登場しない、自分にとって最も大切でない人を、その後のまだまだ輝く可能性がある、そうであれと願ってくれた人たちがいた、「大切な私の人生」に関わらせてよいものだろうか。

そう考えると、やはり私刑というか、報復というのは、恨みへの囚われであり、結果的には虚しい人生を送るきっかけになってしまうんじゃないかなと思う。

 

いじめられた「恨み」を振り返る。

同じように、私を小さい頃にいじめてきた人間。

彼らの名前を私は今もフルネームで覚えていて、顔を見ればすぐにわかるし、出会ったのなら必ず合法的な形でネチネチと復讐をするつもりでいた。

しかし、恨みや憎しみについて12ステップ・プログラムを基に学んでいくにつれて、私は「彼ら」からのコントロールから逃れられていないのではないか、と思うようになった。

この期に及んでまだ、30年も前の事象に影響されているという事実。

それは「彼ら」の行動の結果を大事に大事に引き継いでいるようなものだ。

おそらくその辺で鼻くそでもほじって生きているであろう、もはやどうでもいいその他大勢に成り下がった彼らの意志を後生大事に引き継いで、私は生きていきたいだろうか?

否だ。

生きていても死んでいてもどうでもいい人たちに、何が哀しくてコントロールされなくてはならんのだ。そんなのは嫌だ。

 

彼らは私をいじめたことなど覚えていないだろう。

覚えていても、「ああ、いたな」くらいだろう。

もし謝る気があったとしても「じゃあ腕一本置いていけ」というような私の憎しみには到底向き合えるはずもなく、代償の大きさに尻尾を巻いて逃げていくだろう。

つまり、彼らは変わらない。変えられないのだ、私には。

 

彼らの罪は、彼らが考えればいい。

子どもができたとき。大切な子供が、知人がいじめられたとき。

そういうときに、思い出せばいい。

どれだけ自分がひどいことをしたのか。どれだけ他人を傷つけたのか。

それを知らしめる役目は、彼ら自身にある。

それすらわからない人種なら、尚更今後関わることもない人種なのである。

 

恨みを手放す、ということは容易ではない。

私はそれをこそ活力にしてきて、希望や夢や友情などは、正直反吐が出ると思っている。

基本陰湿でアウトローな我が精神は、そう簡単にはホーリーにはならない。

でも「恨み」を『もっていてもしかたないもの』だとは、思うようになった。

私たちの身の上に過去に何が起こったとしても、そのことに今の自分をコントロールさせるべきではないのである。

 

ありがとう、そしてさようなら、「恨み」。

私はおかげで楽しい思い出がほとんどないまま成長してきた。

生きるために、つらーい、くるしーい、さびしーい、にくーい、そんなことばかりを思い浮かべて生きてきたから、楽しい・ワクワクする、という感情はほとんど覚えがない。

もっと美しいものやワクワクすることが、目の前には広がっていたはずなのに。

私はそういうものに見向きもせず、醜くてドロドロした黒いものばかりを目に焼き付けて二度と来ない時間を過ごしてしまった。

実にもったいない。

本当にもったいない。

そのときにしか感じることができない喜びや驚きを、素通りして、私は何をしていただろうか。

私は、これからは、もっとそういう美しいものをいっぱい見て生きていきたい。

せっかく産まれたのだ。与えられた時間を楽しまなくては損だ。

そのためには、恨みや憎しみは、荷物になるだけだ。

もう役割を終えて、私を充分生かしてくれた。

今まで本当にありがとう、恨みや憎しみ。

君たちから卒業して、私は自分が見たいものを見ることに集中して、人生を過ごしていきたいと思う。

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ;ステップ1

1、私は、◯◯することへのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。

これは、〈認知のステップ〉で、一種の「敗北宣言」です。とにかく自分は「困っている」。いろいろやってはみたがどうにもならず、もうお手上げ状態である…と認めることから、このステップは始まります。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P208より引用

 

 

 

人に認められること=承認欲求

「私は、人に認められること=承認欲求へのこだわりから離れられず、この執着のために日々の生活がままならなくなっていることを認めた。」

私は、人に絶対に負けたくないし、認められたい、評価されたいと強く思う傾向がある。

そのため、攻撃的な態度をとったり、人との関係に軋轢を生んで孤立したりする。

今までそうした自分の問題で、人を遠ざけてきたように思う。

私の問題だった。人が冷たいわけでも、私を阻害しているわけでもなく、私が人を遠ざけたのだと思う。

そして、私はそのことで苦労してきた。寂しさを感じてきた。恨みや憎しみを己の中に育ててきた。

生き方が、歪んでいると思う。

 

たしかに私はASDとして当初社会から受け入れてもらえなかったことは事実だと思う。

虐められ孤立させられたことで人への不信感が膨張していったことは、確かに外的要因だ。これは当時「変えられないもの」だったと思う。

だからこそ今、この腐りきった社会に少しでもいい影響を与えていきたいというモチベーションになっているというのもある。

しかしながら、今フラットに存在を否定されることなく対話できる人々に囲まれて、はたしてそのまま恨みや憎しみを引きずる必要があるだろうか。

今、このライフスキルは必要ではない。

昔のように疑心暗鬼になって、意味もなく言葉の裏を読んだり、悪意を勘ぐったりしなくてよいのに、私が、そうして生き方のスタイルを変えていないから、私の周囲の見え方も変わらない。

私の問題だというのは、そういうことだ。

 

なぜ認められたいのか?

認められたい、負けたくない。

その根本はなんなのか?

おそらく由来は、機能不全家庭での経験にある。

私は結果を出さないと認めてもらえない、愛してもらえないという不安とともに幼少期を過ごしたように思う。

スポーツで、学業で、周囲の子よりも優れていることが、親を喜ばせ悲しませないための唯一の方法のように感じていた。

親を悲しませないために、私は行動を選び、考え方を選び、人生を選んでしまった。

その生き方はまるで操り人形のようで、生きている実感がまるでなかった。誰かの他の人生を生きているようで、成功しても嬉しくなかった。ただただ失敗だけが恐ろしかった。

その苦しさは今も私の中に大きな爪痕を残している。

比較されることは、生きるか死ぬかのゼロサムゲームのように感じる。

だから、例えば対戦ゲームなどは全然楽しめない。

負けることは許されない。負けている状況はあってはならない。だから、簡単に対戦相手に勝てないなら、対戦相手をゲームに参加できなくしよう、排除しなければという焦燥感にかられる。たとえばPCを攻撃してサインインできなくしたり、直接暴力を加えて別の形で報復したりしようと考える。

抱えきれない怒りでコントローラーは壊すし、感情を全く制御できなくなる。

そのことを、私はとても恐れている。

承認欲求を見て見ぬ振りをしてみようとしたこともある。

私はそんなものは欲しいと思っていない、と一生懸命自己洗脳しようと試みたり、大した価値がないという証拠を集めようとしたり、さまざまなそうした抵抗は、大きすぎる感情の揺らぎの中に飲み込まれて、ことごとく失敗してきた。

見ないようにしようとすればするほど、それは大きく重くなって背後から追いかけてくるのだった。

「いろいろやってはみたがどうにもならず、もうお手上げ状態である」とあるが、まさにその通りである。

結局私は、人に褒められたいし、認められたいし、人より優れていたいのだ。

それはまぎれもない本当の気持ちで、それに蓋をせずに認め、その欲求に振り回されて問題が起きていて、それを自分ではどうすることもできなかったことを認めるべきだ。

それこそがスタートなのだと思う。

勝っていること。

認めてもらっていること。

そういう他者評価でしか、自分の存在価値を自認できていない。

なぜか?

自分で自分を認められていないから。自己肯定感が低いから。「自分が認める自分」を信じていないからだ。

自分の価値観やこれでよいという人生の指針を本当に信じることができれば、それをこそ人生の柱に据えて、堂々と生きていくことができるのである。

そのためには、自己効力感を持ってさまざまなチャレンジをして、成功も失敗も味わう経験を積み重ねることで、自分は乗り越えていくことができるという真実を体得していく必要がある。

それを幼少期に過干渉な両親から取り上げられて、健全な自我を育めなかったことが、この自信のなさの根源である。

しかし、今、親から離れて自立して生きている。それだけで私は私を褒めてあげてもいいのに、それを褒められずに自分にも他人にも厳しくあたり、完璧を求めて責め立てている。それは不健康なやり方を必要がないのにまだ続けているということだ。

過去は変えられない。未来はわからない。

しかし、今なら影響を及ぼすことができる。今の生き方なら自分で選ぶことができる。

 

 

まとめ;「もう自分には手に負えない」と認める

アルコール依存症でもそうだったが、「私は酒に対して無力であり、自分にはどうにもできないこと」を認めることから、問題に取り組む前提が整う。

無力であると認めることは、コントロールできないと認めることであり、認めがたいものである。

なぜなら、風に舞う枯れ葉のように、とても弱い立場にたつことを許すことになるように感じるからだろう。

でも、私は承認欲求に悩まされ、それに全く太刀打ちできなかったことを認めざるを得ない。

本気でこのコントロールを手放すには、まずこの立ち位置に立たなくてはならない。

続けてステップを踏んで己から逃げずに見つめ直していきたい。

 

