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【依存症】再飲酒(スリップ)を活かすために

アルコール依存症の治療には、再飲酒はつきものであると言ってよい。

飲酒すると確実に病気は悪化するし、失うものも多い。

しかし、この病衣期は何回か失敗しないと、本当に酒をやめる気にはならないものである。

大切なことは、飲酒を今後のために活かせるかどうかである。

飲酒した場合には、自分のどこに問題があったかを考えて、それを改めるようにしていくとよい。

次にチェック項目を挙げてみよう。

 

①アルコールに対してコントロールが効かないことを認めているだろうか?

量を過ごさないように飲めばよいと思っていれば、その考えを改めない限り、何回でも酒による失敗を繰り返すであろう。

アルコール依存症とはどんな病気であるかよく学び、他ならぬ自分がその病気にかかっているということを認めることが大切である。

 

②自分ひとりの力でやめ続けられると考えていないだろうか?

AAや断酒会に出席しない限り断酒継続は難しい。

自力に頼っている間は、しばらくはお酒をやめることはできても、長期の断酒はできないと思ったほうがよい。

この分野では、なぜAAや断酒会が発達してきたのかを考えてみよう。

 

③友人の整理はついているだろうか?

飲み友達が訪ねてきたり、あの人は酒が好きだからといって、親せきや職場の同僚が酒を勧めに来るようでは断酒はできない。

絶対に酒は飲まないということを、周囲にもわかってもらうべきである。

そのためには飲み友達とは付き合わないようにし、自分は一滴の酒も飲まないということを周りの人にはっきり告げる事である。

 

④家族は治療に参加しているだろうか?

アルコール依存症は家族全体がやられていく病気である。

家族自身にも多くの問題点があり、それを直していかないと、アルコール依存症者の断酒も難しくなるし、たとえ断酒したとしても家庭の平和を取り戻すことはできないのである。

家族自身が病院の家族教室や、自助集団の家族会に出席することが大事である。

 

⑤感情の動揺を飲酒で解決しようとしていないだろうか?

腹が立ったらすぐに酒に走るとか、イライラするので一杯飲んでスッキリさせようという類のことである。

不快な感情をアルコールや酒に頼ることなくやり過ごすにはどうしたらよいか考えてみよう。

 

⑥もう治ったと思っていないだろうか?

これは1年以上断酒した人に多く見られる。

長いこと飲んでいないから、コントロールの効かない体質もよくなったのではないか、と思って少量のつもりで飲み始める。

しかし、たちまちのうちに以前と同じ問題飲酒の状態になるのである。

20年以上経って飲酒してあっという間に元に戻ったという人もいるのである。

 

⑦すべてがわかっていても失敗することがある

頭ではわかっていても断酒を実行するのは大変なことである。

回復の途中で、ふとした気のゆるみなどで、何回かは飲酒してしまうこともあるだろう。

この場合は、失敗をいつまでも悔やまず、再度挑戦すればよい。

 

 

まとめ:失敗しないほうがいいけれど、失敗したって道はある

一度飲酒してしまうと、無事に酔いが醒めるかどうかは全くわからない、アルコール依存症はそういう難しい病気である。

だから、もっともよいことは、一回で気が付いて失敗することなく回復の道を歩み続けることである。

また、飲んでしまったけれども、幸いにアルコールが切れた場合には、そのことを最大限に活かすように努めるべきであろう。

大丈夫。

私は何度も再飲酒している。そのつらさや苦しさは、少しはわかるつもりである。

そして失敗しても道はある、ということを、私はこれからの人生をかけて示していきたい。

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【依存症】マンガの登場人物から学ぶ、断酒に必要なこと(はじめの一歩)

断酒って、つらいですよね。

おいおい、前向きな話を聞きに来たのに!というそこのあなた。

私はめっちゃ性格暗いので、そんな話はできません。ごめんなさい。

Twitterでは「断酒最高!」「断酒がんばってます!」「お酒をやめて良かった」「飲まないのが一番幸せ」なんてポジティブなコメントをしていて、皆ポジティブでえらいなぁと思います。

私はそんな毎日ポジティブにはなれません。なんかそんなに明るくいつも前向きなんて、そんなわけないやん。実はみんな無理してるんじゃないの?と思います。

正直、おいしそうにビール飲んでるCM観るたびに「酒造メーカー滅びろ」と念じます。

「ウイスキーが、お好きでしょう?」とか、なめてんのか?と思います。好きに決まってんじゃん、浴びるほど飲んで吐いて、記憶も財産もぶっ飛ばしてきてんだよ、こっちは。

そんなつらさに嘘をつかないで、正面から向き合うときに、勇気をもらう漫画の話をしたいと思います。

 

はじめの一歩「戦後編」とは?

 

アニメでは、はじめの一歩 Rising (第三期)Round22~25です。

 

概要

はじめの一歩」のエピソードの一つ。原作45~46巻(鷹村VSホーク戦直後)、アニメ第3期「Rising」の第22~25話(鷹村VSイーグル戦直後)までが該当する。そのため導入部が少しアニメと原作とで異なる。
いわゆる番外編であり、主人公たちの師・鴨川源二とその親友・猫田銀八の青春時代を描いた回想編である。

あらすじ

昭和22年、東京___敗戦から2年が経ち、日本は復興を遂げていた。軍の解体と共に職を失った鴨川と猫田は野原でリングを作り、「拳闘」を開催して日銭を稼ぐ日々を送っていたが、そんなある日、元世界5位の米兵ラルフ・アンダーソンが来訪。日本の拳闘士たちを「ボクシング」で次々に倒し荒稼ぎしていた。敗戦国・日本を見下すアンダーソンに怒りを募らせる二人だったが、そこで米兵たちが投げ込むお菓子に一人だけ手を伸ばさない美少女を見つける。
少女の名はユキ。美しく芯の強い彼女に鴨川と猫田は引かれていくが、ある日の、アンダーソンにちょっかいを出されていた彼女を救おうとし、返り討ちに遭う。二人は日本の誇りとユキの笑顔を取り戻すため、アンダーソンをリングの上で倒すことを決意する…。

引用元:ピクシブ百科事典

 

 

鴨川源二が貫く『鉄の意志』

まずは、戦後編の試合のクライマックスの一部をご覧ください。(早速ネタバレですみません…)

【はじめの一歩】鴨川源二vsラルフアンダーソン【例の曲を入れてみた】

このボディーブロー、えぐいですよね。

これ、どうやって拳を鍛えたと思います?

自らの拳で丸太を川の土手に打ち付ける荒行を行い、己の拳を文字通りの鉄拳に鍛え上げたんですよ…。

丸太血まみれになるまでパンチし続けて、限りなく固く鋭く重い拳で、自分より体格が大きいラルフ・アンダーソンに挑み、ボディー2発で撃沈させました。

卑怯な戦い方をして親友の猫田の選手生命を絶ったラルフ・アンダーソン。「日本人は戦争に負けたんだから、アメリカ人には一生、首を垂れていればいいんだ」というような侮辱的な言葉を放ちます。

絶対に負けられない。何が何でも勝つ。そのためなら拳が砕けようと構わない、痛みを厭わず、死を厭わず、執念を貫き通す狂気。

それは断酒に似ていると思いませんか?

私たちはとても苦しんできましたね。しかし、残念ながら多くの人に理解されてこなかったのではないでしょうか。今なお、家族にさえ理解してもらえない人もいるでしょう。(だから自助グループがあるのですが。)

「そんなに飲みたいなら、死ぬまで飲み続ければいい」

「そのバカさ加減は、死ななきゃ治らないのか?」

「お前みたいな酒臭いバカ、雇ってやってるだけでありがたいと思えよ」

「はあ、お前なんか早く辞めてくれればよかったのに」

「反省されてもね、迷惑なんだよ。私たちが望んでるのは私たちの前にあなたが顔を出さないことだけだ。」

そんな風に言われて煮え湯を飲みながら働いてきました。

断酒を志したのは、そういう苦くて苦くてとても飲み下せないようなものをもう飲むのは嫌だ、こんなに馬鹿にされながら生きるなら、死ぬか、断酒して生きるかしかない、と思ったからです。それを思い出します。

何が何でも止めてやる。そう決意したのは、なぜだったか?

心が壊れようと、体が壊れようと、命が尽きようと、今までコケにしてきた者どもに一泡吹かせてやるまでは、死んでも死にきれない。

何もかも酒で無くし、最後の最後に残った『ただ人間らしく生きていたい』という尊厳。それすら小馬鹿にされて嗤われて、この大きすぎる恨みを晴らさずに、おちおち死ねるわけないじゃないですか。

だから、私たちは「酒が本来やめられない」と言われている身体になったにもかかわらず、『酒を断って生きる』という狂気を実行しているのです。

 

私は、断酒をひとりきりではできなかった

とはいえ、私は4回スリップしています。
恥ずかしくないと言えばウソになります。恥ずかしくてみっともなくて、あんなに止めると決意したのに、口をつけてしまって、そのたびに死にたくなりました。
なぜか?
断酒をひとりでしようとしたからでした。
鴨川は、7ラウンドまで1発のパンチも当てられず、何度も倒れます。
…それでも前へ進み続けます。
観戦している仲間の団吉と猫田の会話を抜粋します。

団吉「開いた口が塞がらねえ。気迫で押してるぞ。」

猫田「か…鴨川と戦ったことのある貴様…ならわかるだニ。こ…れが鴨川の武器…だニ。」

団吉「鴨川の…武器⁉︎」

猫田「ど…んな障害さあろ…うと初志を貫徹する…鉄の意志。」

団吉「あ、ああ、あの精神力には正直…震え上がったもんだ。」

団吉「意志を貫くためには何も恐れない。死ぬことになろうが恐れはしない。」

団吉「そんな気にさせる眼をしてるんだ。あんな頑固な男は見たことがない!」

猫田「そう…だ、何も恐れない、すなわ…ち…」

猫田「『勇気』!!それがヤツの武器だニ!」

痛みを乗り越える勇気と鉄の意志を持って戦っている私たちを、ちゃんと見てくれていて、同じ戦いに身を投じてくれる仲間の存在ほど、力になるものはありません。

別の話で、はじめの一歩にはこんなセリフがあります。

オレ達だってボクサーのはしくれだ

わかってるよ

アンタが今 どれくらい辛いか どれだけ苦しいか

それでも負けないでくれ 戦ってくれ! アンタは負けちゃいけねえっ!!

