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【仕事】製薬会社のMRがオワコンと蔑まれるようになった本当の理由

MRとは「Medical Representative」の略で、日本語では「医療情報担当者」つまり製薬会社の現場担当者である。

日本のMRは、海外に比べてその存在を尊重されていない。

海外旅行で出会ったチェコ人やアメリカ人に「何の仕事をしているのか?」と聞かれて「私は日本でMRをしている」というと、握手を求めてくれたりする。

日本以外では握手を求められるほど素晴らしい職業だと認識されているということだ。

日本と海外では、なぜこれほどまでにMRという職業に対する認識に違いがあるのだろうか?

 

売れればなんでもいいという医療従事者としての意識の低さ

海外のMRは接待が違法だ。法律で禁止されている。

だから絶対に個人的な癒着などで処方をお願いしようなどとはしない。

あくまでも、MRとしての技術や能力で医師に貢献するため、深い知識を身に着けて対等にはっきりと医師に対して提案し主張するべきを主張する。

そういう誇り高い働き方をしている。

 

一方、日本のMRはといえば、勝てば官軍負ければ賊軍、と言わんばかりで、とにかく自社の製品が売れさえすればいいと思っている人間が大半を占めている。

ルール内でありとあらゆる手を尽くす。ときにはルールを逸脱してでも倫理観や医療従事者としての規範を放り捨てて売り上げのほうをとる。

そういう下品さが、日本におけるMRの特徴だ。

 

なぜそんなに下品になってしまったかと言えば、どれだけ医療に貢献していようといまいと、結局は売上で評価されるからだ。

そりゃあ、現場感覚も歪むだろう。

副作用情報を一回も聴取したことがないMRがマネージャーに昇進したりするのだから、(真剣に症例に向き合い、医師と薬剤の話をしていたら確率的にはあり得ない)部下はとにかく売上さえあげておけばいいと思って当然だ。

副作用(AE)情報の収集などは、売上に関係のない『余分な仕事』だと本気で思っているMRが今もまだいることに、私は驚きを隠せない。MRにとってAE情報収集は最も重要な仕事のひとつであり、むしろそれさえちゃんとしていれば本邦においてもまだ存在意義があるんじゃないかと思うが、AEの収集や薬剤の適切な処方方法についてフラットな話ができないようでは、本当に居る意味がない。本当に要らない。

患者さんを大事にしようがしまいが、とにかく薬が売れればいい、それが今まで現場を跋扈していた「デキるMR」という痛い生き物である。

 

MRに対する医師の不信

だから医師は、MRが話すことなど信じなくなってしまった。

「結局こいつらは売れさえすればいいのだ。いいことしか言わない。」

「売り上げに影響しそうなマズい情報は、本当に大事な情報だったとしても隠すやつらだ。信用ならない。」

そうやって諦められてしまった。

だから、訪問を断られる。

なぜなら、話す価値がないからだ。

そりゃそうだ。自社に都合のいいことばかり言って、本当に伝えてほしいリスクの部分をちゃんと伝えないような人間に会う時間は、唯々もったいない。私だって断るだろう。

医師はMRに会うよりも、ネットで情報を集めるようになり、何か困ったら製薬会社の問い合わせ窓口に電話するようになった。そのほうが正確だし早いから。

本来MRが充足するはずだったソフト面のサービスを、他で代替せざるを得ない状況をつくってしまったのは、製薬会社自身である。

売上で評価して、数字として表れないMRとしての働きを評価しなかった。そういう人事面での評価を簡略化した怠慢が、信頼の喪失という最悪の形で表出しているに過ぎない。

MRの技量不足ではない。会社のそもそもの体質と経営方針が、問題なのだ。

 

迷走する哀れなMRたち

信じてもらえないから、より屈折したアプローチに傾倒していくMRたちを何人も見てきた。

会社が信じてもらえないから、自分という人間を信じてもらえるように頑張る。それはすなわち個人的な癒着に他ならない。

そんなMRを取り巻く環境は、コロナ流行以前に比べて、以降は特に厳しい。

「会わなくてもあまり医療に関係ないんだ」ということが、医師にも会社にもわかられてしまったと言ってもいいだろう。

それは製薬会社そのものが、本来あったMRの役割や良さをどんどんこそげ落としてきたからだ。しかし現場のMRたちは、少しずつ会社に洗脳され、じわじわと翼を毟られていたとは、今まで自覚してこなかったので、自力では飛べなくなっていることに今更気づいて青ざめている。

そういう意味では、そもそも医療者として思慮が浅すぎることこそMRの罪だったのだが、いまさら言っても詮無き事。

会社が言うとおりに訪問して、製品をコールしてコールして、売上が上がれば褒めてくれる会社のためにシャカリキになって頑張った。そんな共依存的で忠実な奴隷社員が、今マネージャーとして現場を統括しているのだから、もう目も当てられない。

もう会社に褒めてもらうというくだらない承認欲求のために、一度しかない貴重な人生を犠牲にするべきではない。

早期退職制度が各製薬会社で推奨されはじめて久しいが、ついに先日武田薬品でも開始されたとニュースになっている。「フューチャー・キャリア・プログラム」などと呼称し、「キャリア支援の一環」と称してはいるが、とどのつまりはリストラである。

今までのような会社の奴隷ではなく、地頭で考えて社内評価などという些末な価値観に左右されない医療従事者としての矜持と信念を持った者でなければ、もう務まらない職業になってきた。

そして、それはあるべき姿に戻ろうとしている過渡期の姿でもある。

 

これからあるべきMRの姿

正直、訪問や情報伝達は、2〜3ヵ月に1回でいい。

①取り扱っている製品知識と②製品の対象疾患知識、③対象疾患に関連する併存疾患知識。これを医師とディスカッションできるレベルにすることが前提条件である。

今までのMRは勉強しなさすぎ。せめて上記の3つは会社の教育制度に頼らず、毎日勉強してしかるべきだと思う。

勉強と称して日々受けさせられていた製品の社内教育は、聞き流しておこう。

売るためだけの指導プログラムはもう要らない。そういう社内教育は全部無視していい。会社都合の洗脳プログラムであり、聞くだけ無駄。

また、これは本社マターになるが、マネージャー登用はマネジメントの能力を評価する独自のジョブポスティング制度を設けて、実績にかかわらずマネジメントの能力でポジショニングするのが良い。

そうでないと、またしょうもないマネージャーが量産されてしまう。現場で実績を残せる人と、素晴らしいマネジメントができる人は、イコールではない。そもそも特性が違うし、役割が違う。

マネージャーを昇進と位置付けるからおかしなことになる。「かつて売る技術に長けていた者が売りつけるノウハウを部下に教える役割」と勘違いしているマネージャーが多いようだが、そんな役割はもう要らないし、そもそも売ることが目的ではない仕事でこれ自体おかしい。

マネージャーは、MRに適切な情報活動ができるようサポートするJOBのひとつ。

そうなりたいひとが現場を経験しながらマネジメントを学び、ジョブポスティング制度でテストしてから配置して、現場で適性が確認された者のみを採用しつづければよい。

今後、そうした在り方が正しかったということを、自分の身をもって証明していけたらいいな、と思う。

【AC】Step8「傷つけた人」その⑧『自助グループの仲間』

私は、間接的に目に入るブログという媒体を通じて、直接実直に話すことが難しい怒りや悲しみを、相手に作為的に伝えようとしたことを、謝罪したいです。

 

共依存的なコントロールであり、ACとして自分の感情を過小評価して卑下し、主張する自信がないから、ねじ曲げて表現しました。

いわゆる、嫌味な言い方です。

自らが極力責められないように形を整えて、卑怯なやり方でした。

そのことで、寂しさや悲しさを相手に味わわせたことを、本当に申し訳なかったと感じています。

 

私は当時ブログに思いの丈を書きました。

「私は素直に感じたことを書くためにブログを始めたんだから、これを読んでどう思うかは相手の問題だ。私は悪くない。」と、理論武装の盾に隠れて、安全な場所を確保して、私は暗に他人を非難するような内容を書きました。

 

実際「私のことを責めてたよね?」と当事者から言われた時、私は知らんふりをして「私の記事があなたにそう映るんなら、あなたの中に問題があるんじゃない?」とズルく卑劣な言い方をしました。

たしかに私が何を書くかは自由だけど、ほんとうに私が実直なら、当事者から確認されたときに思っていることをその人に正面から伝えるほうがより良かったし、そうしなかったのは「相手はまだわかってないから、見方を誤っているんだ、だから、正しいことを教えてあげよう」などという思い上がった気持ちが私にあったからでした。

 