【共依存】パワーゲームを降りるための10のステップ:Prologue

他人をコントロールし、自分をコントロールし、自分の運命をコントロールしようと努力しつづけた人間は、必ずその限界にぶちあたります。

(中略)

嗜癖者は、「意志の力」を信じています。自分の困った事態を、自分の力でなんとか治せると思っています。けれども、意志の力を信仰すればするほど、自分でコントロールできない部分が多くなっていき、自分の中から自分への反乱が始まります。川の流れを、あちこちせきとめて、思い通りにコントロールしようとしても、ひと雨降ったら氾濫してしまうようなものです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P201〜203より引用

 

 

パワーゲームを生きてきた私たち

パワーゲームとは、支配する・支配されるというコントロールの関係性のことだ。

私たちは無意識のうちに、親子関係に始まり人間関係のパワーゲームに否応なく巻き込まれてきた。

人間関係のパワーゲームは、お互いのコントロール合戦である。

他人の思い通りにしなかれば生きていけないと感じ、他人のいうまま・されるままになるとき、人間は自分の無力さを感じ、自尊心を失います。

そうはなりたくないので、逆に相手を支配し、自分の思うままにコントロールしようとします。誰かをコントロールできている間は、自分の無力を感じずにすむからです。親の思うままにコントロールされていた無力な自分を忘れることができ、自分が他人をコントロールできるほどに力をつけたと感じることができるからです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P125より引用

 

つまり、自分の無力さをみたくない、そんな怖いことは認めたくないので、他人や自分をコントロールしたいのだ。

どうせなら、コントロールされるよりコントロールする側に回ろうとする。

この上下関係のコントロール合戦に参戦している限り、どちら側に属していても苦しいままだ。

なぜなら、冒頭にあるように、他人はおろか自分すらコントロールできないのが、この世の理だからだ。

意志の力=理性を崇拝する『理性教』の信者として懸命にコントロールできるようにあれやこれやと試行錯誤をしてきただろう。私たちはその試行錯誤について飽き飽きするほど繰り返しやってきたはずだ。

それを突き詰めれば突き詰めるほど、極めようとした人ほど悟る。そんなことは土台無理な話だったのだ、という真実に気づける。そして気づいて、愕然とする。

 

子供の世界に不法侵入する親

私を育てた両親や、周囲にいた大人たちは、その真実にたどり着けずにいた人たちだった。

自分や他人をコントロールできる、という信仰にすがり、ついぞその邪教を捨てられなかった悲しい人たちだったとも言える。

子供は親に見捨てられては生きていけないので、簡単に支配できる。

そして、「あなたのため」という都合のいい言葉で自分の世間体を守りながら子供の人生をコントロールすることができる。

親には、それができる。そして、それは親が最もしてはならないことだ。

子供の人生は、親の生き直しのためにあるのではない。

その子の人生は、その子が思い描いた人生を描き出すためにある、その子専用のキャンバスだ。

それなのに、親は、あれやこれやと転ばぬ先の杖を無理やり持たせる。「今の時代英語はしておかないと後悔するから」「ある程度の学歴がないと将来苦労するから」「間違った道にいかないようにしっかり躾けないと」などと、自分の価値観を押し付けて、勝手に他人のキャンバスに色を塗り始めてしまう。

そういう横からの妨害を受けて、子供は人生観を歪ませていく。

「こうでなければならない」「お母さんのいうとおりにしなくてはならない」で何も自分では描き出すことができずに、親が勝手にペインティングしていく様子を眺めるほかない。

なぜか?

そうでないと愛してもらえないと思うからだ。

本当はいやだけれど、そうすることが愛だと信じたい。私のためにやってくれているはずだ、なぜなら私は両親に愛されているはずなのだから、と必死に思おうとする。

親は「ほら、あなたのためにやってあげたのよ」「こんなに綺麗な絵になって幸せでしょ」という。

子供は、それが愛情だと信じたいから、感謝しなくてはならないと思い、引きつった作り笑いで必死に「ありがとう、お母さん」という。

そんなのが、昨今の母と子の麗しき地獄絵図であり、いわゆる「幸せな一般家庭」で行われている精神的虐待である。

 

眼を醒すべき親のひとりとして

親が、寂しいからだ。

自分が必要とされたい。自分を絶対的に必要とする存在が欲しかったから、子供をコントロールして自分が安心するために都合よく利用したのだ。

「あなたのためだから」という建前を盾にして、子供の人生を勝手に無茶苦茶にした。

それは、親が、親自身の人生を責任を持って生きていないからだ。

 

 

いい加減、私たちは降りなくてはならない。このパワーゲームという無限螺旋を。

この不毛なマウント合戦をやっている限り、負の世代連鎖は止まらないのだから。

 

ここまでの話を読んで、以下のような感想を持った人はいないだろうか。

「でもそれが親の役目でしょ?」「それが親の愛情というものだ」「子供は判断がつかないんだから親が導いてあげるのが当然でしょ」

 

これこそが、まさしく『否認』している人の反応である。

何を否認しているかというと、自分がしていることが「自分のためである」という本人にとっては認めがたい、耳が痛い真実を、否認している。

あなたがしたいからしている。

それは、子供のためではない。あなたのためだ。あなたの寂しさを埋めるためだ。あなたの人生の寂しさを埋めるために、子供を利用しているのと同じなのだ。

親が親として最もするべきことは、2つだ。

「子供にとって掛け値無しに存在を肯定してくれる安全基地であること」と「自分自身をハッピーにすること」つまり、自分自身のセルフケアを行い、人生を謳歌していることだ。

人生の先輩として、この世で生きていくことは素晴らしい楽しいことなんだと、背中で語ることは、最も手本となる大人の姿だ。

「私はあなたが残す結果がどんな結果だろうと、どんなに失敗しようと、あなたがあなたである限り愛しているわ」

こういってくれる安全基地があるからこそ、人は冒険ができる。親元を巣立って外の世界に飛び込むことができる。子供がいつまでも家や家族から離れられず巣立っていかないのは、その子にとって家庭が安全基地ではないからだ。

 

「私はあなたを尊敬しているしいつも愛している。でも、私は私の人生を楽しむことで、手一杯なの。あなたはあなたが生きたい人生を自分で選んで楽しんで頂戴」

そういう、親が精一杯誠実に人生を生きている姿を見て、子供は自分の人生を選び取っていく。

なりたい自分を、親に褒められるかどうか、社会的に褒められるかどうか、などというものと関係なく決めて責任を持つことができる。

 

そうなるために、私は私のために、これから『パワーゲームを降りるための10のステップ』を進めていきたいと思う。

興味がある人は、私と一緒にやってみてほしいと思う。

【AC】STEP11:信じるベクトルを変える

以前、「私は無神論者だ」という旨の記事を書いた。(【依存症】神を信じない人のための「ハイヤー・パワー」

しかし正確には、私は『不可知論者』だそうだ。

7月20日に開催されたプログラム・フォー・ユー勉強会も、大変勉強になった。

「神様に対する考え方」の持ち主は、全部で3種類に分類されるという。

1、無神論者…神は存在しないということを信じている人。

2、不可知論者…神はいるとも、いないとも言えない、自分にはどちらも証明することは出来ないという人。

3、信仰者…神は存在していると信じる人。

この分類でいくと、私は2だなと思う。

いるともいないとも言えない、神様が実在しないということは私自身確証をもって論理的に否定できないし、いるというにはあまりにも世の中がまともではないので、皆が言うような神様仏様は信じ難い、という感じだ。

今後は不可知論者として自己表明していこうと思う。

 

理性という神

さて、勉強会のなかで大変興味深かったことが、不可知論者としての私が信じてきた信仰に気づかされた以下の言葉だ。

「私たちは、理性を神に見立てて忠実に信仰してきたのではないだろうか」

この発想は目からうろこだった。

たしかに。たしかにそうだ。

私は自分の「理性」が万能のように思っていなかったか。

理性こそが自分を律し正しい道に導くと信じてきた。あらゆる人から成熟した人間としてそうすべきだと教えられてきた。

しかし、実際はどうだ。

将来設計も、己の日常生活も、酒を飲むということすらも、理性ではどうにもならなかった。理性ですべてをコントロールできる、という夢物語のような信仰はことごとく裏切られてきた。

理性、いわゆる大脳新皮質、特に前頭前野を、まるで「神」のごとく信奉して生きてきたように思う。

つまり、現代人は、不可知論者を自称しながら、その実「理性」という神を崇め奉る信仰者である。『理性教』の信者だ

 

「信じる」という力のベクトル

そう考えると、私たちは「信じる」という力のベクトルに導かれて、今までの人生を歩んできたのではないだろうか。

今まで信じるものは「理性」という神だった。

なんとなく「神様」に拒否反応を示すのは、なんだかよくわからない、いるんだかいないんだかわからない「自分の外側にある得体のしれない神」を信じ込まされるのではないか?という警戒心からくるという。

めっちゃわかる。

信じるのはあなたの勝手だけれど、私に信じることを強要しないでくれ、というのが、まさに私が感じる抵抗感である。

だから、仏教もキリスト教もイスラム教も神道も、なんだか胡散臭いと今も思っている。

だから、12ステップ・プログラムの本に「神」という単語が出てくると、眉をひそめる。

それは、私の警戒心だということか。

 