~中略~

わかった・・・ よおくわかった

オレを オレを支えてるモノが!!

オレを信じてるヤツラがいる

そいつらの前じゃ強えままでいなきゃならねえ

負けることは許されねえ!

―――たとえ心臓が止まっても 魂で戦う

魂が消えても 棺桶からはい出して キサマに勝つ!!

 

今の屈辱的な状況を覆すには、勝つこと、ただ勝つことです。

相手は自分です。

己に克つこと。真正面から生き切る覚悟を決めること。

しかし、断酒は独りで続けるには過酷すぎる闘いです。

だから、同じように依存症で苦しんだことのある、屈辱的な扱いや偏見により、死にたいほど惨めな思いを味わい、その苦さを知っている仲間と経験を分かち合うことが、一番の支えになり、私たちは孤独ではないと知ることができるのだと思います。

そして、私たちは信じています。

自分たちが、回復できる、ということを、誰よりも信じている。

だから、仲間も何度つまずいたって、また戻ってこれる、いつの日か必ず生きていて楽しかったと思える日が来ると信じられる。

自分を信じることと、仲間を信じることは、イコールになります。

自分と同じかそれ以上に辛い酒害を背負っていても、回復して断酒を続けている回復者の姿。その姿を見て、私たちは自分も酒をやめられるかもしれない、と希望を持てます。

差別や偏見を持っていた当事者以外の人も救われる

実は、対戦相手のラルフ・アンダーソンも可哀想な人なんですよね。

ボクサーとして最も旬な時期を、日本との戦争に奪われて、腐ってしまっていたのです。

自分の夢を戦争に、日本人に奪われた恨み・悲しみ。その歪んだ思いが、日本人に対しての偏見を生んでいたように思います。

しかし、死力を尽くして戰う姿は、そうした鬱屈した呪いから、自分だけでなく他人も救うことができるのかもしれません。

真摯に断酒を続け、普通に楽しく生活し、あるいは丁寧に仕事をし、回復者として歩み続けること。

それが、冒頭に書いたような「アルコール依存症になるような奴はダメなやつで、早く社会から退場させよう」という歪みを抱え私の尊厳を踏みにじった人々の呪いを解くことに繋がります。

狂気をにじませながら、死んでも諦めない鉄の意志で進む鴨川の「強さ」を認識したラルフ・アンダーソンは、ボクサーとしての誇りを取り戻します。

認めよう この日本人は ―――強い!

凄いボクサーだ

認めたからこそ判定に逃げるなどということはしない

全力で倒しにいく!!

本場 アメリカンボクシングの意地と誇りにかけて

全力で倒す!!

 

 

まとめ:断酒はつらい。でも、だからこそ美しい。

断酒は、私にとっては、楽しくて素晴らしいキラキラ☆ライフみたいなもんじゃ、決して、ないです。

いつも酒は近くにあるし、コンビニやスーパーや居酒屋など、油断すればすぐ手が届くところにあります。アルコール依存症患者は、常にスリップ(再飲酒)のリスクと隣り合わせの日々です。

辛さを見ないようにしていると、イライラします。

本当に何も知らずに、依存症などにもならずに、パーティーを楽しんだりしているのは、うらやましいに決まってます。

そういう、認めたくないうらやましさや腹が立つ気持ち、ドロドロとした醜い感情も、私たちのそのままの感情なんだから、認めたっていいじゃありませんか。

だってそうでしかないんだもの。

それを「くそが、なめやがって」とか悪態を吐きながらだって、血反吐を吐くようなストレスのなか、肉を切らせて骨を断つ気持ちで一日一日を過ごしているだけで、立派だと私は思います。みんなえらいよ、断酒しようってだけで、えらいよ。

一緒にぼちぼち頑張っていきましょう。お互い、健全に、断酒に狂っていきましょう。

なんか、今日はそんなことを書きたくなりました。

 

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【依存症】依存症を打ち明けてみて感じる「スティグマ」の話

今年に入って決意していることがあります。

それは「私はアルコール依存症である」という事実を、仕事上の関係でも隠さず公表していく、ということです。

今までは会社から、要約すると「依存症だ、などと言われたら会社のイメージダウンに繋がるから隠しておいてほしい」と言われたので、それに従っていましたが、それもおかしな話ですよね?

今回はそういう「スティグマ」について考えてみたいと思います。

 

「スティグマ」とはなにか?

個人のもつある属性(ここでは、薬物依存症・アルコール依存症などの物質使用障害とします)によって、いわれのない差別や偏見の対象となることです。

語源は、ギリシャ語で肉体上の徴(しるし)を意味し、ギリシャ人が、差別対象となる奴隷や犯罪者の身体に烙印(stigma)を押したことに由来しています。

つまり、薬物依存症やアルコール依存症という『属性』に対して、いわれのない差別や偏見を押し付け、勝手にラベリングすることです。

いわれのない、というところが重要で、依存症に対して正しい知識がない状態で、個人の間違ったイメージや「法律的に犯罪かどうか」などの一部の切り口で語られる、というところが特に問題だと感じます。

 

医師ですら、専門医以外はほぼ正しい知識を持っていない事実

私は仕事上、医師に面会してお話をするのですが、「私はアルコール依存症で、治療しながら仕事をしています」という話をすると、実に反応は様々です。

様々な人から言われたことをそのまま箇条書きにすると以下のようにばらつきがありました。

・依存症からの回復は本当に難しいと聞くのに、やめられているなんてすごい。

・ああ、社会不安障害の気があるんだね君は。(その後距離を取り見下すようになる)

・同じように酒で失敗している友人がいるよ。気にしすぎなんじゃないかな。

・みんなアルコール依存症みたいなものだから。

・そんなことは君の価値を下げるから、あまり大っぴらに言わないほうがいい。

・でも覚醒剤とかとは違うから、お酒でよかったね。

・アルコール依存症だったら、止められずに仕事もできず、今頃ダメになっているはずだ。だから、依存症じゃないんじゃないか?

一番最初以外は、全て間違いです。

驚くべきことに、これらはすべて精神科医から聞いた言葉です。

すごく悲しくなりました。

こんなん言われたらせっかくやめてるのに再飲酒しちゃうよ、っていうようなことばっかり言われました。笑 ほんと終わってます。

医療の専門家なら、しかもメンタルの専門家なら、わかってくれるのではないかと思って打ち明けた結果がこれです。涙が止まりません。

メンタルの専門家でありながら、依存症という病気については何一つ理解していないことがよくわかりました。

(しかしまあ、それでも医師に対する啓発という意味と、自分自身のありのままを認めるという意味で、今後もあけっぴろげに堂々と公表して生きていきたいと思います。)

 

ここで一度整理しておきたいのは、私は医師を基本的に尊敬しているということです。

あんなつまらんやりたくもない勉強を頑張り、研修医としてただ働き同然の厳しい環境の中で脱落せずやり抜き、それもこれも命を救うという尊い仕事に就くため、という点で、医師になるような人を心から尊敬しています。

医師になっても年収は確かに多いですが、土日もないほど忙しかったり、学会に課金しないといけなかったり、結構QOLは低い職業だと私は思っています。名誉欲や金銭欲だけではなかなかそんな過酷な職業を続けることは困難なので、どんな医師にも少なからず道義心や奉仕の精神があると信じています。

 

そんな尊敬すべき専門家であるはずの人々ですら、この体たらくということは、世間一般に普及している依存症に対する「常識」がいかに不確かなものか、想像に難くないのではないでしょうか?

 

まず国が対策に失敗し「スティグマ」が生まれた

わが国は、薬物依存対策に失敗してしまいました。

厚労省の麻薬対策課がはじめた、「薬物、ダメ、絶対」啓発活動です。

「覚せい剤止めますか?それとも人間やめますか?」

誰もが、これを一度は聞いたことがあるでしょう。この薬物乱用防止教育は大失敗しました。

なぜなら、一度使ってしまった人に対して「人間ではない」という烙印を押し、基本的人権を侵害してしまったからです。

このようなスティグマを植え付けられた子供たちは、うっかり手を出してしまったが最後、誰にも相談できなくなります。言ったら「じゃあお前は人間じゃない」言われるからです。隠しますよそりゃ。依存症は回復できる病気であるにもかかわらず、「手を出してしまったとしても回復する手立てがある」ということを知らされずに、「人間ではない」とレッテルを張られるのが恐ろしいので、誰も言い出せなくしただけだけでした。

依存症者が少ないのは、ダメ絶対活動が功を奏したからだ、とする考えがありますが、日本では聞き取り調査しかしていないので、海外と比べて科学的ではありません。聞き取りをして、こんな人間じゃない扱いをされると知っているのに、正直に答える人がどれだけいるでしょうか。

違法薬物を締め付ける一方で、それ以上に有害なエチルアルコール(酒)にはすこぶる甘いのが、この日本という国です。

合法なもの(酒・処方薬・市販薬)へ依存対象が流れただけで、根本的な依存症に対する対策が行われていないからこそ、この国では根本的な解決がいまだになされていません。

 

この監麻課の「ダメ。ゼッタイ。普及運動」の問題点は、一次予防(病気にならない、未然に防ぐ)を強調し続けてきたばかりに、その弊害の方が大きくなってきているにも関わらず、その見直しがなされないことである。というよりも今回、監麻課との面会が実現してわかったことは、監麻課は二次予防(早期発見・介入、病気をくい止める)、三次予防(再発予防)の知識や配慮など全く持っていないという驚愕の事実であった。

予防医学では、もちろん一次予防の病気にならないような対策は大切ではあるが、どんなに気をつけていても病気に罹患する人はいる。そのために早期発見・早期介入を実現し、治療法を確立したり、人材を育成していく、そして再発防止の措置を講じ、社会復帰をしていく、という考えがとられている。

例えばこれが糖尿病だったら、「カロリーコントロールと適度な運動」という誰でも知っていることが一次予防。けれども必ず罹患する人はいるわけで、健康診断などが二次予防そして、早期介入、早期治療を実現し、その後、カロリー指導や場合によってはリハビリなどを受けながら社会復帰をしていくことが三次予防である。

