【依存症】焦らず一つひとつ『知る』ということ

回復したい。

そう思えば思うほど、焦る。

やらなければ、と思ってやるのはちょっと違う。

やりたい、と思ってやるとき、本当にやって変化が訪れる。

そう、変化は起こすものではなかった。訪れるものである。

自分を変えたい。

そう思うことは素晴らしいことで、勇気あるチャレンジだ。称えられるべき姿勢だ。

しかし、割と意図的に変えようと画策したことは、得てしてなかなかうまくいかない。

うまくいったように見えて、うわべを撫でていただけだったということは、よくある。

やはり、天から授かるように、変化は私たちがお呼びもしない何かに導かれて『訪れる』。

本当に、「理解する」というのは難しいな、と常々思う。

ただ情報を知ったとしても、理解しているとは言い難い。

行動しなければ、本当の意味で頭のイメージと体感イメージが一致しているかどうかは、わからない。

行動できることは限られているから、真偽を確かめられる事象は、必然的にほんの一握りのことだ。

しかも、同じ行動であったとしても、人によって感じ方や作法は様々で捉えどころがない。

王道だと思っていたことが、実は道のひとつであるということを、道半ばで知ると、人は固執し、己の価値観を変えたくないと抵抗するものだ。

なぜなら、「わからない」「違うかもしれない」ということは、不安や恐怖を感じさせるからだ。自分の足元が揺らぐようなことは、誰も信じたくない。

しかし、私たちは、様々なことを、本当の意味では知らないまま、生きていかなくてはならない。

知識として頭に入ったことを「理解した」つもりになってしまうことはよくある。

私はよくあるし、今もそうだと思う。

私は絶望的に様々なことを『知らない』。

未知の領域について、私は知っている範囲で想像することしかできない。

実際にやってみたとして、掴んだものがfakeである可能性はゼロにはできない。

しかし、やらずには、やはり何もわからないままだから、私は知りたい思うことを実際にやる以外にない。

私は未熟なのだろうか。

私は至らない人間だろうか。

私は能力が低いのだろうか。

そうではない、と思う。

というのも、自画自賛したかったわけではない。私はもちろん、まるでなっていない、てんでダメな状態だ。

私が言いたいのは「みんな、そうなんだ」ということだ。

立派そうに見える人も、社会で成功している肩書が立派な人も、知ったような澄まし顔をしている人も、素晴らしい技術を持つ人も、みな、『まるでなってないてんでダメな状態』なのには、変わりがない。

結局は皆知ったかぶりをして生きている。様々なことを『知らない』のが現状なのだから、多少の差はどんぐりの背比べのような違いなのである。

だから大事なのは、『知らない』ということを知っていて、常に忘れずにいるかどうか。

大事な違いは、この姿勢くらいなのだろう。

ソクラテスの「無知の知」は、まさにこういうことなんだと思う。

私はまだ忘れる。

私が『知らない』ということを、忘れる。

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