今回は、権威ある人を恐れること について棚卸ししていきます。
権威ある人を恐れること とはどんなもの?
■権威ある人たちを恐れること■
権威ある立場の人たちを恐れることは、親たちの非現実的な期待ーわたしたちがそうできた以上のことを求めたことーの結果であるかもしれません。
彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。
私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。
他の人たちが単に何かを主張しただけなのに、私たちはしばしばそれを怒り、またはコントロールと誤解してしまいます。
このことで威嚇されたように感じるかもしれないし、さらにそれに対して、わたしたちの過剰に敏感で脆弱なやり方で反応するかもしれません。直面や批判を避けるために、私たちは自分の統合や価値を犠牲にして、力を持つ人のそれに合わせていくのです。
自分がどれくらい有能であるか正当に評価できなくて、他の人と比べ、自分は不十分で不適当であると結論するのです。
権威あるひとたちを恐れることは、わたしたちに次のような問題を引き起こしているかもしれません:
●拒絶や批判を恐れる
●ものごとを個人的に受け取ってしまう
●ごまかすために傲慢に振る舞う
●自分を他の人と比べる
●自分が正しいことに固執する
●不適当、または無能であると感じる******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
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わたしは『厄介な社員』です
私は、会社の本部が嫌いです。
私は、上司、というものが、虫唾が走るほど嫌いです。
会社が『指示』してくる、というのが、もうそれだけでNo!と言いたいぐらい嫌いです。
会社・組織・先輩・上司。組織のヒエラルキー構造、上の立場にいる評価者。
それらに対して反射的に否定的な態度を表明する傾向にあります。
私たちをコントロールしようとしているのではないか?と身構えます。「俺たちに○○しろって言いてぇのか?」と胸ぐらをつかみかかりに行きます。
これは、弱い犬ほどよく吠えるという言葉にもある通り、私が権威ある人を恐怖している、弱い側の存在だからです。これを認めることは、正直今とても抵抗感があります。「実力がない」「弱い」。そんなふうに判断されることは、私にとって耐えがたいことです。
『威嚇』というのは、言い得て妙で、実にぐっさりきます。
その割には、「評価」に対して過剰反応します。
これについても、とても嫌だな、と思います。
評価されたいと思っています。自らの有能さを正当に評価できない私は、おっしゃる通り、他の人との比較でしか安心できないのです。
特に、憎んですらいる、権威ある人からのお墨付きを欲しているところがあります。つまり、自信がないのです。自分が誇る自分に、自信がない。だから、外部の評価や権威に寄りかかろうとします。
そんな自分は、ひどく卑しい下賤の輩だと自己卑下しています。だから、他の人との比較において優秀な成績を収め、賞賛されたことに対して素直に喜べません。心の底ではほしくてほしくてたまらないと渇望しているくせに、「そんなもの欲しくもなんともないけどね」という顔をしたがります。欲しいと認めることは、隷属に近い屈辱感があります。
しかし、このように他人に評価されたいという欲求(承認欲求)に支配されているということを、認めざるを得ません。そういった認知の歪みが、確かに存在します。
彼らの裁くような、批判的な、責めるようなやり方と、つじつまの合わない怒りは、わたしたちの他人との関わり方に影響を与えてきました。
これに関して考察を深めてみます。
私は、両親にそうした扱いを受けてきたのだろうか?それは、他人との関わり方に影響を与えてきたのだろうか?
そうでした。
「どうして○○できないの?」
「なんでこんなこともわからないの?」
「できなかったら、○○は買ってあげないからね、できない子には何も買ってあげません」
「○○できるまで、寝ることも食べることも許しませんからね」
これらは言われた記憶があります。
私は家という場所を、一時期は『牢獄』と同様のイメージに感じていたことがありました。結果を出さなければ処罰される場所。要求を満たさなければ権利がはく奪される場所。
そして、看守的立ち位置である母は、情緒不安定でした。
同じことをしていても、あるときはぶちギレ、あるときは、何の反応も示しませんでした。わたしは安心して生活することができなかったように思います。常に顔色を窺いながら、これをやっていいのかどうか、内心ビクビクしていました。
「非現実的な期待」とはなんだったのか?
非現実的な期待とは、私のなかではこのような期待だったように思います。
期待というよりは、義務ですね。
「常識的・ふつう・良い子 でなくてはならない」
「正しくなくてはならない」
「完璧でなくてはならない」
「第三者から評価されなくてはならない」
私たちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、彼らの期待に沿えないのではないか、と恐れてしまいます。
これらの期待に沿えないことはとても恐ろしいことでした。
なぜか?