そのような、外側にいるよくわからん神を信じなくてもいい。

私たちがSTEP11でするべきことは、「信じる」ベクトルを変えることだ。

今まで他人も自分も何も信じてこなかったと豪語してきた私ですら、「理性」という神を信じることに導かれて生きてきた。その事実から、人は信じることをやめられないということがわかった。

やめられない。何かを常に信じている。信じることが、生きることとセットだともいえる。

そう考えると、切っても切り離せないなら、今まで信じてきた神様である「理性」を信じるのではなくて、別のベクトルに「信じる」をシフトする必要がある。

「理性教」の信者としての私はどんな信仰だったかと言えば、

「こんなに欠けていて至らない私が幸福になれるはずがない」

「努力が足りない自分が成功するはずがない」

「自分が間違いを犯すのは理性を働かせていないからだ」

「正しくあらねばならない、強くなければならない、自分で責任を取れる行動をしなくてはならない。だって理性がある大人なのだから」

こんなクソ堅苦しくてしんどい信仰だった。

そして世界はその通りになった。理性で本当の自分を押さえつけようとすればするほど、ストレスはたまり、動きは固くなり、成果が出ず、喜びも幸せも遠ざかり、人々はもっと遠ざかっていった。

そして私の友は長らく酒だけだった。

つまり、もう大失敗なのだ。「理性教」は悪徳宗教だったということが、今までの人生でもうばっちり証明されている。

 

「理性教」よりも確かな「信じる心」

では、何を信じようか?ということになる。

「理性教」はダメだった。他のキリストだの仏陀だのも胡散臭い。

それならば、「内なる神」はどうだろうか?

「内なる神?」そんなもんがいるのか。

よく振り返ってみよう。

「理性教」を信じていたときでさえ、私の内には、私にはコントロールできないほどの大きな力の流れがあったのではないか。

それは、「『理性教』を信じる私の世界観を世界に投影する」ほどの強大な影響力を持ち、私が思い描いているその通りに地獄を実現させてきたではないか。

ダメだと思う自分をどんどんダメにして、今こうして問題に向き合えるチャンスを与えてくれて、出会うべき仲間に声をかける勇気をくれた、いつもそばにあった得体のしれない大きな力。

それが、12ステップ・プログラムがしきりに言う『ハイヤー・パワー』という物の正体なのではないかと思う。

つまり、なんかめっちゃすごいホーリーな何かがこの世にいて天地創造したりしてこの世のすべてをコントロールしてます☆的な胡散臭いパワーではなくって、私が今まで生きてきて、いつも傍らにい続けてくれる力。私たちそれぞれの応援団、小さな内なる味方。正しい道ではなく、いつでも「私が望むように」道を拓き助けてくれようとする力。そんな力が、「ハイヤー・パワー」だと考えてみると、私はとてもしっくりくる。

 

若かりし頃、伊達公子選手を育てたテニスのプロコーチ、田中 信弥プロが合宿に来てくれたとき、こんなことを話してくれた。

「毎晩、君がなりたいプレーヤーの姿を思い描いて、そのようになれると信じて寝るといい。ウインブルドン(イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの4大国際大会の一つ)の決勝で世界ランクNo.1の選手とフルセットで戦って勝つシーンを、鮮明に思い描いてみてほしい。そうすれば、君は本当にそうなろうと勝手に行動するようになる。そして、気が付いたら思った通りになっているんだよ。」

当時高校生でこの話を聞いた当時、私は「このおっさん、とんでもねー嘘つきだな」と思った。

「願うだけで何でも叶うなら、みんなウインブルドン優勝しちゃうじゃん、そんなわけねーじゃん」と思った。

でも、今思えばそういうことを言いたいんじゃないんだな、と理解できる。

「なりたい姿を思い描く」ということは本当に強力な引力をもつ。まさに、「信じる」力の強いベクトルが働くのである。

こうなりたいな、と思って街を歩いていると、理想像に近い人を無意識に目で追っている。何をしているかをよく見る。いつどんな風にどんなことをすれば、この人みたいになれるのか、勝手にアンテナが高くなる。

情報を無意識に脳に集積していった結果、ある日突然「あ、こうしてみればいいのかな」と思いついて、それを即座に実行しだす。

なりたい姿を思い描いたことが、実際に行動を変容させ、自分自身の世界を変えていく。

これは、いつも、いつでも、誰のもとにもある、強力なその人だけの専属サポーターのように、悪い想像も良い想像もその人の願望としてとらえて実現させるために私たちを引っ張ってくれる。

 

『魔法騎士レイアース』をご存じだろうか。

私は大好きである。CLAMPはある意味神だと思う。

主人公たちが飛ばされて冒険する異世界の「セフィーロ」は、意志の力の強さが全てを決める世界で、信じる心が物語を左右する重要なカギになっていく。

「セフィーロ」のように、私たちが生きている世界も信じる心がとてつもなく重要で、自分を、他人を、そして幸せを信じることが、この世においても重要なカギなのではないだろうか、と感じる。

 

 

 

頼れる協力者『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシング

つまり何が言いたいかというと、もう全部任しちゃえばいい、ということだ。

私たちはSTEPを行っていくうちに、コントロールを手放した。自分のことすらも、コントロールできない無力な存在が私たちだ。

だから、未来がなりたいようになるかどうかは、もうこの頼りがいのある専属サポーターの『ハイヤー・パワー』に任せて、私たちは他のことに没頭すればいい。

他のことって?

それは、今ココである。

瞑想や祈りを行なうのは、こうした「願いの実現」を『ハイヤー・パワー』君にアウトソーシングして、過去を憂うのでもなく、未来に浮足立つのでもなく、今ココのみに集中して一生懸命生きることに100%己の力を注ぐためだ。

なぜなら、私たちが「変えられるもの」は今ココの己の行動だけだからだ。

そのほかは、アウトソーシングした『ハイヤー・パワー』君が全部やってくれると信じる。信じて任せる。信じて手放す。

そうすると、そうするからこそ、未来は願った通りにすべて用意されていて、願った通りの世界にたどり着くようになっている。

なぜなら、今までそうだったから。これからもそうである可能性が高い。

そうでなかったとしても、私にはもうコントロールできないことだから、『ハイヤー・パワー』君を信じて任せる以外にできることは無い。そもそも分不相応なことだったのだ、過去や未来や結果をコントロールすることなど。

 

「われわれの意志といのちの方向を変え、自分で理解している神の配慮に委ねる決心をする」

出典:『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷 138Pより引用

 

正しくあらねばならないと律し罰するようなのは、私たちがこれから信じる神ではない。

それは、今まで信じてきた「理性」という神そのもの。

かつての信仰を捨て、私は、今までいつもそばにいてくれた協力者である『ハイヤー・パワー』君と人生をよりよく生きるということについてアライアンス契約を結んで、お互いを信頼し合いながら共に歩んでいきたいなと思っている。

【共依存】組織における最適化と個としての最適化の違い

会社こそ、おおかたの日本の男たちにとっての母なのです。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P93より引用

 

私は長らくサラリーマンである。

長く組織の人間として働いてきて痛感するのは、冒頭の斎藤学先生の言葉がまさにその通りだということだ。「自己犠牲」を美徳とする日本人の心根にびっしりとこびりついて離れない「共依存」という寄生虫。

この寄生虫は、心根に宿り、自我を喰らって成長する。

そして、自我を喰いつくされ空っぽになった宿主のなかにどっかりと胡坐をかく。

そういう恐ろしさと気持ちの悪さを、私は組織で働いていると感じることがある。

 

組織としての最適化

整理しよう。

組織で働くうえで歯車であり続けるために最も必要なものは、何か?

それは「忠誠心」である。

私心を滅して公に奉ずる、滅私奉公の精神で命令を遵守し、指示したことを的確にこなすことが「いい歯車」として重宝されるために重要なことだ。

そのためには、私心は邪魔でしかない。

メンバーは「組織の目的」を達成するために、個の目的よりも組織の目的を優先する事を良しとされる文化に徐々に染まっていく。

やがて、大きな生命体としての組織の一細胞として、個としての自己実現を果たすことなく、老朽化して排泄される。

 

個体として戦えないからこそ、私たちは組織をつくって共通の強大な敵に対抗してきた。

戦争で私たち日本人が「忠誠心」という狂気を発揮し世界を震撼させたことは、記憶に新しい。日本は、その類い稀な組織力・同調圧力で戦争を戦ってきた。

『神風特別攻撃隊』が特に象徴していると思う。

海外から「狂信的な自爆戦術」と恐れられた、通称『kamikaze』。

エチルアルコール(酒)を一発キメてさせてから、片道分の燃料しか積まれていない戦闘機に乗せ、「御国の為」に敵の戦艦に突っ込ませる。それをあくまでも自発的に促し、やり遂げた兵士の死を美談として語り、国のために死んだ勇敢な愛国者だと褒め称えて、他の者にも「国のために死ぬことが良いこと」だという圧力をかけていく。

そうやって組織の為ならば自分の命すら捧げる、という狂った献身を奨励した。

 

その狂気の正体は何なのだろうか。

 

自分の考えなど持たないことが推奨されているのですから「個人の責任」という感覚は育ちようがありません。お母さんの言うとおりにやってきた子供と同じに、会社のいうとおりに生きていく、会社という「家族」にとっての「よい子」ができあがります。

出典:『「自分のために生きていける」ということ 寂しくて、退屈な人たちへ』著者:斎藤学(だいわ文庫)P94より引用

 

