【依存症】何かの「薬理作用」を信仰する危うさについて

私は「アルコール依存症」である。

酒はアルコールの一種、エチルアルコール(エタノール)を含有する液体をさす。

エチルアルコールの薬理作用として、脳(特に前頭前野)の鎮静作用がある。

私はこの鎮静作用を乱用すべく、酒を飲んでいたということになる。

そのほかの薬物に依存する人は、いずれにせよ薬物が持つ薬理作用を期待して、乱用に至る。

各薬剤の薬理作用のうち、中枢神経作用の分類は以下の通り。

引用:北海道飲酒運転防止研究会HP:【知っておこう】アルコール依存症の正しい知識と対応について(Part-1)より

自分を興奮させたいからコカインや覚せい剤を使うし、鎮静させたいからアルコールやヘロインやBZP(ベンゾジアゼピン系睡眠薬など)を使う。

医学的な病名としては、DSM-5において「物質使用障害」に分類される。

引用:厚生労働省 樋口委員配布資料「用語及び研究の推進について」-2 より

使用障害とは簡単に言えば「あなたの使い方まずいよね」ということである。

期待した薬理作用を「もっと強く」「もっと長く」と追及していった結果、本来せめて人間らしく生きていくために使用していたのが、本末転倒になる。

つまり、本来人間らしくあり続けるために必要不可欠だと思って自己治療的に取り入れたはずの薬物だが、その薬理作用に頼るあまり、客観的には「逆にもっと人として生きていくことが困難な人生になっちゃってますよね」という状態に陥っている精神的な病だ。

結局、病巣というのは、自分の「生きづらさ」である。

何かしら「歪み」を抱えて無理やり環境に適応しようとするから、薬物の薬理作用が必要になる。

その「歪み」を見つめてアプローチしないと、たとえばアルコールをやめたとしても、他の何かに頼る。生き方が変わらない限り、同じように依存する。無理やり環境に適応しようとする限り、埋めなければならない心の穴はそのままだからだ。

同じく精神疾患ととらえられている「うつ病・うつ状態」などについても、同じことが言える。

ご覧のようにたくさんの薬剤が製薬会社から発売されている。

主に薬理作用をザックリ簡潔に言えば、心身を安定させ満足感を感じさせる「セロトニン」というホルモンを増やすことだ。

(セロトニンについては過去にまとめているので、詳しくはこちらを後ほど参照いただきたい。)

それにより、不安状態や抑うつ状態を軽減して、服薬した人が生活できるようにしよう、というのが薬の開発意図である。

しかし、エチルアルコールと同じように、頼り過ぎれば毒になる。

本来、化学的に精製された化合物というのは、自然界に存在しないので、遺物である。

私はこういう化合物を提案する仕事をしてはいるが、基本的に飲まなくていいなら飲まないほうがいいに決まっている、と考えている。

化合物に依存せず、ナチュラルな状態で生活できること。

それが、治療的な真のゴールであり、薬が要らなくなることが最も良い状態だ。

だから、精神疾患の薬剤の存在意義は、補助にある。

にっちもさっちもいかない膠着状態を軽減して、当事者が己の病巣である「生きづらさ」に取り組めるようになるための補助的な役割が、抗精神病薬の本質である。

薬物で安定した仮初めの状態をつくり出し、そのドーピング期間を有効に利用して、CBT(認知行動療法)や運動療法や自己分析を行う。それにより、今までの生きづらい生き方を変え、自分なりの人生の歩み方を見つける。

その探索的アプローチがない限り、生きづらさは解消されない。

極論、薬は何も解決してくれない。あくまでも補助だから。薬が無くても生きていけるようにしようと思うのもするのも、本人にしかできない。

私は抗精神病薬を服薬することで、なんとかその目的を少しだけ達成できた状態と言える。

今までの生きづらさとは、アダルトチルドレンとしての認知の歪みであり、発達障害(神経発達症)に対する無知と否認であり、現代社会に対する過剰適応だった。

それが明らかになったので、薬に頼る必要がなくなった。

不思議なもので、抗うつ薬とADHD治療薬を服薬してきたが、人生の問題点が明るみになり、どう生きればいいのか自分なりの結論がはっきりした時期から、身体が薬という異物を受けつけなくなってきた。

どうも、逆に調子が悪くなるのである。

今まで病んでいた時期にそんなことはなく、むしろ服薬していたほうがすこぶる快適だったのに。

なので私は「この薬をいつまでも飲み続けてください」などとは決して言わない。というか言えない。そんなことを言う医療従事者は信用してはいけないと思う。

ずっとドーピングした状態で何とか生きられていたとしても、それは本人が「本当に生きていきたい人生」ではない。

それなのに「この薬を飲んでいれば大丈夫」だとか「これさえあれば仕事を続けられる」だとか、そういう安易な思考に陥る患者は危うい。

アルコール依存症の当事者と同じ匂いがする。

自分の課題に取り組まなくて済むので、依存しているだけだと思う。

そうやって誤魔化していたとしても、飲んでいるものは異物なので、ずっと飲んでいれば身体と心はまた別の支障をきたすだろう。

そうなればまた別の薬で症状を抑えようとするのだろうか。

そんな対処は対症療法であって、根治療法ではない。

だからずっと何かでつらいままの人生になる。

当事者が薬理作用に頼り切るのではなく、自分の心の本当の声を聞き、自分の意思と人生を取り戻す。

我々に頼らずともその人らしく生きていける。そのために薬学と医学がある。その根本的な立ち位置を見失った医療行為は、ただのイネイブリングだと思う。

薬に限らずとも、この世は対症療法的な情報であふれかえっている。

情報・エビデンス・権威。そういう一種の麻薬の「薬理作用」に依存している。

わかりやすいノウハウを求めるビジネス書。

有名な誰かが言っているから、権力を持つ何かが認めているから、という権威的なお墨付き。

心を軽くしてくれるような、顧客が言ってほしいことを言うだけの偽カウンセリング。

非現実で現実を忘れさせるための麻薬的なメディアコンテンツ。

手っ取り早く稼ぐ、社会的地位を得る、逃避願望をかなえる、そのための具体的な方法や技術(テック)はいくらでもあるかもしれないが、それらは何も解決しない。

自分の人生の舵取りをできるのは自分しかいない。

本質的な答えを持っているのは、自分だけだ。

誰かの成功例や何かの技術をいくら駆使して、権威を利用して外見だけ取り繕いうまく立ち回ったとしても、根本は偽れない。

それを知ってか知らずか、虚構に翻弄されている。そんな社会だよなぁ、と思う。

正直、自分に向き合うのは、とてもつらい作業だ。

誰もが嫌だ。誰もがやりたくないし、後回しにするのも無理はない。

でもそこにこそ歓喜があるし、人生における人としての輝きがある。

逃げたくなる時もあるだろう。それは構わない、ゆっくりでいい。

でも、私は自分の経験から、人生を誤魔化して無意識にあきらめないために、その作業の手伝いはしていきたい。

あくまでも本人が主役。それは私が私の人生においてそうであるように。

私の人生に対して払うのと同じように、他人の人生に敬意を払う。

きっといつか向き合うことができると信じる。

「薬理作用」ではなく「人」を信頼する。

そういう存在でありたいと思う。

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