諸行無常
世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。 人生は、儚く虚しいものであるということ。
諸法無我
全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないということ。
『徒然草』『方丈記』を読んでいて、やはりこの世は虚無なんだろうな、と思う。
人の負の感情は、この世に期待しすぎていることから生まれている。
対人関係において。
「当たり前だ」と思う心が、今目の前にいる存在への感謝を忘れさせる。
感謝を忘れて、不満を抱えるのは、自分の心。心のありよう次第。
自分の思い描いたとおりに、他人は動かない。それこそが当たり前。
期待とは自分の勝手な思い込み。
信頼を裏切られた、と私たちはよく感じるが、そもそも人間は信頼できるようなつくりをしていない。
いい加減だし、気分で言うことは変わるし、ズルくて残酷で、基本的に終わっている。
信頼に値しない存在として過度な期待をしないでいれば、善行に心から感謝できる。
組織において。
基本的に、行政官僚制組織は腐敗する。
損得マシーン・法の奴隷・言葉の自動機械。
終わっている人間が、さらに終わった人形に成り下がるシステムに取り込まれているのだから、もう期待のしようがない。
資本主義経済のこの世では、会社は営利目的の詐欺団体であり、政府は既得権益の保存機関であるのが、むしろ自然なレゾンデートル。悪であることが当たり前なんだと思う。
だから、善良な人ほど仕事は疲れるし、しんどい。悪を行なっているから。
わかりやすく稲盛和夫の『生き方』を読んで、尤もらしい顔をして「人として成長するために仕事がある」などと鼻息を荒くしていた20代。
当時を思い出すだけで恥ずかしくて穴があったら入りたい。
資本主義社会での仕事は、単なる暇つぶし。金のためにやることで成長することなど無い。
この虚しい世から目を背け何とかやり過ごすための、奴隷としての精神が培われる。
つまり「調教」されることはあるだろうけれど、いずれ本質的な生の概念に近づくと、本来の姿である毒に裏返る。自分を騙し続けて「生きづらさ」として抱えた負債は、心身の病となってあわられる。
仕事に正義や愛を求めることは、悪質な高利貸しに募金を求めるようなものだ。
どだい、無理な話である。
だから、会社に、仕事に期待をしなくなった。
企業が利益追求の巨大な捕食者であるという「変えられない事実」を認め、組織本来の存在定義を受け容れ、共存する方法を模索する。
私にとっての悪もあってのこの世。
悪をときには利用し、ときには遠ざけて。
かつて人類が「火」を手にしたように。
欲望の傀儡と化した営利組織という集合体と、智慧ある私たちのほうが、距離とバランスをとっていくよりほかはない。
彼らの在り方は変わらないし、私たちは生きていきたいのだから。
生まれた瞬間から、子々孫々にわたっての共犯関係である。
家族において。
そもそも、無理なことをしているという自覚はとても重要である。
人間は基本的に相容れない。
それなのに、同じ屋根の下譲り合って暮らしている。それはまさに奇跡である。
力を合わせて生活を成り立たせている。
相手がいるのは当たり前でなく、家族がいることは当たり前ではない。
我が子が存在することももちろん当たり前ではない。
今のこの瞬間は、偶然にも与えられた非日常である。
だから、洗濯物を取り込むこと、ゴミを出すこと、皿洗いをすること、どんな些細なことも、すべてが本来自分でやらなくてはならなかったことで、やってくれただけで感謝しかない。
金を稼いできているからといって「家事育児は妻がやって当然」などと言うのは、とても愚かな考えである。
パートナーがいるから、生活が維持できている。いつ離れても不思議ではないのに、なぜか一緒にいてくれている。それが本来だが、当たり前だと思い込んで、感謝を忘れる。
お互いに損得と使役の関係になったが最後、それは小さな行政官僚制組織になり果てる。
つまり、クズの巣窟となる。
崩壊(離婚)するのは、当然の帰結。なぜなら、行政官僚制を布いた時点で、マックスヴェーバーの予言を再現するだけ。つまり「破綻」は運命づけられている。
いずれすべてが無に帰す
あなたを傷つける人のこと、その人の言葉。
気にして深く考える必要はありません。
幸せな人は、他人を傷つけるようなことをしません。
その人は不幸せだからそんなことをするのです。
その人の問題で、あなたには全然関係ありません。「お互い幸せになりますように」
と祈って忘れて大丈夫です。— ちあきA4C🤎🤍 (@chiakiA4C) March 11, 2023
何もかもはコントロールできない。
自分自身すら、思い通りにはならない。
できることを、精一杯するだけ。それで100%である。
結果を期待しない。そして、恐れない。
・
自分のまごころが善だと感じることを、ただただ行うのみ。
本来それだけで、尊くて美しい。
それ以上のなにかは総じて虚飾である。不純物であり、オマケであり、娯楽である。
善行という生の本質から離れることなく、浮世の遊びとして楽しむ程度がよい。
借りものの身体を通じて、魂が震える体験をするための享楽。
その享楽にのめり込み過ぎて溺れると、苦しみと悲しみの多い人生になる。
エビデンスも法律も、しょせん言葉遊び。
良心だけが、唯一の羅針盤である。
この世界の計り知れない大きな流れに身を任せる。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」