いくら違法薬物が日本では犯罪扱いだからといって、監麻課のように一次予防だけを強調し、あとは「破滅」などとスティグマを強化していくやり方は、予防医学の点からも、健康障害を抱えた若者を救う観点からも考えられないし、管轄官庁としてあまりに無責任である。

出所:「国際薬物乱用・不正取引防止デー」厚労省への要望書

 

厚労省の「麻薬対策課」がいかに無責任で無知かがよくわかります。

 

一方で、厚労省の「依存症対策推進室」は優秀です。

以下のような、依存症についてとても理解が深まる啓発漫画を監修しています。

来月、書籍化されるほど高い評価を得ていて、依存症の専門家たちが監修に携わっています。依存症に関わるひとも、そうでないひとも、必読です。

 

「スティグマ」が2次予防・3次予防を妨げる

依存症は、『回復できる病気』です。

一度手を出したら人間をやめないといけないような、夢も希望もないものじゃありません。

依存症になっても、依存するもの以外に、仲間との繋がりや他の楽しみがあるような、幸せな環境があれば、やめられます。

これが真実です。ダメ絶対は間違いです。

それなのに、一度依存症になった人をまるで『ひとでなし』のように差別するように仕向けられ、みな間違った常識をもってしまったがために、依存症の人が生きにくい、仲間とのつながりや他の楽しみを見出しにくい、幸せじゃない環境をつくっています。

それが、薬物依存やアルコール依存から回復しようとする足を引っ張ります。

依存症は、依存症その人のみの病気ではない。その人がダメでだらしないからなる病気ではない。社会全体の生きづらさがまねく「社会がかかっている病気」だということもできるかもしれません。

社会が生きづらいがために、回復できず、また依存症になっても他人に助けを求められなくて、今なお苦しみ続けている人々を救うことができずにいます。

この状態を解決する唯一の方法は、社会を構成する全員が依存症に対して正しい知識を持ち、差別するのではなく、一度間違ってしまっても回復できる社会を共に創り上げることだけではないでしょうか。

私は依存症ではないから関係ない?いえいえ、当事者でない人など、この社会に属して生きている限り、この世のどこにもいないのです。

(ラットパーク実験そのものが、どんなものだったか、詳細を知りたい方は以下ご参照ください。)

サイモン・フレーザー大学の研究者ブルース・アレグサンダー博士は、従来の薬物依存に関する研究は、マウスを狭いケージに閉じ込めて実験が行われている点に着目、普段とは異なる生活環境下に置かれる影響度について考慮されていないとして実験結果に疑問を呈します。そして、1980年、アレクサンダー博士は「薬物中毒は外部的要因(生活環境)が原因で引き起こされる」という仮説を立て、これを実証するために「ラットパーク」と呼ばれる実験を行います。

ラットパーク実験では、従来型の狭苦しく孤独な環境を再現した18×25×18cmのワイヤーメッシュの「植民地」と名付けられたケージと、8.8平方メートルという通常のケージの約200倍もの広さを与えたラットパークを用意し、それぞれの環境にマウスを置いて比較実験をしました。ラットパークの壁はネズミが普段生活する草原の絵を描き、また地面には巣を作りやすい常緑樹のウッドチップを敷き詰め、さらにネズミが隠れたり遊んだりできる箱や缶を用意、またマウス同士が接触できるようにし交尾や子育てが可能な環境を与えることで、さながらネズミの”楽園”を実現しました。

アレクサンダー博士は、ネズミが甘い砂糖水を好み苦い水を嫌う性質があることを発見、苦味のあるモルヒネ水に砂糖を加えモルヒネと砂糖の比率を1日1日変えていきながら、ネズミがモルヒネ入り砂糖水を飲めるようになるのにかかった日数を測定しました。実験の結果、植民地ネズミは楽園ネズミより早い段階からモルヒネ砂糖水を飲み始めることが分かりました。また、その総量を比べると、植民地ネズミは楽園ネズミの19倍も多くのモルヒネ砂糖水を飲んだことも判明しました。

また、他のネズミとの接触の機会を断たれた植民地ネズミがモルヒネに酔う反応を示すのに対して、ラットパークで楽園を満喫するネズミは他のネズミと遊んだり、じゃれ合ったり、交尾したりすることが多く、モルヒネによって楽しい生活を邪魔されるのを拒絶するかのように、モルヒネ砂糖水をあまり飲まなくなります。

アレクサンダー博士は、モルヒネによる禁断症状についても実験しています。新たに植民地と楽園に導入されたネズミには、ほとんどの日をモルヒネ砂糖水だけ与えられるものの、ごくたまに普通の水とモルヒネ水を選択できる日が与えられました。選択可能日にネズミが選択した飲み物を比較すると、孤独な植民地ネズミはモルヒネ水を継続して選択したのに対して、楽園ネズミは普通の水を選択してモルヒネ水の摂取量を減らしました。異なる環境下に置かれたネズミは共にモルヒネの禁断症状を示したものの、そこでとる行動には違いがあることが判明しました。

さらにアレクサンダー博士は、57日間連続でモルヒネを与えられた植民地ネズミでもラットパークに移され普通の水とモルヒネ水の選択肢を与えられれば、普通の水を選ぶようになるという実験結果も得ています。

このような一連のラットパーク実験から、アレクサンダー教授は「薬物中毒は外部的要因(生活環境)が原因で引き起こされる」という自らの仮説が正しいことを確信します。

出所:薬物中毒の原因を生活環境にあると考えた「ラットパーク」実験とは?

 

まとめ:依存症になっても、同じ人間です

私は、アルコール依存症になり、会社を首になりかけましたし、頭を切ったり、歯を折ったり、実に様々な失敗をしてきました。

自殺しようと考えました。死んでしまいたいと思う日のほうが、生きていて楽しいと思う日より多い人生を過ごしてきました。

それでも、生きています。

お酒を止めて、働いています。

そして、幸せに生きていきたいと願っています。

皆さんと何が違うでしょうか?

精神科の先生と何が違うでしょうか?

同じ人間です。

同じなんですよ、依存症の人間も。

昨今ですら、芸能人の過剰な作品自粛といった「偏見」や「排除」といった問題がおきていますが、それは、自分の首を絞めていることと同じなのです。

私は関係ない?本当にそうですか?今後も一切関係ないでしょうか?

親が、夫が、妻が、子供が、孫が、友人が、同じ立場になったとき、一度失敗したことを一生罵られながら、叩かれて泣く姿を一生見なくてはいけないとしたら。

想像してみてください。

そんな社会をつくっているのは、他ならぬ我々ひとりひとりの「スティグマ」であり、スティグマがまだ生きていける人を社会的にも、物理的にも、殺しているのです。

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【依存症】断酒しててもやっぱつまんないなと思う話

なんか、どいつもこいつもイラっとする。

誰も彼もがわかったようなことを言ったり、私を内心非難したり馬鹿にしたりしているように感じる。

何かを一生懸命話していて、相手に反応されてもされなくても、マイナスに受け取られている気持ちになり不安と苛立ちを感じる自分がいる。

誰にも必要とされておらず、なんの影響力もなく、生きていても死んでいても大した差などない些末な存在だと思うと、このまま煙のように消えてなくなりたいと思う。

 

断酒して2年半経ったにも関わらず、いったいこの希死念慮といい自己肯定感の低さといい、何が変わったというのか。

飲んでないこと以外に私の世界はあまり変わったように感じない。

 

私は、生きていく自信を今失っているのだろう。

失うほどの自信など持ち合わせてなかったはずだが、いったいどうしてこれほど疑心暗鬼になっているのだろうか。

 

 

まず一つには、疲労だ。

私は人が大勢いる場所に行くと疲れる。

そうした機会が最近は特にたくさんあった。

私には結局そういうのは向いていない。

仕事は最近忙しくなった。

担当エリアが拡がり、期待されている疾患領域だからと上からの圧力や干渉が増えた。

成功させなくてはいけないというプレッシャーを感じながら精一杯やってきたが、意味のない指示が多すぎて辟易している。

成功させるためにやりたいと思っていることに集中させてもらえない。その苛立ちから、うつ状態が悪化している。

 

 

もう一つは、気付いてしまったからだ。

自分の本当の気持ちを抑えなくてもいいことに。

ありのまま感じていいということに。

私は今まで、正しいことしかしてはいけないし、倫理的に間違った感情を持つこと自体が罪だと思っていた。

なぜなら、教師だった両親はいつも正しく、私は正論に叩き潰されていたからか、ある種諦めていたからだ。

私が何か一生懸命感じたり考えたりしたって、どうせ正しい何かが、絶対的に君臨していて否定される、と思ってきた。

だから、感じたり考えたりして発言することは無意味で、正解を探して、ただ当てはめて生きていけばいいんだと思っていた節がある。

社会人になって、地頭力がどうとか言われ出したときはひどく困惑した。

自分で考えるって言っても、「常識」や「普通」というなんらかの正解があるんじゃないのか?

正解はないって、設問が間違っているからそんなことが起こるんだろう、と。

しかし、実際は世の中には正解などなく、「常識」や「普通」をはじめとする「正論」はこの上なく薄っぺらい概念で、実はただの陽炎だった。私は自分が感じるように感じて良かったのに、勝手に諦めていただけだった。

両親がひたすら水戸黄門の印籠のように振りかざしていた「正論」の正体を知った。

正しいことしか許容しない家庭=私の家庭がしていたのは、愛情という隠れ蓑を用いた真綿で首を絞めるような虐待だったと知った。

暴力や暴言ではなかっただけで、見えない虐待だったとは知らなかった。

ある意味、支えにしていたものたちは、その本性を顕すと、ものの見事に砕け散った。

 

私は心底、頭にきているのだろう。

 

今まで信じてきたルールが偽物だった、その偽のルールを強いてきた両親への怒り。

納得いかないがルールなら、と従ってきた自分の愚かさへの怒り。

未だにそのような馬鹿げたルールを重視する世界への怒り。

やりたくないことをやらないでよかったのに、無理してやらざるを得なかったことへの誰に対してなのかわからない怒り。

 

今まで無為に過ごした30数年の人生全てに、私は頭にきている。

なぜか?