 

 

自分なりの良心や正義より、「世の中はそういうもの」と悟ったふうに「個人の責任」を見て見ぬふりをして、誰かの言うとおりに生きていくことを、家庭でも会社でも奨励されるのが、日本の社会的道徳観だ。

そして、狂気の正体は、まさにこの社会的道徳観である。

会社に勤めている「自分は成功者だ」と信じて疑わない多くの人が、気づいていない。

自分たちが、組織として最適な行動を選ぶように飼いならされて、限界まで「個性」という筋肉をそぎ落とされている。その結果、彼らは自分ではまだわかっていないが、もう自分の足で立てないほどに筋力を失っている。

だから、組織に見限られるのが怖いし、そうなっては生きていけないから、より組織に貢献する「良い子」であろうと努力する。「良い歯車」だと判断されるための条件は、会社にとっての「良い子」であることだから。

そうして努力すればするほど、どんどん足はやせ衰えていく。

 

個としての最適化

そのように、組織の規律や世間や常識などの「自分の本心以外の何か」に隷属することが美徳とされる共同体での在り方とは対極に位置するのが、個としての最適化である。

個としての幸せの実現には、自分の感情や欲望に素直であることが前提条件だ。

「自分はどうありたいのかを最優先する」

「嫌なことを嫌という」

「ほしいものを欲しいという」

そしてそれらは流れる水のように流動的で、コントロールできないし、とらえどころがない。

そういう在り方そのままを受け容れて、社会・他人との境界線で押し合いへし合いしながら生きていく。

己の良心と正義に則り、己が信じる最良の実現に向かってうねりながら熱を迸らせる道のりこそ、手づかみ感のある幸せの具体的なかたちなのだ。

 

組織としての最適化とは、まるで逆なのである。

組織からすると、水のように流動的でコントロールできないのは困る。手足が勝手に動いては、求める体全体のバランスが保てないし、目的が達成できないからだ。

つまり、組織は、個が幸せを求めて動いてもらっては困るのである。

 

だから、「共依存」させることにより、支配してコントロール下に置こうとする。

男たちにとっての母、というのはそういう意味合いだ。

言うとおりにやっていれば、褒めてくれて、大事にしてくれて、責任から守ってくれる。

組織や共同体を優先することを、素晴らしいことだ、私たちは間違っていないんだ、と盲目的に信じて疑わないように、繰り返し繰り返し刷り込まれてきたのである。

例えば学校で。

例えば家庭で。

今まで歩んできた社会生活そのものが、組織の人間として最適の部品になることを奨励していて、共依存になるための英才教育だったと考えられる。

だからなんとなく皆が、この美しいと教えられてきたこの社会に対して、一種の気持ち悪さがぬぐえないのである。

 

勤め人が病んでいく理由

この「組織における最適化」と「個としての最適化」が拮抗しているので、私たちは悩み苦しんでいるのではないだろうか。

社会に否応なく育てさせられた共依存的な性質から、組織に奉じ、家族に奉じ、それで間違いないはずと最適化をすればするほど、個としての幸せは失われていく。

自分ではなく皆を優先させられるようになった自分は「大人になった」「成長した」と考えているし、皆そういって褒めてくれるけれども、その実自分の足で立っているとは言い難いということがなんとなくわかっているから、常に不安がつきまとう。

違和感に気づいて「個としての最適化」を進めようとしても、今度は社会そのもの「世間」が邪魔をする。

「いい大人になって聞き分けのないことを言うな」

「家族がいるのに何を勝手なことを」

「まともに育っていたらそんなことをするなんてありえない」

と口々に罵る。

共依存真っ只中の社会の構成員たちは、独りだけ抜け駆けして個の最適化にまい進する裏切り者をみると、許せないからだ。

お気づきの通り、「世間」というものの声は、共依存のそれだ。

一言でいえば「私は我慢してるのに、お前だけ我慢しないのは許せない」だ。

組織としての最適化を「大人の義務」「大人とはこういうもの」という倫理観や道徳観で正当化してきた自分が間違っている、本当は「個の最適化」が望みだったのだ、と知ってしまったら、頼りない自分のやせ細った足に向き合わなくてはいけないから、必死にそれを見ないために、真実に気づいた他人やきっかけをつかんだ他人を攻撃する。

そうやって、足の引っ張り合いをして、なんとかこの共同体を維持しなくてはならないという苦しみに対する怨嗟の声が「世間の声」だ。

 

では、私たちはどう生きるべきか?

そんなこと言ったって、国や家族や組織が崩壊すれば困るではないか。

結局、生きていけないではないか。

そう思うひともいるだろう。

 

それも確かに真実で、私たちは弱いからこそ共同体を創り、自然の脅威や命を狙う者たちから身を護ってきた。

社会の構成員としてのアイデンティティをなかったことにはできないし、一部保有していなくては、私たちが完全なる個として命を繋いでいくのは難しいかもしれない。

 

結局最も重要なのは、「あなたはどう生きたいか?」ということだ。

共依存しているのが居心地がいいし、子供が苦しもうがパートナーが苦しもうが、私はここから苦しい思いをしてまで動きたくない、というのであれば、それがあなたの生きたい姿のはずだ。

でも、本当にそうだろうか?

今まで本当に居心地がよかっただろうか?

毎日苦しかったのではないだろうか?

 

それを変えることは、自分にしかできない。

自分の感情や欲望は、自分しか知らないんだから。

あなたのことは、あなたしか知らない。

【恋物語】最終回の貝木さんマジカッコイイ

私にあなたの何がわかるのか?と問われれば、私はこの貝木泥舟の言葉を返したい。

色々調べた。だが、そうだ。何も知らない。

重要なことは、何も知らない。

お前のことは、お前しか知らないんだから。

だからお前のことは、お前しか大切にできないんだぜ。

そしてお前の夢も、お前にしか叶えられない。

 

組織としての最適化には、様々な理論がある。なぜならそれが「正論」だからだ。だからHowtoは世の中にいくらでも転がっている。

誰もが知っている。どうすればいいのか、何が正解なのか。それ自体は、実はとても簡単なことだ。

しかし、個としての最適化を求めることは、自分にしかできないし、答えは自分のなかにしかない。攻略方法もないし、王道もない。誰かに聞いても、その内容を自分の脳みそで考えなくては、答えには繋がらない。

 

どちらかだけの最適化だけを考えるのではなく、バランスなのだと思う。

組織に属していないと生きていけないなら、ある程度のラインを定めて従順な振りをしておいて、組織を利用するくらいの気持ちでいればいい。

相手は利用しようと思って私たちに関わっているのだから、逆に使って悪いことはない。

私は、優先すべきは、本来「個としての最適化」だと思う。

個人として人生の目的達成のために、ある程度社会を利用して、自己実現していく。

それこそが、イライラしたり誰かのせいにしたり言い訳したりしないで、堂々と人生を謳歌するための秘訣であるように思う。

【メンタル】映画『孤狼の血』に学ぶ、人生の生々しい輝きについて

 

私は元来、あんまりヤクザ映画が好きではない。

不良がなんかケンカするだけの映画も好きではない。

でも、この映画はとても好きだと思ってしまった。

その証拠に、2日で3回観た。Amazonプライムで。

 

 

物語の舞台は、昭和63年、暴力団対策法成立直前の広島。所轄署に配属となった日岡秀一(松坂桃李)は、暴力団との癒着を噂される刑事・大上章吾(役所広司)とともに、金融会社社員失踪事件の捜査を担当する。常軌を逸した大上の捜査に戸惑う日岡。失踪事件を発端に、対立する暴力団組同士の抗争が激化し…

(C)2018「孤狼の血」製作委員会

監督:白石和彌

主演:役所広司松坂桃李真木よう子

出典:Amazon.jp『孤狼の血』より

 

 

「呉原というダーティな街に舞い降りた天使だと思って、私は演じました。」

と語るのは、主役の大上章吾を演じた役所広司である。

真ん中の滅茶苦茶厳ついおっさんが天使?と思うかもしれないが、見終わった後、なかなかどうして、天使に見えてしまうから不思議である。

 

この映画は、安いバイオレンスやアウトローへのナルシシズムに酔った作品とは違う。

冒頭からしっかりグロいので、近年の映画では類をみないそういった残虐で派手な描写に目が行きがちかもしれないが、そういった表現手法はあくまで脇役だと感じた。

本筋は、白石和彌監督が語った以下のコメントに凝縮されている。

(今は)生きづらい世の中になってきている。決して暴力がいいって言いたいわけじゃなくて、この頃の昭和の男たちの生き様は、自分の意志で動いて、必要なことは必要と言い、嫌なことははっきりNOと言う、私たちが忘れかけている人間の生き様そのものだ。

これから社会に出ていく若者たちは、誰の背中を見て働いていったらいいのだろう?ということをすごく感じる。社会全体のエネルギーがなくなっている一つの原因だと思う。

そういう意味で、大上の背中を、ちゃんと見届けてほしい。

 

自分の欲望に素直に生き、意志を持ち貫くことの人間臭い、生の輝き。

一生懸命人が生きる姿の、逞しさと力強さ。

大上の背中の大きさや厚みとは、そういうものでできている。

「じゃあ聞くがの、正義たぁ、なんじゃ?」

「落ちんようにするにゃあ、歩き続けるしかなぁ。のう、広大。わしゃもう綱の上に乗ってしもうとるんじゃ。ほんなら落ちんように、落ちて死なんように、前に進むしか、ないじゃなぁの。」 大上章吾