そもそも、相手の対応に傷ついたり対等に話すべく話し合いを望んでもちゃんと話してくれなかったので、関係が悪化していったことが始まりではあります。

私はその人に対して、これ以上正直に話すことが怖かったのでした。実直に話しても受け取ってもらえない痛みに耐えかねて、でも胸の内にある悲しみや怒りを抑えることができずに、歪んだ表現方法を取りました。

それは、仕方なかったとはいえ、いいことではありませんでした。

 

私のやり方が相手と対等ではなく、実直さや率直さを欠いていたことは紛れもない事実であり、私はそれを認めて、心から謝りたい。

そして、二度と、ブログをそんなふうに他人を間接的に攻撃するための手段に使ったりせず、一瞬一瞬を、自分に実直に、相手に率直に、対等な心で接するよう、自分の行動を変えていきたいです。

それが、私にとって、私が私を嫌いにならず、自分を最も大切にすることだと思います。

 

お相手にDMで謝罪したいなと思いましたが、私からは送れなくなっていたので、ここに置いておかせてください。

本当にごめんなさい。

私は少しずつでいいので、変わりたい。

【AC】境界線を守り混乱を避けるために必要なこと

最近ネガティブな記事ばかりを書いていた。

どれもこれも、本当の気持ちに気づくために必要な毒で、毒出しをしていたようだ。

 

この本を読んでいて、最近あった哀しかったことも、重要なことに気づくために用意されていたことだったのだと知った。

 

私は何が哀しかったのか?

私は最近、とても哀しかった。

そしてそのことを打ち明けられると私が思える人がいなかった。

なので、ここに置いておこうと思う。

いずれ本人に言える時が来たら、言おうと思う。

 

とても気が合う人がいた。

思考回路も興味関心も似通っていて、というかほぼ重なるほど同じで、そんな人は今までいなかったのでびっくりした。

この人となら分かり合えるのではないかと期待した。普通の知り合いとは一線を画した好意を持った。

相手も好意をもって接してくれていた。とてもうれしかった。

しかし、紆余曲折を経て、最終的にお互いが望む関係性は少し違っていた。

私はそのことを伝え、相手も了承し、新しい関係がスタートしたと思い込んでいた。

しかし、相手にとってはそうではなかった。

相手にとっては、もっと親しい関係性を望んでいたのに私がRefuse(拒否)したことで、とても深く傷ついていて、私と接することにストレスを感じていたことがわかった。

しかし、それをアサーティブには話してくれなかった。

私から終わりを告げた関係性の一つの形。私が終わらせたことで、私は加害者として相手には映っていた。

つまり、相手にとって関係性が相手の望む領域に至らないのであれば「私と今違う関係性で接することは苦痛を伴うから、連絡するのはやめてほしい」ということだったのだが、その気持ちを素直に伝えてくれるのではなくて。「あくまでも私が関係性を拒絶したから終わってしまった、私のせいで終わってしまった」という状況になるように、遠回しにコントロールされているように感じた。

合意したわけでは無かったのに、私だけこれでよいと思っていたのか。

そのことに気づいて、また相手の接し方の後ろに見え隠れする恨みと本心が垣間見えた気がして、私は今までの自分の行動を悔いた。最も親しく接してきた相手に最後の最後に悪者にされたような気がして、とても哀しかった。

覚悟したこととはいえ、私は世間的に間違っているとされている関係性を選んで相手と交流したことに、常に自分に対して罪悪感を持っていたことは、否めない。

私の罪悪感が、相手が私を責めているように、うつしているのかもしれない。

実際、相手に「本当は私を恨み憎んでいるのではないか?」と問うたとき、相手は明瞭な答えを示すことはしなかったので、攻撃性が0であるとは言い切れない形ではある。

しかし、それは、相手が正面を向いて話をしてくれる状況でしか確かめようもないし、攻撃性があり私を恨み憎んでいるかどうかは、本質的には関係がない。

相手を変えることはできない。

相手ありきなので、関係性もコントロールはできない。

私が関われるのは、私だけだ。私の行動だけだ。

ということは「なぜ、私は哀しかったのか?」ということが重要だ。

 

私の反応の仕方の問題点

「ネッチー」というコミュニケーションタイプがある。

『#ネッチー(作為的)』とは?

攻撃性を隠して相手をコントロールするタイプ

表立ってことを荒立てたりしないでちゃんと仕返しをする。

トゲのある言い方をするだけで悪意の証拠は残さない。それは、ドッカンやオロロと同じように、自分に対する自信のなさから起因する。

だからネッチーは正面切って人と向き合えないし、自分を含め誰のことも信頼できないのだ。

ネッチーは人をうまくごまかす。

まわりの人を巧みに支配したり操ったりして、自分が拒否されたり傷ついたりするのを避ける。

相手を尊重しているように見えて、そこに不満が見え隠れする。

ドッカンとは異なる攻撃性をもっていて、自分の本心を表に出さず、すり替えたりする。

ネッチーの武器は相手の罪悪感を利用することで、相手が気が咎めている所にすばやくつけこみ、自分の望む状況にもっていこうとする。

出典:コミュニケーションパターンより

 

何を隠そう、私はよくネッチーになる。

だから、他人のネッチーに敏感なのだ。

結局一言でいえばそれだけだ。

自分がそうだから哀しいと感じたのだ。

同じだから、相手の同じ部分が気になりイライラするし、敏感に感じ取って傷ついたり哀しく思ったりする。

こうならないための健康なコミュニケーションに、アサーティブコミュニケ―ションという方法がある。

基本は以下の4つ。

1、自分に対して誠実

自分の気持ちをきちんと受けとめ、誤魔化さない。

それを相手に伝えるかどうかは、自分の責任で選択する。

2、相手に対して率直

相手に伝えるなら、率直に、きちんと伝わる形で。

相手を責めたり、怒鳴ったり、弁解したり、遠回しに言ったりしない。

3、お互いに対等

気持ちを伝えたい相手と向き合うときは、対等な立場で。

自分を卑下しない。相手を見下さない。

4、自分の行動に責任を持つ

気持ちを言ったときも、黙っているときも、その結果は自分で引き受ける。

相手の反応や感情に責任を持つ必要はない。自分自身日空いて責任を持てばいい。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P42~43より

 

今回振り返ってみて、私はうん、全部ダメだったな。

自分の「相手を傷つけ恨まれ、アサーティブでない方法で敵意を伝えられて哀しい」という気持ちを受け止めずに希死念慮や世の中の空虚さを語って誤魔化そうとした。

自分の行動に罪悪感があり、「罪を犯しているくせに」と指さされることを恐れて、率直に伝わる形で相手に話す勇気を持てなかった。

自分を卑下し、相手に見下されたり見限られたりしているのではないかという可能性を恐れて先に相手を小さく見積もろうとした。

自分の行動の責任範囲を過剰に広げていた。はじめるときに相手が選んだ行動の選択の責任まで取ろうとしていた。それは相手を尊重していない。相手が選んで今に至っている状況や行動について、その反応や感情の責任を私は負わなくてもよかった。

コミュニケーションは、勝ち負けではない。

お互いに尊重されるその人生の接点を話し合う、対等な話し合いだ。

それをすぐに忘れてしまう。

それは、私が共依存的で境界線があいまいになるときだ。

境界線を守り混乱を避けるために

アダルト・チルドレン(AC)は、しばしば、自他の境界線が混乱している。

それは、機能不全家族のなかで緊張した状況を生き抜くために、不健全な状態でなくては生き残ることができなかったからだ。

その時に学んでしまった自他の境界線の間違った引き方を今も引き摺っているので、私たちは苦しみを抱えやすい。

★境界線の混乱をチェックする

あなたには、次のようなことはありませんか?