 

それは、認めたくないからだ。

自分の無力さを、愚かさを、至らなさを。

愚かな両親に翻弄されて無駄にした時間を。

 

しかし、私は無力だったし、今も無力だ。

それは、しかたがない。当たり前のことだ。

 

私は当時子どもで親しか見本になる人間がいなかったし、他の家庭とは隔絶された共依存家族の檻の中から、いくら他人を見ても客観的には見られなかったので、ヒントを得がたかった。

今も、無力な出来損ないの人間だ。

一生治らないアルコール依存症という病を患い、今でも人が好きにはなれそうにない。

意味のないことはとりあえずやるなんてできないから、損ばかりして煙たがられている。

何か特別なことができるわけでもなく、文章を書けばご覧の通り大したことは書けないし文才を磨いてきたわけでもないから、たくさんの人に何かを届けられるわけでもない。

お世辞にも頭が良いとは言えない。回転は鈍いし記憶力は良いとは思えない。

こんな粗大ゴミのような生肉と血と糞の塊として、まだまだ生きていかなくてはならないのか、という鉛のような疲労感が、見聞きする全てを色褪せさせていて、いちいち癪に触る。

 

恨み言を言ってもしかたがない。

私以外の個体も、欠けた部分がある出来損ないなのには変わりはない。

それなのに楽しくないのは、私の感じる感覚や捉え方の問題だ。

私は、私以外を変えられないし、私以外に問題はない。

 

糞のような世界だと感じているなら、感じ方を変えるしか、道はない。

あるいは、感じること自体を終わらせるしかない。

ふたつにひとつ。

 

感じ方を変えるために、そのまま感じて歪みなく自分の感情を捉えられるように、AC(アダルトチルドレン )の12ステップに沿って棚卸しをしていく。

それに取り組みながら、同時に深い深い洞を覗き込み、その暗く陰鬱な空気にうんざりしてきている。

今率直に感じているのは、人に接するのは疲れるからやはり好きじゃないということと、生きるのはやはり、とても大変なわりには、とてもつまらないということ。

私は感じていいと思って感じてみたら、存外につまらない人間で、やっぱりどっちかって言えばあまり生きていたくないのかな、とがっかりしている。

感じてもよかった感情を感じているはずなのに、やっぱシラフの世界なんてこんなもんで、阿鼻叫喚の地獄から賽の河原に来たくらいにしか変わりなく、やはり疲れる。

酒は飲まない。

しかし、酩酊状態の頭のなかより世界がキラキラしているとは思えない。

 

蓋を開けて「やっぱり何もありませんでした。」になるのが怖いし認めたくないのだろう。

棚卸しをして、ひどくつまらない生きるに値しないような自分が出てきたとき私は絶望するから、それが怖いのだ。

しかし、見に行くしかない。

疲れをとったら、覗き込みに行こう。

そんならいっそ消えちゃえば?というのはそれを覗き込んでからでも、遅くはない。

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【依存症】年末年始で再飲酒してしまった話

こんにちは、ちあき です。今年も、もうあと少しですね。

この年末年始という季節は、実家に帰ったり、旧友と会う約束があったりして、つい羽目を外したくなるし、「1杯くらいいいじゃないの」という甘い誘惑に誘われたりして、どんなにこれまで頑張ってきていても、再飲酒(スリップ)してしまうことがありますよね。

そんな危機について、今回は振り返りつつ私の考えを書いてみようと思います。

 

正月に再飲酒(スリップ)してしまった私のケース

2017年1月1日。

私の場合は、義理の実家に帰省していた時でした。

義理の実家は緊張しますよね。ただでさえアウェーなのに、お酒がずらりと並ぶ年末年始。

「アルコール依存症」という私の病気を理解している人はまだまだ少ないので、『もう治ったんだろう』とか『病気だなんて考え過ぎだろう』みたいな軽い気持ちで、私の目の前でどんどんお酒を飲みます。

断酒して半年ほどだった私にとって、その環境は地獄でした。

事前に相談のうえで、妻と一緒に飼っている愛犬を一緒に連れて帰ったのですが、赤ちゃん連れの義姉夫婦が、まるでばい菌の塊であるかのように愛犬をあしらったのがすごくつらかったので、イライラが募りました。

わたしたちは「連れてきていいよ」と言われたから連れて帰ったのに、なんだよそれは!と。でも、義理の実家とはいえ他人の皆に当時の私はそんなことは言えませんでした。

極めつけに、1月1日に義理のお父さんがお酒を勧めてきました。

「正月くらいいいんじゃないんか?」と。

やめておきます、と答えた私に、義姉の旦那(義理の兄)が、

「酒も飲めないなんてつまんないですよね」と義父にニヤつきながら話したのを聞いて、もうブチ切れました。

「そんなに勧めてくれるなら飲もうかな」

そう言って、ビールを空けたら、もう止まりませんでした。

皆さんに、と持ってきた30缶の350mlビールをすべて自分で飲み切り、ブラックアウトしました。(つまり、10.5ℓのビールを、ひとりで飲みました…)

そのあともまだ酒を飲ませろと怒り狂い、義兄に「おら、俺より飲んでみろや、このクソやろうが!うちの犬をクソ扱いしやがって!」などと怒号を浴びせまくった挙句、さんざん手をかけさせた後で、轟くような大イビキをかきながら寝たようです。(翌日青筋を立てている妻から聞きました。)

 

結論:飲んでも全くいいことはない

ストレスをすべて酒にぶつけた私が翌日どうなったかは、想像に難くないでしょう。

二日酔いで体調は最悪。義姉夫婦はカンカン。気まずい空気のなか、1月2日以降の正月休みが過ぎていきました。

 

こちとら飲みたいのを1日1日薄氷を踏むような気持ちで一生懸命日々断酒しているのに、「1杯くらいいんじゃないの?」「正月なのに」「飲まないなんてノリが悪い」「つまんないやつだな」こんなこと言われたら、そりゃストレスがたまるでしょう。私は死ぬほどたまりました。だから死ぬほど飲みました。そして、死ぬほど後悔しました。

それを、断酒しているみんなには、味わってほしくないな、と心底思います。

飲んでも、何にもいいことはありませんでした。

結局、飲ませようとしてきた誰かや、飲みたいと思うような気に障ることをしてきた誰かは、私のことなど考えていないひとたちです。

自分のことは、自分で大事にするしかありません。

そんなひとたちのために、大切な自分が守ってきたものを差し出す必要はない。

だから、そっと、そういう場から離れてしまったほうがいい。

そんな人たちに嫌われても、馬鹿にされても、どうせ私たちのことをそんなに真剣に考えていないのだから、そんなどーでもいい人たちに好かれようとしなくていいのです。

その人たちが私たちのことをどうでもいいように、私たちだってその人たちにどう思われようが気にする必要ないですもん。

だから、あなたは、あなたがしたように振舞っていいし、NOと言っていい、と私は思います。

 

もし再飲酒(スリップ)してしまったとしても

「いや、もう飲んじゃったんだよね…」という、そこのあなた。

 

飲んでもいいことないってわかってたって、飲んでしまう気持ち、わかります。

私たちはそういう病気だから。

 

 

大丈夫。

よくがんばった、えらいよ、と私は言いたい。

あなたがダメなわけではない。辛い病気になったもんですよね、お互い。

 

逆に考えてみていただきたいのが、スリップするということは、それまで断酒を継続していたからです。

断酒する、というとてもハードな道を歩む決意をして、それを歩んできたから、「再飲酒」という事象が発生しうるわけで、その決意や努力が無ければ、スリップなんて元からないわけですから。飲み続けてれば、もっと最悪な未来が待っていたのを、あなたは今日までよくがんばってきた、と思います。

それまで断酒してきたこと、努力してきたことは、別に消えてなくなったわけではありません。

確かに、あなたが努力してきたことを、私は知っている。

だって、私は同じように再飲酒(スリップ)して、ここにいるのだから。

 

再飲酒(スリップ)は辛いです。

もう、死んでしまいたいと思うでしょう。このまま消えてしまいたい、と思うでしょう。

私はとても思いました。恥ずかしくて情けなくて惨めで、もう消えてしまいたい、と思って涙が出ました。

 

だから、再飲酒(スリップ)したとしても、私はあなたを尊敬します。

多くの問題飲酒をしている人たちが断酒に踏み切れないなか、あなたはそれに踏み切った。

エチルアルコールという薬物を欲しくなる、飲まなくては平静ではいられない病気でありながら、1日1日と、酒を断つ日々を乗り越えてきた。

そんなことは、できないひとのほうが、実は多いのです。

皆、「酒を控えるなんて当たり前だ」「社会人としての自覚がないからだ」「だらしないからそんなことになるんだ」などと、見当違いなことを言うでしょうが、同じように病気になって断酒してみろ、と言われて何%のひとが断酒に踏み切れるでしょうか。

おそらく一握りです。それだけ、私たちは狂気に満ちた道を歩もうとしています。

そして、その修羅の道に踏み出すことができたあなたは、周囲の、まだエチルアルコールという合法薬物に狂っていながら私たちを見下す人たちよりも、努力している。

間違いなく、努力している。それを忘れないでほしい。

だから、また一緒に歩んでいきませんか?と言いたい。

もう一度立ち上がるのはすっごく苦しいし、無理にポジティブになれとは言えません。私はなれなかったし、「前向きに」とか言われたら殴ってやろうかと思うくらいイライラしましたし。

スリップしても、少なくとも私はあなたをダメだなんて思わない。

そういう断酒の道を歩む仲間がいるってことを、忘れないでくださいね。

 

アルコール依存症ではないあなたへ

ここまで読んでくれて、「私はアルコール依存症じゃないんだよね…」という人がいたら、最後にこれだけ守ってあげてほしい。

『無理に酒を勧めない』

私は飲んでいたころ、無理にお酒を勧める筆頭みたいな最悪なやつでした。

「同じだけ飲め」とか「飲まないやつはサムい」とか「酒の席なのに飲まないなんて失礼だ」とか。いわゆる『アルハラ』してました。後悔しかない…。

 

そんなん、おかしな話だから。

 

シラフなのに飲み会に来てくれてるだけで、神様みたいに心広いよ。

だって、あんなつまんない、同じ話でくだを巻く臭いおじさんおばさんが集まった会合に、ニコニコして出てきてくれるんだよ?