裏切ったら、私の存在はいないもの、必要のないモノと判断され無視されるから。
無視される恐怖、無関心に対する恐怖です。
必死で叫んでも声を聞いてもらえない。
どんなに訴えても心に届かない。
わかってもらえない。見てもらえない。守ってもらえない。
それは、親・先生・クラスメイトとの交流の記憶です。
親は私が優秀であることを期待しました。迷惑をかけなくて、学業・スポーツ共に優秀で、良好な友好関係を築く自慢の息子。いいですね、そんな人間なら。
でも私は最初、そうではありませんでした。だから失望されました。いつも悲しそうな顔を向けられました。
クラスメイトは、私が劣っている点を挙げて、ことあるごとに馬鹿にしたりいじめたりしました。私は、別に彼らが好きに生きていることに特に異論はなかったのに。私が好きに生きることは、彼らの良しとするところではありませんでした。
先生は、そんな私を守ってはくれませんでした。「正しい行いをしなさい」と偉そうなことを言っておきながら、何もできないことに、腹が立ちました。
「あなた方が正しいというのなら、どうして私を守ってくれなかったのか。」
『るろうに剣心』(第16巻)で、瀬田宗次郎が緋村剣心に語った言葉が私の胸に蘇ります。
不殺とか 弱いものを守るとか あなたは言うけれど
それは間違いなんだ
何故なら
あの時あなたは 僕を守ってくれなかったじゃないですか
あなたが正しいと言うなら なんで守ってくれなかったんです
「弱きを助け強きを挫く」という正義を行うことができない先生や学校に失望しました。思えば、そこから組織や上司に対する不信感は醸成されてきたのでしょう。
頼りは、己の力のみでした。
親も、先生も、正しさを振りかざす割には、徹頭徹尾正しいわけではない、中途半端な存在。そのつじつまの合わなさが、私には耐えらえれないほど腹立たしいことでした。
両親が教師であることの歪み
さて、両親は教師です。
そう、私は当然、先生と同じだ、ということを連想します。
この人たちは、親であるけれども、あの頼りにならない偽善者と同じ人種だ、と私は認識しました。
正しい人たちの代名詞『先生』。それがどれだけ空虚で実のない存在かを知っています。
それなのに、私に正しさで制限をかけてきます。正しさという隠れ蓑に隠れて自分は血を流さない卑怯者。それは唯々邪魔な存在であり、私が生きる上でこのうえない脅威でした。
彼らはいわゆる看守であり、私は囚人だったといえます。
つまりここにきて私は、「管理者」に対して、恐怖しているのだ、と自覚せざるをえません。
(この「管理」について、私はこの窒息しそうな閉塞感を快感に変換しようとして性癖を歪ませるわけですが、それはまた今度分析したいと思います)
権威ある人を恐れることからの回復 とはどんなもの?
□権威ある人たちを恐れることからの回復□
権威のある立場にいる人たちと、一緒にいて楽に感じるようになり始めるにつれて、わたしたちは批判をもっと積極的にとるようになり、批判は学ぶための手段となりうることを発見するようになります。
権威ある人たちも私たちと同じような人間であり、彼らなりの恐れや防御や不安感を持っているのだということがわかります。
物事を個人的に受け取ることをやめたとき、彼らの行動は、私たちがどのように自分自身について感じるかを決定しはしないのだ、ということを実感するでしょう。
わたしたちは単に他者に反応するのではなくて、状況を判断し、自分の行動を選択し始めます。わたしたちは、究極的な権威は、常に私たちと共にいるハイヤー・パワーであることを再認識します。
権威ある人たちと一緒にいて快適であるようになってくるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます:
○高まった自己評価を持って行動する
○自分自身のために立ち上がる
○建設的な批判を受け入れる
○権威ある人たちと楽に交際できる******
『ACのための12のステップ』フレンズインリカバリー 第7刷
68Pより引用(読みやすさのため絵文字を加えてます)✨この本の購入はこちらからできます✨
https://aca-japan.org/docs/books.html
ACAに繋がってなくても、欲しいと言えば送ってもらえます。
お求めの際には、ここの名前は出さないようお願いいたします
忌まわしい管理者である親や先生も、また人なり。
彼らもまたどうしようもなく不完全で矛盾した人間であり、正しさの権化ではないのだ、と知ります。
「役割」として正しくあらねばならないと虚勢を張っていた、彼らの苦しさや弱さについて確認すると、そのような「管理者」に対して、私は必要以上に恐れる必要はない、という安心感を持つことができます。
すなわち、私の自己評価について、彼らは決定権を有していない、という安心感です。
私は彼らに認められなかったからと言って、自分の評価を落とさなくてもいい。
つまり、どれほど権威ある人が否定的な評価を下したとしても、私には直接的には何の関係もないことで、「私は生きていないほうがいいのかもしれない」と思い悩まなくてもいい、ということです。
あくまでも彼らの私に対する第三者評価は彼らの物であり、私になんの攻撃性も有していない、と確認するとき、私は安心してその批判的な内容を冷静に吟味することができます。
そして、取り入れるべき批判については、気づきを与えてくれたことに感謝して真摯に聞くことができるでしょう。
取り入れるべきでない、と思う批判は、ごみ箱に捨ててもいいのだ、という安心感をえました。
そのすべてが攻撃に見えていた彼らの批判は、学ぶための手段となりうることを発見することができました。形は歪でも、彼らなりのヒントをくれていただけだったということです。それは善意であり、悪意であっても扱い次第で私は主体的に役立てることができる。
そういう、自分自身の生きていく力を信じ、耐えがたいほど辛いこともいつか好転していくというハイヤー・パワーを実感することができたセッションではないかと思います。