当てはまるものが多いほど、境界の混乱が起きています。

□「No」と言うことができない。

□ほしいものや必要なものを要求できない。

□人の意見に合わせる

□自分で決断できない。

□批判されるとひどく落ち込む

□相手を自分の価値観に合わせようとする。

□相手の問題解決に必死。

□相手がだらしないと自分が恥ずかしい。

□相手をすべて自分のものにしたい。

□自分の幸せが相手にかかっている。

□自分よりも人の世話をする。

□自分を傷つける人と関わり続ける。

□人に付け込まれる。

□相手が楽しそうでないと自分が責任を感じる。

□自分だけの時間を持てない。

□苛酷な状況に長い間身を置く。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P24より

 

私は全てに覚えがある。今も、そうだな、と思うことがたくさんある。

境界には3種類あるとされている。

「身体の境界」「感情と意思の境界」「責任の境界」だ。

自分のために、それぞれの境界を守るための原則を、以下にまとめる。

 

〇「身体の境界」を守るための原則

1、疲れたら休む。

2、自分にとって心地よいかどうかを大切にする。

3、あなたの安全やプライバシーを侵したり、あなたを自分のモノのように扱う人には近づかない/距離を取る/関係を切る。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P26より

 

〇「感情と意思の境界」を守るための原則

1、相手の感情と、私の感情は別。私の感情は私だけのもの。

2、相手の感情について、私は責任を負わない。

3、相手の感情を、私はコントロールしようとしない。

4、私の感情を表現するか、しないかは、私が選択する。

5、私の行動は、私が決める。

6、私の行動を他人がどう評価するかは、私の価値には関係ない。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P28より

 

〇「責任の境界」を守るための原則

1、相手の責任と、私の責任とは別。私は自分が乗り出す前に「これは誰が負うべき責任か」を自分に問う。

2、相手に代わって自分が責任を負うことはしない。相手に対する自分の責任を果たす。

3、相手の問題を何とかするのではなく、問題に悩む相手に共感する。

4、相手を困難から救い出すのではなく、相手を力づけ、必要なサポートをする。

5、相手の問題について責めたり指示したりするのではなく、事実に直面させる。

出典:アダルト・チャイルドが人生を変えていく本 /アスク・ヒュ-マン・ケア/アスク・ヒュ-マン・ケア P30より

 

これらを、息をするように、ごく自然に守れるようになりたい。

守ろうと意識しなくてもごく当たり前に則を越えず、踏み誤まりそうになったら気づける自分でいたい。

安全で心地よいを感じながら、自分を大切にし、自分の境界を大切にしたい。

それが、他人の境界を尊重することで在り、真の意味で優しい、ということだと思う。

まずは自分の境界をしっかりはっきりさせよう。

【AC】この世は別に良いところじゃない

残念ながら、我々が今いるこの世は、あまりいいところとは言えない。

 

(あ、この記事は本当にネガティブの塊みたいな記事なので、調子の悪い人はブラウザバックしてほしい。)

 

良いところだと信じたいと思ってきたし、そう信じているという人たちの話を聞いて「なるほどそうなのかもしれない」と思ってやってきたけれど、今現時点では、やはりそうではないな、と思う。

もう口車に乗せられて無駄に期待しすぎるのは、やめにしなくてはならない。

「楽は苦の種・苦は楽の種」つまり苦しんだ分だけ幸せが来る、最終的には帳尻が合うようになっている、などという言説を聞いたことがある。

私はまだ人生の序盤から中盤に差し掛かったくらいなので、まだ帳尻が合うかどうかは検証しようがない。私は生きるのはせいぜい長くても60くらいまででいいので、50くらいになったころ検証可能になるとは思う。

最終的に帳尻が合うようにできているとしたら、この後かなり巻き返しを期待しないといけないが、どうやら周囲の50くらいの人々を見ていて、とても帳尻が合うようには思えない。

どう考えても、生きるのは大変だ。

「え?何かの罰?呪いか何か?」

と思うくらい、喜びの比率が少ない。ことに人が関わると、その比率は激減する。

深く関われば関わるほど、「私は他人にとっては、いてもいなくても変わらないし、むしろいないほうがいい存在だ」という暗い考えも深まる。

底なし沼が、もがけばもがくほど深く重く暗く広がっていくようなのが、人間関係というやつだ。

 

人と無力

私はそりゃあもう笑ってしまうくらい、人との関わりにおいて、本当に無力だなと思う。

誰の何にも、関わることはできないのだ。

「行動すれば変わる、変わるまで行動しないからだ。まだ知らないだけだ。」そういう声が聞こえてきそうだが、それはたまたまその人のなかではそうだっただけで、私とその人とは、違う宇宙に棲んでいるようなものなのだ。

本当に、違う宇宙だなと思う。

交わっているようで、本当は一点の交わりもなかったのかもしれない、と思う。

妻とも、分かり合えているようで、その実、本当に分かっているかといえば、そうではない部分だってあるし、分かっているつもりに私がなっているだけで、本当は何もわかっていないのだと思う。

他者と自己の間には、絶望的な隔たりがあり、それを近づけようとすればするほど、大きな軋轢が生まれて、それぞれに傷つく。

欲を出して叶いもしないことをやろうとしたばかりに、かえって溝を深めてしまうように、結局は双方の間のいかんともしがたい間隙の深さと遠さを味わうだけのこと。藪蛇だ。

それが「人と人とが関わることに希望はきっとあるさ!✨キュピーン」という気色悪い信仰がもたらす、唯一のありがたいご利益だと思う。

 

それを知ることにより、無力を知ることができる。

「私は、他人との関りに対して無力であり、自分の力だけではどうにもならなかったことを認める」という出発点に立てる。

総じて、誰一人としてある意味ではひとりではないが、ある意味では皆独りである。

愛し合い常に一緒にいるからといって、個体として融合できるわけではないし、誰かに何か欲しいものを可能な限り自分が分け与えたからといって、その人が好いてくれるとも限らなければ、うっとおしがって嫌ってくれるとも限らない。

全く、思い通りにはならない。

そして完璧に徹底的に交わらない。

しかしながら、孤独を抱え『誰かと分かり合えるはず』同じ幻想を抱いている、という意味では、皆が同じだ。そういう意味では、ひとりではない。

 

クソゲーでいいじゃない

奇妙なものだな、と思う。

そんなにみんなの共通の願いなら、神様がいるならかなえてくれてもいいはずなのに、そうとういじわるな神しかいないのか、せっせと信仰して拝んでいる人が少なからずいるにも関わらず、実に塩対応である。

チームプレイを推奨していながら、他のプレーヤーとパーティが組めない。

絶対クリアできない仕様のバグでいつまでも終われない。

文句なしのクソゲー仕様だ。

もし現代でメーカーがリリースしていたら、即発売停止モノだろう。

誰もやりたくないのに、一人残らずやらないといけない。

運動会の行進みたいなもんだ。

 

つまり、なんかこれ凄い素敵な、みんなが想像し期待を寄せる(己の外部に位置する)神など、この世にはいない。

いたらもっと世の中はマシだ。自殺する人が増えたりしない。

 

前向きな姿勢の重要さを説く人に出会うと、なんかちょっとたまに気まぐれで恵まれる不味い炊き出しを、「最高の飯だ…ありがてぇありがてぇ…世の中は奇跡に満ちてるぜ!みんなもそう思わないか!」って一生懸命有難がっているような感じがする。

本当は腹減ってて足りないし、もっとおいしいもん食べたいくせに、強情を張っている。

精一杯楽しんでいるふうでいて、外目とは裏腹に内心は白鳥のバタ足のように必死だ。まるで「映え」ていないと仲間から見限られる…という恐れに突き動かされて、行きたくもない大しておいしくない店の行列に並ぶ若者たちの、必死に作った引き攣り笑顔にジン割と色濃くにじむ、あの疲労感と悲壮感がある。

 

はっきりいって、この世はそんなにいいところではない。

それでもう、いいんじゃないかと思う。

しんどいし、つらいし、誰もわかってくれないし、もうやめたくてもやめられない。

人生をせっせとやめさせようとしてくるひとも、最後まで手を下してはくれない。

中途半端につらくするだけして最終的に「ここからはお客様次第です」と放置プレイかましてくるような、仕事中途半端なSMプレイみたいなのが、この世だ。

 

みんな、よくこんなクソゲーをよく頑張って根気よくプレイしていると思うよ。

だから「生きてるだけで偉い」なんていう言葉があるんだと思うよ。

たまにしかないボーナスステージを心の支えに、人生の出会いガチャをまわし続けて、まわすお金が無くなるまで回す。

賽の河原がいつまでも石積では流行らないから、現世版ではガチャにリニューアルされリリースされたのかもしれない。

 

賢者への道

唯一このクソゲーで関われるのは、自分のことだけだ。

それ以外に無い。本当にない。

自分を生かす。種を生かす。

そのために、やれることをやるだけ。

やってきたことをやるだけ。

 

 

実はこの人生というクソゲーは、他のプレーヤーと何かしようとするとすぐバグるが、己のできること、つまり「変えられるもの」にのみ注力している限りは、とても平和に進んでいくのだと思う。

「変えられないもの」(他人との関わり・偶発的に起こる不幸なイベントなど)を見分けられずに、闇雲にチームプレイに熱を上げたり、他のプレーヤーの行動や思考に振り回されたりするから、辛く苦しいイベントばかりドミノ倒し的に起こり続ける。

「変えられるもの」と「変えられないもの」を見分けられる賢者だけが、粛々とこのゲームを最後まで進めて、衰弱死という赦しを得られるのかもしれない。

私はそのためにいっちょ生きてみようと思う。

見分けられる賢さを身に着けたい。そのうえで、もう一度人生について考えてみたい。

そうしたら、この人生クソゲー説は覆るかもしれない。

覆らなくても、もとより他にすることなど無いのだ。

石積みよりは、ガチャのほうがまだマシだと思うので、もう少し頑張ってみよう。

いや、石積みもいいかもしれんな。川沿いならキャンプできるしな。

【共依存】世間というのは、君じゃないか

最近、特に世の中が好きではない。

不倫を叩いたり、飲酒運転を叩いたり、違法薬物所持を叩いたり。

『世間』とは、何様なのだろう。

 

堀木は、いよいよ得意そうに、

「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」

世渡りの才能。……自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。

自分に、世渡りの才能!

しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺の「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧狡猾の処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

~中略~

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。

人間の複数でしょうか。

どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

汝《なんじ》は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣《あくらつ》、古狸《ふるだぬき》性、妖婆《ようば》性を知れ!

などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

「冷汗《ひやあせ》、冷汗」

と言って笑っただけでした。

出典:『人間失格』太宰治 P43

 

 

「世間というのは、君じゃないか」

これはあまりにも有名な多くの人が知っているセリフだが、今、私が最も言いたいのはこのことだ。

この14文字に集約されている。

この大庭葉蔵の、表には出てこないが深く水底に揺蕩うような人間に対する恐れ・怒り・憎しみ・嘲り・淋しさは、よくわかる。

そういうものと一緒に連れ添ってきた人生だったように思う。

そしてそれは、この世で生きている限り、非常に逃れ難いものでもある。

 

例えば、ワイドショー。

素人のコメンテーターに何の根拠もないことをベラベラとしゃべらせ、街の人の声と言いながらカンペを出してしゃべらせた音声を集めて、あなたが泣いても謝っても病んだ状態から回復しようとしても「世間が許さない」と言う。

例えば、警察庁。

「サギ集団に一度加担すれば、あなたの人生はもう終わり。」と脅して、あなたが生きていることを「世間が許さない」と言う。

 

世間というのは、そういう「お前たち」だろう。

お前たちが許したくないだけだろう。

そしてちゃんと当事者のことを知らないくせに、訳知り顔で語るお前たちが好き勝手に石を投げるから、独りで寂しく苦しんで死んでいく命が後を絶たない。

もういいや、こんなごみ溜めのような場所なんじゃ、生きてたって仕方ないや。

そう思うのも無理はないと思う。

 

レオ・レオニの『スイミー 小さなかしこいさかなのはなし』は、小さな魚が集まって力を合わせることで、大きな魚の脅威に対抗するという素晴らしいストーリーだ。

 

 

だが、私は小さい頃、この絵本を読むたびに恐ろしさを感じてきた。

私はよく、虐められて独りだった。

大勢の人間が徒党を組んで、独りを虐めることで平和を保つことは、子供社会でもよくあることだった。

そんな私にとって「追い払われたほうの大きな魚」の気持ちのほうがしっくりきた。

小さい細々としたものが、大きなうねりとなって脅威に膨れ上がる。

そういう集団の持つ圧力や恐怖を目の当たりにしてきて、私はどうしても気持ちよくこの話を聞けなかった。

 

仲間を持てない私は生きていてはいけないのか?

独りぼっちの私は生きていてはいけないのか?

なんで群れるほうが偉いんだ。なんで群れるほうが正しいんだ。

人と仲良くしなくっちゃいけないのか?

人と仲良くなれない私は、生きていちゃダメなのか?

 

そう思った。

そんな話をお母さんに聞いてほしかったが、それどころではなかった。

私の母は。

 

私の母。

 

私の母は、こんな風だった。

いつも「ちあきのためだから」と言っていた。

あれもしてあげた

これもしてあげた

お母さんはお母さんの人生を犠牲にして尽くした

だからお母さんを愛して当然よね

だからお母さんを一番大事にして当然よね

お母さんを幸せにして当然よね

なのになんでそうしてくれないの?

 

これは通訳すると

「あんなに欲しがっている(ように母親からは見えた)ものを私が与えてあげたのに、なんで感謝しないの?なんで私の思い通りにならないの?」

と言っていることに、数十年経って気づいた。

他人に対して受動的に立ち回り、譲れない部分で自分が返してほしいと思ってきた期待を裏切られそうになったり、コントロールしたい将来像の方向性に反した動きをしたり思いを語ったりすると、母は態度が豹変して、私を責め・悲しみで攻撃した。

母のような人の胸の内は、これだ。

「いいよいいよ、やってあげるよ」と相手に譲っているようで、実はこっそり自分の「望み」を無理やり貸付けようとする。

善意という貸付金を相手にわからないように勝手に上乗せして、やがて限度額がくると我慢の限界に達して、ものすごい剣幕で「贖罪としての善意」の返済を迫る。

まるで闇金融のようだ。

 

望みどおりにならなさそうだと感じ取ると、悔い改めろと私に詰め寄り、思い通りの方向に他人をシフトさせよう、思い通りにコントロールしようとあの手この手で奮戦する。

それにより、子供の私は最終的に謝らざるを得なくなり、意思を曲げて従ったりする。

母親は子供(私)に対する影響力を確認できる。

幸せの青い鳥は、まだかごの中で飼い殺しにできる、と胸を撫で下ろす。

子供に尽くすフリをしていれば、直視するのが不安な自分のすっからかんの人生を見ないで済む。精神安定剤になる。

 

私は、母親の、あんたの精神安定剤じゃない。

幸せの青い鳥でもない。

私は、いっこの人間だ。

私にだって意思があるし、眩い輝きを放つ願いも夢も、あったはずなんだ。

それを「あなたのため」という言葉で飾り立てて、本当の私を、イキイキと笑う本来の私を、やんわりと真綿で徐々に絞め殺していったのは、あなただ。

よくも私を殺したな。

あんなに健気で純粋に好意を持っていた私を、よくも殺したな。

おかげで私のインナーチャイルドは、いくら話しかけても、もう息をしていない。

 

全部、自分のためじゃないか。

自分を安心させるため。

自分が楽をするため。

自分が責められる側に回らないため。

だから、子供に形の上では決めさせて、子供に譲って与えたふりをして結果を盗む。

 

それは、優しさじゃない。

卑怯さであり残酷さだ。

 

自分の人生に、気持ちに、行動の結果に、全面的に責任を取ることを恐れるが故に、子供の人生をマリオネットのように操って遊んでいる。そのほうが楽だから。

自分の保身しか考えない残酷な心だ。

私は、人形じゃない。

 

 

お母さん、あなたの行動の責任は、あなたにしか取れないんです。

お母さん、私は肩代わりしようと一生懸命になって、でももうそんな役割はしたくないんです。

私はお母さんが好きだったけど、お母さんは私が好きなんじゃなくて、「お母さんに都合のいい私」が好きだったんだね。

私は、それがいつも悲しくて、葉蔵のように道化を演じる子供になっていったんだよ。

 

いつまで私を縛るつもりだ。

もう30年以上経った。いつまで人形遊びをしているつもりだ。

あなたは、しっかりあなたを生きてください。

 

そう思う。

 

随分と話がそれた気がする。

が、そう主題は変わっていないような気もする。

 

ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

 

結局のところ、人間関係と言うのは、徹頭徹尾これなのだ。

近いようでいてものすごく遠い。

一番近いはずの母が、最も遠いところで私を見ていなかったように。

生みの親がそんなふうなのだ。誰ができるのだろう?と思うことは不自然だろうか。

あるのかないのかもわからない、人と人とのつながりという「幻想」を信仰できるかどうか。

確かなのは、己の愛のかたちであり、己がどう感じたか、どう選び取るかだけだと思う。

 

確かにある、私が他人に抱く愛。

それを他人が抱いているかは、検証しようがない。

心は可視化できないし、確かめようがない。

 

私が思う他人が、世の中を歩いているのだ。

世間とは、わたしでもある。

私が信じるように、世界は見えていて、すなわち世界を変えるには、私が信じるしかない。

 

中村光先生の『荒川アンダー ザ ブリッジ』の主人公「市ノ宮行(リクルート)」とものすごく他人の恩についての考え方が似ている。

 

命の恩人っていうのはつまり

これから先

俺がケーキを食ってうまいと感じてもこの女のおかげ

カンパニーを継いで社長イスに座ってもこの女のおかげ

俺のこれからの人生全部この女のおかげ

重い!!重いぞ命の恩人ー!!!