飲んでないからっていって、送迎までしてくれたりするんだよ?

 

やばいよ。もう、生き仏だよ。

 

だから、大事にしてあげて。

飲まない人は、何か理由があって飲まないんだよ。

体質的に飲めないのかもしれないし、妊娠してるのかもしれないし、病気なのかもしれない。そういう背景があるから、飲まないっていう選択をしつつも、あなた方との時間が大事だから、わざわざシラフで参加しようとしてくれてるんです。

それだけで、ありがたいじゃないですか。

無理やり飲ませたり、飲まないのを責めたりしないであげてください。

どうかよろしくお願いします。

 

飲む人も、飲まない人も、良い年末年始になりますように。

 

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【依存症】セックス依存症を誤解するアルコール依存症者の話

こんにちは、ちあき です。

アルコール依存症とセックス依存症について、考えてみました。

 

依存症をことごとく誤解していた私

何を隠そう、ブログタイトルの不届き者は、私自身です。

私はアルコール依存症になりましたが、それまではアルコール依存症を誤解してきました。

アルコール依存症はどうしようもなくダメないい加減な性格の人がなる、恥ずかしい病気だと思っていました。

だから自分がアルコール依存症だなんて認められずに、ズルズルと色々なものを失うまで否認し続けてきました。

肝臓の数値がまだ4桁ではないしもっと飲む人もいるとか。

人より少し(少しではないのですが)量が多いだけだとか。

ストレスが多いから飲んでも当たり前だとか。

世の中のサラリーマンは毎日飲んでるんだから普通だとか。

 

そう、ありふれているんですよね。酒は。
世の中に浸透して、飲み物として定着している。

実際はエチルアルコールに味をつけた合法ドラックなのにね。

CMでは煌びやかで美しい女性がさも美味しそうに飲み下し、ドラマでは爽やかイケメンがワインを傾けながら素敵な愛の言葉を囁き、イメージを美化しています。

国は酒税で税金が入るので、酒を決して悪者扱いしません。

周囲の大人もキメているし、大丈夫だろう、ということで、何も知らない子供たちも体に悪い飲み物ではない、と成人した途端に次々に手を染め、正しい知識がないまま乱用して一気飲みなどで急性アルコール中毒になり命を落とすこともあります。

アルコール依存症は、社会に酒が根付いているからこそ、文字通り根が深い関係にあるといえます。

(アルコールについては、三森みさ先生の厚労省監修の依存症啓発漫画「だらしない夫じゃなくて依存症でした」を読んでいただくとすごく良くわかります。めっちゃ面白いし、今なら無料なので、読んで損することはないでしょう。)

(現在、オリジナルストーリーが追加され全てに加筆修正が施され、待望の書籍化が実現間近で、予約が既に殺到しています。)

「だらしない夫じゃなくて依存症でした」書籍版(amazon)

 

 

セックス依存症かもしれない同僚の話

私は、セックス依存症と思われる同僚と出会ったことがあります。

毎日クラブに出向いては女性を誘い、自室に連れ込んで行為に至り、その一部始終を自身のiPadで盗撮するのが趣味の男性でした

容姿端麗でノリが良く、モテていました。
度々その卑猥な動画を見せびらかしては、自分がいかにオスとして優秀かを周囲に誇示している人でした。私は正直、その人が穢らわしいと思っていましたし、大嫌いでした。

しかし、ある時、珍しく弱々しい顔をして私に打ち明けてくれたことがありました。

「本当は本命の彼女がいる。その人のことを本当に愛しているけど、他の女性との行為をやめられなくて、本当は辛い。毎日誰かがそばにいないと、セックスしないと頭を掻き毟りたくなる。俺はタイガーウッズと同じ病気かもしれない。」

私はそれを聞いたとき無知だったので、
「何言い訳してんだ。本当に好きなら不貞行為をしたりしないだろう。」
と冷めきった対応をしてしまいました。

その後、彼はその話について触れることはなく、職場の周囲で性的関係を拡げすぎたのか、理由は会社内でも知らされないまま、別の会社へ転職してしまいました。

真偽のほどはわかりません。
しかし、私はかねてより津島隆太先生「セックス依存症になりました。を読んで、その時の対応に激しい後悔を感じています。

(この漫画も、毎週金曜に更新されているうえに、無料。どうなってんだ全く、依存症界隈の作家さんたちは…。良心的すぎます。)

 

 

ありふれているからこそ問題が理解してもらえない、セックスとアルコール

セックスも、正しい教育などあまりないままに、成人になると見様見真似で普及していき、多くの人が経験していながら、あまり深く掘り下げられにくい、という点で、アルコールと一緒なのではないか、と気づいたのです。

私は、アルコール依存症になって、同じように言われて理解されず、苦しんできたことを思い出しました。

「酒がやめられないなんて言い訳だ、意志が弱いからだ」
「本当にやめたいと思っていたら、やめられる筈だ」
「アル中になるほど飲むなんて頭がおかしい」

正直に差し出した自分の生身の苦しみに唾を吐きかけるようなそんな言葉をかけられて、私はどれだけ悲しくて惨めで怒りを覚え、人間関係に絶望したか、はっきりと重なって私の心にザックリと突き刺さりました。

私は、私を傷つけた人たちと同じことをしていたのかもしれない。
そう思った瞬間、なんとも居た堪れない苦しい気持ちになりました

酒はありふれています。
だからこそ、皆安心だと勘違いします。
多くの人は上手に付き合っているように見えます。
「当たり前」ができない人間を、分かりやすくバカにすれば、自分がマシな人間に見えて、インスタントに自己肯定感を高められるのでしょう。
人は、「当たり前」のことも当たり前にできないひとなら、いくらでも馬鹿にして叩いて尊厳を踏みにじり身勝手に消費しても、一向に構わないと勘違いしやすい。

一歩間違えれば、自分がいつ、「当たり前」から踏み外すかもわからない。弱くて小さな存在だということを、いとも簡単に忘れてしまいます。

 

 

まとめ:歪んだ物差しを抱きしめて

私たちは、自分の物差しで測ることしかできません。
その物差しが実は歪んでいるかもしれないのに、絶対的に正しいと勘違いしやすい。

特にありふれたもの、酒や市販薬やセックスなどを含めたありとあらゆる事象は、ほかの人にとっては、私が定義しているカタチとは全然違うのかもしれない。

そういう想像力を欠いていた、または今も欠いているであろう自分を恥ずかしく思います。

ましてや経験したことのない、表面的にしか知らないことについて、わかったようなことを、どんな根拠で何を言うことができるのでしょうか?
例えば、違法薬物で逮捕された芸能人の方を声高に批判する、無関係なメディアのコメンテーターの下卑た表情を見、見下す興奮に上擦った声音を聴くにつけ、何を偉そうにわかったようなことを言っているのか、と思います。
同時に「あれは少し前の恥ずかしい私そのものだ」と感じます。
だからあんまりテレビは見ません。凹むだけですから。

私たちは、自分の物差しがもしかしたら見事に立派に歪んでいて、あらゆることを見誤っているのかもしれない、という謙虚さを脇に携えながら、他人の話を傾聴すべきなのかもしれません。

そうした己の不完全さ、弱さを認めたうえで、他人の言葉を聞きたいと思いました。

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【依存症】めんどくさい依存症専門用語(略語)をわかりやすく解説する話

こんにちは、ちあき です。

女優の沢尻エリカさんが逮捕されましたが、「反省して二度と薬物に手を出さないように」なーんて、どや顔で漫画ワンピースのハンコックかってくらい上から目線のメッセージを言っちゃうようなひと、いませんよね…?

依存症について、私も知らないことがたくさんあります。

特に略語。

何かを決めたとき、日本でも海外でもわかりやすいように略語にしますが、逆によくわかんなくなりますよね。それにイライラしたので、まとめてみました。

 

 

 

1、「SBIRTS」=早めに程度を調べて、治療や自助に繋がろう

はい。

早めにスクリーニングして、問題の程度を確認しときましょう ってことですね。

今までは結構「底付き」「底打ち」と言って、そりゃーもうボロ雑巾のようにボロボロになって、家族も財産も仕事も生きがいも何もかも失ってからようやく「アルコールを断つか、死ぬしかないかな( ^ω^)・・・(白目」という感じで専門病院に入院する、というパターンが王道でした。

尊厳もくそもないです。人として生きててすみませんレベルで自尊心も基本的人権もすべて引き剥がされてからの治療スタートです。正直しんどいです。つらすぎてくじけます。

家族も本人も疲弊しつくしてからではなくて、最初に問題を確認しておけば、被害が少なくて済みますもんね。みなさん、毎年だいたい健康診断するでしょ。あれです。

最初に定期的にスクリーニングテスト(血圧測定・血糖値測定)なんかをしておいて、異常が有ったり問題が有ったりしたら、とりあえず介入(診察・血圧管理・血糖コントロール)しますよね?それが現代の医療の在り方、と言われれば、まさに依存症も病気なんですから、そうあるべきなんですよね。たしかにたしかに。

Screening・スクリーニング
…「飲酒度」を「ふるい分ける」(「AUDIT」,「KAST」,「CAGE」等スクリーニングテスト実施)

Brief Intervention
… 簡易介入 “危険な飲酒”患者には、節酒を勧め、“乱用”や“依存症”患者には断酒を勧める

Referral to Treatment
…専門治療への紹介 専門治療の必要な患者には「紹介」を行う

Self-help group
…自助グループへの紹介 医療機関や健康診断機関のスタッフが強力に自助グループへ紹介する

1.SBIRT は専門医療機関においては、早期発見から早期治療のためのコンセプトとして定着した手法であるが、SBIRTS は、これに自助グループ(Self-help-group)の「S」を連結した考え方である。

2.アルコール依存症は進行性の慢性疾患であり、医学的治療の進歩により短期的予後は改善しても長期的な回復を持続することは難しい。アルコール依存症の受診患者が順調な長期的回復を実現するためには、自助グループに参加することが望ましい。

3.そのためには、治療にあたる医師が、積極的に、患者と自助グループの構成員との出会いの場を演出し、患者自身の持つ偏見を取り除き、自助グループへの抵抗を和らげるよう寄り添うことが大切である。視点を変えれば、医師による治療のための出会いの場という側面と、自助グループによる医師への治療支援という二つの側面があるといえる。

