かっこいいことを書けたらいいし、悟ったようなことを書けたらいいが、私はそんなに人間できていない。
とある人にブログのことを貶されて以来、なんだか書きたくないなぁ、と思っていたし、書くとしても読むに値するものを書かなければ、と思ってしまっていた。
弱音を吐こうものなら、画面の向こうで嗤われているような気がして素直に書けなくなった。
でも、そんなの気にせずに気取らずに書けばよかったんだよな。
私はそもそもそのためにブログを立ち上げて、わざわざサーバーの費用を払っているんだし。
読んだ人がどう思おうが、何を言われようが、知ったことか。
ここは私が書きたいことを書く場所なんだ。別に金をもらってるわけでもない。感謝されるために書いているのでもない。認められるためでもない。
なら、遠慮する必要はないよな、と思ったので書いてみる。
ブレインフォグ
最近、仕事のこととなると頭がどうも鈍い。
脳内に霧がかかったようになって、するべきことが霧散していく。
「するべきこと」とは商売上組織がしてほしいことであって、私が心からしたい事じゃない。だからADHDの特性も相まってまったく集中できない。
以前は、自分が心からやりたい事だったから、まだなんとかなっていた。
医薬品を届けることは良いことで、科学的医学的アプローチは回復に必要な素晴らしいことだと考えていたから。
必ずしもそうではない、場合によっては悪ですらある、そう思うようになってから、途端にやっていることへの興味がすっかり失せてしまった。
成果が上がってもそれは喜ばしいことなのか。素直に喜べない、というか喜びを感じない。
ないがしろにされながらなんとか時間をもらって会って話して、他の薬よりはマシだから切り替えてもらったとして、それはどれほどの意義があるのだろうか、と自問自答する日々。
組織からは「あれもやれ」「これもやれ」と山のようにタスクが降ってきて、どれもこれもが本質的価値のないゴミのように見える。ゴミがどんどんたまっていく。
溜まるゴミを生きるために掃除する。いつまでもゴミが降ってくる。死ぬまで終わらない掃除をしているような気分だ。賽の河原と同じ。
組織は、そのくだらないゴミ掃除をしているかどうか、ITシステムを駆使して監視している。まさに監獄パノプティコンだ。私は雇われている今の私を囚人のようだと思っている。
毎日懲役に服するように、ゴミ掃除をし、喜びも楽しみもないことを、朝から晩までやっている。
正直なところ、実に虚しい。生きながらにして死んでいるのと同じだ。
ジレンマ
では、今の仕事をやめて別の仕事をすればいいのではないか?
そもそも仕事なんてそこまで言うならしないでいいじゃないか?
そんなわけにはいかない。
私には家族がいて、家族を養わなくてはならない。
小さい子供ふたりが、将来金銭的な理由で選びたい未来を選べないなんて、そんな状況には絶対にしたくない。
そのためにはある程度の資産がなくてはならない。
現時点でも養育費はかかるし、生活費を稼いでこなくてはならない。
もしひとりきりだったら、仕事をやめて退職金で農地付きの中古物件を買ってみたい。
限りなくオフグリッドで食べ物は自給自足し、自然のなかで哲学をもっと深めたいし、その内容をまとめて執筆したり発信したりしたい。
実際に農業系のコミュニティに参加して、そうした生活を選びイキイキと生きている人に会ったことがある。
男女問わず独身で、そこには高い自由度があった。
うらやましくないと言えばうそになる。
しかし、家族のおかげで私はとても幸せな時間を過ごしている。
満ち足りた気持ちになる。生きていてよかったと思う瞬間がそこにはある。
昔抱えていた言いようのない孤独感や不安がないのは、心許せる本当の家族がいるおかげだ。
だから私は、この人たちとの関わりこそ最も人生のなかで重要なことで、それを外敵や脅威から守ることが私が果たしたい私の役割だと知っている。
得たものもあれば、失うものもある。
そのバランスのなかで、どう現実をやりくりしていくか。
結局は、面白くもなんともない答えだが、「中庸」に行きつく。
どうにかこうにか楽しみを見つけて、やり過ごすしかいない。
苦難や苦痛を全く無くすることなどできない。
それでも、わかっちゃいるけど、今はけっこうきつい。
なんとかして他に収入の柱を増やして、組織の奴隷である割合を減らすしかない。
収入の柱というのは単に金の調達手段だけではなく、生活に必要な物資を調達する手段だ。
それさえ徐々に確立できていけば、金銭に依存するウエイトを減らせる。
ウエイトを減らせれば、金銭を子供たちに回せる。そうなれば、不安は少ない。
カタストロフ
この国は一度大きな大きなカタストロフに遭遇すると思っている。
資本主義経済社会は、今限界にきている。がけっぷちだ。
おそらく、今まで常識となっていた社会通念や社会基盤は崩壊する。
現在の円安・ドル高は、世界恐慌前と似ている。あるいは、ヴェルサイユ講和条約後のドイツのハイパーインフレの時に似ている。
借金誘導型マネーシステムを根幹とする今の社会は、もうそろそろ維持できなくなるだろう。
円もドルも紙屑同然になり、貨幣による価値交換ではなく、物々交換が実用的な手段になると思う。
そうなるのが今年中か、2025年7月なのかは、私にはわからないが、遅かれ早かれそうなる。
そうなれば、私たちのほとんどは貨幣価値に基づく財産をすべて失う。
そうなっても困らないようにできる範囲で資産を分散しているものの、私は結構焦りを感じている。
そうなったとき、私は家族を支えられるだろうか。いや、支えなくてはならない。
それは結局、貨幣経済社会だろうが、物々交換の原始的な社会だろうが、変わらない。
社会の収益構造は学閥的エスカレーターシステムでなくなるだろうし、子供たちにとっては日本に住み続けるのではなく、海外でこそ必要な学びを得られるかもしれない。
そうなったときに必要な分の資産は残しておきたい。
不安はまだ起こっていないことから生まれる
書きながら眺めていて気付いたのだが、これらはまだ起こっていない未来のことなんだよな。
未来がどうなるかわからないのなら、不安になったって仕方がない。
今できることをして、今準備できることをやったなら、あとは天にゆだねるしかない。
今できることは何だろう?