市ノ宮行(リクルート)

 

 

恩とは、借りだと、ずっと考えてきた。

そう思うのは、最近分かったのだが、『私が善意の貸し付けをしているから』だ。

恩を、好意を、貸し付けしている。つまり、母親と同じことをやっている。

ああ・・・

だから母親のそういうコントロールを思い出すと、頭を掻きむしりたくなるほどイライラするのだ。それは、他ならぬ自分の恥部であり、暗部だからだ。

 

他人の善意を受けるとき、借りを作るように感じるのは、そういうことか。

全部、自分。

自分が貧しく乏しく、そんなだから、世界もそう見えるのだ。

私が世界を寂しくくだらなくしている。

 

「世間というのは、君じゃないか」

 

そうさ、私だ。

この、みすぼらしい私の精神の姿だよ。

世間というのは、鏡だったのだ。

一生懸命やってきて、少しはましになったと思った。

それはどうやら、思い過ごしで買いかぶりだったようだ。

 

もう何もかも燃えつきてしまえばいい、と思うところは、酒を飲んでいたころと何一つ変わらないんだから。

世界の見え方はいまだ変わらない。

【キャンプ△】休暇村瀬戸内東予シーサイドキャンプ場(愛媛県)に行った話

夏と言えば、海。

海と言えば、キャンプ。

というわけで、今回は海キャンプです。

 

余談:追加してよかった新しいギア

①タープ

6000円くらい。追加で買うにしてもあんまり悩まない。

この価格に十分見合ったメリットを提供してくれるギアです。

(セットになっててすでに持ってるならいらないけど)

海でBBQするなら、テント貼らなくてもタープ貼れば、雨が降っても大丈夫だし、日よけには充分。今までテントわざわざ立ててたんですけど、これ買ってから超楽になりました。

夏は日差しが本当に強いので、日陰をちゃんとつくることが重要だと、この夏は学びましたね( ^ω^)・・・真っ黒になりましたからね・・・。

 

あとコレ!

 

②ウォータータンク

1000円くらいで買えるんですけど、これは絶対買っといたほうがいい。

しかも20Lを買っといたほうがいい。10Lはすぐなくなる。

何がいいって、貴重な水が水道感覚で使える。

海水に浸かった体を流す、食器を洗う、水を飲む、お湯を沸かす、何かにつけて水を使うんですよね、海辺のキャンプって。

これを持ってれば、コックをひねれば水が出るので、いちいち炊事場に行かなくてもサイト内でなんとかできることはできる。足りなくなったら継ぎ足しに行けばいいし。

この夏我が家では大活躍しました。

 

③リビングテーブル

これがないとね、食べる場所がないんですよね。

肉が結構どんどん焼けても、置く場所もないし食べる場所もないと、慌てます。

落ち着いて楽しみたいですよね。

これがあれば結構3~4人なら、調理したり食べたりするのにちょうどいい大きさです。

このコールマンのタイプは折りたたむとカバン式になるので、持ち運びしやすいしコンパクト。買ってよかったギアです。

 

今回のキャンプ地の概要

休暇村瀬戸内東予シーサイドキャンプ場

公式HP:https://www.qkamura.or.jp/toyo/camp/

1泊(1張り):諸々トータル=5,190円

持ち込みサイト(AC電源なし)が一般的です。

入浴料・管理費を合わせると+2000円くらいとられます。

(例:大人2人・子供(幼児)1名の場合=入浴料500円×2 + 管理費520円×2 = 2,000円弱)

正直高いです。

 

でもスペースは広々!

充分いろいろなものを広げられます。

 

AC電源ありは2サイトしかなく、サイトの指定もできません。

予約の際に直接問い合わせるしかありません。

常設テントはしっかりしていて、手ぶらでキャンプしに来るカップルなども見かけました。

テントが無くてもやってみたい人たちにはいいキャンプ地かも。

 

温泉:あり。入浴料 500円(子供300円) 午後6時~午後8時(短すぎる!!)

道後・鈍川と並び“伊予の三湯”と称される「本谷温泉」から引き湯した
「ひうちなだ温泉」に入浴できます。

ここねぇ、いいお湯なんだけど、やってる時間が短すぎんだよね。

キャンプ地から離れた結構な坂の上にあるから歩いては無理で、シャトルバスが出てるんだけど、混みます。

絶対自分の車で上がったほうがいい。けど、上の駐車場に停める場所がないこともある。

つまり、じゃあどうするか、というと↓

①どうしても入りたいって人でないなら、やめておくほうが無難。夏は管理棟にあるコインシャワーで充分です。

②どうしても行きたいなら、ちょっと時間ギリギリ早めに、1台の車でメンバーみんなで一気に行きましょう。

そうすれば、確実に入れます。

アメニティーは充実してます。結構小さい(1歳ちょっと)のお子さんがいても、ベビーシートなども完備されているので、大丈夫です。

 

犬:OK

犬がいるよ、と事前に予約しておくときに伝えておきましょう。

端っこのサイトを案内してくれます。そのほうが人が通らないので、吠えたり騒いだりしないし安全。私も人が嫌いだから、近くが囲まれていなくて安心。(それは個人的な問題では( ^ω^)・・・)

 

遊べる場所:海

歩いて20秒くらいのところに、このような海が広がっています!!!

ヒュー!!!!!

澄み切ったきれいな海を使い放題!!

しかもみんながいく海水浴場から少し離れていて、キャンプしている人くらいしか泳いでいないので、超快適です。

ご覧の通り私たちしかいないくらい。(逆に海水浴場っぽくない)

釣りをしたり、今流行りのサップをしたりしているひとがいます。

のんびりとした時が流れていました。

ここは結構、泊ってよかったなと思ったポイントですね。

 

気難し屋のちあきがぶっちゃける!良いところ・悪いところ

良いところ

・海が近い!ちょー綺麗!

・サイト区画が広くてしっかりしているので安心

・車の乗り入れができて、搬入出が楽

・コインシャワーがある

・トイレが結構至る所にある

・炊事場には洗剤とスポンジが完備されている

・燃えるごみと燃えないゴミに分ければゴミを全部捨てて帰れる

・焚火OK!(直火は禁止)

・犬OK!

 

悪いところ

・温泉が閉まるの早すぎ問題

いくらなんでも、20時早すぎ。もう少し長くしてくれたら、私としてはかなり総合点高いんだけどなぁ…。シャトルバスも3本か4本くらいで、落ち着いて入れない。正直ココがかなりの減点ポイント。

・利用費が高い

大してきちんと入れない温泉付きで、5,000円かぁ…。次は温泉はないな。

それにしても1,000円プラスで、4,000円はかかるので、やっぱり全体的にお高め。

・トイレが和式しかない

地味に嫌だったのがこれ。子どもにトイレさせるのが難しいし、女性は洋式がいいという人もいるので、トイレ自体が何個もあるのはいいんだけど、洋式トイレも整備してくれていたらよかったなぁ。

・地面が固くペグを打つのに苦労した

私が止まったサイトだけなのかもしれないけど、かなり頑丈な地層でした。半分以上は入っていかないので、困り果てました。なんとか立ったけど、犬のリードを固定しておく杭も入らないし、もう最終的には設置されていたガードレール的なものにリードを括りつける結果になりました。ちゃんとしたハンマーとスチールペグ持って行ったほうがいいです。

 

まとめ:海がとにかく綺麗だったから好き

見てくださいよ…この日の出。

これマジでもっと写真を勉強して、次行くときは夕焼けと朝焼けをめっちゃ綺麗に撮りたいです。

下手過ぎて伝わらねー。。

この100倍綺麗だったんだよー…!!!!!(泣)

カメラを勉強したいって心から思いましたね。

今回薪を忘れてしまって、管理棟で買えばいいや、と思ってすっかり忘れ、こっそり楽しみにしていた焚火があんまりできませんでした。

浜辺にあった流木がカッサカサに乾いていたので、手刀や脚力で割って適当にやったけどこんなに燃えました。

なんかを己の筋力を使って破壊して木っ端みじんにして、火をつけて燃やすのって快感ですよね。なんかとても悦びを感じました。(妻にはドン引かれました。)

 

とにかく景色がきれいで、海がもっと大好きになるキャンプでした。

現場からは以上です、ハイ。

【メンタル】「お前が悪い」と誰かを指差す人が抱える感情

自分の悲しみや憎しみを見ないようにするために、どうにもならない(ように感じる)世界に対して「正しさ」で復讐する人は、世の中にたくさんいる。

芸能人の失敗が報道されるたびに、ネット上やマスメディアのコメンテーターには声高に当事者を罵って叩きまくる人が湧いて跡を絶たない。

この現象は、まさにその最たるものの一つ。

 

自分の悲しみや憎しみは、いったい何か?

それは変えられるものなのか、変えられないものなのか?

自分はどうやって、辛かった経験や気持ちを抱えて、行動を変容させるのか?

そういうど真ん中の課題に向き合うことは、誰しもつらい。私もつらい。そして、よく目を背ける。

人間は元来みな弱い。

だから、人間なら当たり前でもある。

 

辛い苦しい見たくないものを見ずに、自分が楽で安心して眺めていられるものを見て、誤魔化そうとする。

そのとき安心しながら、眺めるものとは?