出典:https://www.dansyu-renmei.or.jp/news/pdf/SBIRTS.pdf

 

2、「ハームリダクション」=最悪使っちゃってもいいからせめて減らそう

ハームリダクションとは、「その使用を中止することが不可能・不本意である薬物使用のダメージを減らすことを目的とし,合法・違法にかかわらず精神作用性物質について、必ずしもその使用量が減少または中止することがなくとも,その使用により生じる健康・社会・経済上の悪影響を減少させることを主たる目的とする政策・プログラムとその実践である。」

つまり、使ってもいいから悪影響とダメージを減らすとこから始めましょう、ってことですね。

ハームリダクションは,薬物使用者,家族,コミュニティに対して,寛容さをもって問題を軽減するきわめて現実的な政策・プログラムであるとされ、欧州,オーストラリア,カナダなどを中心に,最も成功している効果的な薬物政策として広がっていますが、東南アジア、日本を含めた東アジアなど反対する国は少なくないそうです。

ハームリダクションは、薬物の使用量減少や中止を主目的とはしておらず,薬物使用を止めることよりも,ダメージを防ぐことに焦点を当てます。

薬物を使っているか否か,それが違法薬物であるか否かは問われない.ハームリダクションは,科学的に実証された,公衆衛生に基づく,人権を尊重した人道的で効果的な政策であり,個人と社会の健康と安全を高めることを目的とします。

このアプローチは,公衆衛生と基本的人権への非常に強いコミットメント(誓約)を基盤としています。尊厳はすべての人にあり,薬物使用を繰り返す依存症者であっても基本的人権と尊厳は守られ,薬物のコントロールや予防対策の名のもとで,彼らの尊厳と基本的人権をスティグマによって蔑ろにすることは許されないという哲学に基づいています。

 

ハームリダクションの考え方とは ~人権を尊重した支援~

日本は、薬物問題に「ダメ.ゼッタイ.」に象徴される「不寛容・厳罰主義」を一貫して進めてきた、先進国では稀有な国なんですよね。

これらは、「薬物依存症は病気」とする視点とは対極にあり、臨床的には「不寛容・厳罰主義」では治療にならないどころか、「反治療的」な行為です。さらには,偏見や人権侵害を助長し,スティグマを強化する可能性すらあります。

薬物依存症の治療・回復支援を考えた場合,ハームリダクションの考え方は、「当たり前のこと」。そもそも「不寛容・厳罰主義」は刑事司法の考え方であり,医療・福祉の考え方ではありません。
世界の先進国もかつては厳罰主義で対応していましたが、それではうまくいかなかった反省に立って、大きく方向転換をしてきた歴史があります。それが米国を中心としたドラッグコート(西海岸の薬物裁判所)であり、欧州を中心とした、この「ハームリダクション」であると言われています。

出典:ハームリダクションアプローチ やめさせようとしない依存症治療の実践

3、「SMARPP」=再発しないためにみんなで集まって素直に勉強しようぜ

「SMARPP」とは、解散した某アイドルグループを彷彿とさせるスペルですが、「せりがや覚せい剤依存再発防止プログラムSerigaya Methamphetamine Relapse Prevention Program」の略で、神奈川県立精神医療センターせりがや病院にて開発された『認知行動療法型の外来依存症治療プログラム』のことです。

このプログラムは2006年より、松本俊彦先生(国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部部長 同センター病院薬物依存症センター センター長)が中心となって開発されました。

なんでか?

コカインや覚せい剤などの薬物だと、中枢神経抑制薬であるヘロインやアルコールのような薬物と薬理特性が違って、重篤な身体合併症や離脱症状がないので、どんどん途中で退院して外来診療からドロップアウトしてしまうことが問題になっていたから。

つまり、覚せい剤の場合は、ちょっと入院したら「もうしんどくないし、めんどいしいいや」と来なくなっちゃうんですね、病院に。

それじゃまた再発しちゃってるし、やっぱいかんやろ、ということで、このSMARPPで再発防止に取り組むというわけです。

 

で、じゃあ、このSMARPPは、具体的には何をするのか?

週1回24週の外来集団治療プログラムで、認知行動療法・依存症の生理学的知識をまとめた教科書(ワークブック)を用いて、10人くらいで集まって、主に平日昼間に外来で一緒に勉強します。

このとき、カウンセラーやグループが、当事者に対して支持的・受容的であることが重要です。

尿検査もしますが、治療状況の把握のみにとどまり、結果が陽性であっても決して警察に通報しません。正直であること、素直に向き合えることを最優先します。むしろ治療につながる重要な介入のチャンスととらえ、一緒に乱用を防げなかったことを省みて、再発防止プランを再考するようにします。

この方法は、平成22年から24年度の計3年間の厚生労働科学研究班「薬物依存症に対する認知行動療法プログラムの開発と効果に関する研究」により、平成28年度の診療報酬改定にて、SMARPPは依存症集団療法として診療報酬加算が認められました。研究の成果に基づいて、診療報酬を計上できるくらいの効果的な治療としてエビデンスを有している、と言えます。

出典:特集 認知行動療法と社会との接点「統合的外来薬物依存治療プログラムーSMARPPの試みー」(小林桜児)精神経誌(2010)112巻9号

 

 

結局、依存症は慢性疾患なので、先に挙げたように、高血圧や糖尿病と一緒なんですよね。

高血圧や糖尿病の人だって、単に薬物療法していれば治るわけじゃない。食事・運動療法などの非薬物療法を取り入れながらやらないと、治療継続できないし、結果的に改善しないことがほとんどです。

一回入院すれば、高血圧や糖尿病が完治するわけではないですよね。

それは、依存症も同じ。

一回入院したり、一回逮捕されて刑務所行ったら、もう二度と手を出さないはず!だって反省してるんだから!なんて、ちゃんちゃらおかしい話なんですよ。

病気になったことを反省して薬1ヶ月だけ飲んだら、血圧ずっと下がる?血糖ずっと下がる?いやー下がらないでしょ。笑

だから血圧の薬や糖尿病の薬飲みながら、先生に「またラーメン汁まで飲んで!」ってたまに叱られながら、コツコツ通院してる人が、全国各地にたくさんいるんじゃないですか。笑

定期的に検査して早めに治療につながること、繋がったら脱落しないように治療継続すること、何よりも依存症の人の基本的人権や尊厳を軽視しないこと、これ、実は当たり前のことですよね。

だって、慢性疾患の患者という意味で、薬物依存症の患者さんは、生活習慣病の患者さんと一緒なんだから。

しかも、本当に誰でもなる可能性のある身近な疾患なんだから。

高血圧なだけで、糖尿病なだけで、「だらしないから手を出すんだ」とか「病気になるのは意志が弱いからだ」とか、差別される世の中なんて嫌だよね?

それと同じなんですよね。

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【依存症】断酒会に行くのがだんだんしんどくなってきた話

こんにちは、ちあき です。

断酒会が今まで自分の心のオアシスだったんですが、最近はすこし様子が違ってきていまして…。

この心のモヤモヤは何なんだろう?ということで、よく考えてみました。

 

私は断酒会に救われて断酒を続けてきた

私は2015年3月から断酒を始めましたが、はじめて断酒会に繋がったのは、2017年。

得意先とのゴルフコンペが嫌で嫌で、スコアが悪いことをネチネチ言われるのに耐えかねてハイボールをがぶ飲みしました。「次に飲んだら離婚」と言われていたのに、飲みました。

妻が探してくれた専門病院に繋がり、先生から、入院か通院どちらがいいか聞かれました。

仕事をやめるわけにはいかなかったし、妻も仕事をつづけながら通院という選択を許可してくれたので、私の場合は通院しながら断酒会に通うことを約束しました。

 

断酒会にはじめて足を踏み入れた時は、「ああ、こんな人生の落伍者の集まりに参加するにまで、俺は落ちぶれてしまった」と思ったものです。(超失礼)

しかし、同じように止められない酒の問題に悩み苦しみ、一度は自死を意識した面々の赤裸々な酒害の告白に胸を打たれ、「苦しんできたのは私ひとりではなかったんだ」という安心感と内省を繰り返すうち、自分がどれだけひどいことをしてきたか、いかに酒が生活を壊してきたか、を認識できるようになりました。

そして、月日が経つにつれ、自分の話を打ち明けるだけで精いっぱいだった私も、自分のことばかりでなく次第に他の人の言うことに聞く耳が持てるようになりました。

他のアルコール依存症者の体験談や感じたことから学びを得て、共通の傾向・どんな状況でスリップしたり欲求が蘇ったりするのか、とても興味深く、また目が開かれるようでした。

 

少しずつ感じ始めた「違和感」

そこまではよかったんですけどね…。

 

最近、断酒会の「体育会系」な体質に少し辟易としています。(あくまでも私が参加している断酒会は、という話で、全国の断酒会にはそうではない会も多数あると思います。)

 

自助する人の心の安全が守られていないように感じてしまうのです。

 

例えばある日、入院患者さんが「実は酒を飲みたいです、退院したらうまく飲めると思うので、今度こそ失敗しないようにしたい」と本心を打ち明けました。

そうすると、断酒を1~2年継続しているような元入院患者の「先輩」が、自らの体験談を語る順番になるとこういうのです。

「うまく飲めるなどと言っているやつはまたすぐ再入院になる。私はそうだった。そんな心構えではまだまだ甘い」

 

あとは、基本的に断酒会はずっと着席していなくてもよく、聞きたくない話のときには席を外してもよいのですが、席を外して外で電話をしていた人がいて、部屋に帰ってきたら、

「なんでみんなの話を聞かないんだ?!」

と恫喝されていたこともありました。

 

これ、きつくないですか…?