真に重要だと「自分が信じること」を実現するために、覚悟を決めること。

恐れるべき相手を正しく恐れ、自分の脳味噌で考え、汗だくで生きることそのものの、武骨な魅力を、大上の背中は教えてくれていると思う。

 

私たちは、自分の欲望を忘れて久しい。

社会も家庭も会社も、共依存的な関わりにあふれている。

誰もが役割を押し付けられて、その役割のステレオタイプを演じている。

「他人に馬鹿にされたくない」「認められなければならない」という不安や義務感で、自分の価値を高めることに毎日が消費されていく。みなマーケットで負けないように一生懸命だが、本当にやりたいことではない。

市場において「よい商品」であろうと努力し続けることが徒労に感じるのは、実はそれはあなたが本当に「やりたいこと」ではないからだ。

本当はやりたくないことで毎日がいっぱいになって、本当は何をしたかったのか、どう生きたかったのか、わからなくなっているのである。

欲望があるとも叫べず、叫ぼうにも何が願いなのかもわからず、私たちは途方に暮れている。

 

大上と出会ったばかりの日岡のように、ルールや規則を守ってさえれば絵に描いたようなわかりやすく薄っぺらな正義が守ってくれる、と信じたい。実現不可能な夢物語を信じていたい。

自分のなかに目指すべき何かがないとき、誰もがそうだ。

我々はそんな青く純粋で生真面目な日岡の目線で、大上の背中を追いかける。

物語が進むにつれて、今まで自分が信じたいと思い描いてきた善悪の構図に疑念を抱くようになる。

小綺麗な勧善懲悪など、実はこの世には存在しないのではないか。

血で血を洗うような生々しい魂のせめぎ合い。それが生きていくことの本質だとすれば、その泥沼のような血溜まりを、自分で航路を定めて漕ぎ進めてゆくほかない。

そんなグロテスクな現実を見ることは、誰もが怖い。足がすくむ。

組織という檻の中で犬として大人しく飼われていれば見なくて済むものが、この世にはたくさんある。

そして、それが良しとされてきた。賢いことだと言われてきた。だから疑いを持てない。

誰かに飼い殺しにされ、それにすら目を瞑って、うろんな生涯を過ごしていれば、無惨に死ぬことはないのかもしれない。

でも。…そうやって大事なことから、自分の本心から眼をそらすことに、みな実は嫌気がさしているのではないだろうか。

誰かのために生きることを躾けられて、飼い慣らされた犬のように、日々無様に鳴いている、いや嘆いているのだ。

 

だから皆、どことなくイライラしているのではないか。

 

メディアを見れば、他人の人生のしくじりを血眼になって探しては、叩き溜飲を下げようと必死なひとばかりだ。

何もかも、自分の人生の空虚さ、生きている実感のなさを、『怒り』という嗜癖で、目を背けたい、本心を見て見ない振りをしたいからなのではなかったろうか。

 

俺は強くなったはずだった

強くなろうと思って 懸命に砂をかけていたのか

罪を 弱さを 覆い隠す為に完全無欠の強さを求めたのか

俺はここから一歩も動いちゃいなかった

俺自身も覆い隠し 誰に何も与えもせず 孤独

出典:『バガボンド』第8巻 砂遊び より引用 宝蔵院胤舜のセリフ

 

強さという『結果』や『正しさ』を追い求め、宮本武蔵との命のやり取りを経て、やっと自分の過去の過ちと弱さに向き合うことができたときの、胤舜のセリフが蘇る。

必死で砂をかけてきたのは、私たちも同じではなかろうか。

逞しく「己の生涯」を往き切ることに死力を尽くさないで、私たちは何に力を尽くせるというのだろうか。

 

他の何したところで、退屈で不安で、どこか苛立つだけだったろう?

実は、それはもう、みんなすでにわかっていることだろう?

 

本来我々は狼であり、孤独であろうとも狼として生きることが最も人間性に溢れた生き方なのだ。

単純な白黒ではない、グレーで泥臭いこの世をいかに生きるべきか、否、どう生きたいか、だ。多くの人がずっと先延ばしにしてきたであろう、この力強い問いを、大上の背中は私たちに突きつける。

 

狼として生き切る勇気を持ちたいと思う。

大上の背中の魅力は、綱渡りでも前に進む勇気を携えた頼もしさだ。

私が、こうありたい、と願う姿を別の形で体現している。

自分を生きていくこと、人に愛情を持つことに、正直な生き様だ。

 

その背中をずっと追いかけてきた日岡がタバコに火をつけるラストシーンに、私は勇気をもらった。

大上のライターが、自分の人生を生きる、覚悟の火を灯す。

 

人間はなぁ、一回こっきりしか生きられんのよ?

【依存症】巧く生きるより、たいじなこと

蝉が鳴いている。頭の芯にじんわりと滲むような、力強い声で。

夏がきた。

 

「今ココを集中して生きる」

というのは、簡単なようでいて、実に難しい。

いつも混じりっ気なく今のど真ん中でいられることが理想だけど、考えている時点で既に感じたその瞬間からは遠ざかりはじめている。文字にしたときには、もうかなり遅れている。

シャボン玉の表面の模様が極彩色に輝いて常に一定ではないように、私たちの心理や在り方は一瞬たりとも同じではない。

「人としてどうあるか」ということの究明は、結果的には自分の内面との語り合いに帰ってくるのだが、外に対して意識が開かれていなければ、今ここ自体を感じきることができないから、帰ってくるためには、逆説的に外界に開かれた精神でもって世の中と境界線を持たなくてはならない。夏がきたのに冷房が効いた部屋で耳を塞いでいては、夏の暑さや蝉の命の力強さをちゃんと感じることはできないように。

 

私はほんとうに『巧く生きる』ということの不得手さに関しては一級品なんだよな、と自覚している。

今まではその不器用さを恥じてきた。

狡く巧く生きる人をたくさん見てきて「私はなぜあんな風にできないのだろう」と自分以外の誰かと私を比べては、妬ましく思ってきた。

しかし最近になって、「巧く生きる必要」があるのかといえば、そうではないと感じるようになった。

私が巧く生きることに嫉妬したのは、とにかく生きるのが苦しかったからだ。

こんなにしんどいことをもうこれ以上やりたくない。もしかしてみんなもっと楽をしているんじゃないか。ズルい。そう考えていた。

そうやっかんで眺める隣の芝生は、実に青々としていて、私はその思いからどうしても目を背けられず、捨てたくても捨てられないでいた。

しかし、必ずしも巧く生きていることは、本質的に良いわけでは無いのでないかしら、と考えるようになる。

私は間違っていると言われたとしても、自分で味わって飲み下す実感を得ないでは、何かを諦めることはできない。

それが大事であればあるほど、だ。

だから、巧く生きていけないということは、私が触れる存在に対して深い愛情を持っているという証明でもあるような気がする。

傷はたくさんできるだろう。

でも、実りある人生は、巧く行きた人生よりずっと魅力的じゃないだろうか。

巧くソツなく、私は酷暑の夏も涼しい顔をして生きていきたいのだと勘違いしていたけど、本当に生きたい人生はそうじゃないんじゃないだろうか。

そう気づかせてくれるのは、いつも『同じように、真剣に人生に向き合って生きている人』である。

誤魔化したり言い訳をしたり嘘をついたり、そんなことはいくらでもできるのに、それをしないで、見たくない現実に向き合い、傷を負う覚悟で前を見ることをやめない人を、私は美しいと思う。

 

誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていけば楽でしょう。しかしもし誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。闘うということはそういうことだ。

出所:『リーガル・ハイ2』古美門研介のセリフから引用

 

そういう尊敬すべき人に出会い、対話ができるからこそ、私は私自身を尊敬することができる。

独りではできなかったことだ。

「独りで生きているような気になって偉そうに」と言われてきた。

そういう類の発言に対して、常に反発してきた。

「何が仲間だ、どうせ裏切るくせに恩着せがましいんだよ。」

「何がみんなのおかげで生きている、だよ。歯が浮くようなきれいごと言いやがって。きっしょ。」

「お前に何がわかんだよ?同じような孤独のなかで生きてきたんか?奴隷のような人生を我慢して生きてきたことあんのか?お前は俺より苦労してんのか?そっちこそ、俺を分かった気になって偉そうなこと言ってじゃねーよ」

と返してきた。

今振り返ると、結局その指摘は、痛いところをついていたように思う。

私は独りで生きている気でいた。独りよがりだった。

それは、切り捨てられる痛みが怖くて、私はひとを心から遠ざけたから。

つまり、積極的に周囲の人々を遠ざけ孤独になろうとしたのは、私だった。

私が、孤独であろうと選択したから、私はあたりまえに独りになっていった。それなのに、「みんな俺を見捨ててひとりにするくせに…」と恨み言を言っていたように思う。

本当はさびしかった。分かり合えないことの痛みを恐れ、疲れ果てて、身を固くして怯えていたのだと思う。

 

変わるべきは、私のほうだった。

変えられるものは、私の行動だけだったのだから。

「私が変われば世界が変わる?んなわけねーだろ、ラリってんのか?」と思っていたけど(随分と不遜で恥ずかしい限りだが)、本当に私の行動を変える事だけが、私が知覚する世界の在り方を変える唯一の方法だったんだな、と思う。

