私はよく「相手を暗にコントロールしようとする人」に出会うと、激しい怒りや憎しみを感じる。
残念なことに、仕事ではこうした人によく遭遇する。社内でも、社外でもだ。
ビジネスの世界は、パワーゲームだ。
高学歴・高収入を誇るような、いわゆる「勝ち組」と呼ばれる人がまさに総じてそういう小賢しさを持ち合わせている。徹底的にウマが合わずに苦労したものである。
彼らはパワーゲームで勝ってきたから、パワーゲームが大好きだ。勝てるフィールドに人は虜になる。そして己を見失う。
成功してきた彼らはその人生経験の裏付けも相まって、「自分の人生や他人の行動をコントロールできる」「他人にはなくても自分にはその力がある」「努力すれば自分は成功者になれる」という宗教的思想を信じて疑わない。
それは、その宗教を信じるに足る恩恵に彼らが恵まれてきたからなのだが、そのことに気づけない。全て自分の才覚や努力の賜物だと思って天狗になっている。実におめでたい。が、私も例に漏れず自惚れてきた。
様々な外部要因に恵まれていて、コントロールできているかのように錯覚できるだけの幸運の上に、私はあぐらをかいていたと言える。
そんな私のなかの小賢しさ・矮小さを改めてまざまざと見せつけられるような気がして、目を覆いたくなる。
ザワザワするのだ。
そんなかつての私のような、小賢しく信念に乏しいだけの輩に、今の私の真心が踏みにじられるのではないかという不安を抱えているから。
わかっていない未熟者にいいように翻弄されて、チャンスを潰され切なる願いが叶えられないのではないか、という恐怖から闘争本能が呼び覚まされ、怒りに目が眩む。ノルアドレナリンの為せる技だ。
コントロールと成果
これらの根幹は『コントロール』を手放せていないことだ。
結果をコントロールしたい。
状況をコントロールしたい。
相手をコントロールしたい。
そういうコントロールを手放せずに、過信する人たちと同じ土俵に乗ってしまうと、たちまち恐れや怒りに目が眩む。
畏れや怒りに目を眩まされるな
皆ただそれぞれがあるようにあるだけ
逃れられるモノからは知恵ある我々が逃れればいい
引用:『蟲師』3巻「眇の魚(すがめのうお)」より
本物には、ちゃんと本物が伝わる。
信頼は、愛に敏感だからだ。
実際、こざかしく立ち回っている他の社員は一見すると優秀で周りより得をしているように見えるが、長期的にみると結果的に私の方が成果が出ている現実が証明している。私はある程度顧客に信頼され、製品が採用され、適切に使われている。
私は本当に相手にとっていいと思うものしか勧めないし、相手の考え方を第一に優先する。決して押し付けたりしない。
あくまで「私はこう考えるんですが、どうでしょうか?」と率直に意見を伺う。
だから相手はおそらくコントロールされる恐怖を感じずに議論ができる。だから納得も否定もしやすい。
私は顧客に良い状態になってほしいと思って仕事をしている。それしか望まないようにしていて、それすら私だけではどうにもならないことを受け入れたいと願っている。
私にとって最も望ましい姿と、顧客にとって最も良い状態がイコールではないこともよく知っているし、それでいいと思っている。
真剣にやっている人は、本質的な情報に必ずやリーチする。それは、およそ人には関与できないほどの巨大な力(ハイヤーパワー)がその人自身にも私にもあるからだ。求めている人には、必ず求めているものが運ばれてくる。そういう風に世の中は出来ている。
つまり、小賢しい誰かの妨害ごときで真心が届かないような顧客には、今ここでは、私のサービスは必要じゃなかった、ということだ。まだ時期が早かったのかもしれない。
それは『変えられないもの』だ。
営業ができること
例えば、営業として私が出来ることは「常に、相手にとって望ましいと私が考える最善を準備しておくこと」。
それだけだ。
まさにタフラブの体現が、営業の最も洗練された在り方だと今は思う。
信じて見守り、肩代わりをしたりイネイブリングしたりしない。決して相手をコントロールしようとしない。一番遠回りに見えて、その遠回りこそが最短距離だった。
