【AC】他人からのアドバイスを無意識に警戒してしまう理由

わたしは、アドバイスを素直に聞くのは苦手です。

「○○したほうがいいよ」

と言われると、何も知らないくせに知った風な口を聞きやがって…と、心が反発しがちです。

他人から提示された情報に非常に懐疑的です。

本当に真実なのか?他人の欲や意図やバイアスに歪んでいないか?を確認しないと信じることができません。

わたしは、人を信じられない、心の冷たい、器が小さい人間なのだろうか?と凹むことがよくあります。

そもそも、なぜなんだろうか?と考えてみました。

理由①:「間違えてはいけない」という強迫観念

まず、わたしは、極力間違えてはいけないと思っている節があります。

間違えることは他人から非難され嘲笑される、取り返しのつかない恥ずかしいことだと思っているのです。

なぜなら、ASD(自閉症スペクトラム)で、いわゆる『常識的なこと』でわからない点をよく尋ねてきました。尋ねた人には、よくバカにされてきました。

「なんでそんな当たり前のことがわからないの?」

「どうしてあなたは普通にできないの?」

と言われました。親にも悲しい顔をされてきました。

私の「わからない」という気持ちに、だれも寄り添ってくれなかったし、誰も助けてはくれなかった。その悲しみと怒りが今もまだ腹の底にあります。

つまり、私のことを根本的に理解していないと思っています。

それなのに、わかったようなことを言われるのは、我慢がなりません。そのわかったようなことは、基本的に間違いだと考える傾向にあります。

心のうちを打ち明けあい、私がさらけ出した醜い部分をみても否定しないこと。自分の醜さも打ち明けてくれること。

この双方向でのやり取りで信頼関係を構築しない限り、他人から言われたことはほぼ100%疑ってかかる傾向にあります。

わたしは聞くのが怖くなり、聞いてくれなかった他人を憎み信用しなくなりました。

わからないことを素直に聞けない。でも間違えてはいけない。そういう強迫観念を持っています。

だから、素直に受け取れないのだと思います。

理由②他人に従うことに対する恐怖

次に、闇雲に親の言う事を信じた結果、痛い目をみてきた経験から、人に従うのは危険で怖いことだと感じている、ということです。

過干渉によりストレスを与えられ続けた私は、長いこと学習性無力感に苛まれてきました。

正しさというカンナで丁寧に削られ続けた自己効力感は、もはや雀の涙ほどもありませんでした。何も確認しないで親の期待に身を任せて生きてきて、自分の人生を生きている実感を失いました。

その実感を取り戻すのは、至難の業で、未だ判然としません。

私はまたこの失敗を繰り返すのは、死んでも嫌です。

だから、提示されたアドバイスの内容が、本当に私が受け入れるべき提案なのかどうか、そして、今やるべきことなのか、という2点で、かなり慎重に検討することになります。

しかし、そういう私の態度を見てとると、アドバイスしてくれた人は苛立ちます。

「正しいことを言っているのになぜやらないんだ?!」

「せっかくアドバイスしているのに聞こうともしない。全然素直じゃない!」

発言者にとって正しいことが、私にとって正しいかどうかは、私が決めることです。

アドバイスや助言はありがたいですが、その情報を活用し行動に移すかどうかは私の自由でいいはずです。

しかし、アドバイスしてくれたのだからそのひとに対して配慮しなくてはならない、と思うと、ただでさえ遅い決断がさらに難しくなります。

疑り深さというマイナス要素は、慎重さというプラス要素と表裏一体

性質について考えを深めるにつれ、私の欠点は果たして欠点だから消さなければならないものなのか?と私は自分自身に問いかけます。

私には、利点でもある、とも思えてきました。

私はたしかに、人の善意を無闇に警戒する認知の歪みを抱えています。

それが原因で、私は他人に関わるとひどく疲れます。

「私にはそう言った認知の歪みがある」と認識しておくと、『あ、今これはもしかして思い込みかな』と客観視することができます。

そうであれば、この特性は「慎重さ」という利点です。

不用意に誤った情報や判断に流されたり、他責にしたりすることなく、世の中を生きる『誠実さ』にさえ繋がる長所でもあります。

根源的なもう一つのバイアス

ここで、はた、と気づいたことがあります。

「わたしはそもそも何故『素直であらねばならない』と思っているのか?」

ということです。

愚直であることは、決して美徳ではありません。

昨今のコロナウイルスの情報を盲目的に信じる人々がマスクやトイレットペーパーの買い漁っています。

真偽が定かではない情報に踊らされる姿は、かくも滑稽で社会悪です。

このことは、皆さんも肌身に感じていることかと思います。

素直というのは、毒にも薬にもなる、ただ単なる特性でしかない。

良いも悪いも、裏返る。

ではなぜ、それを良いと断定したか?

それは、『世間的に良い』とされている、機能不全家族の父母が愛した「常識」という忌まわしい物差しが、私のなかに深く根を張っていたからです。

そして①の、「間違い」と他人に思われる、いわゆる常識外れが怖い真の理由は、「そうでなくては嫌われて、またひとりになるかもしれない」という不安からです。

「見捨てられ不安」です。

それに縛られているから、わたしは間違えてはいけないと思っているし、素直でいなくてはならない、と制約をかけていたのです。

この根こそ、そもそもの認知の歪みの始まりだったのだと気づいて、『じゃあ素直に聞けなくたっていいんじゃん』と思えました。

「素直である必要」は、実はどこにもなかった、ということになります。

まとめ:あなたはそのままでいいのかもしれない

私はこのままでいいのかもしれない。

ということは、あなたも、そのままでいいのかもしれません。

今、「これが私の悪いところだ」と思っていることは、いくつありますか?

そのいくつかは「こうあるべき」という「常識」という歪んだ物差しで断定しているものではありませんか?

そのいくつかは「そうでないと嫌われるかもしれない」という見捨てられ不安で回避したいものではありませんか?

もしもそうなら、それらの罪悪感や劣等感は、抱え切れないほどいっぱいのその両手から手放してよいものなのかもしれません。

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