 

世の中を、できるだけ感じるままに感じること。

それを自分の内的な世界観に限りなく忠実に反映しようと努力すること。

それが「誠実に世界と向き合う」ということの具体的な行動。

外界との境界線で生じる化学反応から、自分の境界線を知り、自分を形づくっている輪郭を感じる。

その試行錯誤の繰り返しによって、「私」が創りあげられているのだ。

だから、私は独りでは成り立たず、世界がそこにあり、尊敬すべき仲間と交流できるチャンスをもらっているから、「私が在ることができる」のだということだ。

私が在るために必要不可欠なものが、私には『変えられないもの』であるということは、恐怖だったし受け入れ難かった。生きていけないかもしれない、というリスクの大きさに足がすくむ思いだった。それは『変えられないもの』をコントロールしようとしているからだった。

「気に入られなければならない」

「尊敬されなければならない」

「恐れられなければならない」

「力を示さなければならない」

そういう「我執」を育ててきたのだ。

でも、そもそも。世界は私がいてもいなくてもそうで元々である。

私が否定しようと何しようと、厳然たる事実として、そういうふうに脈々と命を繋いて世界ができているのだから、もうどうしようもないことだ。「己を超えた大きな力」が、世界を動かしている。

それに、そのどうしようもない力のおかげで私は『変えられるもの』=「自分の行動」を変え続けることができるし、変えられるものを変えていく勇気を与えられている。

だから、委ねるべきをゆだねて、諦めずに前を向いて生きていくことができる。

 

今朝早く、犬の散歩をしていると、道端に一匹の蝉を見つけた。

道路のど真ん中で幼虫から成虫になろうと、ゆっくりと着実に羽を伸ばそうとしていた。

「何故よりにもよって道路で…」と一瞬憐れんで、「あ、これだ」と思って恥じた。

また分かったような気になっているなと思った。

この蝉は、私のようだと思った。

木で羽化すればよいものを、道路のど真ん中でやり始めてしまうし、効率よく羽化して優雅に飛び立つなんてできないで、地面で頑張っている姿は、不器用な私のようだと思う。

どんな未来が待っているかは、わからない。

私がこんなに巧く生きられないことが、他の不器用な仲間たちの力になる日が来れば、夢のようだな、と思う。

そういう嬉しい気持ちは、夏らしく爽やかで、とても好きだ。

【共依存】コントロールを手放せない私たち

最近困っていることがある。

会社や仕事に対して、違和感がぬぐえなくなってきた。

それが何なのか、書きながら考察してみたい。

 

コントロールが当たり前の資本主義経済社会の狂気

アサーティブコミュニケーションや12ステップ・プログラムを学んでいる。

これらの根幹は、自分と同じように相手を尊重するという考え方で構築されている。

相手をコントロールしようとせず、相手が自己決定した方向性や決断を尊重して委ねる。

私は最もこのような姿勢で他人から接してほしいし、私自身他人と接していきたいと思うようになった。

 

そしてそれは、今この資本主義社会で企業が展開するマーケティング戦略とは、ベクトルがまったく正反対のアプローチだ、ということに気づいてきた。

 

企業が経済的に成長するためには、マーケティング戦略は重要なファクターである。資本主義的な考え方としては文句なしの正義である。

「何を誰にどう売れば、最も多く売ることができるのか?」

これはとても重要な考え方で、私は今まで売上を最大化できるはずのこの法則を理解して自由自在に操れることが、この世界で絶対的に正しいことだと思ってきた。

しかし「お金を稼ぐ」という点において重要なことであるだけで、『生きる上で最も重要なこと』ではなかった、ということに気づいた。

そして、他人に介在する時点で、「変えられないもの」であり、コントロールが不可能なものをコントロールしようとする根本的に矛盾した考え方だということがわかってしまった。

 

本人の意思決定を不自然に捻じ曲げることを目的とした行動戦略、それがマーケティング戦略なのだ。つまりここからして、土台無理なことをしようとしているのである。

そもそも、相手の欲求を誘導してそこまで要らないものを買わせようとすることは、イネイブリングに他ならない。そして、顧客だけでなく社員をイネイブリングして、コントロールしようとするのが企業の鉄板だ。

例えば社員教育だ。与える情報を制限し、繰り返し特定のメッセージを刷り込んで洗脳し、会社にとって最も都合がいい動きをしてくれるようにコントロールしようとして行われるのが社員教育だ。

国が行う義務教育と全く同じ考え方である。何も考えず先生が言うことを聞く奴隷を量産するための教育。哀しいかな、それがこの日本で行われる教育のスタンダードになっている。教育者である私の父と母が、それはもう立派なイネイブラーだったことからも確定的に明らかである。(笑)

 

我々は、そういう「コントロール」を目的とした接し方に、幼少期からどっぷり漬かって生きている。もはや社会が人々をイネイブリングするうねりを創っている。

恐ろしいのは、多くの人がそのことに無自覚であるということだ。

自分ですべて選択したような気持ちで生きている。しかし、その実様々なものにコントロールされて、行動を捻じ曲げられて、考え方や思想すら、誰かに操作されている。

我々は見えないところからあらゆるひとにイネイブリングされコントロールされて育ってきた。だから自分も他人を「コントロールできる」と信じられる。信じてしまう。

だから「コントロールすること」に違和感を抱けないのだ。

みんな、こんな気持ちを抱えてはいないだろうか。

何となく満足できなかったり、自分でやったはずなのに、どこか喜びも悲しみも乏しくて、行動から確かな実感が何も得られない。

 

世の中は何となく不幸で、満たされない人であふれかえっている。それは、コントロールを手放せていないからだ。

自分の認知の歪みの根本に気づけないまま、見て見ぬふりをするために何か他のものや他の人に過干渉して、コントロールし返すことで留飲を下げようとしているのだ。

コントロールに対する認知の歪みの悪循環。

これこそが、この世界の「狂気」の正体である。

 

否認を認めてコントロールの連鎖から抜け出すこと

この狂気の連鎖から抜け出し、自分の人生を生きるためには、どうするべきなのだろうか。

それは、ひとつだけだ。

「コントロールを手放す」ことである。

 

・仕事で結果を出さなくてはいけない

・社会的に認められなくてはならない

・うまく部下をコントロールしなくてはならない

・子供を一人前に育てなくてはならない

・子供が一流の人間になれるように育てなければならない

 

これらの「~でなければならない」は、資本主義経済的には必要だと教えられ、実際にすこしは必要なのかもしれない。

しかし本当は、根本的には必要ない。実はこれらは『やらなくてもよいこと』に該当するのだ。

 

そんなわけないだろう?生きていかなくてはいけないし、お金を稼がなくては食べていけないんだから?!家族だって養わなくてはならないんだ!!だから私は我慢してがんばらなきゃいけないんだ!!

 

そういう声が聞こえてくるが、はたしてそれは本当にそうだろうか。

確かにこの資本主義経済社会では、社会生活を営むために貨幣が必要である。

特に、子どもを進学させたり食べさせたり、何より自分が食っていくためには、一定程度のお金が必要だ。

自分の限界以上にやりたくもない仕事に就いて働いて「我慢して頑張らなきゃいけない」なら、逆に考えてみるとしよう。

 

それらは、そもそも『やりたくなかったこと』ではないのか?

 

「いや、そうではない。」と答えるだろう。

それはそうだ。配偶者とは家族になりたくてなったし、子供と暮らしたくて生むことを決めたのではなかったか。そうして、「やりたいと思って自分で決めたこと」をやっているはずだ。

 

それが「我慢してがんばらなきゃいけない」ものになったのはなぜだろう?

やりたいことでないならば、遅くはない。やめてしまってもいい。

自分で決めたことが間違っていた、本当はやりたいことではなかった、と認めてもいい。

だってそうなんだから。

倫理的に許されない?許されなくても、現にそう思っているから、「我慢してがんばらなきゃいけない」と思っているのは、あきらかだ。

世間的に許されない?世間に許されなければ、人は生きていてはいけないのだろうか?そんなことはない。世間は別に命の補償をしてくれるわけではない。脅威ではあるが、許しを請う相手ではない。

 

実は、結婚や子育てすら、『本当は私はしたくて始めたわけではなかったのかもしれない』という本音を見るのが怖いのではないかしら。

「世間体を気にしているから」

「親が結婚しろと言ってうるさいから」

「子供ができてしまったから」

そういうもっともらしい建前で、「本当は私は○○したくなかった」という本音を覆い隠して、楽な方向に逃げてきたのではないかしら。

自分の本音を見ないで済む、深い傷を負う覚悟が必要ない方向に、逃げてきたのではなかったろうか。

 

そんな卑怯で臆病な自分の本当の姿を見るのは、誰でも怖い。

当たり前のことだ。

 

 

まとめ:すなおに生きること

生きていたい。そして願わくば幸せになりたい。

 

ただそれだけだったはずだ。

本当は、それだけだったはず。

それをいろいろな「最もらしい理由」の鎧を身にまとって自分の傷つきやすい心を守ろうとするうちに、重ね過ぎた鎧の重量でもう歩けなくなったのだ。

 