「他人の人生」である。

他人の人生には、何の責任もない。

生きていようが、死んでいようが、みな実は自分以外のものの生き死にには基本的には興味がない。

自分と同一視できて、まるで我がことのように感じられるから興味がわくわけで、どこの誰とも知らない人が何か失敗をしたとして、本来ならあまり関心はわかない。

自分の人生から目を背けるために他人の人生を見ているときは違う。

自分の中の「何だからわからない不満や焦り」を誤魔化すことができる、美味しいおやつのように見える。「常識」や「法律」を振りかざして、観客席から嬉々として石を投げる。

他人が、自分が投げた石にダメージを受け、凋落し後悔し痛がり、泣きながら謝る姿をみて溜飲を下げる。

 

コントロールしたい。

自分が考える正義で、誰かを打ちのめしたい。

後悔させたい。謝らせたい。苦しませたい。

自分には力がある、自分は正しい、自分は悪くない。

自分が少し、惨めでなくなる。

自分が何者かになれた気がする。

自分が少しマシになったように思える。

ほら。自分ばっかり。自分しかいない。

他人を踏みつける限り、自分がその上にいられると。下がいるということは、自分がそれと相対して上にいると思えるから。

他人がどうこうではない。

実は自分が楽になりたいだけ。

 

人である限り、生きづらい人生であればあるほど、このような外道に道を踏み外しがちだ。

かくいう私もだ。自分が精神的に調子が良くないときほど、他人のツイートが癪に触ることがある。曲解してつい攻撃的なリプを叩き込んでしまったりして、いつも後悔する。

我ながら、未熟にも程がある。

しかし、それが包み隠さず今の私そのままだ。

 

「お前が悪い」

そう責めるのは実に甘美だ。

まるで、苦しい胸の内を忘れ楽になれる、麻薬のようなものだ。

「私は悪くない」と逆説的に自己肯定ができる。だから、つかの間安心できる。

正義と悪の構図で、常に正義であり続けることは、マウントをけしかける張本人にとってメリットがあるのだ。けしかけられた側は堪ったもんではないが。

だから皆、勝てる土俵で「正義のヒーロー」になりたがる。

犯罪は、明らかに罪を犯した人が悪い。

悲しんできた人がいるから罪になっているわけで、それを責める立場に立てれば、正義の座に居座り続けることができる。

まさに常勝。この上なく美味しい試合である。

 

正義の座。

その椅子は、さぞや座り心地がいいだろう。

しかしよく見てみると、正義でボコボコに殴られた者の無残な返り血や肉片が、そこら中にベットリとこびりついているのだ。

そんな呪われた椅子に座る者に明るい未来などあるわけもなく、座って胡座をかいているうちに、自分自身の精神はどんどん貧弱になっていく。椅子自体はどんどん下に堕ちていくのに、座っている人は気がつかない。

椅子から立ち上がることもできなくなるころに、こんなことをして浪費するべき時間はなかったことに気づく。時すでに遅し。時間は巻き戻らない。

自分の人生は、自分の足でしか這い上がれない。

上がりたいなら、他人を落とすことに躍起になるのではなく、座り心地が良くても椅子から立ち上がり、一歩一歩踏みしめなくては。

 

私はとても悲しい。

その人たちは、まず自分のことを見たくないのだ。そして、「見たくない」と思っていることそのものも、見たくないから、二重の否認のなかにある。

今が実は一番苦しいんだと思う。

他人を叩いてほくそ笑むその裏で、苦しみにのたうちまわっている真心が見える。

かつては誰かに石を投げつけられたかもしれない。

うまく登れないことを責められ、急かされ、悲しい思いをしてきたのかもしれない。

あなたも、そういう経験があるのではないだろうか?

 

私は信じたい。

そんな人たちにも気づきや出会いが与えられ、いづれは自分のなかの真実にたどり着き、他人の人生を出汁にしなくても、自分自身を楽しく潑剌と生きていけることを。

人は間違える。

完璧ではない。

だから法律というルールが創られた。

失敗から成功が生まれ、少しずつ少しずつ改善されて今があり、今もまた完全ではない。

今、間違える人を責めて、何になる?

逆の立場で、あなたは何を感じるだろうか?

当事者だとしたら、あなたならどうしてほしいだろうか?

私が悪かった、と思うことは、わたしには数え切れないくらいあり、その罪も償い切れないくらいある。

可能な限り謝ってきた。受け容れてくれることもある。理解してもらえないことも、拒絶されることもある。

その罪も引き連れて、それでも一歩を踏み出す勇気が、ヒトの美しさだと思う。

痛みを知っているぶん、ヒトは強く優しくなれる。

私は、そうでありたいな、そうであったらいいな、と思う。

【キャンプ△】山出(やまいだし)憩いの里温泉キャンプ場(愛媛県)に行った話

なぜこのブログのアドレスが「yuru-camp-life.com」なのかといえば、本来はキャンプに行った体験をまとめるブログにしようと思っていたからです。

他のキャンパーが訪れるとき参考にしやすいように、行ったキャンプの情報をまとめようまとめようと思いつつ、全然キャンプもしないまま、12ステップの棚卸ばかりをしている間に、開設から早1年半( ^ω^)・・・。

スピリチュアルなサイトになってしまいつつある感が否めないこの不可思議なサイトも、ようやく2本目()のキャンプ記事を掲載するに至ることを考えると感慨深いなぁ。

 

余談:キャンプを始めるにあたってそろえたギア

【キャンプ△】スノーピークおち仁淀川(高知県)に行った話 で2019年3月に初めて野遊びを体験した私は、すっかりその清々しい体験に魅了された。

もう、これはやるしかない。

と思ったものの、調べたらキャンプ道具がクッソ高い。

 

①テント

テントとか3~4人用だと3万はする。いいものだとセットで5万!!

ちょっと簡単には買えないので、少しずつ貯めていたら、いつのまにか季節が巡り巡って、夏である。

やっとはじめてのテントを購入した。

私はコレしたんだけど、あとでタープを買ったので、正直こっちにしといたほうがいいと思う。これから買う人は参考にしてほしい。

設営自体はすっごくしやすいし、さすがスノーピーク。テントは良いものを買ったほうが設営も楽だし破損しても保証がしっかりしているし、安心。

 

②焚火BBQセット

私はこれにした。軽くて丈夫でしっかりしてて、安い!(5000円)

お金さえあればさ、そりゃこっちが良かったけどさ…。

32000円て!アホか!こんなんテント価格やんけ!!

 

妻が運ぶかもしれないことを考えると、これは結構重量が重いから、それだけが難点。

でもそれ以外は、おち仁淀川で使ってみて最高に使い心地は良かったのでお勧め。

 

とりあえずこれさえあれば、炭火焼きができる!

そして泊まれる!

あとは何とかなる!!(なってくれ頼む)

ということで行ってきました。

 

今回のキャンプ地の概要

山出(やまいだし)憩いの里温泉キャンプ場

公式HP:https://www.town.ainan.ehime.jp/kanko/sightseeing/shukuhaku/ikoinosato-onsen.html

1泊(1張り):フリーサイト昼800円、夜500円=合計1300円(安い!!)

温泉:あり。入浴料440円 午前10時~午後9時(札止め午後8時30分)

少し閉まるのが早いのが難点だけど、結構きれいであったまります。

私たちは今回利用しませんでしたが、ワンちゃん専用の露天風呂まであります。

 

犬:OK(しかもドッグランあり!)

ドッグランは登録が必要です。受付に行って、申請しましょう。

(ネットで事前申請等はしなくてOK)

こんな会員証がもらえます。作っておくと次回から便利。

Processed with MOLDIV

テントの近くにリードをつけておけば、一緒に泊まったりサイト内で一緒に過ごすことも可能です。ただ、犬OKの場所は限られており、下記の通りなので他のキャンパーさんの迷惑にならないよう、充分に気を付けましょう。

遊べる場所:川(めっちゃ綺麗!!)

夏は最高だと思います。流れは速すぎず遅すぎず。沢蟹がいたりします。水は冷たくて超気持ちいいです。スイカとか冷やしたい水温。

結構乗り物に乗って遊んでいるファミリーもいました。空気を入れるタイプのイカダなどで川下りもしていました。

※子供たちを川で遊ばせる場合は、水難事故には充分に注意し、お子さんから目を離さないようにしましょう。また、飲酒しての川遊びは危険です。絶対にやめてください。

 

気難し屋のちあきがぶっちゃける!良いところ・悪いところ

良いところ

・温泉に入れる!

・川遊びを楽しめる!

・ドッグランがあるし犬と泊まれる!