 

本心を話しても受け容れてもらえる、心の安全があるから、一度過ちを犯して傷ついた人でも、「生きていていいんだ」「そのまま感じてもいいんだ」って思えるんだと思うんですが、私が通っている断酒会は、どうも『後輩を先輩が厳しくしごく』みたいな男性的縦社会の嫌な部分を見ることが多くなってきました。

断酒会のリーダーと古参の断酒継続者が対立していて、お互いの体験を話し時にライバル意識剥き出しで、どちらかと仲良くしていると、どちらかが不服そうにこちらを見ていたり。

 

おいおい勘弁してくれよ、いい年して中学生かよ、お前ら…。(白目

まだまだ甘い、とか少年ジャンプのスポ根漫画に登場する師匠かよ。

 

入院患者さんは、退院しても、だいたい、この断酒会に戻って来ることはありません。

そりゃそうだわな。

入院中に義務で連れてこられた断酒会で本心を話したら、なんだかしらないけど長いこと断酒しているという知らないおじさんおばさんにボッコボコに間接的に否定されたら、そんなとこ二度と行こうとは思わないですよね?

言いっぱなし、聞きっぱなしとは、いったいどこに消えてしまったのか?という状況です。

私が知っている断酒会が、

①古参の人々は入院患者を間接的にボコボコにすることで、「断酒継続できていてがんばっている自分」を再認識する『断酒会版生贄システム』により自己肯定感を保ち、

②入院患者はボコボコにされて、自助グループに繋がる機会を失い、自力で頑張ろうという一番過酷な道を自動的に選択するので、再飲酒してしまい、また生贄になるべく入院患者として病院に搬送される、

という①~②の地獄のようなループを繰り返す、回復とは程遠い実態であることに、私は気づいてしまいました。

それから、何となく行く気がなくなってしまい、困っています。

 

自助グループって、断酒会って、なんだっけ?

つまり、私は悲しいんですよね。

私は断酒会に繋がってからもスリップしたことがありました。

断酒会ではえらそうに「酒をやめていて毎日が素晴らしい、もう飲まないと思う」などときれいごとを言っておいて、あっさり隠れて飲んで頭を6センチ切って貧血で動けなくなり、バレバレなのに隠ぺいしようとし、妻にどちゃくそ怒られました。

死ぬほど恥ずかしくて、消えてしまいたくて、それでも何とか酒をやめたくて、それは独りではできないことが火を見るよりも明らかで。すがるような思いで断酒会に妻と足を運んだことがありました。

そのとき、みんなは黙って話を聞いてくれました。断酒会が終わった後、近づいてきて何も言わずに手を握ってくれました。

 

それで、どんだけ、私が救われたか。

それだけで、どんだけ、嬉しかったか。

黙って聞いてくれて、手を握ってただ頷いてくれて、あんなに死にたかったのに、苦しいけど生きてみようと思わせてくれたじゃんか。

みんな、そういういいやつだったじゃんか。

 

自助グループって、もう死ぬほど恥ずかしくて言えないようなことを「否定されずにただ聞いてもらえる」っていうかけがえのない居場所だから、今までの人生で自分一人では向き合うことができなかった本心や生きづらさに向き合う勇気をもらえるんじゃないかと思うんです。

 

「独りじゃ何もできなかった。それでも、今まで独りでがんばってきた。辛いことはもちろんまだまだあるし、正直お酒だって飲めるものなら浴びるほど飲みたいよ。でも生きていきたいと思うから、完全じゃないし弱いし醜いけど、今日一日、お酒をやめて生きてみよう。」

それが、私の本心そのままの『一日断酒』です。

 

その本心と自助の真理を私に教えてくれた断酒会なのに、なんだか嫌なしごきがある部活みたいで、がっくり来ています。

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【依存症】カフェイン依存症になっちゃってた話

こんにちは、ちあき です。

最近全く更新できていませんでした。

とほほ…

実はこの記事は8/3から下書きしたまま

無駄に温め続けてしまっていまして

もう夏の暑さで温まりすぎな感が否めませんが、更新します。(白目)

 

 

唐突ですが、私はコーヒーが好きです。

ここ最近は1日1ℓくらいコーヒーばかり飲んでいました。

そんな私のある日のツイートです。

 

そう、カフェイン依存症だということが分かりました。(いまさら感ハンパない)

 

私はこうしてカフェインに依存した!私のしくじり事例

まずは、私の生活習慣と症状を振り返ります。

私は2015年3月1日に断酒を志し、同年7月23日に禁煙をはじめ、今に至ります。

アルコールは4回のスリップを経験し、現在断酒継続は1年11ヶ月、禁煙はそのまま続いていて来月で4年になります。

それまでアルコールとニコチンに依存しつくした生活をしていたのですが、両方の薬物の摂取を止めた結果、「もんのすごい眠気」に毎日襲われました。

そこから、何とか日中起きているためにコーヒーを大量に摂取するようになりました。

その頃からつい最近までは、1日2ℓ飲んでいました。

 

〇朝起きて、まずコーヒー淹れてがぶ飲み。

〇午前中の仕事終わりにコンビニに寄って、1ℓ入りのコーヒーと1ℓ入りの緑茶を買って営業中にゴクゴク

〇夕方帰ってきて、夕食・風呂、落ち着いたらブログ書きながらコーヒー。

(あれ、1ℓ超えてる…まあいっか…)

 

 

そんなわけで

①浮動性めまい・耳鳴り

②無気力・日中の眠気(これをとるためなのに本末転倒)

③謎のイライラ感

これら3つの症状に毎日、苛まれだしました。

ついには、営業車から出て顧客のもとに訪問することもできないほど無気力になりました。

こりゃあまずいぞ、ということで再びたどり着いたのが、この漫画です。神。

「カフェイン依存症 前編」(@mimorimisa)

この漫画、もうなんていうか、すべてをわかりやすく詳しく書いてくれている作品なので、ぜひ読んでいただきたいなと思います。

この漫画のアドバイスに沿って、私の場合は「1日1杯までにコーヒーを制限」したところ、困らされていた3つの症状は改善してきています。

やはり、カフェイン依存に陥っていたと思われます。

そんなわけで、この漫画からの知識も引用させていただきつつ、”ネスレなぜなに?「コーヒーと健康」専門家インタビュー記事シリーズ  Nestlé, Coffee & Health (Vol.10) 2015 Nov. http://www.nestle.co.jp/nhw/coffee/interview” から図などもお借りして、カフェインの知識を整理していきたいと思います。

 

そもそもカフェインとはどんな物質なのか?

カフェインはメチルキサンチン類(アルカロイド) に属する化学物質で、苦みを持ち、もともとは植物が昆虫に食べられないようにするために作られた物 質のひとつと考えられています。

カフェインは我々の生活に深くかかわっています。

飲料では、茶、コーヒー、ココア、 コーラ飲料、マテ茶、滋養強壮ドリンク(一部医薬部外品)、エナジードリンク、食品では、チョコレート、眠気防止用のガム等に多く含まれています。

さらには、医薬品の総合感冒剤、鎮咳去痰配合剤(咳止め薬)、鎮痛配合剤、眠気防止剤、強心薬、呼吸促進薬などにも含まれていて、カフェインは非常に広範囲に使われている物質です。

またカフェインは比較的熱に強く、強い焙煎の場合に微量が昇華して失われる以外 は単一の成分として焙煎後もほとんどが残ります。お茶では一番茶に約90%のカフェインが出て、二番煎じのお茶カフェインが含まれにくく「実はデカフェに近い」ということが知られています。

 

カフェインは日本薬局方に中枢興奮・鎮痛薬として登録された薬物で、覚醒作用や倦怠感の抑制、強心・血管拡 張、片頭痛の緩和などの用途で風邪薬などの配合成分として処方されています。カフェインの作用がこちらになります。

 

 

カフェインはマイルドな中枢刺激作用の他、利尿作用、代謝亢進作用(脂肪燃焼や基礎代謝の向上)、胃液分泌作用など多くの作用があります。

カフェインは摂取後、約30分で吸収されて血管を通じて全身に行き渡ります。多くの化学物質は血液-脳関門(BBB)の働きにより脳内に入れませんが、カフェインはBBBを通過して脳にも入ります。

カフェインは核酸塩基のアデノシンと構造が似ています。

アデノシンはアデノシン受容体(Ad2-R)と結合することによって、神経終末から放出されるドーパミン、ノルアドレナリン、グルタミン酸といった興奮性の神経伝達物質の放出を抑制します。

アデノシンと拮抗するカフェインは抑制を抑えるので、間接的に脳を興奮、覚醒させます。カフェインの感受性には個人差があり、アデノシン受容体遺伝子の違いに基づくと考えられています2)。

アデノシン受容体のサブタイプAd1-Rは腎臓への血流を減らし、腎尿細管再吸収を促進します。カフェインはこのAd1-Rの働きも阻害するので、利尿作用があるのです。

アデノシンは細胞のエネルギー源であるアデノシン三リン酸 (ATP)が分解されてできるのですが、第2の睡眠物質と呼ばれる物質です。

アデノシンは覚醒中に脳に蓄積し、徹夜をするとさらに増え、眠ると減るということがわかりました。なぜなら、アデノシンはアデノシンA2A受容体と結合することで視床下部に存在する睡眠中枢を活性化し、ノンレム睡眠を誘発させる作用があるからです。

ところが、アデノシンと構造が似ているカフェインがアデノシンA2Aという鍵穴にぴったり合い、その上体内で吸収されるとアデノシンよりも先にアデノシンA2A受容体と結合してしまうので、睡眠中枢の活性化が抑制されてしまい、眠れなくなるというわけです。

カフェインを摂ると眠れなくなるメカニズムって、アデノシンという睡眠物質の働きを邪魔させるからなんですね。

カフェインはどのくらいなら摂っていいのか?

三森先生の漫画とその参考文献によれば、

「1回当たりの摂取量は成人は体重1kgにつき3㎎を目安に」

「1日の摂取量は健康な成人で400mg」

 

ふむふむ。

カフェインの1回当たりの摂取上限3mg/kgということは、私はMAX240mg

コーヒー100mL当たりカフェイン4060mg程度含有だから、1だと400600mg

「なんだ大丈夫やん」と思ったらお茶ー!🍵

 

これも1飲んでるー!

てことは、+200mgで一日600800mg摂取しとるー!

1日の摂取量は健康な成人で400mgだから、明らかにoverdose

 

そんなに摂取してないつもりでした。感覚のズレって、恐ろしいですね。

 

なぜカフェインは 欲しくなったり 摂り過ぎて不調になるのか?

カフェインの依存性については、アルコールの約1/50、ニコチンの約1/10程度という研究があります。(Deneau G et al (1969) Psychopharmacologia 16: 30.)