別に今ある全てを偽りだから投げ出してしまえ、と言っているわけではない。

・自分を犠牲にしてまで誰かのために何かをしなくてもいい

・自分のことをもっと大事にしてもいい

・誰に対してであっても、嫌なことは嫌だと言ってもいい

・つらくてどうしようもないときはやめてしまってもいい

・お金が思うように稼げなくてもいい

・子供や配偶者の人生の責任を、他人の私が背負わなくてもいい

こういう「~でもいい」を増やすだけでいい。

「~でなければならない」の鎧をひとつひとつ外して手放せばいい。

 

そして鎧の重さに苦しんでいる人が八つ当たりしてきたときには、それはその人の課題だから、あなたが一緒になって苦しまなくてもいい。

その課題は、その人が解決するものだ。一緒に背負わなくてもいい。

子どもの将来も、配偶者の問題も、本人がきちんと解決する力をもともと持っている。それをわざわざみくびってまで、手出ししなくてもいい。

 

そうしてすっかり素直になった気持ちで、自分の心だけを見つめてみよう。

実は、あなたがやらなければならないことは、実はたったひとつなのだということが、あなたにもわかるはず。

『あなたが心からやりたいと思うこと』。

本当にこれだけなのだということに気づくはず。

 

私が仕事に対してぬぐえない違和感の正体はそれだった。

みんな、素直に話をしていない。素直に話ができない。

誰かが、誰かをコントロールしなければとあくせくして、他人のほうばかりを見ている。

誰も自分自身をちゃんと見ていない。

世の中の多くの人は、そんな状態だ。ことに「仕事」という枠組みで視野が固定されているひとは。他ならぬ私が、いつも今までそうだったように。

会話がすれ違い、議論が常にかみ合わないのは、彼らが「コントロールすること」「~でなければならない」にとらわれて自分のなかの事実に到達できていないので、彼ら自身ですら本心でどう思っているか、わからないからだ。

本人がわからないのに私がわかるはずもないし、本人が見つめ直さない限り、永久に満たされるはずもない。

私は自分が信じたように仕事をして、その結果を受け止めて、生きていくためにお金を一定程度稼ぐことと、人生を誠実に正直に生きることとを、区別して日々を過ごしていきたい。

【依存症】なぜ現代人は同僚にイネイブリングしがちなのか?

ある依存症者に、親切で気前がいい友人がいるとします。

 

飲み代が足りなければ貸してあげたり、一緒に飲んでおごってあげます。

酔いつぶれると介抱したり、タクシーで家まで送ってあげます。

「どうしてそんなに飲むんだ」と心配し、酒の席で悩みを聞いてあげます。

 

この友人は、イネイブラーです。

お金を与え、一緒に飲み、飲む理由に理解を示し、面倒を見てあげることで、依存症者が飲むことを可能にしているのです。

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P1より引用

 

私は、この光景に見覚えがある。

というか、社会に出てからというもの、この光景にしか遭遇したことがないほどだ。

酒癖の悪い同僚、ついつい飲み過ぎてしまうダメな後輩。

よく観察していると、そんな人に群がっている上記の引用のような「イネイブラー」を簡単に見つけることができるだろう。

彼らは、最初に親切で気前のいい友人のように近づいておきながら、問題が手に負えないことが明るみになると、途端に手のひらを返したように冷たくなる。

「せっかく俺が目をかけてやったのに」とか「甘やかしてたらつけあがりやがって」などと体のいい口上を並べながら、自分はいかにも被害者だと言わんばかりに周囲にアピールする。

私は数えきれないほど、こういう目に遭ってきた。

この日本社会は、そういう事例で満ち満ちている。

 

私の周りのイネイブラー

会社に勤めているあなたの周りでも起こっているのではないだろうか。

私の経験から共通しているのは、どれだけ優しく聞こえる言葉をかけてくれていたとしても、私が酒を飲む限り、最終的にはみんな離れたがり敵になる、ということだ。

どれだけ当時の私にとって耳障りのいい言葉をかけていて、理解しているふうだったとしても、それは今振り返れば優しさではなかった。

彼らの本心を代弁するならば「私が飲んでバカをやっている姿を酒の肴に楽しみたいから」一緒にいるのだった。

まるでピエロだ。

飲み屋で悩みを聞いてくれる先輩や同僚。

「この人たちならわかってくれる」と飲み方も距離感も勘違いした私。

「もう酒はこりごりだから飲まないようにしようと思う」と話すと、「ちょっとくらいなら飲み過ぎることもあるよ」「俺も若い頃はいろいろ失敗したもんだ」などと引き留めてくれる。実に心優しい仲間たちに思えた。

そんな彼らと何度も酒を飲んでは、ひどい失敗を繰り返した。

彼らは、酒を飲んで狂っている私の姿を「おもしろい」と見続ける観客ではあり続けたいものの、当事者として面倒ごとに巻き込まれたいわけではない。

だから、私がなにかマズいことをしでかして、面倒ごとが巻き込まれそうになると途端に『突き放す』。「私は関係ない、お前が勝手に飲んだんだ、飲むなとあれほど言ったのに」とさも自分は止めたというふうなことを言って、白い目で私を見る。会社の組織内では厳罰を食らわせて、「何度注意してもダメなあいつに、俺が一発凹ませてやった」などと周りに吹聴して誤魔化す。

それが、いつものパターン。

これらの出来事のどこに優しいと感じられるポイントがあったのか、今振り返ると全くわからない。

ただただ、私はとにかく、当時さびしかった。生きることがとてもつらかった。生きることをつらくなくしてくれる酒がなくては、とても働けなかった。とても、生きてはいられなかった。

酒を飲むことを肯定してほしかった。私には必要不可欠なものだと思っていたから。だから、都合よく、私はそれらを口先でも肯定してくれる人たちを「いいひとたち」だと思ったのだろう。

 

もちろん、酒を飲んだのは、私だ。

私は、私の行動に責任がある。

これは明白だ。

そして、それを誤魔化す気もない。

私は、彼らの言葉に寄りかかり、言い訳にして飲んだだけだ。

本当は彼らと心を通わせかったわけではなかった。エチルアルコールが飲めれば何でもよかった。どんなことも理由にして飲んだ。そういう病気だ。

しかし、酒をやめたいという言葉をもらした私に「イネイブリング」をするということもまた、知らなかったでは済まされない、重大な責任があることも確かだ。

 

最も重要なことは、イネイブラーである人は、間違っている人・性格が悪い人、というわけでは決してない、ということだ。

私は、彼らの人格を否定するようなことは全くしたくないし、するつもりもない。

私も彼らも、当時はそれぞれに一生懸命に考え、互いに生を遂行していただけだ。

その実、誰にも罪など無い。飲んでしまった人も、飲むことを可能にしてしまった人も。

おそらく出発点は誰もが、愛情や抱えている寂しさなのだ。

全ては、「依存症」という私の、そして彼らの病気の症状でしかなく、「依存症という病気に対してどう対応していくか」ということについて学ばなくてはならない。それが、本当に相手を愛するということに繋がる。

 

「イネイブリング」とは?

中学英語で「be able to」で「~できる」と習ったのが、実に懐かしい。

 

enableとは、<誰か>が<何か>するのを可能に(able)する、という言葉だ。

つまり「イネイブリング」とは、誰かに何かを可能にすること、ということになる。

アルコール依存症においては、以下のように定義されている。

○イネイブリング(enabling)

=「アルコール依存症者が飲み続けるのを可能にする(周囲の人の)行為」

○イネイブラー(enabler)

=「アルコール依存症者が飲み続けるのを可能にする(周囲の)人」

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P1より引用

 

おそらく、本心では、こんなことだれもしたくない。

飲み続けることを可能にしようなんて思っていない。

『だらしない夫じゃなくて依存症でした』(著者: 三森みさの第6話を読むと、よくわかる。

以下、数コマを抜粋して紹介したい。

 

イネイブリングしている本人も苦しい。

こんなことするつもりじゃない、という気持ちに何度もなる。

でもやめられない。

これは、「共依存」という状態だ。

アルコール依存症と付き合うなかで、別の依存状態に陥ってしまっている。

『相手をコントロールする』ことに目を奪われて、自分の人生を生きることができなくなる。そういう病的な状態である。

 

○イネイブラーにならないためには

◎自分が楽になる方法を考えよう

◎相手の責任まで背負い込むことはない。

◎いやいや酒を与えるのはやめよう。

◎自分の気持ちをすなおに表現しよう。

出典:ASKアルコール通信講座<基礎クラス>第3回テキスト「イネイブリング」とはなにか?P9より引用

 

「相手のためだから」という隠れ蓑を脱ぎ捨てて、自分の人生を第一に考えよう。

周りの人がイネイブリングをやめる目的は2つで、「疲れ切った貴方が楽になるため」であり、その次にくるのが「依存症者が回復するチャンスをつくるため」だ。

 

「失敗できない」競争社会の生きづらさ

なぜ、会社の同僚の酒の問題について「世話焼き」をしたり、「コントロール」しようとしたりしてしまうのだろうか。

私はここに、日本における競争社会で「負けられない」「失敗できない」というプレッシャーに押しつぶされそうな、かつての私を見る。

私のように、自分の人生に向き合うことを恐れ、人は他人の人生に逃避する。

 

ボクシング漫画の名作『はじめの一歩』の44巻に登場するヒールである、ブライアン・ホーク。

即、命のやり取りになるニューヨークのスラム街でストリートファイトに明け暮れ、その類い稀な才能だけで、WBC世界J・ミドル級チャンピオンになった男。

その来歴のとおり「負けられない」世界のおきてで生きてきた彼の言葉は、日本で働くあらゆるひとに染み込んでいる、ある事実を示している。

 

何があろうと どんな手使おうと 最後の最後立ってるヤツがーーーー

強えんだよっ!!