・夏でも虫が比較的少なめ

・比較的安い(テント代・入浴料合わせて、家族3人+2匹で3,000円くらい)

・近くにホームセンターやスーパーがあるので、買い忘れても安心

 

悪いところ

・予約ができない。

テントを張る場所は早い者勝ち。運しだいなのに山奥なのでそれが次回は不安。結構夜中(深夜1時過ぎ)まで飲み、かたずけを始めるような迷惑キャンパーが隣だったので、ものすごくイライラして死にそうでした。

※キャンパーのマナーとして、夜20時以降は静かにしましょう。焚火を囲んで話すにしてもコソコソ声にしましょう。また、車のエンジンをかけたり、ドアを開け閉めしたりしない。あれ結構音が響いてやかましいです。そして、片付けは陽が落ちてからヘッドライトをつけてごそごそ夜中にやったりしない。明るいうちか、翌朝(早くても7時以降)にやりましょう。

・テント設営できるサイト区画がちょっと狭い。

もう少しゆとりがあれば、他のテントと距離が取れるからもっと快適なのになぁ。まあこればっかりは仕方ないけど。もう5組くればいっぱいだからね、結構手狭。

・薪や木炭などキャンプに必要なものをキャンプ場で買うことができない。キャンプ場にはマジでなんも売ってない。

・花火ができない。

夏は少しつまらない。ルール無視してやってる人もいましたが、あれはダメだよねぇ。やっぱちゃんと現地のルールは守らないといけません。使わせていただいているんだから。

 

まとめ:楽しかったけど、次回はシーズンオフに来たい

娘は楽しそうにしてくれていたし、川は気持ちよかったし、楽しかったです。

やっぱりキャンプで食べる肉は最高に美味かった。なんでただ炭火で焼いただけなのに、普通の肉があんなにうまくなるんだろう。すっごい不思議。

ただ、隣のアホどもが本当にうるさかったマジで。

犬を解き放って餌にしてやろうかお前ら?と思うくらい、うるさかった。

ごそごそと夜中12時くらいに車をバンバン開け閉めして片付けしだすなんてなー…

クソ野郎どもがライトを頭につけてテント近くをガチャガチャ往復するから、そのたびに犬が吠えまくるし、その声でせっかく寝た子供が起きるし、もー地獄でした。

暑くて寝苦しいし、うるさいし、気が狂いそうでした。

夏は慣れてないキャンパー(お前もだろうが…)が迷惑な行動をするので、今度は秋冬にリベンジしたいです。

現場からは以上です。ハイ。

【AC】承認欲求のベクトルを「自分」に合わせよう

私はこうしてブログを書いているわけだが、趣味の領域を出ていない。

素人の戯言で、プロとしてお金をもらって文章を書いている人には遠く及ばない。

父が執筆者として、書道を通じた表現者として、成功している。膨大な量の書を読み、凄まじい回数の研鑽を経て、今の技術を獲得しているところを見ると、まあ単純にトライしている回数も知識もまだまだなのだ。

悔しいがそういうことを自覚する。

そのために文法や表現の本を読んで地道に学んでいるのだが、たまに虚しくなり、こんなことをしていても誰にも顧みられることなく、だれかにいい影響を与えるでもなく、ネットの片隅に埋もれるだけなのかな、と思ったりする。

仕事でもなんでも、他人に力を認めてほしい、正当に評価してほしい、せめて認識してほしい、と思うことがある。

 

世の中で持て囃されることの心許なさ

実力、というのは、厳然たる事実としてあると思う。

長く競争の場に身を置いてきて、やはりそうだと思う。

サービスや創作物で表現したパフォーマンスを、一部の側面で評価して横一列に並べてどうのこうのいうのは、人間の趣味というか、結構みんなやりたがる。

しかし、実力を評価する側がちゃんと見れているか、といえば、それは必ずしもそうではないと思う。

大企業の人事であっても、優秀な人を見抜けない人もいる。
例えば私の先輩はすごく担当している施設でもエリアでも頼られ求められている尊敬すべき人だが、会社ではリストラ対象の槍玉に挙げられて悲しそうにしている。
見る人の成熟度によって、人を評価するというのは見え方が違ってしまって、いくら母体が大きいからといって、信頼できるものではないんだな、と思う。
権威があるから、組織が大きいから、経歴が立派だから。
そうした後ろ盾が必ずしも信頼できるとは限らない。
時代が追いついていないこともある。
詩人で言えばエミリー・ディキンソンだし、音楽家ではシューベルト、画家のアメデオ・モディリアーニなど、死後に評価される芸術家はたくさんいる。
良いものを作っていたとしても、それが世の中で良いとされるまでにはタイムラグがあったりする。
ミシュランもそうである。
ミシュランの二つ星や一つ星のお店にはお目にかかることがあり、たまにお邪魔するのだが、実は客の足元を見るような店だったり、接客はそこまで一流ではなかったりする。
客として行って、本当に良い店とは限らない。
審査員にとってよかったというだけで、それ以上でもそれ以下でもないのである。
つまり、本質的な価値というのは、人それぞれに基準があり、そのどれも正しい。その人の中ではそれが全てだ。
比較的多数の人が選ぶ傾向にあるものを世間的に価値がある、としているだけで、それが本当に普遍的な価値があるとはいえず、普遍的な価値を持つものなど、この世のどこにも無い。

じゃあ何に価値があるの?

結論から言えば、自分にとって本物で、価値があると信じられるものであればよい。
それ以外の大事な基準などないのかもしれない、と思う。
そりゃあ目に触れる人が多いに越したことはないし、金はたくさん入るし、インスタントに動かせる人の人数は増えるだろう。
気分はいいだろうし、何者かになれた気もするだろう。
それを求めること自体は、活力になるのであれば悪いことでは無いと思う。
認められていてもいなくても。
見てくれる人はきちんと出会うし気付く、ということは確かだなと生きてきて思う。
それを曲げて他人をどうこうしよう、ってのはもうイネイブリングだし、そうして一時的に操作できたとしても、いずれ離れていってしまうだろう。自然な状態を捻じ曲げているから。
できる範囲で真摯にやってさえいれば、それが最高のパフォーマンスであり、自分自身が「精一杯やったかどうか」と自分に問うたとき自信を持って頷けるのであれば、もう100点満点だと思う。
その辺りのことについて、『ばらかもん』というアニメ是非見てほしい。
とても丁寧に描かれていて、自分の個性や承認欲求、謝罪にどう向き合うかを、美しい五島列島とそれ以上に美しい人間関係のエピソードが紡ぎ出している。

内向的な承認欲求と外向的な承認欲求

人に認められよう、俺を見ろ、今に見返してやる、という外交的な承認欲求をカンフル剤にするのは、行動を促す激烈な効果がある。
すげー頑張れる。
でもいつか疲れ果てる。
元気の前借りのように私は感じている。
おそらくノルアドレナリンの分泌による一時的なもので、依存物質で言えばカフェインみたいなもんだろう。
何か思いついたりやっているときに、体の中心が光るように暖かくなって、思わず笑みがこぼれるような、そんな瞬間はないだろうか。
自分の興味やワクワクで改良していく気持ち。
こうやってみたらどうなるんだろう?
これをこうしてみたらもっと良くなるかも!
そういう内向的な承認欲求(自己実現の欲求)を持っている状態、すなわち己の興味に忠実に、誠実に、何かに夢中になっているとき。
本来はこれだったはずなのだ。やりたいと思った根源は。
元々の動機はこれだったはずなのに、外向的な承認欲求に引っ張られて走り続けた結果、遠回りをしている。
私はこんなものを目指していたんだっけ?と途方にくれることになる。
なぜ遠回りをしたかと言えば、私自身の欲や驕りがまとわりついて、本来の夢中になっていた内向的な承認欲求のベクトルとは違う方向に舵を切っているからだ。そのことにずっと気づかなかったからだ。
認められるために。
褒められるために。
それは本当に私がしたかったことだろうか。
そんなしょうもない動機を突き抜けた、素晴らしさに私たちはすでに出会っている。
みんな、実はやりたいことをもっている。
すでに何をすれば一番自分の中で満足いくのか知っている。
そして、その輝きを追いかけている人は気づく。
その内面の輝きを追い求めている人は気づく。
つまり、気づく人は気づく。
導かれるように出会うのだ。
コントロールしようとしなくても。
私はもっとそういうことを思い出しながら、「自分がしたいことをする」という最大の娯楽をもっと楽しんで生きていきたい。

【メンタル】私がもう死にたかったときの話

自殺予防週間(9月10日~16日)が今日で終わる。

死にたい・消えたい。

そう思っていたとき、私はどうだったかな、と当時に思いをはせる。

 

私はまだ酒を飲んでいたころ、とにかく酒を飲んでいた。

長く生きている気もなく、かといって今すぐ死ぬ気もなく、ゾンビのように酩酊したまま現世をふらふらとしていた。

酒を飲まなくては、現実は直視するには辛過ぎた。

もうやめにしたい。勘弁してほしい。

そう思うけど、自殺するのも憚(はばか)られるのだ。

 

