しあはせの手紙(『この世界の片隅に』著:こうの史代)
突然失礼致します此れは不幸の手紙ではありません。だつてほら眞冬と云ふのになまあたたかい風が吹いてゐる時折海の匂ひも運んで来る道では何かの破片がきらきら笑ふ貴方の背を撫づる太陽のてのひら貴方を抱く海苔の宵闇留まつては飛び去る正義どこにでも宿る愛そしていつでも用意さるる貴方の居場所ごめんなさいいま此れを讀んだ貴方は死にますすずめのおしゃべりを聞きそびれたんぽぽの綿毛を浴びそびれ雲間の陽だまりに入りそびれ隣に眠る人の夢の中すら知りそびれ家の前の道すらすべては踏みそびれ乍ら(ながら)ものすごい速さで次々に記憶となってゆくきらめく日々を貴方はどうする事も出来ないで少しづつ少しづつ小さくなりだんだんに動かなくなり歯は欠け目はうすく耳は遠くなのに其れをしあはせだと微笑まれ乍ら(ながら)皆がそう云フのだからさうなのかも知れない或ひは單にヒト事だからかも知れないな貴方など この世界のほんの切れっ端にすぎないのだからしかもその貴方すら懐かしい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めにすぎないのだからどこにでも宿る愛変はりゆくこの世界のあちこちに宿る切れ切れの私の愛今わたしに出来るのはこのくらゐだもうこんな時に爪を立てて誰かの背中も掻いてやれないが時々はかうして思ひ出してお呉れ草々引用:『この世界の片隅に』下巻
一欠けら
貴方など この世界のほんの切れっ端にすぎないのだからしかもその貴方すら懐かしい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めにすぎないのだから
この一節の心をいつも忘れる。
私という存在は、この世界の片隅のほんの一部で、豆粒のようなもの。いやそれよりも小さい小さい、一欠けら。
しかも、オリジナルでありながら、誰かや何かの寄せ集めにすぎない。
そんな一欠けらたちが、どちらが偉いとか、どちらが優れているとか、あるいは劣っているとか、正しいとか間違っているとか、喧々囂々と言い争って、瞬きをするほどの短い一生を終えていく。
それが、この世の中である。
一欠けらであることを忘れ、あるいは受け入れられずにいると、小さい自分の世界のなかで苦しんで苦しんで、不安と恐れにさらに弱弱しく小さくなって終わっていく。
一欠けらであるということは、どんな存在もなくてはならず、一欠けらの我々が世界を覆っている全部でもある。
だから、居場所は探し求めなくとも、今ここにある。
『いつでも用意さるる貴方の居場所』。自分がそう認識できずとも、居場所は常にある。
自分の心が受け付けないだけ。
あなたは、ここにいて良い。
何かを成さずとも、何かの役に立たずとも。
どこにでも宿る愛
変はりゆくこの世界のあちこちに宿る切れ切れの私の愛今わたしに出来るのはこのくらゐだ
やれることは、特にない。
自分が思っているほど、私に力はない。
愛は宿る。
真剣に生きていれば、いや。そんな条件などなく、私が生きた今日、その端々に。
私だけでは完結しない。切れ端のほんの一部のような愛。
しかし、それが最も尊く、最も気高く、輝く私の命の証。
揺蕩う柳のように
無理をしない。
飾らない。
心に逆らわない。
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ引用:宮沢賢治『雨ニモマケズ』より一部抜粋
日照りのときは涙を流すこともある。
冷夏にはオロオロするばかりで何もできないことだろう。
何かや誰かのために一生懸命やっても報われないことのほうが多い。
役に立たないと馬鹿にされるだろう。苦にもされないで、静かに一生を終えるだろう。
それでこそ、自然な生を全うするということではないだろうか。
効率だとか、合理性だとか、生産性だとか。
そんな損得に気持ちを雁字搦めにしては、貴重な時間をただ見送るようなもの。
そんなことで、私は本当に生きているといえるだろうか。
そういう風に生きていたから、酒に依存し、権威に恐怖し、心の弱さを覆い隠すために強さを求め、まともでいられなかったのではないかしら。
「なんだか、不安でたまらないの。生き神だった頃は陽が暮れて、衰え始めて眠りにつくとき、いつも、とても満たされた気持ちで目を閉じられたのに、いまは恐ろしいの。目が覚めても、ただ昨日までの現実の続きが待ってる。目の前に広がるあてどない膨大な時間に足が竦む」「一日一日、一刻一刻が息をのむほど新しくて、何かを考えようとしても、追いつかないくらい、いつも、心の中が一杯だったの。」「今日も陽が昇り、また沈む。朝咲く花が首から落ちる。今日も陽が沈み、また昇る。あたり一面花が咲く。けれど、昨日とは別の花。されど、今日も綺麗な花。」引用:テレビアニメ『蟲師』 第6話「露を吸う群」
私は、まだ時間がたくさん残されている、と思い込んでいる。
しかし、いつ終わるか誰も知らない。それは誰にもわからない。
一日、この一瞬は、見ようと思えば、息をのむほど常に新しく美しい。
過去に囚われ、未来に怯えて、ありもしない頭の中の世界を生きるのはやめよう。
その世界にいる限り、不安は常に膨らんでいく。膨大なありもしない時間への恐怖で足がすくむ。
切れ切れの愛が、いつも誰かと繋がっている。それだけで十分だ。