 

いいよ やらなきゃいけないコトはわかってるよ

オレが今まで何をしても何を言っても それが通った 誰もが黙った

何故だ!? 負けたコトがないからさ! チャンピオンだからさ!!

負ければオレの言うコトなんざ 誰一人 耳を傾けやしねぇ

みんながソッポ向いちまう

嫌だ・・・・嫌だ 嫌だ 嫌だ!!

出典:『はじめの一歩』(44巻) (講談社コミックス)より引用 

 

この日本社会は、失敗することに対して不寛容である。

他人に負け競争から脱落することは、死を意味するとみんなが『思い込み』、上記のブライアン・ホークのように内心恐怖におびえながら暮らしている。

だから、失敗した人をみると、舌なめずりをする。

「こいつは自分より下だ」と思える人物の登場は、相対的に自分の評価を上げることができる格好の材料だ。『美味しい相手』だ。

アルコールで失敗するような「負け犬」は、上手におだてて飲ませておいて、その人のぐちゃぐちゃになっていく人生を見ている間だけは「オレはこいつよりはマシだ」とホッとすることができる。パワーゲームの勝者の立ち位置でいられる。そうでなくては安心できないから、イネイブリングして飲むことを可能にする必要がある。だってその人が立ち直ってしまったら、下にみる人がいなくなってしまうから。

ダメな他人の人生にあれこれ口出ししている限りにおいては、自分が勝ち負けで比較される人生の苦しさを少しだけ忘れることができる。そう錯覚している。

あるいは、ダメなひとを形上は『救う』役割を買って出ている。なぜかといえば、そうすれば自分のダメな部分が許される気がするから。自分の至らなさ・失敗・敗北感。似たものをもつもっとダメなやつを見つけてきて、そいつを許してやれば、自分の醜さもなかったことにすることができる。そんなような気になっているのではないか。そういう偽りの安らぎを得るために、他人の問題を『なかったことにする』ことに一生懸命になっている。

 

そうやって目を逸らし続けているのだ。

誰もかれもが、そうやって自分にみて見ぬふりをして生きている。

だからいつまでもイネイブリングをやめられない。

苦しみはいつまでも根本的に解決されずにとどまり続ける。

 

まとめ:イネイブリングしても、恐れを「なかったこと」にはできない

我々が、共通してなかったことにしたいのは、「恐れ」である。

失敗できない恐れ。

負けられない恐れ。

ダメだと思われたくない。

死にたくない。

そういう「恐れ」は、目を背ければ背けるほど、背後で大きく肥大していく。

黒く重くのしかかるそれは、見ない振りができないほど肥大化して、いずれ自分に返ってくる。

他人をだしにつかって誤魔化している場合ではない。私たちは、向き合わなくてはならない。自分の人生に、自分の真の課題に。

それが大事なことだ。

気づいた今、我々がやるべきは、他人の人生にちょっかいを出すのをやめ、「突き放す」のではなく「手放す」ことに努めることだ、と思う。

 

 

 

【共依存】シリーズ「わたしの共依存」②妻

私は、妻と出会って付き合おうと考えた当時、共依存的な関わり方をしていたと思う。

 

救えるという思い上がり

妻は、私と出会ったとき、アルバイトをして実家で暮らしていた。

家は全体的に裕福とは言えず、仕事も昼間から日付が変わるまで立ち仕事で、かなり厳しい労働環境だった。

元カレと一緒に九州まで行ったが、モラハラに耐えかねて別れて帰ってきたばかりだった。

 

私は、出会ったとき、妻の率直で屈託のないところに惹かれた。直感的に「この人は嘘をつかない」と思った。「この人ならちゃんと話を聞いてちゃんと返してくれる」と期待した。長い付き合いのなかでそれは紛れもない事実だったと判明したし、今も変わらない。

 

しかし、それだけでなく、私は卑しくも、この人なら『救える』のではないか、と内心舌なめずりをしていた。

一緒にいることで金銭的なメリットが提供できるから、『好きでいてもらえる』と思った。

金銭的に私のほうが稼いでいたから、よりよい生活をさせてあげることができると思った。

仕事をしなくても生活できる環境を与えられれば『感謝してもらえる』と思った。

何かを差し出せるから、交換条件として好いてもらえる、という打算を働かせていた。

 

つまり、好条件だと思った。

私なんかでも、わたしみたいな欠陥品でも、必要としてくれる人だと思った。

 

それはとても失礼な考え方だったと思う。

 

相手をリスペクトして好意を寄せるのではなく、コントロールできそうだからという条件を好きになるというのは、相手からしたら「ふざけんなよ」と憤って当たり前だと思う。

かわいそうだから助けてあげよう?

お互い喜ぶじゃないか、これは良いことだろう?

「おいお前、嘘をつくなよ」と自分の胸ぐらを掴んで吊り上げたい。

「承認を求めようとすること」「見捨てられ不安」由来の満たされなさ。

その満たされなさから「世話焼き」をして自分の問題から目を背けただけだ。

その人そのものの生きる力や人間性を本当の意味で尊重していない、下にみている。

そんな卑しい自分の姿を発見した気がする。

 

 

一緒に暮らすにつれて、自分の未熟さや至らなさのほうが浮き彫りになっていった。

救うはずが、その実救われてばかりだった。

妻は自立した、はるかに自分よりも立派な「大人」だった。

私のほうだったと気づいた。救われたかったのは私のほうだった。

妻はACではないので、自分の価値観を持っていた。そして自分を自分で褒める技術を持っていた。人と比べなくても自分を楽しむスキルがあった。それは私にはないものだった。

私が持っていないものを持っているから、私はこの人に惹かれたんだな、という本心にも気づけた。

同じであるからこそシンパシーを感じて行為を抱くことがあるように、異質であるからこそ尊敬して、眩しく感じることもある。

妻に対して私が感じた感覚はまさしく後者であり、共依存的な思考で近づいたことは否めないが、とても魅力的に感じた理由はそれだけではないということもわかった。

 

私が共依存的に関わったが、共依存ではなかった妻は取り合わなかった。

私の歪んだ関わり方を、妻はしっかり拒否したし、それによって見限ることもしなかった。

だから今、お互いにアサーティブに話そうとしたり、謝罪をしあったりすることができる。

私の歪んだ感じ方や関わり方について正直に話して、それを相手の受け取り方に委ねることができる。

 

相手のニーズを先回りしてコントロールしようとすること

私は、相手の望んでいること、ことに負の感情の揺れ動きに敏感である。

それは、母親がヒステリックで常にご機嫌をうかがって生活していた経験が大いに関係していると思う。

今何で不機嫌になっているのか、何に対して不満を持っているのか、という情報から、自分がどう振舞えば相手が笑顔になるのかを考えて幼少期を過ごしてきた。

私は、そういう幼少期の生きるすべを大人になった今でも適用して、相手のニーズを先読みし『コントロール』しようとしていたのだ。

それがとてもつらい。

なぜかといえば、それは母が用いた手法で、私が最も忌避するものだからだ。

『コントロール』されたほうは、生ける屍に成り下がる。私はそうだった。

失敗しないように、損をしないように、周りとズレないように。

そういう「母親の望む未来」にたどり着けるように、母親は私をコントロールしようとしてきた。

何とも言えない、充実感の無さ。

自分で生きていないからだ。自分を生きていないからだ。

そういう活力を、最も重要な喜びを、己の欲で他人から取り上げるというのは、最も卑劣なことだと思う。

その卑劣な行いを、自分自身がやっていた? にわかには信じがたく、信じたくなく、目を背けたい事実がそこにあった。

 

幼少期に鍛錬してきたからこそ、その妄想にも似た予測は、現実によく当たってしまう。

自分のことより、他人の心の動きばかり追ってきたから、その観察眼には磨きがかかっているように思う。

これは悪いばかりではなく、良い作用もある。

相手のニーズを推し量れて、今の心の動きをつぶさに観察できるという能力が磨かれた結果、営業として今飯を食えているわけで、他人が望んでいることを理解し共感すること自体に罪はない。

罪は、コントロールしようとすること。

コントロールすることにばかり熱中して、自分の心の声を聞かなかった振りをすることだ。インナーチャイルドが声を枯らして叫んでいるのに、知らない振りをすることだ。

 

自分の本当の声に、耳を傾ける

共依存的な関わりをしていると自覚できるようになってきた今、私は、私が「正しい」と思って関わってきた関係を冷静に見直す時期に来ている。

その試みは、正直、私にとって世界の底が抜けるようなインパクトがある。

とても怖い。

しかし、やはり見直さなくてはならない。

気づいてしまったら、徹底的にしなければ。そうしなければ気が済まない。私はそういう風にできている。

苦しみぬくとしても、己のなかの本物と対峙して出した答えでなければ、私自身が納得できない。

少しずつ、ゆっくりでも、確実にやっていこう。無力を受け容れている限り、私にはそれができるはずだ。