私ができること、望ましいと思うこと、その手段を、アイメッセージでわかりやすく明確に伝えること。それを伝えたうえで、判断は顧客の判断に任せる。
それは、顧客の在り方そのものを、何より信頼して任せているからだ。
必ずや、ハイヤーパワーに導かれて、彼らが今必要なものを掴み取るのだと、信じるからだ。その結果与えられるものが、私が今、与えられるべきものだ。
営業は、優秀であればあるほど、自分が無力であることを忘れがちだ。
「顧客はわかってないから分らせよう」
「こう言えば心理学的にはこう思い動くはず」
「この情報は不利になるから伏せよう」
こんな下心が働くのは、根本的なところで、相手を信じていないからだ。
「私がやり方や言い方を変えれば相手の未来を変えられる」。そう思い違いをしている。コントロールできると思っている。
残念ながら、それは虚しい妄想だった。
そんなことは神にすらできはしないのに、私たちはつい原因と結果を掌の中だけで考えて、自分の手柄のように錯覚してしまいがちだ。
掌ばかり凝視していることに気付いて見上げると、雲の上の、自分にはコントロールできない様々なモノたちのお陰で、今手中にある『成果』が形作られていることに気づく。
そして『成果』はたまたま、今私の手に落ち着いているが、私にはどうしようもない流れに沿って流動的に世の中を巡り巡るのだ、ということに気づく。
雨と川
だから、仕事の成果に一喜一憂することは、天気の変化に一喜一憂するような、そんな笑っちゃうようなことなのかもしれない。
限られた状況のなかで、最大限の自分にできることをする。そうしてできたものは、紛れもなく今の私の100%である。それ以上でもそれ以下でもない。
私は、変えられないものと変えられるものを見分ける賢さがほしい。
私は「もしもっと私が勉強していれば」とか「もしもっと会社がしっかりしていれば」とか、タラレバに囚われて後悔の底なし沼から抜け出せなくなる時が、よくある。
状況は変えられないもの。
未来は変えられないもの。
過去も変えられないもの。
「今ここ」のみが、変えられるもの。
そう、今ここだけだ、私が影響を及ぼせるのは。その積み重ねが道筋となる。
雨の一滴一滴が、川になり海にたどり着くように、一滴一滴に力など無いが、私は一滴として今日一日、今この時を全力で生きれば、それでもう100点満点なのだ。
それが私の預かり知らない、山の地形や、河口の形に沿ってゆっくりと流れていき、やがてあるべき姿へと落ち着いていく。
必ずや、そうあると信じること。
つまり。雨の一滴一滴が、自然の摂理を信じて疑わないようなことが、人としてハイヤーパワーを信じることなのかな、と思う。
実際生きてきて、私は会うべき人に逢い、するべき失敗をして、今ここに息をしているのだと思う。
それは、世間の常識とか倫理とか理論とか、そんなちっこいルールなんかよりもドッシリと、この世に根を張っているように感じる。その感覚からすると、一部の常識や理論をちょっとでも信じているなら、ハイヤーパワーこそ信じて当たり前のような気がしてくる。
私は一滴として、ただただ一生を、仕事を全うしたい
かなり脇道に逸れたが、私が言いたいことは概ねこういうことだ。
仕事人としての私は、所詮雨粒のひとつ。
たまたま他の雨粒から「周りより大きい」と言われたり、「素晴らしい雨粒だ」と言われたりしたとしても、雨粒は雨粒。一滴の力しかない。私は、それをいつも何度でも忘れてしまうから、出来るだけ忘れたくない。
山があるから流れられる。
川になるから流れられる。
一滴ではできないこと。
海があるから、また雲になる。
一滴に還ることができる。
そのあまりにも偉大な、私にはどうすることもできない力(ハイヤーパワー)を信じて、途方もない道のりはいつか海に開けるのだと、安心して肩の力を抜き、この身を委ねていたい。
個体の違いや優劣に、飽きもせず日々動揺し怒り悲しみ憎み苦しむ。そんな矮小な雨粒だけれども、一滴としてそういう全ての醜さを受け容れられたなら、と思う。
そんな雨の日の午後。