それは、このゴミのような仕事をひとつひとつ行うことだし、将来必要だと思う農耕ができる土地を今の資産の範囲内で確保することだ。
それ以上に重要なのは、今を楽しむことだ。
私にはこれが決定的に欠けている。
やりたくもないことに楽しみを見出す。
これがとても難しい。少なくとも私にとっては。
養老孟子先生も確かおっしゃっていた。
「どうせやりたいことだけなんてできねぇんだから、やらなきゃいけないことを好きになるしかねぇんだよな」
好きになるしかねぇのか。きついな。
好きじゃないのに好きになるってどうやってやるんだ?
好きじゃないもんは好きじゃなくない?
分解して、好きだな、と思う部分を見つけるのか。
やってみよう。
私が扱っているモノには、社会的意義も価値もない。むしろ毒かもしれない。
それを届けること、世に流通させることは、むしろ悪行かもしれない。
モノはダメだとして、行動はどうだろうか?
ユーザーに聞いてまわって、問題がなかったかどうか、事実をヒアリングするのは意義がある。好きかも。
行動の一部には好きな部分がありそうだ。
それを制限しようとする組織の活動方針が邪魔だ。
組織としてはできるだけたくさん売り上げを上げたいし、利益を生み出したい。
だからモノを使わせる方向になんとか動かそうとして、そのための行動指標を策定してくる。
これがうっとおしい。まったくやる気がしない。
これを好きになるにはどうすればいいか?
ギャンブル要素のあるゲーム性を楽しもうとしたが、ダメだった。競争・他者比較でのパワーゲームは私には嫌悪感しかなかった。ハマれなかった。
できるだけやってる風を装うという演技のゲームだと思って楽しもうとしたが、ダメだった。私は演技が下手だし、嘘がうまくないし、第一まったく気分が良くなかった。
実験だと思ってやってみるのはどうだろうか?
戦略推進室が立案した戦略は、現実において本当に再現性があるのか?を検証するというのは。これはちょっとおもしろそう。
戦略自体にも結果にも興味はないが、それが想定通りにいくのかどうかを確かめるという行為そのものは、好きかもしれない。
弱いな、もっと他にワクワクすることはないか?
自分で考えて試す、ということに私はもっとワクワクするに違いない。
しかし独自性を出すと組織は命令に従えという。どうしようか。
ここなんだよな。
好きになるには自分で考え、自分で試すという試行錯誤と、その結果の享受が不可欠だ。
それを奪うからやる気がなくなる。過干渉や世話焼きにあっているアダルトチルドレンの状態に似ている。
好きなようにはやらせてもらえないが、好きになるしかない。
やらされ仕事を好きになるのは私には無理だ。
結局は、指示の範囲内で実証実験する、といったところか。
観測者的な立ち位置で仕事のタスクをとらえてみよう。
やれる範囲でやってみて、やれないことはあきらめよう。
そのあとの未来はどうとでもなれ、だ。
とりあえず命令されている行動指標だけやって観察してみよう。そのあとのことは知らん。
求められているのは命令の遂行なのだから。心のなかでは責任はとらない。知ったこっちゃない。
そう思うと少し楽になってきた。
どうせただの金集めなのだ。真面目になることはない。
その程度のこと
私は仕事という遊びにはハマれない。
が、ハマれないながらに楽しむしかない。
嫌だと言っていてもやらなくては今のところ生きていけないのだから、やるしかない。
幸い、死ぬほどきついことでもないし、割に合わなさすぎる給料でもない。社会的な信用はあるほうだし、それに伴うメリットを生かして本当にほしい状況を作る足掛かりとしよう。
ラッキーだと思おう。
仕事とは、私にとってその程度のことだ。悩むほど大きい存在ではないじゃないか。
とりあえずのらりくらり、こなしていこう。
それにしても、それ以外の個人的な楽しみがないのは問題だ。
最近筋トレもなんだか味気ないというか、面白みに欠ける。
ワクワクするような金に依存しない何かを、見つけていきたい。
自然農は実に興味深く、やってみたいが、今の環境では難しい。
今できる、楽しいことにアンテナを張って生きてみよう。