脳イメージングの研究では、カフェインが脳の依存の回路には関連していないという報告(Nehlig A (1999) Neurosci Biobehav Rev 23: 563.)もあります。

ここで見落としてはいけないのは、

「物質に依存性があるかないか」ということは依存症の問題の一部でしかなく

『離脱症状に苦しむほど摂取しなくては生きていられない人生の背景的課題』や『これさえあればなんとかなるという精神的依存状態』に、問題の根幹があるということです。

つまり、依存性が低いからといってこの物質の使用に危険性がない、とは言い切れない、ということです。どんなものにもリスクはあるし、リスクを含めて上手にお付き合いしていかなくてはなりません。

 

カフェインは依存性薬物と認定されてはいないものの、米国精神医学会は「カフェイン離脱症状」を精神疾患の診断・統計マニュアル第5版(DSM-5)に掲載しています。

 

離脱症状①寝起きが悪くなる(目が開かない)

離脱症状②一日中妙にだるい

離脱症状③不眠

離脱症状④中途覚醒

離脱症状⑤集中力の低下

 

1、浮動性めまい・耳鳴り慢性的な末梢血管拡張作用+利尿作用で脳血管収縮するも脳血流量は低下?

2、無気力・日中の眠気・謎のイライラ感中枢刺激作用(睡眠・覚醒リズムに悪影響)

 

まさに、この1・2の症状はカフェインからきていたと確信しましたよね。

 

でも悪いばかりじゃない!様々な疾患に対して認められているカフェインの効果

最近では、カフェインが認知症にも効果を発揮するのではないかと期待されています。

脳の神経細胞が死滅することによって認知機能の低下(記憶障害、見当識障害等)が起こり、不安状態、うつ、幻覚、妄想、その他の譫妄、徘徊、 不潔行為といった周辺症状が出るのが認知症で、患者数は近いうちに700万人に達するといわれています。

周辺症状は大脳辺縁系という部位の支配下にあります。

認知症では人らしさを作る大脳新皮質の前頭前野の働きが低下することで、大脳辺縁系への抑えが効かなくなっていると考えられています。

カフェインは、前頭前野を活性化することが知られています。

まだ科学的根拠レベルは限定的とする評価もありますが、認知症の半数以上を占めるアルツハイマー病について、コーヒー摂取者は発症リスクが低下するという報告もあります11)。

アルツハイマー病と並ぶ神経変性疾患であるパーキンソン病のリスクは、カフェイン摂取により低下することも示唆されています12)。

 

 

まとめ:摂取量に注意して上手に活用しましょう!

コーヒーなどの嗜好品として摂取されるカフェインと 賢くつきあうことが大切です。

昨今、エナジードリンクな どのカフェインを含む飲料の摂取が増えたこともあり、 小児が摂取する可能性も含めカフェインはどのくらいまで日常的に摂取してよいのかという議論が世界的に進みました。

多くの疫学調査結果も踏まえると、コーヒーの適切な摂取量は1日3-5杯程度と言えるかもしれません。

また睡眠に対する影響があるので、カフェインに感受性の高い方や睡眠が浅くなりがちな高齢者などカフェインが気になる方は、夕食以降は摂取を控えた方が良いでしょう。

医薬品にもカフェインが入っているので、どのぐらい含まれているかをチェックすることも必要です。

カフェインを上手に使って、QOL(quality of life)を高めていきたいと思います。

 

引用文献 1)Yamada M et al. (2009) Public Health Nutr 16:1. 2)Retey JV et al. (2007) Clin Pharmaul Ther 81:691-8 3)Haskell DF et al (2005) Psychopharmacol 179: 813. 4)Satoh H (1994) J. Nara Med. Ass 45: 290 5)Ramakrishman S et al. (2014) J Theoret Biol 358: 1 6)Jarvis MJ (1993) Psychopharmacol 110: 45. 7)Wiles JD et al. (1992) Br J Sports Med 26: 116. 8)EFSA J (2011) 9: 2054 9)EFSA J (2011) 9: 2053 10)Drapeau C et al. (2006) J Sleep Res 15: 133. 11)Xu W et al. (2015) J Neurol Neurosurg Psychiatr doi:10.1136. 12)Costa J et al (2010) J Alzheimers Dis 20: S221. 13) 14)Nehlig A (1999) Neurosci Biobehav Rev 23: 563. 15)DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル 16)EFSA J (2015) 13:4102

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【依存症】本当に自分が変われば、他人は変わるのか?

こんにちは、ちあき です。

先日尊敬する断酒会の先輩と、このタイトルの話になりました。

「果たして、自分が変われば、他人は変わるのか?」

私は『どう影響しようとも他人を変えることはできない』という立ち位置。

先輩は『自分の姿勢が変われば他人の所作や接し方は変わる』という立ち位置。

真っ向から反対の持論でした。はてさて、どちらなんでしょうか??

今日はそんなお話。

 

先輩が経験した他人の変容

先輩も穏やかな人ではありません。

割と強い言葉を言いがち。

そんな先輩は割と荒々しい性格の人たちのなかで所謂ブルーカラーの仕事に就いています。

御歳80代。

身体は上手く動きません。

「オラァそんなこともできんのかジジィ!」

「役立たねーなら帰れよ邪魔くせぇなぁ!」

そんな言葉が飛んでくる職場。

辛くないわけがありません。

しかし、先輩は固く守っていることがあるそうです。

「自分の頭を低くして、きつい物言いをされても一歩引いて考える。それから言葉を吟味しよく咀嚼したうえで発する。」

そしてその上で、ただ静かに自分ができる事をするそうです。

例えば、休憩所のゴミ掃除。自分でも運べるものの運搬。休憩用のお茶の準備。

「そんなこと後輩にやらせておけばいいんだよ、あんたは年長者なんだから。」

と親方が声をかけるので

「私にはできないことがたくさんあるのに、来させてもらっているだけで感謝しているから。」と笑って、ひたすらやり続けるそうです。

そうしていると、先輩に罵詈雑言を発していた若い子が、その姿を見ていて、次第に一緒に掃除をしてくれるようになり、

「おっちゃんは体しんどいんだから、無理すんなよ」

ある日、そんなこというようになった、と言うのです。

 

言葉と姿勢が他人に与える影響は、決して小さくはない

私は、にわかには信じられませんでした。

そんなに人は変わることができるのか?

素直な驚きと戸惑い。

私は、他人は他人の力でしか変わらない、だから私がアレコレと言ったりやったりしても意味がない、とあきらめて切り捨てていたけれど、そうではないかもしれない?

私の突き放した諦めの態度が水面に映るように、相手もそれを見て世界の変化を同じように諦めているだけなのかも。

自分の行動が必ず結果に結びつく、なんてことにはならない。

だけれど、影響は無視できないし、意外に小さくないのかもしれない。

 

7つの習慣 の 影響の輪

この話で思い出されるのは、一世を風靡したビジネス書、スティーブン・R・コヴィーによって書かれ1996年に出版された『7つの習慣』です。

コヴィーは、「影響の輪」「関心の輪」という概念を提唱しています。

関心の対象は、自分自身が影響を及ぼすことができるものとそうでないものに分かれます。

たとえば、天気に関心があっても自分の力で天気に影響を及ぼすことはできませんが、今晩の食事を何にするかについては影響を及ぼすことも可能です。

つまり、同じ関心事でも、影響を及ぼすことができることと影響できないことがあるというわけです。

このように、私たちの身の上に起こる出来事や周囲に存在する物事は、関心の有無、そして影響を及ぼせるか否かで分類することができます。

そのことをコヴィー博士は「関心の輪」と「影響の輪」という概念で説明しています。

引用:http://www.franklinplanner.co.jp/learning/selfstudy/ss-11.html

 

影響を及ぼすことができるのは、自分の行動であり、その範囲が「影響の輪」。

関心や興味があるけれど、自分が影響できない事柄の範囲が「関心の輪」。

得てして「関心の輪」、つまり他人をどう変えるかとか、取り返しのつかない過去の失敗とか、天気や景気や世界情勢や悲しいニュースに、私たちは限られた脳のキャパシティを使いがちです。

しかし、私たちが影響できるのは、自分達の立っている「今、ここ」だけです。

『やることを、やる』

どんなに偉い人でも、どんなに立派な人でも、あるいはどれだけダメで邪悪な人でも、これ以外に影響を与える事は出来ません。

期待しないけど、諦めない。

私は、その影響の輪以上の効果を、拡がりを、期待しすぎて苦しくなり、結果を求めてしまった。

叶わないなら全て諦めた方が楽だから、手放そうとしたのではないかしら?

結果を期待して、相手に関わるのは、コントロールできないものをコントロールしようとすることで、「関心の輪」に手を伸ばしていたことになります。

それでは、影響の輪の境界線を見失う。

他人の在り方は他人の物。

私の願いは私の物。

しかし、影響の輪の中の事柄に集中し、自分がやれることが増えていき、その幅を拡げれば拡げるほど、かつて関心の輪だった範囲に手が届く。面積が拡がっていく。

それはあくまで、自分のやるべきことに徹していて、それだからこそ、かつて他人の範疇だった関心の輪の範囲まで、影響を拡大することができる。

まさしく先輩が休憩所を綺麗にする後ろ姿を見せ続け、他人から数歩引いて冷静に言葉をかけ続けた結果、若者が変わったように。

私は願いを諦めることで、影響の輪を拡げる事も手放していたのではないかしら?

他人には結果を期待しない。

だけど、関わりを諦めない。

他人の可能性を、諦めない。

それは、私が出来ることが拡がる可能性を信じる事と同じだから。

他人にもあるかもしれない、私の中にあると信じたい、可能性。

「希望」を諦めない行いは、他人に「希望」を見せる。

素晴らしい、美しい何かを、他人の世界にもたらす。

だから、他人が自然に変わりたいと思うようになる。

いつの日か。

そう信じる、美しさ。

信じる美しさの共有を、諦めないでいたい。

 

自分ができること以外のことばかり気になってしまったら。

スヌーピーがいいことを言っています。

ルーシー「Sometimes I wonder you can stand being just a dog ….」
(時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ。)

スヌーピー「You play with the cards you’re dealt …whatever that means. 」
(配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。)

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