親に言ったら悲しむから。

先生に言っても解決しないどころかむしろ悪化するから。

大人に言ったって無駄だから。

消えたいなんて言ったら友達に引かれるから。

そんなふうに周りのことを気にしている。

そんな余裕など1mmもないのに。

「生きていても、死んだとしても、迷惑なやつだな」と思っていた。

私の自尊感情は地に落ちていた。ぺらっぺらだった。

 

しかたない、生きているのだから、死ねないのだから、

元気な振りをしなくてはいけない。

幸せな振りをしなくてはいけない。

「私は問題ないよ!」って言う笑顔をしておかないと厄介ごとに巻き込まれる。

だけど裏では泣き叫んでいる。

 

そういうときに、

「いいことあるから」「人生まだまだだから」

とか言われたとしても、聞く耳を持てない。

「私じゃないお前に、いったい何がわかる?」

と思う。私ならそう思う。そう思っていた。

 

「どうせ俺の気持ちなど誰にも分からない」

酒を飲んでいるだらしない人間、一人前でない人間だと思われるだけだと、固く閉じる。

 

そういう黒い重いモヤモヤを誰にも話せないのは辛い。

それこそ、いっそ消えたい、もう終わりにしたい、と思うくらい、辛い。

そりゃ死にたくもなるよ、と思う。

だから、「もう終わりにしたい」というひとがいたとして、どっちを選んだとしても、私は何も言うまい、と思う。終わりにしたい気持ちもわかるから。

 

だからTwitterにはそういう叫びがあふれるんじゃないだろうか。

Twitterでなら、誰かわからない状態でなら、言えるから、みんな「死にたい」「消えたい」という思いがあふれて、つい呟くのではないだろうかと思う。

誰にも言えない苦しい気持ちを、もうどこかに吐き出さないと生きていられないから。

 

そういう意味で私たちは「死にたい」という言葉を口にするのだと思う。

 

私の感覚では、死にたいよりも、消えたい、だった。

死ぬのはコストがかかるし、迷惑がかかる。

自殺する方法を調べていて、電車に飛び込んだとき電車を止めると何百万もお金がかかると知って落胆した。

これ以上迷惑をかけたくなくて死ぬのに、なんでこれまでで一番迷惑がかかるんだよ…。

いや、一時的なもののほうがまだいいのか?生きてるだけで社会的には負債みたいなもんなんだし…などと考えながらネットサーフィンしていたものである。

 

何より、楽に死ねる方法があまりない。

銃が手に入れば一発だけど、免許を取らないと猟銃を所持できないし、猟銃を使って死んでは猟師の人たちに後々迷惑がかかるかもしれない。

練炭自殺はどうだろう。一酸化炭素中毒か…室内で気絶できるなら楽そうだけど、事故物件扱いになって大家さんが困るし、車は当時持ってなかったから、レンタカーだとレンタカー屋に迷惑かかるしなぁ。

首を吊るしかないか、しかし、頚椎がしっかり折れなかったら、地獄の苦しみを味わう。それにどちらにしても糞尿たれて死んでるところを、山の保有者と警察が処理しないといけない。それもとんでもない迷惑だ。申し訳ない。

生きていても、死んでも、申し訳ない。

そういう闇を這いずりながら、「消えたいなぁ」と思っていたのが、今までの人生の大半だった。

酒を飲んでいるときだけ、その闇から這い出て、別の自分になれた気がした。

暗くつらい何の面白みもない人生を一瞬忘れることができた。

その一瞬でよかった。その一瞬がほしかった。

休んではいけないほど罪深い人間だと思っていても、とにかく休みたかった。

私は毎日ブラックアウトするまで飲んで気絶していたのだが、毎回もうこのまま目覚めなかったらいいなと思いながら酒を飲んでいた。

つまり、毎日自殺未遂をしていたようなものだった。

 

しかしアルコールではそうそう簡単には死ねなかった。

そして飲めば飲むほど事態は悪化していって、苦しさは指数関数的に大きくなる一方だった。

そして私は自分のなかで社会的な死に直面して、本当に首を吊ろうと思う出来事があった。

お酒の問題が理由で会社を懲戒解雇されそうになったのだ。

「君はもういらない」「頼むからやめてくれ」

罵詈雑言を浴びせられ、いよいよ終わりだと思った。

もうこのままダラダラと死んだふりのような人生を続けていても仕方がない。死のう。

 

そう思って「死にたい」ではなく「今までありがとう」を感謝している人に告げていった。

これで終わりにしよう。ちゃんと挨拶してから実行しよう。

そうして自分の真実を話し、感謝を告げることによって、私はちゃんとした自分で人と話せた。

そしたら、ちゃんと理解してくれる人がいることに、その時気づいた。

 

妻(当時は彼女)が、

「仕事なんてそんなの、どうにでもなるよ!あんた一生懸命頑張ってんの、私見てたから。大丈夫だから。アンタなら大丈夫。」

そう言われた。

 

そう言われて、救われた。

「そんな風に信じてくれるひとがいるんなら、もう一回、死んだと思って頑張ってみるか」

そう思った。

 

そのときに、「本当にもうダメだ、終わった、死のう」そう思っていると思っていたけど、私は実は心の底では「まだあきらめたくない、生きていたい」と思っていたことに気づいた。

諦めたくない、生きていたいという本心に従って生きるなら、酒をやめて向き合うしかない。この見たくもないゴミ屋敷のような己の心から目を逸らさずに、ひとつひとつやるしかない。

もう、やるしかない。

私は死ねなかったのだから。気づいてしまったのだから。生きたいって、思ってるんだったら、覚悟を決めるしかない。

結局、死ぬにしても、生きるにしても、私はどっちかを選ぶしかない。

それはどちらも楽な道ではない。

どっかの誰かが引っ張ってくれるようなものでもない。

自分で乗り越えるしかないのだ。全部自分で決めるしかない。選ぶしかない。

そんなら、どうしたいんだ俺は?

どっちにいきたいんだ?

それを真剣に考えた結果、今はまだ生きている。

明日はどうなるかわからない。

酒をまた飲み始めて、中島らもさんのように階段でこけてあっけなくぽっくり逝くかもしれない。

これからも、死にたいと思うことは、結構あるのではないかと思う。

ありふれているから軽いというわけじゃない。

そういう相対的なことが言いたいんじゃない。

各々の人生のなかでどん底に落ち「もういっそふっと消えてなくなりたい」と願うことは、みんなにとって、すぐ隣にあるような身近な感覚なんじゃないか?ということを、私は言いたい。

死はタブーではない。親愛なる隣人である。

私の人生は、少なくともそうだったように思う。

 

私の上っ面や社会的地位や想像のなかの私しか見ていない人もいれば、私の本当を見てくれた人がいたように、あなたにも、あなたにわからずともちゃんと見てくれているひとが、きっと、いる。

こんな私にいたんだから、あなたにも、必ず居る。

もしまだ見渡してもいないとしたら、それは、これから出会うからだ。

恋人でなくても、かけがえのない仲間だとあなたを大事に思っている人が、きっといる。

きっと出会う。

 

それに、そんなひとがいなかったとしても、確実にずっとあなたをみてきた人がいる。

それは「あなた自身」である。

 

あなたの価値は、あなたが生きている限りなくならない。

それは、あなたがとんでもない奇跡の過程でこの世に生を受けて「生きて実態を持っている」というだけで、実は人間というのは、世界に対してとてつもない影響力を持っているからだ。

 

貴方が生まれてから今日まで。

今まで感じてきたことは、何の価値もなかったのか。

今実現できない諸々以外の持っているものは、どうでもいいくだらないものなのか。

この世にいる人間の誰も、あなたは好きじゃなかったのか。

あなたの人生には、本当に嫌なことしかなかったのか。

あなたの人生は、今まで生きた分で、たったそれだけだったのか。

 

それは、まだ解が出ていない問題である。

なぜなら、続ける限り、まだ未知数で誰にも予想できないからである。

そして、最も重要なことは、今まであなたが一生懸命最善を尽くしてきたことは、まぎれもない事実だということである。

それは、それだけでとてつもなく価値あることではないだろうか。

私には、これ以上ないほど価値がある誇らしいことだと思う。

しかもこんな苦しい人生を今までやめずに生き延びてきたのだ。

それ自体が、とてもすごいことだと思う。

 

あなたは、そういう意味で、誇れるものをもうすでに一つ持っているということだ。

私は、そんなあなたのこれからをもっと見てみたい。

私は、私のこれからをもっと見てみたい。

だから、一緒に明日も朝日が拝めたら、それは幸せなことだな、と思う。