私は無力だと思う。
あれやこれやと思いあぐねている。
それはコントロールできないものをコントロールしたいと思っているからだ。
元来、人には上下などない。
自分の認識が作り出す、まやかしに過ぎない。
私はよく「上からモノを言われているな」とか「お前に何がわかる」とか、正体不明の存在に対して思いやすい。
自己開示することは、相手の自己開示を要求する交換条件ではないのに。
私が洗いざらい見せているのに、何も見えないのが、おそろしく感じるのだ。
しかし、それは「見えない」のが恐いのであって、本当はその人は何も考えていないかもしれない。
あるいは本当に私を至らない未熟者と嘲笑っているかもしれない。
私は、それに関与しなくていいし、私にはどうしようもない。誰がどう思っていようと、私に対して直接はなんの意味もないということを、繰り返し思い出したい。
未熟者と嗤うひとは、私を「自分の経験しか材料がない」という謙遜に至らずに正しいと思って評価している時点で、まだその人のなかに解決すべき課題を抱えているだけのこと。
だから、この世に上下などない。
「この人はまだまだだな」という思い込みや、逆に「この人はすごい」と肩書きで恐れたりするのは、自分のなかの何かが他人をそう見せているだけだ。
自分の経験とは違う経験をして、様々な人が生きている。それはもはや、違う宇宙だと例えても過言ではないかもしれない。
だから、違って当たり前だし、上も下もない。
そもそも、比べられない。それを私はよく忘れる。
自分がまだ知らないことを知っていたり、よく見聞きしていても、その人の方が優れているわけではない。
また、よく知っている私が優れているわけでもない。
知る機会があったから知っている。それだけだ。
それを、求めている人に出し惜しみせず伝えられる人を今まで理解できなかったが、自分が知らなかったこと、これからも知らないことがたくさんあることを謙虚に受け止めているからだ。
だから、今まで出会ってきた尊敬すべき彼らは、自分が持っているものはごく一部であり、言葉で伝えられることは限られていると知りながら、相手にわかりやすいように骨を折って伝えてくれていたのだ。
なんとありがたい心だったのだろう。
彼らはそれがそのとき自分がやりたいことだったからやったのだろうけれど、そうありたいと思う。
自分の至らなさを知り、よく噛み締めているからこそ、他人に対して惜しまず、自己満足にならずに、伝える努力を自然にすることができる。
それが強い人であり、優しい人だ。そうありたいと思う。
私に問題があるから高みに至らないのだ、という思い込みは、幼少期のライフスキルが発動しているだけだと気づこう。
もうどうなとでもするがいい、と、天に預けることにする。
一切合切、自分ですら、ままならないのだ。
いわんや、他人をや、である。
自分の今までもこれからもコントロールできているように勘違いするのは、西遊記で孫悟空が釈迦の掌のうえを世界だと勘違いし、釈迦の指に斉天大聖と書いて得意になっている姿に似ている。
いくら優れた能力を持っていても、どこまでも自分すら、コントロールなどできなくて元々なのだ。
他人は別の宇宙だ。私の宇宙からどう頑張っても、変えられない。時空も空間も違うから。
私たちには、後にも先にも、限りなく『今ここ』しかない。
私にできることは、『今ここ』を楽しみ味わうことだけだ。
真剣に誠実に、向き合うことだけだ。
知りたいことを学び、感じたいことを感じる。
そのためだけに、今がある。
集中しよう。
それが生きるということだ。